第15話 私の主(下)  コルメリア視点

 カムライール様の悪阻はそれはそれはきつそうで、見ていられない程でした。あんなに食いしん坊なカムライール様が御食事を摂れないどころか水さえ戻してしまうのです。げっそりとお痩せになってベッドでじっと耐えている様を見るのは非常に辛い事でした。


 ですがカムライール様は「王子を産むためだから」と泣き言一つおっしゃいません。戻しても少しでも栄養を取らなくてはとスープを必死に飲んだり、食べられそうなものを片っ端から持って来させたりと懸命に悪阻と戦っておられました。その甲斐あってなぜか鵞鳥の卵を茹でたものは食べられるようになりました。それを少しだけ何もつけずに黙々とお食べになる姿には鬼気迫るものがありましたね。


 私はカムライール様がこんなに頑張っているのですから、きっと元気なお子が無事に生まれると信じて疑いませんでした。しかしまさかあんな事になるとは・・・。


 カムライール様が産気付かれた時、私はやれやれ大変なご懐妊期間がようやく終わるのかとほっとしたものでした。私は末娘で下に弟妹がいませんでしたから、母の出産を目にしていませんでした。ですから出産について良く知らなかったのです。侍女長が物凄く厳しいお顔をなさっている事の意味が分かっていなかったのです。


 朝から陣痛を訴えていたカムライール様は、日が暮れる頃になると俄然苦しみ出しました。唸りながら必死に耐えています。私はカムライール様の手を握って励ましますが、陣痛はますます痛みを増すものらしく、だんだんと御意識がはっきりしないような有様になってまいりました。


 それが数時間続くとカムライール様は悲鳴を上げていらっしゃいました。私たちは励ますしか出来ません。なんですかこれは。出産がこんな凄まじい事であるとは知りませんでした。小さなカムライール様は体力があまりございません。こんな苦しみをこれ以上続けたら体力が保たないと思います。お医者の奥様や侍女長は後少しだとおっしゃっています。それを信じるしかありません。私も必死にカムライール様に「後少しですから頑張ってくださいませ!」と叫びました。


 やがて待望の「おぎゃああ〜!」という産声が聞こえました。う、生まれた?私を含め、その場の人間の意識が一瞬カムライール様から外れました。「お生まれになりました!」「男の子です!」という声に私は呆然となり、はっと気がついて私はカムライール様に笑顔を向けました。


「カムライール様!お生まれになりましたよ!」


 しかし返事はありません。先ほどまで叫び声を上げていたカムライール様は沈黙しています。もう一度カムライール様を見ると、頭を枕に預けて意識を失ってしまっているようです。あれほどの苦行を乗り越えたのだから仕方がないでしょう。私はそう思いましたが、お医者の奥様はハッとなって言いました。


「いけません!カムライール様を起こして下さい!出血が!」


 後から聞きましたが、出産の時に意識を失うと、出血が長引いてしまう事があるそうです。この時もカムライール様は出血が中々止まらない状態になってしまいました。


「カムライール様!」


「しっかりして下さいませ」


 私はオロオロするしか出来ません。侍女長が私を押し退けてカムライール様の枕元に近づくと、強めにカムライール様の頬を二回叩きました。一瞬カムライール様は眉を顰め、それで身体が一瞬緊張したようです。それで出血が治ったのでした。


 ただならぬ雰囲気になんとドアの前に御待ちだった殿下が飛び込んできました。そして侍女長の譲った枕元に飛び込んできました。


「カムライール!」


 しかし、カムライール様はお返事を返せません。真っ白な顔色でぐったりとしています。私は震えました。わ、私のせいです。私は枕元でカムライール様を励ますお役目でしたのに、生まれた事に気を取られてカムライール様から目を離してしまいました。カムライール様がお意識を失った事に気が付かなかったのです。


 しかもオロオロするだけで何も出来ずに侍女長が来るまでカムライール様を危険に晒したままでした。私はカムライール様の専属侍女ですのに。誰よりもカムライール様のお近くにお仕えして、誰よりもカムライール様を気に掛けていなければなりませんのに。主人の危機に何も出来なかったのです。


