未来へ

唯月湊

ひと夏の、白昼夢

 ひと夏の、白昼夢。振り返るならそう答えても良いような、木漏れ日輝く夏のひと時。

 これは、都筑優香がその憧れの制服を着続けることを決意するまでの、小さな話。


*****


 ようやく退屈な一日の終わりの鐘が鳴る。高等部二年、都筑優香は教師が出て行くのを尻目に、鞄へ教科書や筆記具を無造作にしまい込み、ざわつく教室を後にする。

 周りの人々は皆開放感に溢れ部活や家路につくのだが、優香は相変わらずそっとそれらに目を伏せる。伸ばし始めた黒髪がその顔を隠した。


 くだらないと思っているわけではない。ただ、どうあがいても彼らと自分は「世界が違う」と思わずにはいられなかった。

 選民思想であればまだ良かった。優香が今抱くのは劣等感と失意でしかなく、聞きたくないものを聞かないため、見たくないものを見ないために、足早に廊下を歩む。


 人というのは、優香にとって不可解な生き物だった。それは、何もクラスメイトや教師、親だけでなく、自分であってもそうだった。

 歌となれば美しく響く楽器となるのに、どうして話し声はこんなにも耳障りなのだろう。

 人との会話はキャッチボールと言われるが、優香はそれがことさら苦手だった。

 ことに女子というものは、暗黙の了解とか「私とあなただけの秘密」とか、そういうものが好きな生き物だった。周りの目を気にして、何か思うことがあれば気の合う人間とそっと目配せをして、そうしてこっそり笑い合う。ちゃんと意味が汲み取れたら正解。このまま仲の良いお友達が続けられる。気分によって移り変わるその曖昧な合図について行けないなら、影でこそこそお話が始まって、そのうち気づけば周りに誰もいなくなる。

 その関係は、優香からしてみたらひどく窮屈であったし、意味も理解が出来なかった。

 それに比べて、音楽には正しさがない。

 聞くものの心の感じ方そして在り方が、そのまま音となって紡がれる。それは時として言葉よりも雄弁に思えた。無理に合わせることのない、着飾らない音。それが優香は好きだった。

 そんなことを、口に出していったことはさすがになかったが、敏感な女子学生達からはすぐに「少しズレた子」認定をされた。グループの中心にいる子からそういう認定をされると、もはや修復は困難だ。それで特別困ることもなかったから、優香は人の輪に入ることも少なくなっていた。そもそも、仲良しグループを作るためにここへ通っているわけではないのである。それがただの負け惜しみなのかは、当の本人には判断がつかないこと。


 そうしてなんの変哲もない一日が終わり、教室を出たそのときに。

 旋律うたが聞こえた。かき消されてしまいそうなかすかなそれは人の声。けれど、優香の意識を奪うには十分すぎた。

 それは、彼女にとってありえないことだったから。

 校則よりも少し短いプリーツスカートをひるがえして、脇目も振らずに廊下を駆け下り校舎を出る。郊外にある私立らしく、無駄に広いこの校舎が今は恨めしい。

 声を追ってたどり着いたのは、人の寄り付かない裏庭の大樹の傍。

 伸びやかなソプラノが響く。

 それは異国の歌だった。日本語でも英語でもなく、優香も初めて聞く歌。オペラのような、賛美歌のような、透明な歌声。

 まとう学校指定の白いシャツから覗く首筋は、抜けるような白。

 声をかけることが出来なかった。その声は近づいた今でもひどく美しく、優香の意識をさらうには十分すぎた。

 そのうち、優香に気づいたのか、一曲歌い終えたからなのか。彼がその口を閉ざす。

 どこか緩慢な動きで、その色素の薄い茶の瞳で彼は優香を見た。目が合えば、どこか驚いたように瞬きをした。

 そして、息を呑むほどに美しいその少年は、綺麗に笑ったのだった。


 彼は小清水亮太と名乗った。優香と同じ高等部二年。

 この学校では、入学とともに本人の希望進路と専攻に沿ってクラス分けが行われる。一般教養としての五教科は当然あるが、他専攻の人間とはなかなか対面しない。覚えていないのも無理は無い話だった。

