第5話 異世界歴・天正八年 夏 ー川中島 ー2
「う……」
額が腫れあがっている。どうやらたんこぶになっているようだ。
額に触れると濡れた手拭いが乗せられていて、信厳はそれで顔を拭きながら、もそもそと起き上がった。
「何だかおっさん臭いねぇ」
苦笑が聞こえて、信厳が振り向くと、剣神が片膝を立てて座っている。
敵の前で呑気に気絶していた事が気恥ずかしく、信厳は口を尖らせて文句を言った。
「おっさんと言う奴がおっさんなんですぅー」
「どうでもいいが、その手拭いで脇まで拭くなよ。私の手拭いにお前の加齢臭が付くからさ」
「うるさい! ワシの華麗なる加齢臭をくらいやがれ!」
「!?? やめろォおっさん!!」
ごしごしと身体を拭き出した信厳に、剣神が頭を抱えて悲鳴を上げる。
手拭いを毟り取って、こころなしか涙目の剣神がすんすんと手拭いに鼻をつけた。
「うちの可愛い侍女衆が、丹精込めて縫ってくれたものなのに……」
「侍女衆お手製がなんぼのモンじゃい。お前さぁ、ワシよりちょーっと美男子で髪があるからって、モテるのをひけらかし過ぎじゃね?」
「こんなに至近距離に居て……お前の目は節穴かい?」
「え? まさかそれ、鬘なの??」
髪を一房摘まんでしげしげと見つめている信厳を、剣神は呆れ顔で見返した。
『上森剣神』は男だ。
ずっと男の装いをしてきて、今まで美男子だと言われた事も数知れない。
しかしこんなに近くで膝を突き合わせているというのに、女と気付かないとはどういう事か。こう言っては何だが、胸に晒も巻いていないのだぞ。何だかむちゃくちゃ腹立たしい。
だが。
寂しくなりかけた頭頂部を、髪を逆立て誤魔化している信厳を見遣り、剣神は吐息をついた。
命の遣り取りをしている宿敵が、まさか女だとは思うまい。
だいたいこのすちゃらかな男が気付かないからといって何だというのだ。悔しくなんかない。く、悔しくなんか……!
いや、もういい、馬鹿々々しい。そろそろこいつを引っ立てて戦場に戻ろう。
立ち上がりかけた剣神の髪が、つんと引っ張られた。
「まだ掴んでいたのか。いい加減に離してくれ」
じろりと見下ろすと、無駄に瞳をきらきらさせた信厳が、掴んでいた髪に鼻を近づけふんふんと嗅ぎ始める。嫌な予感に剣神が眉を顰めたその瞬間。
「よく見ればお前……男のわりに綺麗な顔をしているな……」
おひげの跡がないせいかな、そう言って、ちゅっと髪に口づけまでかましてきた。
「山を降りれば、またワシとお前は宿敵同士。禁じられた関係じゃ。だが今なら……ワシらを邪魔するものは何もない……」
存在を無視された炎虎と神龍が、困惑した目で信厳を見つめている。
剣神も困惑して、何やら浸った演技をしている宿敵を見返した。
何いっていんだこいつ。
そういえば。
改めて信厳にまつわる忌まわしい『噂』を思い出し、剣神はびしりと硬直した。
『甲斐の武隈信厳』といえば、美しければ男でも女でもイケる、ともっぱらの噂ではないか。頭髪の寂しさは、その無節操さ故だとも。
衆道など珍しくもない時代だが、『男』に宛てた恋文が大々的に晒された大名はそう多くない。
いやちょっと待て。まさかまだ私を『男』だと思ってソノ気になっているのか?
