第陸話 河伯の手

 此度こたび語りやすは、現世うつしよ浮世うきよのモノガタリ。

 此の世は地獄と云いやすが、其処に救いは在るのかどうか——。




 流れゆく われは水屑みくずとなりはてぬ



 嘘偽り、讒言ざんげんたばかりは、哀しきかないつの世にもございまさァ。

 流されし身を憂う者、死して怨霊となる者と。その残穢ざんえは土地に遺りゆくとも云われておりやす。

 しかながら、謀りし方も。その後の生涯にて常に寝首を掻かれる恐怖と闘い、死に逝く姿を幾度となく見届けてきやしてねェ。



 さぁて。ここ筑後の川は西国の河伯かっぱの総大将、九千坊くせんぼうが配下、三千坊が取り仕切っておるとの言い伝えがございます。

 九千とも三千とも云われる河伯の中には、あはれかの壇ノ浦の戦いより落ち延び、然しこの九州の地で無念のうちに息絶えた、平家の落人の魂の成れの果ても……混じっておるそうな。


 ——おんやぁ、聞きしに及ぶ少弐しょうにの御方がその言い伝えを知りませんとな?




***




 べべんっ、とひとつ琵琶の音。


 筑後の川を見据えしその場所で、一人語るは旅の坊主。


「おぬし、旅の僧と見受けるが。おぬしはこの戦いをどうと見る?」

「どう、とは——?」


 含みのある言い回し、小首を傾げた坊主の返しに男はふうと息を吐く。

 少しばかり幼さの残るその顔に兜を被り、その両の陣営を見渡すのは、少弐一族が三男坊、頼澄よりずみ。先の針摺原はりすりばるの戦いでは、城へ籠城し父少弐しょうに頼尚よりなおの援軍を待つ身であった。


 然し乍ら——。


 今や、川を挟んだその向こう。

 筑後川の北岸に陣を張りしは南朝方の軍勢、その数約四万。

 その旗印は、かつて頼澄が死守した陣営を父と共に救いにきた菊池氏のものであった。


「私は、父上のお考えがわからぬ。いや、滅多なことは口にするものではないが……」

「いえ、いえ。今はこの旅の坊主が、貴方様のお話相手となりんしょう。他に誰も……人のたぐいは聞いておりませぬ」

「そう……か」


 北朝方、少弐一族が率いる軍勢は菊池四万に対して約六万。

 然し、それを見やる頼澄の表情は優れぬばかり。


 父も、兄も、この軍勢の中心として着々と進みゆく最中さなかというに。


「私は父上より、ここに控えておるよう仰せつかっておる故。ひとつ、何か説法でも聞かせてくれぬか?」

「はいな」


 にこりと口元を綻ばせ答える坊主、然しその両者の視線が合うことはない。

 それもその筈、旅の軽装、白装束に身を包んだ坊主はその顔の半分を木乃伊ミイラの如く白布で覆っており、口元は嗤えど真のその表情は誰ぞ知ることはなく。


「然し乍ら頼澄さま。ワシは所謂いわゆる破戒僧はかいそう、説法っちゅーんは少々苦手でござんしてね。……ひとつ、この筑後の川の昔話なんぞは如何でございましょうか?」

「……ああ、聞かせてくれぬだろうか」


 川上より吹いた一陣の風が、すぅと二人の間を通り抜け、坊主の白布をなびかせる。






 ——平安の世、醍醐天皇の治世のお話にございます。


 時の左大臣、藤原時平の讒言により大宰権帥だざいごんのそちに左遷させられし菅公。その下向の道すがらは幾度も刺客に狙われ、河内の国府、瀬戸内海の海路を渡りようやっとの思いで豊国とよくに(現在の大分県)より九州に上陸されたそうな。

 此れは、菅公がこの筑後川を下り北野へ辿り着かれた時のこと。


 さて川から岸へと移ろうとした際、またも追討の者が参上せしめたと。追っ手の刃が疲れ果てた菅公へと向きしその時、そこに現るは三千坊が配下、此の辺りに住まう河伯の副将軍千一坊せんいちぼうにございやした。

 手練れの刺客との一進一退の攻防の末、勝ち鬨をあげたのは千一坊。然し乍ら、彼はその激しい戦いにより片腕を斬り落とされてしまったんでさァ。


 菅公はその時落ちた右手を手厚くほうむられ、その手は後の世に祀られし北野天満宮にて大切に保管されておるそうな。


 時を同じくしてこの筑後の川、御笠川に蔓延っておった下々の河伯どもは、よう人々に対し悪さを働いておったそうで。


 武芸にも秀でた菅公がそれらを懲らしめた——という逸話も残っておりやす。


 千一坊への恩を忘れぬ菅公は、成敗はせども命までは取らぬと。

 そこに「いにしえの約束せしを忘るなれ川立ち男氏菅原」との文言が取り交わされたと云いやす。


 ええ、ええ。この言葉。頼澄さまもおわかりでしょうか?

