第拾陸話 白比丘尼

 此度こたび語りやすは、現世うつしよ浮世うきよのモノガタリ。

 此の世は地獄と云いやすが、其処に救いは在るのかどうか——。



 百と云ふ字を一ひかば 白と云ふ字になりもうす



 いつのことにございましょう。

 ええ、そらァもうはるか昔の御噺にございやす。

 古き若狭国わかさのくに、とある庚申待こうしんまちの夜のこと、このあたりに住む高橋長者と云ふ男はある不思議な男の屋敷へと招待されもてなしを受けたそうな。

 屋敷の中は物珍しいものがたくさんあり、長者はあれやこれやと見て回ったそうでさァ。

 はて、するとどうやら調理場とみられる灯りのもれた場所から話し声がしやす。

 そっと覗くと台の上には肩から下が魚の姿、人の頭と髪をもち、白い二本の腕が生えた奇妙な生物がおったそうな。料理人の手には包丁が握られており、長者は「まさか、あれを捌くと云ふのだろうか」と恐ろしく思い、そっとその場を立ち去ったのだとか。

 やがてもてなしの場にご馳走が運ばれてまいりました。見たこともない山海の珍味ばかりです。屋敷の主人は「竜宮のみやげですので、ぜひともお召し上がりくださいませ」と云いやすが、どうにも気味が悪く思った長者は、不思議な形をしたなにがしかの肉には決して箸をつけなかったそうにございやす。

「もてなし、大変感謝致します。では私はそろそろおいとまを……」そう云ふ長者に、屋敷の主人は「おやおや、こちらはお召し上がりになってないではござりませぬか」と、あの箸をつけなかった肉を土産として持たせたのでございやす。


 こうして持ち帰ったなにがしかの肉を、長者はすっかり忘れて袖のうちに入れたまま、着物と一緒に己の娘に渡してしまったそうにございやす。

 これは一体なんだろうか、と見つけた娘はその肉をひと口……またひと口。なんとまぁ、とろけるような美味しさで。気がつけば娘はその肉をひとりで全て食べてしまったそうにございやす。


 やがて年頃になった娘は婿をもらいやしたが、いっこうに老いる気配がござんせん。父の長者も、亭主も次第に老いて、やがては娘を置いて亡くなってしまったと云ふに……娘の姿は未だ歳の頃十八前後のやうに見えたと。

 娘は名を変え、全国津々浦々、あちらこちらで幾度か結婚したそうにございやすが、決まって皆先立ってしまうのでございやす。

 ええ、そうでさァ。娘は禁忌とも、不老長寿の妙薬とも云われる人魚の肉を喰らってしまったのでございやすよゥ。


 娘は世の無常を感じたのか——。その齢が百を超え、二百を超え、やがて出家し比丘尼びくにとなり。諸国を旅しては木や椿を植え、知恵を貸し……今も何処かを巡っておるそうな。

 これが八百比丘尼やおびくにとも、その肌の白いことから白比丘尼しろびくにとも呼ばれる、とある尼僧の御噺にございやす。

 長き歳月を数々の逸話と共に歩みし彼女の伝説は……日本全国、至るところで語り継がれておるんでさァ。




 べべん、とひとつ琵琶の音。



 その昔、諸国を巡り歩くひとりの小童がおったそうにございやす。

 歳の頃はとおをいかぬくらいか、どこぞの寺院の稚児なのか。簡素な白装束に身を包み、然し乍ら稚児ならば身につけられぬはずの少々大きな金色の掛絡から、背には葛籠をひとつ背負い、琵琶まで抱えておるときた。

 短く膝のあたりで裁断された袴からのびる足は、まるで陽の光を浴びておらぬかのやうに白い。またその顔と頭を白布で覆い、表情は一切窺い知れぬ。

 いつの頃からか、何処へ行くのか。幼子のひとり旅とはまた不用心な……野党の類いに襲われでもしたらひとたまりもないであろう。

 そう思ったのでしょう。はてとその小童に気づいたひとりの娘が、遠慮がちに声をかけたそうにございやす。


 娘も肌がたいそう白うございやしたが、なるほど並んで見れば小童の白さは己のそれよりも……まるで雪のやう。

 こんな山道を子供ひとりがどうしたことかと問えば、顔も知らぬ父を探す旅の途中にございますと答えたそうな。なんと難儀なことだと、心やさしき娘は、その晩自身の住まう屋敷に小童を泊めたそうにございやす。

 聞けば娘はその昔、この辺りの長者であった者の末裔で、今はひとりで屋敷に住まう身だと云いやす。

 しかしこの小童、食事をすすめても、湯殿をすすめても。いっこうにその頭の白布を取ろうとはしやせんで。不思議に思った娘は、ひっそりと湯の火加減を見るふりをして湯殿に浸かる小童の姿をそうっと覗き見しやした。

