「〈紅炎こうえんの聖女〉が前におどりでただけで、敵の前線が後退する」

 この逸話いつわ虚偽きょぎではないことを、フィオラはみずからの手でバーナーム軍兵士らの心にきざみつけてやっていた。

 剣をふるって左右の敵を蹴散けちらし、花びらのごとくい散る鮮血せんけつの下をフィオラが乗馬をあおって前進する。

 すると、彼女を止めようと立ちはだかったはずのバーナーム兵たちがおずおずとあとずさっていくのだった。バーナーム騎士の動揺を感じとった乗馬があわてふためき、騎手を投げだして逃げだす場面もあった。

 一時はバーナーム軍の猛烈もうれつ波状はじょう突撃におされ、あやうく突破されかけたフィオラ指揮下の中央であったが、今は、左翼から救援にけつけてくれたレイタスたちの加勢でもちなおしている。

 おかげでフィオラは、こまごまとした部隊運用をレイタスにゆだね、自分は存分に戦士としての本懐ほんかいをとげることができていた。右手の剣で敵をせ、左からよってきたバーナーム騎士をりこんで落馬させ、前方に転がりこんできた不注意な敵は容赦ようしゃなく馬蹄ばていにかけて踏み殺す。

 ところが、そんな鬼神きしんのごときフィオラの前進が不意ににぶった。

 一騎当千いっきとうせんの活躍で味方の士気をおおいにふるわせていたフィオラに、突如とつじょとして無視できぬ動揺どうようが走ったのは、視界のすみにローブ姿のバーナーム騎士をとらえたからである。

(・・・・・・メルセリオ?)

 フィオラはほとんど無意識のまま、そのローブ姿のバーナーム騎士へ乗馬をあおっていた。

 相手はフィオラの接近に気づいており、馬首ばしゅをかえして体の正面をこちらにむけ、手のなかの曲刀きょくとうをかまえていた。その腕には鉄の手甲ガントレットが装着されている。

 目深まぶかにおろされたフードが影をつくっていて顔立ちは判然はんぜんとしない。だが、レイタスと同じ〈アズエルの使徒〉だったメルセリオなら、ローブとフード、そして手甲ガントレット馴染なじみのよそおいである。

「メルセリオ・・・・・・」

 その名が、フィオラのくちびるからささやき声となってこぼれ落ちた。すると途端とたんに、胸の奥底おくそこにおしこめて二度とりだすまいとちかった感情が泉のごとくあふれだしてきた。

 なぜ、五年前に姿を消したのか。

 なぜ、今になって姿を現したのか。

 なぜ、エリンデールを殺し、バーナームはくなどにくみしているのか。

 これらの疑問がフィオラの意識を戦場から遠ざけ、近づきつつあるローブ姿のバーナーム騎士にのみ心をそそがせた。

(どうして、わたしをすてたの・・・・・・)

 この核心的かくしんてきな疑問を言葉にかえようとしたその刹那せつな、不意に目の前から強烈な殺意がうちこまれ、フィオラはハッとしてわれにかえった。本能的にむなもとへ引きよせた自分の剣が、ローブ姿のバーナーム騎士からうちこまれた曲刀のさきを受けとめることに成功している。

「なにをするのッ、メルセリオ!」

 戸惑とまどいと抗議をまぜた声が思わず口をつく。が、フィオラはすぐにそれをじた。

 目の前の男はメルセリオなどではなかったのだ。ローブにフード、そして手甲ガントレットは、たしかにフィオラの記憶のなかにあるメルセリオを想起そうきさせる小道具ではあったが、今、目の前で殺意をきだしにしている男は、メルセリオとはても似つかぬ造形ぞうけいの顔をもった、まったくの別人だったのである。

(ちッ。わたしとしたことがッ・・・・・・)

 メルセリオを敵にまわすことを決意したはずなのに、いざ彼の幻影をのあたりにするとその決意が跡形あとかたもなく消し飛んでしまった自分のやわな心に、フィオラは激しい嫌悪けんおを覚えた。と同時に、まぎらわしい格好をして立ちはだかっている目の前の名も知らぬ男に、つあたりと知りながらも憎悪ぞうおをたぎらせる。

