第弐拾肆話 大獄丸

 此度こたび語りやすは、現世うつしよ浮世うきよのモノガタリ。

 此の世は地獄と云いやすが、其処に救いは在るのかどうか——。



 さて、安倍晴明の隠れ屋敷にて、己の一度目の生の真実を知った小童。其の心中は如何許いかばかりか——。


「で、では。あの刻の白き狐が……いや、わたしを育てずっと言葉や琴の習いをつけてくれたのは、晴明殿の母君であったと云ふことか」

「そっ、だから云ったでしょ。某ときみは乳母兄弟みたいなものなのだって」

「やっと点と点が繋がったァって感じだが、こりゃァなんとも……」

「なんと云ふことじゃ……あの狐、いや、晴明殿の母君まで、わたしのせいで」


 今や白布を取っておった小童は、その白き髪を抜けそうなほどに掴んでは俯きやした。

「嗚呼もうっ」と葛籠がその舌でべしん、刻を同じくして「やだなぁもう」と晴明が軽い手刀でことん、と小童の頭を小突きやす。

 ん? と瞬間、葛籠と晴明は視線を交わしたそうな。


「だぁれがめそめそしろって云ったンでぃ。云ったろォが、謝んなってこの大莫迦やろうが」

「そうそう、きみに謝られちゃぁ、ね。今頃何処かで天女にでもなってるかもしれぬ、某の母上の方が泣いてしまうよ」

「……おめぇ、そのいちいちおっかさんの評価が滅茶苦茶にたけーのはなんなんでぃ」

「し、然し」


 掌を解き、その潤んだ紅き瞳で葛籠と晴明を小童は交互に見やす。

 けっ、と響くは舌打ちの音。


「いいかァ? 俺っち達が堕ちたのは地獄だ、地獄に堕とすと確かに云われ、その先が此処でぃ。いいか空也、地獄にゃ責め苦も苦行も哀しみも、そらァごまんとあるんでぃ。ンなとこでいちいちべそべそずっと泣かれちゃぁ、気も滅入っちまう。先にゃ進めず終わりもこねェってなァ」


 嗚呼もうなんでぃ、なんでぃ、槍でも針でも降ってくるってンならァ、同じ地獄さ……そのまんま引っ被ってもからっと笑って過ごしてぇモンよ。そう誰に云ふでもなしに大きく話す葛籠に、そっと小童は触れやした。


「すまぬ……」

「ンあァ、だからおめぇ謝んなって」

「そうではない。そなたこそ、身体すら失う苦行の最中なれど、一度も泣き言を言っておらぬではないか。そうか、これがわたしが罰を受けろと云われし地獄とやらなのか。わたしは、早う気づくべきであった。やはりそなたを見習わねばならぬのぅ」


 はぁと呆れたやうな葛籠の声に、晴明もくすりと笑いやす。


「此の世が地獄とは、まさに言い得て妙だなぁ。うんうん、某、ヒトの身体は滅せども浄土へ渡ったことはないからねぇ」


 さてと、と晴明がぱんぱんと手を打てば、何処からか式鬼が現れ湯気の立つ茶が運ばれてきやす。どうぞ、と手で示しながら己もひとつ湯呑みを手に取りやした。


「ひとつ、空也よ」

「……なんでござりましょうか」

「うん、きみの持つ弱さはとても尊いものだ……それは、純粋な鬼として生まれたならば持てぬものだったからね。決して忘れてはいけぬよ。して、それを踏まえた上で、だ。きみはこの地獄をどう歩きたい?」


 湯気の向こうに視える、細められた双眸はやはり母と子か。いつかの白き狐を想い起こさせるものでもありやした——。




***




 今は昔、伊勢国いせのくにの鈴鹿山と云ふ場所に、大嶽丸おおたけまると呼ばるる鬼が棲んでおったそうな。


 この頃、鈴鹿峠を往来する民を何者かが襲い、喰い殺されたり都への貢物を奪っておったそうで。刻の帝は田村丸と云ふ者を呼び、犯人を見定め討伐せよとの命を与えたそうにございやす。

 勅命を受けた田村丸は月日をかけ鈴鹿山を捜索し、ついに三年の月日をかけて大嶽丸の棲み処を見つけたと。さて率いるは三万の軍勢を以ってして、鈴鹿山を攻めたそうにございやす。

 さぁ然し、この大嶽丸、只者ではございやせんで。瞬く間に鈴鹿山を暗雲で包み、嵐を起こして雷鳴を轟かせ、更には火の雨までもが降り注ぎ、一向に前に進めぬときた。


 田村丸が一心に神仏に祈ると、その夜夢に一人の翁が現れやした。彼は田村丸に「この山に棲まう天女、鈴鹿御前すずかごぜんの助力を得よ」と云ふのです。

 田村丸は残った兵を一旦都へと帰し、一人鈴鹿山を鈴鹿御前の名を呼びながら歩いてゆきやした。するとどうでしょう、木々が分かれいざなわれるやうに進んだ先に、ひとりの美しいおなごが立っておったのです。

