1 右京の森の中で
延歴二四(805)年になっても平安京はまだ完成していなかった。右京の開拓が遅々として進まないのだ。
桓武帝は苛立っておられた。このところ帝の体調は思わしくなく、夜御殿で臥せっておられることが多くなった。
私も齢七十を迎える。いつまでこの世に留まれるだろうか。何としても私の目の黒いうちにこの千年の都を完成させなければ死んでも死にきれん。
帝は藤原緒嗣を呼ばれた。帝の信頼の厚い緒嗣は異例のスピードで出世し、最高行政機関の一員である参議に抜擢されていた。帝が夜御殿に気安く呼びつけて密談されるのは緒嗣だけであり、この時もすぐに緒嗣は帝の元へ馳せ参じた。
「右京の土木工事の進み具合はどうだ?」帝は柔和な表情で尋ねられた。
呼ばれた時からそれを聞かれるだろうと予測していた緒嗣はスッと頭を垂れた。「申し訳ございません。残念ながら右京の開拓ははかばかしくありません」
「何故だ?」帝の表情が曇った。「できる限り多くの人足を動員せよとお前に命じたはずだな」
「ご命令通り、都の周辺の集落からかなりの数の人足を募って右京での工事に動員しましたが、しかし……」
「しかし?」
「夜のうちに人足がいなくなるという事件が立て続けに起こりまして」
「何だそれは? 仕事がつらくなって逃げ出したのか?」
緒嗣は頭を振った。「出て行ったのではなく、さらわれたようなのです」
「何だと」帝は緒嗣の意味不明な答えに困惑された。「何者が人足などさらうのか?」
「それがどうやら……」緒嗣は口ごもった。「魔物に連れ去られたという噂が出ているようで、恐れをなして逃げ出す人足も増えております」
「どんな魔物だ?」帝は眉をひそめられた。「目撃した者はおるのか?」
「何人か目撃者がいるようです。しかし、甲冑をまとった大男だと言う者もいれば、子供ぐらいの大きさの小鬼だと言う者もおり、また、ムカデのように何本もの足で這っていたという者もいて、正体ははっきりしません。いずれも暗い中で垣間見ただけなので、あてにはなりませんな」
「何ということだ」帝は深いため息をつかれた。「ようやく私の夢であった千年の都が完成しようという時に、得体の知れぬ妖怪変化のようなものに邪魔をされようとは」
「こうなったら、私が自ら右京に出向いて調べて参りましょう」緒嗣はしっかりと帝の目を見据えて言った。
帝が驚かれた。「お前が自ら足を運んでくれると言うのか」
まだ若いとは言え、緒嗣は参議という立場にある高官である。他の公卿ならそんな役目を自ら買って出ることなどあり得ない。化け物に襲われるかも知れないのだ。臆病な貴族は怖気をふるうことだろう。さすがに緒嗣は私の見込んだ男だけのことはある。帝は心強く思われた。
「お前が行ってくれるならこれほど心強いことはない。十分用心してかかれ」
緒嗣はうなずいた。「腕の立つ者を連れていきます。もし本当に人をさらう魔物がいるのなら討ち取ってまいりましょう。右京開拓を推進し大君の不安を取り除いてみせます」
「頼もしいな。期待しておるぞ」
緒嗣は深く頭を下げ、引き下がった。
翌日、緒嗣は三人の従者とともに馬に乗って右京に向かった。三人のうち二人は、愛宕山の検分に同行した槇瓜と斯渡。残る一人は、走り回るイノシシの目を射抜くことができると言われる
四人は開拓の進まない右京南部を回った。予想していたよりも作業に従事している人足の数は少ない。
緒嗣が年配の人足頭に話を聞くと、魔物にさらわれることを恐れて半数近くは郷里へ逃げ帰ってしまったようだ。
「お前はその魔物とやらを目撃したことがあるのか?」緒嗣は問うた。
「一度、夜、小屋で寝ている時、物を引きずるような音がして、外をのぞいてみると、遠くに異様な姿の者が二体、死体を引きずっていくのが見えました」
「異様な姿とはどんなものだ?」
「暗くてよく見えんかったですが、腕が体から何本も出ているように見えました。体はそれほど大きくなかったように思います」
「お前の部下たちの多くは逃げ帰ってしまったのか?」
人足頭はうなずいた。「へえ。勝手にここを離れると罰せられるぞと言ったんですがね、魔物に食われたりしたら元も子もねえって、さっさと行っちまった」
「お前は恐ろしくないのか?」
「魔物は夜しか現れません。昼間は安全だ。わしと残った者たちは、夜になるとここから離れた街に近い所に移って寝るようにしています」
「なるほど。魔物が出てくるのは夜だけか」
四人は夕方まで右京をくまなく回ったが、魔物と遭遇することはなかった。どうやら夜にしか活動しないようだ。昼間は隠れているのかも知れない。どこかに潜んで眠っているのなら、そこを襲えば討つことは簡単だろうが、それらしい場所は見つからない。朽ちた小屋や沼地の葦原、草むらなどを探ってみたが、魔物のいた痕跡すら見当たらない。
