第弐拾弐話 うらみ葛の葉

 此度こたび語りやすは、現世うつしよ浮世うきよのモノガタリ。

 此の世は地獄と云いやすが、其処に救いは在るのかどうか——。




「やぁやぁ、この姿ではやっとお初にお目にかかるねぇ。ようきたようきた、ってね。茨木ともちゃんと話しはできたかい? あの子は大抵、天邪鬼だから」


 宇治橋の袂にて、牛のおらぬ牛車ぎっしゃの前に立っておるのは、歳の頃四十前後の男か。その声と話し方、ええ、すぐに小童にはわかりやした。彼こそが、安倍晴明その御仁だったンでさァ。


「でも……もう二度と来るなと」

「嗚呼、平気さ。きみが逢いたければ何度でも来るといい、縁とは切れても……望めばまた結べるものなのだよ。案外嬉しいんじゃないだろうかねぇ。ま、そこをばか正直に受け止めちゃったそれがしの古き知人と茨木は、お互い頑固すぎてついぞ逢うことはなかったから」


 俯き、はたと気づいたかのやうに、小童は懐を探りやす。先刻、投げつけられるかのやうに頬に当たった何か。懐に入りしそれを取り出せば……小さくて尖った、まるで欠けたつののやうなものにございやした。


「はぁん、あの子も本当に、素直じゃないねぇ」


 そう晴明は笑い、それは大切に持っていなさいと守り袋を小童に渡しやす。

 白を基調とした狩衣装束に、纏められた黒髪と烏帽子。すっとまるで筆で描いたかのやうな端正な笑みは、まさしく狐を母に持つと云ふ名残をその面立ちに残しておるかのようで。


「とりあえず、あれだ。今度こそは我が屋敷へと招待するよ。このまま宇治の院に行ったところで、まるで駄目だものね」


 鼻歌を歌うかのやうに何事かを口ずさみ、その両の掌が開かれると、はさり、ふわりと大量の和紙でできた式鬼しきが辺りに舞い始めやす。

 呆然としている小童に、晴明は微笑み、ほらと牛車の方へと誘う。彼の手がついと動けばしじが式鬼により持ってこられ、御簾みすすらも自然と掲げられておりやす。


「嗚呼、牛車はね、後ろから乗って前から降りるのだよ。覚えておくといい」


 にこりと微笑むその姿、小童は未だ戸惑っておりやした。

 背中を押されたと云ふことは、茨木童子もこの御仁に着いてゆけと暗に云っておったのでござんしょうが。此度は法住寺でも宇治橋でも、鬼にも残穢にも手も足も出なかった己れでございます。ええ、ええ、どうして良いのかも、何を選ぶが正しいかも、小童にはまるでわかりやしなかったんでさァ。


「首葛籠……わたしは、どうしたらよいのじゃ」


 ぎゅっとその葛籠の負紐を握り締めれば、はぁあとあからさまなため息が聞こえてきやす。


「知らねーよ。おめぇの行きたいところに行きなァ。云ったろ、おめぇの行きたいとこなら何処へでもってなァ」

「然し……」


 言い淀む小童の頭を、ぺしんと葛籠の蓋がはたきやす。


「阿呆ンだらァ。云うだろぃ? 旅は道連れってなァ。俺っちまだまだ喰い足りねーよ、此の世の果てでも地獄の果てでも道連れでィ」

「……その道連れとは、少々意味が違うやうな気が」


 おうよ、ばかやろう。そう聞こえた声とともに、再びぱしんと葛籠の蓋が小童の頭に当たりやす。


「ンでェ? 今のおめぇは何がしてぇ?」

「ふむ、横道も近道もなきとは……鬼とは人を超越しものなりと思いきや、存外にわづらわしけり」

「空也……」

「よいのじゃ、わたしはそなたがれば、何処へなりと参ろうぞ。……それに、急に乳母兄弟と思えと云われど、途方もなくてようわからぬ。されど、此度はそうじゃ、わたしは育ての者のことが少し……知りとうなった」

「いやそうじゃなくてよゥ……嗚呼もう、ちったぁその言葉遣いを、そろそろ如何どうにかしねェ!」


 紅き瞳は前を見据え、促さるるまま牛車へと。

 牛の引かぬ牛車が誰ぞと知れず、京の道々を静かに進んでいったそうな。




***




 和泉なる信太の森の葛の葉の 千枝に分かれてものをこそ思へ


 はて、こちらはかの古今和歌六帖こきんわかろくじょうにありやす、ひとつの御歌にございやす。

 和泉国いずみのくに信太森しのだのもり。「森は信太森」とは枕草子にもございやしたが、平安の人々はこの森を熊野詣での賑わいとともによくよく歌枕に詠んでおったそうでさァ。