 これは鬼のはかりごとかと田村丸は警戒しやすが、共に過ごすうちに心を許し、ふたりは夫婦の契りを交わしたそうにございやす。

 此処で女は自らの正体を鈴鹿御前だと明かしやす。彼女が云ふには「大嶽丸討伐の助けをするため、私は天より参りました。共にあの鬼神を倒しましょう」と。何か策でもあるのかと田村丸が問えば、鈴鹿御前はこう答えたそうな。


「大嶽丸は三明のつるぎに守護されております。あれを奪えば容易いかもと」

「然し、奪うとは云っても鬼神の剣なぞどうやって奪うと云ふのだ」

「あの鬼は私に恋慕しております、きっと今宵も文を持って此処へとやってきましょう。其処で嘘を申して剣を奪っておくのです」


 その剣、名を大通連だいとうれん小通連しょうとうれん顕明連けんみょうれんと云いやした。其々に、文殊の智剣、普賢の智剣とされ、顕明連は近江の水海に棲まう大蛇の尾より鍛えし三千世界を見透す剣であり。此れを大嶽丸は阿修羅より授かっておると云ふのです。


 ならば通常の騎兵では太刀打ちは出来まい、と田村丸は鈴鹿御前の策に乗ることにしやした。

 さぁ其の夜、田村丸が云われた通り身を潜めていると、美しい青年に化けた大嶽丸が鈴鹿御前の棲み家までやってきたのでございやす。是迄これまで幾度来ようが声すら聞かせなかったと云ふ鈴鹿御前、然し此の夜は大嶽丸の言葉に返事を返したのです。


「私は今、都の田村丸と云ふ武将に狙われております。どうか、護り刀として貴方様の三振りの剣を貸してはいただけぬでしょうか?」


 気を良くした大嶽丸は、大通連だいとうれん小通連しょうとうれんをすぐに差し出したと云いやす。「あとひとつ、顕明連は天竺にあるが、此の二振りがあればきっと護られようぞ」と。

 次の夜の約束を取り付けると、大嶽丸はなんとも機嫌よく己の城へと戻って行ったそうでさァ。


 さぁ、一世一代の大勝負にございやす。

 次の夜、ふたたび青年の姿で鈴鹿御前の棲み家にやってきた大嶽丸を、田村丸は即座に斬りつけやした。然し、大嶽丸もそんじょそこらの鬼とはわけが違いやす。

 瞬く間に正体を現せば、身丈十丈(三十メートルほど)の鬼神が其処に立っておりやした。日月のやうに爛々と光る眼で田村丸を睨み、其の唸り声は天地を響かせ、瞬時に辺り一面に生み出した氷の剣や矛は其の数三百ばかり。其れを一斉に田村丸へと投げつけたのでございやす。

 然し、瞬時にして田村丸の両脇に千手観音と毘沙門天が現れ、其れらを全て弾きやす。怒った大嶽丸は、何千何百と云ふ数に分身して、田村丸に襲い掛かりやした。

 此処で田村丸は神仏の力の宿りしの鏑矢を放ちやす。一の矢が千の矢に、千の矢が万の矢に……分かれた矢は数千ほども在る鬼の頭を射抜いていったんでさァ。

 然し、なおも抵抗する大嶽丸。田村丸はソハヤノツルギを投げ放ち、其の本体の首を斬り落としたそうにございやす。

 是れにて田村の鬼退治の御噺、一件落着でさァ。見事大嶽丸を討ち取り、其の首を宇治の宝殿に封印し。田村丸は鈴鹿御前と其の生涯を共に過ごしたそうにございやす。


 ええ、此れはのちの世に伝え聞く——田村の草子の語りにございやす。




 べべん、とひとつ琵琶の音。


「さぁて、歴史の裏の草子を語り聞く覚悟はできたかぃ?」


 闇に語りかけるは、人でないものの声。




***




 さて、刻は田村丸の大嶽丸討伐より——数百年ののち。

 場所は同じくして鈴鹿山。

 其処にひとりの小童が歩いておりやした。


 ええ、そうでさァ。安倍晴明の屋敷にて数ヶ月の刻を過ごしておりやした、あの小童にございやす。

 ついと其の指先が空を撫ぜれば、木の葉がまるで踊るやうにくるくると空中にて留まり舞っておりやした。


「ンあァ、なんでぃ。人っ子ひとりいやしねぇ。こンな山奥、本当にあの野郎が云ふやうな鬼が棲んでンのかよゥ」

「然し……あの、その、姉上も鈴鹿の山の大嶽丸とは確かに云うておったではないか」

「かーっ、なぁにが姉上だ。女っ気の欠けらもねぇ鬼の副大将に、ンなこと義理立てる必要もねぇだろがぃ」

「首葛籠や。晴明殿に噺を聞かば、そなたも本心ではわかっておろう? あの厳しさは、己が鬼ゆえに死ぬことも添い遂げることも叶わなかった、茨木童子なりの優しさじゃ。それに……」

