第伍話 異呂破唄

 とおいむかし、地獄の河のほとりに棲む鬼のひとりが「人の世の書を寄越せ」とお地蔵さまに云ったそうな。


 学びは良きこと、鬼のつとめに必要ならば、と慈悲深いお地蔵さまはたくさんの書物をお渡しになりました。はじめ、人を罰することしかしてこなかった鬼は文字すら読むことが危ういほどでしたが、何十年とかけてその書物を読み漁りました。


「人間ってェのは、ほんとうに本当に、めんどくせぇ」


 つとめは必ず、あいた時間は大好きなはしることもそこそこに、鬼は幾日も幾日も書物を読んでおりました。まわりの鬼たちは、赤紫色の鬼がすこしおかしくなったのだと様子をうかがっております。


「あの白い餓鬼、これなら見たことあンじゃねぇのか……?」


 さぁそう云ふなり、鬼はあちらこちらから和紙や青竹を集めてきました。

 長い爪で色とりどりの和紙は何度もぐしゃぐしゃに裂け、折れた竹がそこら中にばら撒かれ、みっともない残骸ばかりが散らばります。鬼たちは、とうとう彼がびょうきになってしまったのだと思いました。


 できた! と鬼は不気味に嗤い、今日も暮れの六つにいの一番に賽の河原へと疾ってゆきます。


 がごんっ! と呆気なく蹴落とされる石塔を、白き小童は今日も力なく見つめます。小さな手には、石のかけらが食い込んで血が滲んでおりました。


「おいっ、おめぇ今日もダメだったなァ。だめだ駄目だ、いっとうできの悪い石塔なんざァ作りやがって」

「……」

「やめちまぇ。おめぇなんざ、いつまで経ってもできやしねぇンだからよぅ」


 かさり。からから、からから——。


 こっちをむきやがれ、との声に顔を上げた小童の目の前には。


「そなた、それは下手がすぎぬか……?」

「ンあァ? はじめてにしちゃ上出来だろがぃ」


 振り向いた小童に差し出されていたのは、なんとも不恰好なひとつのかざぐるまでした。

 おそろしい顔で鬼は嗤い、小童に語りかけます。


「きょうはやめだ、しめぇだ。石塔つくったところで、俺っちが跳ね飛ばしちまうぞ。そんなに云うってンならァ、この餓鬼、おめぇもつくってみろってンでぃ」

「そなたが教えてくれるのか?」

「おうよ。だからおめぇは、俺っちにこのひらがなってェのを教えやがれ」



 からから、かさり。からから、からから——。



 賽の河原の岸には。

 いくつも、幾つも、かざぐるまが立っているんだそうです。

 からからと風に揺られて回る鮮やかなかざぐるまに、泣き疲れた子らもふと幼き日を思い出しては心休まる刻が少しでもあるとか——無いとか。


 あるときからぱたりと増えなくなったと云ふ賽の河原のかざぐるま。


 今日も、河原には子らのおうたがきこえてきます。

 石積みのおうたとは別の。かざぐるまを数え、言葉をまなぶ、てならい唄が。



 あめつちほしそら やまかはみねたに——。

 くもきりむろこけ ひといぬうへすゑ——。 


 いろはにほへと ちりぬるを。




***



 あめつちほしそら やまかはみねたに——。


 さて、所変わって浮世の大宰府。

 御社殿にて、てならい唄の解を求めし小童の問いに、少年、阿呼あこはふぅと笑みを零し、


「あめつちうたもいろは唄も同じことよ。四十八文字どれひとつ重なることなく詠んでおる、ただのてならい唄じゃ」


 淡々とそう告げたのでございやす。


「はて、しかしなんのことやら。いろはの……そのてならい唄については、弘法大師の作と伝え聞いておるがのう」

「阿呼さまもお人が悪うございます。かの弘法大師の作なれば、このてならい唄には存在せしえぬ仮名文字がありますゆえ」


 再び、頭を低く下げゆく小童に、ますます阿呼は愉しそうな笑い声を。


「はははっ、其方は座敷牢暮らしと云うておったが、なかなかに賢いようじゃ。「咎なくて死す」に感付くとは……あと七百年ほどは誰も気づかぬと思うておったがの」

「では……」


 少しばかり嬉しそうな小童の姿に、阿呼はスッと指先を向けて一旦その前のめりな姿を制し——。


「誰ぞに云うてはおるまいの?」


 と、神童とすら呼ばわれたその身らしからぬ意地の悪い表情を浮かべて問うたのでございやす。


「無論、わたしには話し相手もおらぬゆえ。今初めて口に出したことがらにございまする」

「そうか、そうか。ふふふっ。では愚かなる人の仔らが気づくには幾年いくとせを要するか……まこと楽しみじゃのう。では聞くが、其方は先ほど話し相手がおらぬと云うておったが、その珍妙は箱はなんぞや?」

