第153話 女主人公(ヒロイン)、或いは最終敵(ラスボス)。またの名をパノプティコンの歯車


 その音は、本来、響くはずがない音だった。

 展開される不可視の鎧を貫き――装甲へと直撃する小銃弾が鳴らす音。

 機体であろうと、生身であろうと、彼にとってそれは変わらない一つの技能だ。

 そして、鋼の巨人に対してはあまりにも頼りないその一矢だけで――――


『操作が……!?』


 内部の流体を乱され、灰色の【ホワイトスワン】が沈黙する。

 ただの一発で、敵機を行動不能に陥らせた。

 ぐいと、フライトジャケットの肩の憲章を引かれる。身体が揺らぐ。彼は、牽制のようにアサルトライフルの弾丸を放っている。

 教会の入り口に横付けされたバンの、右の助手席の扉は既に開け放たれていた。


「待ってくれ、ヘイゼル……シンデレラが……!」


 引き摺られる形のまま、叫ぶ。

 意識を失った彼女は、教会の長椅子に横たわっている。

 彼女は、動けないのだ。意識がないのだ。


「君が止めていてくれれば、俺がもう一機に乗り込む! 乗り込めるんだ……援護を!」

「っ――――なんとかしてやりてえが、今のお兄さんじゃそこまでは無理だ! 続かねえ!」

「……ッ」


 確かに。

 本来のヘイゼルであれば、弾丸一発であのアーセナル・コマンドを瓦解させている筈だ。

 だが、今は、ただ一時的に行動不能にすることしかできていない。

 それも、脂汗を流して――――よほどの集中を要するのか。


「ぐ、……っ、う……! ……ッ、シンデレラさん! シンデレラさん――」

「相棒!」

「――ぁ、う、……っ、」


 残弾は、何発だ。

 それをしている間に、今の自分がここから彼女を拾い上げて戻ることができるのか。

 リロードのその間に、自由を取り戻した敵機の主砲によって撃ち抜かれる確率は。

 そして、ヘイゼル・ホーリーホックがそう判断するということはつまり、それが実現不可能であるというのは言うまでもない事態であり――――


「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ」


 拳に突き立てた爪から皮膚が裂け、血が滴る。

 全員、死ぬか。

 このまま、行くか。

 そんな選択肢など――――答えは一つしかない。


「……っ、う、……うぅ、」


 教会に面した右の座席に――助手席にこちらが乗り込んでドアを締めたのを確認したヘイゼルが、牽制射撃を取りやめ、曲芸めいて助手席のドアウィンドウから運転席に飛び込んだ。


「出してくれ!」

「応! 掴まってな!」


 そして、黒いバンが急発進する。


『マクシミリアン様!』

「私ではなく、ヤツをここで――――」

『ヘイゼル・ホーリーホック相手では、不可能です!』


 そんな機体スピーカーからの声を背中に受けて。

 夜の石畳の街を、無灯火のバンが疾走した。



 揺れる車内で、薄れていた痛みが取り戻されつつある身体が震える。


「クソ……ッ、俺は……俺、は……!」


 死んだように眠ったまま長椅子に金髪を広げて横たわった彼女。

 或いは――意識を取り戻さずに、そのまま死んでしまうかもしれない彼女。

 あの日、あれだけ、助けたかったあの人を。

 好意を告げてくれたあの人を。

 と――そう言ってくれたあの人を。


(俺が……俺が、あの人を……置き去りに……。俺が、あの人を……シンデレラさんを……! 俺が……あんな場に……!)


 奥歯を噛み締める。

 ワナワナと震える拳は、収まらない。


「……っ、〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ、ふざけるな、クソ共がッ! クソッタレどもが!」