陽が落ちた。だが、空には雲一つなく、満月が煌々と地を照らしており、夜目は利きそうだ。緒嗣たちは引き続き右京に留まって魔物を探すことにした。
人足頭の言っていた通り、人足たちは魔物を恐れて、夕方仕事が終わるとさっさと右京を離れた。しかし中には、そんなことは面倒だ、魔物など怖いものかとそのまま残っている者も少数いた。
魔物がいるとしたら、そうした連中を襲うのではないか。そう考えた緒嗣は、数名の人足が宿としている小屋の近くに、彼らに気づかれないように隠れた。
人足たちは焚火を囲み、どこからか仕入れてきた酒を酌み交わしている。
一座の中で一番の大男が立ち上がった。
「小便してくるわ」
「近くですると臭いから、離れた所でしてこいよ」隣に座っていた男が笑いながら言った。
木陰に隠れて人足らの様子をうかがっていた緒嗣の頭にひらめくものがあった。魔物が人間をさらうとしたら、一人でいるところを狙うに違いない。今、大男が仲間から離れようとしている。緒嗣は三人の従者に、彼を追うように指示した。
大男は酔ってフラフラした足取りで仲間たちから離れ、木立の中に消えた。
緒嗣たちは大男と距離を置きながらも、暗がりの中で彼を見失わぬよう、しっかりと彼の後をついていった。
大男が樫の大木の前で立ち止まった。放尿の音が聞こえてくる。それと同時に、ザッ、ザッという何かが地面を擦るような音が近づいてきた。大男はその音に気付くことなく、延々と小便を放出し続けている。だが、緒嗣らは、大男の背後から三つの影が迫っていくのを見た。
その影は明らかに人間ではなかった。背丈は子供ほど。全身は黒に近い灰色でザラザラしたものに覆われている。緒嗣はその質感に記憶があった。あの愛宕山の焼け跡で見たおびただしい数の鉄片、あれと同じだ。あの魔物たちは鉄粉を鎧のようにまとっているのだ。
胴体からは虫のように三対、六本の腕が伸びている。それぞれの先端からはタコのようなヌメヌメした触手が突き出ている。特に一番上の両腕からはそれぞれ三本の触手が出ており、人の指のようになめらかな動きをしている。
魔物には首がなかった。首が出ているべき部分には鉄粉の鎧に丸い穴が空いていて、そこから桃色の肉が盛り上がっており、銀色に鈍く光る丸い眼らしきものとギザギザの歯を剝き出しにした正五角形の口らしきものが付いているが、それだけだ。首や頭もなく、耳も鼻もない。
大男はようやく後ろから近づいてくる物音に気付いて振り返った。その瞬間、先頭を歩いていた魔物の右上腕の三本の触手がムチのように伸びて、大男の首を締めた。そして左腕の触手が左胸を突いた。男は声を上げることもできず、白目をむき、胸から血を噴き出して絶命した。
緒嗣たちは何をすることもできず、その光景をただ唖然として見ていた。
魔物どもは三匹がかりで大男を抱えて運んでいく。
「あいつらを矢で射抜きましょうか?」輪豪が小声で緒嗣にささやいた。
「まあ、待て。奴らがあの大男をどこに連れていくのか見極めよう。この近くに根城があるのかも知れん」
緒嗣らは足音を立てぬように慎重に、距離を保ちながら魔物の後をついていった。
斯渡が木の根につまづいてうっかり音をたててしまったが、魔物は立ち止まったり、振り返ったりすることはなかった。周りを気にしていないのか、あるいは音が聞こえないのかはわからないが、物音を立てぬよう慎重になる必要はなさそうだ。
魔物どもはしばらく浅い沼の葦原の中を進んで、桂川沿いにある森に入った。
緒嗣らも続いた。森は暗い。だが、煌々と地を照らす満月のおかげで、何とか魔物の影をとらえることができた。
前方に白っぽい妙なものが見えた。二メートルほどの高さの蟻塚のような物体が少し隙間を空けていくつも並んでいる。どうやらそれらの物体は円を描いて並んでいるようだ。
魔物どもは大男の死体を担ぎながら、スルリと器用に蟻塚の間を抜けて円形の空間に入っていった。もう少し近づかないと、向こう側がどうなっているのかは見えない。
緒嗣らは蟻塚のそばまで行って、隙間から中の様子をうかがった。直径十メートルほどの円形の空間の中に見えたものは、緒嗣の想像を絶していた。
草も樹も刈り取られたその空間には、今入ってきた三匹と合わせて十匹ほどの魔物がいた。そこには、人間やシカやクマ、サルなど動物の死体が散らばっており、そのうちのいくつかは四股が引きちぎられており、またいくつかは臓物が引き出されている。魔物たちは死体を食べているわけではなく、何やら調べているようだ。二匹か三匹集まって、取り出した臓物を地面に置いて討議している者たちがおり、死体の中に自分の触手を突っ込んでいる者もいる。