 一方の相手は、フィオラが誰であるのかをしっかりと認識しているようだった。

「フィオラ・グランゼス! ここで貴様をしとめれば、メルセリオさまもお喜びくださろう!」

 ふたたびくりだされた相手の突きを、フィオラは軽く上体じょうたいをひねっただけでかわし、すかさず反撃にてんじながらするどうた。

「貴様、メルセリオを知っているのか!」

 フィオラの斬撃ざんげきを左の手甲ガントレットで受け流しつつ、ローブ姿のバーナーム騎士がえる。

「我が名はアドラフ、メルセリオさまの一番弟子よ! 冥土めいど土産みやげに覚えておけ!」

「貴様のことなどきいてはおらぬ!」

 フィオラは、ふりおろされてきたアドラフの曲刀を軽々と受けとめ、受けとめた直後、素早く手首をかえして相手の曲刀をからめとり、それを高々たかだかちゅうはじき飛ばした。

 一瞬の出来事に唖然あぜんとしているアドラフののどもとに、フィオラは剣のさきを突きつけて言い放った。

「メルセリオの一番弟子がきいてあきれる。レイタスなら、こうもやすやすとわたしにやぶれたりはせんぞ」

 この言葉がアドラフの自尊心じそんしんをどれだけ傷つけたか知るよしもないフィオラは、口もとに不敵ふてきな笑みを浮かべつつ言いした。

「殺しはせぬ。捕虜ほりょとして連れ帰り、メルセリオのこと、洗いざらいいてもらう」

 だがこの時、異様いよう喊声かんせいとどよめきがフィオラの右手、すなわちグランゼス軍が張りめぐらしている封鎖線の右翼からドッとわきおこり、フィオラは何事なにごとかと反射的にそちらをふりむいた。

 このすきをアドラフは見逃みのがさなかった。右の手甲ガントレットでフィオラの剣を払いのけると、すかさず馬首をひるがえして逃走する。

「逃げるなッ、卑怯者ひきょうもの!」

 遠ざかるアドラフの背なかに罵声ばせいをあびせかけるフィオラであったが、追いかけることはせず、異変がしょうじたらしい右翼のほうへ視線を投げた。一軍の将としての理性が個人的な事情にまさったのである。

 状況を把握はあくするため、右翼に伝令でんれいを走らせる。その報告がもたらされるまで、フィオラはとりあえず中央で奮戦ふんせんしつづけることにした。右翼の異変は気になるが、今、中央での戦いをおろそかにすればこちらが突破されかねないからだった。

 フィオラはふたたび乗馬をあおり、バーナーム兵たちの間に悲鳴と血煙ちけむりを量産しはじめた。



 右翼の異変はレイタスも察知さっちしていた。何人目かのバーナーム騎士を馬上からり落としたあと、かたわらで戦っているセルネアにむかって叫ぶ。

遠見とおみつつで確認しろ! なにが見える!」

 レイタス自身は馬上で剣をふりつづけ、遠見の筒を右目にあてているセルネアを守った。

「右翼が側面そくめんから攻撃されてる! 相手の数は六〇〇ってとこ!」

「北の森に兵をせていたのかッ・・・・・・くそ!」

 小規模ながらもバーナーム軍はやはり別働隊べつどうたいを用意していたのである。いるように見せかけて実はいなかった、と、思わせて本当はいた。この二重のわなにレイタスたちはまんまとはめられたのだ。