 この森には古きに創建された神社がございやして、楠の木を御神木として祀っておりやす。何の因果か、ええ、こちらの楠はそののちに平安の花山天皇が熊野行幸くまのごこうの折に、千枝ちえくすの称を賜っておりやして。根本から二つに分かれ『夫婦楠』とも名高い御神木にございやす。


 こちらもとは信太森神社と云ふのが正式な名にございやすが、ひとつ……葛葉くずのは稲荷神社いなりじんじゃと云ふ呼び名もございやしてねェ。


 おや、おや、旦那ァ。狐はねェ、人を化かすのみならずにございやすよゥ。

 此度はこの森、ひいてはこの御社に纏わる心優しき白狐しろぎつねの御噺をいたしやしょうか。



 べべん、とひとつ琵琶の音。


 今は昔、村上天皇の御代のことにございます。

 摂津国に住んでおりやした阿部保名あべのやすなと云ふ者。冤罪により零落れいらくした阿部家の再興を願うため、此の信太の森へと日参いたしておったそうな。

 そんなある日、池のほとりにおった彼の前に、傷ついた一匹の白い狐が現れたと。かわいそうに思った保名はその白狐を庇い匿ったんでさァ。

 然し、逆に白狐を追ってきた狩人たちにそれを咎められ、保名は深い傷を負ってしまったそうで。目を覚ませば美しい娘に介抱されておったそうにございやす。

 彼女は名をくずと云い、その後も保名の家まで見舞いに来ては、甲斐甲斐しく傷の手当てをしておったそうな。

 やがて保名の傷が治る頃には二人は恋仲となり、めでたく夫婦となったのでございます。暫くすれば、かわいい男子も生まれたそうで、その子の名を童子丸と云いやした。

 幸せな日々は長くは続きやせんでした。そう、この葛の葉こそ、あの時信太の森で保名に救われた白狐。恩返しのためにやって参りましたが、そのまま保名を愛してしまっておったのです。

 そんな暮らしの六年目、ある秋の日にございやした。寝ている間に神通力を失い、正体である狐の姿を葛の葉は晒してしまいやす。母に寄り添い眠っていた童子丸は、はっとその姿に気づき、思わず泣いてしまったそうな。

 あゝ、ともに暮らすのもこれまでか……と葛の葉は口に筆をくわえ、ひとつ歌を書き残して屋敷を去ったそうにございやす。


『恋しくは たづねきてみよ 和泉なる 信太の森の うらみくずの葉』


 母の姿に驚きはしたものの、まだ幼き童子丸は母を恋しがり泣き止まぬ。保名は童子丸を背に負って、信太の森を訪ねてゆきやした。

 さすればなんと云ふことか、じっと森の奥から泣くその子供を見つめておる白狐がおったのです。保名は「葛の葉や、どうか在りし日の姿で我が子を今一度慰めてやってはくれまいか」と語りかけやす。

 狐が池の水面に姿をうつすと、現れたのは共に過ごした母の姿にございました。彼女は童子丸を抱き、形見にと白い珠を与えたのちに、再び狐の姿に戻り森の奥深くへと姿を消してしまったそうにございやす。

 信太の森の社の周りには、辺り一面に葛の葉っぱが生い茂っており、二人に応えるようにその葉の裏を見せてざわめいていたそうにございやす。


 その童子丸こそが、のちの安倍晴明その御仁でございまさァ。


 おんやぁ、ならばと納得がいったやうな御顔をしてなさる。そうでさァ、安倍晴明どのの伝説が、全てまことのものであるのならば。それは人の力を超えておりやす。狐の血を継いでおったのか……と思えば納得がいきましょう。

 ええ、ええ、如何でしょうか? 晴明どのの功績を思い出せば。狐は人を化かすだけにあらずと。そうは思いやせんか?