 斧を縛った右拳を叩き付けたドアウィンドウが、大粒の雨のように砕けて車内に降り注いだ。

 車が纏う風が車内に吹き込むも、それで気が晴れる訳ではない。

 このまま素手で、この車を平たくしてやりたかった。激情のままに殴り付け、真っ平らにしてしまいたかった。

 頭を抱える。

 このまま蹲って、気が晴れるまで泣きたかった。


「相棒……」


 だが――――こちらを伺うヘイゼルの死線と、残った左目に映る今まさに遠景に臨む燃える街の炎に、一度大きく息を吸う。

 嘆くな。

 悔やむな。

 蹲るな。

 お前には――――俺には、まだやるべきことがあるだろう。


「……すまない。助かった、ヘイゼル」

「ああ。……相変わらずの切り替えだな、相棒」


 腹の底から大きく息を吐き出し、気持ちを切り替える。


「どうして、貴官が……? 休職したと……そう……聞いて……」

「ああ。安心しな、【フィッチャーの鳥】はクビになってるぜ。休職者はいらんってな。おかげでここまでの渡航費が自分持ちだぜ? 経費でおりんのかね、これ」

「そうではない。……大丈夫なのか、ヘイゼル? 何故――何故また、戦いの場に来たんだ?」


 その言葉に彼は軽く肩を竦め、すぐには答えなかった。

 カキン、とオイルライターの蓋が鳴る。

 片手で取り出した煙草に火が点けられた。

 一度煙を燻らせながら、彼はハンドルに片手を載せたまま、言った。


「……戦う理由が、まだ、此処にあったんだよ。お兄さんにも。死なせたくない奴がいるんだ。最後まで、一人でこんな場所にも踏みとどまろうとしてる奴がな」

「……そう、か」

「ああ、そうだぜ。相棒」


 吐き出す煙だけが音として、車内に満ちた。

 上空での砲撃戦と、暴徒の蜂起。

 その類まれなる聴覚を利用して全てを避ける彼は、石畳の街中を器用に走らせながらどこかへと向かっている。


「それで、お前さんは……なんだってあんな場所でアレとやりあってたんだ?」

「不意の、遭遇戦だった」

「……そうかい。でもな、相棒」


 カチャと彼の右手が、抱えるように銃身を肩に寄りかからせてあるライフルの、そのトリガーに伸びた。

 銃口は天井に向いたまま。

 彼なら、その状態でも当てられる。


「なんで、近くにお前さんの機体がねえ? なんで生身であそこにいた? 奴らと、何か打ち合わせでもしてたのか?」

「遭遇は偶然だ。それ以前にマーシュ……パースリーワース公爵に召喚される中で、この騒動に巻き込まれた。シンデレラとはその時から行動をしていたが……」


 本当は、別に、護衛チームがいたが――……ああ、彼らはどうしているだろう。


「先程の彼らとの遭遇に関しては、企図したものではない。だが、やがて関して軍事法廷が開かれた際には証人としての出席を求めたい――と。マクシミリアン……向こうの指揮官が……俺のかつての友人がそう言っていると、シンデレラから聞いていたんだ……だから……だから、俺は……」


 そしてそれは結局、ただの欺瞞であり口実だった。

 そうして、ああなった。

 彼は忘れたのか、捨てたのか――……。

 世界を変えていくのは、一つ一つは小さく――しかしはてどない人々の善意と献身だけなのに。まさにこの街で戦火に焼かれているような人々の、紛れもない一歩ずつ歩みのその果てなのに。

 そこに近道もなければ、一足飛びの解決もない。

 俺や彼のような個人ではない多くの人々が、ほんの少しでも昨日より明日を良くしようと築いていくものの果てだというのに――――……それを守るためにあるのが法であり、秩序であるというのに。

 彼は、それを捨て去った。そして自分を討とうとした。


「わりぃな。ただでさえ辛いところに……とやかくと言われたくねえかもしれねえが、言うぜ」

「……ああ。続けてくれ」

「なんだって、すぐに相手を撃たずに……俺が来るまでいつまでもそうしてたんだ? お前さんらしくもねえ。旧友だからと、会話に付き合ってやってたのか?」

「……いや。手持ちの武装が不十分で、こちらも時間を稼ぐしかなかったんだ。本当のところ、俺には、勝ち筋が限られていた……向こうがこちらの警告によって諦めるか、それとも上空からの流れ弾を待つか……。まさか貴官が来てくれるとは思わなかったが……」