 はめたのは誰か、などと考える必要はない。これほどの詐術さじゅつろうせる人物をレイタスはひとりしか知らないからだ。

「セルネア! おまえはフィオラのもとに行って兵を借りてこい! 五〇〇もあればじゅうぶんだ!」

 そう命じながら馬首ばしゅをめぐらせはじめたレイタスの背に、セルネアの非難ひなんがましい声がかかる。

「あ、ちょっと、ひとりでどこ行く気?」

「先に右翼へむかう! おまえも急げ!」

 ふりかえらずにそう言い残し、レイタスは拍車はくしゃをかけて乗馬をあおった。

 レイタスが右翼に到着すると、副官ルーニ率いる部隊は混乱していた。前面のバーナーム軍騎兵の突撃を必死に食い止めているさなかに、右側面そくめんから敵の伏兵ふくへいによる奇襲を受けたのだから無理もなかった。歩兵が主体のグランゼス軍は、前と横からバーナーム騎兵の馬蹄ばていにかけられ、蹂躙じゅうりんされ、多くのグランゼス兵が悲鳴をあげるもなく血とどろのなかにしずんでいった。

 そんな乱戦のなかにあっても、右翼が総崩そうくずれとならずに指揮系統けいとう堅持けんじできているのはルーニの手腕しゅわんによるところが大きい。彼は、敵の奇襲部隊をあえて深くまでさそいこみ、フィオラの中央と連携れんけいして一気いっき殲滅せんめつするつもりのようで、そのための陣形をあわただしく整えていた。

 それをさせまいとして敵が動くとすれば、指揮官であるルーニの首をねらいにくる。ルーニをちとれば指揮系統は乱れ、グランゼス軍右翼の抵抗は瞬時しゅんじ鎮静ちんせいするからだ。

「カルカリアの時と同じことをされてたまるか!」

 その戦いでは総大将たるエリンデールが討ちとられたことで、優勢ゆうせいだったエリンデール軍が敗走はいそうするはめになった。

 この奇襲部隊を率いている者も、きっと同じことをねらってくるはずだった。なぜなら、それを指揮している人物がカルカリアの時と同じだからである。

「メルセリオォォォ!」

 右翼の本陣に到着したレイタスは、今まさにルーニにむかって黒馬をあおり、彼に凶刃きょうじんをふるおうとしている黒ローブ姿のバーナーム騎士を見つけ、叫んだ。

 その叫びを無視して、黒衣こくいのバーナーム騎士はルーニと剣をまじえ、やすやすとルーニの剣を空高くはじいておのれ優位ゆういを確立してしまった。

 にあわないとさとったレイタスは、とっさに右手の剣を投げつけた。

 投げた剣は相手のフードをかすめ、フードをまくるだけでおわった。だが、相手の注意をこちらへむけることには成功した。剣によってフードをまくられたバーナーム騎士は白日はくじつのもとに素顔をさらし、長くしなやかな黒髪を戦場の風になびかせた。

 レイタスが見まごうはずのない、かつての師──メルセリオその人である。

 無手むてとなったレイタスは、メルセリオにむかって乗馬を走らせながら地面に転がっていたバーナーム兵の遺体いたいに突きさっていたやりをすれちがいざまにつかんで引き抜き、かまえながら突進した。

 メルセリオも、武器をうしなって硬直こうちょくしているルーニを無視して、猛然もうぜんいどみかかってくるかつての弟子にむかって馬首をめぐらし、乗馬をあおった。

 ふたりの騎士が正面から激突し、槍と剣をめまぐるしく交差させて耳障みみざわりな金属音をひびかせる。たがいの乗馬も騎手の闘気とうき感応かんのうして高くいなないた。

「みごとな迎撃陣げいげきじんいたものだな、レイタス。さすがだ」

 剣をたくみにあやつり、レイタスの猛攻もうこう悠然ゆうぜんしのぎながらメルセリオが語りかけてくる。

を得ようとするあまり、丘に固執こしつして死地しちにおちいった我が弟子では、まだまだおまえの足もとにもおよばぬようだ」

「・・・・・・黙れッ」

 一瞬、レイタスの反応がおくれたのは、メルセリオの口からこぼれた「我が弟子」という言葉のせいであった。

 かつて、その言葉はレイタスだけのものだった。だが今はちがう。おまけに、今のメルセリオには新たな弟子がいるようだ。

 そのことがレイタスに無視できぬ動揺をあたえた。名実めいじつともに、もう自分がメルセリオの弟子でないことは自覚しているつもりだったのに、あらためてその事実をメルセリオ本人から突きつけられると、さびしさが胸にこみあげてくるのをおさえられなかった。

