第漆話 火雷天気毒王
此の世は地獄と云いやすが、其処に救いは在るのかどうか——。
さて今は昔。『停習弾琴』、
作者はかの著名な
幼少期、閉ざされた世界しか知らぬ白き子は、月夜の下に詠むかの御仁の歌に、詩に、その伝承に想いを馳せておりやした。
その菅公が、唯一『
話し相手の
まさに寒空の下で夜に啼く鴉の声の、悲哀の情。一度も訪れぬ彼の母を待ち侘びる心情のやうな物哀しさで、月の光のみ射し込む座敷牢の空気を揺らしたといふ——。
「ほう。
——刻は、小童が筑後の川の千一坊に逢いにゆく少々前に遡りやす。
御社殿にて語らいの
「斯様な御言葉、至極光栄にござりまする。しかし……わたしごときが
「よい、よい。私とて琴は二十六の時に断念しておる。久方ぶりに聴きとうなっての」
「……」
照れと恐縮と、戸惑いの表情を浮かべた小童に阿呼はますます面白くなったのか。微笑みかけると、傍に漂ふ梅のかほりに一息に告げたのでございやす。
「のう、飛梅や。餅と……琴を持って参れ」
「承知いたしました」
「琴は、其方が運んでくれぬかの? 梅の細き枝では琴は運べぬ……飛梅が案内しうるゆえ」
「は、はい……」
ささっと立ち上がりし小童の前には、十二単衣を纏いし天女のような様相のものがひとり。
「では、こちらへ……」
すすす、と衣擦れの音もなく進みゆく後ろ姿に声も出ぬまま見やれば。
「琵琶と、葛籠は置いてゆけ。琴を運ぶには少々重かろうて。わたしがここで見ていよう」
「か、かたじけのうございまする」
置いてゆく葛籠を少々気にしつつも、振り返らずに社殿の廊下を進みゆく天女の後を、小童はいそいそと追いかけるのでございました。
***
「あれはまこと危ういのう……。そうは思わぬか、珍妙な箱よ?」
「ンあァ? だから俺っちは箱じゃねぇ、葛籠だ」
ふふふ、と阿呼はその姿を幼き姿ではなく右大臣その時の姿へと変え。
「んでェ? クソぼんぼんだけ行かせてよゥ、なんか俺っちに話したいことでもあんだろぃ?」
「……ぬしは察しが良くて助かる。まことそこらの悪鬼、魑魅魍魎とは
「……河原の鬼に位も何もねぇーっての。その証拠に、俺っちの名なんぞクソぼんぼんと地蔵菩薩以外には知られてねぇだろうが」
ふっ、と
「あれは……藤原の血が混じっておろう? 知らぬとはいえ、いくら私に
「ほぉう……?」
そこまでわかってて——。
悍ましい氣を一瞬放った葛籠に、「そう、警戒せんでもよいわ」と菅公は
「云うたであろう、私は藤原とは違う。別に
「……」
さてさて。
菅公は一人思慮していた。
小童の話は真実ではあろうが、であれば。地獄にて彼の出生の秘密を探ったと云うこの鬼は、何故母のことを教えてはいないのかと。
「私とて、時の右大臣をこの知力と実力のみで上がり得た者じゃ。少々時代と背景と、酒呑童子の荒らし刻と。……系図を考えればわかりうることよ。"途絶えし血筋の最愛せし者、一つ系譜の抜け穴よ"……それに違いはないかの?」
「はぁーっ。さすが天神様の名を賜った御仁はお見通しってかねぇ……」
呆れたような口調で、そう葛籠はかぱりと蓋を上げ下げし応える。
(普通は"そこ"を考えても、いっとう頭が回らねぇとその答えには行き着かねーってのによぅ……)
小童も、己が母に望まれた子でないことはわかっているであろう。
然し、歴史上にも小童を懐妊してしまったことで、その身分も生き死にの真実も……何もかもを、母が奪われたなどとは——。
「流石によゥ。憐れみの情なんぞ持たねぇ、地獄の鬼である俺っちにも、気分の悪りィ事柄ってェのはあるんでぃ」
「そうか……」
『咎なくて死す』を見破りしもの。
それは世に明かす名もなき白き忌み仔、鬼を半分その身に宿した子であった。
然し乍ら、その魂はその色素のない
「いろはにほへと。あの隠し言葉は、欲深き者が気づけば——。その後の世に厄災をもたらす呪い唄として遺しておっての」
「……おめぇっ、やっぱやることがえげつねーじゃねェかい!!!」
「はははっ、まあよかろうて。先に気づいたのはあの鬼子じゃ。ほんに
のちの世を救うたなどと、彼奴は知らぬであろうて——。
そう笑う菅公をじろりと見やり、葛籠は無遠慮にげぇえっと呟きをもらす。
「流石は地獄にもその名の響く、
「よせ、よせ。せめて北野に祀らる
延長八年六月二十六日、平安京の
時の書には『旱天曀々、蔭雨濛々、疾雷風烈、閃電照臨』、すなわち天が
後に道真公の祟りの中でも、尤も被害が大きく恐ろしいものとして語り継がれる、『清涼殿落雷事件』である。