「つ……彼は、」


 賢き阿呼は、その呟きひとつで葛籠の正体におおよそ感づいたようでもございやしたが、ゆるりと小童の語りを待っておいででした。


「おめぇら人の世の者とも、妖怪変化のたぐいとも違うってなァ。賢き右大臣さまはお気づきのこったろぉがよゥ」

「ふむ、然し其の箱の方はまた人の世の理に、いやに精通しておるようじゃが……なんぞ学びでもしたかいのう?」

「むうっ……」


 何故だか、葛籠は少々気まずそうに口を閉じたのでございやす。

 少々戸惑い、小童はどうしたもんかと思ったようですが。ぽつりぽつりと何やら語りはじめたそうな。


 時は一条天皇の御代。その運命を狂わされし、知られざるひとりの幼子と賽の河原の鬼の物語を——。




「ふむ。地獄に堕ちた先がこの浮世とは。まこと滑稽なことよのう、御仏みほとけは何を考えなするのか」


 その手に現れた扇に何事かを書き綴り、ぱたりと閉じながら阿呼はふうと息をつきやした。


 色は匂えど 散りぬるを

 我が世誰ぞ 常ならむ

 有為の奥山 今日越えて

 浅き夢見じ 酔ひもせず


 ええ、ええ。ご存知のことでしょう。

 こちら全てのおんの仮名文字を使いながらも、涅槃経にありやす


 諸行無常しょぎょうむじょう 是正滅法ぜしょうめっぽう 生滅滅己しょうめつめつい 寂滅為楽じゃくめついらく


 ……の教えを表していると言われておりやす。


 いろは唄、異呂破いろはの唄にございやす。



「……ほんに、少々学びはしたが、悟りの境地とはわからぬものじゃ」

「これをうたわれしが真に阿呼さまでありましたなら、わたしは三重の意味を知った者として平伏しとうござります」


 よせ、よせ、と阿呼はまんざらでもない表情でそう返しやした。


「如何に後世に名を残そうとも、わたしがここまで祀られたのは、所謂祟りの言い伝えもあってのことじゃ。てならい唄に、無情無常と未練を隠すなどと」

「それも貴方様の才あってのことで……」


 無常観を説きながら、なにゆえ人の世はこうも移ろい、然し抗うか。そう語りつつ、阿呼は扇に書き綴りし一句をひらりと風に舞わせつつ、小童の正面へと。


「他に何が聞きたいか? 其方は単にいろは唄の解を求めに来たわけでもなかろう?」


 もう人の世の者ではない笑み。匂い立つは梅のかほり。

 それを見据える紅は何を想うのか——。


 さぁ、その本心を述べよ、恨みつらみを。願いを。

 さすれば雷鳴の震慄わななきのもと、醜きことわりから解き放とうぞ。

 雲がそっと忍び寄り、辺りが鬱蒼と翳りゆき。



 然し乍ら、小童の返答はその思慮の深さを覆すものであり。


「確かに。わたしは先の世を生きし阿呼さまの、賢き御心の助言を賜りたくもございました。然し……その」

「……?」


 予想に反した返答に、阿呼は目を丸くし小首を傾げやした。

 一方小童は、ごそごそと何やらその身、懐を探っておりやす。


「ンだァ? おめぇよう……」


 ハッとした表情を浮かべた小童は、背にあった葛籠を己が正面へと抱え——。


「もし、もし阿呼さまにひとつ、お願い申し上げるならば。……どこぞに、一句給われぬでしょうか? 日本三代実録の写しも全て拝読せしわが身にござりまする。漢詩も御唄も、月夜の光の下で眺めるのが至上の喜びでしたゆえ」


 はっ——。

 思わずと云った風で阿呼はその口を袖で覆い。


「ふっ、ざけんじゃねェぞ、このやんごとなきクソぼんぼんが! 俺っちを和紙や記念碑代わりにすんじゃねぇ!!!」

「しかし……そなたはずっと道中共にあるゆえ、最も適するやもと」


 はははッッ! あっは、あははははははっ!