 お医者様のお話では出血が多過ぎて手の施しようが無いとのこと。意識が戻ったらこの薬を飲ませて下さいと吸い口に入ったどろどろした薬を渡されました。滋養強壮と造血によく効く薬だそうですが、意識の無い状態では飲ませられないそうです。


 夜明けまでに意識が戻らないようだと厳しいとのお見立てです。私たちは絶望に包まれました。ちなみにお生まれになった王子は無事だったのですが、喜んでいる雰囲気ではありません。既に用意されている子供部屋の乳母の元へお届けしました。


 その場にいる者は皆、もう涙涙です。上級侍女も下級侍女も皆、この頃にはカムライール様をお慕いしていましたから。しかし殿下だけは諦めずに必死にお声をかけ続けています。そうです。まだお亡くなりになった訳ではありません。諦めるには早いです。私はお薬を少しでも飲ませようと、指につけてカムライール様の舌や口の中に塗ってみました。


 ですが、どうしてもお目覚めになりません。夜明け近く、殿下が力なく「最後の別れをしたいから二人きりにさせて欲しい」とおっしゃいました。


「殿下!諦めてはなりません!」


 私はそう叫びましたが、侍女長に止められました。殿下のお立場では人前で涙を流すことは出来ません。私たちがいてはお泣きになれないのです。悲しい時に泣けないのは辛い事です。しかし、その事は殿下さえカムライール様の死を受け入れた証拠だと思えました。私は泣きながらお部屋の外に出るしかありませんでした。


 ところが、お部屋を出て直ぐです。


「カムライールが目を覚ました!」


 という殿下の叫び声が聞こえて来たのです。私は耳を疑いながらも反射的にお部屋のドアを押し開けて中へ飛び込みました。確かに、カムライール様が薄く目を開けているのが見えました。私は枕元に走り寄り、殿下を押し退けるように飛び込むと、大事に抱えていた薬の入っている吸い口を差し出しました。


「カムライール様!これを、これを少しでもお飲み下さい!お意識のおありの内に!」


 このチャンスを逃せばもうカムライール様は助からないでしょう。私は神に祈りながら吸い口の先をカムライール様の口に入れます。粘度が高く、一気に飲むと窒息の危険があると聞いています。私は慎重に薬をカムライール様の口の中に流し込みました。


 カムライール様はぼんやりとした表情のまま、確かに喉を動かして薬を嚥下しました。


「良かった!」


 私が喜ぶと、カムライール様は微かに笑い、そしてスーッとまた意識を失われました。ですが、心なしか呼吸ははっきりしてきた様です。私はもう涙が止まりませんでした。先ほどの絶望の涙ではなく、喜びの涙です。泣きに泣いていると殿下が私の肩を叩いて労って下さいました。あの殿下がカムライール様以外の女性に自分から触れるというのは滅多に無い事です。最大級の感謝の示し方だと申せましょう。


 カムライール様はそれからしばらくは危険な状況が続きました。意識が戻ってもほとんど反応を示されず、薬を飲めない時もありました。そもそもこの薬は大変にまずいのですが、その味も感じていらっしゃらないご様子です。緩慢に目を瞬きして、すぐに意識が無くなるのです。


 ですがご出産から二日後にはかなり安定なさり、目をお覚ましになった時にははっきりと微笑されるようになりました。お薬もしっかり飲み、スープも飲めるようになってきました。お医者様も「もうお命は大丈夫でしょう」とおっしゃいました。


 殿下は仕事をすっぽかしてずっとカムライール様の側に付いていました。不眠不休で枕元に付き、カムライール様がお意識を失われている時は手を握ったり頬をさすったりし、お意識が戻られると薬を飲ませたりスープを手ずから飲ませて差し上げたりしていました。それは心を打たれるような献身的な看病で、私を含む上級侍女はこれで完全に殿下を見直しました。ですが、これでは殿下のお体が心配です。私たちは「お世話の邪魔になるから」と殿下を半ば無理やり自室に戻らせました。そういう言い方でもしないと殿下はけしてカムライール様のお側から離れようとしなかったのです。


