第弐拾話 詞大江山と茨木童子
年を経て鬼の岩屋に春の来て、風や誘ひて花を散らさん
——はてさて、其処に通り抜けたのはただの果敢な春風であったのでしょうか。
さて、京へと戻りし小童が対峙しやしたは、探し求めた羅城門の鬼、茨木童子。どうやら穏便に事は進まぬやうですが、果たして如何なもんでございましょう——。
「そ、そなた、羅城門の鬼……とお見受けするが、いばらき……童子、その者であるのか」
「はっっ!? 何この餓鬼、自分の立場わかってんの?」
京の都より幾ばくか離れた橋の上、その髪を鬼に掴まれ宙づりにされたままの小童は、紅き眼で必死に鬼を見つめておりやした。
鬼は、ひとで云えば歳の頃十六、七ほどでしょうか。少しばかり朱に近い肌の色と、その真っ赤な長髪の隙間からは金色の瞳が睨むやうな鋭さで小童を見据えておりやす。
葛籠の上に座ったまま、幼き身と云えど小童を片手でひょいと持ち上げるその怪力は、まさしく鬼のものにございやした。
「まぁ、まさしくおれさま、茨木童子よ」
すんすん、と小童の首筋に鼻を寄せつつ、茨木童子はあっさりとそう告げたのでございやす。
「で、であればその腕……」
痛みに顔を歪めながら、必死に小童は言葉を紡ぎやす。
こちらをじっと見つめる金色の瞳……その鬼には腕が二本、しっかりとついておったのです。
「あ? 腕?」
「そう……じゃ。聞けばそなた、失くした腕を取り戻し、あっと云ふ間に
「まぁそりゃあ、おまえみてーな半端モンじゃねーからな。腕ぐらいくっつくさ」
ほれ、と茨木童子は小童を掴んだままの腕にひょいと視線を投げかけやす。おやまぁなんと、一切の接ぎ目なく、その腕は動いておったンでさァ。
小童の視線を見るや、今度は茨木童子の方がどうと息を吐きやした。
「おれの腕なんざどーでもいいだろ、喰われちまうかもしれねー時に随分な余裕だなぁ……おい餓鬼」
ぱんっ、とその頰が目に見えぬ疾さで張られやす。あまりに瞬間の出来事、痛みよりも驚きが勝り、小童は泣くことすらかないませぬ。
「今のも見えねーってんなら、オヤジどのの血も有りながら、ほんと外れを引いちまったか」
「てンめぇ……」
がたがたと葛籠の蓋が震え、怒気を孕んだ氣の流れが辺りに満ちるかのやう。
「うるっせぇな、ぼろ箱。こいつの首、ひと思いに捻じ切ってやっても良いんだぜ?」
「このっ……」
かかかっ、と嗤いながら、茨木童子は小童の頰にその黒い爪の先をついと撫ぜるやうに喰い込ませやす。ぷつり、と白き肌が裂け、一筋の血が流れ落ちやした。
ぞぞぞぞっと空気が蠢き、まさに一触即発。
「わたしは殺しても死なぬ身じゃ……その、首葛籠はわたしの恩人、彼の身体を取り戻すため、わたしは京へ参ったのじゃ。鬼よ、そなたの腕は、斬られた腕を取り返したものとはまことのことか」
「うるっせぇ!!」
「空也ァッ!!!」
何が気に障ったのか。声を荒げた茨木童子、その鋭き髪が束となり、まるで槍の如く小童の身体を瞬時に貫いておったのです。しかし——。
「痛みはあるが……死ねぬのじゃ……」
「なっ……化け物かおまえっ」
思わず解いた茨木童子の腕から、小童の身体はどたりと橋の上に投げ出されやす。
死せぬ身と云えど、じゅくじゅくとした痛みに内側から裂かれるやう。橋に叩きつけられた痛みも合わせ、口も聞けずに震える小童を、茨木童子は呆気にとられて見つめておりやした。
「ほんとに、ほんとに死ねねーのかよ……」
ううっ、と呻く小童に何を思ったのでしょうか。
その爪の先をくるくると、手繰り寄せるやうに茨木童子が動かせば。
「糸……?」
相変わらず地の底から響くやうな唸り声を発する葛籠の上に偉そうに座ったまま、茨木童子はその何処からか伸びた数本の光る糸を、眼前でぴんと張り——。
——ぷ、つんっ。
なんと、其の空いた方の爪でぷつんと全てを切ってしまったんでさァ。
おや、おや、なんと。見れば小童の血は止まり、痛みも引いておったと。
「これは……?」
「痛みと傷との
あゝつまんねぇ、そう云ふと茨木童子は葛籠から降り、それを蹴って小童の方へと追いやったそうな。
ぢるぢる……と音を立てながら、小童の腹に開いた風穴が塞がる様を見ては、その金色の瞳に心底憐れむやうな揺らぎがあったかのやうに見えたと云いやす。
「行けよ、そしてもう来るな」
「し、しかし……」
