第163話 被撃墜後の駆動者死亡事案、或いは怒りの掃射
乗り手を脱出させた二機の特殊機体が、大鴉にワイヤー牽引されて空を飛ぶ。
この高層圏では生命維持に支障が出る可能性があるために、サム・トールマンとエディス・ゴールズヘアは別機体のコックピットに収容した。サムは意識はあるが言葉通りに反抗の意思はなく、エディスは痛みと鎮痛剤により意識を喪失させている。コックピット内で暴れ出す可能性は、極めて低いだろう。
「傾注! 当中隊は現況を鑑み、第五十一空軍・第五五五強襲猟兵大隊のハンス・グリム・グッドフェロー大尉の指揮下に入る! あの大戦で壮絶な戦果を挙げられた御方だ! 総員、この非常事態においては彼の命令を第一とせよ! ――グリム・グッドフェロー空軍大尉、当部隊の指揮権を委譲します」
「……了解した。承った」
コックピット越しに敬礼で返す。
まさしく彼の言葉の通り、非常事態だ。この局所的な戦闘に勝利したとて、あの街の混乱が収まる訳ではない。それでもまずはあの街を目指そうとする【フィッチャーの鳥】を止めなければ、市内の暴動の鎮圧も行えない。
ヘイゼルがあの場にいる以上、きっと機体同士の戦闘はもう発生しないにしろ――――……もう一人、ここにロビンが居てくれればと思った。
その超精密・超多角的な弾道制御及び破片制御能力から、かつて、ロビン・ダンスフィードが市民一人も殺傷することなく暴動を瓦解させたことを思い出す。奇跡的な神業としか称することのできないそれを前に、頼もしさと共に言いしれぬ悔しさを味わったのだ。
「グッドフェロー大尉、この後は……」
「周辺空域の機体に接近し、その発進基地への帰投と指示があるまでの待機を伝える予定だ。場合によっては戦闘も覚悟しているが……」
口を噤む。
その際は、先程の力の連続使用が行えない。自分自身の身のためというより、規格外のプログラムでは計画に支障を来たす懸念があるためだ。
そうなれば――――……制御された殺傷力とはならず、先程のように無血で終わらせるとはいかないだろう。
だが、
「……そうですか。ですが、きっと伝わります。我々も同行しますから」
「そうか。……そうだな。共に来てくれることを、感謝する。ありがとう……本当に」
「はい! 叔父からお話はかねがね……貴方と共に戦えて、光栄です!」
「……そうか」
戦場で誰かからそう言われるたび苦い気持ちを味わう。
自分は、彼らから捧げられたものに見合うだけのことを何もできておらず――――それどころか本質では、裏切っていると。
兵士は、共に戦う戦友に重きを置く。
そういう事例を幾つも見てきた。大の男が子供のように泣きじゃくって抱き合うところも、恋人や家族よりも戦友を重んじる者もいた。当然のようにそうする上官や、そんな人物に信頼と忠誠で応じる兵士も見た。
それが、払われた感情と献身に対しての紛れもない誠意の形だ。
理念としては自分たちが国家における暴力装置であり、厳然と法と理性によって定義される武力行使の主体であるべきだ――――と考えるのと同時に、理念や正当性とは全く別に、ただそうして捧げられたものに応えることは、少なくとも献身との天秤を釣り合わせる為には大切だろうと思っていた。
正誤ではなく、そうあるべきなのだ。
でなければ、払った感情が釣り合わない。帳尻が合わない。筋が通らない。報われない。あまりにも悲しすぎる。
己は、それができない。
決定的には、そこには応じられない。
線を超えたなら、どれだけの戦友であろうとも殺せる。それはある意味では……いや、紛れもなく裏切りなのだ。
彼らの祈りを――心を裏切っている。
(……すまない)
己は、裏切り者だ。
兵に対しての、民に対しての、この命たちに対しての裏切り者だ。
正解不正解とはまた別の軸で、己は、彼らの献身と信頼に対しての悪であるのだ。幾ら咎めだてても咎めきれない絶対的な悪徳であるのだ。
……そんな己を目の当たりにしたその瞬間に踏み躙られてしまう彼らの悲痛を想えば、ただひたすらに心苦しかった。
「グッドフェロー大尉、この後は……この国は、どうなると思いますか? ええと……自分はその、【フィッチャーの鳥】に選抜されたのですが……同期は大尉のように空中都市の方に配属になって……アイツは
「そうだな。……大丈夫だと貴官に告げたいが、現時点でそう保証できる要因がない。それが、客観的な事実だ」
「……」
「それでも……いいや、それだからこそ、そんな君たちが争わずに済むように――……その献身が国家の中で引き裂かれる未来にならないように、動こうとしている。これから我々が行うのはそんな行動だ。防ごう。分断を。この国が、これ以上の戦火に巻き込まれることを。……俺一人の力では限度がある。そのために君の力が必要だ。君たちの力が必要なんだ。俺の助けになってくれ」
「っ、はい!」
彼らの声を聞きながら、シートに深く身を沈める。
俺はいつかどこかで、この信頼を向ける彼をも斬り捨てることになるだろうか――――情け容赦のない刃として。
これまでの、その通りに。
そうして俺は、あと幾人殺していくのだろうか。いくつの罪もないちっぽけな命たちを、踏み均して行くのか。彼らのささやかな祈りを、無価値に貶めていくのだろうか。
ヘルメットのバイザーに、失われた片目から流れた血が張り付いていた。
今のところ、手足や感覚器に異常は感じられない。
いや、それを改善と言っていいかは、難しいところだ。
少なくとも自分にとって――――この先にとっては逆行に等しく、望ましくないことなのだから。
(……)
深く吐息を漏らす。
何にしても……何とか今は犠牲者を出すことなく戦闘を終えられた。可能ならば……可能ならばこのまま、この事件による死をこれ以上生むことなく終わらせたい。
死んでほしくないのだ。
その志の始まりが国家への献身であるならば、それが裏切られるようなことがあっていい筈がない。人を思い遣った善なる行いのその末が、悲しい結末であっていい筈がないのだ。
善き営みが、踏み躙られることが、なきように。
(……少なくとも。少なくともこれ以上、あの都市に向かう機体がいなければ……)
都市に接近する機体がいなければ、アーセナル・コマンドによる直接の軍事衝突は避けられるだろう。
その後この国がどうなるかまでは、判らなかった。
【
【フィッチャーの鳥】の最高権力者の死亡。
終わらせるには、ある意味、丁度その節目とも言えた。
だが――……往々にしてそうは終わらないのが必然だ。組織のトップを殺したところで紛争が終わると考えるのは、あまりにも見通しが楽観的すぎるだろう。
報復が叫ばれるか。
それとも新たなる事実や事態によって別の方向に転がっていくか。
それは、読めないところだった。
(……フェレナンドたちも、出動している。可能ならば彼らの援護に向かいたかったが……)
部隊長としては責務とも言えたが……。
あの避難所に訪れたウィルヘルミナ・テーラーとの会話によって得た情報を軍部に伝達するまま、こちらへと向かわされることになった。
小隊長抜きで大丈夫だろうか――――という気持ちと、彼らは自分抜きで作戦行動に従事する機会の方が多かったという事実。
そして、これ以上あの都市に敵機を向かわせないことが最大の援護となると信じて行動するしかない。
(……まだ、足りない。まだだ……これでは足りない)
先程の戦闘を反芻しつつ、拳を握る。
随分と、手こずってしまった。一撃で終わらせることができず、あちらの行動を許した。
それでは、駄目だ。
一方的に完勝を――それも即座にできないようでは、要求に不足している。たとえ相手がエディス・ゴールズヘアにせよ――かの専用機を抱えた【
重ね重ね、非才のこの身が悔やましかった。
行動を何一つ許さずに殺せぬようでは、到底、十分な武力とは呼べない。その僅かな間に人が死ぬリスクを思えば完成には程遠い。今回はただ運が良かっただけだ。
空の蒼さを遮るように膨れ上がっている大山を持つ島の如き雲々を見やりながら――ふと、あのアナトリアの日を思った。
頭部への破片の侵襲にて、合法的な自己改造の大義名分が立ったあの日を。
メイジー・ブランシェットの出撃を防ぐことの失敗。
それを機に、己は、かねてよりローズマリー・モーリエに依頼していた計画に切り替えることとなった。
彼女が作った三つの装置を移植したのも、そのタイミングでだ。
あの時の会話を、思い返す。
『――――先輩、質問があります』
『なんだい? 安全性の話かい? マウスを用いては幾らか行ったが、人間への搭載となると初めての事例だねえ。一応理論上は問題ない筈で、データとしては、戦争前にブランシェット博士たちが行っていたものがあるけど――』
『いえ……そうではなく。その……俺が軍務を行う傍ら、自身の戦闘能力を高めて後に用いることは何らかの法に抵触しないでしょうか?』
『うん?』
『つまり……軍という場所で人型機動兵器の技量を磨くにしろ、それを後に売り物として使うことがですが……』
法的な瑕疵を殺す。
それが、一つの最低限の達成目標だった。
そんなこちらの目線を前に、白衣を纏った銀髪の彼女は心底呆れたような半眼を向けた。
『……キミ、退役後に軍事インストラクターや警備会社に努めている事例を知らないのかい? 彼らは軍に養われながら技術を磨いていた形だけど、それで何か違法になったと聞くかい?』
『あまり……』
『勿論だが、当時知り得た最新兵器の諸元についてリークしたりそのデータを持ち出せば、或いは機密指定されているドクトリンやマニュアルを持ち出せば裁かれはするだろうけどね。少なくとも、経験に関しては制限の及ぶところではないし……法の不遡及から考えれば、後に違法とされても、遡ってキミを裁くことはできない。……法の不遡及にも正直なところ例外条項はあるけど』
『……』
『まあ、裁かれるかどうかはキミもあまり気にしてはいないだろうけどね』
向けられる銀の瞳へ頷き返す。
こちらをよく捉えている。彼女の言うとおりだった。
裁く、裁かれるについて気にしたことは実のところあまりない。
……いや。正しく言うなら、刑罰や罰則が自己の制止に繋がりはしないのだ。必要と判断したなら、たとえ死刑になるとしても行える。そのことに躊躇いを持たない。
罰も法もそれ自体が己を躊躇わせる首輪にはならない。きっと、それが自分という人間だ。
(……真実、俺は、自分がそう決めたからでしか動いていないのだろう)
ただ、罰則がある――禁じられている、つまり人々がそれを禁じるように積み重ねてきたという事実を大切と思っていたし……。
何よりも、その、それでも禁止行為を行わないという自己の意識が大切だった。そこを踏み越えてしまう己を作れば、それはこの先、己が量産された際に明確な害になるだろう。法も同然に前例を許すことなく、己に科していかねばならないのだ。
