第5話〇シチューとハク
シェアハウスで夕食を作っていて最も早く仲良くなったのは誰だっただろうか? 何人か候補が上がる候補のうちの一人が韓国人のハクだった。本名は忘れた。キム・ハクジェ……とか何とかいう名前だったような気がする。彼の履歴書まで作ってあげたというのに、名前も覚えていないなんて私はつくづく薄情な男だなと思うが、よく考えてみればあのシェアハウスでは誰もがお互いを通称で呼び合っていたので、仲良くしていても苗字か名前のどちらかを知らない場合が多かったように思う。
知らない人ばかりの中で共同生活を送ることはストレスのオンパレードだ。廊下で人とすれ違うたびに心臓が小さく飛び跳ねてしまう。シェアハウス内で特定の仲良しグループや仲間を持っている場合はなぜか堂々としていられるのだが、シェアハウスに引っ越してきた右も左も分からないときは兎角部屋の外から出ることが億劫でたまらなかった。
しかしキッチンは部屋に備わってはいない。自炊しようと思うと1階まで降りてきて、レストランみたいなバカでかい厨房を利用する必要があった。夕食のピーク時になると10数人は集まり、コンロは取り合いとなり、隣接するダイニングではテレビの音声が全く聞こえないぐらい騒がしくなるような場所で、ポツンと一人食事をするのは結構勇気がいるし、なかなかメンタルをえぐられる。
あえて人のいない時間帯を選んでもよかった。だが私は逃げたくなかった。せっかく選んでシェアハウスに暮らすことにしたのだから、誰か仲良く飯を食う友達が一人ぐらいできるまでは粘ろうと、人ごみに紛れてせっせせっせと自炊とボッチ飯に精を出していた。
だがそれも、夕食のときだけだ。三食三度飯を作っていては、材料費がかさむし面倒くさくて仕方がない。そこで私は夕食を多めに作り、購入しておいたジップロックのコンテナ容器に保存して、それを朝昼と食べるようにした。そしてそのルーティンに最も適合したのが、シチューやカレーだった。簡単に作れるし、食べたいときにレンチンすれば容器のまま食べれて皿に移す必要がなく、手軽で、野菜もいっぱい取れる。失敗することが少ない……といいことづくめだったので、週に2,3度はカレーかシチューを作っていた。
2016年2月初頭の頃だったと思う。私が鍋いっぱいに拵えたシチューを皿によそって食べようとしたときに、ハクが声をかけてきた。
「そのスティユー、すごくいい香りですね~」
顔立ちは日本人と大差なかったが、微妙なイントネーションの違いと私のおぼろげな記憶から、彼が韓国人であることを思い出した。同じ国の人同士寄り集まることは珍しいことではないが、特にそれが顕著にみられるのは日本人を除いて韓国人とイタリア人だ。ハクはダイニングでよく見かける韓国人のグループの中でも少年のようなコロコロした顔立ちが特徴的だったので、よく覚えていた。まぁ、実際の歳は20代前半の立派な青年だったのだが。
「よかったら食う?」
ハクに日本語が通じると分かると、私は安心して彼とのコンタクトを試みた。このように食事を勧めれたなら、ステレオタイプな日本人の場合、「いや~、そういうつもりで言ったんじゃないんすよ~」とか言った後に、何回か勧めたり、やんわり断ったりをくり返して、「それならいただきます♪」とご相伴にあずかるものだ。
だがハクの場合は最初から「いいんですか~!?」と目をキラキラさせてくるものだから、(ああ、韓国ってそういうお国柄なのかな?)などと私は軽いカルチャーショックを感じた。実際はお国柄よりもハクの性格によるもので、彼は世渡り上手っていうか、末っ子っぽいというか、甘え上手だっただけなのだが。
ともかくハクの分をよそって、その日は食卓を共にした。実に美味そうにシチューを平らげてくれたので味の感想を尋ねたところ、
「珍しいものを食べることが出来てよかったです~」
とハクは答えた。
「韓国ではシチューって珍しいの? 日本じゃ当たり前の料理だけど」
「本当ですか!? いや~、羨ましいな。スティューなんて韓国じゃ高級料理ですよ。レストランで食べると一皿1000円はするし、滅多に食べられないです」