 そうでなければ、可能な範囲で時間を稼いで僅かにでも己を回復させたその上で、マクシミリアンを昏倒させて伴いつつ――無理矢理に空いている機体に乗り込むしかなかった。

 それは、賭けだった。

 あの身体で、本当に実行しきれるか判らない。

 即座に選ぶべしと決定できない、賭けだったのだ。


「悪かった。よくわかった。……俺も、お前さんにそんなことが言いたかった訳じゃねえんだがな」

「いい。判っている。むしろこれで、貴官が俺の潔白を信じてくれた……と、それを良しとする」

「……初めから、そこは疑っちゃいねんだがな。まあ、形の上では……しとかねえとな」

「ああ」


 何度か、ヘイゼルが煙を吐き出す音だけが動く車内に響いた。


「それで……お前さんはどうするつもりだったんだ、相棒?」

「ああ。これは……基地に向かっているのだろうか? なら、願ってもない。アーセナル・コマンドを確保する。今すぐに彼女を――シンデレラを救出し……それだけでなく、速やかに救助を行うべき相手が、いる」


 つもりだったのではない。

 つもりなのだ。

 そう頷けば――――急にブレーキを踏まれた。強い制動音と共に車体が揺らぎ、フロントガラス前まで身体を揺さぶられた。ゴチンと、頭を打つ。

 痛い。

 ヒリヒリする。

 急ブレーキは良くない。不慮の脱出に備えてシートベルトもしてないのに。


「バカ野郎! そんなザマの奴が戦いに出られるか! お前さんはどう見ても集中治療室行きだろうか! 鏡が見れねえのか!? 目玉が潰れてるし、あちこち骨だって折れてるんだぞ!?」

「でも……約束、したんだ……。怖いだろうに……不安だろうに……なのに、俺たちの邪魔にならないように、そこに、残ると……決めてくれて……待っているんだ。そんな人たちが……そんな多くの人たちが、助けを、待っているんだよ……この街で……」

「相棒……」


 戦時下で女性に与えられる暴力など、想像がつく。幾らか見もした。それにまさに彼女たちは、自分たちが救助する前にそれに巻き込まれていた。

 なのに――……応えてくれたのだ。ああして。応えてくれたのだ。


「だから、助けに……行かないと……。俺は約束したんだよ、ヘイゼル……。あの人たちに……待っててくれと、言ったんだ……必ず助けに行くと、言ったんだ……」

「……バカ野郎が」


 そのウェーブを持つ黒髪を掻き毟ったヘイゼルが、盛大に煙草を灰皿缶に揉み潰した。


「お前さんのことだ。ビーコンぐらいは渡してるだろ? それがあれば――別に行くのはお前さんじゃなくてもいい。そうだろ?」

「……ああ。だが、貴官は……今は……本調子では……」

「死にかけのお前さんよりマシだってんだ。それに、お兄さんを誰だと思ってやがる?」

「だが……」


 言いかければ、彼は新たに火を点けた煙草を一吸いして、有無を言わさず――そして言わせぬために、こちらの口に押し込んできた。

 車内に紫煙が広がる。

 思わず噎せて、その咳が引き攣るように肋骨に響いた。


「お兄さんと入れ替わりでお前が抜けてちゃ世話ねえだろうが。……休め、グリム。お前さんがそれでも戦えるってのは判る。俺がよく知ってる。。……これ以上、言う必要はあるか?」

「いや……。貴官がそう言うなら、従おう。ただ……危険だというのは……」

「判ってるぜ、相棒。あの教会のもそうだし、来る途中でも見かけた。なんだか見たこともねえ機体が随分といやがる。……正直、キツいかもしれねえが……まあなんとかするさ」

「ヘイゼル……」


 そして再び、車が動き出した。

 無言で、また、二人分の煙草を吸う音だけが響く。

 やがて彼は、ポツリと言った。


「……シンデレラの嬢ちゃんのことは、すまねえ。置き去りにしたのはお前さんじゃねえ。俺だ。連れて来れなかった。二度も俺があの嬢ちゃんを――――」


 悔いるような彼の声へと、首を振り返す。


「……最終的に決めたのは俺だ。それにまだ……あちら側に、何か、彼女のあの状態に関しての知見があるかもしれない。そして、今あの組織は象徴であるシンデレラに対して何かできまい。既に――……そういう段階にある筈だ」


 彼女が意識を失ったことに動じてなかったあたりは、おそらく、彼らにも予想の範囲内だったと思いたい。


「……そうかよ」

「ああ……」

「そうだな。……お前さんがそう言うからには、そうなんだろうよ」

「……ああ」


 もしそれが読み違えであったなら――……そうであったなら、そのときは……。

 或いは、彼女がその場に自分がいないことをマクシミリアンに問い詰め――……その果てにかつての【フィッチャーの鳥】から抜け出したときのように行動し、もし、撃ち落とされたなら……。

 そうでなくとも、不都合と思われて、物理的にその意志を挫くような行いをされたなら……。

 そう思うと、叫び出したくなる。


(すまない、シンデレラさん……あの日、君を守ると誓ったのに……! 君を守りたいと思ったのに……なのに……! それだけの力を得た筈なのに、俺は……俺は貴女を……! 俺は……!)