でなければ――――歯止めがなくなる。
己は、己以外が首輪にならない人間だ。
だから、超えない。
一度超えてしまえば、己は、その自己規範を失ってしまうから。
そしてもう一点。どうしても問わねばならぬことがあった。
『その……利益は、出るでしょうか?』
重要なことを聞いたつもりだったのだが、視線の先の彼女は意外そうにその銀の目を大きくした。
こちらが利で動かない人間だと考えていたのだろうか。
それから逡巡ののちに、腕を組んだ彼女は言った。
『うーん……まあ、かつての核兵器を一つのメーカーで生産して売っているようなものだからね。……当然だけど、かなりの売上になるんじゃないのかい?』
『そうですか……。……では、その、例えばですが……ガン治療センターや児童養護施設のようなものの設立もできますか?』
『――――――』
言えば彼女は目を見開いて停止したあと、ダボついた白衣を振り回しながら腹を抱えて笑いだした。
『はははは、本当にキミは面白いねえ! こんなイカれた計画を持ってくるのに、素朴な善性を失わない! ははっ、なんだいそれは!? 売上は慈善事業に、かい!? ぷっ、く、くく……実にこの国の伝統的なチャリティ行動じゃないか! こんなイカれた提案をボクにしてきながらそれかい? まるで心優しい善人じゃないか! いやあ、本当にキミは飽きさせないねえ! 本当に興味深いよ!』
『……』
『てっきり量産した戦力で超国家監視機構でも作るかと思いきや、単なる兵器として売るなんて随分と不思議な話だと思っていたけど……なるほどねえ、売上。なるほどなるほど。巨大企業群の領域にも食い込むつもりだったとは』
かつて、パースリーワース教授の講義で知った。
今更、あの衛星の襲来からの歴史で作られてしまった巨大資本に対して喰い込む手段はない――――と。
ならば、作るだけだ。
世界は変わる。変わった。アーセナル・コマンドという個人の殺意が都市を焼き尽くすまでに、個人意志の反映能力というパラダイム・シフトが発生してしまった。
だとすれば――これまでの社会とは異なる領域で、常識で、そこに食い込むものを作れる筈だ……と。
(次の支配が企業支配というなら……その牙城を崩す。最悪でも、一枚は噛んでみせる)
この戦争を止めることは叶わなかった。
だが、まだやれることはある。決定的な変革を迎えてしまうなら、それを、己の知る悪しき歴史として行わせないように喰らい付くために。
すべてを使う。持てるものを、全てだ。
そして何より――
『戦争は、突発的に起こる災害ではありません。貧困、差別、歴史、不満……それら摩擦の最終的な帰結として暴力によって導かれる。僅かなりとも、その解決にも携わることが必要かと思われます』
『あくまでもこの社会の枠組みを逸脱しない――と? キミの計画が成立すれば、少なくとも力を背景に法や神の如く振る舞うこともできるというのに? むしろそうすることが、力ある者の義務とは思わないのかい?』
それも、考えた。
己の正気と倫理観を元に、悪と対するべきかと。
だが果たして――――己の正気は何から導かれるのだろうか。死ぬほど辛く逃げ出したいとまで思えた訓練が、振り返ってみれば郷愁めいて渡来する善き思い出に変わったように。
感情は、変わる。己自身も、変わる。
そんな不確かなものになど命ある他者を巻き込めない。
だから、独裁というのが否定されているのだ。それがある時点で如何に優れた指導者であったとしても、最後までそうとは限らないから。それが、大勢の命を乗せる方舟として不確かだから。
漕ぎ手は、確たるものでなくてはならない。
確たるものでないなら――――いいや、有史から未来まで確たるものであることなど一度とてなかろう。ならば漕ぎ手は、せめて、納得の行くものでなければならないのだ。諦めがつくものと、言い換えてもいい。
『……一つ。世の在り方を、そこに暮らす彼らの同意なく変えていいとは思えません。個人の持つ意思を反映する術が如何にも拡張されたとしても、いま現時点では程度の大小あれ全ての国家が民主主義を掲げている。そして俺は、それと契約した。……契約をしたのです、俺は。彼らと。約束を……したのです。約束は、守らなければ』
『まるで悪魔の契約のようだねえ……契約主義者とは思っていたけど、随分と重んじるんだねぇ。それにも何か、大それた理由でもあるのかい?』
『……』
でなければ、悲しいからだ。裏切られてしまったら、悲しいからだ。
そして何よりも――
『……これまで人類が連綿と築いてきた世界と歴史に、今日まで彼らが続けてきたそれに、俺は敬意を払いたい』
『ははっ。うーん、己の範以外に縛られない自由な人間であるのに本質が保守的なんだねえ、キミは。うん? そんなにも……死んだ人間一人一人の人生も、慈しんで愛すべきものなのかい? まるで聖人みたいに?』
『……』
『それにしても……彼ら、彼らねぇ……はははっ』
ニヤニヤと彼女は、その波打つ銀髪を翻して何が面白いのか下から見上げるようにこちらを覗き込む。
実験動物や研究対象のような。
そんな目線を、どうにも向けられる。あまり特別な面も持たない面白みもない人間と自認しているため、不可解な気持ちになるが……それで彼女が楽しそうなら、まあいいかとも思う。
『そうだねえ……ついでに宇宙開発にも用いるかい? 無人機周りの技術ツリーは引く手あまただ。そうすれば、ほら、持続的な利益だって生み出せるだろう』
『そう……ですね。可能な限り、雇用を維持したいとも思います』
『じゃあいっそ、この大戦で生まれるだろう傷病退役兵や戦没者遺族をスタッフに雇い入れるかい? 世界最強の兵器を売って彼らに還元するとは……実にいいじゃないか、何とも皮肉的で! ま、キミならエイリアンと武力衝突をしても何とかできるだろうし丁度いいのかもしれないね』
冗談めかした言い方で締め括られたが、こちらは、本気だった。おそらく彼女も理解はしているだろう。
仮に己が武力を以ってすべての争いを物理的に封じることにしたとしても、今度は、別の形での争いが生まれる。そして何よりも、既に巻き起こってしまった戦争とその犠牲を癒やすことはできない。
少なくとも――。
少なくとも、今そこに生きる人たちを置き去りにしてはならぬのだ。未来への積み立てを理由に現在を切り捨てることも、また、新たな災禍を生むだろう。その点についてのケアも、可能な範囲で行いたかった。
(それが、全てを知る俺の義務だ。他の誰と分かち合えずとも、俺は、為さねばならない。……俺にしかできない)
そう、頷く。
(この世界を終わらせない……絶対に、ここで、終わらせはしない)
続いて欲しいのだ。
生きていて、欲しいのだ。
理由なんていらない。本当に、何もない。
ただ、そうあってほしい。
一つ一つの輝かしい命のその先を。
人々の営みを。無数の、善き営みたちを。
ただ素朴で暖かく、儚く美しいものたちを。
決して孤独と絶望の中で終わらないように――――。
そのためなら――――払えるものは払う気だった。
ただし……。
『その……一つ、問題が……』
『うん? どうかしたかい? ああ、言うまでもなくこれを行うにはキミが隔絶したまでの戦力である必要もあるものだけれど――』
『いえ……。その、俺がこれを行えば……その協力者となった先輩に……汚名が着せられないか……と。先輩の装置には人格を剥奪する効能はありませんが……それが果たして誤解なく受け入れられるかといえば……その……』
伝わり方もある。
ともすれば人を人とも思わない極悪非道の実験や、マッドサイエンティストの類いと見做されかねない。
少なくとも――己は己の意志から実行しているが、人間一人の人格を剥奪してそれを大量にコピーして兵器として売るという、何ともおぞましく捉えられてしまうこともあり得た。
だが、
『うん? ここまで持ちかけておいて、気にするのはそこかい? つまらないことを言うねえ。大いなる計画の前の些細な犠牲だ――とでも見做し給えよ』
『……』
『……はあ。それを肯んじることも赦されることではない、もしくは許してしまってはならないと言ったところかな。実にキミらしくて結構だが……』
ふむ、と白衣に包まれた腕を組んだローズマリーは考える素振りをした。
それから、僅かに神妙な顔で切り出した。
『戦争がテクノロジーを進める、という話を知っているかな?』
『……は。聞いたことは』
『気象レーダーも元はと言えば軍の航空機探知装置の応用だし、人工衛星や宇宙開発もそうだ。インターネットも核戦争における秘密通信網として生まれたもので、コンピュータやゲームもそう。そんなふうに言われているね。今や世界の謎を解き明かすための量子力学も、源流の一部にかのマンハッタン計画を見出すこともできる……と』
量子力学の第一人者であるオッペンハイマー博士は、日本への原子爆弾投下に関わるマンハッタン計画に関わっていた。アインシュタインもそうだ。
アルファ崩壊、核分裂反応――……それまでは理屈の中にしかなかった『質量がエネルギーに転じる』という事実を語るには原子爆弾は避けては通れないだろう。
だが、
『だけど――――――ワタシは反対だ』
波打つ銀の髪と銀の目を持つ彼女は、そう、厳粛に否定をした。
『ノーベルが生み出したダイナマイトは、戦争のために作られたかい? ハーバー・ボッシュの研究は、毒ガスのために生まれたかい? 確かに戦争という逼迫した危機を前に必要性は高まるだろう。だけど、彼らは忘れている。民間技術に転用された軍事兵器は――――その基礎は、平時の基礎研究の積み重ねによるものなんだ』
『――!』
『バカバカしい話だ。確かに一面として、戦争という逼迫した命の危機が技術の必要性を推し進めることはあるだろう。そこで予算がかけられたために結実した研究も多いだろう。だが、戦争技術が研究されることと、それを民間に転用した人がいることは別の話だよ』
『……』
『仮に全社会が崩壊するような戦争が起こされてみるがいい。最終的に研究者も斧や棍棒で武装させられて前線に送られかねない……研究に金をかけられたことと戦争が技術進歩に関わることは別の問題だ。戦争が技術を進めたのではなく、投じられた資金が技術を進めたのだ。ただそれだけの単純な話なんだ。それとこれとは話が別だ』
やれやれと吐息を零し、彼女は手のひらを天井に向けた。
『ワタシにはむしろ、害としか思えてならない。後に多くの化学の発展に寄与したルネッサンスの錬金術は、何も、直接の戦争のために進められた学問ばかりではないだろう? 旧ウクライナにあった世界的な種子バンクが愚かで狂った指導者の起こした戦争によって葬られたことは? 偶像崇拝を禁止する過激派によって世界的な遺産が破壊されたことは?』