 カムライール様のお意識がどうにか途切れなくなるまでには一週間も掛かり、さらに手足を動かしお声を出せるまでには更に一週間掛かりました。お声を出せるようになるまではお意識ははっきりとはせず、夢うつつのようなご様子だったのです。


 カムライール様はご自分が死に掛かった事にびっくりなさっていましたが、実感はあまり無いようで、それよりもしきりに御子の事を気にしていらっしゃいました。御子をお連れするとそれはもう顔をくしゃくしゃにして喜び、男の子であると知るとまた喜びました。


 カムライール様はこの死に掛かりながら産んだ御子であるイーデルシア王子には、最終的には一男二女お産みになった御子の中でもやはり格別な思い入れを抱かれたらしく、子育ても乳母任せにせず、教育にもかなり気を配られました。そのせいでイーデルシア王子はお母様大好きっ子になってしまい、カムライール様といつまでもラブラブな殿下、まぁ、その頃には陛下ですが、と非常にお仲が悪くなって周囲が困り果てる事になるのですが、それはまだ随分と先のお話です。


 少しづつ回復なさって来たカムライール様は乳母と共に楽しそうに御子のお世話をなさっておいででした。イーデルシア様は非常におとなしく、手の掛からない御子です。静かにお昼寝している御子を見守るカムライール様は本当にお幸せそうでした。


 カムライール様はけしてお口には出されませんでしたが、ご自分のお立場の不安定さを懸念しておられました。殿下がお妃を迎えれば殿下と幸せに毎日を過ごせなくなると不安がっていたのです。ですから。ご自身の立場の強化に繋がる御子の誕生で、少しお気持ちが安定したようでした。


 実際、社交界の噂で殿下の御子をお産みになったカムライール様は、お妃になるだろうと噂されていました。実は以前から殿下は「カムライールをその内に妃にする」と公言なさっていたのです。


 カムライール様のご両親はカムライール様の授爵と同時に貴族身分に復帰なさったのですが、カムライール様のお立場を守るために奔走されていました。有力貴族に盛んに贈り物をし、顔をつなぎ、カムライール様への後援を頼んでいたのです。私の実家にも再三足を運び、高価な贈り物を持ってきては「カムライールをよろしくお願いいたします」と頼んでいたそうです。


 正直、成り上がり者が上位の貴族に金に物を言わせて後援を頼むというのはあまり上品な行為ではありません。ですがこの御両親はカムライール様の後援をひたすら願うだけで、自分達の商売に対する口利きなどは一切求めませんでした。そもそもカムライール様が野心の薄い控えめなお方であることは既に知れ渡っていました。ですから御両親の活動はお立場の弱いカムライール様を心底思い遣っての事だと分かります。そのため、好意的に対応する貴族は多かったのです。


 このカムライール様のご両親とは何度かお話をいたしましたが、侯爵家令嬢の私が侍女を勤めている事に驚き、大変私に感謝してくださいました。何かというと私にもあ贈り物を下さり「カムライールのために尽くして下さってありがとうございます」と頭を下げられます。ご愛人様の親、御子が生まれた今は王族の縁戚です。そんな高貴な立場になったとは思えないほど腰が低い方達でした。


 カムライール様と御両親は中もお宜しく、貴族的な家族関係しか知らない私は羨ましく思う事もありました。御両親の活動の甲斐もあって、貴族界にはカムライール様を推す派閥も出来つつあるようで、その後援を受ければカムライール様がお妃になるのも難しくないと思われました。


 それに国王様も王妃様もイーデルシア様が産まれた事に大層お喜びになり、カムライール様に感謝される事この上無く、以前からカムライール様を非常に親しく扱っていたものを更にカムライール様に公的な場でも労わり、感謝の念を示されていました。単なる愛人に対する扱いを明らかに超えています。おそらく国王様も王妃様もカムライール様を王太子妃にする事をお認めになったのだというもっぱらな評判でした。


