第弐話 白流鯨

 さぁさ、歴史に名高い壇ノ浦、源平合戦決着の地。


 この海峡、元はこの御国がひとつ陸続きであった頃、大地が双方に割れたのが始まりと云われておりやす。


 海峡を挟んだその向こう。

 筑前 筑後 にはじまりやす、九州の地。

 その昔は豪族、熊襲くまその民と呼ばれる者共がおったそうな。


 海峡には竜神様と、そこに仕えし者たちのおやしろが。

 合戦の最中さなかにも千や二千の海豚イルカが海中を通り抜けていったと申しやす。


 しかながら——。

 竜神様御一行とはまたなるもの。

 この渦潮の水底には、沈みゆきし国宝や有象無象の思念と共にそれに巣食う魑魅魍魎ちみもうりょう蔓延はびこっているんでさァ。


 迂闊うかつ水面みなもに手をついてはいけやせんよ。

 あれよあれよとのうちに、引き摺り込まれてしまいまさァ。


 平定の歴史とはいったい全体。

 徳の高い御人でも、天上とあらせられた御仁おひとでも。

 果たして真に、まつろわぬのは、どちらだったのでござんしょう。


 おや、おや、ふふふ。

 そうでさァ、旦那。

 壁に耳在り、障子に目在り、耳の聡いあやかしだって時にはおりやすから。

 口にはめっぽう気をつけなければ——。




***




 小童は些か途方に暮れておりやした。


 時は平安も末期、全てを飲み込みし壇ノ浦。

 ええ、ええ、浦を一望できる高台でも、申の刻過ぎ辺りはもう夕闇の中。


 小童は琵琶をかき抱き、潮の流れ着く浜へと歩みを進めやす。

 その手には白布と金色の掛絡。経典のお包みには多少の銭も入っておったのでございます。


「諸行無常とは云うものの……平安の初期から続く京の都の一族も、ここらで全て根絶やしときたァ。おい、おいクソぼんぼん、おめぇのおっかさんが貴族だったとしてよゥ、其処からみちを辿るのは、ちったァきついみてェだな」