 泣き叫びたくなるそれを押し込める。

 生きていてほしい。生き続けてほしい。

 こんな辛く苦しい場所ではなく――――煙と炎しかない場所ではなく。明るい場所に、戻ってほしい。

 軍人としてのハンス・グリム・グッドフェローではなくただの一個人として……心の底から、あの娘の幸福だけを祈りたかった。あの娘がこの先も生きていけることを、いつかどこかで――何かの幸せを掴めることだけを祈りたかった。


(シンデレラさん。……生きていてくれ。必ず、必ず迎えに行くから……どうか、生きていてくれ。絶対に、君のところへ行くから……!)


 もしそれが那由多の軍勢の彼方であろうと。

 そこが三千世界の果ての地平であろうと。

 その姿を、忘れない。

 その匂いを、忘れない。

 翼が全て折れようとも――――――必ず。必ず君を、助けに行くから。

 お願いだから、どうか、ただ、生きていてくれ。


「んじゃ、少し目を閉じてな。でも呼んだら返事はしろよ。お兄さんを残して勝手に逝くんじゃねえぞ? 地獄まで追っかけてって、王子様のキスで目覚めさせるぜ?」

「……ああ。わかってるよ、ヘイゼル」

「遠回りだが、基地を目指す。道路沿いに丁度いい場所がある。基地のフェンスにぶつかる三秒前にはアナウンスしてやるよ。……少しでいい。大人しく寝てな。いいな?」

「……ああ」


 目を閉じる。

 唯一残った左目を、閉じる。

 すぐに――――声が浮かぶ。この世の誰よりも愛しい少女の声が。その金色の髪と瞳が。

 全ての終わりを願っていたあの心優しい少女の姿が。



 ――――〈はい!〉〈あの、【フィッチャーの鳥】の行動を……あの街での行動を〉〈多分、グレイコート大尉は訴えるみたいなんです!〉。

 ――――〈それで……大尉に〉〈その、そうなったとき……〉〈証人として来てほしいと思ってて……〉。


 ――――〈〉。



 バキ、と。

 気付けば、右手の内の斧の柄が砕けていた。

 拳を強く握り締めてしまっていたらしい。

 這いずる中で歯を突き立てて抉れた右手の付け根から、強く血が吹き出した。手のひらに木片が突き刺さる。


(ああ――――……)


 俺を騙したことは呑み込もう。

 俺を殺そうとしたことも呑み込もう。

 だが――――あの少女を。ようやく、正しい形でこの戦いが終わるということを喜んだ少女を。あれだけ擦り減らされてもまだ秩序と善の傍に立とうとしていた少女を。法の下での解決を願い、正しさに寄り添おうとした少女を。

 シンデレラ・グレイマンを。

 その善意と献身を。


 使


(マクシミリアン・ウルヴス・グレイコート……!)


 それだけで百度殺しても飽き足らない。

 お前が生まれ変わるなら、そのたびに臓物を抉り出して苦悶と絶望の中で死なせてやる。家族の前で目玉を刳り抜き、四肢を引き千切り、骨という骨を砕いた上で爪先から肉を削ぎ落として腐らせて殺してやる。その顔面が平たくなるまで拳を叩き付けてやる。ガソリンを頭から浴びせて、生きたまま焼き尽くしてやる。

 叶うなら、この手でその顎を上下に引き裂き、五体を引き裂き――今すぐにでも豚にでも喰わせてやりたかった。

 望み通りに。

 何もかも――――まずは貴様から平たくしてやる。二度とそのふざけた言葉が喋れないように。貴様を成り立たせる何もかもを


「ふー……」


 吐息を一つ。

 意図的に拳に籠もった力を抜く。

 それで、意識を切り替えた。

 苦難の中でも己を立たせるために怒りを用いるということは、こんな、報復の激情を抱くことも裏腹だ。

 それを眺めろ。そして知り、切り離せ。

 私情では動かないと決めている。怨嗟と憎悪の果てに行きつける先などない。のだ。私怨を捨てろ。私刑を行ってはならない。


 それでも法定の度合いを超えて彼に手心を加える理由の一切はなくなった――――……少なくとも、その恨みを抜きにしても彼は信頼可能な交渉対象としての地位を放り捨てたのだから。