 その感傷かんしょうがレイタスの闘気をにぶらせたのか、わずかなすきをつかれ、レイタスの槍はメルセリオの曲刀によっての中央からまっぷたつにたたき折られてしまった。

 レイタスは穂先ほさきをうしなってただのぼうした槍の残骸ざんがいを投げつけ、メルセリオがそれをよけている合間あいま鞍上あんじょうから身を投げだしてメルセリオに飛びかかった。

 組みあいながら落馬した両者は、地上に落ちたあとも二転三転しながら組みあっていたが、やがて、メルセリオがレイタスのむなぐらをつかんで立ちあがった。右手にある曲刀をレイタスののどもとに突きつけながら。

「わたしが憎いか、レイタス。ローデランの統一と平和を阻害そがいした、このわたしが!」

「・・・・・・・・・」

 ただにらみかえすだけのレイタスに、メルセリオがかぶりをふりながら苦笑くしょうを浮かべる。

「おまえはまだ、なにも見えていない。だがいずれ知るだろう。わたしの行いが、真の正義にもとづいたものだということを」

「乱世を好む狂人きょうじんらしい言いぐさだ。世に暴君ぼうくんと呼ばれた男たちが、同じような台詞せりふいてみずからを正当化してきたのにている・・・・・・メルセリオ、今のあなたに正義なんてものは微塵みじんもない。あるのは、おおぜいの人間を不幸にしたという、その一事いちじだけだ」

 レイタスは怒鳴どなりもせず、激高げきこうしたりもせず、ただ静かな口調でメルセリオのを鳴らした。

 それだけに、メルセリオの耳には無視できぬ誹謗ひぼうとしてきこえたようだ。彼の秀麗しゅうれいな顔が忌々いまいましげにゆがみ、曲刀をにぎる右手には過度かどに力がこめられて刃をこきざみに震わせた。

さかしらにほざくな! おおぜいの人間を不幸にしているのは、おまえたち教団のほうではないか!」

「教団は平和を招来しょうらいしようとしている。あなたとちがって、乱世を一日でも早くしずめるために尽力じんりょくしている。それが戦神アズエルのおぼしめしだからだ」

「ふん、しがたい盲信もうしんぶりだな」

「なんだとッ」

 信奉しんぽうする神と教団を冒涜ぼうとくされ、今度はレイタスが感情をたかぶらせる番となった。

 その反応を楽しむかのように、メルセリオがうすい笑みを口もとに浮かべる。

「言ったはずだ。おまえたちの神は戦いを望んでいると。そうでなければ、このローデランの動乱がどうして三〇〇年もつづくというのだ。アズエルがおぼしめす平和とやらは、いつおとずれる!」

「平和は訪れるはずだった。それをあなたが阻害そがいした・・・・・・エリンデールを殺して!」

「ちがう! エリンデールなどいつわりの英雄だ。教団によってしたてあげられた木偶でくにすぎん! たとえやつによって平和が訪れていたとしても、それは偽りの平和だ! そんな平和はすぐに破られる!」

「なにを根拠に──」

 反論しようとしてレイタスは言葉をまらせた。かつての師からそそがれるまっすぐな眼差まなざしが、自己弁護のための方便ほうべんを語っているようには見えなかったからである。メルセリオの黒い瞳には、妄想もうそうにとりつかれた狂人に特有のにごりがない。あるのは、かつてレイタスが師とあおぎ、崇敬すうけいしていたころのままの、平和を心から望んでいる男のみきった光だけだった。

 突然、メルセリオがむなぐらから手を放し、レイタスを突き飛ばした。

 尻餅しりもちをついたレイタスの眼前がんぜんで、メルセリオはくるりときびすをかえし、主人をうしなってぽつねんとたたずんでいた黒馬のもとに歩みよった。そしてあぶみに足をかけ、馬の背にまたがると鞍上あんじょうからレイタスを見おろして言った。