「弓が得意であったとの文献は、あの白き仔も読んだと言っておったが……。まぁ離れておっても狙いは外さぬものでのぅ……」
「いやぁ、ほんと、敵に回したくねぇ奴だなァ」
悍ましい笑みを浮かべるは、葛籠ではなくその神格ある御姿の方で。
「あれが此の地に訪れた刻、私はその
それを望むのならば……その身を焼き払ってやったものを。
然し——。
「彼奴は、世を儚み恨むよりも。まるでぬしと共に生きようとしているかのようじゃ」
「……冗談よせやぃ。俺っちは子守はごめんでぃ」
「であれば、
「……ほんっとに、性格悪りィなァ。ンだから
ふんっ、とひと声。葛籠の蓋がかぱりと上がる。
「まぁ、アイツは足よ。あのクソぼんぼんが居りやぁ、小悪党や死骸はともかく、時折良さげな
へへへっと嗤い、そうかぱりかぱりと嘯く葛籠を、今度は少々困ったように眉をひそめ、菅公は見やるのだった。
「鬼よ、ぬしの真の罪はなんぞ? 罰はいづこぞ?」
「ンぁ? なにわけのわからねーこと云って……」
——其処に漂うは梅のかほり。
「菅公、お持ち致しましたよ」
「おお、すまぬな」
焼けた餅のかほりと、ことりと置かれし盆と抹茶と。
黒塗りの琴を抱えし小童が。
「此の琴はさほど大きゅうなくて、わたしひとりでも運べた」
「……なンでちっと嬉しそうなんでぃ、このやんごとなきクソぼんぼんが」
ちっ、と響くは舌打ちの音。
少し口元を綻ばせた小童を見やる菅公の姿は、いつの間にやら阿呼へと戻っており。
「其方、
「は、はい。では、僭越ながら……」
一瞬、其の紅き眼を丸くした小童は、ふわりと微笑み、指を下ろす。
——専心不利徒尋譜
——用手多迷数問師
そうとさえ書き遺した其の曲を。
なんとまぁ、此の小童は
呪われし、忌まわしきその身とその血に宿るは。なんと透き通りし優しき心か。
大楠も老松も、牛も馬も、梅の精達も。勿論道真公御本人、そして葛籠でさえも。
皆々がその琴の音にしばし聴き入ったという。
***
「人の世の
「……チッ、これだから高貴なるお方々の喋りはいけすかねぇやぃ」
語らいの暮れに、名残惜しさを少々感じつつも。
その手に、筑後の川へと棲まう河伯の副将軍への言伝と包みを受け取りし小童は、次に進みゆく道先を一度眺め、その顔に白布をそうっと巻いてゆきやした。
ここを出らば、次はいつか。そもそも次なぞは在るのかと——。
「宇治はもちろんだが、
「然し、仇を討とうなどとは……」
「はははっ。そのような事がしたくば、私にいの一番に火雷の加護を求め、祟りの習いをしておったであろう。その一族がおれば、より其方の
「阿呼さま……」
深々と頭を下げし小童は、そのまま踵を返そうとしたのでございやす。
振り向かぬよう振り向かぬよう、感謝を深々と胸に抱きつつ、と。
「いつでも立ち寄るが良いぞ」
その言葉に思わず振り向かば、その手にするりと差し
「これは——」
開けば其処には、朱の紅葉と墨で書かれた一文がございました。
「持ってゆくが良い。……次はまた、眺めゆきし世の流れを教えてたもれや」
「……阿呼さま、感謝いたしまする」
さて、小童は。後生大事に胸に抱きしその和紙をどこぞにしまおうと。
「……おぅい! 待ちやがれ! ンなもん俺っちの中に入れんじゃねーよ、喰っちまうぞォ!!」
「……されど、これはわたしの宝ゆえ。一番ここが安全やもと」
「ふっざけんじゃねーぞ! このやんごとなきクソぼんぼんがっ!」
遠く遠く、ひとりとひとつの喧騒が、今度こそ一歩一歩と歩を進めゆくたびに遠くなってゆきやす。
「世は定めなきこそ、をかしくもあり、いみじけれ」
「……菅公、呪い唄、呪詛と落雷のお次は。まさか鬼子に助言と祈りとは」
「あれほどに
——恨むらくは青々たる汚染の蝿有ることを。
——それは人の世も、人でないものの世にも常として。
——それらが、あの子の行く道を塞がぬことを祈って。
——そして。それが成就せしときに、あの子が苦しまぬように、と。
「葛籠の鬼よ、気づいておらぬのかの。地獄の罰の重きを。
※※※※※※※※※※※※
『停習弾琴』
中国では君子修養のひとつとして当時重要視されていた琴を、道真公も師につき習っていたが、二十六歳の時に菅原家としてより重要な学問に専念しようと、その上達を断念したという漢詩。
その中に「烏夜啼を奏でてもちっとも上手く聴こえない」という意味の一文がある。
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