第零話 昔ノ噺

 偽りなしと聞きつるに 鬼に横道なきものを——。


 はてさてそれは まことのはなしか。




 時は平安の世も末のこと。

 京の都より少し離れた山中で、風に融けるは何やらふたつの声。


 

「そらまッた、おめえの親父とやらはよゥ。邪道じゃどう鬼道きどうは歩めども、道を外すこたぁなかったと」

「記録にはそうとある、しかし長徳元年(995年)の物とはあなをかし」

「……その喋り方、絶妙なお育ちの良さが滲み出ていて気色が悪りィや」


 変色した絵巻物を色の白い手がスルスルと丸め、懐へと入れた。


「ンでぇ? どうするんでぃ? 其処そこに載ってる宇治の院とやらに、首級でも見定めに行くってのかぃ?」

「いや……」


 はぁーと長めの吐息が風音に混じる。

 峠に立つは、一人の小童。その背には大きな葛籠がひとつ。


「ちんたらちんたら。百と幾年、幾月だァ? おめえがのんべんだらりとしている間に、おっかさんもおとっつぁんも、く末が知れないときた」

「そなたには、まことにすまないことをした……」


 盛大な舌打ちの音、びくりと小童の肩が震えた。


 —— 違う、ちがう、チガウ、チガうッッ!!!


 がんなりとした声音が、やまびこを混じえてぐわんぐわんと鳴り響く。


「だぁれがおめえに、謝れなんて云ったんでぃ? ァア? ほんと、気分のわりぃ」

「されども。そなたは今や不自由の身、く脚も、たけかひなも失のうてしもうたのに」


 —— あぁ、嗚呼、あゝもうッッ!!!


 声の主はばりばりと頭を搔きたい衝動に駆られたが、如何せんその為の腕がおのれには無い。立派な体躯も、誇った角も、モノがなければ何の役にも立たないときた。


 泣きもしない、喚きもしない。

 けれども小童に立ち込めるはおそれの気。


 面倒くせぇ。あぁもう大層面倒くせぇ。

 実に憐憫れんびんの情とは厄介なモノだ。


「おめぇさんをよゥ、この場でばりばりと喰っちまっても、俺っちは一向に構いやしねぇんだ」

「……」

「けどよゥ、なんだ、ほら、アレだ」


 鬼に横道はねェんだろ——?


「そなた……」


 驚いたように見開かれた真っ紅な瞳が、其処に佇む葛籠を見やる。

 再度、峠に吹いた一陣の風に紛れ、舌を打つ音が響く。


「おめぇは鬼の生も、人の生も。まっとうしちゃぁいねぇんだろ。どうせだ、どうせのこった。百年も二百年も、千年だって変わりやしねぇ……人の世の移ろいなんざ、これっぽっちも興味はねぇが」


 どちらが地獄か、此奴コイツァ……後学のために知っておくのも悪くはねェ。


「そなたは……やはり、変わりしものよ」

「ンァア? なんだおめぇ、気が変わったらいつでも喰ってやんだからな」

「わたしと話そうなどと、歩もうなどとは」


 ふふふ、と小童の口から、感情のこもった吐息がまろび出る。


「……なんでぃ。おめぇよう、嗤えんだなァ」

「そなたのおかげ、やもしれぬ」


 はぁーっと呆れを含んだ吐息が、風に流れた。


「ンだから、その喋り方。どぉにかならねぇのかい? 二百年ほど前の京言葉なんざ、古くさくていけねぇ」


 言葉を教えよう、生きる術も授けよう。

 しからば、立派な鬼にも人にもなれよう。

 鬼にも、人にもなれぬ、生者でも亡者でもなき、哀れな憐れな白き子よ。

 手足となりて、その身をそそごう。


 いつかその身が、浄土へ渡るその日まで——。


「鬼に横道はねぇんだとよ、そんじゃ罰にも近道はねぇってこった」

「では、何処いずこへと参ろうか」

「……おめぇの行きたいとこなら何処どこへでも」

「そなたはほんに、物好きよのう」

「うるせぇ、でなきゃこんなトコにはいねェやい。喧嘩売ってンのかおめぇ」




 常世とこよ幽世かくりょよりずるは一つの"鬼"と、一人の"おに"。

 彼らは不死の身なり、不死の罰を受けし地獄の者なり。

 はてさて、永劫えいごうときを歩みはじめし者共よ。俗世ぞくせに堕ちしの世の者よ。

 逝く末は何処ぞ、流れ流れし、ついぞ定まらぬ根無ねなぐさ



「嗚呼、腹が減ッたなァ」

「わたしも。……ひとつ、絵巻物で読んだ茶屋とやらに寄ってみたい」

「おめぇよう、身ひとつのガキんちょが、無一文だろォが」

「……あなや」

「……まずはその話し言葉をどうにかしねェ!!」




 べべん、とひとつ琵琶の音。


 さぁさ、此度こたび語りやすは、現世うつしよ浮世うきよのモノガタリ。

 名もなき草の語り部でござい。

 怪異、脅威、天変地異と、地獄はいずこにござんしょう。

 まさに此の世は生き地獄——。


 何処から語りんしょう。

 何から話しんしょう。


 なんせ、時間ならば在り余るほどに、在りやすからねェ。

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