 これはもう決まりだと社交界では噂になった訳です。カムライール様なら立派にお妃を務められますでしょうし、何よりお妃様になれば殿下と離れなければならないという不安から解消されるでしょう。私達は公式に発表されるのを楽しみに待っていました。

 

 ところが、ある日突然、隣国のフロルン王国より王女ヘルミーネ様の嫁入りが持ちかけられたのです。私はそれを聞いた時驚くと同時に「もう遅い」と思い、大して真剣には受け取りませんでした。あの殿下がカムライール様以外のお妃を認めるはずはありませんし、カムライール様がお妃になる話は八割以上決まっていたからでした。


 ところがフロルン王国は強硬に縁談を推し進めて来たようで、フロルン王国と交流のある貴族も巻き込んで結構な騒動になってしまいました。私はこの事をカムライール様にお伝えしないよう気をつけていましたが、ある日とうとうひょんな事からお耳に入ってしまいました。


 カムライール様の驚き様、落ち込み様は大変な物でした。とにかくカムライール様は殿下のご寵愛を失う事を恐れていらっしゃいます。そしてご自分が平民身分であることに引け目を感じてもいらっしゃいます。王女であるヘルミーネ様にはとても敵わないと思い込んでしまわれた様なのです。私たちがどのように励まし、お慰めしても落ち込んだままですし、殿下の「君を妃にする」という言葉にも喜びません。挙句に、殿下が戦争をも辞さずに縁談を蹴ると言うと「そんな事はお止め下さい!」と叫んでお部屋を飛び出してしまいました。


 カムライール様の落ち込み方も酷かったのですが、お妃ににするというのに「私は愛人で満足だからヘルミーネ様をお妃にお迎えください」と言われてしまった殿下の落ち込み方も酷く、珍しくお二人は別のお部屋で就寝なされたほどです。


 ヘルミーネ様の歓迎会へ向かう際、カムライール様は地味なドレスと髪を下ろす事を指定しました。とんでもない事です。ヘルミーネ様が殿下のお妃になる事をアピールする場でカムライール様が引く様な装いをすれば、ヘルミーネ様を勢い付かせることになります。私は涙ながらにカムライール様に訴え、髪型はカムライール様が譲りませんでしたが、ドレスは王妃様から贈られた薄黄色の華麗なドレスにして頂きました。宝飾品も王妃様から贈られた物を使います。王妃様のご趣味であることは明らかですから、見る人が見れば王家の御意志はカムライール様にあることが分かるでしょう。


 殿下はカムライール様が髪を下ろされた事にショックを受けていらっしゃいました。そしてあからさまに態度が投げやりになってしまっています。しっかりしてください。カムライール様をお守り出来るのは殿下しかいないのですよ!


 王宮の大謁見室に現れたヘルミーネ様は美しく気高く尊大な方でした。流石に王女の威厳がおありで、カムライール様は少しおびえた様子さえ見えました。しかし私は逆に安心しましたね。殿下はあまたのあの手の貴族らしい貴族令嬢の求婚を振り切って貴族女性としては特異な存在であるカムライール様を選ばれたのです。殿下のご趣味と異なる方である事は明らかでした。


 式典が終わり、カムライール様はそのまま殿下専用の控室へ向かわれました。そこで休憩をして、それから大広間の歓迎の夜会へ向かうのです。ところが、控室に入ると王宮の侍従が言い難そうに、殿下は今日はヘルミーネ様をエスコートするのでカムライール様は貴族たちの集まる大控室へ向かって欲しいと言い出したのです。


 私は激怒しました。殿下の事実上の妻であるカムライール様は国賓であるヘルミーネ様よりもこの国の中では優先されるべきです。ヘルミーネ様をエスコートするのだとしても、まずカムライール様をエスコートして入場して席に導いた後に、再度ヘルミーネ様の手を引いて入場するべきです。ところが侍従はそれはお妃さまがいる場合での対応で、ご愛人様の場合は先例では来賓の独身女性が優先されるというのです。


