収束しないコーシー列としての恋

既約表現

Introduction 稠密に存在する一幕

 いつの間にか、手元にかかるほどに夕日が差し込んでいる。朝日が入らないこの部屋で、唯一自然の光を浴びることのできるこの時間、以前はこのタイミングで起きることも多くあった。スマートフォンで時間を確認すると、大体午後の4時。朝の7時からずっと進めているセミナー発表の準備は、まだ半ばといったところだ。

 背後からは、ゲームのコントローラを操る音とテレビ画面の明るさを感じる。院生になってから外出する機会が減ったせいか、五感によって得られる刺激に敏感になってしまった。特に聴覚はひどく、隣の部屋のテレビの音など、小さい音からも大きなストレスを感じるようになった。しかしながら、この音は不快感とは無縁、むしろ心地よさすら与えてくれる。それは、この音を出すのが女性だからか、あるいはそれだけではなく――

「ねえ、有理数の完備化の一意性ってどう示すの」

 ふと尋ねられ、ペンを走らせていた手が止まる。こう聞いてきたのは、背後でゲームをしているその人であった。この1kの部屋に二人で暮らしているのだから、私に声をかけられるのは当然彼女だけなのだが。

「自分で考えるか明日聞き直すかしてくれる。今日はちょっときつい」

「まあまあ、ちょっとくらいいいじゃん。この大天才お姉ちゃんがファストトラベルの合間を縫って聞いてあげているんだからさ」

 彼女が立ちあがる気配を感じて、ちらと後ろを見る。175センチと私よりもわずかに高い背丈は、互いに立ち向き合っているときはそれほど気にならないが、椅子に座る私には少しの圧をあたえてくる。

「とにもかくにも、今日は厳しいって」

「そこを私に免じてさ、お願いだよかわいいマイブラザー」

 そういって私に抱き着く。いつもこうだ。二枚の布切れを通して背中に伝わる、柔らかくも圧力のある胸の感触にも、すっかりとまではいかないけれどかなり慣れた。最初に抱き着かれたとき、そしてブラジャーを付けていないと分かったときに取り乱してしまったのが懐かしい。

「はぁ、わかったから。ちょっとだけだからな」

「うん」

 いつもこうだ。バックハグをされてしまうと、何とも言えない断ることへの罪悪感みたいなものが膨らみ、断れなくなってしまう。やはりそれをわかってやっているのだろうか。彼女に抱き着かれながら少しテーブルを片付け、説明するために新しい紙を取り出す。

「姉ちゃん」

 返事はない。抱き着かれているとき、彼女のあらゆる動きが急停止することがよくある。右肩に乗せられた頭の重さ、彼女に貸しているイヤホンの冷たさ、さらさらと揺れ仄かにいい匂いのする長い髪、押し当てられる胸、前に回してきている両腕、その先には細くきれいな指。否応なく高鳴ってしまう鼓動は間違いなく彼女に伝わっているだろう。対照的に、彼女の鼓動は、止まっているのではないかと思うほどに、ゆっくりとしている。いつもこうだ。そのゆったりとした鼓動に載せて伝わってくる、不安か、後悔か、未練か、そんな何か。その正体が何なのか、ずっと分からないまま3か月ほどが過ぎていた。



「だから、有理数の完備化が2つあったとして、有理数上の恒等写像から2つの完備化の間に自然な写像ができるわけ。それが完備化の間の、距離空間の同相写像になってる」

「距離空間のってことは、位相空間としての場合もあるの」

「今回は有理数に距離が入っているから、距離について完備化されてる。一般の位相空間の完備化みたいなものを考えるなら、そういうこともあるかも。たぶんその意味合いでも上手くいくんだろうけど、正直わからん」

「へぇ。数学科の修士様でもわからないんなら仕方ない」

 彼女はまだ抱き着いたままで、その声は耳元から発せられているのにもかかわらず、甘さは一切ない。それでも彼女のふわふわとした感触に惑わされ、血糖値は高いままだ。

「だいぶ昔にやっとことだし、ぱっと出てこなくたって問題ないんだよ」

「そうすねるなよ弟。わからないことをわからないと言えるのは美徳だぞ」

 彼女が抱きしめる力がすこし強くなる。匂いも、伝わる鼓動も強くなる。

「いい加減に苦しいからそろそろほどいてくれない」

「はいはい。まだまだ幼いんだから」

 あっけないほどにするりとほどかれる両腕。温もりはまだ残っているが、鼓動はもう伝わってこない。

「ありがとうね。いつも」

「どういたしまして」

 こうして彼女はゲームの世界へ帰っていった。時計を見れば、もう午後の5時。別に急いでるわけではないのだけど、私もセミナーの準備に戻ろう。




 彼女と私にある交流は、いつもこのようなものだ。彼女に頼られ、それに応える。高々有限個の特異点を除けば、いつもこう。恐らく、いつもこうしてくれている。彼女は。

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