 おやまぁ、お帰りになるんで? まぁそうでしょうなァ。

 このやうな噺を聞いた後に、信太の森で狐を狩ろうなんて——思わぬでしょうからねェ。




***




「とまぁ、伝承上では其処でわが母子は別れ、某はそののちに賀茂忠行かものただゆき氏に弟子入りし、陰陽師となったわけだけど。ほら、縁は切られても結ぶことができると云ったであろう?」


 はて、時は平安も末のこと。

 牛車に揺られ、晴明の屋敷へと向かう道中、小童は彼ら母子の御噺を静かに聞いておったそうな。


「つまりは、まことの歴史はそうではなかったと」

「うん。だってねぇ某、母上に逢いたかったのだもの。まぁなんども探しに行ってたら、流石に「もういい歳なんだから、母上母上と森で声をあげるのはやめなさいな」と根を上げたように出てきてくれたって噺なのだけども」


 そう晴明は悪びれる様子もなくにっこりと笑い、頬杖をついておる。小童の隣に置かれた葛籠が、げふぅと呆れたやうな溜め息を吐いておったそうでさァ。


「まぁ、あとは某、おおよそ噂の通りだよ。のちの花山院殿がまだ親王(皇太子)時代には、命を受け那智山の大天狗とその一派を封じもしたさ。……まぁ其処らあたりの花山院殿のご活躍は、正直云えば京を脅かす鬼やあやかしどもには目の上のたんこぶだったのであろうね。ほら、某は宮中お抱えであるからして、位の上の方々の勅命や依頼が第一であったのだから……」


 其処で言葉を少し切り、何やら晴明は少しばかり寂しそうな顔を見せやした。

 ころころ、かたん、たたたん、きぃいっ、と音を立て、牛なき牛車は進みゆきやす。物見から、すっと外を眺めながら晴明はふぅと息をき、意を決したかのやうに語りを続けやす。


「花山殿はすこしばかり不思議なお方でね、繊細で傷つきやすくもあり……寂しがりな方でもあったのかな。だからこそ、酒呑童子たちはその最も愛した奥方を攫うと云ふ方法で意趣返しをしたのさ」

「つまり、早い話が。おめぇとその天皇貴族への胸糞悪ィ仕返しの結果、空也が生まれたってことでいいのかィ?」

「……まぁ、其処はどうととってもらっても構うまいよ。辛い想いをしたのは奥方であり、きみ自身なのだから」


「いや……」と小童が言い淀むと、同じ瞬間に「おやまぁ」と晴明がその切れ長の目を丸く見開き小首を傾げたのでございやす。


「ところでところで、母上が呼んでいた名前とどうも違うやうだけれど、きみは……今は空也と云ふのかい?」

「はい。この名は、首葛籠がつけてくれたもの。今のわたしは空也、それのみが名にございまする」

「へぇっ、こりゃまぁっ。名付けまでしたのかい……それはそれは。ふふーん。実のところ、きみの昔の名は母上が名付けたものだったりもするのだけど。うんうん、そちらの方が今のきみにはよぉく似合っておると、某は思うね」


 ころころ、かたん。

 たたたん、きぃいっ。


 揺れる牛車の中で、物見から差した陽の光が、晴明の表情を交互に照らしやす。それは先ほどのものよりも晴れやかなもののやうにも見えやした。


 ころころ、かたん。

 たたたん、きぃいっ。


「ねぇ、空也」

「なんでございましょうか?」

「この都は……覚えているかは果たして定かでないが。幼いきみと、某の母上が大波から護り抜いたものだ。そして、本来ならばきみは天皇家の血筋になるはずの子だった……と、知った今さ。この京の現状を見て、きみならばこの国をどうしたいと思うかい?」


 すすっと晴明の指が空を撫ぜれば、物見を開けてすらおらぬと云ふのに外の様子が窺えやした。


 華やかな京の都の平安京。それは宮の中、内裏と一部の貴族の住まいや、力をつけた武士の屋敷のみ。門の外は荒れ、物乞いをするぼろきれを纏った人々も少なくないときた。

 然し……それはねェ、決して都の事がらのみならず。小童が西国各所を歩み進んだ中で、数多く目にしておったものと変わりませぬ。


 小童はただただ、その目の前の様々な景色を見つめ。そして静かに口を開いたのでございやす。


「何も——。貴族や武士が豪華絢爛、華やかに暮らし、貧富の差を思えばなんと悲しきものかとは思いまするが。然し、決して貴族や武士の地位あるその生まれが幸せなのかと云われれば……それはわかりませぬゆえ」


