第15話〇リミとの別れと餞別の手紙

 当時私が住んでいたシェアハウスは大阪の南部、平野区の喜連瓜破という地区にああり、約100名の住人が入れ替わり立ち替わり住んでいた。もともと美術の専門学校の寮であり、鉄筋4階建ての大きなビルであった。

 シェアハウスの管理会社の趣向により住民は日本人と外国人、男女がそれぞれ半分ずつになるように構成されていた。年代は20代から30代前半が中心であった。

 大勢の男女が一つ屋根の下で生活環境を共にしていたならそこら中にカップルが誕生しそうなものだが、実際はそうはならなかったと以前に述べた。その大きな要因の一つが、外国人の住民のビザの問題である。

 あのシェアハウスに住む外国籍の住民の大多数が『ワーキングホリデービザ』を利用して日本に滞在していた。ワーキングホリデービザは国ごとにより制度が若干異なるらしいが、私の記憶違いでなければ、当該規定を締結している国同士の国民かつ30歳以下であれば、ほとんど条件なしに外国に最長で1年間滞在できるという制度であった。つまりどれほどその国のことが気に入ったとしてもワーキングホリデービザで滞在している限りは1年で出国しなくてはならないということだ。利用者の中にはそのビザを繋いで次から次へと別の国に移り住む猛者もいた。

 ともかくこの制度では、日本人×外国人のカップルは成立しにくい。いずれ遠距離恋愛になるのが目に見えているからである。

 また、あのシェアハウスでは毎週のようにパーティーが行われていた理由もそこにある。入居する際は顔を差すたびに居合わせた住人たちにあいさつする程度で済ませるが、出ていくとなるとこれまで親しくしていた人からそれなりに盛大に送り出されるからだ。ここでその出ていく人の人望がある程度推し量れるのはいうまでもない。(あえてそのようなパーティーを開かないでほしいと周囲に念を押して出ていく人もいたが)

 前置きが長くなったが、ここで私が述べたかったことは、あのシェアハウスにおいては恋愛関係はもちろんのこと、友情関係も長続きしないというものだった。この点が私にとっては兎角つらかった。


 地震によって中断させられてしまった九州旅行から一月後。とうとうリミとコウさんのビザが切れる機嫌が近づいてきた。

 リミとコウさんは台湾出身である。たしか台北やその近郊の出身ではなかっただろうか。二人の友情の成り立ちに関して詳しくは知らない。ただ、すでにフィアンセがいながら、『自由な時間があるうちに日本で暮らしてみたい』という願望を口にしたリミに対してコウさんは『ついていく』と決断できるぐらい、二人の友情は厚かったことが窺い知れる。

 実はリミとコウさんの日本での生活のスタートの地は、大阪ではなく東京であった。そして住処に選んだ場所は大阪と同様にシェアハウスだったという。しかし東京砂漠というべきか、そのシェアハウスでは住民同士が仲良くすることがなく、非常に心細い思いをしたとのことだった。

 そしてその半年後、心機一転と大阪に移り住んだところ、これまで述べてきたような愉快な住民やそのノリがはまって、満足のいく滞在生活を楽しむことが出来たとのことだった。


カバ「……リミ、日本でやり残したことってある?」


 私がそう尋ねると、リミは目を丸くした。地震で中断した九州旅行において、リミは宮崎県の高千穂峡に行きたいと言っていたが、結局その希望を叶えてあげることが出来なかった。リミの出国までもうひと月を切っている。母国に帰ったら家庭に入るリミに対してほんの少しでも心残りがあってほしくないと思っていた私は、できる限りの願いを叶えてあげたいと思っていた。


※以下、当時のリミの日本語はもう少したどたどしかったので、

 私の主観的な意訳が混じっている。


リミ「ありがとう。でもそんなに気を使ってくれなくていいんだよ」


 そう言いつつも私がごり押したので、リミは少し考え込んで、思い出したかのようにある提案をした。


リミ「前に、カバも自然が好きだって言っていたよね。いつかハイキングに行ければいいねって……とても気になっているところがあるんだけどそこに連れて行ってもらってもいい? 奈良県にある山なの。一人で行くのは不安で」


 その山とは、奈良県と三重県の県境に連なる山脈にある『大台ケ原』であった。世界遺産に認定されている地域で、標高は約1500mだ。年間降水量が屋久島に次ぐ国内2位の地域で、厳しい気候によってクマザサしか生えない地帯に白骨化した木の幹が点在する『白骨林』や、角のように突き出た岩場の先端から1000mの落差の断崖を望むことができる『大蛇嵓(だいじゃぐら)』が有名である。私としても興味のある場所だったので二つ返事でOKした。


 当日、リミは自分と同じくハイキングに興味があるという女性の友人、黄(こう)さんを連れてきた。おそらく、リミと同じ20代前半の台湾人である。二人は同じバイト先で知り合った。大阪の中心部、心斎橋のドラックストアである。あの界隈は合法で滞在する中華系の人々の働き口としてはとてもポピュラーな場所だった。