「角も生えてねー半端もんが。久々に切れ端にでもありつけるかと思えば……。なんて体たらくだ、恥ずかしくっておまえみたいなのを喰ったところで、なんの得にもなりゃしねー。ほら、くるりと後ろをむきゃぁ京から離れられる、さっさと失せろ」
「おれの気が変わらねーうちにだ」と、つまらなそうにその足を投げ出し、小童の後ろを指すは茨木童子。
其の時にございやした。
『嗚呼、もう限界げんかいっ、葛籠の鬼ってば念が強いんだもの』
何処からか、あの気の抜けた声が聞こえてきたのでございやす。
「晴明どの……」
『嗚呼、此処ね、ここ』
なんと、一切唸り声以外を発せぬと思いきや、
見れば、其の紙の端々が黒く燃えたかのやうに焼き切れ始めておりやした。
「ぶはぁっ!! こンのやろぉ紙切れが! 何しやがンでぃ!」
『まあまあ落ち着き給え。兎にも角にも、君が茨木を喰わずによかったよかった』
嗚呼、毒に対する耐久性がもっと必要かなぁ。そんな独り言が蛙の和紙からぶつぶつと響きやす。
もはや其の端々は完全に焼き切れ、蛙の胴体と頭を残した紙が橋の上にぺたりと張り付いておるばかり。
『某、流石に足は疾くないし、間に合いそうにないやと思ったんでね。川の流れと共に参上させてもらったよ……あっ、消えそう、ちょっと待っててくれたり』
「クソ陰陽師が、じじいらしくさっさと隠居しやがれ」
『あっ、ちょっ、破かないでくれ給えよ』
呆れたやうな声を出しながら、いつの間にやら其の長髪を伸ばした茨木童子が、蛙の紙をちょいとつついては破きにかかっておったのでさァ。
『だめだよ、茨木。今度は……今度ばかりは逃げてはだめ』
「……」
『ちゃんと話してあげなよ、其の子はきみの……』
「黙れくそじじい」
ぱんっ、と橋を打つ音が響き渡れば。
残りの和紙は既に四散し、跳ねておりやした。
其の和紙が完全に消えゆく前に放った御言葉に。
舌打ちの音と、はっとひとりとひとつの息を飲む音が。
此処、宇治橋に響いたそうな。
『茨木や、其の子はきみの、弟じゃないか——』
***
時は遡りて、一条天皇の
そもそも、彼らは一体なんだったのか。此処らでひとつ、貴族社会の栄華極めし平安の世を混乱へと陥れたと云われる、大江の山の鬼の大将、酒呑童子についてェ御噺しておきやしょうか。
元は
まぁ伝教大師(最澄)の頃からその存在が知られておったそうですから、百から二百はとうに生きておりやすでしょう。そのやうな長寿、人ならざるものにしかおらぬでしょうからなァ。
其の頃、京の都では若者や貴族の若君や姫が次々と神隠しにあっておる事件が急増しておったそうな。
是れは何事か、と帝が安倍晴明に占わせたところ、大江山の酒呑童子一派の仕業と。京のみならず、全国各地に其の被害は及んでおり、攫われた者たちは、側に仕えさせられるか生きたまま喰われておると云ふ。
長徳元年(995年)、帝の命により
数々の武勇に名高い六人も、これは一筋縄ではいかんと思ったのでしょう。八幡大菩薩にお参りをしたのちに、山伏に扮して其の根城を訪ねたそうにございやす。
ちょうどそこには、攫われた娘のひとりと名乗るものが洗濯に出ておりやして。娘が云ふには「彼らは酒と称して人の血を呑み、肴と称しては生きた人を捌いて食べるのです。ちょうど、今朝もまた数名、贄とされました。私が洗っておるのは其の者たちの衣にございまする」と。六人は娘に素性を話し、いよいよ酒呑童子の根城へと潜り込んだのでございやす。
さぁさ、鬼も馬鹿ではござんせん。あれやこれやと難癖をつけ、彼らが己らを退治しにきた頼光一行ではないかどうかを探っておったそうにございやす。
現れた酒呑童子はそれはそれは大きな、五色の色全てを身体に持つ禍々しい鬼で。彼に控えた鬼はそれぞれに色がついておったと云いまさァ。
酒呑童子の膝の上には先ほど洗濯をしておった娘が、薄い着物一枚といった様相でとらわれておりやした。見れば、酒の相手をさせられておるのです。
鬼どもを退治するため、と。彼らはひとの血肉がふるまわれる間も、眼前でひとが惨たらしく処される間も、耐えねばなりませんでした。
そうして漸くといったところか、酒呑童子と其の配下の者どもに八幡大菩薩より授かった
あれよあれよとのうちに、毒入りの酒とは知らずに気分良く酩酊していく鬼たちよ。
都よりいかなる人の迷ひ来て酒や肴のかざしとはなる、おもしろや、おもしろや。そう唄ってはがはがはと下品に嗤うばかり。
これを聞いて、一番年若き美男子であった渡辺綱は扇を手に、舞を披露したそうにございやす。