「ああっ」と声にならぬ小さな叫びをあげた娘。なんと小童の髪は今まで自身が巡り歩いた、あちらこちらで目にしたことのないほどの、真っ白な色をしておったのでございやす。


 これは大変だ。娘はそう思ったそうにございやす。

 物の怪の類いか、はたまた神仏の使いであろうか。大変なものを屋敷に招いてしまったのだと震えあがったそうで。

 もしも、もしもこの小童が神仏の使いであったのなら……もしや、と。娘は特に何も気を起こさず床の準備をして、小童をゆるりと休ませたそうでさァ。

 その夜、娘は気が気ではありませぬ。物の怪であったのなら自分は食われてしまうのではないかと。長きを生きてきた身でありながら、やはり彼女も死を恐れておったのでございやす。


 ええ、お分かりになりやしたでしょうか?

 この娘こそ、人魚の肉を口にしてしまい、諸国を巡ったのちに若狭国のお屋敷に戻ってきておった長者の娘その人だったのでございやすよゥ。


 娘はねぇ、各国を巡るうちに気がついたのでございやす。

 此の世に、人の身に、不老もましてや不死などありはしないと。少しずつ衰える己の身にある日気づいた時から、彼女は恐れるようになりやした。その手や目元や、寿命も老いも一度受け入れてしまわばいっさいがっさい気にしやしやせんが……なかなか歳を取らぬ者はその変化がある日恐ろしくなってしまうのでありんしょう。

 娘は行き着いた先々で、それなりに生計を立てては、やがては結婚してゆきました。

 なんと奇妙なことか、その度に亭主や屋敷の主人はあの奇妙な肉を持ち帰って来るのでございやす。ある時は其の正体が人魚の肉と知った村人が、気味の悪さに肉を捨てたり庚申にお供えをしたりしたそうですが、娘はその肉をひっそりと持ち帰っては口にしておったのです。


 さすれば、やはり娘はふたたび歳を取らなくなってしまうのです。

 美しくあろうと、長寿であろうと。やはり周りの者とは生きる時の長さが違いやす、いつしか彼女は誰かと添い遂げることもなく、ふらりふらりと生まれ故郷の若狭に戻って来ておりやした。



 かたり、ことと……と障子の開く音が耳に響きやす。

 娘はがばりと身を起こし、音の正体を探りやした。


 するとどうでしょう、小童の部屋の廊下のあたりから、何やら琵琶の音が聴こえてまいります。娘は恐る恐るながらも、優しくも物哀しくも聴こえうるその音を確かめにと、廊下へと出たそうにございやす。


「すみませぬ。起こしてしまったであろうか?」


 其処で、月の光の下、琵琶を奏でていたのはあの小童でございやした。

 その気遣いの滲む声音に、娘はほっと胸を撫でおろし、小童へと語りかけまする。


「随分と……その、大人びた音を奏でてらっしゃるのですね」

「ええ、長いこと稽古はしてみましたゆえに」


 小童の隣には、葛籠がどんと置かれておりやした。

 こんな時も傍に置くとは、それは大切なものが入っておるのだろうと娘は思ったそうな。


「月夜をこうしてゆっくり眺めるなど、いつぶりでしょうか」

「いつの世も、いとうるわしきの変わらぬものは、月夜に四季折々になりにけり……そうは思いませぬか」

「は、はぁ……」


 小童の語りは少々、娘にとっては古き都の響きにも聴こえておりました。

 月夜にぼうと浮かび、消えそうな月と同じく白きその身に、ふと彼女は語りかけたそうにございやす。


「あなたは不老長寿をどうと思いますか?」

「不老……不死ではなく長寿でございまするか」

「ええ。こんな月の美しい夜ですもの、竹取物語を思い出したと云いましょうか。なんだか今此の時も、儚い夢のような気もしまして」


 急に此のやうな難しいお話を、ごめんなさいね。そう娘が呟けば、小童は手に持ったばちをゆっくりと降ろし、月を眺めながら呟いたそうにございやす。


「不老長寿……もしそれを人の為にと使えたのならば、どれほど良きことにございましょうか。それに添うやうに世が美しくあらばなおのこと。然しわたしは思うのです、不老も不死も、ことわりを外れた長寿も……人の身にはあまりあるものだと」

「ですが、いつの世も天下人は不老長寿をお望みになるでしょう?」

「本当に……それがまことの幸せでありましょうか?」


 ふたたび撥を構えた小童が琵琶の音と共に弾き語るは、都を我がものとした平家の滅亡のその物語。都の乱は遠い民草には噂として届くものでありやすが、小童の語るは妙に生々しく、今しがた見てきたかのやうな迫力があったそうでございやす。


