フレグランス

丹之珠良(ニノジュラ)

フレグランス

 <憧憬>


 今更ながらに作家M・Y女史は、冴子(さえこ)の心を引きつけてやま

ない。彼女が颯爽と世の中に登場し注目を集めて、多くの女性達にとって、

また冴子にとって、憧れの存在になったのは、すでに遠い日である。


 三十八歳という遅咲きのデビューから五十二歳の早過ぎる死に至るまで、

疾風のごとく駆け抜けたその作家人生で、M・Yが残した著作は、百冊を

越える。その頃、彼女が織りなす男女の物語には、電話が重要なアイテム

だった。今はそれが携帯に変わり、固定電話もナンバーディスプレーが主

流となって、自分の待ちわびる相手から電話があったかどうか、たちどこ

ろに記録に残る時代になった。受話器のそばから離れられずに不毛の時間

を過ごした恋人達はすでにいなくなったが、M・Yが描いた永遠に埋めよ

うのない男と女の深い溝は、どんなに文明の利器が発達しようと変わらな

い。恋愛のもろさ、破綻、嫉妬、裏切り。衝き上げるような孤独感の中で、

せめぎ合い葛藤する都会の愛憎劇を、おしゃれなタッチで無数に紡ぎ出し

たM・Yを越える作家に、冴子は未だ出会ってはいない。今になっても尚、

今だからこそ尚、作家M・Y女史の美しき影響下に生きている。


 <懸賞小説>


 妖子(ようこ)は冴子の親友であり、良きライバルであり、何より感性

が似ていて、同じことで笑ったり遺憾に感じたり、しびれたりしらけたり、

喜怒哀楽が一致する唯一無二の存在だった。十五歳の春、高校の入学式で

出会ったことになっているが、本当は合格発表の日から冴子の記憶には、

妖子の印象が刻印されていた。合格者の名前が載った晴れがましい掲示板

を、クールな眼差しで見上げる黒縁メガネの小柄な女子。おかっぱの髪に

は天使の輪がくっきりと輝いて、あどけなさと早熟さが混在した不思議な

存在感を漂わせていた。果たして入学式の日、割り振られたクラスの教室

に緊張しながら入っていくと、そこに妖子もいた。

 二年生になるときクラス変成があったにもかかわらずまた同じクラスに

なって、高校生活のすべての時間を共有することになった運命的な関係。

決定的にその後の長い人生も付き合うことになったきっかけは、高二の秋

に観た映画、フランコ・ゼフィレッリ版「ロミオとジュリエット」への心

酔だった。授業をさぼり、カセットテープレコーダーを抱えて、映画館に

日参。ビデオなどない時代に終日、劇場の暗闇で過ごし、気がつけば二十

回も観賞していた。

 格調高いシェイクスピア劇のセリフを丸暗記してしまうのに充分な柔ら

かく多感な感受性に満ちた二人は、このとき真の友になったのだと、冴子

は思う。


 大人になって、妖子は地元の放送局で働き出した。女性がマスコミの仕

事をする走りの頃で、花形の職業に就いたのだ。ラジオ編成部に所属し、

番組の紹介欄を書いて新聞に掲載する仕事を、妖子は一手に任されていた。

 文才のある妖子ならではの任務をばりばりこなしていたある日、彼女か

ら冴子に面白い提案が持ち込まれた。

「ねぇ、東京のS出版社が募集している懸賞小説に私たちも応募してみな

い? 賞金もさることながら、もし受賞したら作家になるっていう夢も叶

うかもしれないし」

 と言う。冴子は水瓶座で風の宮、妖子は射手座で火の宮に属している。

風は火を勢いよくあおり、火は風を熱くたぎらせる。二つが出会えば相乗

効果で膨大なエネルギーを発し、行く手に敵なしである。星占いにも熱中

していた二人が出した結論は、「いっしょに挑戦しよう」だった。

 しかし、締め切りまでには時間が足りない。

「今から書き下ろすのは無理だけど、前に書いた小説があるじゃない」

と話が進み、それぞれ原稿用紙に清書して、早速ポストインした。


 数ヶ月後、文学賞が華々しく発表になって、三十八歳にして初めて書い

た小説で見事に大賞を獲得したM・Y女史の話題が、マスコミを賑わわせ

た。雑誌に掲載されたその作品を読んだ冴子と妖子は、打ちのめされた。

 夏の終わりの軽井沢を舞台に、ハンサムな外国人男性と不倫するセレブ

