第2話
六畳の部屋の半分を占領するかのベッドに横になってると、しばらく鳴っていたドライヤーの音が途切れて、バスローブ姿が扉の向こうに現れる。髪を乾かし終わったのだろう。
「お風呂上りに髪を乾かすって暑いわね」
手の甲で額の汗を拭うようにして近くのドレッサーの椅子に腰を下ろす。
「フッ・・・俺くらいにしたらもうちょっと早く乾くけどな」
「いやよ。そんな。ショートが似合うんだったら良いけど」
鏡の中で頬を膨らませるようにして私の眼をにらむ。こんなひと時も火照りを冷ますのに一役買っているのだろう。
「消しても良い?」
頃合いを見計らったように立ち上がると壁のスイッチへと歩んで行き、私の返事を待たずに照明のスイッチを落とす。残されたのはベッドに備え付けられた電球色の淡い光だけだ。
やがて音も無くベッドの脇まで来ると、私に背を向けたまま、バスローブの紐を解き、スルッとそれを床に落とした。仄かな電球に照らされた裸体が映像のように私の視界の中に映り込む。それはほんの一瞬のことだった。
一連の流れであるかのように隣に潜り込んで来ると身体の半分に温度の上昇を感じ取った。湯上り後だけの理由だろうかと私が左手を伸ばすとそれを枕のように頭を寄せる。すぐに洗った髪の匂いが鼻孔に届いた。あのシャンプーの香りだ。
しばらく黙ったままで天井を見上げていると、
「何考えてるの?」と耳元に柔らかい声が届く。
「あ~。今月だな~って」
恐らく同じことを考えていたに違いない。ほんの数秒の間があってから、
「そう・・・ね」と弱々しく答え、剥がされたばかりのカレンダーに目をやる。一カ所だけ数字がマルで囲まれているが暗すぎて文字すら見えない。
「でも・・・今だけはね」と覆いかぶさるようにして私の唇を塞ぐ。
互いにすべてを忘れたいひと時を欲しがっているのかもしれないと思った。決して忘れたわけじゃない。ただ、ほんの少しだけの時間でも無になりたいのだ。
何かの生き物のように舌が口から胸へと這って行く。脇腹に残る傷跡の部分は傷を癒すように優しく唇を当てる。やがてベッドの足元の方に重みが集中すると、何かの合図のようにパジャマの両端に指が掛かった。私はただじっと目を閉じてその動作を受け入れている。無の世界が手招きしているようだ。
ほんの少し前に発した言葉が原因なのか、今日はいつもよりも念入りに思えた。声にならない声が合図となったのか、足元にあった重みが次第に枕の方へと移動してきた。
再び唇を重ねる。といっても実際は重なったように思えただけで、それぞれ別の生き物がテリトリーを徘徊するように蠢いているだけだ。時を止めたい。そう互いに念じているかのように静まり返った暗がりに別の時間が流れていく。
先程とは逆に私が枕の無い部分まで移動したかと思うと、頭の上の方から押し殺すような声が耳に入ってくる。比較的防音効果の高いとされる建物であっても、深夜の時間帯では僅かな音も案外聞こえるものだ。それを知ってて堪えているのか、時には息苦しくも聞こえるのだった。
「ねぇ・・」
思わず耐えかねて出た言葉か。あるいはそう聞こえただけか。限り無く無に近づいたために躊躇いすら失いかけるところだったと、
「あれは?」と慌てて声に出した。
「無い・・・って言ったら?」
「だって・・・付けるって・・・」
「決めたんだったわね」
いつの間に用意されていたのか、スッとこちらに手が伸びる。既に袋から出されたそれを受け取ると粘々した感触を指先で感じた。何かを確かめるように指先を動かし始める。
と同時に得体の知れない感覚が身体を包み込んでいるように思えた。
何か・・・おかしい・・・。
いつもと違う間を感じたらしい。
「どうしたの?」と普段と変わらぬ調子で尋ねられた。
「あ・・・いや・・・。何だろう・・・ちょっと変なんだ」
「変?調子が悪そうにも見えないけど…」
と、私の下腹部辺りに目を向ける。
「そうなんだけど・・・」
言い終わるや、私の身体は一気に火照り始める。それと同時に目がくらみ始めた。何が起こっているのか皆目見当もつかない。「あっ!?」という言葉に目を凝らすと、
下腹部辺りに垂れる液体が見えた。ポタポタと音を立てるように落ちている。思わず掌で拭うと額はすでにびっしょりに濡れていた。どうやら私の汗のようだ。ただし、汗といえるような尋常な量ではない。既にこの頃には意識も遠くなりかけていた。
「どうしたのっ!?」
さすがにその光景に驚いたのだろう。慌てて身を起こし私の額に目を凝らすと、すぐに全裸のまま壁のスイッチに手を掛ける。闇の世界が一瞬にして一転した。
「す・・・凄い汗よ。大丈夫?」
「いや・・・どうしちゃったんだろ・・・。昼間変なものでも食ったかな?」
はっきりとした理由が思い浮かぶわけでもなく、不意に出た言葉にすぎなかった。
「悪い・・・ちょっとトイレ───」
そういって立ち上がったものの、足取りは酔っぱらいのようでもあり、ただフラフラと壁を頼りに歩くのが精一杯だった。ケツを隠しもせず歩いて行くことすら恥じてる余裕もなかった。
下痢かもしれない。確かにそうは思ったが、何か理由付けが欲しかったのだろう。
相変わらず止めども無く額からは脂汗が溢れていて、それが頬に伝わり顎から床へと滴り落ちている。五分も歩いたら倒れているんじゃないか。トイレまでのわずかな距離にさえそんなことを頭に巡らせた。
便座に腰を下ろすとほぼ同時だった。凄まじい音と共に体内から一気に放出される。これは自分の身体なのかと思ってしまうほど、その勢いは普通では無かった。
(な・・・なんなんだ!?)
咄嗟に食あたりかと食べたものを頭に過らせてみた。アレルギーなど無いし、物珍しいものも食べてはいない。何を飲んだか。風呂上がりの麦茶。まさかそれは有り得ないだろう。
それでも何か考えたかった。このままでは眩暈で倒れると心配になったのだ。
汗はもはや身体の至る所から溢れていて、額からの汗は音となって床に落ちている。ペーパーを手繰り寄せるように引っ張り出すと、額の汗を拭きとる。少しくらいのペーパーは瞬く間に色が変わった。そのためすぐに次のペーパーを巻きはじめる。時間帯なのか巻き取る音がやたら大きく聞こえた。ただ、近所迷惑だの気を遣う余裕などなかった。汗を拭っては便器の中に突っ込み、一連の作業のようにレバーを引いて水を流す。
(ま‥まずい・・・)
本能がそう呼びかけているように思えた。スーッと気が遠くなって行き、視界から色が消えていくような気がした。このまま倒れるかもしれない。そう思って慌てて左手で壁を押さえる。それとほぼ同時だった。
「ね~っ?大丈夫なのっ?」
扉の外から失いかけた意識の中に響く。
水月の声だ。
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