またもや軽くカルチャーショックを受けた。でもたしかに考えてみれば、固形のルーが安価で手に入る日本が特殊なのだと思うのが当然といえば当然だ。だがそんなこと考えたこともなかったので、私にとっては意外と盲点で、面白い発見であった。
私はそれからも何度かハクと食卓を共にした。もちろん主に食卓に並べたものはシチューだ。彼は当時、大阪にある有名な水族館である海遊館でアルバイトをしていた。彼が仕事から帰ってきたときに私が偶然居合わせた際は、黙ってシチューをよそって与えるという世話女房みたいな奇妙な関係が出来上がっていた。時にはコンテナいっぱいにシチューを詰めておすそ分けしたこともあった。思い返せば何度かハクと食事を共にしたはずなのに、彼から何も作ってもらったことは恐らく一度もない。私は彼にいいように使われていたのだろうが、私にしてみたら別に悪い気分にはならなかった。他人の世話を焼くのはまぁまぁ楽しいことである。
しかしそんなハクの図々しさに一度キレたことがあった。
ハクと仲良くなって数か月後のある日、深夜午前1時ごろ。いきなり部屋がノックされたかと思うとハクが血相変えて飛び込んできて、
「カバさん……履歴書作ってくれませんか!?」
「……おめぇ、今、何時だと思ってんだ?」
事情を聞くと、ハクが提出必須の書類の発送を提出期限ギリギリまで忘れていた、とのことだった。
ハクは日本で正社員の職を探していた。母国に戻って暮らすよりも日本で暮らしたい。いや、むしろ「日本人になりたいんです!」というのが口癖になるぐらい、彼は日本びいきなところがあった。というわけで日本人になる第一歩として日本の企業に勤めることを目指していたハクであったが、東京の会社から面談を取り付けたはいいものの、韓国語や英語で書かれたレジュメではなく、日本語で書かれた履歴書や職務経歴書の提出を求められていて、面談前日になって彼はそのことをすっかり忘れていたとのことだった。
「……明日の朝までは待てんか?」
「それじゃあダメなんですよ~。明日の朝イチには提出しないと~」
正直、追い出そうかと思ったが、ハクは泣きそうな顔をしているし、いつまでもごねるし、口論が長引くとご近所迷惑ということで、私は仕方がなくOKした。
「でも俺、かくかくしかじかで……ともかくまともな就職をしたことないから、他の人に書いてもらった方がいいし、上手くいかんかもしれんぞ。それでも大丈夫か?」
「カバさんならきっと大丈夫です!」
……そこまで言われちゃ~、やるしかねえな。などと心の天秤がゴトリと傾いた、ちょろい私であった。
「それに、ボクが日本語で書いたものがあるんで、それが間違っていないか確認してくれるだけでも助かります」
とUSBを渡される。Wordで作られた履歴書には、たしかにある程度の必須事項はすでに日本語で埋められていた。
「……おい待て。志望動機とか、自己PRとか、空白やんけ」
「あっ、出来ればそこもお願いします」
「自分で書けよ! けっこう責任重大じゃねーか!?」
「お願いしますよー。ボクの日本語能力じゃ無理です~」
「……おまえ、日本の会社を受けるんだよな?」
それでもハクを見捨てるわけにはいかなかった。
私の筆に一人の男の将来がかかっているかと思うと震えたが、逆境に強いおかげか、マゾ気質なのか、深夜のテンションのせいか、メチャクチャ集中して彼に対する美辞麗句をひねり出して、力作と呼べる自己推薦文を完成させた。
「おい、出来たぞ……」
履歴書の入ったUSBメモリを携えて、午前4時ごろにハクの部屋をノックした。
しかし待っても、反応が無かった。
「おい、ハク、聞こえるか……履歴書、出来たぞ。チェックしてくれ」
3,4度ノックして、やっとハクが顔をのぞかせた。
「あ、すみません。寝てました……」
「テメー、ふざけんなよ!」
そこでようやく私はキレた。『自分は寝ていて他人は起こすな』という諺が好きな私だが、ハクはナチュラルにそういうことをやる男だった。文章をひねり出している最中、彼を待たせては悪いと思って内心焦っていたというのに……余計な気遣いだったようだ。
このときお礼に1000円もらったので、今思い返せば、これが文章で私が初めて稼いだ仕事といえるのかもしれない。