 加えて言うなら、優香がほぼ周囲の学生と積極的に関わりをもつことがなかったことも、理由の一つではあろうが。

 優香のいるこの学科は、音楽大学附属高校、音楽科。近い将来音楽の道に進むことを願い、その道を勝ち得た、選ばれた人間だけが歩むことのできるその学び舎。

 彼の胸元にはネクタイが無かった。この高等部には音楽科の他に普通科もあり、違いは制服のネクタイとリボンの色だった。

 普通科は臙脂、音楽科は藍。けれど、彼はどちらも身に着けてはいなかった。

 ただ、こんな声の持ち主が普通科であろうはずもない。

「好きなのね。歌」

「好きじゃないなら、こんなところにはいないよ」

 優香はあまり声楽は好きになれなかった。お世辞にも声域は広い方ではなかったし、声量があるわけでもない。

 言うなれば、彼のように人を魅せる力はなかった。

「きみは? 何が好きで、ここにいるの?」

 この学校にいる学生は皆、愛するものを追いかけてやってきたものたちばかりだ。優香もまた例外ではなかった。

 ただそれも過去の話。彼の問いに、優香は少し口ごもる。じくじくと、心の傷が痛む。

「フルート」

 幼いころ、両親に連れて行かれたオーケストラのコンサート。メインはモーツァルトのフルート協奏曲。

 協奏曲とは、一人のソリストとオーケストラの共演形式の楽曲だ。競い合うように、そして互いを彩るように演奏で華を添える。

 客席から見て指揮者の左隣に立つ、青いロングドレスに銀のフルートが映える女性。彼女のたおやかな指によって紡がれる音楽は、幼い優香に憧憬を抱かせるには十分で。

 家に帰る電車の中で両親に「フルートがやりたい」とねだりにねだった。すでにこの頃、優香はピアノを習っていた。定番の習い事のひとつでもあった。

 結局、三日に及ぶ優香の頼み込みで両親が根負けする形となった。これだけ優香が熱心にものを頼んだことはなく、自分でやりたいといったことなのだから、それならば最後までやりきりなさい、と軽い釘を刺される形でピアノを辞め、フルートを習い始めた。

 フルートとはその頃からの付き合いだった。


 なるほど、と亮太は聞きたいことも聞けて気が済んだらしい。ただ、首を傾げる。今日の彼女の持ち物に、愛するフルートがないことに気づいたのだろう。もう、久しく触れていない。彼女にとってはつい先日からだが、この世界の時間にしてみれば数ヶ月も前からずっと。

 楽器とは、一日触らなければ技術は三日後退する、と言われる。まともに一日授業を受けられるようになったのがつい最近の優香にとって、もはやどれだけの損失か。

 けれど彼にそれを告げる必要はなく、彼も問うことはせず。二の句を継いだのは彼だった。

「また、会えるかな」

「――――変な人ね。同じ学校の学生でしょ。嫌でも顔を合わせるわ」

 くるりと踵を返す。僕はもう少し歌って帰るよ、と亮太は優香を見送った。振り返ることなく彼の歌を聞きながら、優香は家路へとついた。いざなわれるような美しい歌声は、ずっと耳の奥に残っていた。


*****


 何も変わらぬ朝に、ほんの少しの落胆をして。高校指定の制服に袖を通し、最後に身につけるのは藍色のリボン。鏡の中の自分は相変わらずの仏頂面で、この世界のなにものも全てが気に入らないというような、可哀想な目をしていた。

 登校中、昨日のことを思い出す。

 優香が学校の門をくぐったのは、運動部が朝練をまだ行っているくらいの時間。人に会わないようにと選んだ時間だが、完全には無理な話でもある。

 優香へ声をかけるクラスメイトの言葉もどこかよそよそしい。これまでの優香の行いが引き起こした結果だとは思っていたし、きっと逆の立場なら、優香も同じことをしていたと思う。

 教室に荷物を置いて、足を向けた先は彼が歌っていたあの木陰。今日は歌も聞こえず姿もない。ともすれば夢であったかのような、そんな出会いだった。

「――随分怖い顔をしているね」

 直ぐ側から聞こえた、伸びやかな人の声。はじかれるようにそちらを見れば、そこに立つのは昨日出会った小清水亮太。相変わらずの柔和な笑みでこちらへ手を振っていた。少し逡巡したものの、彼の元へ歩み寄る。