 決定的な場面での欺瞞とは、それに当たる。

 ……ああ、そうか。

 マクシミリアン・ウルヴス・グレイコートは――自分にとって、殺さなくてはならない男になってしまったのか。


(……いいや、違う。そこは、違う。誰であろうと変わらない。は、俺の理由にならない)


 そうだ。

 単に――――投降するならそう扱い、そうでないなら無力化または撃墜する。

 その線は、変わらない。

 彼がこちらを裏切ろうと、俺が激しい怒りを感じようと、彼が一度それを行った人間であろうと、そこを違えてはならぬのだ。


 マクシミリアン・ウルヴス・グレイコートも、ただ、一個の生命にすぎない――――――。


 法に従い、規律に従い、規範を守る。

 そこを違える気はない。

 お前がどう思おうとも――――俺のそれは、変わらない。

 永劫と変わらぬ、のために。



 ◇ ◆ ◇



 ぱしん、とコックピットの中に乾いた音が木霊した。


「ふざけないでください!」


 脊椎接続アーセナルリンクを前に意識を取り戻したシンデレラは、片足を失って同じコックピットに詰めるマクシミリアンの頬を勢いよく張っていた。

 目覚めて、経緯を聞かされて。

 その瞬間、思いっきり平手を見舞っていた。

 だが……ゆっくりと頬を戻した灰色髪の彼は、言った。


「私は、懸念していたのだ。あの男が……今この世界で、どこに行き着くのか。滅びかけのこの秩序の中でどこまで祭り上げられるのか。そうなったら何が起きるのか。あの論理が大衆の規範にされる日がくる。人々に都合よく、誤った形で。そうなってからでは、あまりにも遅い。だから――……そうなる前にあの男を取り除けるのは、ここしかなかった」

「それがおかしいと言ってるんです!」


 ハンス・グリム・グッドフェローという英雄が、この乱れかけの世界で民衆にどう扱われるか。

 そして、だからこそ騙し討ちによる排除を決定したと。

 そう聞いたときに、シンデレラには怒りしかなかった。

 それは、愛した男を騙されたから――


「残念だが……起こりうることだ。君がいくら認めたくなくても、世界はそう傾き――――」


 ――――


「違うでしょう! 貴方は、と思い込んでいるだけだ――――――!」

「――――――!」

「世界がそうなってしまうなら、何故そうを戻そうとしないんですか! そうすることが正しいのに……何故貴方は取り除いて、ただ切り捨てる方に向かうんですか!」


 二の句を告げないマクシミリアンの胸元を、少女の小さい手が掴み上げた。


「おかしいと思わないんですか! いつか、どこかの誰かが大尉のやり方を間違って行うかもしれないから……だから今ここで助けられずに死ねと、この街の人にそう言うことが! 助けようとしていた大尉の邪魔をすることが! の責任を、今この街の人たちに取らせることが!」


 険を増した黄金の瞳が、正面からマクシミリアンを射抜く。聖剣の輝きにも似た金色に輝く瞳。


「大尉も! この街の人々も! 貴方は切り捨てて、ただ楽をしたいだけじゃないですか! 誤ってしまう世界の方に呼びかけるのが難しいから! 遠いから! だから仕方ないのだと言って殺そうとした! そうすべきなのに……一歩一歩そうすべきなのに、そうしていくしかないのに! 貴方は何かを取り除けば良くなると思い込んだ! それだけでと勝手に!」

「――――」

「そんなもの、当たり前に大尉が受け入れる訳がないでしょう! 大尉でなくたって受け入れられる訳がない! 貴方は自分が払うべき手間を、この街の人と大尉に押し付けただけなんですよ! 生贄みたいに!」


 有無を言わせぬ――そして何も返せぬ正論だった。


「おかしいと思わないんですか! それが危険だと言うなら何故――――何故、そう大尉の真似をしようとする人の方を正そうとしないんですか! それを直そうともしないで! 助けになろうともしないで! そういう難しさから逃げて! 楽をして! それが正しいと思い込んで!」