 古きに取り交わされた菅公と河伯の約束事。筑後の川下りの際にひとつ口にすれば、河伯は其の者には悪さを働かず、ある時はこの淀みに住まう大蛇より子供らを救い給ふやうになったと。


 少弐に生まれし頼澄さま。……お父上、兄上様はこの御言葉をご存知でェ?

 嗚呼、しかし、それも遅かりしかな。

 どうやら、川を挟んでの戦が。始まろうとしておるようでございますなァ。




***




「おいおい。こんな世のひとり旅に、刀も持ってねーのかぃ小僧や」


 さて、阿呼より言伝を賜った小童は、川のほとりに尻餅をついたまま、その大蛇の上より呼びし声を仰ぎ見やした。


「かたじけない、わたしは刀も弓も持ったことがないゆえ」

「なんでぃおめえ。何処に目ん玉ついてやがる。どう見たって、このクソぼんぼん一人の旅じゃねぇだろうがよゥ」


 謂わるるがまま、文言を口にし筑後の川の浅いところを渡ろうとすれば。突如現れし大蛇に襲われた小童。

 そこに参るは約束事を違わぬ千一坊にございました。


 ぞばり、とその首を一閃。大蛇はどたりと川に横たわりあっと云ふ間に事切れやした。

 滴る水と返り血と、流れ流れゆく水流に混じり、やがては薄れそそがれてゆきやす。


「噂に聞く千一坊どので間違い無いであろうか?」

「……そうだが?」


 どう見ても人ではない其の者共に、千一坊は訝しむ視線のままそう返しやす。


「そなたに、阿呼さまよりこの包みを預かっておっての」

「それは……ああ梅ヶ枝餅か。なるほど道真殿の遣いならば話は別だ、有難く頂戴しよう」


 左手に持った刀を鞘に戻し、其の手で小童の差し出だす包みを受け取る千一坊。……右手は、やはりかの戦いにて失ったままのようで。


「どうした小僧?」

「……そなたはこの川を治める河伯の副将軍と聞く。そのような強きあやかしの者でも、失った身体は戻っては来ぬのだろうか?」


 少しばかり俯く小童を、千一坊はしげしげと眺め見やした。


「小僧……やけに身なりと言葉は御上品だが。お前さんからは屍人しびとの匂いがしやがる、どこぞのむくろを介した生まれたての妖かい? ……もっとも、そっちの箱からは生まれたてどころじゃねぇ禍々しい気を感じるがな」

「箱じゃねぇ、俺っちは葛籠だバカヤロウ」

「……一緒だろう」

「素材がちげーってンだよォ、これだから皿が乾くと弱っちまう河伯野郎かっぱやろうはいけねーなぁ」

「……」


 千一坊はなんと失礼な物言いだと思いやしたが、如何せんその葛籠より発するは、己が妖気よりも多大なる禍々しき気。これはどこぞの大妖怪やも……と口を噤んだのでございやす。


「この葛籠は、元は鬼。わたしを救った罪により身体を奪われし者……。失った身体が戻らぬのであれば、どうすれば彼は……」

「ンだからよゥ! どうしてそうなる!? 云ったろォがよ、おめぇが成仏すりゃあ俺っちの身体も元通り。嗚呼めでたしめでたし、って寸法よゥ」


 ははぁ、と千一坊は顎に手をやり考えを巡らす。

 これは此の世の妖の知恵を授けるか否か、道真殿が己れをも試し給うたことがらなのだろうと。


「どうやら訳ありのようだが、そうだなぁ。鬼ならば京の羅城門らじょうもんの鬼の話を聞いたことがある。其奴そやつは、元は大江の山に住まう鬼の大将が配下、側近の茨木童子いばらきどうじと云ふもんで。奴は切られた片腕を取り返した際に、みるみるうちに腕がいだと伝え聞く。鬼ならば元の身体が無事なれば、其のやうに元に戻るのかもしれんな」


