第玖話 坩堝岬

 此度こたび語りやすは、現世うつしよ浮世うきよのモノガタリ。

 此の世は地獄と云いやすが、其処に救いは在るのかどうか——。




 哭き声響くはこの岬 呼び声響くはこの岬

 初夜と後夜に鐘が鳴り 晨朝しんちょう入相いりあいの鈴が鳴る

 そこに響くは あゝ哀しきやうらめしや



 さて京へと足を向かわばと、かささぎの啼く山を降りし小童は、その海岸沿いを本州へ向け歩いてゆきやした。


 古きは神功皇后じんぐうこうごうの時代に伝わる、熊襲くまそに三韓征伐。七ツ釜より住吉大神の祀らるる神集島かしわじまを拝み、芥屋けや大門おおとも過ぎゆきます。

 そらァ、小童も葛籠も、知らぬ土地。道無き道を歩きゆく身ゆえ、たいそうな遠回りとなったことでございましょう。


 水底、波間にはやはり、有象無象のものたちが棲んでおりやす。

 波音に紛れ呼ぶ声に、誘う言葉に、なんぞ応えてはいけやせん。葛籠はよくよくそう云い聞かせておりやしたが、やはり人と鬼の血か、その白き幼子に惹かれ寄ってくる亡者や魑魅魍魎どもは後を絶ちませぬ。

 しかし。なんの、葛籠と云えどもその者もとは地獄の鬼にございやす。


「ったくよぉ。なんでぃおめぇは、そうぼさっとのろっとしてやがんだ」


 少々気の抜けた小童を道中叱り乍らも、亡者は掻き消し潰し、魑魅魍魎の類はその腹へと。なんのこれしき、痛くも痒くもござんせん。


「怒りを以ってして、事に当たるをするべからず。幼きわたしに誰ぞがようよう云い聞かせておった言葉じゃ」

「つまりは怒るな、感情を大っぴらにするなってェ事かぃ。鬼の心得としちゃぁ立派なもんだが、ンな事誰に云われたンだァ?」

「……それが、あまり覚えておらぬのじゃ。女人の声ではあったが、あれが母であったか女官であったか、それすらも」

「ほぉん……?」


 葛籠はそう生返事をすると、暫くの間だんまりを決め込んでおったそうな。


 小童の血は、半分は鬼。しかも鬼の大将格の血ときやした。

 妖どもには人の身と屍人の匂いと、鬼の血の香りがわかるのでございましょう。鬼を喰わば奴ら力もつきやす、しかも此処に在るは強き鬼の血を受け継ぎながらも何の力も持たぬ小童。