 カムライール様はいきり立つ私を制して大控室に向かわれました。私は悔しくて悔しくて手が震えるほどでしたが、カムライール様はそんな私を見て「私のために怒ってくれてありがとう」と気を使われます。いけません。一番辛いのはカムライール様ではありませんか。そのカムライール様に気を使わせては侍女失格です。


 大控室に入ると、貴族たちが同情に満ちた視線を向けてきます。悔しい事ですが、幸いな事にカムライール様のお人柄もあって「いい気味だ」というような嘲る視線を向けてくる者は皆無で、何人かの夫人はカムライール様をお慰めに来てくださいました。カムライール様は気丈に対応なさっていますが、小さな背中が頼りなく揺れています。


 と、突然そこに殿下がやって来ました。王族であり専用控室がある殿下が大控室に来るなど普通はありません。殿下は真っ直ぐにカムライール様の元にやって来ると、立ち上がり掛けたカムライール様をそのまま抱き締めました。カムライール様は背も低いし中途半端な姿勢なので、殿下のお腹に抱え込まれてしまっています。カムライール様は慌てて殿下の背中を叩いていますが、殿下は構いません。


 そしてカムライール様に何事か囁くと、カムライール様の唇にそっとキスをなさいました。周囲がざわめきます。人前で唇にキスをするなど大変破廉恥な行為ですからね。しかし殿下は全く照れる事も無く、名残惜し気にカムライール様の頬を撫でられると、足早に去って行かれました。カムライール様以外とは声も交わしません。


 私はちょっと感動いたしました。控室の空気が先ほどまでとは一変しています。カムライール様がこちらに来られたことで、殿下のお妃様はカムライール様予定がヘルミーネ様に変更になったのだ、という雰囲気が漂っていたのです。しかし殿下のあの態度。あからさまにカムライール様を溺愛してる事は変わらないのだと言わんばかりのキスによって、やはり殿下の最愛の人はカムライール様であり、お妃様は予定通りカムライール様になるのではないか?という雰囲気になっています。


 何よりカムライール様の表情が変わりました。悲し気な、不安げな表情だったものが、殿下のキスでお顔に生気が戻ってきました。私は「エスコートなど断って男を見せる場面ではありませんか!まったく情けない」と憎まれ口を叩きましたが、内心では殿下を称賛していたのです。あの方はカムライール様を必ず妃に迎えて下さるでしょう。そう信じられました。カムライール様は涙が止まらなくなり、お化粧を直すのが大変でしたが、うれし涙だと分かっていましたから私も思わず少し涙ぐんでしまいました。


 夜会の会場に入ると、ヘルミーネ様を伴って入場して来た殿下は本当にすぐさまカムライール様を迎えに来られ、椅子を増やさせてカムライール様を王族の席に座らせました。先例ではこのような場ではご愛人様にはお席が無いらしいのですが、殿下は用意させました。これは「カムライール様はいわば婚約者だから準王族だ」という意味合いがあり、そしてしっかり手を繋いでお座りになった事は、自分の妃はカムライール様なのだという強い意思表示でした。


 周囲の貴族は困惑していますが、私と侍女長は当たり前ですよ、という顔をしてカムライール様の後ろに控えました。そうです。当然です。殿下のお妃様はカムライール様なのですから。


 ヘルミーネ様はしきりに殿下にお声を掛けてきます。幼少時からの付き合いの長さを強調し、縁談は私の方が先にあったのだと強く主張してきました。その後様子を見るに、ヘルミーネ様は本当に殿下の事を想われているようです。しかし殿下の対応は礼を逸しない程度には冷淡でした。見覚えがあり過ぎる光景です。それを見ながら私は、つくづく意中の男性を自分の方に振り向かせるには、こういう風にアピールしたのではダメなのだと思い知りました。そう、自分が想っているのだからあなたも私を愛すべきだと主張したって、殿方にはいまいち響かないのです。