「この戦いのささやかな勝利を、しばしの間、味わうがいい、レイタス。だが、わたしの策謀さくぼうの糸がここで切れたなどとは思ってくれるなよ」

「負けおしみを!」

 レイタスは立ちあがり、周囲のしかばねから奪える武器をさがしつつ反論した。

「この戦いで疲弊ひへいし、食糧もつきかけているバーナーム軍に、ニアヘイムを攻撃できる余力よりょくはもう残ってないはずだ!」

「ニアヘイムごとき片田舎かたいなかの港町など、はなから歯牙しがにかけてはいない」

 負けおしみにしては自信をみなぎらせたメルセリオの声音こわねにレイタスはおどろき、武器をさがすのをやめてかつての師をふりかえった。

「では、なにが目的だったと?」

「わからぬか?」

「・・・・・・・・・」

「もっとひろい視野で物事をとらえるんだ、レイタス。戦場は、ローデラン全土だということをきもめいじておけ」

「ローデラン全土が、戦場・・・・・・」

 不意に、この言葉のやりとりが往年おうねん問答もんどう彷彿ほうふつとさせ、ふたりの間に懐かしい時間が流れた。苦楽くらくをともにした長い旅路たびじのなかでつちかった師弟の情が、この時のふたりの胸をたしかに占有せんゆうしたのである。

 だが、そんな懐古かいこをきらうかのようにメルセリアが小さくかぶりをふり、この場からさるために乗馬の腹をろうとした。

 それを見たレイタスは、自分でも意識せず、とっさに叫んでいた。

「フィオラはどうする!」

「・・・・・・・・・」

 馬腹ばふくりかけたメルセリオの動作がピタリと止まる。

 レイタスも自分の声におどろいたが、ひとたびといを発してしまった以上、あともどりはできない。意を決し、胸につかえていたわだかまりを言葉にかえた。

「彼女は、今でもあなたを愛しています・・・・・・あなたは・・・・・・あなたはどうなのですか!」

「・・・・・・その女が愛した男は、アディームの砂漠でたれんだ」

 生気せいきが感じられない暗い声でそれだけを言い残し、ついにメルセリオが馬腹を蹴ってけさる。

 バーナーム軍の奇襲部隊も、まるで干潮時かんちょうじしおのごとく整然と引いていった。それは、セルネアが中央から五〇〇あまりの増援を引き連れてきたのとほぼ同時だった。

 セルネアと合流したレイタスは、その増援部隊に追撃ついげきを命じなかった。

 メルセリオがグランゼス軍の右翼を一時的に攪乱かくらんしたのは、丘の上にじこめられていたバーナーム軍本隊の脱出路だっしゅつろをきりひらくためだったようである。

 実際、バーナーム軍本隊は、メルセリオの奇襲部隊がひらいてくれたグランゼス軍右翼の穴を唯一の逃走経路とうそうけいろと見さだめ、そこを猛然もうぜんと走り抜けていった。

 これをレイタスたちが阻止そししようものなら、バーナーム軍は生還せいかんするために最後の一兵まで死力しりょくをつくして抵抗するだろう。そうなればグランゼス軍も手痛ていた代償だいしょうを支払うことになる。

 バーナーム軍はすでに戦意をくじかれている。今は逃げのびることしか考えていない。ならば逃がしてやればよい。勝敗が明確になったのだから、これ以上の犠牲は両軍にとって無意味だった。

 それに実のところ、グランゼス軍にも追撃できるような余力よりょくは残っていないのである。緒戦しょせんでこうむった大打撃が、逃げる敵を追えるだけの兵力と気力をうしなわせていた。

