第2話〇世界一寂しい年越しソバ
2015年12月末日。
素寒貧な哀れな男、こと私が大阪の下町にのっそりと姿を現した。
「ここが今日から入る、シェアハウスか……」
ごみごみとした住宅街の中にポツンと佇む4階建ての建物である。白い外壁に玄関周りはタイル張りで、周囲の古ぼけた住宅からは浮いている。元々、美術専門学校の学生寮だったらしい。たしかに沢山の人が一つ屋根の下に住まうシェアハウスにはおあつらえ向きの物件ではある。
「……お邪魔します」
玄関をくぐると鰻の寝床のように細長い三和土に下駄箱が備わっていた。このシェアハウスの居住者の半分は外国人だと聞いている。靴を履き替えるというルールに外国人が従うのは抵抗がないのだろうかと思いつつ、私は用意したスリッパに履き替えて3階へと上がった。そこには私に宛がわれた個室がある。
「……まぁ、こんなもんか」
個室は6畳一間のワンルームであった。ベッドとエアコン、壁につけれた簡素な腸机と衣装を入れるためのチェスト、そしてビジネスホテルで見かけるような正方形型の小さな冷蔵庫だけが備わっている……それだけである。だけど十分だ。他の設備は皆、部屋の外にある。トイレとランドリールームは階ごとに、キッチンとシャワーは一階のみに備えられている。すなわち身一つで生活が出来て、ひと月4万5000円(敷金礼金無し、電気水道使い放題、共益費込み)はとてもお値打ちであった。
「少し休むか……」
私はかつての住人が使ったものであろうシーツに身を横たえた。大丈夫、きっと新たな住人を迎えるあたってクリーニングぐらいしているだろう。贅沢は言えない身分だ。いちいち気にしていていられない。気になるのはむしろ……
「…………」
先ほど別れたばかりの父の顔を思い返す。父は愛情を示すのは苦手であるが、家族をないがしろにするような人間ではない。私たちはお互いを大切に思っていたはずだった。だけどどこで行き違いが生じてしまったのか……私が高校を辞めたとき以来に見た。あんなわびし気な姿は……
「……寒っ」
エアコンをつけようとする。今どき珍しい、窓の一部にはめ込むタイプのものだった。すりガラスの向こう側は既に夕暮れ時の光景だった。
「もうこんな時間か……こうしちゃいられないな」
その日は大みそかであった。その年はろくでもないことが多かった。精神的に何も手がつかなくなり、家業の仕事をボイコットしだした。有り余る時間と貯めた金を使って、今まで自分が興味のあったこと全てをやろうと、プログラミング、CG、イラストレーションやマンガ、地元のNPO法人が行うインターネット放送局のボランティアスタッフとして活動したり、宛てなく車で西日本を一か月間旅に出たこともあった。そんなことをしているうちに200万ほどあった貯金が全て尽きてしまった。その割には得るものは何もなかった。当時の私は刹那的になってしまっていて、後先考えずに金を使ってしまっていた。いや、使わないと不安で仕方が無かった。例えば今日この日にこの講座を受けなければ、一生その手の仕事に就くことは出来ないと自らが自らを脅すような、強迫的な心境になってしまい。心の不安が爆発しそうになり、自分の背後に死神が常に立っているような極度な不安定な状態になってしまっていたのだった。その不安定な精神状態、恐怖を抜け出すには、何もできなくなるのが一番であった。つまり、金が尽きてしまってからやっと心の平穏を取り戻すことが出来たのだった。もちろん散財していた期間中は、建設的に人生を幸せなものにしていくという思考が停止してしまっていた。つまり、金を使い込むだけ使い込んだが、手元にまったく何も残らなかった、散々な一年である。
だけど、心の平穏は手に入れた。
「せめて来年は、いい年でありますように……」
そんな思いを込めて年越しそばを作ることにした。
シェアハウスの一階には非常に広いダイニングキッチンとなっていた。学校の教室ほどの広さにテーブルが並び、壁際には寄せ木細工のベンチが備えられている。椅子と合わせて20人程が一斉に食事を出来るだけのゆとりがあるスペースが設けられていた。キッチンカウンターの向こう側には大型の業務用冷蔵庫が2台あり、内は住民ごとに100均ショップで買えるような小さなコンテナで細かく区切られていた。私の分はもうねじ込んでも入りそうにないぐらいパンパンに詰まっていた。