 カムライール様はほとんど発言をなさいません。ヘルミーネ様はカムライール様を軽く見ていてほとんど声を掛けて来ませんから。しかし、殿下の態度から殿下のカムライール様への御寵愛は明らかなのですから、この態度は殿下からの反感を呼んでしまうでしょう。国王様と王妃様はしきりにカムライール様の体調を気遣う発言をなさっていますし、周囲で聞き耳を立てている貴族たちにも王族がカムライール様に非常に気を使われている事は分かるはずです。

 

 決定的なのはダンスでした。殿下とヘルミーネ様がワルツを踊られたのには驚きましたが、それを見てショックを受けたカムライール様に国王様王妃様がはっきりと気使う発言をなさいました。そして殿下は明らかに気乗りのしない表情です。お互いのステップも微妙に合いませんでした。それに対してその後に踊られた殿下とカウライール様の息はぴったりでしたし、二人の表情は実に幸せそうでした。殿下がカムライール様に何かおっしゃられると、カムライール様は感極まったように殿下の胸に顔をうずめました。そのご様子を見て周囲の者たちはやはりお妃様はカムライール様だと納得したようでした。


 殿下は私達に「カムライールを頼むぞ」と言い残してヘルミーネ様とお話し合いをするために去って行かれました。お屋敷に帰るとカムライール様はソワソワしています。私達には殿下がカムライール様をはっきりとお選びになったように見えましたし、殿下が何があってもカムライール様を守る決意を示されたようにも見えて頼もしく思えたのでしたが、カムライール様にはまだ不安があるようでした。私はあえて言いました。


「まさかヘルミーネ様の所にお泊まりなのではないでしょうね?」


 カムライール様はびくっと肩を震わせました。正にその事を不安に思っていたのでしょう。侍女長が私を叱ります。


「馬鹿なことを言うのではありません。コルメリア。殿下がもうその様な事をなさる方では無いと流石のあなたでももう知っているでしょう」


「冗談に決まっているではありませんか。侍女長。あの愛妻家の殿下がそんな事をなさるわけありませんわ」


 白々しいやり取りですが、カムライール様は肩の力を抜かれたようでした。殿下を恨んでいる私でさえ殿下を信じているなら、自分が信じないでどうするのかとお考えになったのでしょう。実際、私は殿下がカムライール様以外の女性に引かれるなどとは全く思えません。特に貴族の中の貴族であり、気高く尊大なあの方ではダメでしょう。


 カムライール様はお眠りする気になれないと仰るので、私は夜通しお付き合い致しました。カムライール様は何度も何度も「ありがとうコルメリア」と仰います。そう。このような周囲の好意に常に感謝するような御気性が恐らくは殿下のお気に召したのです。召使に面倒を見られ慣れて、周囲からの好意について鈍感になっている貴族女性は、けして殿下の御心を得る事は出来なかったと思われます。


 翌朝、お帰りになった殿下は眠そうなカムライール様を見ると苦笑され、一緒にベッドに入られると直ぐに寝てしまいました。それを見れば交渉の結果がどうなったかなど明らかでした。


 ヘルミーネ様がご帰国なされる前日、お別れの夜会が開かれました。実はその数日前、国王様と王太子殿下のお名前で布告が出され、カムライール様と殿下のご結婚が正式に発表されていました。カムライール様は心労で少し体調を崩されていたので私達はその事を伏せていました。夜会の当日に殿下から聞いたカムライール様は目を丸くしていましたね。


 夜会も終わりに近づいたころ、ヘルミーネ様がカムライール様の所にやって来てお話がしたいと仰いました。私と侍女長はお止めしたのですがカムライール様はお受けになり、お二人は談話室に入りました。殿下の婚約者になられたカムライール様は王国の最重要人物です。勿論、お一人では向かわせられません。私と侍女長は無論の事、三人の騎士を護衛に付け、カムライール様の方が上座にお座りになります。