ほどなくしてハクからその企業に採用されたという旨の連絡を受けた。私は嬉しく思ったが、当時は私の方が職に就けず困っていたので、私の助けを借りてぬるっと就職を決めた彼の報告に、内心イラっとしたのは秘密だ。
それでも笑顔で送り出してやろうと、ハクが東京へ発つ前日にプレゼントを渡した。当時の私はマンガやイラストを熱心に勉強していた。絵の練習がてら、私と彼の大好きなキャラクターが、ハクに対して「またね♪」と声をかけるイラストを数日かけて描いた。そのキャラクターとは、『おジャ魔女どれみ の瀬川おんぷ』である。
初めてシチューを食べた日のこと、
「ボク、どうしても日本で生活したかったんですよ! 日本のマンガもアニメも大好きだし、出来れば日本人になりたいぐらいです!」
「へぇ~、そんなに日本のことを好きって言ってもらえて嬉しいなぁ。ちなみにどんなキャラが好きだったの?」
「ボクのことよりも、カバさんが好きなキャラを教えてくださいよ~。マンガを描いてるんでしょ? そういう人が影響受けたキャラクターの話、聞きたいな~。一番好きなキャラは誰ですか?」
「"一番好き"は決められないな~。考えたこともないし……思い入れがあるのは……いや、言っても分かんないだろうから、やめとこう」
「え~っ、教えてくださいよ~?」
「言っても分かんないって……『おジャ魔女どれみ』っていうアニメの、瀬川おんぷってキャラクターなんだけど、知らないでしょ?」
「あっ、知ってますよ~。"紫ちゃん"ですね? ボクも大好きです。"ちびっこ魔法使いレミー"、楽しみに見てました! 日本語だと変わったタイトルなんですね~」
「……どうして知ってんの?」
おジャ魔女どれみは韓国でも翻訳されて放送されていて、大変な人気を誇っていたらしい。私は初めて『おジャ魔女どれみ』を好きな友人が出来て、とても嬉しかった。
私が育った町は田舎の地方都市で、おジャ魔女どれみが放送されていた時は小学生、中学生の時分だった。
オタク文化が成熟した現代となっては中学生の男子が少女アニメを観ていてもちょっと変わっているぐらいにしか思われないかもしれないが、当時は白い目で見られたものだった。おまけに田舎では一旦、変わり者扱いされるとその評判が覆ることはなく、元々人気者でなければハブられ、おまけに逃げ場はない状況……男のくせに少女アニメを観ているということは、少年だった頃の私にとっては死んでも隠しておかなくてはならない秘密事項でもあった。
もちろん同好の士を求めることなど出来なかった。当時はSNSはおろか、掲示板ですら敷居の高い時代だった。そんな閉ざされた田舎町を脱出する機会が、進学の機会と共に失ってしまった私にとって、初めて『おジャ魔女どれみ』が好きだったと公言できる友達が出来たこと……それ自体が大変貴重であり、長年果たせなかった悲願であったと、その時に気がついた。心の中の頑なな部分が溶けていくような、不思議な温もりさえ感じた。
後になって思えば、そのような幸せな気分を味わわせてくれたから、その後にハクに幾度となく手を煩わされても笑って許してやったのだと思う。私は初めて得た同好の士に対して謹製のイラストを送ることで感謝の念を伝えて、彼との関係を閉じた。今となってはどこで何をしているのかも分からない。
あのシェアハウスではハクを含め、日本のサブカルチャーを見て育った、刺激を受けた、愛したから来日した……という外国人とたくさん出会った。
私はしがないライターであり、その文化の一端を担っているなんて言うとおこがましいにもほどがあるが、時折このように思う。
私の手掛けたコンテンツにより、日本に興味を持ってもらいたい。日本にいい印象を持ってもらいたい。日本を訪れるキッカケとなりたい。ハクや、かつて出会ってきた人たちのように……彼らを突き動かす原動力になれればいいな、と。
そのような妄想を仕事のモチベーションの一つにしていると言ったら、誰か笑うだろうか? もしそうだとしたなら、誰にも笑わせないような人間に、私はなりたい。
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