 からりと通り抜けるその声が、静まり返った水面みなもに波紋を立てるよう。


「どしたァ、おめぇ。妙にしんみりしやがって」

「……都は」

「ンあぁ?」

「まことだろうか? 波の底には都があるのであろうか?」

「……」

「みな、水底で安らかに暮らしてけるのだろうか」


 後に残るは声無き残骸ざんがい

 しかしながらそれもまた、波のまにまに、流れ沈み。


 かたり。

 背に負う葛籠より吐き捨てるような吐息が漏れやした。


「しらねーよ、おめぇがあると思うンならあるでいいんじゃねェのかぃ?」

「すまぬ、わたしの知る水底は。寒うて苦しゅうて、目の回るような独りきりでな」

「……」

「そうか、都はあるのか。先の翁もそれで微笑んでおったか」

「おめぇよゥ、溺死かい?」

「……意地の悪い事を云うてしもうた、忘れておくれ。ひとつ罪が増えてしもうたかな」


 とすんと、日の沈みゆく海辺に小童は腰を降ろしやした。

 さてその両の手には、手入れの行き届いた琵琶がひとつ。

 小童は、琴に多少の覚えはあれど、琵琶の弾き方なんぞは知りもしやせん。

 然し乍ら、いやはや手にしたばかりの物とは云えど、小銭以外は何ひとつ手放してはならぬ気がしておったそうで。


莫迦バカ云ってンじゃねェやい」


 潮風に吐息が流れゆく。


「今更だ。もうひとつもふたつも、とおも百も、こちとらァ変わんねェってんでぃ、このやんごとなきクソぼんぼんが」





 弾き方知らずの琵琶の音。

 ただバチで、げんを見やう見真似ではじくのみ。

 月の映る揺れた波のに織り込まれ、水底のお社へと届いたのでございやしょうか。

 ぼうと海面に浮かび現れしは、白き小さな小山のような。


「あなや、海坊主であろうか」

「……ど阿呆ゥ、ありゃあ鯨だ」

「くじら……?」

「昼間に海の下をぴゅうと泳ぎ去ったアレの、もっとデケェやつだ。しっかしまだ其奴そいつァ、子鯨だな」


 招き寄せられるかのような呼び声に、浜よりその海へちゃぷちゃぷりと足を踏み入れれば。なんとも云えぬ、震える高い唄うような啼き声が聴こえやした。


「そなたも、白いのだな」


 そう語りかければ、つぶらなまなこと、心が通うた気がしたのでございます。


「白とは、忌み嫌われる色と、今日の今日まで思うておった。しかし、ちごうたようだ。そなたはまことに美しいな」


 へぇ、あの白き翁の衣も、小童の目にはまこと清きものに映っておったのでさァ。


 鯨の啼く声が、磯から沖へと響けば。

 しばしののちに、遠くの沖より幾つもの鯨の声が。


「そなたも、少しのはぐれものか?」


 鯨のつるりとした頭を撫で、小童はふふふ、と笑いやした。


「せめて、祈ろう。この疎まれし身なのが申し訳ないが、そなたに幾許いくばくかの長寿と多幸があらんことを」


 そうすると。すぅっと目を細めた白き鯨は、くるりと背を向けたのでございやす。


「乗せてやるってよ、この海峡には舟と良い舵取りが欠かせないんだとさ」


 ふぅーと、呆れたような声音で葛籠はそう呟きやした。

 小童はたいそう喜び、その鯨の背に乗ったんでさァ。


「そうだ、そなたに名をつけよう」


 白き鯨はとぷんと頷き、こちらもたいそう歓んだそうな。

 そして、友情の証として。この浦を人が渡る際に、守りしことを守らば無事に渡し通す約束事を、竜神様に取りつけてくれたのでございます。




 断ノ浦を渡るときは、どうかどうか、お気をつけなせぇ。

 海より呼ぶものには決して近づかぬこと。

 決して後ろを振り返らぬこと。

 決して、ひとりでは渡ろうとしなさるな。


 弔いの火を灯すことはあれども。

 決してその渦潮の底を照らし、何かを呼び覚ましてはなりませぬ。


 此処は断ノ浦、無念むねん怨念おんねんは唯でさえ魑魅魍魎の巣窟そうくつとなりやす。

 人の卑しき欲は、やがて悪意を産み、怨みつらみを呼び寄せ身を滅ぼす悪鬼となるのでございやす。


 どうか、どうか、約束事をたごうことなきよう。




***




 蠟燭ろうそく火の揺れる中、坊主の語りは静かに幕を閉じた。


 粛々とした空気の中、潮風だけが船上の男達の間をびゅうと通り抜ける音がする。くぐもった風音、乗り合いの舟には男が四人と船頭がひとり。


「そらぁ坊さん、俺ァ聞いたこともねぇ話ですな」

「船頭さんは、関門海峡は初めてで?」

「そんなとこってか、ああ、俺ァ今日が初めてだ」


 蠟燭の明かりの揺れる中、ひとり様相の変わったその坊主は薄い唇で弧を描くように嗤う。


「いやぁ、ワシも旅の身、弔いでこの地には年に一度は訪れておりやすが、舟に乗るのは久方ぶりでェ。旦那達が居てくだすったおかげでさァ」


 潮の流れにそって対岸へとゆく道すがら、この地を何度も訪れたことのある坊主に、男達は壇ノ浦の伝承を聞かせて欲しいと頼んだのだ。

 白布で頭から目までをすっぽりと隠した白装束、旅の僧にしては脚絆きゃはんも手甲もなく、素足に草履といった軽装。

 何よりその細身の身体に不釣り合いな、大きく古びた葛籠を背負い、琵琶を抱え歩く姿は少々異質であった。


「いやに詳しいが、坊さん、アンタァ平家の落人かなんかの血筋のモンかい」

「いんや、そんなことはございやせんよ。ワシは伝え聞いたこの噺を、地方行脚の道中に琵琶で弾き語りをしておるだけでさァ」

「しかし、それにしちゃぁ、随分と詳しい語り口だった。おかげでまだこの水底に天叢雲剣あまのむらくものつるぎはあるってことだけはわかったよ」

「おやぁ……?」


 ジジジ……と蠟燭の火が揺れ、刹那——。


 ぼしゃんっっ!!!

 大きな音がして、海面が大きく一度波打った。


「坊さん、すまねぇがアンタとは此処でお別れだ。渦潮の底で念仏でも唱えとくんだな」


 一挙動に、男達の手により暗い海に突き落とされるは語り部の坊主。

 波間に一瞬浮かんだその白布を巻いた頭を、船頭はそのべらでぱしんと抑え沈めながら、欲深げな笑みを浮かべそう言い捨てる。


 旅の坊主のあの身なり。語りはせども、争いはできぬだろうと。

 その姿は再び上がることなく、暗い水面は泡すら浮かばず静まり返る。


「おい、錨を下ろせ。渦潮の流れた先が、神器の沈んだとされる場所だ」

「いやぁ、これで本当に見つけりゃ俺たちの天下だ」


 へらへらと、欲に濡れた眼が海面をめつくように見やり、錨を放る。

 一人は潜りの準備に掛かろうといそいそとその着物を脱ぎ始めた。


「兄貴、坊主の荷はどうします?」

 

