第捨漆話 みがわりさん
此の世は地獄と云いやすが、其処に救いは在るのかどうか——。
仏は常にいませども
ここにありますは、
御仏の存在は常に在りやすが、それをこの現世にてこの眼にうつすことは叶いませぬ。
ならば衆生は何を信じて一心不乱に祈るのでございやしょうか。真の救いとは、何処ぞに在るのでございやしょうか。
べべん、とひとつ琵琶の音。
京の都の一角に
歴史の中で二度の焼失をし、後白河法皇の御所殿であった場所としても著名な場所である。
今は昔、木曽義仲と法皇方の争いにより、この広大な御所も合戦の火に飲まれ僅かばかりを残すだけ。しかし崩御ののちに後白河法皇の御陵(墓)として、その後も守護される場所となっていた。
さて此処に、その寺院の本尊の不動明王像へ向かい、手を合わせるはひとりの旅の僧。この辺りでは見かけぬ白装束に、思わず住職は声を掛ける。
「これは珍しい、何処の宗派のお方にございましょうか?」
「いえ、名乗るほどのものではございやせん。ちょいと昔に縁のあった御方の御魂にね、少しばかりのお気持ちを」
「嗚呼、そうでございましたか。こちらの不動明王像は霊験あらたかな、御本尊にございます。どうぞゆるりとお過ごしくださいませ」
別段、僧兵の類いとも思えぬ軽装と、目立った荷と云えばその背に負ったやけに古びた葛籠と肩に担いだ琵琶がひとつ。
法住寺を今や守護する者たちも、何の疑いも持たずに彼の祈りが終わるのを待っておったと云ふ。
「ンだからよゥ、何べん云ったらわかるンでぃ! もういいだろぅがぃこの場所は」
法住寺を背にし、しばし歩みゆく坊主に語りかけるはからりとした声。
然し周囲を見渡せど、人っ子ひとり通っておらぬ。
「いんやぁ、熊野三山に参ったのちは、必ず此処へ線香ひとつは上げに来ると決めておりやしてねェ」
「莫迦じゃねぇのかぃ? 此処にはもう、何の名残も遺っちゃいねーってのによぅ」
「それでもやはり、ご不動さまにはひとつ御手を合わせておくと云ふものでさァ」
ひとつは白き坊主の声と、語りかけるはその背に負った葛籠より。
風に漂う舌打ちの音に、坊主はひとり、ふふふと嗤う。
「あんさんは優しいなァ、もうワシ、全然気にしちゃぁおりませんで」
「ンあァ? だぁれがおめぇの心配なんざするってンでぃ」
少々不服とばかりに、葛籠の蓋がかぱりかぱりと上下する。
「ふふふ、そうですなァ。然し、あの刻はっきり云いやしたでしょう? ワシの——」
「あーあ、嗚呼、もう! しめぇだしめぇ! 此の噺はおしめぇだ! おめぇはとっとと成仏しやがれ!」
「……自分が語り出したくせに、よう云いますわぁ」
がんなり声が響き渡るは室町の世も末、夕暮れ刻。
今宵は何を語りんしょう。
ええ、ええ、それでは少し……昔の噺をしやしょうか——?
***
さて、平安の世も末の頃の御噺にございやす。
京の都は宇治、羅生門を目指して歩むはひとりとひとつ。
ひとり、鬼の大将の血と人の身を受け継ぎし白き小童。そしてひとつとは、身体を奪われし地獄の鬼……今は葛籠の姿にございやした。
西国を巡り、都へと真っ直ぐ向かうつもりが出雲に備前に丹後に若狭、とんだ大回りとなっておったそうで。
道中様々な怪異伝承、あやかしに巡り合い、時として合戦の跡を踏みゆく彼ら。小童にとっては視るもの出逢うもの、怖きも幸いも、全てが初めてのことにございやした。
経典を読み、雨を凌ぎ、時として各地の寺院で旅の僧に紛れては、御仏の教えを習うこともございましてねェ。まさかこんなところで、壇ノ浦の翁より受け継いだ
道中、強き鬼の血を持つ小童は幾度となく狙われたそうにございやすが、そこは葛籠よ元は鬼なり、全ての怪異も悪党も、全てその
小童も不死とは云えど、人の身、鬼の血を持つものにございやす。少々の法力、そしてあやかし所以の軽い技であれば、使いこなせるやうにはなっておりやした。
然し乍ら、世の常を学べど小童にはひとつ疑問があったのでございやす。
ええ、何だったと思います?