 それでは間に合わない。

 拙速を尊んだ。

 そんな言葉を正当化させないだけの、真なる正しさが目の前にある。

 ただ、善というその星を見続ける光がある。


「一体何故――――何故貴方は正しさなんて口にできるんですか! 大尉の邪魔をして! 街の人を見捨てて! 勝手に人に絶望して、人の命を食べようとしているのは――誰でもない貴方の方でしょう! 恥ずかしくないんですか、そんなを正しさという言葉で飾って!」


 ストン、と。

 呑み込むまでもなくその言葉が――――腑に落ちた。

 真っ直ぐに向けられる金色の眼差しは、正しかった。何よりもきっと、彼女のその輝く瞳は正しかった。

 今になってマクシミリアン・ウルヴス・グレイコートは、何故、黒衣の七人ブラックパレードたちが彼女の元に集ったのかを理解した。


 善なる火。

 その継承者。


 そんな象徴のような慧眼を――――持つのだ。この少女は。羅針盤のように。

 そういう人間に、なったのだ。

 シンデレラ・グレイマンという少女は。

 灯台の放つ灯火のように。

 角灯に詰められた聖火のように。

 この戦いの果てに――――年若く未熟であった筈の彼女は、そこに至ったのだ。


「……君を軽んじ、話をしなかった。それが私の誤りか」

「どうする気なんですか……せっかく、せっかく大尉にも協力してもらえると思ったのに、全部台無しにして……」


 確かに――――その点を見てしまえば、マクシミリアンの行動は明確なる失態なのであろう。

 しかし、それとこれとは別に。


「……だが、結果として見えたことがある」

「なんですか、一体」

「あの男は誤りだということが。……私が抱えた懸念の、その解決は君の言うように誤りだったのだろう。だが――それとは別に、あの男の行き着く果ては、やはり誤りなのだ」


 想い人を貶されたというのに、そのことに腹を立てるのではなく。

 マクシミリアンの口にした懸念に対して怪訝そうに、シンデレラ・グレイマンは眉を寄せた。


「なんですか。ちゃんと説明してください」

「その前に……確かめねばならない」

「……そうですか。でも、わたしも立ち会わせて貰えますか? グレイコート大尉は、ハッキリ言って信用できません。また同じことになるんじゃないですか?」


 信用ならない、という目。

 人間性を――ということではなく、技量を疑うような目だ。

 それも間違いなく無理のない話だった。

 焦りすぎて誤った――――と、あの一件に関してはシンデレラにそう断じられて然るべきだろう。結果として、より恐ろしきハンス・グリム・グッドフェローのを突き止めることにもなったが。


「とりあえず降りてください。邪魔です」


 冷たく告げる瞳に、頷く。


「……ああ。君の怒りはもっともだ」

「嫌っている、ってことじゃないです。腹は立ちますけど――……すっごい怒ってますけど。それでも今貴方に死なれる訳にはいきませんし、わたしは誰かに死んでほしい訳じゃありません」

