第弐拾壱話 縁切り橋姫

 大江山の鬼退治から暫し経った、とある雨の降る夏の夜のこと。


 源頼光みなもとのよりみつの屋敷に集うは、の六人の武将たちなり。

 酒を呑み交わす彼らの話題は、もっぱら大江山の討伐や近頃のあれやそれやばかり。やがて宴もたけなわの頃、ふと思い出したかのやうに藤原保昌ふじわらのやすまさがこう口にしたそうにございやす。


「近頃、羅城門に鬼が出るとの話があるが、どう思う?」


 是れを聞いた四天王の大将格、碓井貞光うすいのさだみつもこう口を揃えて云ったそうな。


「私も噂を聞いたぞ。酒呑童子の討伐も、あれだけの大きな屋敷だ、もしや鬼を取り逃がした可能性もある」


 皆々、どう思いなさるか? との問いに卜部季武うらべのすえたけ坂田公時さかたのきんときもなるほどもしや……と頷きやす。ひとり、年若き綱のみがそれに反論したそうにございやす。


「そのようなことを……大江山にて鬼は成敗しましたでしょう。しかも羅城門とは、都も都。宇治ならばまだしも、仮に鬼の残党がいたとて、都は恐れて近づかぬとは思いますが……」


 その後も話は散々に別れやしたが、綱は鬼がなんの得があって王都に近づくか、の一点張り。とうとう貞光はわかったわかったと彼を宥めながら、こう云ったそうな。


「然しな、綱よ。もしも鬼が出たらどうとする」

「……それならば私が退治しますよ」


 それを聞いた豪傑、公時が綱の背中をぱしんと叩きやした。


「おう、云ったな? 云ったな綱ぁ、ならば今直ぐ羅城門へと向かい、確かめて参れよ。もし出た時は約束通り、お前が退治してこい」

「今からですか……」


 ふうと息を吐き太刀を手に取る綱に、保昌がにやにやと笑いながら「然し、独りで行ってはなんの証拠にもなるまいよ。証拠の札でも立てるか、それとも我らの助けが必要か」と揶揄いやす。当然、負けず嫌いであった綱は「では高札を立てて参りましょう、私ひとりで十分です」と鎧を身につけ、ひとり馬に乗り羅城門へと向かったそうな。


 しとしとと、雨の降る蒸し暑い夜にございました。

 暗く、雨の匂いが鼻につく。然し、城門が見えた時も綱はなんぞと一切恐れてやおりやせんでした。


「はぁ、誰もおらぬではないか。鬼よりも、警戒すべきことは此の世に多いであろうになぁ」


 馬を降り、綱は約束通りに高札をそこに立てやした。

「帰るか……」そう馬に跨ろうとした、その時——。


 突如雨風が門の周りを襲うやうに轟々と吹き荒れ、背後に只ならぬ気配を感じた綱。振り向く間も無く、その兜ごと何者かに掴まれ天高く飛び上がり、羅城門の屋根の上に叩きつけられたのでございやす。

 再び背後から強い力で首を絞められやうとしたところ、「おのれっ」と綱は太刀を引き抜き一刀のもとその何者かの腕を斬り落としたンでさァ。


「はん! ざまあみろやぃ! だぁれが女は斬らねーだ、おれは男だって云ったろぉが!」

「おまえ……」


 そこでにっかりと不気味に嗤っていたのは、片腕から大量の血を迸らせた茨木童子にございやした。もうひとつの腕で着物をはだけさせたその姿は、まこと男児のようでもありやして。


「へへんだ! 舐めたことしやがって、いいか、その腕、てめぇに預けといてやる。近いうちに、何としてでも取り返してやるから覚悟しとけやばかやろう!!」

「お、おいっ!」


 まるで少年のやうにけたけたと嗤った茨木童子は、「おらよっ」と呆気にとられた綱を門の前へと転がすように落とすと、ひょうと何処ぞへと翔び去ったそうにございやす。


「何処ぞの山で、そよ風に吹かれておればよいものを……」


 はぁ、とため息を吐くは綱。その手元に残された鬼の腕は、嫌がらせであろうか……あのやうな怪力を見せたとは思えぬほど、美しく爪の先まで整えられた女のものでありやした。