 はらはらと、気づけば娘は其の両の目から涙を流しておりやした。

 此処数十年、久しく流してはいなかった涙にございやす。


「他者が羨むほどの永き生も、ひとり世からかけ離れたかのような姿かたちも、手に入れてしまわば虚しきものにございまする。真に人の身に必要なのは……其の生を如何様に生きると云ふことではありませぬでしょうか?」


 月に帰ったなよ竹のかぐや姫は、別れを惜しむも月の衣を得てしまわば、此の世の心を失うてしまったそうにございやす。

 人の理を外れてしまわば、哀しみ悩みからは解き放たれましょうが……。人と共に歩み生きる喜びも失うてしまうのではないでしょうか。


 はてさて。不思議な小童と過ごした娘はその後、小童の持っていた経典のことが頭から離れずに。

 其の後自らも仏門に帰依し、美しい髪を剃り落とし尼となり。

 ふたたび……今度は己に何ができるであろうかと探すかのやうに、諸国を巡ったそうにございやす。




***




 時は流れし室町の世。

 此処、若狭国のとある街道をひとり歩くは旅の僧。

 歳の頃、十八前後か。すらりとした身を白装束で包み、首から下げるは金色の掛絡から、脚絆も手甲も纏ってはおらず、素足に草履と云ふ軽装である。

 その背にはやけに古びた葛籠を背負い、肩には手入れの行き届いた琵琶を担ぐ。


 旅の僧など珍しくもなく、行きては帰りし此の街道もまた同じ。

 その顔と頭をまるで木乃伊ミイラの如く覆う様相に、ふと振り返りし者あれど、やがては忘れて過ぎてゆく。


 さてその反対側から歩いてきたのは、美しくも老いたひとりの尼僧である。彼女はその手にひとつ、白い椿の枝を持っていたそうな。


「息災そうで何よりでさァ」


 すれ違う直前、白き坊主はそう嗤ったと云ふ。

 それを見た尼僧は穏やかな笑みを浮かべたそうな。


「あらあら、何百年ぶりかしら……お父上には会えたのですか」

「ええ、まぁそんなところで」

「不思議なものね、時の流れは緩やかながらも、私はもうこんなにおばあちゃんよ」

「……十分、お美しゅうございますよ。人の美しさにございやす」

「相変わらず、お言葉が上手なのね。貴方もほんの少し……大きくなったようで、お姿が見られてよかったわ」


 さてと、とその尼僧は足を止める。


「もう十分生きたなぁと思うの。貴方に逢って、あの夜からは生まれ変わったかのように、一心に御仏の教えに心を傾けてきたわ」

「安心しやした……どうやら人魚の肉も、あれより喰うてはおらぬようですからなァ」

「……どこまで御見通しだったのかしら」


 ふふふ、と微笑むふたりの、その往き先は同じではなく。


「輪廻の先で、貴女にふたたび幸多き生がありますように」

「ありがとう……ええと、貴方は」


 名を聞こうとも、彼はもう振り返らずに歩き去ってゆく。

 まるでそう、これが今生の別れだとでも云ふかのやうに。


「思えば、私のために祈ってくれたのは貴方だけでしたね。でしたら私は貴方に祈りましょう、その生がどのやうなものであろうと、幸多きことを」


 見えなくなった背に向かい「今思えば、貴方の姿はとてもとても美しかった……仏の顕現だったと、私が勝手に信じても良いのかもしれませぬね」と笑い、彼女は静かに手を合わせると、その手にあった白椿を愛おしそうに見やる。


 ひゅうと吹いた風が、尼の頰と白椿を撫ぜると。

「ンなわけあるかぃ」と云ふ、からりとした声が野に響いたとか、そうでないとか——。




 べべん、とひとつ琵琶の音。


 若狭国に空印寺と云ふ名の寺がある。

 その寺の近くにはひとつの洞窟があり、かの白比丘尼が入定した場所だと伝えられている。


 後世に語り継がれた幾つかの逸話によれば、彼女が洞窟に入る前に「此の椿が枯れた其の時は、私の魂が天に召されたと思ってください」と話したと云ふが、その椿の木はいつの世も枯れることがなかったのだとか。

 またある時代、洞窟の中を住職が進んだところ、その先には出口があり、丹波の山中に出てしまったとか。


 然し、その後の世に白比丘尼の話がふたたび生まれたことはなく。

 いつしか洞窟も、落盤のために途中で埋まってしまったとのことである。


 さて一説によれば。人魚の肉を喰らったものは、その身を徐々に人魚に乗っ取られ、やがてその欲ごと人魚になり——、また次の人魚の肉を喰らふものを待つとも云われておるそうで。

 これは生没年一切不明の、琵琶を持つ旅の僧の語りであったと云ふ。



 さぁさ、此度語りやしたは、現世うつしよ浮世うきよのモノガタリ。

 彼女は輪廻の中に還ったのか、はたまた海の源へと還ったのか——。

 信じるも、信じぬも、それは貴方次第にございやす。

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