EGG on STAGE

尾八原ジュージ

「異国から」

 真夜中だった。どうしても寝付けず、暇つぶしに覗いたネットオークションのサイトで、以前親しかった男がオークションにかけられているのを見つけた。俺は危うく、ラップトップにコーヒーを吹き出すところだった。

「ヴァシリー」

 懐かしい名前が口から零れた。

 身寄りのない人間がアングラなオークションにかけられること自体は、今どきさほど珍しくない。俺が驚いたのは、ヴァシリーの身に起きたとんでもない変容だった。

 出品ページの写真によって三年ぶりに拝んだヴァシリーの顔は、確かに「顔だけ」を見た限りさほど変わっていない。線の細い整った顔立ちに、艶のある長い黒髪。やや顔色が悪い気がするが、それは写真の問題かもしれない。それでいて、三年前の彼とは決定的な違いがあった。

 首から下がほぼないのだ。顎の下あたりから、肘から下の腕がにゅっと生えているだけだ。それはさながら人間の頭に似た奇っ怪な球根のようだった。顔立ちがいいだけにますます異様に見える。

 どうやらヴァシリーはひどく珍しい病気にかかったらしい。通称「エッグマン病」。手足や胴体が縮みながら頭蓋骨の中に引き込まれ、最後は生首のような見た目になって死ぬ奇病中の奇病。web検索でざっと調べたところによれば、現在のところ原因は不明、治療法もまだないらしい。

 写真を見た限り、ヴァシリーの症状は相当進行しているようだった。なにせもう両腕が半分出ているだけなのだ。出品者の説明によれば、余命はあと一週間ほどらしい。

 約一週間後に死ぬ予定にも関わらず、彼の首には多くの入札があり、最高額はすでに三万ドルに跳ね上がっていた。オークションは盛況のようだ。どうやら生首を愛でる人間というのは相当数いるらしい。ヴァシリーが美形なだけに、なお価値は上がるようだった。

 出品者の連絡先に見覚えがあった。ヴァシリーの野郎まだあの会社にいたのかと思いながら、俺はベッドの下から拳銃を取り出した。

 ヴァシリーの顔を見た瞬間、俺はこれからやるべきことを決めていた。オークションにぶち込んで奴を落札してやるほどの金は持っていないが、居場所には心当たりがあった。


 車を走らせながら、俺はヴァシリーと初めて出会った頃のことを思い出していた。当時、俺たちはまだ十代だった。

 俺たちふたりは、街の治安の悪い一角にある、ケチで胡散臭い便利屋の従業員だった。脂ぎったケチなおやじの下で、おれたちはあらゆる「雑用」をやらされた。

 二人で汗だくになって山奥に大きな穴を掘ったり、ギャング共の銃撃戦でめちゃくちゃになった倉庫の片付けをしたり、たぶんばれたらよろしくないんだろうなということも幾度となくやらされた。自然、おれとヴァシリーには連帯感が芽生えた。

 ヴァシリーはいいやつだった。気が弱いが優しい男だったし、きれいな顔は見ていて気持ちがよかった。もしもヴァシリーがいなかったら、俺はあの頃もっと暗くて憂鬱な日々を過ごしていただろう。

 俺たちは仕事を終えると、よく酒屋で安いビールを二本買って広場に行った。そこには屋根付きの野外ステージがあり、誰でも勝手に弾けるピアノが置かれていた。ゴミ捨て場から拾ってきたようなボロボロのアップライトピアノだったが、とにかく音は出た。

 こんな生活をしている奴にしては、ヴァシリーはピアノを弾くのがうまかった。幼い頃に少し習って、あとは独学なのだという。こいつは昔ピアノを習わせてもらえるような境遇にいたんだなと思うと胸が痛んだ。以前はステージがあるバーで働き、閉店後も店のピアノを弾かせてもらっていたらしい。どうしてその店を辞めてしまったのか、ヴァシリーは一度も言わなかったし、俺もあえては聞かなかった。

 ヴァシリーは、ジャズやポップスよりクラシックが好みだった。俺には音楽はさっぱりわからない。でも、ピアノを弾いているときのヴァシリーは世界で一番楽しそうだった。鍵盤に指を走らせながら、背中に羽根が生えたように軽やかに笑った。

 ヴァシリーはその頃よく、「いつかまた、どこかのバーか何かでピアノを弾く仕事をやりたい」と言っていた。しかし、こうしてオークションにかけられているところを見ると、その夢はついに叶わなかったらしい。


 俺が便利屋を辞めた、というか飛び出したのは、実にくだらないことがきっかけだった。

 その日、俺は休みをとっていた。前日の夜はヴァシリーのアパートにストックしてあった酒を飲み、ヴァシリーが先に寝てしまったので俺も自宅に戻った。

 昼過ぎにズキズキする頭を抱えながら目を覚まし、買い物に行こうとしたとき、俺はようやくどこかに財布を忘れたことに気付いた。昨日はヴァシリーのところにいたから、気づくタイミングがなかったのだ。

 昨日の行動を思い出し、おそらく会社に忘れたのだろうと見当をつけた俺は、しぶしぶながら通いなれた雑居ビルに向かった。休みの日に勤務先に来るなんて気分が悪いものだ。ため息をつきながら持たされていた合鍵でオフィスのドアを開けると、ソファの上で社長とヴァシリーが犬みたいにさかっていた。