 ——そう、船頭も、男どもも、単なる乗り合わせではなくはなからぐる・・だったのだ。

 ひとりの男の声に、船頭——大方この子悪党どもの親分だろうが——は、坊主の遺した荷を振り返り・・・・見る。


「琵琶は、年代物だが売りゃあはした金にはなるだろうよ。そっちの葛籠の中身はなんだ?」

「へへへっ、あの野郎、至極大事そうに降ろしておりましたからねぇ、そりゃあ良いモンが入って……」


 ぞぼりっ——。


「おい、何が入って……あ、あ、あああ?」


 今しがた、言葉を交わしていたはずの男の顔はそこになく。

 下顎からだらりと垂れた舌が剥き出しになったまま、その身体はびくびくと痙攣した後にどたりと力を失い倒れゆく。


「ウワァァアアあ!!!!」


 大きく傾いだ舟からは、ひとり男が海へと落ち。

 船上に残るは顔の無い亡骸と、生者がひとり、ふたり……。


「嗚呼もうなんでぃ、なんでぃ。晴れのち晴天、のち血の雨かィ。こんな綺麗なお月さんの下、悪巧みってなァ嫌に目につきやがるなァ」

「だ、誰だ……」


 ぷっっ……、と何かを吐き出す音、と。もうひとりの男の顔に何か硬いものがこつりと当たる。

 そこに響くはみっつめの声。


「人を呪わば穴二つ、人をたばかりゃ沼の底ってナァ」


 ぢるりるるるり、と引きずる音と。

 ごきょっ、ごきょりと顔無し屍体が男の見るにまるで吸い込まれるかのように消えていく。 


 後の暗闇、月明かりと蠟燭の下に残るは、ひとつの葛籠のみ。


「選びなァ? 人喰い葛籠に喰われる末路か、大海原の底の魑魅魍魎に引きちぎられるか……」


 ひたり。

 足首を掴む冷たい手の感触に男の喉がきゅうと鳴った。


 舟が、揺れる。


「あ! あにきっ、たす、け……、ぐあっ、たす……ヒィィィいい」


 海中に落ちた男は海面に上がるたびに悲鳴を漏らし、まるで弄ばれるかのように何度も何度も海中に引きずり込まれていく。


 がしゃぎゃしゃ、がしゃがしゃ。


 いつの間にやら舟底には、その数あまたの蟹がびっしりと。

 まるでその甲羅の文様は、無念のままに死んでいった、武者達の苦悶の表情のような。


 がしゃぎゃしゃ、がしゃがしゃがしゃり。


 あ、あ、嗚呼嗚呼嗚呼、うギャァアアアアアア——。


 波に引きずり込まれる者、蟹に指先爪先から齧り削られゆく者。

 それは怨念か、吸い寄せられた悪鬼の仕業か。


 しんと静まり帰った海の上。


「おめぇの子孫も根絶やしかぃ?」


 人の居ぬ小舟にはにんまりと嗤う葛籠がひとつ。



「おぅい、空也くうやァ、ようやっとおっんだか?」

「……冗談は、もっとこう、ドッと嗤えるようなヤツにしときぃや」

「ケケケッ、そうこなくっちゃァ」


 静まり返った水面に朗らかに呼べば。

 ぼうっと浮かぶは坊主がひとり。


 その足元に漂うは白き、白き大きな約束の鯨。

 刻に流れし白流鯨しろながすくじら——。


 坊主はその足を支えた鯨の身体を、愛おしそうに撫でやる。


「なぁ真珠しんじゅ、あんさんが一緒ならァ、水底ってェのはあたたかく、存外悪いところでも無いみたいやなぁ」


 ふふふ、と坊主が笑えば。鯨もそっと目を細めゆく。


 ゆらゆら波間は静まり返り。

 強欲悪鬼の、跡形もなし。


「おぅい、俺っちもそっちに乗せとくれよゥ、これじゃァ潮に乗って流されちまう!」

「はいな、ちぃと待っとき」


 鯨の嗤う、その浦は。

 悲鳴轟き、数多が眠る、断ノ浦。




***




 勝ちどきは勇ましく

 後々の世にも勝者の名こそ残りゆくもの


 美麗な逸話こそ至上とばかりに語られやす


 奢れる人も久からず ただ春の夜の夢のごとし


 

 それは義経公の最期が、頼朝公の最期が。源氏の移ろいが。

 その華々しい戦さ語りよりも知られておらぬのと同じのように。


 屍人しびとに語る口はなし。

 しかし怨霊となりし彼らに手段はあり。


 綺麗なものを並べやしょう。

 怖い、汚い、裏の道々は。


 鬼にゆだねてくりゃしゃんせ——。

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