 おはよう、と柔和に笑う彼の仕草に、初夏の暑さは微塵も見えない。さほど家が離れているわけでもない優香も、少し額に汗が滲む程度だと言うのに。

「早いんだね」

「あなたもね」

 そのまま教室へ向かうのも気乗りはせず手持ち無沙汰な時間ではあった。だからこそ「少し話さない?」などという、どことなく陳腐さすら感じられる誘いに乗った。

 ひとけのない中庭。設置してあるベンチに座り、優香が取り出したのは外国語の参考書。優香がいる学科では、高校でありながら第二外国語を選択する必要があった。優香が選んだのはドイツ語。今日予習しておかないといけないものはこれだけだった。そのノートを亮太が覗き込む。

「少し長く、休んでいたから。空いている時間に見ておかないといけないの」

 皆の履修範囲まで追いついたのは最近だ。なるほど、と亮太は教科書とノートを眺めている。

「白鳥を気取るのかい?」

「……邪魔をするならいなくなってくれないかしら」

 人前では優雅に振る舞い、その実見えぬところで努力することでよく例えられる白鳥。そんなきれいなものではないし、彼の言い方はどこか優香を馬鹿にするように聞こえた。じろりと非難がましい目を向ければ、少し驚いたように、そして苦笑して手を合わせた。

「ごめんごめん。そんなつもりは無いんだよ。僕としては褒め言葉だ」

 どうかしら、と柔らかくともめつける優香の眼光は変わらない。

 僕は優香のような取り組み方を、美しいと思うから。

 そんなことを彼は言った。

 何にも臆せず正面切って、人のことを「美しい」などと言う人間に優香は初めて出会った。


*****


 今日一日の授業はすべて終わり、帰る許可はもらっていたが、優香の両親は共働き。今家に帰ったところで家には誰も居ないだろう。荷物を片付けながら、どうしようか、ととりとめなく思案していた頃だった。

「珍しいね。きみが遅くまで残っているなんて」

 相変わらずの伸びやかなソプラノで、彼は問う。視線を向けた先――教室の入口には小清水亮太が立っている。ふい、と視線を鞄へ戻した。

「たまにはこんな日もあるわ。帰りたかったのだけれど」

 こんなもののせいで帰れなかった、と取り出すのは一枚の紙。

 進路希望。高校二年ともなれば、将来の進路を決めるために希望調査が行われるのは道理だった。

 ただ、その調査書が書けない。

「将来の夢に近い進路先を書きなさい、なんて。皮肉にもほどがあるわ」

 この進路調査書を配りながら、教師は「将来進みたい場所を書きなさい」と言った。けれど、今の優香にとってそんなものは見えやしない。

「あなたは? 同じ学年と言うなら、配られたでしょ?」

 そんな戯れを口にする。彼がどう答えるのか知りたかった。我ながら、意地が悪い。

 案の定、亮太はどこか困ったような、それでも柔和な笑みを浮かべた。

「僕は、やっぱり歌を歌いたい。そのために僕はこの学校に入ったんだ」

 きみだってそうでしょう、と。彼は起伏に浅い声で問う。

「……えぇそうよ。この学校この学科にいるからには、何か自分の才能を信じて、努力して、夢を叶えたいと思っているに決まってる」

 そうでなくては、許されない。そうでなければ、きっとこの場にもいられなかっただろう。

 音楽科は普通科と違い、その学科の特殊性故に将来の道が大きく狭められる。そしてこの高校で学んだからといって、大学へそのまま進めるわけでもなく、単に普通科の学生より少し受験に有利というだけ。音楽大学への入学切符は自身の手で掴み取らねばならない。狭き門だ。本当に音楽の道でやっていける人間はそう多くない。

 それでも、優香は自分の意志でこの学校へ入学することを選んだ。親からは遠回しに反対されもしたが、自分の才能にかけた。

 ここが、自分の戦う場所だ。

 そして、きっとこの学科に通う皆が、程度こそ違えど同じ志を持ってやってきたのだと、優香は思っている。その口ぶりから、きっと亮太も同じことを考えているのだとは知れた。人当たり柔らかな、一見すると人への敵意など抱きそうもない彼が音楽を語るときの静かな熱情は、どこか自分と近いものがあるようで、話していても心地よかった。

 希望調査の用紙をしまい込む。優香は部活には入っていなかった。このまままっすぐに帰るだけだ。あなたはどうするの、といささか慣れ始めた言葉を向ければ、亮太は「実は先生に呼ばれている」とバツの悪い笑みを見せた。