 据え膳とばかりに連日連夜姿を現す魑魅魍魎に、葛籠はなんぞと考えを巡らせておるようで。


 その刻、夕暮れの刻を告げる鐘の音が、波音を打ち消すように響き渡りやした。


 鐘の音の方へと足を進めてゆけば、その山道を登った先にどんと鎮座するはひとつの神社。

 ええ、ええ。ここ鐘ノ岬かねのみさき織幡宮おりはたぐうにございやす。

 祭神は武内宿禰たけしうちのすくね一座とされておりやしたが、近年では住吉大神・志賀大神と合わせ三神が祀られておるそうな。


 元は神功皇后の三韓征伐の際、「御手長」という旗竿に武内宿禰の織った紅白二つの旗をつけて戦い、のちにそれを息御嶋(今の沖ノ島)に立てたと。

 武人・武内宿禰の祈りの元に其の旗を織ったとされておるのが、この地とされておることから、織幡宮の名がつけられたそうな。

「我死なば神霊は必ずやこの地に安ずべし」の御言葉のもと、その神霊は異賊の襲来する海路を守護するため海辺に鎮座しておるとも云われておりまさァ。


 はて、其の歴史を聞きし小童は社殿に両の手を合わせて祈りやす。

 地の底から響くような腹の音を響かせ、葛籠は呆れたようにかぱりと口を開きやした。


「なんでぃ、なんでぃ。おめぇいっつも思うが、神仏なんざァ祈ったところで腹は満たされねぇし、なぁんの後利益もいただけねぇぞ」

「しかし、社殿に祀らるる御方じゃ。せめて祈るだけでも赦されぬだろうか」

「けっ、勝手にしろやぃ」


 ——せめて、祈るだけでも。

 未だ見ぬ知らぬ、母の死出の旅路の安寧を。そして、我が身を救いたもうたこの鬼の往く末に平穏を。


「第一、気づけってンでぃ。どの社宮も寺も、詣ったところであの道真公の如くだぁれも出てきやしねぇって事によぅ」

「……然し、詣るのを拒まれてはおらぬであろう?」


 そう少しばかり微笑む小童に、「ど阿呆ぅが」と葛籠は大きな溜め息をつくのでございやした。

 さて、と小童はその遠くに見える海原を眺めつつ、ひとつの詠を口遊くちずさみやす。


 ちはやぶる 鐘の岬を過ぎぬとも

 われは忘れじ 志賀の皇神すめかみ


「なンでぃ、そりゃぁ」

「万葉集にある御歌での、かの源氏物語にも記されたものだそうじゃ」

「ふぅん……」


 暮れゆく海原、その潮の流れは激しく、古来よりこの岬は航海の難所としても知られておったそうでさァ。

 其の沖に釣鐘が沈んでいると云ふ古き言い伝えにより、突き出したこの岬は鐘ノ岬と呼ばれておるのです。


「アレか、最近おめぇが何処ぞで読んでた書物か」

「続きが気になるゆえ、本土へ渡ったのちに探さねば……」

「面白いか、あれ?」

「未だ判らぬ……いと難しき物語じゃ。然し、阿呼さまが読むように薦めてくださったゆえ」

「ああ……」


 思うところがあったのか。葛籠は、再び口を噤んだのでございやした。




 さて、日も暮れゆく山道を下り下り。

 其の海原を眺めつつも更なる本土を目指しやす。その日の寝床を何処ぞの岩棚にしようかと、あちらこちらを探っているところでございやした。


 ——ぼぉん。ぼぉおおん。


 ——ごぉん、ごおおおおおん。


 鐘が鳴り響くかのような音に、そちらを見やれば。海原に浮かぶは、まるで紅白の合戦にも見える数多あまたの鬼火。


 ちりん、ちりりん……。


「なンだ、なんだァ?」


 異変に気づいた葛籠がそう口をひらけば。

 小童も、ぞわりと、何やら嫌な気を其の水面から感じたのでございやす。