 ヴァシリーは俺の恋人ではなかった。彼が誰とやろうが自由なはずだ。ところがその状況を理解した途端、なぜか俺はぷつんと切れた。ソファにつかつかと近寄ると、まずヴァシリーに覆いかぶさっていた社長の首ねっこを掴んで引き剥がし、近くのデスクに叩きつけた。打ちどころがよかったのか悪かったのか、おやじはその場にぐったりと倒れ込んだ。

 それから俺は、ソファの上でうつ伏せになっていたヴァシリーの長い髪を左手で掴むと、右の拳で横っ面をぶん殴った。鼻血がピッと飛んだのがスローモーションで見え、それはまるで絵のようにきれいだった。

 俺はヴァシリーを殴り続けた。途中からはふたりして床の上に転がり落ち、下半身を丸出しにしたままの奴にまたがってまだ殴りつけながら、俺は「何でこんなことやってた」と問い詰めた。ヴァシリーは答えず、俺はなぜか泣いていた。拳を振るいながら子供みたいにしゃくりあげていた。単に興奮していただけなのだろうか? それとも悲しかったのだろうか。何度もいうが俺はヴァシリーの恋人でもなんでもなく、だから彼が社長と寝ていたって怒る筋合いはなく、でもいざ出くわしてみたらなぜかぶち切れてしまって、泣きながらこいつをぶん殴っている。返り血が飛び、ヴァシリーの悲鳴が断続的に貸しオフィスに響いた。

 今ならなぜ自分がぶち切れたのか、わかる気がする。俺がオフィスに足を踏み入れたとき、ヴァシリーは泣いていたのだ。それがトリガーだった。なぜお前はそこまでめそめそしなきゃ生きていけないんだ? そう思った途端、やり場のない激情が爆発した。

 ひとしきりヴァシリーを殴ると、社長が意識を取り戻す前に俺は逃げ出した。それから三年、その界隈には近寄っていない。


 便利屋はまだ同じビルで営業していた。相変わらず幽霊が出そうなほど古くて薄暗く、汚い建物だった。エレベーターには「故障中」という張り紙が貼られており、仕方がないので階段を上りながら、俺はヴァシリーの入札額はいくらになっただろうかと考えた。どうでもいいことだった。

 オフィスは社長の居住スペースも兼ねていたから、今もふたりはそこにいるだろう。そう踏んだ俺の考えは当たっていた。オフィスのドアの隙間から明かりが漏れている。

 俺は銃を取り出してドアに発砲した。二発撃ってから蹴り飛ばすと、ドアは諦めたように開いた。

「まいどー!」

 ピザの配達員のようにワントーン上の声を張り上げ、俺は便利屋のオフィスに突入した。中に他の誰かがいたらどうしよう、とその時になってようやく気付いたが、幸いオフィスはヴァシリーの顔と同じくらい変わっていなかった。奥から出てきた社長も相変わらずのあぶらおやじで、こんな場合だが懐かしさでいっぱいになりながら、「お前、確か」と言いかけたその顔面に銃を向け、また二発くれてやった。社長は脳みそを撒き散らしながら床に崩れ落ちた。

「ヴァシリー!」

 俺は死体を踏み越えて奥に向かった。デスクの横に段ボール箱があり、ヴァシリーはその中に、荷物みたいに転がっていた。本当にただの生首のようになっていてぎょっとしたが、俺を見上げた目は昔と変わっていなかった。

「やぁ」

 道端で友だちに偶然出会ったみたいな口調で、ヴァシリーは言った。

 俺はさっき調べたばかりのエッグマン病の症状を思い出していた。胴体が頭蓋骨に吸い込まれるにつれて脳が圧迫され、そのため末期患者は著しく知能が低下するという。ヴァシリーはついさっき俺が社長を殺したことも、自分が死にかけていることすらも、さほど気にならないらしかった。俺に向かって懐かしそうに微笑みかけてくる。

「ヴァシリー。俺のこと、わかるか?」

「もちろんだよ。三年ぶり」

 俺はヴァシリーを箱の中から抱き上げると、急いでオフィスを出、階段を駆け下りた。車の助手席にヴァシリーを置き、エンジンをかける。

 もう夜明けが近づいていた。ヴァシリーは「どこに行くんだ?」とも言わなかった。脳みそが小さくなった彼には、もう何も気がかりなことなどないのだろうか。その表情はとても穏やかだった。

「なぁ、ピアノを弾きたくないか」

 そう尋ねると、ポーッとしていたヴァシリーの顔つきが明らかに変わった。

「弾きたい」

 そう答える瞳が輝いていた。

 公園の前で車を停めた俺は、ヴァシリーを抱えて野外ステージへと走った。ピアノにかけられた布を剥ぎ、蓋を開ける。

「ああ」とヴァシリーが声を漏らした。「ひさしぶりだなぁ」

「弾けるか?」

 俺はヴァシリーを膝の上にかかえて椅子に座り、彼の手が鍵盤に届くように支えた。人の頭はなかなか重く、微妙な角度を保つのは重労働だったが、ピアノに映ったヴァシリーの顔は世界一嬉しそうだった。

 顎の下から短くなった両腕を伸ばして、長い指の先が鍵盤に触れる。奏で始めた曲は素朴で、おとぎ話のような甘さに満ちていた。

「何て曲だ?」

「異国から」ヴァシリーは歌うように言った。「子供の情景、一曲目。シューマン」

 明け始めた紫色の空に、ピアノの音が流れて溶けていった。


 それからきっかり一週間後にヴァシリーは死に、俺は警察に出頭した。

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