悪名高き酒呑童子の落とし胤。然し当の鬼の大将は既に討伐され、その首級が宇治の院に在るとだけは聞き及んでおりやした。……小童はねぇ、自分が何者なのか、てんで知らぬままだったのでございやすよゥ。
「のう、首葛籠や」
「ンあァ、なんでい?」
「皆、酒呑童子と聞かば、あのやうに震え上がり、然しわたしの血を欲しがる。わたしの父とはそうも強きものなのか」
背に追う葛籠より、どうと溜め息のような声が漏れやした。
そっと背後を伺えば、その目玉がぎょろりぎょろりと左右しておる様子。
「正直言やァ、俺っち、人の世
その返しに、小童は少々臍を曲げたやうに息を吐きやす。
「……いつもそうじゃ、首葛籠、そなたは何かを隠してはおるまいか」
「……」
「のう……そのやうな鬼を、首だけとは云え、わたしに対処ができるものなのか」
「いやぁ、それは……その」
歯切れ悪く、だんまりを決め込む葛籠に、小童も何故かこの刻ばかりは少々腹が立ったそうでしてねェ。
珍しく葛籠の忠告を聞かず、京の通りを突き進んだそうで。
「おぅい、空也ァ。そっちはダメだ、そっちには行くなよぅ」
「……」
「おいコラ聞けってんでぃ! そっちに行くな! そっちは……」
行きはよいよい帰りはこわい
灰となりにて往生寺
御所に
人の音せぬ暁に
仄かに夢に見え給ふ
何処からか、そう唄が聴こえてきたのでございやす。
心が震えるやうな、視ては知ってはいけぬやうな。
しかし、何かに引かれるやうに、早足になる小童の目の前に現れたのは。
「焼け……跡?」
「あァ畜生、このド阿呆ゥが。俺っちはどうなってもしらねぇぞ」
其処にあったのは、何か大きな御所の焼け跡のやうでございやした。
もちろん、生まれは京と云えど、座敷牢暮らしの小童には此処が何処なのか、何なのかも検討もつきやせん。
そもそも、何故己れは座敷牢暮らしであったのか——。
旅をすれば、様々な民草の生活、各地の風俗に触れることが多々ありやした。
ほとんどのものが、文字も読むことのできぬ、琵琶なぞ触れたこともない農民ばかりであったのです。
然し、自分の牢の中での生活は不自由と云えど、読み書きの習いも琴を弾くこともできておったのでございます。母の生まれの宮中と云ふ言葉は、当たり前のやうに使っておりやしたが、どうも其処は大勢の民草のおる場所ではないと。
流石に、世間知らずの小童でも、此処まで人の世を眺めておれば、何となくは察しておりやす。
であれば、己れの母は一体何者であったのか。鬼であった父と母は、どのやうにして出逢ったのかを。
葛籠に聞けど「知らぬが仏」の一点張り。これは如何に葛籠に恩義を感じておった小童とて、少々納得のゆかぬ返しであったのでしょう。
ふと、懐かしいかほりを感じたやうな気がして、小童は焼け跡の向こうへと歩み始めやした。
どうやら広大な御所のやうなその場所、先の合戦にて灰燼に帰してはおりやしたが、奥の寺院、御本尊は無事であったやうで。
然し、足を早めたその胸に、突如裂くやうな痛みが走り、小童はどたりと倒れ伏したのでございやす。
「うっ……ぐっううう」
「如何した? おいっ、おい空也!」
投げ出された葛籠が叫べど、小童は倒れたまま苦しそうにもがくばかり。
「ちくしょう! どっちが人でなしでぃ! 此奴は、此奴は何も知らねぇ餓鬼だろォがよ!!」
葛籠は何かに気づいたやうに、声の限りに叫びやした。今の己れでは、倒れた小童を助け起こすことすらできやしやせん。
「しっかりしろ! 空也! 聞こえるか!」
葛籠の目には視えておったのでございやす。
呪詛と、怨念の束が、小童を絞め殺さんとその身を打ち、捻り、まさに絞め殺さんとしておるのが。