今入ってきた三匹は死んだ大男を地面に寝かせて、服を剥ぎ取り、身体の各所を撫で回し、触手を口や鼻、耳に突っ込んでいる。緒嗣らには理解できないが、ああやって何かを調べているらしいことだけはわかった。
魔物は作業に夢中で外に気を配っている様子はない。武器らしいものは見当たらない。無防備だ。
輪豪は弓を構え、緒嗣の方を見た。緒嗣は大きくうなずき、自分も刀の柄に手をかけた。槇瓜と斯渡も立ち上がり、戦闘態勢を取る。
魔物どもはこちらに気付いていないし、何の武器も持っていないようだ。大男をここまで運んできた三匹の動作を見ると、さほど素早いとは思えない。移動する速度は人間の年寄り並みだった。ここに魔物全員が集まっているとすると、四人で殲滅することはたやすい。
輪豪は魔物のうちの一匹の背中に狙いをつけて矢を放った。
鈍い音とともに、矢は見事に隕鉄に覆われた背中に命中した。矢は確かに刺さった。だが、隕鉄は硬く厚いのだろう。矢じりは深く肉に食い込んではいない。血も流れない。射られた魔物は叫び声を上げることなく、刺さった矢を触手で抜くとゆっくり振り返った。同時に、中にいた魔物全員が緒嗣らの方に注目した。
もはや引くことはできない。緒嗣と槇瓜、斯渡は刀を抜き、輪豪はすばやく第二の矢を構えた。
狙われた魔物が緒嗣らに向かってきた。二足歩行の時はのそのそと動いていたが、今度は身体を倒し、全ての触手を地面に着けてムカデのように進んでくる。その動きは極めて速い。一同は大いに慌てた。
輪豪はあわてて矢を放ち、その矢は正面から近づいてくる魔物の一番上の触手の根元に当たったが、今度は刺さることもなく、隕鉄にはじかれた。
魔物は平然として、止まることなく輪豪に飛びかかってきた。そして、正面から頭に飛び乗り、顔を塞ぐと、鋭い触手の先端を何本も背中に突き立てた。それは一瞬の出来事であった。輪豪は叫び声を上げることなく崩れ落ちた。
「危ない。逃げろ」さらに三匹の魔物が向かってくるのを見て緒嗣が叫んだ。
輪豪には申し訳ないが、命あっての物種だ。緒嗣と槇瓜、斯渡はあわてて魔物の根城から走り去った。
三人は必死に走ったが、フナ虫のように何本もの触手を素早く動かして這う魔物の移動速度は速く、疲れを見せない。高齢の槇瓜がまず追いつかれた。
逃げ切れないと観念した槇瓜は立ち止まり、魔物に斬りかかった。隕鉄に覆われた胴体は斬れないだろうと思い、眼と口が出ている首のあるべき場所を狙った。そこは隕鉄によって守られておらず、桜色の肉が露出している。
眼を狙うのだ。槇瓜は切っ先を魔物の左の眼に突き立てようとしたが、両腕を魔物の触手に絡め取られた。そして、輪豪と同じ結果をたどった。頭の上に乗りかかられ、背中を触手で指されて絶命した。
槇瓜よりも脚力に恵まれた緒嗣と斯渡はさらに逃げ続けたが、二匹の魔物は依然として追ってくる。距離はどんどん縮まっている。
追手の魔物のうち一匹が、カモシカが跳ねるように跳び上がった。魔物はきれいな放物線を描きながら、逃げる斯渡の背中の上に正確に落ちた。緒嗣はちらと斯渡の方を見たが、そのまま走り続けた。情けない話だが、何もすることもできない。狼に追われる兎のようにただ逃げるだけだ。山賊のような連中ならまだ何とかしようもあるが、種が違うのだ。所詮人間のかなう相手ではない。
緒嗣は、斯渡のように跳びかかられぬよう、自分と追手の間に樹をはさみながらジグザクに走った。どうやら魔物は人間ほど機敏に方向転換できないようだ。だが、走る速度は魔物の方が上回るし、緒嗣が走り疲れてきたのに対して、魔物は一向に疲れを見せない。追いつかれるのは時間の問題だった。
その時、樹々の間から一人の年配の男が姿を見せた。緒嗣はその男の顔に見覚えがあった。魔物に襲われた大男と一緒に酒を飲んでいた人足のうち、一番年長の男だ。きっと、大男が戻ってこないので心配して見に来たのだろう。
「危ないぞ、逃げろ」緒嗣は息を荒くしながら、かすれた声で男に向かって叫んだ。
男は走ってくる緒嗣を見ながら、何事かわからずキョトンとしている。
魔物は緒嗣から人足に狙いを変えて襲いかかった。人足には気の毒だったが、緒嗣は危機を脱したのだ。
緒嗣は森を抜けて、開けた湿地に出た。もう魔物が追ってくる様子はない。彼は立ち止まり、大きく息を吐くと、湿った草の上にへたり込んだ。
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