な人妻。失われていく若さに怯え、その不安を埋め合わせるように激しい

情事にのめり込んでいく日々。渇いた欲望の行き着く末路。

 耽美なリアリティーに、体の芯がわなわなと震えた。

「やられた。私がまさに書きたかった世界を、M・Yは一足先に書いてし

まった。もう私の出る幕はない」

と、冴子は負け惜しみのように気炎を吐き、

「主人公の名前がヨーコだから、自分のことみたいで、セクシャルな描写

が恥ずかしかった」

と、妖子も頬を赤らめ高揚する。

 文学界に新風を吹き込み、衝撃的なデビューを飾ったM・Y女史。作家

になりたいという二人の夢など、こっぱみじんに飛び散った。


 受賞を機に執筆活動に入ったM・Yは、次々に珠玉の作品を生み出し、

冴子と妖子にとって彼女は、きら星のごとく眩しい存在になった。


 <原 いずみ>


 私たちの小説は何だったの? 思い出すだに羞恥心に苛まれる少女趣味

の幼稚な産物。永久に葬り去って、記憶から抹殺してしまいたい。


 そんな冴子と妖子の作品には、二人共通のテーマがあった。

 男の子とも女の子ともつかないモノセクシャルな魅力の美少年として、

十六歳でデビューを飾り、一世を風靡したアイドルスター「原いずみ」で

ある。そんな「いずみ」も悩ましき二十歳を迎え、今後の売り出し方を模

索する制作サイドが、新たな戦略に頭を悩ます時期になっていた。

 デビュー当時から「いずみ」には一流のブレーンがついている。ファン

の嬌声のなか、ただ歌い躍らされているだけの印象しか残らないアイドル

の作品は、よく吟味してみると素晴らしい物語の世界になっていた。そう

いう作品の分析比較検討こそ、二人には極上の楽しみでもあった。


『君に誘われながら 胸をドキドキさせた ふれあいのはずかしさ 

 なぜか今ではなつかしい 始発電車で帰る 思いがけない秘密

 何もかも 手ほどきは君さ うそのようだね  赤い模様の傘を 

 おしつけられた夜明け あの日から大人びたみたい いいことだよね』


 アイドルの作品を次々と手がける売れっ子作詞家A・Mによって書かれ

た「いずみ」のヒット曲。年上の女性と秘密の関係を持った少年が、狂お

しい思いを抱きながら始発電車に乗っている。そんな物語の主人公は、紛

れもなく「原いずみ」であり、作家の想像力を駆り立てずにはいられない

淫靡なオブジェとして、「いずみ」は誰よりも輝いていた。


 冴子と妖子の創作意欲にも火がついた。「原いずみ」のイメージで小説

を書こう。それを「いずみ」のプロダクションに持ち込んで、ドラマ化し

てもらう。大人の表現者としていかに新たな転身をとげるか、二十歳の岐

路に立つ「原いずみ」に、私たちの作品を提供したい。

 熱い思いに駆られた二人が書き下ろした小説もどきは、少女趣味の幼稚

な産物であったにもかかわらず、思いの外、プロダクション側の目にとま

り、夢にまで見た本物の「原いずみ」と実際に対面することになるまで、

話が展開したのである。


 少女趣味の産物の概要は、こうだった。

 冴子の作品/都会の空に突き出した高層ビルのグラスタワーマンション。

隣人はマリアという名前の、国籍不明の髪の長い女。男物のYシャツの下

は何もつけていない全裸。極彩色のオウムを肩に乗せ、「いずみ」の部屋

を訪れる謎めいた女との、恋愛遊戯。

 妖子の作品/枯れ葉舞う山中の別荘地。愛車が故障し、風の中で鬱蒼と

色づく木立に佇む「いずみ」。通りがかったのは、髭を蓄え黒いマントを

翻らせたフランス人のような中年美丈夫。美少年と美丈夫が黄金の季節の

中で織りなす、倒錯の男色愛。


 この二つの作品の主人公を「原いずみ」が演じ、大人のスターに転身し

てはいかがか。そんな手紙を添え、妖子が勤める地方放送局の封筒に二編

の小説を入れてプロダクションに送ったところ、数日後に驚くべき電話が

妖子のデスクにかかってきた。

 チーフプロデューサーのKと名乗る男は、丁重に言った。

「お二人のような知的な大人のファンこそ、これからの「原いずみ」には

