第壱話 断ノ浦
此の世は地獄と云いやすが、其処に救いは在るのかどうか——。
奢れる人も
猛き者も遂にはほろびぬ
ここに在りますは祇園精舎の一節でさァ。
此の世をば我が世とぞ思ふ、とまでのたまい栄華を極めやした藤原氏。
しかしながら、あれよあれよと時の進むうち。気がつけば京の都は平家の者共ばかりでございやした。
あはれ、ワシが最後に目にした
ふふふ、いえいえお気になさらず。ほんの冗談でございやすよ。
いつの間にやら、平家にあらずんば人に
へぇ、
これぞ後々の世にまで語り継がれる源平合戦。天下分け目と思いきや、それもまた
***
「ンあぁ! だからよゥ! 生者の着物は右前つってんだろォが!」
「……しかし、これでは左の襟が上に来てしまう」
「あーもう逆だ逆! おめぇが最期に着ていた着物と、逆に襟を重ねりゃいいんでぃ!」
「……」
「そう! そう! 右で持った襟を先に入れ込む、ソイツがァ右前だ。左の襟を先に入れ込む左前、コッチぁ
「……まこと、人の世のさだめごととは難儀なことじゃ」
「うるせぇ! このどこぞのやんごとないクソぼんぼんが。なんで俺っちがンな俗世の理から叩き込まねぇといけねーんでィ」
「……かたじけない」
んッ、と地べたにどんと鎮座した
「そうでぃ、おめぇよう」
ようやっとの思いで着物を着直した小童が、足元に鎮座する葛籠を見やる。
「気がつきゃぁおめぇは
「……?」
「俺っちは謝んねェぞ、おめぇを河原でブン殴った事も、なんもかんも。全部、ぜーんぶだ。でなけりゃ
「それは、そなたの務めであろう……?」
あーもうッ! という声に合わせて葛籠の蓋ががばりと上がる。
「だからよゥ! お互い様だ、俺っちは謝んねェ、だからおめぇも俺っちには何があっても謝るな。この先、ずぅっとだ。でなけりゃ道中、何べんしみったれた気分になるのかァ分かりやしねぇ」
ふんッ、という呼気に合わせるかのように、再び葛籠の蓋がぱたんと小さく上下した。
「そなたは鬼の中でも、まこと
安堵したのか、なんなのか。ぺたん、と小童が座り込む。
「ンあァ? なんでぃ? おめぇ、腹でも減ったか?」
「これは、なんぞ? とたんに足が……
あぁ、畜生、こいつァ本当に面倒だ——。
やまびこと混じり、がんなり声が響き渡る。
「そいつァ"使い痛み" (筋肉痛のこと)だバカヤロウっ!! こんのォ、やんごとなきクソぼんぼんがっっ」
***
京より山越え谷越え、小童は西国を下り下り、
一ノ谷を越え、屋島を跨ぎ、あちらこちらで
そこらかしこには、弔いを待つ
戦乱の世はなんと無常にございやしょう。しかばね、
合戦の跡、赤茶けた草木の中を歩けば漂ふ亡者の魂と行き交う事もございやす。
ぼぉお、ぼぉんと灯り漂う
ただ、ただ、慰む事もできず、そっとお側を歩くのみ。
葛籠は時折、ぞぶりぞぼりと、その骸を喰らいやした。
死なば平氏も源氏もかわりんせん。どちらにしても人殺し、屍肉はひどくマズいやァとぼやきながら。
せめて、せめてもの供養に、
はてさて。のんべんだらりと、辿り着きましたるは弥生も終わりに近き頃、
保元の乱に起源をもつ、長きに渡る源平の争いもここらで幕を降ろしやす。
小高い丘の上から、
白き
紅白に分かれた旗印、神々か、何の因果か、潮の流れを味方につけ、攻め入りますは白旗の源氏水軍。
あれよあれよとのうちに。
栄華を誇りし平家の者共は、海の藻屑となりにけり。
「慰み者になりたくなくば、平家の者として死にましょうぞ」
からからと笑ひ給うは、
潮の流れが幾度も幾度もかき消せど、水面は赤と、浮いてきやした人の身で埋め尽くされては消えてゆきやす。
その潮の流れの小舟のひとつ。
嗚呼、ひと目でわかりやした。こちらにおわすは高貴なる者なりと。