 かくして、二日間にわたってドルト・ルアの丘で行われたグランゼス軍とバーナーム軍の野戦やせんは、バーナーム軍の敗走はいそうという形で終息しゅうそくへとむかった。

 ニアヘイムを陥落かんらくできず、食糧の確保が難しくなったバーナーム軍は空腹と敗北感にさいなまれながらバーナーム伯領はくりょうへと撤退てったいしていった。

 つるぎの時代の第六紀二九七年、四月二八日、西にかたむいた太陽が空一面を朱色しゅいろに染めだした薄暮はくぼのことである。



 ドルト・ルアの戦いから一夜が明けた四月二九日──。

 レイタスとセルネア、そしてフィオラの三者は港湾こうわん都市ニアヘイムの市庁舎しちょうしゃにいた。ニアヘイム議会から戦勝せんしょう祝賀会しゅくがかいに招待されてのことだった。

 まちが戦後の復興をはじめたばかりということもあり、祝賀会そのものは簡素かんそな内容だったが、議員や市民らはレイタスたち三者におしみない謝意しゃい敬意けいいをささげ、心から歓待かんたいしてくれた。郊外こうがいじんを張っている兵士たちにも街から酒や食糧がふるわれ、今ごろは楽しくやっていることだろう。

「友にして英雄、同胞はらからにして救世主」

 議長ザンヘルからじきじきにこの称号をおくられたフィオラは、正式に海の商人たちの同盟者となった。ニアヘイムが危急ききゅうの際は兵を率いてけつけ、守り、そのみかえりとしてフィオラは平時へいじにおいてもニアヘイムの港と商人たちを利用して海上交易することを許されたのである。

 つまり本拠地たるシアーデルンの南方に友人ができたわけで、後顧こうこうれいなく東方に割拠かっきょしている〈九枚の大楯ナインシールズ〉たちと全力でわたりあえるようになったその意義は、フィオラにとってきわめて大きいと言えた。

 祝賀会をおえ、馬にまたがって街の東門をでたところで、レイタスの背中にフィオラの声がかかった。

「レイタス」

 若き軍師をふりかえらせた赤髪の女将軍は、戦場で会ったという男の存在を告げてきた。

「アドラフという名の男に心あたりはあるか?」

「アドラフ・・・・・・」

 レイタスは頭のなかの人名録じんめいろく紐解ひもといてみたが、そのような名は見つけられず、かぶりをふった。

「いえ、ございませんが、その男がなにか?」

「メルセリオの弟子だと名乗っていた」

「・・・・・・そう、ですか」

 レイタスの表情に暗いかげりが走る。メルセリオ本人からきいていたことなのに、その新しい弟子の存在はどうしてもレイタスの心に暗い影を落とすのだった。あのメルセリオが自分以外の弟子をもつことなど考えられない、と。

 だが、それは単なる自惚うぬぼれだと気づき、レイタスは自分にも言いきかせるように答えた。

「俺はあの人からとっくに卒業しています。ですから、あの人が新たな弟子をとったとしても不思議ではありません」

「そうか」

 気づかわしげな眼差まなざしをむけてくるフィオラであったが、それ以上はなにも語らず、シアーデルンへの帰途きとにつくため、郊外で張っている自分の陣地へ護衛に囲まれながら馬を走らせていった。

 遠ざかるフィオラの騎影きえいを、レイタスは罪悪感ざいあくかんめいたしこりを胸にかかえながら見送った。戦場で出会ったメルセリオのことをフィオラに黙っているからだった。メルセリオが言い残した最後の言葉をそのままフィオラに伝えたところで、彼女を悲しませるだけであろうから。

 あるいは正直に伝えたほうが、彼女がおもいをちきる一助いちじょになるのではないか。そう考えもしたが、メルセリオの本心が知れない以上、伝えるのはためらわれた。

 メルセリオはなにかを隠している。それはフィオラへの想いにとどまらず、彼がローデランの統一を阻害そがいした動機にも言えることだった。

 戦神アズエルへの信仰しんこうをすて、忠誠をささげていた教団にもそむいたメルセリオの言動には、本人にしかわかり得ない深い理由がありそうだ。しかし、それを解き明かすにはレイタスにあたえられている情報が少なすぎた。