ローズマリーの銀の目が、爛々と燃える。
『あの狂った衛星軌道爆撃のせいで、焼き尽くされた友人の学者もいる。或いはキミたちによって焼かれた海上都市にだって、素晴らしい科学者やその卵だっていただろう。宇宙のあの国も――別の形で活かせる研究を戦争へと注力させてしまっている。そんなものは損失だ。冒涜だ。文明と、知性と、始まりの日にアフリカから一歩を進めた人類種に対する紛れもない冒涜なんだ。ボクたちは自ら滅ぶために果てを目指したんじゃあない』
怒りだ。
怒りの炎だ。
この科学者は、この大戦において軍のアーセナル・コマンドに関わる技術者として招聘されながら、戦争というものが人類種に対する愚行だという理性を絶やしてはいなかった。
『戦争などという命の危機に頼らずとも、人間が生きている限り、欲望も必要性もなくなることはない。世界中が遠かったかつては、ある種の文化交流という側面が戦争にあったことは事実とも言えるが――……この世界にとっては今更だ。発表した論文がすぐさま地球の裏側や宇宙の向こうでも確認できる世界にあっては、そんな事例は起こらないのだよ』
ある種のマッドサイエンティスト、それは事実だろう。
だが、ローズマリー・モーリエは人としての倫理観を失っていない。
秩序と善性を捨てず、人類種に対して希望も絶望もしていない。
愚かさを認め、美しさを認める。そんな――――立派なサイエンティストだった。
『だから――……そうだね。ワタシも、平和を望んでいるよ。戦争などというものに貴重なリソースを費やすことなく、日々の暮らしを良くするための技術発展……或いはただ世界の謎を解き明かしたいから解き明かすという知性の本質が活かされる社会を。ボクらは殺し合いのために世界を解いているのではなく、ただそうしたいからしているんだ。純粋に知らないものを知りたいのさ』
『……』
『つまり……汚名一つでそんな社会に貢献できるなら、ワタシとしても願ったりということさ。平和とその先の研究の日々を望まない科学者はいないんだよ、親愛なる後輩くん?』
『ローズマリー先輩……』
敬虔なる知と文明の信奉者の如く、彼女は片目を閉じた。
『如何なる形であれ恒久的な平和への鋳型を作りたい――というなら。キミのその信念は、紛れもなく善なるものである筈さ。研究者にとってもね』
丈が余った白衣に包まれた両手を曲げ、彼女は、深々と腰を折った。
従者がそうするように。
道化師がそうするように。
『――――故にボクが、キミの共犯者になろうとも』
忠実なる臣下の如き、敬虔なる司祭の如き一礼。
『戴冠するがいい、若き騎士よ。未だかつて、誰も成し遂げられなかったその偉業に手を貸そう。ボクの望みも、キミのいつかと同じだと。万能の天才たるこのローズマリー・モーリエが、キミの行く末を支えよう』
そして彼女は鳥の如く両手を広げつつ――その不敵な笑みを消して、真剣な眼差しで言い放った。
『進みたまえ。全てを超えて翔ぶんだ。
然りと頷く彼女は、噛み締めるように口を開く。
『考えるといい。いつの日か……天高く星が瞬くとき、その光は全て人の営みだ。ガイアの胸元を離れ、遥か天空の星星に人が住まう世の基礎を作るんだ。高らかなるカンパニュラの鐘の音が呼ぶ竜の如く、ボクはキミに従い、親愛なる道化のようにその御世を語り継ごうさ。今日からボクの命は、キミのためにあるんだ。猟犬たる守護騎士よ。今ここに、二心なく誓おうじゃないか。キミこそが――我が主だと』
まさしく、竜の如き瞳で。
ある種の超越者、高らかなる上位者のよう視線で。
芝居がかった台詞回しをした銀糸の髪を持つ聡明な白衣の女性は――――……やがて、力を抜いて肩を崩した。
『……なに、大丈夫さ。そう気にすることはないんだよ。この通り、キングメイカーに憧れる程度の俗人さはワタシとしても持っているんだよ? 今や個人が都市を焼き尽くすことも可能となった世界でこそ、かつての騎士道物語が語られる余地も出てくる。そういう意味で、キミは、万人をも凌駕しかねない最強の
『先輩……』
『だからそんな顔をするものじゃないさ、後輩くん。……共犯者とは、いわば主犯ほどリスクもないものだからね。矢面に立つキミに比べれば軽いさ』
小柄な白衣の女性は肩を竦め、悪戯げに笑った。
それから慈しむように、不意に彼女の目尻が和らいだ。
『……大丈夫。何に知られずとも、誰の理解が得られずとも、世のすべてがキミの敵になろうとも――――……ボクだけはこの白亜の塔が焼け落ちるその最後の日まで、キミの理解者でいよう。キミは誰よりも死を悼んだ。失われる命を、巻き起こる炎を、閉ざされていく世界を厭った。胸の痛みを誤魔化さずに、キミはその全てを懸けて真剣に戦争や災禍と向き合おうとした」
『……』
『幸福なる王子の物語が語り継がれたそのように、ボクがハンス・グリム・グッドフェローという男を――――キミという青年を語り続けよう。……大丈夫さ。ボクは絶対にキミを裏切らない』
こちらを宥めるような、悼むような、そんな笑みだった。
静かに白衣に包まれた手がこちらの頬へと伸ばされる。
それに――……自分は、首を振った。
『語られるべきでは、ないのです。このようなやり方など。……俺がそうするならともかく、他の余人が為すべきではない。そんな方法論を残すことも、過ちでしょう。静かに闇に葬られるべきだ』
『……』
『そして……俺への理解は必要ない。貴女の脳を埋める価値もない。貴女のような才媛への損失になる』
言えば彼女は、手を引っ込めてつまらなそうに肩を竦めた。
『相変わらずだねえ。その、まるで妖精の国から来たみたいに自分が他と違うとか……特に痕跡を残したがらないところは。孤独に生きて孤独に死にたいみたいに、ね』
『……』
『普通こんなに胸を打たれることを言われたら、それだけで涙してもいいだろうに。……相変わらずだねえ、キミ』
そうボヤいた彼女は、余程でもない限りこちらが基本的に写真を避けていたことを思い返しているのだろうか。
『だけど、何に価値を見出すかはボクの自由だろう? そこはキミの関するところではない……だろう?』
『……は』
『理解を求めないのは、ときにキミの目的からも不本意な結果を呼ぶよ。そこは改めた方がいいと思うね。かの偉大なる怪腕の王が火竜を前にしたときに臣下が逃げ出したのは、王に対する理解の不十分さからさ』
『……』
口を噤んだこちらの前で、
『かの高潔で聡明たるベーオウルフ王のその治世は安寧であったと語られるが……まさか、本当にベーオウルフを志すカッサンドラだったとはねえ……』
訳知り顔で頷く彼女との間に、奇妙な沈黙が満ちる。
カッサンドラという言葉は、アナトリアでの出撃前に街で少しだけ話した見知らぬ少女との会話でも取り上げられていた。
悲劇のトロイアの姫。
アポロンの寵愛により得た予知の力によってアポロンとの破局を知り、そしてその愛を拒んだことにより予言を他者に受け入れられない呪いを受けた女性。
もし己がカッサンドラになったなら――――予言を伝えるのではなく、アキレウスもアイアースもアガメムノンも全て自分の手で叩きのめしてしまえばいいという解決。
(……それとは、異なる形になったな。本当は、可能ならば、俺がただ彼女たちに代わってあげられたなら……それがよかった。フロースガール王に代わり、水魔と戦ったベーオウルフのように……)
二十数年、逆算して鍛え上げた。アーセナル・コマンドを操縦するにおいて必要であろう技能を積み重ねた。そのアドバンテージが己を今日まで生かした。
しかし、足りないのだ。
今の自分では、あの
研究が進めば、より高度に近似できるだろう。
おそらくは――――今まさに戦う相手である宇宙の都市が、それをより詳細に研究する筈だ。こちらよりも人権意識も遵法精神も欠ける彼らは、幾つもの非倫理的な詳細なデータを取るだろう。
己の脳に埋め込まれた装置は、戦後、その分のアップデートをされていく筈だ。だが……
(……助けられなかった。その苦しみに囚われてしまうだろう人たちを、俺は、助けられなかった。力が及ばないばかりに……俺は……その人たちを……そんな人たちから、当たり前の人生を……)
メイジー・ブランシェットだけではない。
彼女が活躍することで生まれてしまう
それに連なる犠牲を、歴史に名も載らぬ犠牲を、己は守ることができなかった。防ぐことができなかった。
そのことに、忸怩たる思いが湧く。
(……すまない。貴方がたの、生を……。俺のせいで。未来を知りながら、こんな形の解決しか選べなかった……俺のせいで……貴方たちの人生が……)
踏み躙られていい理由なんて、どこにもないのに。
そんなことは赦されてはならぬというのに。
俺のこの手は、届かない。
(すまない……)
拳に強く力が籠もる。
二十年強。少なくない時間なのだ。あちらの人生よりも既に長く、そしてその大半を研鑽に費やした。
それでも、ここまでしか来れない。到れない。
自分でさえなければ/何故俺なのだという――あまりにも繰り返された自問自答。
『……』
この先も、きっと多くの死を防げない。
共に戦う仲間の。
守るべき市民の。
犠牲になる人々の。
無数に積み上がっていくその屍を見送りながら、ただ、いつかの日に――それに向けて進むしかない。
彼らには、間に合わぬというのに。
そこには、もう、いなくなっているというのに。
そんなに頑張った人たちが、報われないまま。救われないまま。それなのに。
ああ――――……。
そう思えば、速やかに、全ての余分を捨てて自分を兵器に変えるべきではないかと思えた。
そうすれば――――そうすれば、少しでも、生まれる犠牲を減らせるのではないだろうか。
そう思えて、ならなかった。
(ただ純粋なる暴力……殺意に応報するだけの刃。この身体の本来の持ち主の領域に辿り着けば――――……少なくとも最強の専守防衛兵器は、できる)
今の己などという不完全なモノではない。
ありとあらゆる余分を切り捨てて、人間性を捨てて、その領域に――辿り着く。
守ることも支えることも捨て、ただ、降りかかる殺意を殺すためのモノに。
嵐の魔剣に。
ただ吹き荒れるだけの、一個の炸裂に。
(俺、は――――)
願うことでそれが為せるなら、今すぐにでも、自ら十字架の下に向かうというのに。
堂々巡りのように思考が回る。
ずっと、そのことについて考えていた。
何かを変えるほどの強さも持てない、ちっぽけな自分の力を。
未来を知りながら防ぐことも変えることもできずにこの戦争を引き起こした己の責任を。
そこで失われてしまった命の重さを。
こんな自分に――――――一体何ができる? 彼らに何をしてあげられる? 何を差し出せるだろう?