「では……」

「怪我人を載せたままだと、戦えないんです」


 白銀の騎士のコックピットの中に、レーダーと拡大画像が浮かんでいた。

 そこに映る二機の機影。

 戦鬼めいた赤銅色の強襲騎士と、青い人花めいた侵食騎士。

 それらが、【フィッチャーの鳥】と争う保護高地都市ハイランド連盟のコマンド・リンクスや第二世代型アーセナル・コマンドを次々に撃墜している。

 黒の狩人ブラックハンター

 そう銘打たれた突起戦力の二機を前に――


「この相手は――――わたし以外に、できない!」


 シンデレラ・グレイマンは、そう言い切った。

 そして――マクシミリアンをローランドへと預けた彼女は、飛翔する。

 焼け落ちる都市の上空へ。


 始まりの駆動者リンカーと、狩人連盟ハンターリメインズの最高戦力に目掛けて。



 ◇ ◆ ◇



 その炎に包まれる都市の光景を、無菌室めいたラボに座す波打つ銀髪の女性はコーヒー片手に眺めていた。


「うわあ、凄いことになってるねぇ……」


 スクープとして幾度とリピートされる映像。

 おそらく――――宙を舞う粉塵にはガンジリウムが含有されており、通信というのは十分に出来やしまい。

 録画した映像をどこかから有線で流しているのだろう。

 だから、最新の絵にはならないのだな……と思いながら、白衣に身を包んだローズマリー・モーリエはそれを見詰めていた。


 歴史的な会談の日に起きた暴動。


 それを前に――――ふと、思い出していた。

 同じ場所で。

 あの、レッドフードが巣立ってからの数日後のことだったか。

 頭部までに侵襲した破片の摘出手術に望む前に、黒髪の青年が……言ったのだ。かねてより話していた、その計画を実行すると。

 三つの聖なる釘ホーリーネイルのような装置を前に。


『今回の件で、痛感しました。……このままだと、俺はどこかで死んでしまうと』

『まあ、戦争だからそういうこともあるだろうねえ。人は無敵じゃないんだから』


 それは嗜めるつもりで言ったものでもあったし――……同時に別のことを期待してもいた。彼ならば、そんな当たり前とは違う何かの答えが返るのではないのかと。

 ローズマリー・モーリエがハンス・グリム・グッドフェローに期待するのは、交流を続けるのは、ある意味では結局のところはそこなのかもしれない。

 道理を無理で押し通る。

 かつての航空力学で熊蜂が形状的に飛行不可能とされながらも現実として飛行していたように。或いは――ガラスケースの中の幾らでも見慣れたマウスやモルモットが意図的にトンネル効果を起こして水槽の外に出るのを目撃したときのような、と表現したらいいか。

 折れた翼を羽ばたかせながら意思一つで光速の壁を越えようとするかのごとく――……ひょっとしたらと、思わせるものがある。

 だから、


『……それだけではなく、人の一生では短すぎる。戦い続けられるだけの時間が。俺が如何に技能を磨いたとしてもそれを発揮できる時間が少なすぎる』


 ふむ、と頷くローズマリーを前に、続けて彼は信じられない言葉を口にした。

 その先の言葉を聞いたときに――彼女がしたのは、高らかな哄笑だった。

 

 最高の表現をぶつけたくなるほどに、ハンス・グリム・グッドフェローのは魅力的だった。


『――――お願いします、先輩。俺はこれをやらなければならない』

『そうかい? いやあ……でもそれをしたところで、国や市民から君に何かが返される訳でも……見合った対価を得られるとも思えないけどねえ?』


 ニヤニヤと、その覚悟を試すような言葉を浴びせる。

 それでも――――ああ、分かりきっている。

 彼の言葉は、決まっている。


『いいんです。俺はもう、十分に授かった。幸福すぎるほどに、恵まれている。……次は俺の番だ』


 荒野を往く殉教者。

 高潔なる精神の踏破者。

 進むのだ――――はてどなく。折れた翼でさえも飛翔し、その青年は往くのだ。

 そして、その精神と人格を完全なる電気信号に変換するという聖なる釘は、その日、彼の脳に打ち込まれた。

 ……そう。

 は――――つまりという意味だ。


 骨身にまで法秩序を染み込ませ、それを決定的な行動規範として飛び続ける魔剣。

 自動で振るわれ続ける――――応報の剣。

 余分な感情や葛藤を切り捨てた先にある人格とも言えない人格を搭載した、生きる魔剣。主なき天秤。形を持った機構。


 彼の言動や性格がシステムじみているのではない。

 本当に――――……そこに目掛けて飛んでいるのだ。彼というその男は。


「ふ、ふ……ああ、本当に面白いねえ。ボクが何か仕込んだら、台無しになると思わないのかい? それでもやるしかないのかい? 考えた上でそうしているのかい? キミは分かり易そうで、全然違うからねえ――……」