 何を馬鹿なことを、と口から飛び出しそうになった。そんな筈はない。けれど、何故かそれを彼に告げることができなかった。

 この拙い「ままごと」を、優香は無意識に続けたいと思っていた。ここにはなんの意味もなくて、彼との時間は、言うなれば現実逃避と同じものなのに。

 結局「声楽の小森先生、待たせるとうるさいのじゃなくて?」などと、彼の嘘に付き合う形で答えていた。そうだね、と亮太は笑うと、そのまま別れの挨拶をして教室から去った。

 優香は、しばらく彼の消えたそこを見つめ、ひとつ嘆息して家路についた。


*****


 亮太とは様々な話をした。それは大半が音楽のことに偏っていたけれど、教室の人間よりはよほど話が噛み合った。

 ただそれは、ひどく停滞した時間でしかなかった。学生という猶予の時間。高校生という成熟過程の、希望と不安のないまぜになった期間。

 ずっと続くことがないのは、優香も分かっていた。出さなければならない答えはすぐそこに迫っていて、今こうして亮太と話をしているその時間も、ただの現実からの逃避。


「ねぇ、都筑さん」

 彼がそう、優香の名を呼んだのは初めてのことだった。出会ったときと同じ、木漏れ日の下。

 彼が言葉を発するごとに、空気が少しずつ、冷えていくように思えた。

「そろそろ、決まったの?」

 いつの間に取り出したのか、その手にあるのは進路調査用紙。まだ優香が決め兼ねているそれ。

「どうして、あなたがそれを気にするの」

「?」

 優香の問いかけに、亮太は不思議そうな目を向ける。

「だって。君は逃げているから」

 ひどくあっけない声色だった。至極当然といったように、亮太は簡単な真実を紡いでいく。

「まだここに立っているなら、そろそろ一歩踏み出すべきなんじゃないかな」

 その言い方が、癪に障った。

「よりにもよって、あなたがそれを言うの」

 彼は何も気づかぬように優香の前に立っていた。彼が言った言葉が、真に優香を思っていたのはわかりきった話だった。

 けれど、その時の優香に気付く余裕はなかった。あまりにも、浅はかだった。

「どうして?」

 彼はそう静かに問う。彼の態度は変わらなかった。あまりにも、変わらなすぎた。

「……あなた、気付いているんでしょう?」

 そう問えば、彼はどこか曖昧に微笑んだ。バレていなければ、このまま何も言わずにいようとするような。どこか悪戯心すら見えそうな笑みは、逆に優香を傷つけた。

 気付かず虚構に甘えられたなら、どれだけ良かったことだろう。

 手が止まる。それでも、優香は髪をかきあげた。

 ずっと隠し続けてきた耳には、補聴器。彼女が「現実世界の」音を聞くためのもの。

「もう、この世にはいないくせに」

 曖昧に笑う亮太を見据えて、優香はどこかゆっくりと。この安寧の時間に終わりを告げる。

「私は、生きている人の声は電子音にしか聞こえない。生々しく生きている声に聞こえるあなたは、もう死んでいるのよ」


 優香は二ヶ月前に事故にあった。相手はアクセルとブレーキを踏み間違えた自動車で、面白いように優香の身体は宙を舞った。

 悪いところを打ったらしく、優香の意識は一ヶ月も戻らなかったらしい。らしいというのも、車が自分の方をめがけて飛び込んできて、瞬間的な痛みを覚えたかと思えば、彼女の意識はかなたに吹き飛んでいたのだ。


 目が覚めて、はじめに覚えたのは違和感。

 あまりにも、世界が静か過ぎたのだ。


 身体を起こす際の衣擦れ、笑い合うような鳥のさえずり、風に揺れる木々のざわめき。何を意識するわけでもなく聞こえていたあの音たちが一切しない。

 静寂すぎて、耳が痛い。そして同時に恐怖を覚えた。

 彼女にとって、音に囲まれた世界は何より大事なものだった。

 半ば恐慌状態に陥りかけた彼女の肩がいきなり掴まれる。心臓が口から飛び出すかというほどに驚き身体が跳ねた。人が入ってきた気配も察することが出来なかった。

 何か喋っているのは口の動きで分かったが、何も音は聞こえない。白衣を着ているから医者だというくらいしか優香には分からなかった。

 その素振りで、優香が何も聞こえていないことはわかったらしい。そのまま医者や看護師に囲まれ機械にかけられ、目が覚めたことを喜んでいるらしい両親と共に、検査結果を待った。