「……?」

「姉上の赫はまこと綺麗じゃ、血の紅ではなくあれは花の御色じゃ。わたしはどんなに鍛錬しようとも、あのやうに髪が動くこともない。すごい御方じゃ」

「……ったくおめぇは、あんな穴だらけにされといてよくそんなん思えるなァ」

「そなたもよくよくわたしをぶっておったではないか」


 少し微笑み、ほころぶ口元。指先をついと動かせば、木の葉が葛籠をくすぐるかのやうに撫ぜておりやす。


「っ、こンのぉ。性悪狐野郎から口先八丁学びやがって! ……云ったろォ、俺っちはぜってぇ謝ンねぇぞ」

「別に、謝罪なぞせずともよきものを」

「ンあァ! まずは其の古くさい話し言葉を如何にかしねェ!」


 足音ひとつに声ふたつ。

 耳を澄ませばなんとやら。


「おい、鈴鹿峠を越えたいんなら、こっちじゃねぇぞ」


 山の奥から、みっつめの声が聞こえてきたのでございやす。

 其れはまだ年若い、男児の声のやうにも聞こえやした。

 小童は声を張り、其の声に応えやす。


「いえ、わたしは鈴鹿峠を越えたいのではなく、此の山に棲まう大嶽丸殿に御目通りしたく参ったのでございまする」

「はん、酔狂な餓鬼かと思えば……鈴鹿山の大嶽丸は、何百年も前に討ち取られたって噺、知らんのか?」

「存じておりまする。然し、剣と共に還ってきた大嶽丸殿の噺をわたしはしておるのです」


 すると、辺りが——急に翳りやした。


「餓鬼よ、己がなんの噺をしておるのかわかっているか?」


 轟々と山の奥から響く声は、先ほどの男児のやうな声とは様変わりしております。小童は息をごくりと飲み、それでも一歩前へと踏み出しやした。


「わたしは、元は大江の山の茨木童子より鈴鹿山の噺を賜わった者にございまする。半身はヒトの身なれど、もう半身は鬼の血を宿しておるゆえ、此度は大獄丸殿に」


 云い終わらぬうちに、ひゅんと氷の矢が小童の頰を掠めやす。

 白布を解けば、つぅと頰には血が流れ、然し瞬く間にその傷は塞がってゆきやした。


「へぇ? 半分鬼の身ってのは本当らしいな」

「嘘は云いませぬ」


 山の奥からゆるりと姿を現したのは、声に反して随分と幼く、また青白い見目をした鬼でありやした。


「で? 茨木の縁者と云ったな、わざわざ京から何しにきた?」

「鬼をも斬れる剣、貴方様の手元にある顕明連をお貸しいただきとうございまする」


 翳ったままの其の場所に。瞬間、雷鳴が響きやした。


「あ? 今なんつった? 餓鬼」


 そう凄む鬼の蒼い眼の下には、もう一対の眼がぶちりと現れこちらを睨みやす。


「莫迦っ! 空也! もう少し云いようってモンがあんだろがぃ!」


 葛籠が叫ぶ声がようやっと聴こえるほどに、風が轟々と辺りには吹き荒れておったんでさァ。


「嘘は云わぬと申した! わたしは借りた剣にて、そなたの寝首をかくやうなことはせぬ!」

「……其の噺すら知ってて云うんなら、いい度胸してるじゃねぇか、餓鬼が」

「ほらほらほらァ! 如何見てもおめぇ逆撫でしてンじゃねェかよゥ!」

「わたしは、如何しても宇治の院に行かねばならぬのじゃ。そなたの持つ剣が、そなたの知恵が、必要なのじゃ大嶽丸殿。どうかお力を貸してはくださらぬか」


 其の言葉を聞くや否や、途端に風が凪いだんでさァ。


「宇治の院……だと?」

「いかにも」

「嗚呼、そうか。そうか半身か、そうだろうなぁ……お前なら宇治の院に立ち入れるってことか」


 云ふなり、鬼は今度は豪快に笑うのです。如何どうしたことかと小童が首を傾げれば、鬼はどかりと其処にあった岩の上へと座りやした。


「いいぜ、顕明連を貸してやる」


 小童が頭を下げやうと動くのを、ぴたりと鬼は手で制しやした。

 そしてにやりと嗤うと、こう続けたんでさァ。


「ひとつ、条件がある……。宇治の宝蔵に封印されていると云ふ、此の俺の——大嶽丸の首を、其奴を処分してくんならな」




 鈴鹿山の鬼退治の御噺、実はもうひとつ語られるものがあるのをご存知でしょうか?


 田村丸が大嶽丸を討つ、其の前に。三年の空白の月日があったと……憶えておいででしょうか?


 田村丸が賜わった帝の勅命は、峠を往来する民を襲う犯人を見定め討伐せよと云ふものにございやした。ええ、のちの世に知られる田村の語り、田村の草子とは。これは大嶽丸の首を持ち帰った田村丸の口より語られたものにございます。


 鈴鹿山にねェ、本来鬼は——ふたりおったんですよゥ。


 ええ、そらァ。知らぬことでしょうなァ。

 其の真実を隠すためにこそ、大嶽丸は討たれたのでございやすから——。

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