「レイタス、お師匠さんに勝てたね」

 不意に流れた弟子の声が、レイタスの意識を現実へと引きもどした。

 レイタスとフィオラの会話に遠慮して後方にひかえていたセルネアが、馬をそろそろと進めてきて横にならぶ。

「ニアヘイムも救えたし、ドルト・ルアでもバーナーム軍を撃退したし、ね?」

 セルネアはうれしそうに微笑ほほえんでいる。

 彼女なりの祝辞しゅくじのつもりなのだろうが、レイタスは自嘲じちょうめいた笑みをほおに浮かべて首を横にふった。

「いや・・・・・・完敗さ」

「え・・・・・・だって──」

「ああ、たしかにバーナーム軍を撃退してニアヘイムを救うことはできた。だが、それはあの人が本気でニアヘイムをほっしていなかったからさ」

 謙遜けんそんではなく本心であり、事実でもあった。

 おそらく、ニアヘイムの攻防戦こうぼうせんやドルト・ルアの戦いで作戦を主導しゅどうしていたのはメルセリオではなく、フィオラが言っていたアドラフという名の男だったのだろう。

 もちろん、すべてがアドラフのさくによるものだったわけではなく、たとえば、篝火かがりびを用いて戦力を誤認ごにんさせ、奇襲をさそった詐術さじゅつなどは実にメルセリオらしい手である。が、その一方で丘を奪取だっしゅすることに固執こしつし、奪取するとそこからの突撃を敢行かんこうした力まかせの戦法などはおよそメルセリオらしくなかった。

 もしメルセリオが本気でニアヘイムを欲し、グランゼス軍の壊滅かいめつをもくろんでいたのなら、今ごろはそのどちらも彼の思いどおりになっていたにちがいない。

「本気じゃなかったって・・・・・・それじゃあ・・・・・・」

 なにが目的だったのか。そんな疑問と不満をぜた顔で見つめてくる弟子に、レイタスは正直にかぶりをふってみせた。

「わからない。だから完敗なのさ」

 メルセリオは言っていた。今回の一連の戦いでは勝利に固執していない、と。勝利とは別のところに真の目的がある、と。

 それが本当なら、別の目的とはなんなのか。

「ローデラン全土が戦場・・・・・・か」

 ふと口をついたのは、メルセリオから指摘された言葉だった。

 ローデラン全土をひとつの戦場と考えた時、今回の一連の戦いがもつ意味とはなんだったのか。レイタスはその思索しさくにとり組んでみた。

 ニアヘイムの危機に、フィオラが大軍をもよおして駆けつけた。

 その結果、現在、彼女の本拠地であるシアーデルンは手薄てうすである。

 シアーデルンはもともと、軍事上、極めて重要な拠点。

 そこが手薄と知った周囲の〈ナインシールズ〉は、これを好機こうきととらえてシアーデルンの奪取だっしゅに動く。

 すると動いた〈ナインシールズ〉の拠点がまた手薄となり、その奪取をもくろむ別の〈ナインシールズ〉がまた動く。この動きが連鎖れんさして、ローデランは急速に乱世のおもむき色濃いろこくしていく・・・・・・。

「なんてことだ。あの人は本当に乱世を望んでいるのか・・・・・・」

 導きだした結論にレイタスは戦慄せんりつを覚えた。と同時、なぜそんなことを望むのか、という疑念が胸中きょうちゅう渦巻うずまく。

 メルセリオは正気しょうきをうしなってなどいなかった。あくまでも高度な理知りちと冷静な判断のもとで行動しているように見えた。そんな彼が、なぜ憎悪ぞうおしていた戦乱を助長じょちょうするのか。

 メルセリオの目的はわかっても、その真意しんいまでは読みとれず、レイタスはおのれの力不足を痛感つうかんしてうなだれた。敵対する相手の意図いとも読みとれないようでは軍師失格である、と。

「あきらめたわけじゃないよね、レイタス?」

 ふたたびセルネアの声でレイタスは意識を現実へともどした。

「あきらめる?」

 なにを、と表情でうレイタスに、セルネアは「決まってるじゃん」とでも言いたげな顔で答えた。

をもって招来しょうらいす! これを、あたしたちがやらずに誰がやるって言うの? 智をもってらんを招来す、なんて言っちゃってるレイタスのお師匠さんみたいな人は、絶対に野放のばなしにしてちゃダメなんだから!」