必要なのです。今度そちらにコンサートで「いずみ」が参ります。当日の

担当マネージャーにあなた達のことを伝えておきますので、ぜひ楽屋にい

らして「いずみ」に会ってやっていただけませんか。いろいろな出会いが

彼を成長させるはずです」

 作品が良かったのか、放送局の封筒の威力のせいか、二十四歳の冴子と

妖子は、ことの成り行きに躍り上がった。


 <キャビン>


 冴子と妖子が特別の日の宿に選んだのは、海辺に佇む原爆ドームのよう

な円柱形のホテルだった。ロビー中央には洒落た螺旋階段が最上階まで渦

を巻いて上り、建物全体の雰囲気が船室を思わせた。この街が本州との大

型フェリーが発着する港として栄えているせいかもしれない。客室からは

海が一望でき、小さな丸窓から覗く景色は船旅そのものである。

 二人が暮らす街から列車で一時間程のこの地方の街で、「原いずみ」の

コンサートが開かれた。昼夜二回公演の合間の休憩時間に、楽屋のテーブ

ルを挟んで、確かに冴子と妖子の眼前には、スーパースター「原いずみ」

がいた。メークも落とし膝丈までのくつろいだバスローブ姿の「いずみ」

は、カモシカのような細い足を無防備にあらわにしていた。

 そこにいたのは、スターを演じる二十歳の青年であり、一般人と変わら

ぬ仕草で差し入れのミカンを食べているのが、「原いずみ」とは信じられ

ない。時々、翳りのある表情を見せるのは、何かに怯えているせいだろう

か。美しい「いずみ」を前に、冴子も妖子も言葉を失い、ただ見とれてい

るだけだった。「じゃあ」と言って、「いずみ」が個室に引き上げていく

とき、呆然と見送るしかなかった。ファンならサインや握手を求めるのが

普通なのだろうが、年上の女の自意識がそれを阻む。明るく手を振って消

えていった「いずみ」。その後、夜の部の公演を観たが、スポットライト

を浴びてステージに現れた「原いずみ」は、先ほど向かい合っていた素顔

の青年とはまったく別人の、虚構に彩られたアイドルだった。


 「いずみ」に会えた興奮で、寝つかれない夜がきた。さっきまで寝息を

立てていた妖子が、ベッドからいなくなっている。キャビンのような客室

のどこにも姿が見当たらない。丸窓から見える海は不気味なほど凪いで、

静かに月光を反映している。

 一階にあるロビーにでも行ったのかと、冴子は部屋着にコートを引っか

け、ドアをロックして部屋を出た。フロントでは従業員がひとり、カウン

ターの中でパソコンに向かい仕事をしている。妖子の姿はなかったが、真

夜中には不釣り合いな和服を着た年配の女性が、円形ロビーに据えられた

ドーナツ型のソファに腰かけていた。冴子に気がつくとわずかに頬笑み、

親しい相手のように話しかけてきた。冴子も腰を下ろし、婦人の話を聞い

た。


「こんばんは。あたりがあまり静かだと、かえって目が冴えて眠れないも

のね。私がまだ独身だった頃、親友とこのホテルに一泊したことがあるの。

主人もドーム型のこの建物が気に入って、今夜はここに泊まることにした

のよ。旅の疲れで、彼はぐっすり眠っているわ。私は寝ることが怖くて、

そんな時間がもったいないの。お若いあなたにこんな話はぴんとこないで

しょうけど、私はね、元気そうに見えて、もう長くないのよ。ガン細胞が

確実に私の体をむしばんでいて、この世を去る日が近づいているの。昔、

平凡な結婚をした。満たされることのない倦怠の日々。長いときが流れて、

ある日、偶然に出会った人を好きになった。彼には重い病に冒された奥さ

んがいたけど、自分に嘘はつけなかった。私は離婚。彼は妻に先立たれ、

やがて私たちは再婚した。それが今の主人なの。天界から垂れ下がった見

えない無数の糸の中から、私が必死にしがみついたたった一本の希望の糸。

そんな主人との暮らし、満ち足りた時間、生きているという実感をかみし

めた十年だったけど、もうすぐ終わるの。これも運命ね」

 今自分が見まわれているガンというカタストロフィーを、通りすがりの

冴子に語ってくれる婦人の声は、少しかすれていた。