 ヘルミーネ様はカムライール様に「自分にお妃の座を譲るように」と要求してきました。平民のカムライール様には王妃は無理だと言うのです。私は激怒し、ヘルミーネ様を怒鳴りつけようとしてカムライール様に制止されました。カムライール様はこの間のヘルミーネ様への引け目のある様な態度とは違う、落ち着かれた態度でいらっしゃいます。その後様子は、殿下のお妃さまになる事の覚悟を固めた事と、殿下の事を完全に信頼なさった事が原因だと思われます。私は感動いたしました。カムライール様は急速にお妃様として、王妃様として相応しい風格を身に着けられ始めていました。


 結局はヘルミーネ様もカムライール様をお認めになるしかありませんでした。ちなみにこの後、他国に嫁入りされたヘルミーネ様とカムライール様と何度かお会いになる事もありましたが、ごく友好的な関係になられました。まぁ、両国の間が離れていてほとんど利害関係が無かったので、表面的な関係に終始したというのもあります。


 カムライール様は殿下の婚約者となられました。既にご愛人様である事から婚約式は省略され、早急に結婚式の準備が進められました。私は張り切りました。実はこの結婚式を終えたら私は侍女の役を辞して結婚するつもりでいましたから。最後のお勤めとしてカムライール様の晴れ姿を見事に仕上げようと思っていたのです。


 ところが、後二ヶ月で結婚式というところで、なんとカムライール様のご懐妊が発覚致しました。カムライール様も殿下も、もちろん私も侍女長もが愕然とし、慌てて結婚式の中止を各方面に連絡いたしました。幸いな事に最後の準備はまだ始めていませんでしたから、中止で困る事はあまりありませんでした。外国の来賓もまだ流石に出発していない時期でしたし。


 幸い、カムライール様の悪阻はイーデルシア様の時よりは軽く、私達も慣れていたのもありほとんど問題無くご懐妊期間は推移しました。唯一、殿下だけは前回のトラウマから必要以上に心配なされ、私たちのやる事に口を出しては私達を困らせました。出産時に立ち会うと言い出して、お医者様に流石に怒られた程です。


 結局出産は前回よりは短時間で済み、経過も良好でした。小さな女の子の赤ん坊であったのも良かったのかもしれません。赤ちゃんの健康状態も良好で一安心です。殿下が御名付けになったエルセリュア様は非常にお可愛らしく、この内親王様は殿下に溺愛されました。そのせいだかどうなのか、長じてカムライール様とあまり仲が良く無くなってしまい、周囲の者を大いに困らせたものです。


 お産の回復を待って、改めて結婚式の準備が進められました。殿下にはまたカムライール様を妊娠させないように国王様から厳命が出されたそうです。結婚式の準備には予算も要りますし、中止となると外国の来賓にもご迷惑が掛かりますからね。結局お二人の間にはこの二年後にフュリュセリア内親王がお生まれになるのですが、その事からして殿下はそれほど子供が生まれ難い体質では無かったのではないかと思われます。私達求婚者と寝まくっても子供が出来なかったのはたまたまでしょう。


 今度は無事結婚式は行われ、純白のウエディングドレスに身を包んだカムライール様はそれはもうお美しく、幸せそうで、私はもう涙涙です。カムライール様も泣きながら「コルメリアのお陰です。ありがとう」と仰って下さいました。これほど嬉しい事はありませんでした。


 結婚式の直後、私は殿下に呼び出されました。


 殿下は私に深々と頭を御下げになり「そなたには申し訳の無い事をした。心より謝罪をしたい。そして、私の妻、カムライールへの献身と忠誠に深く感謝する」と仰いました。王族が臣下に頭を下げるなど普通はありません。何でも、殿下は手を付けた全ての令嬢にこうして頭を下げて回ってる由で、中には手酷い報復を向けてくる令嬢(半分以上は既に夫人でしたが)もいたそうです。私もいまさら頭を下げられても許す気にはなれません。ですが、カムライール様へ忠誠への感謝という事なら受け取れます。私は言いました。