 セルネアの顔は真剣だった。エリンデールという郷土くにの英雄をうしなった少女は、他人に夢や希望をたくすのではなく、みずからの手で理想をかなえようとする強い意思を身につけたようである。

 同じだ、とレイタスは思った。自分もメルセリオという偶像ぐうぞうをうしなった。だがそこで足を止めてはいけなかった。メルセリオの真意が明確にわからなくとも、彼がこの世を乱すというのなら、彼がおこした戦乱をひとつひとつしずめていき、ひとりでも多くの人を救おう。今の自分にできることはそれしかないのだから。

「智をもって治を招来す・・・・・・そのとおりだ、セルネア」

 レイタスは微笑ほほえみ、力強くうなずいた。肝心かんじんな時にいつもはげましてくれる自分の弟子に心で感謝しながら。

「ねね、レイタス、ところでさ──」

 もじもじと馬上で体をくねらせはじめた弟子を見て、レイタスは遠くの草むらを指さした。

「なんだ、小便しょうべんか? だったらあそこでしてこい。待っててやるから」

「そ、そんなんじゃないってッ、もお!」

 デリカシーをいたレイタスのかんちがいにセルネアは顔を赤らめて怒ったあと、ふたたび体をもじもじさせた。

「あのね、あたしの〈修羅場しゅらば〉は、どうだったのかなァって・・・・・・記念すべき初陣ういじんにしては、けっこうよかったんじゃない?」

「ほお。自分の修行内容を自分で高く評価するとは、なかなかいい度胸どきょうをしているな」

「え・・・・・・じゃあ、あたし、ダメだった?」

 しょぼくれるセルネアに、レイタスは無言のまま首を横にふって否定する。

「じゃあ、やっぱりよかったんだ!」

 元気をとりもどして笑顔になったセルネアに、レイタスはもう一度、無言のまま首を横にふって否定した。

「どっちなの!」と、じれた様子の弟子に、レイタスはなに食わぬ顔で肩をすくめてみせる。

「すまん。今度の戦いは色々と考えさせられることが多くてな・・・・・・おまえの採点さいてんをすっかり忘れてた」

「はあ?」

「ま、そういうことだから、おまえの〈修羅場の儀〉はいったん仕切りなおして、次の戦いからはじめることにしよう。うん、それがいい」

 うなずいて、ひとり納得しながらレイタスはグランゼス軍の陣地にむかって馬をのんびりと進めた。

 すると、後方から馬蹄ばていの音が急速に近づいてきて、何事なにごとかとふりかえろうとした矢先、レイタスの後頭部こうとうぶから「パコーン!」と軽快けいかいな音がはじけ、そこに痛みと衝撃が走った。

 そんなレイタスのわきを、馬にまたがったセルネアが颯爽さっそうとかけ抜けていく。その手にこぶしをにぎりしめながら。

つうゥゥ・・・・・・師の頭をはたくとは何事だ! 破門はもんにするぞ!」

 後頭部をさすりながらえるレイタスに、セルネアが疾走する馬の上でふりかえりつつ舌をだしてきた。

「やれるもんならやってみなッ、べーだ!」

 弟子の採点を忘れた師と、師に敬意を払わない弟子、このふたつの騎影きえいが追いつ追われつしてニアヘイムを離れていく。



 つるぎの時代の第六紀二九七年、春──。

 新緑しんりょく芽吹めぶきはじめたのと同時に、ローデランのそこかしこで戦乱の種までもが芽吹きはじめた。

 だが、乱世の土壌どじょうは神話のなかにもれていた〈アズエルの使徒〉を歴史の表舞台へと芽吹かせ、そこに希望の風を吹かせてもいた・・・・・・。



                     『戦神のガントレット・Ⅰ』 完

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戦神のガントレット おちむ @M_Ochi

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