それはそれでこちらの自尊心が傷付くではないか。女の装いをしていた少女期は、美少女と名高かったんだぞ。
許せん。
向き直った剣神は、信厳の薄くなりかけた頭頂部を引っ掴んだ。
「いやあやめて!!」
悲鳴を上げる信厳を睨みつけ、にやりと嗤う。
「宿敵相手に節操がないね、信厳。だが仕掛けられたからには仕方が無い。三回戦目といこうか」
*************** ***************
「ワシ……こんなのはじめて……ッ」
両手で顔を覆い、しくしく泣いている信厳を、剣神は呆れて見返した。
「自分から仕掛けておいて。嫌ならやめれば良かったじゃないか」
「そうじゃないのッ! 女だなんて思わなかったんじゃ!」
何で衆道じゃなかったと嘆いているんだ、普通は逆だろう。そうツッコミたかった剣神だったが、こちらとしても勢いだけで突っ走った自覚はある。
むかついたからといって、本当に馬鹿な事をしたものだ。
立ち上がりかけた剣神の腕が掴まれ、剣神はきっと振り返って信厳を睨みつけた。
「いい加減にしろ。こんな茶番はもう仕舞いだ。戦場に戻るぞ」
「家督を譲って、甲斐に来る気はないか? 剣神」
「はあ? 巫山戯るな」
力いっぱい振り解こうとした腕を逆に引かれ、よろけて転んだ剣神の身体が信厳に抱き止められる。
「ぎゃあ! おっさん臭い!!」
「ちょっと、ふざけてないでちゃんと聞いて!」
暴れる猫のような剣神を抱き締め、信厳は逃げられないようにと更に力を込めた。
「痛い痛い! ちょ……ぐええ!!」
ほっそりとした剣神の身体がばきばきと音をたて、信厳は慌てて腕の力を弛めた。
*************** ***************
「……家督を譲って、甲斐に来る気はないか? 剣神」
「だから巫山戯るなとぎゃあああ!!」
ぎゅうぎゅう抱き締められ、剣神は悲鳴を上げた。再びあちこちの関節がばきばきと音を立てる。
駄目だこいつ。何かの役者気取りか。
自分に都合の良い展開以外は認めない、みたいな空気をばんばんに出している。
締め技を食らいまくってぐったりと信厳に凭れかかっている剣神も、信厳の中では都合よく解釈されているのだろう。
溜め息をついて、剣神は台詞を変える事にした。
「……私の後継者はまだ齢十一だ。とてもじゃないけどそんな事は出来ないよ」
「そっかぁ……」
そっかぁ……じゃないよ、内心でツッコミながらも剣神は、少しだけ感心して信厳を見上げた。
一応は責任をとるつもりがあるらしいな、求めている内容が無茶苦茶だが。しかし感心していたのも束の間。
「剣神……」
そっと伸ばされてきた信厳の右掌に『花押』が浮かんでいるのが目に入り、剣神は慌てて後方転回して難を逃れた。
『花押』は、恋人関係になった女性に刻むものではないか!
「な、何をする気だ!」
「え? 今日の記念に花押を刻もうと」
「冗談じゃない。私は上森剣神だ。お前のものになど なるつもりはないよ」
「ええっ??」
驚いた表情で信厳が見返す。
驚いたのは剣神も同じだったが、驚き過ぎたせいで上手いこと抱き潰される範囲内から逃れる事が出来た。
肩を回しながら立ち上がり、剣神は居丈高に信厳を見下ろす。
『私は男だ。今日の事は絶対に他言するな。そして速攻で忘れろ』
そう脅しつけるつもりで口を開いたが、口をついて出てきた言葉は剣神にとっても予想外だった。
「花押などで、私を手に入れられると思うな。私はね、案外と独占欲が強いんだ。他の女と同じ扱いなど御免だね」
はあ!? いきなり何を口走っているんだ私は!
言うつもりだった台詞と言った台詞の乖離に慌てふためいたが、今更取り消せない。
目をきらきらさせ始めた信厳に『しくじった』と後悔が怒涛のように押し寄せる。しかし今、信厳から目を逸らしたら負けな気もする。
「……」
「…………」
にこにこにやにや見上げてくる信厳とにらめっこを続ける剣神。
やがて。
「冗談に決まっているだろ! バーカ!」
真っ赤になった顔を覆い隠して、剣神が蹲った。
*************** ***************
信厳は笑いながら、分かり易く心を閉ざして体育座りした剣神の隣に座った。
赤子をあやすようにゆっくりと 背中を撫でる。
遠くで小鳥が囀り、ゆっくり ゆっくりと 時間が流れていく。
やがて信厳が 穏やかに口を開いた。
「ワシら、今は無理だけど。いつか子供たちに家督を譲って身軽になったら。ワシらが「信厳」で「剣神」だって、誰も知らないところまで旅をしよう。そしてそこで庵を結んで、戦で死んだ者たちの菩提を弔いながらのんびり暮らす、ってのはどう?」
「……お前、臨済宗だろ。私は真言宗だよ。宗派が違うのにいいのかい?」
「こまかい事はいいの! 大事なのは、妻が無理でもこれならずっと一緒に居られるでしょって事なの!」
ワシの人生を半分あげる。死ぬまでいっしょ。
そう言って屈託なく笑う信厳の声を、剣神は顔を伏せたまま聞いていた。
そして顔を上げないまま、ぽそりと呟く。
「介護要員じゃないか」
「どーしてそういうコト言うの!??」
そこまでジジイになる前に迎えに行くから、お前もワシの許可なく死ぬなよ
嬉しげに笑う信厳に、やっと顔を上げた剣神は にやりと笑って言い返した。
「お前がな」
翌年。
剣神が産んだ娘は、越後山中の尼寺で、人知れず大切に育てられた。
桜姫と名付けられたその娘は、戦国後期の動乱に巻き込まれていく事になる――。
カオス戦国 ZERO ~越後の龍と甲斐の虎・ときどきたぬき~ 白瀬 @kayuri
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