「殿下が真に反省していると仰せなら、一生カムライール様を大事にして差し上げて下さい。それが私の望みです」


「もちろんだ。私の妻は生涯カムライール一人。そう誓う」


 殿下は力強く請け負って下さいました。私は殿下の言葉を信じられました。それくらいはもう殿下の事を信頼していたのです。カムライール様の関わる事限定ですが。



 私はカムライール様のお側について王妃様と何度もお会いする機会に恵まれました。その事で王妃様から気に入られ、その伝で傍系王族の公爵様の一人であるフレシャス家のご嫡男であるドリューズ様との縁談を勧められました。私は大いに驚きました。ドリューズ様は私より3つも歳下の方でしたが、何でもドリューズ様が私の事をずいぶんと気に入られたとの事でした。公爵家ともなれば侯爵の実家よりも格上です。持参金の関係で嫁入りは難しいのではないかと思いましたが、この縁談を聞いたカムライール様、殿下、侍女長や侍女仲間までが大いに喜んで、持参金など気にする必要は無い。コルメリアに相応しい縁談だと仰って下さいまして、結局実家とも話し合った結果、私はフレシャス公爵家に嫁入りすることになりました。


 ドリューズ様は殿下の遠めの縁戚だけあって金髪に青い瞳と端正な顔立ちが殿下によく似ていました。私はそこだけはちょっと複雑な思いを抱きましたが、社交界で見かけた私に一目ぼれして何年も想って下さったという一途な方でしたから、浮気の心配はありませんでした。カムライール様は私が侍女を辞める事を大変寂しがってくださいましたが、それ以上に私が良い縁談に恵まれた事を大変喜び、社交界で引き続き自分を支えてくれるようにと仰って下さいました。勿論、私は以降もカムライール様の忠実な臣下として、良き友人として、ずっとカムライール様をお支えしてお仕え致しましたとも。



 その後、何年もしてから私とカムライール様は庭園のテーブルでお茶をしていました。その頃にはカムライール様はもう王妃になられていて、風格もあり、どこからどう見ても立派な王妃様でしたが、私の前ではリラックスされて以前のように気易い口調で話されます。カムライール様はふと思い出されたように私におっしゃいました。


「コルメリアはブレンディアス様の侍女になった時に、ブレンディアス様に魅かれはしなかったのですか?」


 ずいぶん微妙なご発言ですが、二人とも既婚で子供も産み、すっかり年取ってしまった今ではもう時効でしょう。私はあけすけにお答えいたしました。


「もちろん惚れていましたよ。あの美貌ですしね。ですからかなり本気で誘惑したのです。それが仇になった訳ですが」


「捨てられて直ぐに諦めたのですか?」


「諦めるのが貴族女性としては当然ですからね。本音としては、何かの間違いで自分の方を向いてくれないか、とくらいは思っていましたよ。カムライール様がいらっしゃるまでは」


 カムライール様は首を傾げました。私は苦笑して言いました。


「私ではどう考えてもカムライール様に敵いません。それで完全に諦める事が出来たのですよ」


「私がコルメリアに勝てる事など無かったと思いますけど」


 私は少し苦い思いを思い出しながら口を開きます。


「私も最初はそう思っていました。ですが、陛下・・・殿下とカムライール様がご関係を深めていくのを見て、誤りに気が付いたのですよ。カムライール様は最初から殿下に合わせて自分をお変えに、高めていくことをお考えになっていた。私はそんな事を考えも致しませんでした。それではカムライール様に敵いません」


 カムライール様は少し照れたように頬を赤くなさいました。自分を褒められるのに慣れないそういうところはこの方はずっと変わりません。こういう所も私が生涯敵わない、そして大好きな所の一つです。


「大丈夫です。お二人を参考にして、私は夫との関係を構築しましたから。私も頑張ったのですよ」


 お二人の事を良く見ていなかったら、私と夫の夫婦関係は上手く行かなかったでしょう。ドリューズ様は性格も実は殿下と似たところがあるのです。自分を押し付けるスタイルの以前の自分ではけして上手く行かなかったでしょう。カムライール様を参考に、お互いを合わせて行けば非常に上手く行きましたけど。


 私達は笑い合い、和やかな気分でお茶を飲みました。庭園の柔らかな日差しと、美しい花々の中、私達はいつまでもいつまでも思い出話に興じたのでした。

 


 


 

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