第5話

────真っ白になった視界に徐々に色が蘇ってくる。どうやら倒れるまでは行かなかったらしいと胸を撫で下ろすも、それまでに無かった違和感に襲われる。


 匂いだ──。


 咄嗟に自分の排泄物かと思ったりもしたが、それにしては水月の好きな芳香剤の香りが一切しないどころか、これはトイレというよりも便所の匂いではないか。

 

 洒落た色合いのクロスではなく、古めかしい板が目の前に広がり始めた途端、私の右手にもおかしな感触が芽生えた。ぼんやりと右手を見つめる。ボールペンだ。いつの間にこんなものを手にしたのかと考え出すと今度は左手に目を向ける。



(な・・・なんだ!?)


 私はその紙に記された文字に仰天した。


[あとで読んでください]


 明らかにそこに書かれた文字は記憶に残るものだった。


(ど・・・どうして・・・)


 思わず辺りを見回す。裸だったはずなのに今はちゃんと服を着ている。作業服だ。そしてこの場所と言えば・・・。教習所の便所。油汗こそ出てはいなかったものの、立ち上がった瞬間、軽い眩暈がした。


(夢!?・・・それもよりによって教習所の便所とは・・・。確かにインパクトはあったが・・・)


 それでもここに留まることは出来ないと扉を開けて外へと出れば、無意識にカウンターに足が向く。そして、私は目を見開いた。


 恵理香だ!


 い・・・生きている。


 溢れそうになった涙を押し留めたのはその前にいる年配の人の姿が映ったからで、誰もいない世界だったら声を上げて駆け寄っていたかもしれない。実際、その名前が口に出掛かった。


 若い彼と運送屋の彼は既に予約を取り終えたのか、姿も見えないことから先に帰ったらしい。私は夢遊病者のような足取りで、年配の人の後ろを通り過ぎると座り慣れた長椅子に腰を下ろす。恐らく下したように感じただけなのかもしれない。頭の中は依然呆然としたままなのだ。


(やっぱり夢だ。きっと・・・・トイレで倒れたんだろう)


 そう思うことで実際に見ている光景を正当化しようとしていた。やがて扉が開けられ水月が起こしてくれる。その時間をここで待てばいいのだ。無造作にポケットを弄るとタバコに火を点け乳白色の煙を溜息と共に吐き出す。習慣とは恐ろしいものだと思った。こうして夢の中ですらタバコを吹かしてしまう。面白いことにちゃんと味もわかった。


 以前、夢の中で匂いや味がわかる場合はなどと夢の診断書のような本があった気がしたのだが、こうなるのだったらちゃんと読んでおけばよかっただろうか。


 タバコを半分手前くらいまで吸い終えたところで、年配の人がどうぞとばかりのゼッシャーを残して建物から出て行った。もう予約を取る人間は私以外には居ない。それでも腰が簡単には上がらなかった。


 目的も無くズボンの左ポケットに手を差し入れると、ついさっき仕舞い込んだ紙切れに指が触れた。トイレ、いや、便所で書いたメモだ。



(確か、ここで・・・恵理香に)


 一度経験してることをそのままなぞれば良いだけのこと。ただ、そうすることで始まる出来事や末路が記憶の中に鮮明に映し出されてくる。


(渡せば・・・いいのか)


 紙切れをギュッと握りしめたまま席を立つと、ゆっくりとした足取りで予約のカウンターに向かう。紙を渡したところで深い関係にならないように気を付ければいい。あるいは、そもそもメモを渡さなければいいのではないか。等と考えを巡らし続けたのは、記憶と現実との境目を彷徨っていたからなのだろう。どういう顔で接していいのかすらも見出せずに困惑していた。


(渡さなければどうなる!?・・・・どうなるって言っても所詮夢だし)

 

 あらためてその涼しげな眼を見た途端、その時点では全く知らない筈の名前をつい口に出してしまいそうで怖くもあった。


「予約をお願いします」


 私はあえて顔を見ぬように声を発した。


「先に番号をお願いして良いですか?」


「あ・・・そうか。ヨンゼロイチキュウです」


「どうぞ」どこか余所余所しいが、確かに恵理香の声だ。


 既に三人が予約を取り終えている。もちろん記憶のままであればその予約の状況までが頭に残っている。前と同様に訊くべきか。しかし、わかっていて同じことを訊いたところで無駄じゃないのか。自分ではかなりの時間をそこで費やしたような気がした。何も言わずただボーっと立っているほど間抜けな姿はない。


 ならば答えはこれしかないと口を開く。


「来週の火曜日の五時、六時でお願いします」


「来週の火曜ですね──。どちらも大丈夫です。入れて良いですか?」


「はい。とりあえずそこだけで結構です」


 あまりに簡潔だったためか、キョトンとした表情を見せたものの、私はその瞳を見ることも無くカウンターを離れた。これで良いんだと自分に言い聞かせて。


 扉には忘れていた重みがあった。さらに忘れていたのは出口の段差か。足を踏み出した瞬間、思わずよろけてしまった。あと一歩で転倒という有様で、平然を装いつつも誰かに見られていたのではないかと周囲を伺ったりもした。


(な・・・なんてことだ)



ザッザッザッ・・・・・・。


 時折舞い上がる砂煙に目を細めながら歩きだせば、足元から伝わる音も今となってはどこか懐かしくも聞こえる。それにしてもリアルな夢だ。こんな足音を立てずにフワーッと車まで飛んでいっても良さそうなものだし、どうせならそれをやってみたい。


 視線の先に見える白い車。圭ちゃん辺りなら間違えることもないのだろうが、今の私にはそれが何の車なのかすらこの距離ではわからなかった。

 

 すぐそばまで行ってそれが何だかようやくわかった。


(やっぱりサニー・・・か)


 右のポケットから鍵を取り出すと車内のミラーに向けてリモコンを翳す。何事も起こらない。反応が無いのも当然だ。そもそも鍵にボタンなど無かったからだ。気を取り直すように白いサニーのドアの鍵穴に差し込む。


 家路に向かう間もまさに夢の中だった。どこをどう走ったのかすらほとんど覚えていなかった。番号の記された白線内に車を止め、いつものように建物に向かって歩を進める。


 気のせいか階段がいつも以上に多くも感じられた。きっとキツネにつままれたような顔しているとからかわれるに違いない。


 そんなことを考えてたら突然笑みが零れた。久々に笑ったような気がした。

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