『ああ、ところで……』
ふと、口を噤んでこちらを眺めていたローズマリー先輩が声を上げる。
こちらが彼女を見るのに合わせて――……白衣を纏った銀髪の女性は、不意にいたずらっぽく笑った。
ニヤニヤと。
その目が、嗜虐的で挑発的な色を帯びる。
なんだか嫌な予感がする。
『後輩くん……その肉体はもっとベーオウルフに近付いたかな。いやあ、訓練の結果ムチムチしてきたねえ……無知の知ならぬムチムチの乳だ。ちょっと晒してくれてもいいんじゃないかな? ん? ん?』
『やめてください。深刻なハラスメントです』
『なんだよーちょっとぐらい揉ませろよー。ボクは先輩だぞ? 年上お姉さんだぞ? キングメイカーだぞ? 王に仕える魔術師とかなんだぞ? 先輩お姉さんキングメイカー魔術師だぞ? セクシーお姉さんだぞ? 触らせたまえよー。ねーねー。いいじゃないかよー。ねーねー』
『やめてください。計画前に捕まるようなことはしないでください。駄目です。やめてください。触らないで。やめてください。……駄目です。やめて。えっちなのは駄目です。やめて。……やめて』
ぺちぺち。
どうしてそんなことするの。
ハラスメントはよくない。ダメ絶対。
ぺちぺち。
◇ ◆ ◇
焼ける都市の、火の手は僅かに収まってきたか。
昼を夜と思わせるほどに都市上空を覆い尽くしていた灰雲は聖剣の一撃に分かたれ、そこから覗いた青深き空と遮ることなき陽光を前に暴動は勢いを弱めつつあった。
それでも市街地の各所から黒煙が登り、未だここが非常事態下と知らせるには十分である。
空を飛ぶ機体は
そんな中――――フェレナンド・オネストは、火花を散らし、銀血に塗れた機体を疾走させていた。
走りながら、思い返すことがあった。
ある日――――士官過程を卒業して部隊配置になってから間もないある日。
隊内の講堂でのことだ。
座したる中隊員たちの前で、あの、冷徹な蒼い瞳を持つ黒髪の小隊長が登壇していた。
壇上のスクリーンに文字が映される。
「本日は改めて、被撃墜時における武器使用に関してのガイドラインについて説明する」
部隊員を一瞥して、彼は冷淡そうな口ぶりで続ける。
「これからショッキングな映像が流れる。無理に見る必要はなく、気分が悪くなったら申し出てくれ。……それでは開始する」
スライドを背にした黒髪の青年が、そう頷いた。
元が名うての撃墜者とあってか、彼はそのように中隊での教育について登壇して解説を行うことが多い。
訓練幹部のようなものなのかと、フェレナンドは納得することにした。
実際、彼の戦技の解説などを聞きたいと思う人間も多いだろう。彼は、部隊員たちに比してもその実力が明らかに一線を画しているのだ。
フェレナンドらがその領域に辿り着くには向こう十年は必要と思えて、つまり、このアーセナル・コマンドという兵器の登場からたった数年でそんな領域に辿り着いてしまっているハンス・グリム・グッドフェローという青年は紛れもなく天賦の才の持ち主という意味だ。
(オレも、そうなれるんスかね。……それともやっぱり英雄って人は違ぇのかなあ……)
そして、タイトルだけが映されたスライドを背景に彼はやおら口を開いた。
内容は――――【被撃墜時における武器使用ガイドラインについて】。
「あの大戦を通じて、アーセナル・コマンドの被撃墜時における武器使用のガイドラインが制定された。くれぐれもこのガイドラインを逸脱することなく、個々人は自衛を図るように。……貴官らがこの国から兵器の取り扱いを許可されている以上、知らぬ存ぜぬでは済まされない。無論ながらこのガイドラインを逸脱した武器の使用に関しては、軍法会議の対象となる」
口を噤んだままのフェレナンドたちを見回してから、壇上のグッドフェロー大尉は話を続けた。
「制定の経緯だが――……かつての航空機のように、アーセナル・コマンドは撃墜が即ち脱出の必要性に繋がる兵器ではない。撃墜されてなお、その
その後ろのスライドには、デフォルメされた二つのイラストが映されている。
「さて、一点目。まず――――機体からの脱出を伴う、つまりパラシュート等を用いて機体外に脱出する際の武器使用に関してであるが……これは携行火器程度の火力しか有せないものであろうため、原則的に交戦規定の第一条件に示されるであろう自衛のための武力行使と同等の使用条件になる。つまり――」
よほどの無茶を、つまりは通りがかっただけの武器を持たない市民を警告なく射殺したり――同様に非武装の車両に攻撃を加えたり赤十字関係者などを攻撃しない限りは、著しい処分の対象とならないらしい。
本題は、次のものだろう。
巨大なコックピットからパラシュートで飛び降りている棒人間の隣のイラストへ、赤いポインタが移る。
「二点目以降は、機体に残留した際の武器使用に関してだ。……何故、このガイドラインが制定されたのかを以後のスライドから確認してほしい。これから示すのは、全てが実際に起きた事例だ」
つまりは……戦争の映像。
兵士になれども、まだ出撃したことがない。
そんなフェレナンドにとって、落ち着かないような、それともどこか気が重いような教育になる。
スライドが、変わった。
敵都市と思しき場所に目掛けて増設ブースターで強襲する人型ロボットのイラスト。或いは編隊と共に、敵陣地の上空に展開する人型ロボットのイラスト。
そんなものが並んでいる。
「現在では防空や都市防衛にも使用されるものであるが、アーセナル・コマンドはその機体特性上、敵勢力圏での運用が主とされる兵器である。ついては、単身及び少数での敵陣地の突破や破壊活動を命ぜられる場合が存在する。つまり、その状態で撃墜されたら何が起こり得るかというのが、以降のスライドが示す事態だ」
そして、彼が一拍止まるとスライドが切り替わった。
デフォルメの――膝を突いた機体に目掛けて、アサルトライフルで武装した集団が向かっていく状況図だ。
「このように、敵歩兵または民兵などによっての機体への攻撃が起こり得る。旧世紀にて敵地上空で脱出した航空機パイロットの身に起きたのと同様に……。そのため、次のいずれのケースに関しても、当該機の
そして彼が頷くと同時、スライドはイラストから写真へと切り替わった。
野山のように緑が深い光景と、その中心に膝を突いた第二世代型の廉価機体。
特徴的なのは――――その機体を中心に、周囲の草木が失われていることだろうか。山肌は赤土を剥き出しに、さながらクレーターめいた状態になっている。
「一件目。山岳部を移動中に敵の攻撃により機体脚部が大破し、当該機体は移動力を失った。その際に《
壮絶な破壊の痕を淡々と語られる。
機体の装甲が焼け焦げ、ところどころフレームを剥き出しに生々しい戦闘の痕跡を示していたが、彼も周囲もそのことを気に留める様子もない。
そのまま、スライドが次に移った。
今度は、砂地の中に建てられた市街地のような場所だった。大きな黒煙が写真に切り取られていられる。
「二件目。同様に《
サッと二つが流されていく。
半壊した建物の前方に佇む骨身を丸出しにしたアーセナル・コマンド。
どことなく、戦争を題材にしたどんな映画よりも実体感がある。現実の戦闘映像と考えれば当然だろうが。
そして、グッドフェロー大尉が一度全員を見回した。
「四件目。……これは、ショッキングな写真を伴う。各員、覚悟してくれ」
頷きを一つ。
切り替わった写真に――――フェレナンドは悲鳴を噛み殺した。
人が……人の上半身が車の下敷きになっている。それも、地面目掛けて猛烈に追突した車だ。足だけが別の生き物のように石畳に乗り上げていた。
他にも、腕だけが千切れ飛んでいる写真があった。
瓦礫の中から足と腕が天に伸びているものもあった。
ひしゃげた大きなコンテナのその真下から、石畳に赤い血溜まりが流れ出ていた。
怪物に蹂躙されたかのように、人が、死んでいる。
「当該墜落機体は《
地面に拳をつく形で倒れ込むような機体。
その巨大な握り拳が、人間の下半身を押し潰している。
潰された人間は目を見開いて事切れていた。顔面は、吐瀉物と血に塗れている。おそらく、大質量の拳を打ち込まれる圧力のままに顔面の血管という血管が破裂して血が吹き出したのだ。
その時点で、昼食を吐き戻したくなった。
自分が訓練で用いている機体が、まざまざと兵器として認識させられる。こうも容易く人間を損壊できる兵器なのだ。
「五件目。……」
スライドには、まず、日時と場所だけが記されている。
逡巡するように口を噤んだ小隊長を前に、不安が高まる。今の映像でさえも脳裏に焼き付くには十分であったのだ。それよりも――恐ろしいものがあるのか。
やがて、一度目を閉じたグッドフェロー大尉は言った。
「既に諸君らも、民間軍事会社等によってアーセナル・コマンドが回収され使用されているという事例を認識しているところであると思う。……そのため、アーセナル・コマンドの被撃墜に伴っては、直接の敵勢力でない者によっても機体の鹵獲やそれに付随する犯罪行為が行われるケースも存在している。以後の事例は、そんなものに対しての防衛行動として実行されたものだ」
つまりは……対・敵兵ですらなく……。
喉を鳴らすフェレナンドの前で、スライドが切り替わった。一件目や二件目のように、爆心地めいた場所に佇むアーセナル・コマンドの姿。
違うのは、黒く炭化した肉体が丸まった死体が幾つも路上に転がっていること。
そして、彼らの生前と思しき姿も――――おそらく機体搭載のカメラに由来する画像らしきものもスライドに映されているということ。
彼らは、一見すれば安物のジャージや簡素なシャツに身を包んだ一般市民に見えた。
ただ、明らかに平常ではないのが……蟻や鼠のように群がって血塗れの
「この五件目は、墜落した友軍機の下に向かったアーセナル・コマンドによって、友軍の遺体をコックピットから引き出そうとする対象へと《
肉片も骨片もまぜこぜに建物の壁に飛び散った奇っ怪なインク・シンメトリーめいた死体の痕跡。
他にも上半身だけが転がっているものや、跳ね跳んだ機体の装甲板のようなものと共に建物の壁に突き刺さっているものもある。
明確に、誰一人、生存者がいない。
そして、その画像の中にはアーセナル・コマンド以外の兵器は存在しない。少なくとも銃火器は存在していない。
「これは、違法と判断された。当該機体の
コックピットから血塗れで引き摺り出される友軍の写真は、きっと、その
「なお、最終的には、友軍を殺傷されてその死体を損壊されたという過度のストレスにより彼は正常な思考が行えない状況にあった――……という理由で責任能力の所在についての話となり不起訴であるが、報復行動自体は明確に違法と判断されている」
衝撃を受けたフェレナンドを余所に、感慨なさげにスライドは次に移った。
そこでも、やはり擱坐したアーセナル・コマンドのコックピットハッチが開かれており、外へと夥しい血痕が伸びていた。おそらくその乗り手も死亡しているのだろう。
周囲には、また、爆発じみて吹き飛ばされた死骸たち。
ただ、画像内にはひしゃげた歩兵用の対戦車火器が散らばっていた。
「この六件目も同様の迎撃行動を実行した事例ではあるが、これについては相手の武装に対装甲火器が認められたために――危険排除としてやむを得ないとの判断。七件目に関しては相手の武装は確認できなかったが、機体機密保持のためにやむを得ない行動だったと供述され、適法と判断された」
七枚目のスライドでは、おそらく当時最新鋭であろう
そして移り変わる八枚目。
また――――鋼鉄の人型の四肢を用いて、人間が虫のように潰されている画像。
「八件目は、《
そんなスライドが、その後に幾枚も流された。
何にしても言えるのは、どれも、凄惨な死体が写り込んでいるということだ。例外なく、スプラッターホラーさながらの現場写真が添付されている。
その時点で、フェレナンドは気持ちが沈んだ。
昨日より上手くどう飛ばすかとか、もっと早く飛びたいとか、成長をしているとか……ある種のスポーツ感覚に近いものでそんなふうに日々を送っていた相棒とも言える鋼の巨人は、明確に殺戮兵器だった。
これは戦争の道具だ。これは人殺しのためのものだ。
そう――――はっきりと戒められている気がした。それがどうにも、いや、明白に気を重くさせるのだ。
「既に認識のところだろうが……戦闘中の行動について、機体の外部カメラを通じてコンバット・クラウド・リンクにデータがアップロードされる仕組みになっている。また、諸君らの管制AIにも適法性の判断プログラムが搭載されている。こちらに事例の照合を行った上で、適法な手段の選択が可能であろう」
小隊長のグッドフェロー大尉は、変わらず、淡々と話している。何の感慨もなさそうに。
死を、単なる記号としてしか捉えぬように。
今更そんなことで悩みはしないと決めているのか、それとも、既に割り切っているのだろうか。
そんなにまで、死と不浄を、見慣れたか。
あくまでもただの業務の一環――――そして単なる業務上の注意点のように、彼は締め括りに向かっていた。
「ただし……機体の損傷状態によってはそれらが使用不可能な状態となることもあり得るため、必ず各人にて当ガイドラインについての理解を深めてほしい」
最後に、個々の注意を呼びかけるように彼が改めて全体を見回す。
スライドも、まとめに差し掛かる。
「このような武器使用が適法とされるケースは――――①他に破壊不可な施設等が存在しない場合、②警告を実行した、または明確に敵の存在および位置を識別している場合、③現に敵の対装甲火器などによって急迫の危険性が認められる場合、④機体の機密保持などの高度に軍事的な行動が求められた場合」
レーザーポインタでスライドの文章を指し示して、彼は全体の反応を見ながら続けていく。
「その他のケースに関しては、原則として大規模の破壊を引き起こす兵装等の使用は推奨されない。……交戦規定により原則的に自己の防衛または友軍の救援・救助等にて兵装の使用や強制力の行使は許可されるところであるが……アーセナル・コマンドを利用するにおいては、くれぐれも先述の点に関して注意し、ガイドラインの定めに従ってほしい」
ガイドライン。
業務の一環。
仕事の一つ。
機械的に線を引くもの。
凄惨な人の死と破壊を前に、それでも眉一つ動かさない凍れる血の黒髪の英雄――。
そのことに、そんな場所に自分が飛び込んでしまったことに、不意にフェレナンドは恐ろしくなった。
他にも大戦時からの流れで
ここが
食堂で、机に突っ伏す。胃と心が、食事を受け付けてくれなかった。
「よく……平気っすね……ローズレッド先輩は……」
同じように士官候補課程を卒業後に部隊に配属された桃紫髪の少女――少女にも見える小柄を
「まあ、臭いはしませんからねえ。絵なら」
彼女は、そう空のフォークを片手に肩を竦める。
彼女も士官候補生となる以前から従軍していたとは聞いていたが……僅かな言葉から感じられたその戦役の壮絶さを連想してしまって、気が滅入る気持ちになる。
「あー……ひょっとして今日までスポーツ感覚とかそんな感じでした? 現実を突き付けられた?」
「恥ずかしながら……そうっス……」
自分の街が、深刻な戦争被害に合わなかったというのも大きいのだろう。
何かできる――――アーセナル・コマンドという空を飛ぶあの騎士の使い手になれば、自分もこの国のために何かできるというそんな思いだけで志願していた。
その甘さを窘められた気がしたのだ。
だが、
「深刻ぶって悲観的に考えるものでもないですよ。ガイドラインが定められたってことは、それだけ、違法だ合法だって処分内容が適当な線引でコロコロ変わりませんよって意味のものですし。軍もそのへん、ちゃんとケツを持つつもりってことなんですよー? わかります? むしろ安心なんですよ。いちいち悩まないで戦ってくれ、ってメッセージですから」
「……」
その、戦えというのが最も咀嚼し難い点なのだ。
お前は、兵士だ。
つまり、人を殺すためにここにいる。
人間を殺せ。悩まずに。動じずに。考えるな。
そう大いなる怪物に言われている気がして――……その言い知れないプレッシャーに呑まれそうになっていると、そう言おうとしたときだった。
「それにまあ、危ない道具だからこそ――ちゃんと使いこなすためにそういうのがあって、貴方ならそれを使いこなせる人間になれるって適性判断されたからブービーもここにいるんですよ。スポーツマンならそういうのに応えるのもお手の物でしょう?」
「――――」
「……フェレナンド? もしもーし?」
「え、あ、や……いや……」
「んー? そんなに体調悪いなら、午後の訓練とか見直して貰います?」
スッと、額に小さな手が伸ばされたことに思わず仰け反ってしまった。彼女は、不満そうに口を尖らせた。
改めて、目の前の女性をまじまじと眺める。
身体は小さいにしてもよくよく見れば凄い美人で、何度か広報担当として募集ポスターや市民との交流イベントにも選ばれている人なのだ、と再認識する。
「エルゼちゃーん、ちょっと来てくれるー?」
「はいはーい、今向かいますよー」
後々振り返るなら、彼女を異性として意識したのは、多分、その日が最初だったのだとフェレナンドは思う。
何でもないことのように肯定を口にしてくれる、そんなふうに他人の自分のことを見てくれているというのが――そう肯定的に評価してくれているというのが、そんな評価をするぐらいに自分のことを見て、買ってくれているというのがどうにも安心するような嬉しいような……そんな心地になったのだ。
胡散臭いような喋り方をして揶揄や諧謔を織り交ぜて喋るエルゼ・ローズレッドが、
今となっては。
本当にただ、今となっては――……どうして彼女に対して今の気持ちを抱いてしまったかと言われたら、きっと最初はそれだ。
それから何度も一緒に戦って。共に困難を乗り越えて。
そういう生還の安堵とか勝利の余韻とかがごちゃまぜに彼女への親しみになって。
新しく小隊に加わったラモーナへの面倒見の良さから、この人はきっと自分の子供ができてもそう接するんだろうなあとか、ふと考えてしまって。
そう意識してしまってからは、その細い身体が浮かび上がるような
軽妙にグッドフェロー大尉と昔からの知人という距離感で彼女が接していることに何だか面白くなさを覚えて。
多分――――最初はそれで。あとは幾つも降り積もって、自分の中の何かが決壊した。
エルゼ・ローズレッドを愛しいと思う。
抱き締めたいし、彼女が求めるならどんなこともしてあげたい。彼女からも頼られたい。必要としてほしい。
一緒に、この世界を生き延びていたい――この先も一緒に生きたい。ずっと。半生を。
そんな気持ちは、もう、止められない。
どこの誰が相手だって――――それこそあの大尉にだって絶対に負けてはやるものかと思うぐらいに、エルゼ・ローズレッドが恋しい。己の心はエルゼを求めている。
そう、フェレナンドは思っていた。
だからこそ、
(もし――――――ローズレッド先輩が、あんなことになるんなら)
半壊した機体で懸命に市街地を駆けながら、考える。
あのスライドのように。幾枚ものスライドのように、もし、エルゼ・ローズレッドが殺されてコックピットから引き摺り出されていたなら。
自分でも判る。
その時は、きっと、迷わずに武器を使用してしまう。
彼女を殺した相手目掛けて、報復として弾丸を吐き出してしまう。辺り一面ごと、焼き払ってしまう。
相手が武器を捨てていようがいまいが、きっと。
(はは、そうなったらオレ――――多分、大尉に殺されるだろうなあ……)
ガイドラインに従わない暴力の行使について、彼がそれを許すはずがない。
その不法性などを伝えられ、行動の停止を求められるだろう。それに従わなかったら彼がどうするかは、想像に難くない。後から――――民間軍事会社【
規範と規律の線を超えれば、それが味方であろうと誰であろうと一瞬も悩むことなく首を刎ねる。
彼は、仲間を第一にする軍人というより、殆ど法の代理人だ。厳然たる執行者であり、暴力装置なのだ。
命の重さに囚われぬ鋼の男。
感情を廃して理性だけを抱えた兵士。
狩猟の機能しか持たない猟犬。
屍の山に立ち続ける騎士。
信念や信条すらも抱くことなくただ淡々と戦い続ける、歯車じみて絶対に揺るがぬ剣のような青年だった。
(なんて――前のオレなら、言ってたかもしれねえけど)
今では――――彼がその心の奥底では何を考えているのか知っている。本当はふわふわぽわぽわしていて、人がよくて、ぼんやりとして、何でもなければ日がな一日カフェで人々を眺めて穏やかに暮らせる人間だと知っている。
美味しいご飯を食べていれば幸せな男と知っている。
だが、だからこそ、そんな男があのような鋼の如くに練り上げているのがどれほどなのかと、判る。
どれほどの覚悟でそこに立っているのか。故にこそ、絶対にその線を超えることを許さないのも判ってしまう。
そうなったなら、たとえフェレナンド相手であろうとも容赦はすまい――――――彼は暴力という忌まわしい力を徹底的に理性的に運用することに、その在り方全てをかけている。
(でも……自分でも判るんスけど……自分でも判るんスけど、ローズレッド先輩を……エルゼさんをそうされて、オレはきっと黙っていられねえ)
街のために戦っていた彼女をそんな形で殺した相手を見逃せるほど、フェレナンドは、きっと穏やかではない。
あと、どれだけ時間があるだろう。
危ないというのは、どれほどだろう。
頼むから――――頼むから無事でいてくれという逸る気持ちが幾つも幾つも湧いてくる。焦燥が、胸から首へと波濤のように押し寄せてくる。
口腔が乾く。
心臓が嫌な音を立てて、冷や汗が流れ続ける。
――――〈そういうときは目を閉じて、お腹の底からありったけ息を吐き切って、止めるといいですよ〉。
――――〈上手くやろうとか、凄いことをやろうとか考えないでいーんですよ。生きてりゃ儲けもんです〉。
――――〈流石にエルゼちゃんを残して死んだら目覚めが悪いんで、そのへんは生き残る努力は忘れずに……ですよ?〉。
――――〈ブービー後輩〉。
大事なこと、何でもないこと、呼んでくれること、笑ったこと、そんなことが幾重にも幾重にも頭を過ぎってぐちゃぐちゃになって、裏腹に、手足はただ機体を動かすことに向けて冷えていった。
道路に積み重なった車両を飛び越え、建物の影から行われる砲撃に撃ち返して、煙が立ち昇る都市を疾走する。
余計な重りとなる背面のテールスラスターもパージした。武装も、碌に動かなくなった腕のものは投げ捨てた。
そして、
「……――ぁ」
辿り着いたその先の光景に、フェレナンドは、言葉を失った。
代わりに――――その機体の背面のガトリング砲が、大地目掛けて向けられていた。
「その人から……離れろテメエら――――――――ッ!」
拡声器に切り替えた呼びかけのまま、砲身が回転する。
寸暇を待たずに鉄の筒は火を放ち、それが、付近の建造物を薙ぎ払った。
バラ撒くような威嚇射撃。
一度砲声が止み――――それでも武器を捨てようとする者は、いなかった。
そして鋼の巨人の火力が、虫けらのような群がる人型に目掛けて発射された。
◇ ◆ ◇
再起動、不可。
予備電力、不足。
装甲――――――現在、破壊進行中。
ガスバーナーらしき轟音と熱と光が、外からコックピットを溶解せんと向けられている。
その赤熱が、強くなる。
遠からず、エルゼ・ローズレッドを守る壁は失われる。
「……やってやりますよ、クソッタレ」
機体制御系のランプだけが灯る薄暗いコックピットの中で歯を喰い縛る。墜落の衝撃にシートベルトはロックされ、碌に身動きもできない。銃撃戦も不可能だ。
今のエルゼに握れる武器は、首から下げたプレゼントの手榴弾だけ。
それにもう一度、口付けをした。
「……せめてキスの分だけ、時間ぐらいはくださいよ」
死神に向けての言葉と共に――意識を切り替えた。
機体のホログラムコンソールをなぞる。
思い出すのは、あの小隊長の言葉だ。何から何までも武器にして戦う、戦争の才覚者の金言。
こういう使い方もできる――と。
あらゆるものには、殺戮の機能があるかのように。
そして――――【冷却材:手動散布】――――エルゼの操作に機体管制AIが応じる。
直後、外部目掛けて強烈な白煙が吹き出した。
高熱の流体金属を瞬時に固化させるほどの低温の冷却材だ。そんなものを照射された生身の人間がどうなるかなど、語るまでもないだろう。
それは凍結に留まらず、猛烈な勢いでの噴射は、瞬間的に周囲の酸素を押し流して強烈な無酸素空間を作り出す。
ガスバーナーの音が止む。
そのまま待たず、更にコンソールに触れた。
続いて行うは――――
ガクンと、猛烈な衝撃。
墜落によって塞がれた噴射口と、歪んだスラスターパイプが爆裂した。爆裂するままに、地に伏せた機体が狂ったように回転した。
上昇や退避の為ではない。
一個の金属の塊を、回転する鈍器としてただ振り付ける攻撃。
カメラ破損のために外の様子は判らないが、死にかけの獣に殺到する蟻の如く集まったであろう暴徒たちを轢き潰すには十分すぎる質量攻撃。
そのまま、推進剤を全開にする。
かつて見た超古典的映画の空飛ぶ亀の怪物のように、その場で周り続ける重厚なる金属の質量弾。
やがてそれも止まり――……しかし、それからはガスバーナーの音もしない。
「ざまあみろってんだ……軍人ナメんじゃねえ! あたしを殺したきゃ、あの死神でも連れてこい!」
強烈な目眩の中で、盛大なファックサインを装甲越しに突き付ける。
これで少なくとも、迂闊な接近は死を呼ぶと伝わっただろう。人間は虫ではない。弱りかけの獲物相手に、それでも傷を負わせられたくないと弱腰になるのが人間という生物だ。
これでなんとか、時間稼ぎはできるか。
「さーて、間に合ってくれますかねえ……王子サマは」
そう呟いた瞬間だった。
強烈な激震。耳を劈くような炸裂音。
壊れたシートベルトで雁字搦めにされて居なければ、エルゼの小柄など跳ね跳んでいただろう。
対装甲火器。
「あー、チクショウ……はあ」
外殻の下で常に加圧され続ける流体装甲によって、メタルジェットの勢いは殺され機体骨子を貫くだけの圧力には繋がらなかった。
しかしそれも、流体装甲が続く限りはだ。
加熱装置の停止、加圧装置の停止、流量の喪失によって終わりを告げる。
そしてそれは遠からず――と言ったところだった。
(……)
手元の手榴弾を見る。
コックピットから引きずり出され、嬲り尽くされて、穢されて死ぬよりも前に自分自身で決着を付ける。
これは、そうするためのものだ。
あの小隊長が自分にそれを渡したのは、そのためだったのだろう――――あれは酷い戦争だった。
「……あーあ。まあ、そう上手くはいかないかぁ」
笑みと共に、手榴弾のピンを抜いた。
あとは握り込んで雷管を落として、それでおさらばだ。クソッタレの現世とも――――クソッタレの戦場とも。
くたばれ。
そう呟いて、エルゼは手榴弾を握り込んだ。
そして、投じた――――今の着弾の衝撃で、開いてしまった隔壁の穴に目掛けて。
「さっさと来やがれ、クソ王子様……!」
泣きそうな声になりながら、もう一度ファックサインを作った。
最悪のときは――――本当に本当の最悪のときは、今も延長脊椎で繋がっている
そして、もう一度着弾の衝撃が来る。
立て続けに何発も来る。
エルゼの強情な抵抗に、相手も方針を変えたのだろう。資源的な価値が下がってしまっても、完全に黙らせてから機体を鹵獲するつもりらしい。もしくは鹵獲よりも破壊を優先し始めたのか。
それから、何発か。
……ああ、流量も喪失した。相手も、装甲外への銀血の噴出低下によってそれを察したのだろう。
対装甲火器の音は止み、代わりに、バーナーの轟音やバールによって引き剥がされる音が聞こえてきた。
蟻に群がられた死体のように、巨人が解体されている。
抵抗のそれだけ、取り囲む彼らの怒りは膨れ上がっているはずだ。
簡単に殺されず苦しめられるだろうか。
それとも怒りのあまり、一思いに殺されるだろうか。
そう考えていた――――その時だった。
『その人から……離れろテメエら――――――――ッ!』
言葉と共に、周囲の建造物を打ち砕く射撃が開始された。
◇ ◆ ◇
巨人と人間が互いに武器を向けあって、果たして、どちらが勝利するだろうか。
状況によってその答えは変わるとしても、少なくとも今ここでの結論としては――巨人の勝利であった。
巨人同士での殺し合いに用いられる火器は、手足の先端に命中しようとも水風船のように人間を破裂させる。そこには最早、人と呼べる形のものは二つしかなかった。
炎の煤と硝煙。噎せ返るような血の匂い。
強化した筋力でベルトを無理矢理に外して隔壁の外に出たエルゼが感じたのは、まずそれだ。
煌々と燃え上がる都市の赤色に彩られた石畳には、肉片が飛び散っている。
それを挟むように、あちらの機体の腕で周囲に壁を作りながらも佇む青年。その顔色は判らない。横顔を、炎に照らされている。
何を言うべきか――――。
そもそも、何を言われるかと僅かに怯えていたそのときだった。
「大丈夫っスよ、ローズレッド先輩。ちゃんと――警告は実施したっスから」
そう、親指を立てる赤髪の青年。
普段どおりの馬鹿な笑顔で――……しょうもない男だと、腹から吐息が零れた。
「……そりゃあ覚えていて何よりです、ブービー後輩」
「あ、ほら……本当に先輩を助けるためだったし、警告もしたし、相手も武器というか色々と持ってたし……多分大丈夫っスよね。多分……大丈夫っス……よ、ね?」
「……」
「な、なんで何も言ってくれねえんスか? え、いや、マジで不安になるっつーか……ローズレッド先輩?」
エルゼが懸念していたのは、違法性についてではない。
彼が撃ったのが生身の人間ということだ。戦車すらも食い千切るようなガトリング砲を人間に向けて掃射した。ロボットを撃ち落とすのとは、訳が違う。
PTSDになる――そういうこともあり得るだろう。
(……ま、そーなったら面倒くらいは見てやりますか。あたし助けるためってんだから……。人生の半分くらい持ってけってんだ)
ぐしゃぐしゃと髪を掻いて、吐息を漏らす。
そう思ってたのに完全に透かされた。
あんな戦争があったにも関わらず、それでも兵士に志願できるというのはよほど愛国心が強いか熱心であるか何も考えてない馬鹿のどれか。馬鹿だけに現実を目の当たりにして壊れかねないかと思っていたが……どうも杞憂だったらしい。
そのまま、コックピットに促された。
機体の手足で遮蔽を行っているが、戦場で生身を晒すというのは基本的に避けられるべきだ。そこにはエルゼとしても異論はない。
血溜まりを歩くブーツの溝に、肉片が溜まっていく。
「……」
もう一度、深く吐息を漏らす。
自然と口が尖ってしまう。
ままならない人生だ。いつだってそうだ。絶妙に望まないことばかり起きて、望んだものは手に入らない。今更なのだ。
だから――……その、まあ、決めていた覚悟とか心の準備が透かされるというのもわりと今更なことで、
「……そっち覚えててなんでこっち忘れるんですかね」
「え? 何か――――」
コックピットに足をかけながら振り返る間抜け面に目掛けてその胸倉を掴み、思いっきり顔を寄せる。
「――――――――――!?!?!?」
唇に伝わる感触。こういうことをするのは、いつぶりだろうか。
いや、そもそも、自分からそうしたことがあっただろうか。そう記憶を漁ろうとし――――やめる。やめよう。
なんで、こんな、別に好みでもない男相手に。
自分の方からは初めてのキスをしてやるだなんて。
こんな、大脳と口が直結してるような直情バカ男に。犬みたいな奴に。全く好みでもない奴に。
好みではない。本当に。全然好きではない。
それがなんだか面白くない。非常に面白くない。
プハッと、唇を離す。
口を尖らせながら、エルゼは言った。
「約束通り、生き残ったからキスしてあげましたけど。してあげたんですけど。あたしが。あたしから。……その、なんか忘れてないですか、ブービー後輩」
パチクリと何度か目をしばたたかせていた大型犬男はやがて再起動を果たし、
「フェレナンド、っス! エルゼさん!」
「…………どーも」
クソ。別に名前呼びしてほしいって訳でもないのに。
これでは、まるで、そうして欲しくてキスをしたようではないか。せがんだようではないか。名前で呼んでほしいって。
面白くない。こんな尻も青いような青年に。まるで甘えてるみたいで。面白くない。本当に面白くない。
むぅ、と腕を組む。
喜色満面といった様子で浮かれポンチブービーにニコニコ笑顔を向けられるのも、どうにも面白くなかった。
……まあ、それはいい。今はそんな状況ではない。
「さて。……一度基地に戻って、再出撃ですかねえ。なんか換えのアーセナル・コマンドがあればいいんですけど」
「うぇー……また出撃っスか」
「数が足りてないんだから仕方ないでしょう。街が燃えてるんですよ? 兵士がここで手ぇこまねいててどーするってんですか。あたしたちの仕事内容わかります?」
「うぇー……」
「ちゃっちゃと準備する。これから忙しくなりますよ。ほら、さっさと詰めて」
「うぇー……なんかもう少し感動の再会の余韻とかほしいっスよ……」
ふむ、と思案。
くぐるようにコックピットハッチに身を屈めるフェレナンドのその耳元へと唇を寄せ――
「もっとあたしが腰砕けに惚れちゃうぐらい格好いいとこ見せてくださいね、フ・ェ・レ・ナ・ン・ド?」
「いぃ――――――!?」
「ほら、さっさとする。普通に対装甲火器喰らったら一発なんで、浮かれないようにいきましょー」
べち、と背中を叩いて座席を促す。
言外に、振り向くなと言う意思を込めて。
今振り返られるのは、困る。色々と。別に何がって訳ではないが。困るのだ。わかれ。判らなきゃ別れる。
「こ、この人……心臓に悪すぎる……」
「何か言いました?」
「な、何でもねーっス。……あ、意外と柔らかい」
「誰が柔らかさの欠片もないような幼児体型に見えるだコラ」
「い、言ってねー……言ってねーっス、先輩」
彼の膝に座って睨み付ける先で、タジタジに両手を壁にして首を振るフェレナンド。
……減点:一。
そういう尻に敷かれそうな態度というのはよくない。減点。それではリードして貰えないではないか。いや別にしてくれという意味ではないが。違うが。こんなアホ犬青年のリードとかまさにリードごと引き摺られる犬の散歩になりそうで全く御免だが。望んでないが。
それでも一般論としては、やはり、こう、多少は強引さというか甲斐性を見せた方がいいと思う。いや別にリードしてくれとかそういうのが好きな訳ではないが。一般論として。あくまでただの一般論として。ちょっと頼りがいを見せた方がいいと思う。頼りがいがあった方がいいと思う。一般論として。
(……いやまあ、それはそれでムカつくんですけど)
得意気にコイツからリードされてお姫様扱いされると思うと、なんだか若干腹が立つ。若干。面白くない。今の軟弱なコイツにリードされるような女と言われるようではないか。それはちょっと話が変わる。結構マジな話に面白くない。
だから……その……まあ、追々だ。追々、そういうのが似合う男になればいい。きっと。いやこう言うと彼がそうなれると思ってるみたいで嫌だ。嫌だが、まあ、今回の救出を思えばまあ、その、多少は評価してもいいのではないか。多分。いや一般論だが。
これ以上考えるとなんだかドツボにはまりそうなので切り替えるように髪を掻いて、改めて街を見た。
燃える街。
いつかの大戦で見たような光景。ホンの数年前の景色。
もう一度――――そこに居る。
そう思えば、若干浮ついていた気持ちが冷めていく気がした。
「……フェレナンド」
「何スか? あっ、ハイ、いや、なんでしょう!?」
「……なんですかその口の聞き方。張っ倒しますよ?」
瞼を、一つ。
「やりますよ。――仕事」
「ウス」
ここからはまた、軍人としての役割だ。
半壊の鋼の巨人が、起立する。再び、焼けた街に目掛けて。
◇ ◆ ◇
戦後しばしの後に、ローズマリーは、議員になった。
軍の
それから顔を合わせてはいなかった。議員というのは少なからず人気取りが必要とされる。自分という軍に属する人間が彼女に接触すれば、
自分と彼女の計画を。
自分と彼女の関係を。
社会的な制約は存在していないものの、この研究が倫理に悖るものだとは二人共知っていた。
そして、己以外にこれを使わせることがないように。
人格を剥奪すれば効率的な無人機AIが作れてしまうということは、ともすれば、国家によって無辜の人間に対してそれが秘密裏かつ非人道的な形で実現されかねないというリスクを孕んでいた。
故に、個人的に彼女との接触を避けていた。
戦後初めての再会は――――ウィルヘルミナ・テーラーのあの力によって被害を被ったライラック・ラモーナ・ラビットを連れて向かった、あのときだった。
ラモーナが別室に向かったのを確認し、改めて彼女と腰を据えて話す準備が整った。
ラモーナに知られてしまえば、彼女はおそらくこの計画に異を唱えるであろうし――――そして部外者である彼女に、この事実が漏れることは憚られた。
こちらが淹れたコーヒーを片手に、その小柄を白衣に包んだ銀髪の女性は鷹揚に口を開いた。
『ふむ。何度か連絡は受けていたけど、結局アレから本気でプランに変更をかけるんだね?』
『変更というか……微修正、でしょうか。防衛兵器――自動応報兵器という形ではなく、法秩序に基づいたものとしての運用ですが』
『まあ、それがいいだろうね。言ってしまえば前回の――ああ、何だっけ。【
『不十分?』
彼女のそんな言葉に、問い返す。
コーヒーを啜る音が響く。
やれやれ、と白衣に包まれた肩を竦めながら彼女はつまらなさそうに言った。
『核報復とその安全性の話の類似だ。つまりはね、お互いに核の打ち合いはしたくないだろう――というのが核による相互確証破壊なんだけど、ここで何らかの要因でそれを無視する者が居たとする。撃てないだろうと高を括るか、チキンレースをしたいか、それとも撃ち合っても勝てると完全にイカれてしまうか。……そういう奴が万一にでもあのキミに攻撃を仕掛けた際には、とんでもない応報合戦になってしまうという懸念さ』
『……何故それをもっと先に?』
『あの時点で実現可能なプランでは、アレが限度だったからね。そして目的にも十分な力だった。……今はもう少しデータが集まったから、より優れたものになるさ』
管制AI技術の発展。
人体への機械搭載事例。
戦後、
『まあ、軍としてはもう少し使いやすくはなるだろう。内乱の鎮圧なんかに当てられるから……』
『は。……今回の一件から、おそらく、今後、旧国家原理主義者による独立運動も激化する可能性も見られるので』
『なおさら渡りに船だということだ。リーゼ・バーウッドのせいで無人機関連のツリーが壊滅したことを考えれば、なおさらね。勿論、【
伺うような言葉に、頷き返す。
『未だ及ばぬ身ですが、あの日よりも遥かに研鑽を積みました。そして、積み続けています』
挫折もした。
諦観も抱いた。
それでも、己は進んだ。進み続けた。そうできるようにして、そうしようとして、その通りにそうなった。
己が己自身にそう科した、或いはときに不意に与えられる苦難や苦痛でさえも己という人間を止めることは叶わなかった――――――文字通りどんな相手とも戦った。それが戦友だろうと、同僚だろうと、部下だろうと、婚約者だろうと。
この身は、合理性と必要性の下にあらゆる人間を斬れる刃になりつつある。己の求めたその通りに。
『なら結構。素敵じゃないか、騎士くん。……あとはキミが人間性を全て捧げるだけだ。最終承認コードを以って、人格データがその脳の釘に転写される』
『それまでに如何に削ぎ落として近付けるか、ですね』
あの釘には、データ収容の機能しかない。
いわば、人格を――人間の脳の働きをエンコードして電子データに変換するための装置だ。
機械的な再現が可能である極度に削ぎ落とされた人格を焼き付ける、ただそれだけの機能しかない。
残りは手動――――と言うべきか。
人間自体が持つ脳の乖離機能を用いること、そして、機械との接続を行う
いずれ、この身からは完全に人間としての機能は失われよう。そう遠くない未来となる筈だ。
(……決して折れることなく、曲がることなく、毀れることのない剣。あらゆる敵対者を討ち滅ぼす絶対的なただの純粋なる暴力……百年とは言わない。今後五十年、誰にも上回られることのないだけの戦力を)
この世界の暴力というものを、己一人に集約する。
そうすれば、メイジーのような少女たちが戦いに駆り出されることもあるまい。続く戦乱とその波及によって、この世界の秩序が揺るがされることもあるまい。
戦火に直面するたびに自動で迎撃し応報する剣――――全世界規模でその配備を進め、そして、それらで互いに睨み合うことで国家間の戦争の余地を奪い、この社会の延命を図る。
それが、己が科した計画だ。
(その日、その時の一閃のために積み重ねた……本当ならあるべきではない日の一閃のために……なんであろうと己の前に立つものを絶対的に滅ぼせる一閃のために……)
他には、ついぞ、思い付かなかった。
人は死ぬ。
あのマーガレットですら、死んだ。自分よりも強かったあの子ですらも、死んでしまった。もしそんなものを作ったとしても、皆、どこかで死ぬだろう。
老いの衰えから。
或いは、人間的な感傷から。
そして何より、永劫に終わらぬ戦いの道を歩まさせてしまう。それは、憚られた。道連れは必要なかった。こればかりは、本来あり得るはずのない二度目の生を受けた自分のような人間が担うべきものだろう。余分なのだから、適材適所というやつだ。
(……だが、今でも、思う。もしも俺があの日――マーガレットの言葉に頷かなければ。あのまま、自分の人間性というものを捧げ尽くしていられたなら。彼女は死なずとも済んだのではないかと。
人の死を勝手に背負うな――と、マーガレットには言われたが。
そして、ローズマリーの先程の言葉を聞くに、あの時点の己を以って完成品として当てるのは良い選択でないとしても。
それでもやはり、考えるのだ。
己ではない誰かなら、もっと、これを上手くやれたのではないかと。
より良く、できたのではないかと。
こうも人が死なずに、殺さずに、済んだのでないかと。
或いはそれこそが、自分の目指す星と呼んでもいいのかもしれない。こんな自分ではなく――――もっと正しく、確かな形で、犠牲が少なく、強く、素早く行える一閃。あるかどうかも判らない星の光。究極の一太刀。彼方の剣。
(……とは言っても、結局、ここには俺しかいない。誰も代わりになれなければ、誰に担わせることもできない。心底、ただの無意味な仮定でしかない)
だから、ただ目指すしかないのだ。
真実、己ではそこに辿り着けぬとしても――――――辿り着こうと想って。
たとえすべてを、振り切ったとしても。
積み上げるしかないのだ。それが永劫の向こうだとしても。届かないとしても。決してここが終わりではないのだと、この場所ではないのだと胸に刻みつけながら。
どんな犠牲を払っても。
何を、殺すことになっても。
己はその星を目指して翔ぶ――――その一閃以外に、己の有用性は存在していない。
己の人生は、刃にのみ帰結する。
それ以外に、意味はない。
――――〈生命が尊いって言うなら、ハンスさんは、その一つ一つが尊いって言うなら――……どうしてそんな尊いものを、無銘の幽霊みたいなものに変えることを良しとしちゃうんですか?〉〈生命が尊いなら――あなただって、かけがえのないものなんですよ?〉〈かけがえのない一つなんですよ?〉。
――――〈誰も……いませんよ、そんなところ……誰も……〉。
――――〈……考えてください。その先に何があるのか。誰がいるのか。どこへ向かうのか……〉〈お願いだから、そんな誰もいないどこかに行こうとしないでください……〉〈行かないでくださいよ、そんな冷たいところに……お願いですから……〉。
――――〈ヒーローになりたいんだったら! 助けになりたいんなら! 別に兵隊さんじゃなくてもいいじゃないですか! 泣いている人の支えになってあげたいなら! 命を護りたいんなら! そんな仕事じゃなくっても!〉。
――――〈私が傍にいるからじゃ、駄目なんですか?〉〈ハンスさんは、本当に――……そんなところまで行きたいんですか?〉。
あの焼ける海上都市での声がリフレインする。
彼女がこちらへと手を伸ばす光景を幻視する。婚約者だった彼女が。
それから、ふと、笑えた。
あのときは考えなかったが、やはり彼女は、的を射たことを言っていたのだろう。きっと言い当てていたのだろう。そんな少女だったのだろう。
あんな状況でなければ、そう言われて、どうしたろう?
あり得たかもしれない未来を考える。
メイジー・ブランシェットと婚姻し、それなりに名の知れた兵士として勤め上げ、幾度か戦乱を乗り越え、家族だけは守り切る光景を考える。彼女と過ごす未来を考える。
己を兵器に変えることなく、人としての生を全うする。
得られたかもしれない小さな幸福を考える。
或いは彼女とでなくとも、そんな幸せを得ることを思ってみる。
そこが――――己の向かうべき場所だろうか?
(いいや――――――いいや、否だ。そこではない。ここではない。まだだ……まだなんだ)
結論は、何度考えても、否だった。
家族が欲しい気持ちはある。家庭を持ちたい気持ちもある。いつしか自分も、そう思うようにはなれている。
特にメイジーをそういう意味で意識したことは神に誓って一度もなかったが、可愛らしいあの娘とならば或いは幸福を掴めたかもしれないな……とも考える。
だけれども、違うのだ。
そこは、己が辿り着くべき場所ではないのだ。
己を許せる、許せないの話ではない。
そうなりたい、なるべきという話でもない。
ただ、そういうものなのだ。
ハンス・グリム・グッドフェローとは、そういうモノなのだ。
それ以外に、意義はない。
果てなる極光に飢えただけの、猟犬だ。
その一閃だけが己にとっての極星だった。――――ただ一つの機能なのだ。
(無意味でも、無謀でも変わらない。俺は、そういうものなのだ。……なんと言われたところで。何を言われたところで)
そして今、ようやく、それに手がかかろうとしている。
己をそう作った、その通りに。
使命感でも、責任感でも、信念でも、宿願でもない。
ただそうあるべくしてそうあるモノ――――――一振りの鉄の剣に。
『そういえば、後輩くん。……今、色々な研究が明かされることで理解が深まってきたけど。キミがあらゆる状況に備えていたのは、心身共に常に変わらず一定の出力を出せるようにしていたのは……そういうことかい?』
彼女が取り上げたその議題に、己は首を振った。
『いえ……単なる偶然ですね』
『偶然? それにしては、一致が凄まじいけど……』
確かに、そう企図していた面もある。彼女たちの代わりになろうとするからには必要だとも考えていた。
だが、根本のところで――……。
根本のところでは、それは、そんな打算とはまた違った目的で生じたものであった。
『……単に、定格化されるべきだと思ったためです。揺れる天秤では、判別の基準が曖昧になってしまう。助けも、滅びも、明確に定量化された揺らがぬ基準と規範であるべきなのです。暴力と死はおぞましいからこそ、それを、確かに飼いならさなければならない』
ゆっくりと、言葉を続ける。
『救いというのは……感情ではなく理性から行わなければなりません。感情ではどこかで目減りする。揺れ動く。ある日できたことも、別のある日にはできなくなるかもしれない。受け取れないかもしれない。……それでは救われない。ある日は確かに手を差し伸べた側も、その日には手を差し伸べられた側も、救われないのです。……同様に罰や死というのも、明確な規範でなければならぬのです。曖昧な判断では恨めない。悔やめない。紛れもなく命を奪うものだから――だからこそ、それは、何よりも確かでなければいけない』
それは、己の中の定理だ。
『ふぅん。……ふふっ』
『……何か?』
『キミにしては珍しく、序論と本論に対する本音の比重が逆だと思ってね。それに、それは救う側の視点というより――むしろ、救われる側の視点に近い言い方だねえ。常に一定の出力と基準で助けて貰えなければ、次に助けて貰えるかも判らない』
『……』
『一度助けというものを得てしまったあとに得られないことは、何倍も苦しく、恐ろしく、やがて逆恨みに至ってしまう――というあたりかな。もしくは奪われる側? ……死ぬからには、確実な基準でなければ納得できない……ふふっ。それは何か、キミの経験則だったりするのかい? どうかな?』
『……一般論です』
どこか嗜虐的な銀色の目線に首を振るが、彼女はそれでも諦めずに身を乗り出すように問いかけてきた。
『一般論ついでに……キミが当たり前の人生に拘るのもそうかい? 当たり前の人生を――――ぬるま湯のような平凡な幸福を、自分は与えられなかったから?』
『……』
『ふぅん? ……ならその一般論に聞きたいがね。自分のときは助けて貰えなかったというのに、別の人間がそうされることに対して思うことはないのかな?』
ニヤニヤと笑いながら、猫のように瞳を細めた彼女はこちらを見上げてくる。
『恨み、というのも馬鹿にならない話だから是非とも確認したいのだけれど――――一般論として言うなら、どうだい? 後輩くん?』
笑いながら腑分けするような、銀の目。刃物の切っ先めいた光を持つ瞳。
吐息を漏らし、やがて、口を開く。
『一般論で言うなら……確かにそのことを不満に思う人も出るでしょう。自分が援助を得られなかったのに、他の人間が得られることに不満を抱くこともあるでしょう。……きっと俺にも、間違いなくそんな気持ちはある筈です』
『……』
『でも――――辛く苦しかったからこそ。それ以上に、運良く俺はそれを乗り越える力があったからこそ――――』
一度、目を閉じる。
それから、言った。
『……俺が最後であってほしい。心から、そう思います』
その答えが、彼女の望みに沿ったものなのか、そぐわなかったのかは判らない。
ただ、目の前の銀髪の女性は満足そうにその笑みを深めていた。
『泥を被る自己犠牲とは……ふふっ、実に高潔な精神じゃないか。
『……許せないだけです。そんなものがまだ、この世にあることが。のうのうと蔓延っていることが。……恨むならば、誰でもない筈だ。どこかの誰かではない筈だ』
とは言っても……誰かに助けを求めていた頃は、今よりも、今よりも遥かな前の戦争よりも、その更に彼方だ。もう、
『そういうことにしておこうじゃないか、後輩くん。……ははっ、キミはやはり怒りの人間だね。どうしようもなく怒っている。理不尽という上位者に手足があるなら、その全てを狩り尽くすまで止まらない――と言いたげに』
『……』
『そしてその理不尽に組み込まれて新たなる理不尽を働く者さえも、キミにとっては狩るべき眷属だ。それが虐げられてそうなったものであろうとも関係ない。その時点で理不尽を担うならば、その全てはキミにとって狩り尽くされるに足る存在になるんだ。全ての人類がそうなるならば、キミはその全てを殺し尽くすだろう』
『……』
『上位者狩りの狩人。掛け値なく、そこがキミの一番抜き身の部分なのかもしれないねえ』
軽い足取りの彼女が、ダンスでも踊るかのように身を翻しながらこちらの胸元に収まった。
ぽす、と後頭部をぶつけながらこちらの頬へと手を伸ばした。完成品に触るかのように、愛おしげに。
『まあ、ボクの思った通りで何よりだよ。最強の
猫が喉を鳴らすように、上機嫌な彼女がこちらの頬を軽く叩く。くすぐったい。
獣か何かにそうするようなスキンシップだ。
彼女の内で自分は実験動物や何かだと思われているのだろうか。構わないが。
『"サー"ハンス・グリム・グッドフェロー……秩序の猟犬、鋼鉄製の理性……色々とキミを言い表す言葉があるけど、きっとどれも本当であって本当ではないねえ』
毛繕いでもするように指先を動かし、こちらの胸元から見上げてくる彼女が目を細める。
『キミはただ人間が好きなだけで……だから人間が積み上げてきた秩序に対する想いも愛しているだけで……キミの一面は、反逆であり解放だ。徹底的に揺るがされない個とは、そも集団とは最も異なる存在だよ。ともすると、本質ではある種――秩序とは真逆の人間なのかもしれないね。同調圧力や、非合理な慣習や不均衡な権力も嫌いだろう? 違うかい?』
『……』
『……おや。人魚姫のように声を失ってしまったかい? 久方ぶりだから会話を楽しみたかったんだけどね』
向かい合った銀の瞳は、何か、こちらの内側を覗き込もうとするような光を持っている。
だから、彼女との会話は落ち着かない。
何故、そこまでこちらの内面を見ようとするのか。その理由が判らない。好奇心だとすれば、申し訳ないが、あまり良い心地のものではないのだが……。
『……法のその理念を心から重んじているのは、紛れもない本音です。自由も、平等も、尊厳も、選択も、全て法が守るべき益です。……それらのためにも保たれるべき、秩序というものも』
『ふふ。法が自由を認めているからキミは自由を重んじているのか、それとも自由を重んじているからこそキミも法を認めているのか……。まあ、それに関してはいいさ。人は本当の意味では、自分のことさえ判らない。それは、キミも知っているだろう? 当然、ボクがキミの全てを知ることも無理さ』
『……』
『ああ――……何より大切なのは、今ボクたちは、そんな上位者の一つを狩る機会を手に入れたという点だ。戦争という上位者を、人類の内に住まう醜い獣を、その犠牲という出血を止める手立てを得たんだ」
こちらの胸元から離れ、癖のあるその銀髪を揺らしながら彼女は両手を広げる。
「――――さあ、獣狩りの夜を始めようじゃないか。押しなべて獣は、朝日が昇る前に狩人に狩られるものさ。キミならそれができる……キミになら、それが』
爛々と、彼女の銀の目が輝く。
まさしく宝石を前にした怪盗や金庫を前にした盗賊のように――共犯者として、歓びを湛えながら。
『そういえば、質問が。現実論として、俺を兵器とした際の……この国の武器輸出の禁則事項については……』
『うん? まあ、ハンス・グリム・グッドフェローの戦闘能力を全世界に広めます――――なんてのにいい顔をする筈がない。間違いなく
『……承知しました。では、やはり第三国に販売会社を設立して、ですか』
『うん。そうなるなら、そうだねえ……
『では……そのいずれかに取引会社の設置を。必要なら、俺も国籍を変えます』
退職願は用意している。
あとは転居からの国籍変更で……それも阻まれてしまうなら亡命という形になるだろうか。
『これほど忠義を尽くした祖国を捨てる、かい?』
『俺が尽くしたのは、この国家の理念と国土……国民に対してです。或いは、それを守るためのものとしての組織に対して。……愛着もあります。思い入れも。この国のために戦った気持ちに嘘はありません。この国のために死んでいった幾千もの彼らを思えば、後ろ足で砂をかけることもできません』
一度目を閉じ、想う――――……。
『ただ……俺は、全てにおいての第一主義者ではない。ただ一つの国しか生き残らせられないなら、俺はこの国のために戦うでしょう――――契約で求められたその通りに。或いは、俺が望むその通りに。だけれども……それ以外にも伸ばせる手がある中で、それを止めることは俺の中での理に反します』
『……止めにかかられたら、どうするんだい?』
ローズマリーの問いかけに、頷き返す。
その答えは決まっている。
始まりから、決まっている。
『――――蹴散らします。たとえ何が相手だろうと。誰が相手だろうと。俺の目の前に立つ、その全てを』
部下であろうと。
戦友であろうと。
上官であろうと。
同胞であろうと。
マーガレット・ワイズマンが命を賭して守った国であろうと。多くの兵士の祈りの先であろうと。
何が相手でも、関係ない。俺は俺の有用性を発揮するだけだ――――己が定義した、一振りの刃としての己を。
互いに譲れぬなら、そこには、衝突しかない。
その己を作るために、己は軍に従事した。
それをできる己なのか問いかけること、そんな場を用意させること、そこで己自身を律することを磨くこと――その対価として己は軍に志願した。契約した。従事した。
軍は代わりにその間、俺という暴力を手にした。
そういう契約なのだ。
契約とは対等なものだ。
互いの利がなければ、続かない。
利が失われれば――その日には蜜月は終わりを告げる。思い入れとは、別の話だ。そういうものなのだ。契約は。
『やれやれ。そうなる前に、調整を行うのが人としての道だよ。たとえ純度が下がることになろうとも、形を僅かに変えなくならざるを得ないとしても、妥協できる公約数を目指さなければならない場面がある。……人間の歴史はそうして紡がれてきた。純粋なる水が自然界に極めて存在しないように、理念だけでは成り立たない』
『……』
『落とし所を探るのが、集団としての人の道さ。そういうふうに進むしかないと、ワタシも政治の道に進んでから痛感したよ。結局、どんな政策であれどこかで衆愚にならざるを得ない面もあるんだ。民衆に対してある種の誠実さを持つならばね』
『……は』
あの戦いの日々から改めて政治家としての道に進むことになった彼女の内には、別の見識も生まれただろう。
そんな彼女がこう言うに至ったと言うのであれば――自分から否定できる言葉はない。彼女自身の内なる見解について、こちらが改めさせられる道理はないのだから。
残念だが……残念であるが、認めるべきだろう。
場合によっては、ここで、ローズマリーとの協力の決裂もあり得る。それでは、こちらの要求する水準に届かなくなってしまう。他者を慮って使えぬ剣を生むなら、そんな剣など必要はない。
だが、
『ただ――――ボクから言わせてもらえば、だ』
彼女は、その笑みを深めた。
『はははははっ、やっぱりだ。それでこそ、だね。流石じゃないか
『……』
『だからこそキミは自分自身で首輪を付け、だからこそキミという人間は何よりも面白いのさ。見ようによって、どうとでも変わる。もし本質という言葉があるなら――キミのそれは、怒りという一点だろう』
こちらの肉体を透かすようにそれを見詰める眼差しで、小柄な彼女は、再びこちらの頬へと手を伸ばした。
『その怒りだ。怒りだよ、後輩くん。キミの怒りは心地いい……何よりも煌々と燃え上がり、炯々と瞳に宿る。燦爛たるその炎は、嫉妬ではなく、不平ではなく、執着ではなく、鬱憤でもない。ただひたすらに純粋なる不義への怒りだ。一心に悪徳への応報を叫ぶ。その苛烈で混じりけない炎は、何者も寄せ付けず寄り添わない。罰滅と罪報しか行わない。だからこそ居心地がいい。……我々が一途に知性と真理を求める好奇心を持つかのように、キミのそれは原初の憤怒しか備えていない』
ああ――――……と。
まさしく篝火や暖炉の火に身体を寄せるように彼女は銀の目を細め、癖のある銀色の髪を揺らしながら、喉を鳴らす猫のように吐息を吐き出した。
『その炎は誰に与することもなく、だからこそ誰も裏切らない。何も裏切らない。初めから何の味方でもない。融和も腐敗も妥協もなく――一つの定理のように闇の中に燃えている。定理とは美しさだ。不純物のない機能美だ。殺すことだけを唯一の機能として――……ああ、綺麗な目だ。綺麗な瞳だよ、後輩くん。定理というのは、ボクらにとっては最も身近で安心できるものだからね』
『……先輩?』
それはぺちぺちさわさわしながら言うことじゃないと思うの。
なんでぺちぺちさわさわするの。なんで。
『ところで、あのライラックくんの件だけど』
『ラモーナが何か? ……それと、ハラスメントです』
ぺちぺち。
『例のウィルヘルミナくんとやらの力も――――キミのプランに活かせるのではないかな。
『……なるほど。ハラスメントです』
ぺちぺち。
さわさわ。
『真実のところはどうなるか判らないが――――――因果律さえも超越して過去や未来の流れさえも無視する不変、ともすればここではない様々な可能性においてもキミは残るだろう。始まりも終わりもない蛇の如く……そこにある悪を滅ぼすための究極の刃として』
『……』
ぺちぺち。
『無限角追跡型自動応報装置――――――【鋭角の猟犬:
がり、と。
こちらの肌に爪を立てた彼女が、笑みと共にその血で唇をなぞりながら――――覗き込むように、そう言った。
無限に追跡する滅びの猟犬――。
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