急
第捨玖話 羅城門の鬼
此の世は地獄と云いやすが、其処に救いは在るのかどうか——。
さて、まだ法住寺合戦の爪痕残りし其の場所で、倒れ伏したままのひとりの小童と……その側に転がったままのひとつの葛籠。
彼らの目の前で語る異質な存在は、己が名を安倍晴明と名乗ったそうにございやす。
——
平安の世に現れた稀代の天才陰陽師、其の力は天文道の奥義取得のみならず、あらゆる占術に精通し、呪術や物の怪の調伏にまで及び、何百と云ふ
『とはいえなんとも。久方ぶりの京なのだろう? 嗚呼、きみはそうか、都をあまり知らぬのだよなぁ』
ひらりひらりと舞う人の形をした和紙が、すらすらと小童の身を撫でたところによれば、たちまちのうちにその傷は塞がったと云いやす。
ええ、まあそうでさァ。小童の特殊な身の上からすれば、傷なぞ放っておいてもやがて癒えておりやしたでしょう。然し此のほんの気遣いがまた、
小童は何がなんだか、今しがた起こったばかりのことに、茫然自失と云った有り様でございやした。
『
ついておいで、と云ふその
「なぁ、くう」
「首葛籠は、知っておったのか?」
「……」
「かあ……さまのこと、何処ぞの身分の者かも全て知っておったのであろう?」
「……まぁ」
「何故じゃ。教えてくれておれば、こんな、こんな……」
いつもの癖で、琵琶も葛籠もしかとその手のうちにはござれども。小童の心は此処にあらずと云ふやうで。はたまた、葛籠の鬼も、謝ると云ふことを存じませぬ。
流れ落ちる涙が、手の中にある葛籠に落ちては沁みて、落ちては濡らしてゆきやすが、葛籠も後ろ暗く思っておったのでしょう、何にも云いやせんで。
『なんだいなんだい、鬼って云ふからもっとあれだ。それこそきみの父酒呑童子や昔の
『怒りを以ってして、事に当たるをするべからず。悲しみに、その身を任す事なかれ……』
「……其の御言葉は」
『覚えていらっしゃる御様子だねぇ』
いつの間にやら石畳となった道の上を、とんとんっと跳ぶやうに翔ける
『きみの母上はもう……そう長くは生きられなかった。取り上げられた赤子を誰もが気味悪がり、しかも帝の血も一切継いではおらぬと云えば、生かしておく義理も何もなかろうよ?』
「では何故……」
『其処は
てんてん、とととん、と
『だって、きみは生きやうとしていたのだもの。泣いて、精一杯其の小さな肺に空気を呑み込んで。幾ら鬼の血を半分継いでおろうが、誰もが忌み嫌おうが。其れは……一切きみのせいではないのだよ』
「し、然し……」
とまぁ、と
『それに生まれたばかりのきみは、なんと云うか……うん。ヒト其の物だったのだよ。世を恨みもせねば神通力なぞこれっぽっちも持っちゃぁいない、某と違って人語を解しもしなかった。それならば尚の事、とね。あとはまぁ、先にも云ったやうに、某の母上が凄い剣幕さ、これでも母には頭が上がらなくてねぇ……』
はははっ、と笑う声は軽やかで。
安倍晴明その御仁が如何に母を敬愛しておるのか、其の言葉だけでも手に取るやうに伝わってきやした。
現れた和紙の小鳥たちは、物珍しそうに小童の肩や頭に止まり、其の手にある葛籠にとまってはつんつんと
「うぉい、こんちくしょうめ、なにしやがンでぃ」
『少々境遇は異なれど、生まれの似た者同士さ。きっと此の先も生まれ来るであろう、きみのやうな子を……救えやしないか。我ら母子はそう思っていてね。どうにも然し、きみが賢く育つまでなんとか見守ろうとしたのだが……』
座敷牢とはまた不憫なことをした、そう語る
「それで……。多くの者はわたしを恐れ、口をきくことすら疎うておったが、夜な夜な響いた琴の音やあの声は」
『嗚呼、某の母上だ。なぁに、今どき実母が我が子の世話をするなぞ、宮中ではほぼ無いことよ。云うなれば、某ときみは乳母兄弟のやうなものさ。よきにはからえ、なんちゃって』
ばさばさばさ、と遊ぶやうに周囲にあった和紙の小鳥が飛び退りやす。
気づけば、其の頬にあった涙は乾き、鳥を愛でつつも葛籠に張り付く和紙を取っておる小童がおりやした。
『ほぉら、心に余裕があると、きみはそんなにも他者のことをそもそもが思いやれる仔なんだよ?』
「ちが……これは」
『きみたちの奇妙な縁は、単なる親と仔よりも結びつきが強いと思うがねぇ……
ふわりと目の前に現れた和紙の紐に、「けっ」と葛籠は呆れたやうな舌打ちを返したそうな。
***
ゆくはかえるの戻り橋
お戻りなさるぞ 御主人が
法住寺より京をぐるりと。向かう先、晴明は己の屋敷はとある橋の西側にあると仰いやした。
「然しおめぇ、其の噺が正しいってンならァ、一体おめぇは今幾つだぃ?」