「完っ全に、完全にこりゃぁ嫌がらせだねぇ。「女は斬らん」なんて澄まして云ふからさ。だから云ったじゃないか綱、もう少しね、きみは言葉多めに語るべきなのだよ」


 はて、屋敷に腕を抱えて帰ってきた綱を見た他の者は仰天し、安倍晴明を急ぎ呼ぶやら、慰めにと呑み直すやら。騒がしくその晩は更けて云ったそうな。



 さて、してやったりの茨木童子。

 然し、羅城門に巣食っておったことが明るみになれば、今晩あの場所へと帰るわけにはいかぬ。はてどうするか、と考えておったところ、遥か下の川沿いより、おなごの啜り泣く声が聞こえてきたそうな。


 嗤ってはみたもののの斬られた腕は確かに痛む、であれば人でも喰っておこうかと、其の声の主を探したそうにございやす。


 降りた先は宇治川に掛かる橋、そう遠くない場所には宇治の院、酒呑童子の呻き声がその身に流るる血に響いてますます痛むやう。

 しとしとと雨の降り続く中、かつーんこつーんと釘を打つやうな音と、泣き声頼りに様子を伺えば、其処には異形となりかけておったひとりの女がおったそうにございやす。

 その姿、禍々しけれど、決して負ける相手ではござらぬ。茨木童子はどうしたものかと気紛れに声をかけたそうな。


 女は、百年ほど前から此の橋に居るそうで、元は公卿の娘であり、最早己の名は思い出せぬと云ふ。

 さてその女、聞かば底知れぬほどに嫉妬深く、故に鬼となり此の地に留まって居ると。


 其の頃貴船の社に詣でては、七日間籠りひたすらに「帰命頂礼貴船大明神、願わくは私を生きながら鬼神にしてくださいませ。あの妬ましい女をとり殺してやりたいのです」と祈っておったと云ふ。

 明神は其の姿を哀れに思ったのか、「本当に鬼になりたいのならば、己の姿を鬼にみたて宇治の川瀬に二十一日漬かりなさい」と示現があったそうな。

 であれば、と女は其の髪を五つに分けて結び角にみたて、顔には朱をさし、体に丹を塗って全身を赤くしたと。さらには、三脚の鉄輪を逆さにし其の頭に乗せ、三本其々の脚に松明を差して燃やし、両端を燃やした松明を口に咥え五つの火を灯したと云いやす。

 恨みを口々に、其の姿を目にした者は恐れ、倒れ伏して死んでしまったそうにございやす。


 宇治川に浸かるところ二十一日、女は生きながらにして鬼になり、望み通りに妬んでいた女を呪い殺してしまいやした。それだけでは飽き足らず、縁者、親族、友人、しまいにはもう誰彼と見境つかずに殺す鬼神になっておったと云ふ。


「誰にも愛されずに最早待つ人もおらず……此の世にござりまするのは、ただひたすらに怨みつらみの情にございまする」

「鬼になったっつうのに、愛されやうなんざ……そりゃおかしな話だぜ?」

「けれども、今や妾は多くの呪詛と共に此の地に縛られる身。橋から動けず、呪いの橋姫とすら呼ばれておりまする」

「はぁん、ヒトってのも、存外愚かで莫迦なんだなぁ。そうだ、姫さん、そんならよ、其の呪いをおれにくれや、おれは縁切りの類いが得意なんだぜ?」


 ふんだ、これほどの呪いがあれば、あの澄ました武将に一泡吹かせてやれよう。元より、ヒトの身では無きものよ、橋の縁を受け継いだとて京の中なれば走り回れようぞ。

 