「まあ、部屋にも冷蔵庫はあるから……」
と、冷蔵庫に私のスペースを作ることは早々に諦め、早速調理に取りかかることにした。といっても袋に入った安い生そばを茹で、温めためんつゆをかけて具を乗せるだけの簡単な作業であった。
「…………」
私はキッチンに立つ最中、あたりを見渡した。大みそかの夕食時だからか、ダイニングキッチンは大勢の人でごった返していた。シェアハウスの管理人から受けた説明の通り、一見するとやはり外国人が多い。ラテン系の顔立ちの大男がシャンパンの栓を抜いて仲間たちと大はしゃぎしているかと思えば、日本人の男女がコスプレ的な格好をしてテーブルの一角を占拠し、盛り上がっている。イタリア人と思わしきグループがトマトソースの酸っぱい匂いが立ち込めるディナーを厳かに並べたと思いきや、傍らではお調子者に見える黒人と白人のコンビがギターを弾きながら熱唱し、それを日本人グループが取り囲んで声援を送っている。壁際のテレビに懐かしのスーパーファミコンを繋げてマリオカートに興じている堀の深い顔立ちの白人と縄文人みたいな顔をした日本人が競い合っているかと思えば、私のすぐ傍らではアジア系の住民たちがキッチン内に4台も並べられた畳二畳分ぐらいあるステンレス製のキッチンテーブルを全て占領して、鶏肉やら野菜やらを調理しつつ、独特の香りのする料理を作っていた。ガス台は4台、コンロは8つもあるにも関わらず、全て使用中である。キッチンの床のタイルは濡れてツルツルと滑り、不潔な印象だった。
そんな混とんとした状況の中、私は先輩住人たちを押しのけて何とかコンロを一つ奪い、年越しそばを作った。そんなものを作っているのは私一人だけだった。
「それじゃあ、いただきます」
40インチの大型モニターの前に陣取って、私は黙々とソバをすすった。
喧騒に包まれた中とはいえ、一人で食事を取る者は0ではない。私をはじめて何人かは黙々と食事に向き合って作業的に料理を口に運んでいる。
私は不意に懐かしい気分になった。それは小学校の時、その頃から周囲に馴染めなかった私は、グループで一緒に食べる友達もおらず、一人黙々と給食を口に運んでいた記憶……それは決していい記憶ではなかった。私は27歳にもなって、大阪にまで移り住んで、このような思いをしなくてはならないのかと思うと、切ない気持ちが溢れそうになった。居たたまれなくなった私は、さっさと食事を済ませるとそそくさとその場を後にした。
自室に帰り、抜け殻のようにただボーっと天井を眺める。腹は膨れたが、胸には穴が空いたような虚しさを感じて、しくしくと痛みだした。
去年まではこうじゃなかった。地元であっても友達など誰一人いない自分であったが、その代わりにいつも身近に家族がいて、大みそかにはおせちを作り、重箱に詰め切らなかったものを年越しそばと共につつき合い、大好きなガキ使の特番を見てアハハと笑っていた。母は、私が年越しそばのトッピングにはニシンが一番好きであることを知っていて、いつも他の家族よりも一尾余計に加えて私にくれていた……家族とケンカ別れし、そんな年越しはもう二度と味わえなくなってしまったのかと思うと、不意に涙が溢れ出しそうになった。
「大丈夫、来年こそは……大丈夫……」
しかしこの場所に移り住む前に、父にどんな仕打ちをして別れたのかを不意に思い出す。
「うっ……うぅっ、ぅぅぅぅっ……ぅっ……ぅぁぁぁぁ……っ」
人に優しくしなかった者が、人から優しくされる道理はない。人を幸せに出来なかった者も、幸せになれる権利はない。私はきっと地獄に堕ちるのだろう。
与えられた自らの幸せに気づかず、自らその幸せをぶち壊すような真似しかできない自分を許せなくなり、私は泣いた。自らの一生に自分自身は一生ついて回る。こんなロクでもない自分と一生付き合い続け、人も自分も傷つけながら生きていかなくちゃならないのかと思うと、やるせなくて仕方が無かった。
シェアハウスに入居した初日。2016年の大みそか。およそ100人が眠る一つ屋根の下で、私は一人ぼっちで新年を迎えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます