破
第拾話 青龍と蛇の棲む淵
此の世は地獄と云いやすが、其処に救いは在るのかどうか——。
その
ええ、ええ。土地を護りし竜もおれば、暴れ人に成敗される竜もおったと云いやすが。それはなんぞ、人の仔らの崇拝か畏怖かの向ける感情の揺れ違いであったとすれば……如何なものか。
この国はもとより水害、そして
地の震え、襲い来る波に荒れ狂う河川。それを鎮めるも竜、起こすのも竜、とそう考えておられたのでしょうか。
川棚の
青龍……語呂合わせをすりゃあ清流、なんてェ読む事もできやしょう。はははっ、これはこれは、ただの冗談でございやすよゥ。
なぁに、和尚。ワシはただの旅の坊主。云ってしまえば破戒僧。
諸国にて
はて、時の将軍足利義満さまは元号を
実のところ、今の世には又違った元号が考案されていたと云ふ御話をご存知でしょうか?
将軍様は若い頃から明へ深く憧れ精通していらっしゃったようで、改元の義の際、明の太祖洪武帝の治世にあやかり「洪」の字を使うよう考えなすったそうでねェ。
そこで提示された案ってェのが『洪徳』、『洪業』、『洪化』の三つと言われておりやして。将軍様は『洪徳』を選ばれたとのこと。
然し乍ら、「洪」の字が洪水を連想させることや、既に「徳」と云ふ字が使われた元号が
これらと似通い、何やら不吉だとした公家たちの猛反発により、将軍様の案は却下となったそうにございやす。
はて、そうして迎えた応永。如何でしょうか。
朝廷を揺るがす戦乱は起きぬ、一見すれば仮初めとは云え平和の時代が訪れたかの如き。
しかしまぁ、どうでございやしょう。日照りは続き、疫病が蔓延るこの
さぁさ、和尚さま。そないに悲壮な御顔をしなさりませぬよう。救いを求める民にその心の揺らぎもろとも伝わってしまいやすよ。
我ら御仏の御心に一心に祈らば、なんぞお力を授かりましょう。
そう、そう。先ほど少し云いやしたね。此の地に伝わる青龍のことをお話ししておきやしょうか。
いつの頃か、古き遠き時代、此のとようらの奥深い森の中に大きな沼地がござんして。そこには一匹の心やさしい青龍が棲んでおったそうな。
その沼地、涌き出でる泉は春夏秋冬を通じて、又どんな日照りの年でも枯れることはなく。青龍の霊威か、流るる水は清らかで、作物はすくすく育ち、浦々では多くの魚が獲れ、人々は平和な生活を営んでいたそうでございやす。
或る年、此のとようらの地をそれはそれは大きな
その揺れの凄まじきこと。なんと一夜にして、その龍の棲まう泉の水を煮えたぎる熱湯へと変え、山を崩し、沼地を埋めてしまったそうでさァ。
青龍は棲み処を失い、哀しみのまま臥せり、死んでしまったそうでございやす。
さて、これはこれは困りました。
村々は長い日照りが続き、作物も枯れ、魚もなかなか獲れぬ日々。また怖ろしい疫病に苦しんだと云いやす。
おや、おや。なんぞ、今の世に似ておりやしやせんか?
さて、それを青龍の祟りと捉えたもの、青龍の不在と捉えたもの、まぁ人々の心は様々でございやしたでしょうが。村人たちは青龍の霊を供養し、青龍を祀るための社を建て、この地の守り神として人々を守り賜えと祈ったそうな。
すると
疫病に苦しむものや、身体の不調を訴えていたもの、森の動物たちが其の湯に浸かると、瞬く間に元気を取り戻したそうでね。
以来、幾千年でしょうか。いや、数百年でしょうか。人々は青龍に祈り、祀り崇め、此の地には平穏が戻ったそうでさァ。
おんやぁ、和尚さま。不思議そうな御顔をしてらっしゃる。
そうでさァ、月日とともに人々は青龍のことを忘れ、信仰は途絶え、いつしか温泉も渇れてしまったそうでございやす。
さて、さて、此の泉が、湯が、
今やだぁれも知るものはおらんでしょう——。
もし、和尚さま。一心に祈りなさるならば、此の地の青龍、そして御仏の導きのもと、再び此の地に湯水が涌き出でるやもしれやせんなァ。
***
「さて、と。これで此のとようらには、青龍殿の霊験あらたかな湯が再び涌き出でることでござんしょう」
山を降り、人気のない道でそう呟くはひとりの坊主。
軽装の白装束、
その軽装に反して、背には大きな葛籠を背負い、手入れの行き届いた琵琶を担いでいる。
また、その顔は白布でぐるぐると巻かれ隠されており、口元以外は一切見えず。表情は窺い知れぬ有り様である。
「おぅい、でぇじょうぶだって。もう怖い餓鬼どもは居やしねぇよゥ」
山道を見渡せど、坊主はひとりきり。
然し、其処に響くはふたつめの声。
かぱりかぱりと、その背の葛籠が、まるで生き物が口を開くかのように蓋を上下させ語り始めたのである。
その葛籠より、するすると
此処で逢うたも縁、と坊主はとようらまで足を運び先ほどの和尚に語りを聞かせたと。
「此処に在った温泉はねェ。随分と小さくはなっておりやしたが、その昔ワシらも旅の疲れを癒させてもらった場所にございやす、あんさんのご先祖さまならばこれでひとつ、その御恩も多少なりとは返せやしょうて」
『昔……? はて、お坊さまはお幾つでしょうか? 青龍の泉が最後に在ったのは、もう二百年も前のことと聞き及んでおりますが』
さぁてね、そう坊主は合わぬ視線のまま
「岩国まで戻る道すがら、なんぞむかし噺でもいたしやしょう。お嬢さんは此処よりも岩国に戻りたそうやしなァ」
***
時は平安の世も末の頃にございやす。
此の周防の国を、九州より渡ったひとりの小童が歩いておったそうな。
小童は少々世の常に疎うございやしてね、そう、いつも共におる葛籠が口うるさく、また甲斐甲斐しくとでも云いやしょうか、それはそれは世話を焼いておったと。
——おい、誰が口うるせぇって?
——嫌やわァ、今は昔噺をしよる最中、なんぞ自分のことやと勘違いなさったか。口うるさい葛籠が此処にもおりやすなァ。
——ちいっ。
小童は此処とようらの地を訪れた際に、まだ僅かに残っていた青龍の温泉で湯浴みをしたそうでさァ。
「いとおもしろきかな、なんぞ地の底から湯が涌き出でるとは」
「いや……別にンなの、おめぇが知らねーだけで地獄にも山ほど在ったンだがよゥ……血の池とか、
「むぅ……。然し、するりと肌が滑るのじゃ」
「それは湯の効能だァ、あほんだら。あとアレだ、おめぇはなまっちろいからよぅ、赤くなる前に上がれやぁぃ。のぼせんじゃねーぞぅ」
「首葛籠、そなたは入らぬのか?」
「ンあぁ? 何処をどう見たら俺っちが風呂に浸かれるってンでぃ! 沈むし湿気るだろぉがよゥ!!」
「むむぅ……」
小童、少々奇特な身の上とはいえ、五感はまぁ人並みにありまさァ。
湯けむりも知らぬ幼き身、人の年にしてその身体は
「こンのあほんだらがぁ!!」
葛籠は温泉の縁の岩にて寝そべる小童に、ふうふうと息を吹きかけ様子を見やります。
元が生き死にのわからぬほどに白き身、体温もぞっとするほど冷とうございますが、この時ばかりは熱が冷めぬ。葛籠はどうしたもんかと少々焦っておりやした。
夕刻も近く、日が落ち始めた頃。そこにひとつ、人の身の丈以上もある大蛇が現れたそうな。
「何でぃ、この地の主か? 妖の類か?」
喰おうってンなら相手になるぜェ? と葛籠が云えば、大蛇は首を横に振ったと。
『……其の仔は白蛇の精かい?』
「ンあァ? どう見たってヒトだろぉがよ、まぁ半分はヒトじゃねぇが」
『違うか、そうか……』
あからさまに気を落とした様子の大蛇に、葛籠はおやと思いやした。
「おめぇよゥ、そんじょそこらの蛇の精や妖怪に比べりゃ、随分と澄んだ気配があンなぁ? 一体何でぃ?」
『私は元はこの地に棲まう青龍の眷属、子孫に近いもの。この春に起きた大きな人の世の争い、あれで仔らが散り散りになってしまってねぇ』
「源平……合戦か」
『おや、この仔は口がきけたのかい? じゃあ違うね。白蛇は口がきけなんだ。それはそれは白く、争い事が嫌いなおとなしい仔でねぇ。おまえのように真っ赤な目をしていたんだよ』
「
「そなたは……寂しく思う、のか?」
うつらうつらと手を差し出だし、その大蛇の鼻先に触れようとした小童に、大蛇はふうと息を吹きかけます。
『優しい仔だねぇ、半分ヒトの身なら辛いだろう。少しばかりお待ちなさい』
ずずずっ……と大地を這う音がこだまし、大蛇はその黒い線が四つはしった背を向けてその場を後にすると、しばらくして口に大きな蓮の葉を咥えて戻って来やした。
『ヒトは水を飲まぬと死んでしまうそうだよ。ほら、お飲みなさい』
「かたじけない……」
起き上がれぬ小童に、大蛇は蓮の葉で汲んできた水をゆっくりと飲ませやした。それは青龍の泉の水、飲めば小童の顔色は戻り、呼吸も穏やかなものに。
「けっ……」
『困ったときはお互い様さ。子供に何かあると、親ってのはにっちもさっちもいかないものだよ。見たところ、動くことができない身だと思ったからね。余計な御世話だったかい?』
「いんや、助かった。食わなくて正解だったなァ……あと、俺っちはこいつの親じゃねぇぞ」
『おやまぁ、蛇でなければワケありの親子だと思ったんだがねぇ……違ったかい』
「顔も知らぬわたしの父を探す旅の道中ゆえ、彼はわたしの恩人なのだ」
ようやっと息の整った小童は、そう呟くとその身を起こしやした。そうして少しばかり小首を傾げると、
「いや……恩人? 恩のある鬼、が正しいのだろうか?」
「いいからおめぇはちゃちゃっと服を着ねぃ! 今度は湯冷めすんぞ!!」
ふたつの声の慌ただしさに、大蛇はすぅと目を細めたそうにございやす。
源平合戦と云うのかい? 久方ぶりの大きな大きな争いだったねぇ。
我々はこの地に棲まう一族、古きご先祖様は同じくして竜だが、周防の国に今や散り散りになってしまったのだよ。
いやいや、竜——龍と云えども。今や雨を降らす力も残っておらぬ。地を這い、万物の言葉を
おやおや、そんなに不安そうな顔をするんじゃないよ、いやあしかし。なんとまあ、お前さんの目は紅いのか……あの仔を思い出すよ。
白子は辛かろう? あの仔もねぇ、他の蛇はもちろんいろんな生き物にいじめられて。口がきけなくなってしまったのさ。白は目立つからねぇ。
ああそう、人の争いごとさ。あれはこの周防の各所でもおびただしい血を撒き散らしたときく。
蛇はねぇ、感覚が鋭いのさ。あれはちょうっといけなかったよ。沢山の周防の蛇の棲み処、その池や水辺に血が混じってしまって。うん、穢れてしまったのさ。
多くの蛇は
だけどもね、縄張り争いも起こるだろう。どれもこれもが、気性のおとなしい蛇ではないから。
厄介なのは、そうさ。
元から周防で荒ぶり、眠っていた
「そなたは……その、ヒトの血の味とは……」
不安そうに見上げる小童の視線に気づいたか、とぐろを巻いたその上に小童を乗せ語らっていた大蛇はちろりとその頰を舐めやした。
ざらりとした生暖かい感触に、大蛇といえども生命の温もりをほんの少しばかり……小童は感じたとか。そうでなかったとか。
「私は、ヒトは喰わぬよ。ヒトを喰ろうたばかりに、龍は蛇へと成ってしまったのだから……」
月夜の山道、時折どうと地面が揺れる中、坊主はひとり静かに白蛇に語りながら、琵琶を奏で歩きゆく。
……波の下には都がございまする。
そう云い遺した御方がいらっしゃいました。
しかし彼らが、もし——。
竜宮を、もとより龍の棲んでいた地を、魂の拠り処としてしまったのならば。
その血は薄く薄く、然し色濃く怨みつらみは水に融けては残りゆきまする。
ほぅら、聴こえやすか?
地の底で、水底で、何かが暴れ狂う音を。この響きを。
これらは全て、この地に残る龍や大蛇の名残にございやす。
ヒトを怨みやすか?
それともお嬢さんは、この御噺を聞いても。
ヒトの、あの男を愛しやすか——?
※※※
川棚温泉物語。
青龍が棲んでいた地が温泉となったという山口県豊浦の伝承。川棚温泉は実際にあります。
青龍が死んでしまった後に日照りが続き祟りを恐れてという説と、青龍を偲んで祀ったという説が点在する。
平郡島の蛇の池の伝説。
その昔、源平合戦で住処としてた池の水が血で汚れた蛇が、女の姿をして人間に島への渡しを頼んだという伝説。諸説あるが、渡しをした漁師や、その後島で女の姿を見た後にその頼みを聞かなかった村人は死んでしまったという。
また、番いを亡くした大蛇が平郡島に僧の姿を借りて渡ったという(浮田の大蛇)伝説も残っている。
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