2 人を襲う蛸
藤原緒嗣は夜が白み始めるまで沼地の中にへたりこんでいた。なかなか動悸が収まらない。あれほど全速で走り続けたのは生まれて初めてのことだった。
東の方向から、昇りゆく朝陽を背に何者かが近づいてきた。魔物ではない。確かに人間だ。夜の間、右京から出ていた人足が戻ってきたのか? そうではなさそうだ。
緒嗣はまぶしさに目を細めながら近づいてくる者を注視した。
魔物ではなさそうだが、一応刀の柄を握る右手の指に力をこめた。もしかしたら盗賊のたぐいかも知れん。しかし、まだ足腰に疲れが残っていて、立ち上がることはできなかった。
かなり近づいてきてから、その人物の風体をはっきりとらえることができた。背の高い僧だ。いや、僧かどうかわからないが、そのように見える。髪の毛が一本もない坊主頭で、ボロ布のような僧衣をまとっている。その僧衣はかなり汚い。もしこの男が本当に僧だとしても、由緒ある寺に所属する者ではあるまい。愛宕山や鞍馬山で修行している浮浪者まがいの貧乏僧か?
僧らしき男は緒嗣を見て微笑みながら歩み寄ってきた。敵意はなさそうだ。瞳の色こそ黒いが、彫りの深い顔立ちをしている。話に聞いたことのある破斯(ペルシャ)人かも知れないと緒嗣は思った。
「どうなさいました?」僧は緒嗣にやさしく声をかけた。
少し前まで自分が体験したことをどう伝えればよいのかわからなくて、緒嗣は口を半開きにしたまま黙っていた。
「怪物に襲われましたかな?」僧はさらに尋ねた。「腕がたくさん生えている怪物です。人を襲う時は、それらの腕が脚となってムカデのように這いまわる」
「あ」緒嗣は驚いた。この僧は魔物を知っているらしい。
「どうやらムフシムに遭遇されたようですな」
「ムフシム?」
「私たちはあの怪物をそう呼んでいます」
「あなたは?」
「私は
「お坊様ですか?」
泥蘭は微笑みながら頭を振った。「私はムフシムを倒すためにこちらに参りました。人に怪しまれぬよう、僧のような身なりをしているだけです」
倒す? あの魔物を倒せるというのか。緒嗣は目を丸くして泥蘭の顔を見つめた。
「あなたはどちらから来られたのか? 外国の方ですか?」
泥蘭は再び頭を振った。「どうご説明申し上げればよいのか。簡単に言えば、私は千年以上先の未来から来たということになるのだが、本当にここが私にとって過去の時代であるのかどうか確証はない。もしかしたら、過去ではなく、別の宇宙に飛んできたのかも知れません」
「未来……宇宙……?」緒嗣はキョトンとした。泥蘭が何を言っているのかよくわからなかったのだ。
「とにかく、ムフシムを根絶するべく、運命が私をこの世界に送り込んだ。それは間違いない。だから私は今この地に立っている。奴らがこの辺りを徘徊しているという話を聞いたのでね」
「あなたはあの魔物を倒せるのか」緒嗣はようやく立ち上がり、着物についた泥を払った。「奴らには刀も矢も歯が立たなかった。いったいどうやって倒すと言われるのか」
「ムフシムは鉄の鎧をまとっていたでしょう。あれは彼らが乗ってきた隕石の船を解体したもので、刀や矢は通さないし、鎧を貫けたとしても、ムフシムの肉体は弾力に富み刃物による損傷は受けにくいのです」
「ではどうすれば良いのですか?」
泥蘭はニコリとして、肩から細い紐で提げた革袋の中に右手を突っ込んだ。そして、しばらく袋の中でごそごそした後、手を袋から抜いて指を広げると、手のひらを緒嗣に差し出して見せた。そこには、淡い緑色に光る土くれのようなものが乗っていた。
「これは?」緒嗣は恐る恐る人差し指で謎の物体に触れてみた。それはじっとりと湿っていて、何故だかわからないが、生き物ではないかと緒嗣には感じられた。
「説明するのが難しいが、まあカビのようなものと考えていただければいいでしょう」
「これで魔物を退治できるのですか?」
泥蘭はうなずいた。「人間にとっては何の害もないカビですが、ムフシムにとっては猛毒です」
「これをどうすれば奴らを倒せるのですか?」
