1. この物語の動機付けと条件設定

 私は幼いころから真面目だった。例えば小学生の頃の私、宿題も忘れずにやったし、テストに向けてしっかり勉強した。クラスをまとめるような役も務めたし、文化祭の劇では台本だって作った。高校までのほぼ義務教育の期間は、それと似たようなことを繰り返していた。そうするのが正しいのだろうと、なんとなく思っていたからだ。

 大学に入ってからは、レポートはちゃんと書くし、講義で分からない部分は自分で調べたり先生に聞いたりしてよく学んだ。自分で言うのも何だが、優秀な学生だった。優秀だと分かっていたから、このまま就職するのもよくないのかもしれないと思い、大学院修士課程への進学を決め、今に至る。小学生の頃と何も変わっていない、とてもまじめで立派な22歳児というのが、私だ。


 もう数学科の修士学生としての生活も3か月。日々を講義とセミナー発表の準備に費やし、レポートの締切前は徹夜することでなんとか間に合わせるという自転車操業を続けている。この生活を通して分かったことは、私は研究者には向いていないということだ。

 これまでの人生で、私は常に優等生だった。これは今でも間違いなくそうなのだが、そのせいで自分が研究に向いていると勘違いしてしまっていた。研究に向いている人というのは、少なくとも研究する対象が好きだ。私はそうではないということに、この3ヶ月間で気づかされてしまった。毎日数学に追われるの、割とシンプルにきつい。いや、本当は大学で専攻を選んだ時からわかっていたのだと思う。でも、客観的に見た時の私があまりにも優等生だったから、なんとなく優等生の選びそうな進路を選んでしまった。全くこれからどうすればいいというのか。

 まあ、そんな愚痴を言っても修士号は貰えないし、眼前にあるセミナー発表の準備を必死にこなしているのが、私だ。発表の内容は——、特定されかねないのでやめておこう。修士の学生ともなると、研究テーマが全く同じという人は、全国の同じ学年の生徒を見ても2、3人だろう。少なくとも身近なところではそうだ。こんなに深いところまで数学を学んだことは、惰性で真面目さを貫き通してきた人生の中で誇ることのできる、数少ないことのうちの一つだ。



 ペンを走らせ、思考し、またペンを走らせる。こう書くと何かを書いている時間のほうが多いと思われてしまうだろうが、実際には8割くらいの時間を考えることだけに使われてしまう。思考し、思考し、思考し、思考し、やっとペンを走らせるというのが正しいわけだ。今日も、15時に起きてからこの20時まで、ずっとそうしている。そろそろお昼ごはんにするか。もちろん朝ごはんは抜いている。

 生活習慣がこんなにも乱れているのは、たまたま昨日徹夜していたからだけではなく、日々に疲れてベッドから起きるのが億劫になってしまったからでもある。これはなんか病んでいるとかそういう類のものだと分かっているけれど、私は真面目なのでメンタルがヘラってしまったなと軽く流す。本当に真面目な人なら、メンタルを崩したりしないだろうから。いや、そもそも真面目なら15時に起きることなんてないだろうから、私は真面目ではないのだろうな。

 世間が夕食を食べる時間だが、昼食を外で済ませようと準備をする。軽くシャワーを浴び、外へ行く用の服へと着替える。もう少し外見を整えるべきなのだろうが、幸いなことに22歳にしては若く見られる方なので、年相応の格好ができていないことへの免罪符はある。部屋の鍵を持ち、靴を履き、玄関のドアに手を伸ばしたところで、チャイムが鳴った。すぐに開けることもできたが、念のためドアアイから訪問者の顔をのぞいてみようとする。そこには顔はなく、代わりにドアを前にうずくまる人影があった。

 その人影は、間違いなく私の姉だった。顔は見えなくても、雰囲気、特に髪の感じが姉のそれと完全に一致している。意味が分からない。だって、私の姉は社会に出て立派に働いているし、彼女の職場からこの私の部屋にはどうやったって1時間と半分はかかる。いや、かかる時間については、彼女の終業後すぐに私の部屋に向かったと考えれば矛盾はない。まあ定時後すぐに退勤できるなんてことはないと思うんだけど。それよりも、仮にそうやって私の部屋に来るとすれば、必ず私に事前に連絡するだろう。いや、連絡がなかったことだって大した問題ではない。本当に問題なのは、ドアアイ越しでさえわかる、今の彼女の無気力さであった。

 すぐにドアを開けようとしたその手を、すんでのところで止める。ドアを開ける前に、彼女に何と話しかければいいのか考えておくべきだ。明らかに彼女の様子はおかしい。この3ヶ月間、私は姉に会っていなかったが、その間に何かクリティカルな問題が発生したと考えて間違いないだろう。この4月、大学院の修士課程を修了した彼女は、霞が関に勤めることになっていた。そこでなにかあった。世間に疎いと自負がある私でも、官僚が激務らしいということは知っている。たぶんそれ絡みだろう。とはいえ違う可能性もあるし、なんて声をかけていいかわからん。でも、いつまでも声をかけないわけにもいかないし。仕方がないから出たとこ勝負だ。

 彼女がドアにぶつからないか不安だから、ゆっくりと扉を押す。幸いなことに、彼女はドアに当たらない位置にうずくまっていてくれたようだ。賢い。ドアが開き切らないうちに、彼女は顔を上げた。間違いなくそれは私の姉だった。メイクはかなり薄い。スーツでないから、霞が関から直でここに来たわけではなさそう。ドア越しよりは少し情報が増えたものの、やはりぱっとかける言葉が思い浮かばない。あぁ、でも無難っぽい言葉はあるな。


「今から食べに行くところなんだけど、一緒にどう?」

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収束しないコーシー列としての恋 既約表現 @irreducible

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