第28話▼養生のプロと無為な積み重ね

 皆さんの住まいはどんな場所だろうか?

 マンション?

 であれば一度は目にしたことがあるかもしれません。

 引っ越し業者が荷物の搬入時に建物を傷つけないように、エントランスホールの床を青いパネルを敷き詰めたり、ガラスを透明なビニールで囲ったりしている光景を。

 こういった作業はどの業界でも『養生』と呼ぶようです。

 かつて私が所属していた漆塗りの業界でもそうでした。

 私が20代半ばの頃。大阪で一人暮らしを始めるまでは、私は公共事業で修復されるような超有名なお寺や神社の柱や壁、梁や床などに漆を塗る仕事に携わっていました。

 漆はとてもデリケートです。

 修復の工事現場ではヘルメットを着用させられるのですが、そのヘルメットがほんのちょっと擦れただけで真っ白なひっかき傷やひび割れの痕がつくぐらいに脆いです。

 なので漆を塗り終えた後には養生が欠かせませんでした。

 余計な傷や汚れがつかないよう、ビニールを張り巡らして守ってあげるのです。

 そして養生はもっぱら私の仕事でした。

 職業生活を通してついに一人前になれなかったからです。

 ベテランも養生をしないわけではありませんが、もっと肝心な作業……例えば仕上げの漆を塗る工程などにかり出されるので、未熟者が主に養生などの雑務を任されるわけです。

 未熟者には未熟者なりの意地があります。

 せめて任された仕事だけでもきちんとこなそうと、文句のつけようもないぐらいビシッとこなすのです。

 おかげさまでどの現場に行っても私の養生は行き届いているとお褒めの言葉をいただいていました。

 私の数少ない、職場に貢献できる特技だったわけです。


 さて、私が漆塗りの仕事を辞めて引っ越し屋のバイトに精を出すようになった頃。

 この仕事でも養生の作業に精を出していました。

 運んだ荷物がどこに当たっても傷つかないようにビシッと養生を張っていきます。

 ですが他のアルバイトはそうでもないようです。

 割と大雑把にテープやビニールを貼りつけていきます。

 粘着性がそれなりにあるパイオランテープをガラス戸に貼りつけてたのを目にした時は面食らいました。

 剥がした時にノリの痕が残りそうです。

 まあ彼らはそんなこと知る由もないのでしょう。

 日雇いのアルバイトなので誰からも教えてもらっていないのですから。

 手っ取り早く終わらせればそれでいいと思っているはずです。

 その考えは間違えてはいないので、私もバカ丁寧になり過ぎない程度に手っ取り早く養生を済ませることにしました。


 それでも時間が足りなくなることがあります。

 作業時間に限りがあるので、養生を続ける者と荷物の搬入や開封を始める者とで別れることにしました。

 これはチャンスです。なぜなら得意分野を活かしつつ、重い荷物を持つ作業から幾ばくか逃れることが出来るのですから。

 私は手を上げて、自分一人に養生を任せてほしいと申し出ました。

 6人ほどのスタッフが一斉にこちらを見ます。ドライバーを除く他の5人は日雇いのスタッフなので皆若いです。おそらく当時の私よりも5歳ほどは若い、20代前半の男の子でしょうか。みんな体格がそれなりにいいので、見つめられるとちょっと怯んでしまいます。


「任せて大丈夫なの?」


 バイトリーダーのように振る舞っていた男性が尋ねました。後で尋ねたら日雇いバイト歴"10回目"だそうです……日雇いの仕事とはそんなものなのでしょうか?


「大丈夫です。養生なら任せてください」


 と私は答えました。手にはパイオランテープをひと巻き、ポケットにはビニールを張るためのマスカーテープを詰め込んでいます。準備は万全です。


「へぇ、別にいいけど……自信たっぷりっすね。どうしてですか?」


 私は心の中で軽く胸を張って答えます。


「一応、養生のプロみたいなものですから。前の仕事の経験もありますし」


 そう答えた途端、彼が急に吹き出して同僚たちに目配せをしました。


「養生のプロ……なあ聞けよ。この人、養生のプロだってさ」


 彼の笑みにつられて同僚たちも笑います。みんな、まだ社会人経験が浅そうなピカピカとした顔面です。


「そんなプロがいるのか?」


 ここでやっと私は、バカにされているんだなということにハッキリとした確証が持てました。


「じゃあ、あとは養生のプロさんにお任せしようかな」


 そう言いつつ彼は同僚を引き連れ、去って行きました。荷物の搬入先のお宅に向かいます。

 エントランスホールに残されたのは、当然ながら私だけです。

 首をひねりつつ、テープを壁に宛がいます。


「……俺、何かおかしなこと言ったかな?」


 涙が出そうになりました。

 曲がりなりにも10年弱頑張って働いてきた職歴を笑われたような気がしたからです。

 笑われても仕方がありません。

 20代後半になっても引っ越し屋の日雇い労働で食いつないでる身なのですから。

 まだ若く、将来のある彼らとは違うのです。

 養生をキレイに張れるぐらいでは、彼らの前で堂々と胸を張ることはできませんでした。

 悲しい気持ちが引き潮のように静まると、今度は憤りの感情が火山のように沸々と湧いてきます。

 漆塗りの職人として一人前になれなかった自分への怒り。

 そもそもやりたくもない職業に就いてしまい、20代の半分を無駄にしてしまった自分への怒り。

 そんな人生しか歩めなかった自分への怒り。

 そして、自分に対して怒りを向けざるを得ない人生への怒り。

 もう叫びだしたい気分です。

 どうして養生のプロと名乗ったことを笑われたことに対して、こんなに怒りを覚えなくてはならないのでしょうか?

 それはきっと、抱いていたささやかな誇りをけなされたからです。


「……そうか」


 たとえ就きたくなかった仕事でも。

 高校を中退してしまい、他に働けるところがなく働かせてもらった親の職場であっても。

 たとえ若い時分を無駄にしてしまった職業生活であっても。

 今となっては捨てた仕事でも。

 「自分はこの仕事で頑張って働いて生きてきた。人の役に立っていた」という誇りをもって、これまで生きてきたということに気づかされました。

 そして意外と、キレイに塗られた漆の柱や壁を守るために養生を張っていた自分が、嫌いではなかったのだということにも改めて気づかされたのです。


「………………」


 バカにされても仕方がありません。

 誰も私のような人間になりたくはないでしょう。

 それでもこの技で人の役に立てたんだという誇りをもって。

 蔑まれながらもキレイに、そして手早く養生を張り巡らし、荷運びを運ぶ彼らの応援に駆けつけたのでした。

 引っ越しの作業が終われば剥がされる、ほんの数時間の作品に魂をこめ終えて。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

どん底から住みだす100人一つ屋根の下~大阪シェアハウス暮らし カバかもん @KabaKamon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