「何らかの形で体内に入れれば良い。奴らの青い血にこれが混ざれば即座に反応して死に至らしめます。あなたの刀に塗りなさい。それでムフシムの鎧に守られていない部分に刀を刺せば良いのです」泥蘭は懐から横笛のような細長い筒と鋭く尖った矢じりらしきものを取り出した。どうやらそれは吹き矢らしい。「この矢にもそのカビが塗りつけてあります。私はこれを使って今からこの奥にいるムフシムどもを倒しにいきます。あなたも一緒に来て、奴らのいるところに案内してもらえませんか?」
緒嗣にとって、あの恐ろしい魔物のいる森に戻るのは勇気のいることだったが、腹心の部下たちを無残に殺された怒りを強く感じていたし、何者なのだか得体は知れないが、泥蘭と一緒にいれば安心できるような気がした。
「わかりました。参りましょう」
緒嗣は泥蘭に言われた通り、光るカビを切先から根元まで刀身に丁寧に塗った後、泥蘭を先導して来た道を戻り始めた。
既に陽は高く昇っている。
「魔物は昼間は活動しないと聞きましたが、既にどこかに隠れてしまっているのでは?」緒嗣は前を歩きながら、泥蘭の方を振り向くことなく尋ねた。
「ムフシムは昼間活動できないわけではありません。ただ強い太陽の光が苦手なのです。陽光は奴らの皮膚を焼き、水分を蒸発させる。それが奴らにとって致命傷になる。奴らが鉄の衣をまとっているのは太陽から身を守るためでもあるのですが、それでも昼間に日光にさらされるのは避けたいのでしょう。日光が遮られる森の中なら平気で歩いているはずです」
緒嗣たちは斯渡が殺られた場所まで戻ってきた。斯渡の死体は見当たらない。あの大男の人足と同じようにムフシムが担いで持ち去ったのだ。
ただ斯渡の持っていた大刀だけが、鞘から外れて地面に落ちていた。ムフシムは人間が使う道具には全く興味がないようだ。
「これは使えるかもしれない。借りていきましょう」泥蘭は大刀を拾い上げて光るカビを刀身に塗った後、鞘に納め、肩から提げた紐をほどいて結びつけ背負った。
緒嗣と泥蘭は、木立が深くなっているところに入り、あの蟻塚に囲まれた円形のエリアに近づいた。
槇瓜が殺された場所だ。彼の死体はないが、斯渡の時と同じように刀が落ちている。槇瓜の遺品として刀を拾い上げようと近づいた緒嗣を泥蘭は制止した。樹々の間を通って何者かが近づいてきたのだ。
二匹のムフシムだ。二足歩行で前後に並んで歩き、人を担いでいる。緒嗣の部下ではない。若い女だ。まだ息があり、担ぎ上げられながらもがいている。どこからかさらってきたのだろう。いったいどれぐらいの数の人間の犠牲を必要とするのか。
奴らは緒嗣たちにまだ気付いていない。泥蘭は素早く吹き矢を構え、前を歩くムフシムの両眼の間を狙って矢を飛ばした。
見事に矢は命中した。当たったムフシムは矢がささったことさえ気付かず歩き続けていたが、数秒で歩みを止め、がくりと前のめりに倒れた。
その時になって後ろの一匹は初めて異変に気付いた。前の一匹が倒れたため、担がれていた女も地面に落とされた。
後ろの一匹は相棒の体に刺さった吹き矢を見て、あわてて周りを見回し、木陰に隠れている緒嗣と泥蘭を発見した。そこまでの動きはスローだったが、そこからは素早かった。
「来る!」緒嗣は刀を正眼に構えた。多足歩行の体勢を取ったムフシムは壁を這うゲジのように素早く多くの脚をリズミカルに動かし、一直線に向かってくる。
「うおぉぉ」
ムフシムの勢いの凄さに圧倒された緒嗣は恐ろしくなって思わず刀を振りかざし、わずかに突き出ている頭の部分を切り裂こうとしたのであろう。斜め方向からムフシムを打ったが、残念ながら肉を斬ることはできず、刀身は跳ね返された。
しかし、緒嗣が全身の力を込めて振り下ろしたものだから、子どもほどの体重しかないムフシムは横向きに飛ばされた。
「だめだ。肉を確実に刺さなければ…」泥蘭は斯渡の遺品の大刀を抜いた。