 堪えきれずに阿呼が大口を開けて笑うさまを、梅の花や漂う精たちは少々面食らいながら眺めておりやした。


「あーあ、このやうに笑うとは。久しくなかったことじゃ、其方、名はなんという?」

「そ、それは——」


 言い淀む小童に、阿呼は殊更ことさら愉快そうに微笑み。


「鬼に横道なきものを——であろう? 安心せい、わたしは約束は違わぬよ? ……藤原と違ごうてな?」



 みやびなる御方々の笑いのツボはどうにもわからん、と葛籠はひとりヘソを曲げるのでございやした。




***




『行ってしまったか——』

「そのようでさァ。さぁて、武士の血判がここまでひらりと翻されるってェのは如何なもんでござんしょうね」


 ……愚かよのう。

 いつの世も変わらぬその梅のかほりと、賢き才が滲み出た御言葉を。


 ふふふ、と顔を白布で覆いし坊主がひとりそれを嗤い聞く。


『地獄は何処いづこぞ、と。遥か昔に其方に問うたことを覚えておるか?』

「ええ、そりゃぁもう。昨日の如しで」

『まこと、此の世は生き地獄——。偽りなきことかもしれぬな』


 世をしのび、眺めゆくまま過ぎ去る四季よ。

 ここを堕罪府だざいふとすか、天神の加護ありき都とすか。

 それもまた人の想いの選び往く末の末路よ。


『祈りは呪いにもなることを、そろそろ人の仔らは学ばねば……』


 のう、空也や——。


「よう云いますわぁ。そない人に語りかけぬから……阿呼さまは」

『求められようとも、学びも努めも怠る者に、何が御加護か。現にあの少弐しょうにの一族はこれから菊池へと反旗を翻すぞ?』

「まぁ、それもそうでェ。貴方様の並々ならぬ努力と勉学の事象を知らぬ者は、ただ、此処へまいるだけでござんしょうから」


 でも……。


「貴方様が真に心を寄せ、認めた方には優しく。未だ人を愛し給うていらっしゃるのは存じておりやすよゥ」

『ふん。なんとでも申すがよいわ。して、空也や』


 ——この歴史の遷移せんい、其方はまた眺めゆくつもりかの?


「ええ、ええ。なんぞ、此度も戦さの匂いがしますからァ」

『奴らが向かうのは筑後の川だそうじゃ。……千一坊に知らせてくれるか?』

「へぇ、もちろんで」


 後に残るは梅の枝。

 茶と、焼き餅を共に食した跡を風がさらいゆく——。



「外はパリっと、あんこはまろやか。久方ぶりのォ甘味ってェのは、いいもんだなァ」

「ふふふっ。いつもいつも、阿呼さまは学びを怠らぬ。ええ御祭神さまじゃ」

「……んでェ、あの一族の末路を見届けるってェのかい?」

「見棄てはせんのが、阿呼さまらしゅうてなァ」



 運命さだめは変わらぬ、世は虚ろい。

 果たして、そこに救いはあるのかどうか——。


 地獄に責め苦と裁きがあるのなら。

 此の世の地獄の裁きは、一体誰がやるのであろうかと。



 数百年前、初めて此の地に寄り、語り合ったその白き後ろ姿を菅公はスッと眺め見る。その姿は先刻までの幼少期の姿ではなく——。


『人の心が鬼を生むか、鬼がなみだまといて人の心を生むのか。まこと此の世はおもしろきことじゃ……』



 いろは にほへと

 ちりぬるを わか

 よたれそ つねな

 らむ うゐのおく

 やま けふこえて

 あさき ゆめみし

 ゑひも   せす ん



「菅公、その御歌は……」

『七つの音で揃えねば、気づかぬ仕掛けじゃ。のう飛梅よ……己が生まれにも才にも、罪なき仔に。まこと稀有な身の上と過酷な運命とは思わぬか。……其方はわたしとよう似ておるよ、空也や』

「……またあの鬼子に、何か授ける気でいらっしゃいますか?」


 さぁ? とうそぶくその御姿に、一夜にして飛来した梅の精もやれやれとかぶりを振るう。


『異なるものをじく人の世も、まつりごとも好まぬが。わたしはあの子の淀みなきくれないの瞳と心を好いておるでの』

「花や紅を愛でるが如く、ですか?」

『ん? そなたのことも愛しく思うておるがの、飛梅や』


 はぁ、と梅のかほりが揺れる中。


 弓にも長けたその眼差しで、すぅと見届けしは。

 京を騒がせた鬼の大将が落胤らくいんか。

 いや、花山院の——繋がりなきし、歴史に残らぬ隠し子か——。


 

『血とは、まこと難儀なものじゃ。然し、血より濃いものも此の浮世にはありにけり……時として絆とは何よりも残酷な真実よ』




 遠ざかる風より届くは、べべん、とひとつ琵琶の音。


 さぁさ。此度語りやすは、表の歴史に残りゆく、哀れ虚しき戦いの。

 ほんのひとつの、幕開け幕開け——。





※※※※※※


 いろは唄は作者不明、一説には弘法大師とも柿本人麻呂の作とも言われております。此度は菅原道真公作者説と「咎なくて死す」の隠し言葉の伝承を作中にて使わせていただきました。

 


『日本三代実録』


 日本の平安時代に編纂された歴史書で、延喜元年(901年)に成立。

 編者は藤原時平、菅原道真、大蔵善行、三統理平と伝えられているが、同年菅原道真が左遷となったため、彼の名は編者から削除されている。

 しかし、編纂の実質的な中心となったのは、菅原道真と大蔵善行の2人と推測されている。

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