 程なくして出た結果は、ある種あっけないものだった。

 事故の後遺症で、彼女の聴力はひどく衰えてしまったのだという。かなり強い補聴器をつければ、音も聞こえるようになると言われた。

 けれど、それはすべて補聴器を通すことになった。音の高低は分かれども、声音の違いはほぼ分からない、無機質で硬質的な、味気もなにもない電子音。


 かつて、優香は綺麗なものしか聞きたくないと耳をふさいだ。人の声はその裏側に何があるのか分からなくて、恐怖心の裏返しで嫌悪した。

 その顛末が、これだ。二度と人の声は聞こえない。周りに溢れる音は無個性なオト。


 けれど、その日の夜のことだった。寝つけずベッドから抜け出して、夜風にでも当たろうかと屋上へと上がった優香の耳に、人の声が飛び込んできた。

 何も聞こえぬと言われた矢先の出来事で混乱すれども意識はそちらへと奪われ、声のする方を見た。

 そこには優香と同じ入院着を着た二十代後半ほどの女性がいた。目が合えば、ひどく驚いたようにこちらを見ていた。そしてふと視線を外したその瞬間に、彼女の姿は掻き消えていた。

 屋上にいたその女性が、数日前に命を落とした入院患者であったのを知ったのは程なくしてのこと。


 はじめは、意味もわからなかった。声が聞こえる人と聞こえない人の差は何なのか。けれど、次第に否応なしに理解させられた。

 この身体と命は現世へ無事に生き返ったが、耳だけは死者の国においてきてしまった。自分は、死者の世界の音を聞いている、と。


*****


 できることなら、夢を見ていたかった。

 けれど、理解してしまえば尋ねずにはいられない。

 優香は再度、言葉を重ねた。

「なんで、こんなところにいるの」

 未練があるからだというのは分かっている。かつて優香が見てきたいずれの者達も、その胸の内に未練を抱き、無念を抱え、生きていたかったと嘆きながら、時に世を呪いながら、その場から消え失せて行ったのだった。

「僕も、きみとおなじところにいたんだよ」

 その言葉は突然すぎて、優香も一瞬意味がわからなかった。すっと彼が指し示すのは、優香の制服のリボン。

 彼がこちらへ見せる右手には、藍色のネクタイが握られていた。

 藍色のリボンとネクタイは、音楽科の象徴。音と戯れ学を追い、芸術の中に身を置く学徒の証。

 彼の歌声を思い出す。ひどく美しいソプラノ。その事実通り、彼は「この世のものではなかった」わけだが、そうなったきっかけは――――。


 ソプラニスタ。男性でありながら、女性ソプラノと同じ発声音域を持つ存在。かつて少年期の高音域を保つため変声前に去勢するカストラートや、裏声ファルセットを用いソプラノ音域を出すカウンターテナーとも違う、言うなれば地声のまま声楽の最高音域を出せる者達をいう。世界的にもかなり稀な、「音楽の神ミューズに愛された」者。それが、ソプラニスタ。

 けれど、神は彼を見捨てたもうた。

 難しい病名なんて、忘れてしまったのだけど。亮太はそうどこかバツが悪いように笑った。

 治療の難しい病だったという。彼の命と同じ価値を持つその声帯に棲みついた病魔は、彼の生命そのものを脅かすようになっていった。

 けれどそれでも幸いだったのは、まだ見つかったのが早期だったということ。今ならばまだ、手術をすれば治ると言われた。

 ただ、歌はもう歌えなくなるだろう、とも。

 今の科学技術は素晴らしい。たとえ声帯を取り去ったとて、喉に機械さえ取り付けたならその微弱な震えを受け取って、電子の声に変えて外へ出してくれるような時代になった。

 命あってのなんとやら。たしかにその歌声は惜しい。けれど、死んでしまっては意味がない。そう口々に、彼の周りの人々は言った。

 けれど、小清水亮太という人間にとってそれは全く意味をなさない救済だった。彼はただ、歌とともに生きて、音楽の中で死にたかっただけだった。


 ぎりぎりまで、ずっと嫌だと言い続けてたんだ、と。亮太は自嘲する。それでも、たかが高校二年の子どもの言うことだ。最後の最後で手術は決行され、無事に成功してしまった。彼は声を代償として、その命をいびつに繋ぎ止めた。