 冴子が部屋に戻ると、妖子は海の底に沈んだ深海魚ように眠っていた。

あらゆる酸素を取り込もうと貪欲に空気をむさぼるように、大きな呼吸を

繰り返している。先ほどの不在が嘘だったかのように。

 ロビーにいたあの婦人は、還暦を少し過ぎた年頃なのかもしれない。白

いものが混じった髪を後ろに小さくまとめた髪型が、和服姿を引き立てて

いた。もえぎ色の黄八丈に、藍色の帯、白い貝殻の帯留めが、鮮やかだっ

た。そしてどことなく、スズランの香りがした。

 香水の匂いなのだろう。ガンで余命幾ばくもないという婦人のフローラ

ルな香りの演出が、冴子には魅惑的で、強く心に残った。


 <ディオリッシモ>


 M・Y女史は五十二歳の若さにして、胃ガンでこの世を去ってしまった。

十四年間という凝縮された作家生活で、すべてのエネルギーを使い切って

しまったかのように。年齢が一回り上の憧れの女性は亡くなっても、彼女

の作品は永久に残り、冴子にとってその価値は変わらない。

 M・Yの恋愛小説には、香水もまた電話と同様、重要なアイテムだった。

その中でも頻繁に登場するこだわりの香りが、クリスチャン・ディオール

社の逸品、ディオリッシモである。

 ディオールが子供の頃住んでいた家の庭には、スズランが群生していた。

その香りこそ、ディオールのお洒落心の原点だった。大人になり、ファッ

ション業界で仕事を始めたディオールが香水を発表することになったとき、

迷わず選んだ素材はスズラン。野草ゆえの生命力に満ち、人の心に安心感

とくつろぎを与えてくれるスズランの香りは、世界中のお洒落なマドモア

ゼルの心を虜にした。ファッションショーではいつも、モデルのスカート

の裏側にスズラン一輪を貼り付けていたというディオール。彼にとって、

ショーの成功を願う重要なお守りだったのだろう。そんな伝説も語り継が

れる香水の最高傑作が、ディオリッシモなのである。


 <再会>


 冴子と妖子が、なかなか会えなくなって久しい。

離婚し再婚した妖子が、新しい夫と恋の逃避行のように遠い他府県に移り

住んで、十年の歳月が流れていた。その間、もっぱらメールでやり取りし

ていたが、数年前に冴子が妖子の新天地を一度訪れて以来、会うことはな

く、気がつけば二人はもう、還暦を過ぎていた。

 妖子から連絡があり、十年ぶりに故郷に帰ってくるという。ゆっくり海

を眺めながらの船旅をして、初日は寄港地のホテルに一泊し、翌日なつか

しい生まれ育った街で、昔の仲間に会いたいという。


 今夜、妖子を囲んで集まるのは冴子の他に、高校時代から妖子のファン

だった男子が二人。六十を過ぎた彼等もまた、文学少年、哲学少年だった

当時の面影はなく、初老の男になっている。それでもクラスメートが集ま

れば、簡単に高校生に戻れてしまうのが不思議である。

 予約してあったイタリアンレストランに少し遅れて入ってきた妖子に、

全員息を呑んだ。かつてのイメージとは別人のようである。ともに生きる

パートナーによって、こうも女性は変わるのだろうか。

 妖子は和服姿で現れた。

「妖子、自分で着物が着られるの?」

「昔、着付け教室に通っていたの。その頃、着物をいろいろ買わされた。

それをタンスの肥やしにしておくのはもったいないでしょ。だからせっせ

と着ることにしたの」

「妖子さん、よく似合ってるよ」

と、男達も久しぶりの妖子との再会に、嬉しさを隠せない。

 乾杯の前に、妖子が近況を話した。

「現在、ちょっと体調を崩していてね。もうだいぶ前から声がこんなふう

にかすれてるの。でもお医者さんが、お酒はいいよって。血行がよくなっ

て食欲が増すから、適度にお楽しみなさいって」

「じゃあ、ワインで乾杯しよう!」

 ワイン通の男達が、じっくりメニュー表から選んだ白ワインが、グラス

に注がれる。思い出話に花が咲き、三時間の晩餐が瞬く間に過ぎた。

 タクシー乗り場で別れるとき、妖子のほうから男達に手を差し出した。

それぞれに固い握手を交わす。感極まった一人は思わず彼女を抱き寄せ、

長いハグをした。まるで今生の別れのように。

 