 生みの母の、菅公の、歴史に名を残す武将たちの、その宮中の混乱逝く末を知っておる身とあらば。


「きみが、この国を変えようとは……?」


 不思議な術の景色も消え、すっと牛車の中が翳りやした。


「おい、ちょっ……」

「しぃっ、今いいところなんだからね」


 何か口出ししようと思ったか、葛籠の口をその式鬼でぺたりと晴明は塞ぎやす。

 紅き瞳が、ゆっくりと。然し、まっすぐに晴明を見返したそうな。


「なにも……」

「へっ?」

「い、いえ。わたしは今更……否、今も昔も、己の身分のことなぞ何も思うておりませぬ。その縁も——きっと姉上が切ってくれたのでしょうから」

「あらまっ……某と一緒に、この国がもっと己にとって暮らしやすくなるやうにしたいとは……思わないのかい? なんでもできちゃうよ?」

「いいえ。わたしは、ただの弱き空也でございまする。生まれが保証されずともとおまで生き、死して河原で首葛籠に巡り逢えたもの。……思い返せば、前も今も、与えられるばかりでございました。己とは、誰ぞあってのものとして、何ひとつ多くは望みませぬ」

「ふぅん、そっかそっか、天下人の欲はなし……か。そっかぁ」


 ぞわり、と牛車の中の空気が揺らぎ。

 小童の肌がぞくりと粟立ちやす。

 その細き目がまっすぐに見据え、まるでその背後には業火が視えるかのやう。


 ——こいしくば たずね来てみよ

 ——和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉


 晴明は、そう静かに口ずさみやす。

 人と暮らせぬ世を、人ならざるものを破じく世を、葛の葉はうらんでおったのでございやしょうか。さすれば、晴明は、人とあやかし——果たしてどちらの味方であったのか。


 べきべきべき、と葛籠が蓋に貼りつく式鬼をその悍ましい氣で焼き剥がしやす。

 まさに牛車の中は一触即発、そのやうに見えたかに思われたその刻——。


「なんちゃって♪」


 へへん、とその手首がくるりと翻り、指先には狐火が灯っておりやした。


「てんめぇ、このっ、冗談にしちゃぁ度が過ぎてらァ!」

「まぁまぁ、そう云ふまいよ。いいねいいね、矢張り気に入っちゃったよ。此の子は己れの生まれを知りながら、天下も玉座も全く興味がないときた。いやもう崇徳院も真っ青な無垢さだ。ふふふっ、某の母上が知ったらさぞお喜びになるだろうよ」

「こんのぉ、試すようなことしやがって狐野郎がァ」

「こ、これ首葛籠……そう荒ぶらずとも」


 はははははっ、と高らかに笑う声に、狐火も牛車の中をくるりくるりと回りやす。その炎に触れたかに思いやしたが、何ひとつ熱くはございませんでェ。


 ころころ、かたん。

 たたたん、きぃいっ。


 牛車の車輪の音が、辺りに戻ってまいりやした。


「うんうん、それならば、だよ。改めてようこそ。我が屋敷に招待しよう」


 前の御簾が巻き上がり、見たことのないやうな景色が広がりやす。


 そう、其処は京の一条戻橋、其の下をくぐり。うつつに視えぬもうひとつのお屋敷にございやした。


「晴明どの」

「ん? なんだい」


 先に降りゆく晴明の背に、小童はゆるりと声をかけやした。


「先ほどの……歌についてにございまするが」

「ああ、良いんだよ、気にせずとも。脅しに使っちゃったやうに聞こえただろうがね。皆々が如何どうとろうが、母上が本音はどうと思っていようとも、某は某なのだから」

「い、いえ。そうではなく……」


 うらみとは、一説には信太森に茂った葛の葉の裏側、その白き面を表すと云ふ。裏風の白さに、まるで姿を見せられぬ葛の葉の返事が込められておるような御言葉にございやす。

 然し乍ら——この刻の小童には違って聞こえたやうでさァ。


「うらみ……とは、怨念の意にのみならず。嘆き、悲しみの意を含む言葉にございまする。きっと晴明どのの母上は、子と別れひとり寂しく森に戻る身の上を詠んだのではないであろうか、と」

「そっか、嗚呼それもいいかもしれぬなぁ」


 ふふっ、と風に囁くやうに呟き。晴明は微笑んでおったそうな。


「そうきみが思ってくれるのならばなおのこと、母上も浮かばれると思うよ」



 ——恋しくは 訪ね来てみよ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉



 其処に「逢えずとも母は寂しく恋しく、信太の森でお前を待っておりますよ」の気持ちが込められていたとすれば……はてさて。



 然し、晴明はこの刻。

 己の言葉に、小童の瞳が少々揺らいだのを感じとっておりやした。


「浮かばれる……とは、どう云ふ意味にござりましょうか」


 彼は再びふうと息を吐き、静かに、然しはっきりと告げたのでございやす。


「すまないね。嗚呼きみは覚えてはおらぬのだったか……。そうさ、母上は——葛の葉はね、既に此の世にはおらぬのだよ」

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