「年を経て鬼の岩屋に春の来て、風や誘ひて花を散らさん」
すぅと其の扇は、酒呑童子の膝の上にまだ乗せられたままの娘に向いたとか、そうでないとか。
さて、酒の毒が回りすっかり鬼どもが寝静まった頃。
頼光らは持参しておった武具でそれぞれに武装し、片っ端から鬼どもを成敗してゆきやした。
そして大将、酒呑童子の寝所へと忍び込み、其の手足を鎖で縛りつけ斬りつけたんでさァ。流石は大将首と云いやしょうか、いくら酒の毒が回りきったと云えど、その暴れやうは凄まじいものにございやした。
「なさけなしとよ客僧たち、偽りなしと聞きつるに、鬼に横道なきものを!」
「聞く耳持たぬ、お前の云えたことではないわ!」
頼光は、そう云ふなり一閃、其の首を落としたそうにございやす。
酒呑童子の首は飛び上がり、怒りに燃えた眼で頼光の首を喰い千切ろうとしやしたが、八幡大菩薩より授かった兜がそれを阻んだそうにございやす。
頼光たちは急ぎ其の首を封印し、恨み言と唸り声を上げ続ける其れを都へと運び。確かな検分ののちにその首級は、宇治の院の宝殿へと納められたそうにございやす。その首は、いまだ宇治にて唸り続け、時折都を揺らしておるのだとか。
是れにて大江の山の鬼退治。
めでたしめでたし、にございやす。絵巻の上では、ね——。
はて此処でもうひとつ。なぁに、坊主の独り言にございやすよゥ。
保昌と頼光四天王の者たちはそれぞれに
そして、酒呑童子に次ぐ鬼として伝えられておりやした副大将の茨木童子。
「お前だろう? 俺は女は斬らん、好きに生きるがいいさ」
酒呑童子が討たれたのちの混乱の間。
奥の座敷にてひとりそう語るは渡辺綱。なんとまぁ、綱の首を掻き切ろうと背後から襲ってきたのは、あの洗濯をしていた娘だったのでございやす。
「うるせぇ五月蝿ぇ! おれは男だ! おまえ、実は他の奴らより強いだろう? 隠したって無駄さ、鬼退治のためとは云え、人の血を飲んだ気分はどうだい?」
そう嗤うと、女の顔はみるみる変貌してゆきやした。
黒髪は赫へと、瞳は獣のやうな金色へ、其の肌は朱色へと。
「オヤジどのは外道さ、あゝこれでやっとおれも自由さ。ヒトの身に飽きたと云っちゃぁ、あの野郎、鬼の身体を持ち男にも女にもなれるおれであそぶのさ。熊童子どもももはや慣れっこの光景よ、そこに親も仔もないっちゃぁ、情けねーだろ、鬼の未来なんざ知れてらぁ」
畳に壁に天井に、二人はまるで飛ぶかのやうに間合いの攻防を繰り広げやす。二人の実力は拮抗しておりやした。
挑発するやうな声にも、綱は言葉を発しやせん。
それどころか、刀すら抜かぬ様子。茨木童子はそれはそれは怒り狂ったそうにございやす。
其の髪を振り乱し、綱の身体を貫いたかに……見えやした。
「血なまぐさい風でなく、お前の髪の色をした花の咲く……山の風にでも当たればいいのに」
「こん……のやろう、すかしやがって」
「女は斬らん。それに……死にたがりを死なせてやる義理もないからな」
綱が手から放ったのは、其の昔に彼が討伐した土蜘蛛の糸にございやした。
そう、彼はほとぼりが冷めるまで、と。茨木童子を其の奥座敷に封印しておったのです。
囚われていた者たちの有様は、そらァ酷いもんだったそうにございやす。
鬼の屋敷の奥には白骨が散らばり、気の触れた姫や腹の膨れた娘たち、手足を削がれたものもいたと。
彼らを全て救い出し、京に酒呑童子の首級を納めた六人は、そののちに多くの褒美を頂戴したと云ふ。
然し、無事に囚われていた者たちの全てが帰りつけたのか如何か。それは記録に残っておらず、だぁれぞ知りんせん。
そののちに封印の解けた茨木童子が、腹いせに渡辺綱に仕返しにくるのですが。是れはまた別の御噺——。
ですがァ、聞いたところによりやすと。
この真実をひとり知っておらした安倍晴明は。
「綱、さすがにそれじゃあ逆恨みされちゃうよ?」
と苦笑いをしておったそうな。
はてさて然し、此度は坊主の独り言。謂わば戯言紛いの代物にございやす。
信ずるも、捨て置くも、その御心のままに。
べべん、とひとつ琵琶の音。
世は儚きに、是れはさながら地獄の如し。
何を以って鬼と云いやしょうか。
辱められ手に負えぬ娘がおったとて、記録なきところへとやった貴族の方々は——果たして其れはヒトの所業であったのでございやしょうか。
あゝおもしろや、おもしろや。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます