桐生 琴乃(キリュウ コトノ)の場合

今夜はやけに街でサイレン音がする。

あの音って何か心を乱される音だよね。

火事でもあったのかしら。

近くじゃなきゃ良いけど。


そう呟いた時、『ミゼラブル』の扉が静かに開いた。


明らかに疲れた顔の女性がフラフラと入って来る。

『・・・まだやってますか?』


大丈夫ですよ。さぁこちらの席へ。


彼女はストンとカウンター席に腰を下ろす。


(よっぽど疲れているみたいだけど大丈夫かしら。)


ご注文はいかがなさいますか?


『カクテルはよく分からないの。お任せで作ってもらえますか。甘いカクテルをお願いします。』


疲れが和らいで甘いカクテルね。

私は冷蔵庫から卵を取り出した。


ブランデーを棚から取り出しながら彼女を見る。


彼女は、よく見ると左の頬が赤く腫れ上がっている。

とても美人なのに、どうしたのかしら。


良かったら・・少し冷やしますか?

その・・頬。

BARだから氷は沢山あるし。


『ありがとうございます。・・お願いします。』


私は少し微笑みながら、彼女に氷嚢を渡す。


俯きながら左頬を冷やす彼女の美しい顔が、洋燈の暖かい光に照らされる。


『如月さん。今、幸せですか?』


いきなりの質問ね。

そうね・・幸せかどうかなんて最近余り考えてなかったわね。

毎日、淡々と生きてるって感じ。

平凡な人生が幸せって事なら、幸せなのかも知れないわね。


『そうなんですね。少し羨ましいです。』


『私、若い頃に幼馴染と結婚したんです。両想いの相手と結婚出来て、とても幸せでした。・・・それが2年前、彼が仕事を突然クビになってしまって。会社の不正をリークしたのが原因みたいです。それから彼は自分の殻に閉じこもってしまって。』


(その反動がアナタの腫れた頬の原因って訳ね。)

私はミルクに砂糖を入れ溶かし始める。


『前はそんな人じゃ無かったんです。あの出来事が彼を変えてしまった。幸せだった時期を思い出すと、彼の暴力が本当に辛くて。』


それは辛いでしょうね。

このカクテルがその痛みの癒しになるかは分かりませんが、身体は温まりますよ。

静かに『ブランデーエッグノック』を差し出す。


『ありがとうございます。』

『このカクテル・・懐かしい味がする。昔、彼と一緒に喫茶店で飲んだミルクセーキみたいな味。あの頃が1番楽しかったなぁ。お互い照れて、黙って少しずつミルクセーキを啜ってたっけ。』


彼女は天井を眺めている。

目には、いつの間にか光る雫が溜まっていた。


今度、彼をこの店に連れて来てはいかがですか。

その頃の思い出が蘇って、昔の2人に戻る事が出来ると良いですね。

責任は持てませんが、とびっきり美味しいカクテルをご馳走しますよ。


『・・・もっと早くこの店に来れば良かった。』


彼女の目から雫が溢れる。


『ありがとう。少し勇気が湧いてきました。』

『また寄らせて下さいね。何年後になるか分かりませんが、きっとまた。』


少し腫れの引いた彼女は、やはりとても美しかった。


夜の街に消えて行く彼女を見送りながら、煙草に火を点ける。


人間何度だってやり直せるよきっと。

またのご来店お待ちしております。


心でそう呟き、白煙を天井に細く吐き出す。


いつの間にか街のサイレンが消えている。

まさかね・・・・。


今夜もBAR『ミゼラブル』は白く煙い。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

あなたの愚痴聞きます。 恐山にゃる @osorezannyaru

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