『おやおやぁ、歳なんてヒトしか気にしないと思っていたのに。そんな野暮な事を聞いちゃうかい?』
「いや……単純におかしいだろォが。空也が賽の河原に来てからァ、もう百年はとうに過ぎてんだ。生前の事を知ってるンなら尚の事……つーか安倍晴明と聞きゃあ、鬼を使役してるっつー稀有な野郎だってのは、俺っちだって知ってらァ」
「どういう意味じゃ?」
あまり理解しておらぬ様子の小童に、然しふたたびその真紅の瞳が己に向いたことを安堵したかのやうに、葛籠は語りやす。
「ヒトってぇのはだいたい
「……それはまことすさまじきことじゃ」
『きみの話しことば、きっと母上のせいだよねそれ……。あのひとは本当、ヒトの真似と雅さがお好きだったから。嗚呼そう、まぁそうだね、ヒトの身ならばとっくに朽ちておるよ、今の某はあやかしの血肉が残った半身で生きているやうなもの』
「ンじゃぁおめぇは」
『嗚呼っ、勘ぐるのはよくないぞ。だってほら、
そう、少々懐かしむやうに云いながらも、やはり彼もヒトの
小童も、これまでに出逢ったどのヒトとも、あやかしともまた違うその厳かな雰囲気に実のところは気圧されておりやした。
『んんん。そんな構えなくともいいのだけども。きみの方がきっと、持ってる力自体は相当の格上だよ。それが漏れ出ぬよう、暴れぬよう、前の世では母上が……今の世では其処の葛籠の鬼が目を配っておると云ふところかねぇ』
はて、そう云いながら、角を曲がればどんと朱色の門が鎮座しておりやす。これはこれは、その場所からもなんぞヒトではない禍々しい気が発せられておりやした。
『此処、
「おいっ、待ておめぇ! 今羅城門、羅城門つったかァ?」
『そうだけども。おんやぁ、今日はなんだかいつもと空気が……』
ん? と小首を傾げるやうに、
突如、ばしんっ! と何かを叩きつけるやうな音が響き、
今の今までまるで生きていたかのようなその和紙が散り散りにと風に消え、一瞬にしてずううんと重い空気が小童の周りを取り囲みやす。
『嗚呼、ちょっと油断してしまったようだねぇ』
「晴明どのっ!!」
和紙の切れ端を思わず掴もうとした小童の手は、虚空を掴むばかり。
次の瞬間には、腹に鈍い痛みを感じたそうな。
『おい、随分な挨拶じゃないか。そんなんだから、
「うるっせぇなぁ!」
はたと気づけば、そこはまさかの門の屋根の上。
ええ、そう。小童は何者かに小脇に抱えられ、攫われるやうなかたちでそこにおったのです。
「おいっ、てンめぇ!!」
『嗚呼、葛籠の鬼、其奴は喰ってはだめだ……す、ぐ、迎え……行くか、ら』
「はぁっ!? なンで」
消えゆく晴明の声音に、戸惑う間に、何かががっしと葛籠の蓋を上から抑えつけたのでございやす。
「なんだなんだァ、この匂いは。ここがおれの住み処と知ってきやがったのか、あのいけすかねぇ陰陽師は。ここ百年ほど、大人しくしてやってるってのによ」
そう、まるで年若き少年のやうな声が響くと、まるで雷鳴のやうにどんっと景色が回ったのでございやす。
否、景色が如何かしたンじゃぁございやせん。
なんと其奴は小童と葛籠もろとも抱えたまま、羅城門の屋根からひとっ飛び。一足で一里をまたいでおったのです。どぉん、どぉんと雷鳴つんざくかのような音が数度。止んで、どたりと小童が転がされたのは先ほどとは一転した景色の中にございやした。
「なンだァ? 久々に懐かしい匂いがしたンで、切れ端かなんかかと思えば、餓鬼じゃねーか」
先ほどの少年のやうな声が響くと、小童の髪が掴まれ、その顔が何者かにずいと持ち上げられやす。
「は? おまえ、なんなの? オヤジどのの血の匂いはするけども、まるで半端、角すら生えてねー出来損ないじゃねーか」
「こンのぉ!」
「うるせっての、おまえはちょっと相手にしたくねー氣を持ってやがるから、あとな」
牙を剥こうとした葛籠をがつんと足で抑えたまま、話すもの。
……それは金の瞳を持ち、赫く燃えるやうな長く鋭い髪を振り乱した鬼にございやした。
鬼は小童を引っ掴んだまま、すんすんとその匂いを確かめておるやうで。
「ん? 香の匂いと……ああン? この血の匂いはアレだぁ、何処ぞの攫ってきた姫かァ? なに? おまえ、あの外道なオヤジどのが遺した
はて、片手でひょいと投げ捨てられた小童が転がされたのは橋の上。
明らかその凍った視線と物言いは、到底味方のものじゃぁござんせん。
其の鬼こそが小童と葛籠の探しておった羅生門の鬼。
元は大江の山の鬼の副大将——茨木童子であったのでございやす。
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