 冴子はホテルまで、妖子を送っていった。

「元気で、また会おうね」と、冴子が窓を開けて手を振ると、

「そうだね。元気で、また会おうね」と、妖子は笑顔で答えたが、その声

はくぐもり、涙ぐんでいるようだった。

 妖子の夫がホテルの玄関口で、その光景を見ていた。妻を迎えに出てい

た彼はタクシーに近寄ってきて、冴子に言った。

「冴子さん、あなたのことは妖子からいつも聞いてます。これからも妖子

をよろしく。ぜひ今度、僕たちの家に泊まりにきてください」

 そう言い残して、妖子を庇護するようにそっと肩に手を回し、二人はホ

テルに消えていった。その後ろ姿は、幸福そのものだった。


 スズランの香りが漂う。和服姿の妖子が、今夜つけていた香水だろう。

冴子はそのとき、すべてを理解した。その匂いはディオリッシモ。

 若かりし頃からずっと憧れてきた女流作家M・Y。彼女の影響でお洒落

の仕上げは、いつもディオリッシモをさりげなく噴霧する。妖子も冴子と

同じだったに違いない。そして、あの「原いずみ」に会えた夜、船室のよ

うなドーム型のホテルで会った和服姿の婦人は、ディオリッシモの香りを

身につけて二十四歳の冴子の前に現れた還暦の妖子だったのだ。六十代に

なったある日、同じホテルに最愛の夫と泊まったその夜、妖子は過去にタ

イムスリップして、若い冴子に話しかけてきたのだ。あの夜、ベッドの妖

子は空白の失踪をしていた。

 ひとつの言葉が、記憶の底から蘇ってくる。

「私がまだ独身だった頃、親友とこのホテルに一泊したことがあるの」

その親友こそ、婦人の目の前にいたその日の冴子だった。

 だとすると、妖子は今、確実に危機迫る現実にいるはずだ。 

「私はね、元気そうに見えて、もう長くないのよ。ガン細胞が確実に私の

体をむしばんでいて、この世を去る日が近づいているの」

 どうしたら、妖子を救うことができるのだろう。


 <高校>


 お盆も近い蒸し暑い日、冴子は買い物ついでに母校の高校にいってみた。

卒業してから四十数年経った現在、すっかり学校のあった地区は様変わり

している。橋は立派になり、国道沿いには大型店舗が建ち並び、住宅街も

モダンな家並みやマンションが目につく。

 車を徐行させながら、記憶を辿っていくつか小路を曲がり、校舎を探す。

なつかしい満腹食堂が見えてくる。放課後、よくあそこでおしゃべりしな

がら、今川焼きを食べたっけ。箸が転んでもおかしい年頃。

 心なしか異臭がしてくる。養豚場のような臭いが耐えがたい。とすると、

もう校舎は近い。私たちのクラスの教室は、農家の豚小屋と隣接していた。

いつも異臭の中で机を並べ、授業を受けていたのだ。


 冴子は農家の脇に車を止め、教室の窓辺に近づいてみる。休み時間なの

か、生徒達がグループになって楽しそうな笑い声を上げている。おかっぱ

頭の小柄な女子が机に頬杖をついて、目の前の級友と話している。

 すると突然、その少女が、冴子のほうに視線を走らせた。ばっちり目が

合ったその顔は、黒縁メガネの十五歳の妖子だった。こちらに向かって、

手を振っている。あどけなさと早熟さが混在した不思議な存在感。妖子が

級友の耳元に何かささやくと、その子もこちらを振り向いた。

 セーラー服を着た、十五歳の冴子自身だった。高校生の自分が、還暦を

過ぎた自分に笑いかけてくる。


 どこからともなく、スズランの香りがした。ハンドルを握る手が震えて、

冴子の目が涙で霞む。 ~妖子が今、お別れにきているのだ~

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フレグランス 丹之珠良(ニノジュラ) @juragarden1618

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