 大台ケ原のハイキングコースは電車とバスを乗り継いでいくことができる。山頂付近を周遊するコースで高低差は緩やか。一周するのに4時間程度かかるが初心者向けのコースだった。ゆっくり見て回ったせいで帰りのバスに乗り遅れそうになったが、天気にも恵まれ充実した時間を過ごすことが出来た。


リミ「ありがとう。カバのおかげで念願が叶えられて本当によかった!」

カバ「大げさだなぁ。ハイキングぐらいで」

リミ「外国でアウトドアするって、結構勇気がいるんだよ。ましてや私は女なんだし、危ない目に遭ったらって思うと、出来ないもん。だからカバが誘ってくれて本当に感謝してる」


 大阪へと戻る電車の中で、その労いの言葉を耳にして、(ああ、もうこれでリミと遊べるのは最後なんだな……)と思うと、何だか急に胸が詰まる思いがした。


リミ「ねぇ、カバ……他にも行きたいところがあるって言ったら、迷惑かな?」


 不意にリクエストされたおかわりに、断る理由がなかった。

 翌日、私とリミ、そして黄さんは『神戸花鳥園』(現・神戸どうぶつ王国)へと赴いた。巨大な平屋の施設全体が温室のようになっていて、色とりどりの蓮の花や亜熱帯性の植物や様々な種類の鳥を拝むことが出来る。

 私たちはハヤブサやアルパカのショーを眺めたり、巨大な柿の種のような形をした極彩色のくちばしを持つオオハシを肩に止まらせたり、カピバラに餌付けしつつ毛並みを撫でて、その皮膚の下にあるたくましい筋肉に触れて驚いたりしつつ、穏やかな時を過ごした。


 そしてそのお出かけを最後に、私とリミは滅多に顔を合わせることもなくなった。リミは出国の手続きや荷造りで忙しく、私は私で肉体労働系のアルバイトにいそしんでいたため、疲れ果てて共用スペースへと出る頻度が少なくなっていたからだ。このまま特に何事もなくフェードアウトして、自然に友情関係を終わらせるのが好ましいと私は思っていた。


 しかしリミが日本を発つ当日の朝、まだ寝ていた私のもとへ彼女が訪ねてきた。


リミ「ごめんね。こんなに朝早く」

カバ「いいけど、どうしたの?」

リミ「カバにどうしても渡したいものがあって……」


 私はガラス製の扇の形をした根付と、小さな封筒に入った手紙をもらった。


リミ「この根付は、仲良くしてもらった人、お世話になった人、大切な人にあげようと前々から用意していたものなの。カバにはたくさんお世話になったから、ぜひもらって」


 私はその場で封筒を開けてもいいかと尋ねた。


リミ「ダメ。目の前で見られると恥ずかしいから」


 私もかつて似たような贈り物をしたから、その気持ちは分かった。

 一瞬、その場に沈黙が流れた。

 溢れる思いの丈を言葉にする術を、当時の私は持ち合わせてはいなかったからだ。


リミ「……私、行くね。カバ……また必ず会おう」

カバ「……ああ、いつかまた、必ず」


 リミが去ってから私はしばらく自室で呆然とした。

 彼女がシェアハウスを発った頃合いを見計らうと、渡された手紙の封を切って目を通す。そこにはこのようなことが書かれていた。


『カバと初めて知り合ったのは、

 あなたがダイニングで外国語の勉強しているときだったね。

 一緒に過ごすたびに、あなたの知識量と、

 勉強に熱心な様子に驚かされたものです。


 あなたは自分に自信がないようだけど、それが不思議。

 どう生きていけばいいか、迷っているみたいだね?

 絵やビデオの編集が得意なあなただけど、どれか一つに選べないって感じ?

 でも、あなたならきっと、自分のやりたいことなら、

 一生懸命に取り組んで成功できるはずだよ。

 私はそう信じています。

 だけど、健康にだけは気をつけてね。

 あなたは頑張りすぎるきらいがあるから。

 

 最後に、二日間も私に付き添って、山や動物園を案内してくれてありがとう。

 忘れない。あなたと知り合えてよかった……』


 胸が震えた。

 かつて私は、胸にぽっかり穴が空くという比喩そのままの心の痛みを味わったことがある。

 本当に視界から色が失せて、食べ物から味がしなくなった。

 リミからの手紙を読んで、それとは真逆の事が起こった。

 胸に空いた空隙がジグジグとうずきだし、埋まっていくのを感じた。


カバ「キミと知り合えてよかった……また、いつか必ず……」


 リミがかけてくれた言葉を自分の言葉として消化して、思わず口ずさんでいた。

 貰った根付は今、この記事を執筆しているデスクの引き出しに。

 手紙は写真に撮って、スマホの待ち受けにしている。

 重たい男と思われるかもしれないが、手紙を受け取ってから約6年間。一度もホーム画面から外したことがない。

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