ムフシムはたくさんの脚を使って体勢を立て直し、再び向かってこようとしたが、泥蘭はその直前の一瞬の隙を狙った。大刀を振るのではなく、槍のようにまっすぐに、緒嗣が狙ったのと同じように両眼の間を突いた。柔らかい桃色の肉は剣先を弾くことなく受け入れた。赤い血は流れない。泥蘭が深く差し込むに連れ、じんわりと薄青い液が染みだしてきた。泥蘭はそれを見て刀を抜いた。
刺されたムフシムは動かない。絶命したように見えた。
泥蘭と緒嗣は近づいて死体を見分した。傷口はさほど広くなく、出血も微量だ。
「たいした効き目ですな」緒嗣は驚いていた。「このような毒があれば何も恐れることはない。この苔のようなものはどこに生えているのですか?」
「残念ながら、この世には存在しません。私の仲間たちが作ったのです」
「そうですか……」緒嗣は少しがっかりした。
藪をかき分ける音がした、しかも、同時に複数の方向から。ムフシムが異変に気付いて駆けつけてきたのだ。
緒嗣と泥蘭はほとんど物音を立てていないし、奴らはこれまでも音に対して反応しなかった。死んだ一匹が、息を引き取る前に人間には感知できない信号を送って仲間たちに知らせたのだ。
緒嗣は動転したが、泥蘭は落ち着いていた。一匹一匹、確実に狙いをつけて、正確に鎧に覆われていないところに矢を打ち込んでいった。今度はムフシムの方が動転する番だ。こいつはカモのようにちょろく捕まえられる人間ではない。総出で捕まえてやろうと勇んで出てきたのだろうが、いじめっ子が相手が強いとわかると途端に態度を変えるように、我先にと逃げ始めた。
形勢逆転! 緒嗣は刀を振りかざし、逃げるムフシムの首の部分に切先を突き刺そうとした。何度か失敗したものの、鉄の鎧を避けて生身を突くコツを覚えると、次々に混乱して逃げ惑うムフシムを倒していった。普段、刀の稽古などほとんどしている暇のない緒嗣だが、子供のころから体を動かすのがすきな性質で、慣れてくるとムフシムを上回る身軽さを見せた。
とりあえず、目の前にいたムフシムは二人で全て倒した。刀を振り回し続けた緒嗣に対し、泥蘭は吹き矢を飛ばしていただけとは言え、全く息を乱していない。涼やかな表情のままだ。
やはり、この人はタダものではない。本当に人間なのだろうか。緒嗣は驚きの目で泥蘭を見ていた。
「終わりましたな」泥蘭がつぶやいた。「これでこの辺りにいたムフシムは全滅したと考えてよいでしょう。まだ都の周辺には奴らの拠点がいくつかあるとは見ていますがね」
「私はこの件について、内裏宮にこの件を報告しなければなりません。もし、よろしければあなたも一緒に来ていただけませんでしょうか。私だけでは十分な説明ができそうにないので……」
「それは構いませんが、そうすると左大臣様に謁見を?」
緒嗣は頭を振った。「いえ、大君に」
「帝に私ごとき下賤の者が謁見を?」泥蘭は驚いた。「畏れ多いことだ。よろしいのですか?」
緒嗣は微笑んだ。「大君はきっと泥蘭様の話を気に入られると思いますよ」
「それならば、帝にお土産を持って参りましょう」
泥蘭は大刀で、まるで髭を剃るかのように、巧みに一体のムフシムの鉄の鎧を剝いでいった。陸に打ち上げられた蛸のような姿が露わになる。八本の触手の内側には無数の吸盤画が付いている。まさに大型の蛸が地上に攻め込んできたかのようだ。
「それを宮中に?」緒嗣は尋ねた。
「御覧なさい。鎧を剥いでみれば、奴らの体はこんなにひ弱なものです。鎧がなければ後ろ足で立って歩くこともできないのです」
泥蘭の言う通り、鎧を取ったムフシムは半分ほどの大きさに縮んだように見える。泥蘭は、ムフシムの死体を赤ん坊のようにひょいと担ぎあげた。いかにも軽そうだ。
「では、参りましょうか」
二人は強い日差しの下、開拓作業に汗を流している人足たちの間を抜けて右京の地を抜けた。
人足たちは泥蘭が担いでいるムフシムの死体を見て、ずいぶん大きな蛸が獲れたもんだなと囁き合った。
平安京エイリアンズ 幾富 累 @salticidae
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