彦島の総大将、平家最後の知将、知盛にしても「命運これまで」と思わざるを得ぬと。そこにおわすは
その手に抱かれしは、わずか
「どこへと向かうのか」そう問うた帝に、二位尼は答えやす。
「敵の手にはかかりませぬ、帝のお供に参りましょう。波の下には都がございます」
嗚呼、嗚呼、何と哀しき世の流れ。潮の満ち引きが勝敗を期したかの如く、幼き帝の命の灯火も今まさに、波の下にてゆらゆら消えゆこうとしておりやす。
流れしものは、涙か、命か。
果てさて、過ぎてしまえばわかりませぬ。
猛将もまた、波の藻屑となりにけり。
残るは渦潮、轟々たる流れと、人の
申の刻。見届けねばならぬ事は見届けたと云ひ遺し、鎧二領を
見届ける者の心中よ、何と何とも虚しく哀しき事か。
帝と共に沈み消えるは京より持ち出した三種の神器がひとつ、
——その行方は水底にのまれ。未だ、誰ぞ知りんせん。
「しかと、見届けた」
丘の上にてその一部始終を見、琵琶を打ち鳴らしておりました白き翁の僧侶はぽつりとそう呟きやした。
「さて、これを、京の法皇にお伝えし、後の世に伝へ往くのが我が一門のお役目じゃ。いきなさい」
「お師匠様は如何に?」
「ワシの足では京には戻れまい。さ、さ、お前さんだけでも。今生の別れになるやもしれぬ。はよう、はよう」
泣き泣き、五条袈裟の坊主は巻物を賜り、
後に残るは僧侶がひとり。
「……出ておいで。なぁに、ワシは病に侵された身、何も荒事にはせんよ」
声をかけられびくりと草陰から身を現したのは、一部始終を眺め見ておりやした、大きな笠を被りし白き小童。その背にはひとつ、大きな葛籠。
「おんやぁ、これはまた。……顔を見せてはくれまいかい?」
云わるるがまま大きな笠を外せば、現れたるは白い絵筆のような髪と、紅き血潮の透けた瞳——。
「お前さまは、妖、妖怪変化の類じゃないねぇ。しかしながら」
「……人でもない、とはよう云われておった」
「嗚呼、その声。何だか今生の最期に良き夢を見せてもろうたようじゃ」
「……?」
僧侶は微笑み、その懐より、
「これで、その髪と目を隠すといい。今の世は、お前さまのような子には少々不憫じゃ。せっかくの白装束、旅の坊主にでも化ければ問題なかろう」
どっこいしょ、と白き翁の僧は腰を上げた。
そのままよろりと歩を進めゆく。
「わしの去った後、ここに置いたものは全てお前さまのもんじゃ、如何様にでもお使いなさい」
「……
さぁて。細き目で僧侶は小童を見やる。
「古き言い伝え、京を護りし閉ざされたご先祖様に、お前さまはよう似とらっしゃるや」
もう我が御家も末の代なり。
鬼の子を産みしと謂れし我が一族、女は早世、男児は不治の病に罹るときた。
世の為祟りを祓う為と、此の身を捧げ賜うた人生なり、と。
「ようやっと、お役御免じゃ」
僧侶は微笑み、丘から下を。海面を見やると。
すっと音なく、その身を投げやした。
後に残るは、一冊の薄き経典と琵琶がひとつ。
さっと近寄り見下ろせど、
崖に当たり砕け、寄せては返す波の如く。
残るは風の通る音のみ。
ここは岬、滅亡の浦。哀しきは渦潮の底へと眠る、関門海峡。
あはれ儚き、御家断絶、断ノ浦。
***
平家物語、何故琵琶の
その真の作者は誰ぞと、未だ不明でございやす。
なんせそう、つわものどもは夢のあと。
その後、源氏がどうなりやしたか。へぇ、旦那もご存知のことでしょう。
べべん、とひとつ、琵琶の音。
「おめぇの子孫も根絶やしかぃ?」
闇に語りかけるは、人でないものの声。
——さぁてね。
道無き道を語りゆく。
葬いの琵琶が弥生の月に染み渡る。
嗚呼、断ノ浦、悲鳴
其の魂を、年に一度、慰めやしょう。
あはれ儚き、哀しき栄枯盛衰の一幕よ、御家断絶、断ノ浦——。
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