 命をとりとめた亮太の周りには、あまりにも音が溢れすぎていた。

 自分の声を奪うと言うなら、一緒に音ごと奪ってくれたら良かったのにと神を呪った。

 そうして、彼はこの樹の下でその首を吊った。


「僕がきみにこんなことを言う理由は、分かっているものだと思ったけれど」

 亮太は、そんなことを簡単に言いのけた。

 僕のようにはならないように。そう彼は優香に祈った。だからこそ、優香に言葉を尽くしたのだと。


 勝手だと思った。あまりにも身勝手だと。


「あなたに……よりにもよって、あなたにそんなことは言われたくない。こっちがどんな気持ちでここにいるのか、あなたには分かるでしょう?」

 音楽の道は諦めるよりないと言われた。事情が事情だ。今からでも、普通科への編入は取り計らうという。

 この音楽科で音楽の夢を諦め未来を捨てて、背を向け去っていく人間は少なくない。受け皿は学校側も用意している。

 こうして自分たちはどんどんふるいにかけられていく。

 けれど自分は、自分だけは、決してそこから振り落とされまいと。人を蹴落としてでも前へ、その先の未来へ、いつかは憧れたあの舞台へと、それだけを思って生きてきた。たかが高校生と言われようと、その願いだけはなんとしてでも叶えると、そのためにここまで走ってきたのだ。

 この思いを、狂おしいほどの熱情を、彼なら分かってくれると思っていた。生まれながらにして才能を持ち得ながら、病魔に奪われ自ら死したという、彼ならば。

 どこか、祈りを込めて見つめた先の彼はただ、静かに首を横に振った。

「分からない。きみに、僕のことがわからないように。僕にはきみが分からない」

 その静かな眼光が、痛い。


 僕に迷いはなかったよ。彼はそう続けた。

 その白い首筋に、出会ってから一度も見えたことのない痣が浮かぶ。

 彼がここで自分の命を刈り取ったのは、退院した翌日だったという。

「ただ、おかげでね。僕にはこうして声が戻ってきた」

 息を呑んだ。

 彼が、それを喜んでいるように思えたから。そして、自分が同じ状況だったとしたなら、果たして耐えられるだろうかと。

 その疑問が、優香に言葉を紡がせる。

「けれど、あなたの声を聞く人間はもういない」

 そうだね、と自嘲的に彼は笑った。

「――こうなるまで、僕は間違いに気づかなかった」

 歌うことが好きだった。奏でることが好きだった。

 けれど、それは「聞き手」がいるからこそ。


 誰にも聞かれぬオトなど、何の価値もない。


「ずっと、考えてたんだ。僕は一体、どうしてここに残されたのか」

 死んだその時の服ではなく、自分の思い入れの強かった音楽科の制服になりかわって、無念と失意を抱いたまま彼はこの地に縛られた。

 きっとこれは罰だと思ったと、彼は言う。

 生命いのちして進みたかった道はあっけなく途切れてしまって、自分はそこで終わってしまったけれど。

「今でも、悩んでいるのなら。悩めるほどに強いのなら、きみはきっと生きていける」

 僕は悩みを抱えて生きられるほど、強くはなかった。きみが羨ましい、と、彼は続けた。


 どうにもならないならば死ぬ気だったんでしょう、と彼に笑われ、優香はそのままそっと視線をそらす。僕たちはそっくりだ、と。

「死ぬことなんていつでも出来るからね」

「死んだ人間から言われたくないわ」

「死んだ人間だから言うんだよ」

 信憑性があるだろう? そんなことを、綺麗なソプラノを響かせて、どこかいたずらめいてすら聞こえる声音で、彼は言うのだ。

 日が落ち始めていた。下校時刻のチャイムが鳴る。

 強い風が吹き、なびく髪を優香は片手でおさえた。

 一瞬視界が遮られ、再び前を見たその時。彼の姿は綺麗に消え失せていた。何一つ痕跡を残すことなく。まるで、長い永い夢を見せられていたような。

 けれど、彼の歌は、声はまだ耳に残っている。

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未来へ 唯月湊 @yidksk

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