不死の身故に、潰れた肺は再生しやす。破裂した血管も、元に戻り、人の身を保つのでございます。然し痛みは真のもの。苦しみ悶え、小童の息は絶え絶えとなっておりやした。
『……なにゆえ、どうして、ここにおるのじゃ?』
背筋が凍りつくやうな、空気を震わす声が聞こえたのでございやす。
『その白き肌、白き髪……あゝなんと。やはり、やはりそなたか。おぞましい……。瞳なぞ、まるで物の怪かのやうに血のいろではないか』
ずずず……、と衣擦れのやうな音が辺りに響きやした。
『妾は、帝とも共に居れず……苦しみ、辱められ、あのような末路となったのに。お前はまだ此の世におると云ふのか』
「ばっかやろう! 何百年経ってると思ってやがる! 化け物はおめぇだ、誰に魂の半分を喰われやがった!」
『化け物……? 何を云ふか、どう見たとて醜きは、這いずり回るそなたたちであろうに』
「こんのォ! おめぇは死んだんだよぅ! とうに死んでるんだ! 未練なんぞ棄てて、とっとと彼の世へ逝きやがれ! でねぇと……でねぇと、此奴がいつまで経っても人の身に生まれ変われやしねぇだろうが! くっそ、ばかやろう空也、そんな呪詛とっとと弾き返しやがれっ!」
——その刻。
葛籠の叫びと、蔑む言葉の響きの中、ふと苦しむ小童の心に何かがどうっと流れ込んできたんでさァ。
そもそもねぇ、此処、法住寺ってェ寺院は。
後白河法皇さまの御所として成り立ったのは、一度目の焼失の後のことにございやす。
元はそう、とある貴族が己の妻と、早世した娘を弔うため建立した場所だったのでございやすよゥ。
その娘はねェ、鬼の子供を宿したばかりに……死んでしまった御方でして。
「はは……うえ?」
『母とよぶなぞ、けしてゆるさぬ』
そう。小童は、とうとう知ってしまったのでございやす。
永祚元年、太政大臣すらおつとめになったことのある
忯子はその時天皇の子を宿しており、出産時に母子ともに亡くなったと……歴史上には残っておりやすが。
もし、もしも——。
その逸話により、父・冷泉天皇と共に乱心の振る舞いの後世に目立つ花山天皇。然し彼が親王(皇太子)時代に重宝した、とある陰陽師の働きにより、例えば……大江の山に棲まう鬼どもが——少々動きづらく感じていたとしたら、如何でございましょうか。
その最も愛する妻を攫い、手篭めにするなぞ、簡単に思いつくことではありませぬでしょうか。
母は——自分を愛してはおりませんでした。
寧ろ、殺してやりたいほど憎み、恨み、死んでしまったのでございましょう。
花山天皇は、妻を愛するばかり。どんなに彼女が苦しんだとて、瘦せ細り、見る影がなくなったとしても側に置いておったと伝え聞いておりやす。
彼は逆に、鬼の仔とて妻もろとも愛する心積もりであったのかもしれませぬ。
然し、ええ、そうでさァ。
歴史は——そうは動きませんでした。
あまりの娘の容体に、見かねた為光公は忯子を連れ帰り、そこで彼女は二度と帝に逢うことなく命を落としたそうにございやす。
記録上では、その赤子も、そこで死んでおりまする。
『そなたなぞ、欲しくもなかった……!! 胎で蠢くたびに、何度も消えてくれと願ったのに!』
嗚呼、なんと云ふことにございましょうか。
あれほどに恋い焦がれた母と云ふ存在は、小童の事を怨んでおったのでさァ。
そう、望まぬ我が子の、冥途の安寧なぞ——祈るはずもなし。
ひとつ、賽の河原で小童が百年を過ぎても輪廻に戻れぬ理由とは、此処にあったのでございやす。
小童は、今までに見たこともないほどに泣きやした。
葛籠も、そのあまりの泣き声に、思わず言葉を失ったそうにございやす。
かあさま! かあさまごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……!!