 こうしてぷつん、と女と現世の因縁の糸を切り、宇治川の女の念を其の血肉と共に取り込んだ茨木童子。

 指にべっとりと着いた女の血を舐めとっておれば、其の怨みつらみか、朱色の肌は暫しの間焼け爛れたそうにございやす。

 曰く、「如何どうしてあの女「有り難う」なんざ云いやがったんだろう」と。其の刻の茨木童子には一切ヒトの情なぞ理解できなんだそうでさァ。


 茨木童子はねぇ、ただ、ただ、綱と勝負がしたかったそうにございやす。

 大江山で果たせなかった真っ向勝負、今度こそと息巻いておったそうで。


 然し一条戻橋、美しい女に化けて綱を欺いてやろうとしたところ。綱から掛けられたのは失望の言葉にございやした。

「私は、そうはなってほしくはなかったのに」と——。

 驚いた茨木童子は、思わず腕を取り返すことも忘れ、一旦宇治橋まで舞い戻りやす。


 どうして? どうしてだろう?

 遥々やってきて、今度こそ、今度こそは勝負をして討ち取ってくれるとばかりに思っていたのに。


 あゝそうか——。

 大江山で云われた言葉、「死にたがりを死なせてやる義理もない」とはそうだったのか。

 実の父にまで辱められ、鬼としても父の二番手、ようやっと己れを見てくれた者がおったと云ふに。宇治橋の奇縁を取り込んでおった茨木童子は、祀らるる橋の鬼神と同義となり、今や自由に跳び回れもできず、ましてや勝手気侭に死ぬことも叶わぬ身——。

 ヒトである綱が、曲がりなりにも京の川に掛かる橋の神を斬ることなぞ、許されぬことであったのでさァ。


 初めて——童子は生まれ落ちてより百年、其の刻初めて泣いたそうな。

 川のせせらぎに隠されし、鬼の涙は見えずとて。




***




「おとうとぉ!? なンでぃ、おめぇ酒呑童子の子だったのかァ!?」


 はっと、散り散りになる和紙と、川の音に昔を思い出しておった茨木童子は、葛籠の素っ頓狂な声に顔を思い切りしかめたそうでェ。


「うるせーよ、だとしたらなんだ? あのオヤジどのだぜ? 腹違いの兄弟なんざごまんといらァ!」


 まぁ、あれだ、ヒトの胎から生まれて今の世まで残ってる奴はいねーけど。そう頭をばりばりと掻きながら心底嫌そうな顔で、茨木童子は呟きやす。


「いいか、オヤジどのにとってな、己れの仔なんざ石っころと同義よ。享楽に耽り、弄び、使えるやうなら利用する、それで生き残るのが鬼の仔よ。親兄弟の義理なんざ、夢のまた夢だぜ」