 ちりん。ちりん。

 ちりりりりん……。


 呼ぶ声、ぶ声、ぶ鈴の音。


 さあ波はいっそう高く、辺りは濃霧に包まれてゆきやした。


 ——おいで。


 おいで、おいで、おいで。

 ひとりにしないで。

 あゝ怨めしい。


 其の海原には、戦さの嘆きに囚われし亡霊どもが。

 潮の流れにのまれし無念の情が。

 亡霊に引きずり込まれた骸の者共が。


 船を漕ぎ出し、あるものは旗印を狙い共喰いをはじめ、またあるものは其の水底へと誘っておりました。


 有象無象の嘆き叫びは狂おしく、耳を直に甚振いたぶってくるよう。

 葛籠にとっては嘆き叫びなぞ、とうに地獄の責め苦で聴き慣れておりやす。然し、鳴る鐘と鈴の音と、小童にはどうだったのか——。


「船幽霊ってとこかァ、こンの雑魚どもが……。ん? おい、おいぼんぼん! この野郎がァ! しっかりしろやぃ!!」


 葛籠ははたと異変に気づき、そう叫びやした。

 見れば小童の目は虚ろ、葛籠を浜に置き波の寄せるその水面へ近づこうとしておりやす。


「ちぃっ、こらまた厄介な」


 ——坊や、ぼうや。いとしいぼうや。

 ——こちらへ、こちらへ来なさいな。


 ちりん、ちりりりりん……。


 遠く見える船幽霊に気を取られていた葛籠は、舌打ちをしやした。

 浅瀬にてか細い鈴の音とともに小童を呼ぶのは、それは美しく、醜く、胸から下を血染めにした女の姿。


 ええ、それは子を攫うとも、或いは産死者の化せる所なりとも云われる『うぶめ』と云ふ妖怪にございやした。


「おい! おいこの阿呆ンだらぁ! どう見たって其奴はおめぇのおっかさんじゃねぇだろぃ!!!」


 叫べど叫べど、葛籠の声は小童には届きやしやせん。

 連れ戻そうにも、今やこの姿、葛籠には小童を追いかける脚も捕まえる腕もないのでございます。


「おい! このクソぼんぼん! おめぇは、それでいいのかぃ!?」


 ——あゝ、なんて哀れで惨めな姿なのでしょう。子を奪われゆくのを、這いつくばって見なければならぬとは。


 ふふふふふ、と此の世のものではない声が、浜辺にすぅと響きやす。

 沖では獲物を独り占めしようとする其の妖へ、非難の叫びが巻き起こり、波はますます荒れゆきます。


 ——ぼうや、さあおいで。


「かあ、さま……?」


 ——ぼうや、あなたの名を、まことの名を。さあ。


 ちりりりりん、ちりん。ちりりん……。


「わたし、の、名は……」


 ——さぁ、さあ。告げるのよ、真の名を。

 ——楽に、なろう、ぼうや。母とともに参りましょう。


「こンの大莫迦やろうがァ!! ここで喰われちまったら、意味ねぇだろぉが! おい! 俺っちの話を少しは聴きやがれっっ」


 血濡れの祖の腕の中に、今や小童は収まらんとしておりました。

 あとほんの一寸、其の時でございやす。


「母と、共に……? しか、し。わた、しと共にある、のは……」



 ——ば、ちんっ!!



 うぶめの手が小童に触れようとした其の時、少しの心の迷いに反応したか。否、手助けの口火が切られたか。何かが双方の間を激しく隔てたのでございやす。


「おい!! クソぼんぼん! 大丈夫かぁっ!?」

「……つつ、じ?」


 弾かれるように後ろへどたりと倒れ込んだ小童は、葛籠の声に今度こそしかと反応したンでさァ。


 ——ぐぅうううっ。口惜し、あと少しのところで! この子供、何を持っている!?