 見ての通り、河伯には無理な芸当だ。

 そう千一坊は無き右手を掲げ、からからと笑ったのでございやす。


 さて、その紅き眼を丸くして、葛籠を見やったのは小童の方。


「こいつァ、やはり京に行かなきゃいけねーようだなぁ……」


 からりとした声が、少しばかり嬉々としてそう呟き返せば。


 ええ、そうでさァ。大江の山に住まいし、鬼の大将とは。かの酒呑童子に違いなし。

 噂と違わぬのであれば、羅城門の鬼は小童の父親の配下の者であったはずであろうと。


「手を接いだらば元通り。つまり、もし首を落としても生きてるってぇンなら、おめぇが浄土へ行けなかった理由のひとつもわかるってなァ」


 へへへっ、と腹の底に響くやうな声音で葛籠は語る。

 其の時ばかりは。ぞわりと、千一坊はこれ迄に感じた事の無いやうな、底知れぬ恐ろしさを感じたといいやす。




***




 さぁ今まさに、戦いの火蓋が切って落とされようとしたその刻に。

 筑後川の北岸に高々と掲げられしは、少弐氏が菊池方に残した起請文きしょうもん



『今後子孫七代に至るまで、我が少弐一族、決して菊池に弓引くことはありませぬ』



「嗚呼、なんと……」


 そこに記されし文字は紛うことなき身内の筆跡。頼澄は、膝をつくのを武士の心意気で精一杯堪える。


「……これが、貴方様の迷い事でございやすか?」


 ゆっくりと、頼澄はその言葉に頷き返す。


 六万の兵、士気を揺らげしは其の血判状。

 針摺原の戦いの際に、援軍をと嘆願した父と兄が菊池方に残したもの。血で誓いし約束事。


「私は……菊池氏の加勢がなければあの戦いで討ち死にしておった。それを、それを此のように父上がたがえ……兵の士気、ひいては我が少弐の心まで堕とすとは」

「此度はそれが、筑後の川で行われてしもうた……少々、事が大きくなる可能性がありましょう」


 して、貴方様は如何に——?


 坊主の問いに、頼澄はしばしの間思案しているようだったが


「私は、菊池殿には弓引かぬ」


 そう、しかと頷き、己が率いる兵に告げゆく。




 さあ、揺らいだ心の兵約六万。猛りし約四万の兵。

 ぶつかり合いし筑後川。

 戦いの最中、ひっそりと其の激しさに紛れ、魑魅魍魎どもが兵を引き摺り込んだとも。


 これぞ、後々の世に語られし、関ヶ原、川中島と並びし大合戦と云われる筑後川の戦い。

 血で血を洗う壮絶な争いは、川の水を朱に染め切ったと云ふ。





「おうい、空也のぼんよ」

「お久しゅうなぁ、千一坊の旦那ァ」

「此度の知らせ、感謝する。ぬしは息災か?」

「この通り、見たまんまでございやすよゥ」


 頼澄が去りし後、そこに現るは河伯の副将軍。


「どうでぃ、おたくの奴らはよ。死してなお、幕府方に牙を剥くか、はたまた己が一族でなし朝廷権力の命もろとも引き摺り込むか……」

「なんとまぁ、下々の奴らが嬉々としとるわ。いつの世も、争い事はなくならんなぁ」


 差し出した包みを、その左手で受け取りながら千一坊はそう呟き——。


「此の戦い、どうと見る?」

「まぁ、少弐の敗走でございましょうなァ」


 約束事を違わば、なんの御加護も得られませんからァ。

 飄々と呟くその姿に、少しため息が重なりゆく。


「お前さんは、変わったようで、いっちょん変わらんなぁ」

「鬼に横道なきものを——。ふふふっ、ワシは旦那と、阿呼さまとのお約束事は違いたくないだけでございやすよゥ」



 いくさのあとには怨みつらみと、悪鬼怨霊の類いがうまれ蔓延るという。


 其れを喰らうは妖しき、悍ましき葛籠の鬼よ。

 御魂みたまを弔いしは、白き鬼の仔か。




『ひとつ、空也や。筑後の川に変ありし刻、千一坊がその穢れとならぬよう。頼まれてはくれぬか?』

「はぃな」



 その約束事は、いつ何時いつ迄も——。




 その後、筑後川の戦いにて少弐の長兄は討死。

 その責を取って父頼尚は隠居、敗走せし少弐一族は大宰府へと落ち延びたという。父と次兄と袂を分かった頼澄はその後南朝方へとつき、後の世に少弐を再び取り纏め率いる存在となるが……。



 然し乍ら此れもまた、世の虚ろいのほんの少しのひと波よ。



「河伯の手は何ひとつ祟りんせんよ。約束事を違えし者は加護を失くし、その者を水底の有象無象が、流れゆき水屑となり果てし想いが、誘い込み引き摺り込んでゆくんでさァ」


 血とはまこと難儀なもの。


 誓いに用いた血、己が身体に流るる血筋——。


 なんぞ、忘れちゃあおりやせんか?

 どうか、どうか、お忘れなきように。




※※※※※※※※※


 道真公と河童の伝承には諸説あり、筑後川の三千坊が助けたとの文も多く見受けられますが、今回は河伯の手が奉納されている北野天満宮に伝わっている副将軍千一坊の説を此の話の中の史実として使用させていただきました。


【筑後川の戦い】

 日本三大合戦のひとつとも言われている、南北朝時代に九州の主権を争った合戦。

 北朝(幕府側)の一色一族を退ける際に手を結んだ南朝(朝廷側)菊池氏を、大宰府を拠点とした少弐一族が裏切り、九州の武力勢力を巻き込んだ大合戦となったもの。

 この戦いの後、少弐の三男頼澄は父兄と袂を分かち菊池氏の傘下へと加わっているという史実が残っている。

 

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