 おい白いの! とがなる声に、小童はびくりと身体を震わせやした。

 がしりと前髪を掴まれ、再び其の顔をまじまじと金色の瞳が鋭く見つめておりやす。


「探したところでちっこい角もやっぱねーか。どうしたこって半端もんだなぁ、おまえなんざ露ほども鬼じゃねーよ」


 ぱしんっ、と再び其の小さな頰が張られやす。

 然し、今度は視える程度の疾さで。


「うっ……」

「おう、悔しいか? 悔しいかって聞いてんだコラ」


 こくりと頷く小童に、がつんと今度は拳が降ってきやす。


「い、痛いっ」

「おう、痛てえか? 莫迦かおまえ、オヤジどのの可愛がりはこんなもんじゃねーよ。やっぱおまえ、鬼なんざ向いてねーんだわ。つまりはおまえ、おれの弟じゃねーんだよ」


 頭を押さえたまま、うずくまる小童にはぁと呆れたやうなため息が降り注ぎやす。見上げれば、「んっ」と茨木童子が其の長い爪で、今度は己の真後ろの方角を指しておりやす。


「お迎えだ、クソ餓鬼」


 見れば、橋のたもとには一台の牛車が止まっておりやす。牛車のやうには見えど、牛なぞ何処にもおりやしやせんで。

 中からちょいと手招きする手と、それに続くやうに現れたるはひとりの男にございやした。


「晴明どの……か」

「あのくそじじい、若作りも大概にしろってんだよな」


 おら、行けよ。其の声に弾かれるやうに、其の身がしゃんと起こされやす。小童はいそいそと、葛籠を背に負いやした。


「宇治の院は、化け物には入れねー。ひとつ、ヒトの身、法力あれば出入りが自由と聞いた……おまえが行ったところで、オヤジどのに喰われて終わりだ出来損ないめ」

「あ、あの……」

「あんなのは、逢うもんじゃねーが。もしだ、もしどうしてもってんならよ。ひとつ、鈴鹿山の大嶽丸ってのには逢っておけ。あのじじいと合わせて、鬼の殺し方くらい学んどくんだな莫迦」

「……」

「二度とくんな、縁切り、縁切り、縁切りだ! おまえとは親も兄弟も、なんもかんもありゃしねぇ。血を分けた父親も、生みの母も、全部だ、全部関係ねー赤の他人だ」


 ——ぷつんっ。

 ——ぶつ、ん。

 ——ぶつんっっ。


 其の耳元で、何か太い糸が続けざまに切れたやうな音がしたと云いやす。

 すすす、とその身体は橋から追い出されるかのやうに、少し困ったやうな表情で首を傾げる男の元へと宙を流れてゆきやした。


「其処のぼろ箱との縁は残しといてやるよ……どっかの野山で、ずっと花でも眺めてろ、ばかやろう」

「そ、そのっ……茨木童子どのっ」


 ぺしん……っ。

 返事は在らず、何か鋭いものが小童の頰に当たりやした。


 後に残るは、川のせせらぎ。


「あのっ、その……っ」


 ——お達者で……姉上。


 ……其の言葉が、背を向けたままの茨木童子に届いたか否か。

 それは鬼のみが知ることにございやす——。



「おぅい、茨木! 百年ほど云い忘れてたよ、綱が「感謝する」って。そう云ってたんだ」


 晴明の言葉に、もう一度はっと小童が橋を振り返れば。

 そこにはもう、影ひとつ残ってはいなかったそうにございやす。




***




 べべん、とひとつ琵琶の音。


 はて、茨木童子が腕を取り返した夜のこと。未だ御噺しておりやせんでしたねェ。

 伝承では、物忌み中の札を貼り、ひとりとして其の宿所に人を通さぬよう努めておった綱のもとに、彼の育ての叔母が参ったと云ふものがございやす。


 もちろんこれは、叔母の姿に化けた茨木童子。

 次はいつ来れるか分からぬ身、せめてひと目……と囁く叔母の声に、綱は思わず扉を開けて話してしまったと。

 物忌みのわけを聞かれ、是れ此れこうです、と説明し鬼の腕の入った箱を指すと。変身を解いた茨木童子はけたけたと嗤い、其の腕を取り返しては扉を突き破り、あれよあれよと云ふ間に飛び去ってしまったそうにございやす。

「本来の叔母はどうしている!?」と問うた綱に、童子は「知らねーよ、姿を借りたって事はそう云ふこった!」と乱暴に叫び返したそうな。


 綱は慌て、摂津国まで馬をとばし、叔母の無事を確認しにゆけば。なんのことやらとばかりに叔母は無事。京で武勲を立てなかなか帰り寄ることのなかった綱との再会を、涙ながらに喜んだそうにございやす。

 話を聞かば、数日前に着物が盗まれたが、代わりに悪縁を切るとされるお札が着物のあった場所に置いてあったそうな。

 其のお札は、宇治川のほとりにある橋姫神社のものとして、今でも語り継がれておるものにございやす。


 渡辺綱はその後、丹後守に叙されたそうで。

 生涯を終える其の刻まで、二度と茨木童子に逢う事はなかったそうにございやす。


 ただ、彼の屋敷の庭には。

 それはそれは鮮やかな真紅の椿が、毎年必ず美しい花を咲かせていたそうな。

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