「おぅい! 逃げろ! ぼんぼん! 疾く走れっっ」


 己の手がみるみるうちに灼け爛れた女妖怪は、その顔を穏やかな母の姿から血塗れの鬼の形相へと。砂が膝を咬み、小石が白き肌を刺す、その中を小童は。


「つつじ! 嫌じゃ! わたしはそなたが一緒でないと何処にも行きとうない!!」

「ど阿呆ゥ! ンなのいいから!!」


 うぶめがまさに小童のその身を引き裂かんと、爪を伸ばし髪を振り乱し追う中で。彼は泣きながら葛籠をその手にもう一度と走り。



 ——其の刻。


 暗雲立ち込めし海上から、一筋の雷鳴が其の渦巻く怨念の中をびかりと裂いたのでございやす。


 ぎぃやぁああああああああああああ、っっっ。


 一点の迷いすら無きほどに正確に落ちたいかづちを一身に受け、もんどり打って苦しみのたうち回り、絶命の叫び声をあげながら、血濡れの妖怪は小さな灰の山となりやした。


 雲を裂いた震慄わななきに恐れをなしたか。いつの間にやら濃霧は晴れ、重き鐘の音は去り。


 残るは波のさざめき、風に流れし灰は何処ぞと跡形もなし。


 ——浜には白き小童と、葛籠がひとつ。


「御利益……、あったなァ」


 どうと息をいた葛籠を、小童はひしとその両の手に抱き寄せやす。


「すまぬ、すまぬ……」

「いんや、別にいいって。この、ど阿呆ぅのやんごとなきクソぼんぼんが」

「そなたの名まで、口にしてしもうた……」

「ンなのどうってこと、ねぇって」


 琵琶も拾えやぁい、と気まずそうに呟く葛籠の言葉に、小童はふるふると暫し首を振っては一向に離れようとしやせん。


「道真公、やっぱ敵に回したくねぇ奴だなァ……」


 暫くののち。はぁ、と葛籠は天を仰ぎ、そう呟いたそうな。


「おい、ぼんぼん。アレだろォ? その胸にしまった和紙だ、そいつを俺っちにも見せちゃぁくれねぇかい?」


 紅き眼を、泣き腫らしさらに紅くした小童は、はてと己が掛絡からの内側に入れし紅葉の押された和紙を取りいだしやす。


 はらりと開けば、そこにあったのは達者な筆跡と


「ンあぁ? これ、なんて読むんでぃ?」


 そこに在りしは、たった一行の漢詩。


「『其の瞳に宿りし 明けと暮れの空を彩るものなり』と読むものじゃ。まこと……阿呼さまに、感謝せねばのう」

「……ああ」


 そうか、と葛籠はふぅと息を吐きやした。


「おめぇをいつまでもぼんぼんって呼ぶわけにもいかねーかんな」

「……?」


 ——空也くうや


 からりとした声が、まるで其の瞬間、白き命に彩りを吹き込むように響いたといいやす。

 まぁるく開いた眼、紅き瞳はまさに暮れの色にも明けの色ともとれるやうな。


「そのありがてぇ漢詩にあやかってよ、おめぇの名は空也だ。……ンだよその顔、文句あんのかぃ」

「いいや……」


 ふふふっと笑いし小童は、葛籠をぎゅうと抱きしめたのでございやす。


「空也、そうじゃ、わたしは今から空也と名乗ろう」


 鬼の血を持つ白き子は、こうして真の名を深く深く、誰ぞ知られぬよう封じたと云いやす。

 まじないの効かぬ鬼子は、果たしてこの後の世にどうなって往くのか——。


「そうじゃ、そなたの名もなんぞ考えねば……。うむ、いづれわたしの父の首級を喰らふのであろう?」

「……聞いてたのかよ」

「わたしは、そなたの身体の戻るときまで共にあろう。それがまだ見ぬわが父の首級と引き換えであるのなら、なおのこと……。そうじゃ、そなたの名前。首葛籠くびつづら、首葛籠はどうであろう?」

「おめぇ……っ、まんまじゃねぇかっ! ふっざけんなよ、このやんごとなきクソぼんぼんが!!」





 時は流れし室町の世に。べべん、とひとつ琵琶の音。


 それは玄界灘に突き出すこの岬に、遠く遠く流れてゆく。


 死者の魂、弔いの空葬からとむらいのが響く。


 憐れ哀しき、様々な者達が眠る水底よ。


「同じやうにと、誰ぞを引き込み喰らったところで、そこは無念哀しみの坩堝るつぼと化しやすからなァ」


 子を呼ぶ母の哀しき声と、それに縋った魑魅魍魎と。悍ましき怨霊の念と。

 念が怨念を呼ぶ岬。

 鐘の音と鈴の音響くは坩堝岬るつぼみさき——。


「水底は、寒うて苦しゅうて。目の回るような独りきり。なんぞ、其の妄執から解き放たれ、浄土へと渡れますよう——」


 鬼の唄う鎮魂歌は、何処ぞへと向かいましょうか。

 果たして、其の無明むみょうの刻の中で、誰ぞを救うのでありんしょうか?


 ——それは御仏すら、鬼すら、だぁれぞ知りんせん。


「なぁ空也ァ、俺っちはそろそろ腹が減ったンだがよぅ」

「はいな。次は港にでも寄りやしょうかねェ……」





 さぁさ、此度語りやすは、現世うつしよ浮世うきよのモノガタリ。

 此の世は地獄と云いやすが、其処に救いは在るのかどうか——。


 常世とこよ幽世かくりょより堕ち出ずるはひとつの"鬼"と、ひとりの"鬼の仔"。


 我ら不死の身なれば、ついぞ定まらぬ根無し草。

 世の理を悠々寂寂ゆうゆうじゃくじゃくと眺め視るのみでございやす。


 此の世の全ては生き地獄。

 此処に語りやすは、そんなひとりとひとつの。あはれ、たわむれ珍道中——。

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