『泣いたところで赦しはせぬ、この、ばけものめ! わたしは、妾は、帝と……彼の人と共におれれば、それでよかったと云ふに!』
こんなに、こんなに哀しく辛い——さだめの子供があったであろうかと。知らずに己れは、あれだけこの子を殴打しておったのだろうかと。
——どれだけ殴れど、詰れど、この白き小童はこれほどまでに心を乱して泣いたことなぞ、なかったと云ふのに。
「だめだ、だめだ空也、おっかさんに詫びるな! おっかさんを苦しめただなんておめぇが思う必要はねぇんだ! 死んで償おうなんざァ、俺っちがぜってぇゆるさねぇ」
これが罰か? 地蔵の云ってた罰と云ふのがこの顛末ならァ、己れは鬼に戻らずとも良い。葛籠はそっと此の時、心に決めたんでさァ。
「まぁ、ハナから戻るつもりは……これっぽっちもなかったけどよゥ」
空は天高く澱みはじめ、いつぞやの如く雷雲が現れたかにも思われやした。
然し——それよりも疾く。
「クソ地蔵菩薩が! 云ったはずだァ! こんな胸糞悪ぃ事柄、地獄だけで十分だってンでぃ!」
葛籠が何か、呪文を唱えやうとした、その刻にございやす。
『な、なんだこれは。ひっ、引っ張られ……っ!!』
ぞろぞろ、ぞろりっと。小童を囲んでいた呪詛が、くるりと剥がれ、ご本尊の不動明王像に全て降りかかったのでございます。
『嗚呼、すまぬな。母上にはようよう云われておったのだが、どうにもまじないが効き過ぎておったか……狂って木曽の炎と弓を、先に弾いてしまったようでなぁ』
なんとまぁ、突如現れたその声と、カッと光の瞬きと共に、怨霊の様相を呈しておった忯子の姿は、苦しむ間もなくぽんと掻き消されてしまったンでさァ。
「いやだっ! かあさ……」
『嗚呼、気にするな、そこの酒呑童子の仔。残留思念と恨みつらみを、だいぶ弄られておったようだなぁ、もうお前の母上の魂は此処にはおらぬよ』
ははは、と軽快に笑う声が、不動明王像その方から聴こえてくるのでございます。よくよく目を凝らせば、その首筋辺りからはらりと一枚の
『安心していいよ。まぁ確かにきみの母上は、きみのことを愛してもいなかったけど……嗚呼、そうだ、怪我は大丈夫? ほぉっ、こらまた凄い身体だねえ』
なにが起きたのか、もはや小童には一切わかりませぬ。
ただ、その舞う人形の紙が語るには、やはり自分は母に望まれてはおらぬのかと。心の臓をずぶりと刺されるやうな心持ちでもありました。
『不動明王の御力、流石に強いね。きっと今後もこの寺院は彼の霊験で栄えていくだろうなぁ。ええっ、なになに、鬼の子供って泣くの? 調子狂うなぁ。これは
はらはらと、未だその涙の止まらぬ小童を見やった葛籠は、呆れたやうに息を吐くと、そのひょうきんな人形の動きをひと睨みでびしりと止めて凄みやす。
「おめぇ、コラ。一体何者でぃ?」
『嗚呼っ、待って待って、君けっこう蓄えてるでしょ? あんまり触れないでよ、まじないが解けちゃうから』
「ンあァ?」
葛籠が拘束を少し緩めると、人形の紙は再びひょうと飛び、小童の目の前で舞いながら言葉を紡いだのでございやす。
『こんな形で申し訳ないが、お初に御目にかかるね。某は
「くずの……は?」
『そうそう! 嗚呼、そんな警戒しなくとも良い良い。なんせ某、きみとまったく同じ、半分はあやかしの血の者だからね』
べべん、とひとつ琵琶の音。
さぁ、この法住寺に纏わる御噺のひとつ。
創立時から在るこの不動明王像は、後白河法皇を法住寺合戦の際に炎と弓から守ったと云われておるのでございます。弓を受けて亡くなった当時の天台座主の明雲大僧正の姿に「ご不動さまが明雲となり救ってくださった」と後白河法皇さまはとめどなく涙を流し、感謝されたのが始まりとも。
木造ながらも其の御力に、『みがわりさん』と呼ばれることもあるのだとか。
はてさて、今宵ももう遅い時間にございやす。
白き鬼仔はどうなったのか。
地獄の鬼、葛籠はその後どうなってしまったのか——。
それはまた、次の機会に御噺しやしょうか。
此の世は地獄と云いやすが、其処に救いは在るのかどうか——。
絶望のうちに泣き濡れた小さな鬼の仔は。
彼の紅き瞳はそののちに、何を見据え、決断したのでございやしょうか。
夢の
其処に——掬いは在るのでございましょうか。
まこと、この世は生き地獄。
彼らが辿るは、憐れ戯れ珍道中——。
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