 実直に示されるからこそ、彼の言動は全てが本心に聞こえてしまうが……実際のところ、別だ。

 何を言ったかではなく、それが何を目指しているかから見た方が早い。あれはそういう青年だ。零される言葉に囚われても、仕方がない人間なのだ。

 だからこそ、本当に面白い。

 分析のしがいがあるというのは、ローズマリーにとっては飽きさせないことを意味した。正気を決定的に突き詰めた狂気の沙汰ほど面白い。

 そうニヤつく中で、ふと――――電話が鳴った。


『……お伺いしたいことがあります』


 彼とは違うもう一人の後輩。

 あの都市からの通信はおそらく途絶している筈なのに、何故――と考えてから頷く。

 きっと何か有線での通信方法に介入した。

 ローランドがいるなら難しくはないかと、そう彼女は頷く。


「うん? ああ、その分だと気付いたのかい? そうだよ。ボクが彼に頼まれてね、そういう装置を移植したとも」

『貴方、は――――! それがどれほど危険なのか、判っているのか!』

「危険?」


 その言葉に、はてと考え……


「あー……キミたちまた行き違ったのかい? たまにやるよねえ。二年に一度くらいは。……いいかい? それは学生の頃ならいざ知らず、いい大人がしていいこととは思えないものだ。実のところ、仲違いというのは成人後ほど厄介だよ。時間の感覚が子供とは違うからね。子供なら数日や数週間で終わったことが、大人ではもっと長期に及ぶ。そうしているうちに疎遠になって――」

『そういう話をしているのではない、ローズマリー・モーリエ! あの男は全てを焼き尽くす! 全てだ! その領域に辿り着こうとしている! そんな男を滅ぼしようがない存在に変えて、貴女はどのように責任を取る気だ!』

「……責任? 焼き尽くす?」


 ふむ、と頷く小柄な彼女は銀髪を靡かせて肩を竦めた。


「それは、機能性の話かい?」

『奴の精神性と危険性の話だ! 何ひとつに拘らないあの男がそうなることがどれだけ恐ろしいか、理解していないのか!』

「うん? 機能性と危険性と可能性は、分けて考えた方が身のためだよ。ごちゃまぜに語るから変に危険視することになるんだ」


 やれやれ、と口を開く。


「機能性として、全てを焼き尽くす性能が求められた。この場合は精神性もそうかな。……当然、危険性として全てを焼き尽くすことがあげられる。そして将来的にそれが現実に発現してしまう可能性があるが――――全ては別のことだ」

『何を……』

「熱核兵器と同じじゃないか。都市を焼き尽くす機能性が必要なので、それを目指して作られた。当然、危険性も都市を焼き尽くすというその点だ。或いは世界を焼き尽くすということかな。では――現実にそれが起こるだろうか? そう運用するだろうか? いいや、確かに起こるかもしれないね。だが、起こるとしたら機能性と危険性ではなくによってそれが起きるんだよ。誤射であったり過剰防衛であったり策略であったりね。だから、全部まぜこぜに考えるのはやめたまえ。論ずるならば、それらの可能性が低減可能なのか改善可能なのかそうではないのか、から語った方がいい」


 まだわかりにくかったかと、電話越しの沈黙を前に吐息を漏らした。


「包丁は肉を切る機能性が求められて、人を刺せる危険性がある。そしてある事件では現に人を刺したが――……それは『偶然人を刺す事件があった』だけで、肉を切る機能性を求めることが誤りでもなければ、人を刺せる危険性を初めから判りながら作ったことが誤りでもない。無論、危ないのは確かだが……その可能性とは、利便性や必要性との綱引きで飲み込まれて実装される。それぞれ全く別の問題だろう?」

『あの男のようなことを……!』

「事実だからね。それについて語ったら、当然その結論に行き着く。ワタシと彼に限った話ではないよ? ある程度物事を見ていくとそこにしか行き着かないんだ、これは」


 淡々と喋る彼女は、人里離れた森に住まう賢者の如き口調だった。

 それが、通信の向こうのマクシミリアンを余計に苛立たせたのか……。


『貴女は……倫理観というものが、ないのか……!』

「倫理観?」

『外れ値が偶然出ただけの一言で――そこの犠牲者を置き去りに語る気か! 一体それで誰が納得する!』


 吠える彼の声を聞いてなお、白衣に包まれたその博士にして議員である矮躯の女性は、飄々と零すだけだ。


「うん? 必要なのかい、納得それ

『それを……倫理観がないと言うのだ!』

「何事もそうさ。運用上の問題というのは、ある。ワクチンと同じだよ。何万分の一ぐらいは死ぬ例も出るだろう。それでも有用なので使う。ボクらの歴史はそういうものの積み重ねだろう? 道を走る車もそう、包丁も、銃もそうだ。その点と何も変わらないよ」

『その何万分の一を引いた人間に向かって……一体どんな言葉をかける気だ!』

「そう言われてしまうと……お気の毒サマ、と言うしかないね。次に同様の事例が起こらないように改善していくしかない。法整備が進めるか、あとは補償を行うことぐらいかな。残念だけれども、他に手の施しようがない事例だ。そも……まず生存が絶対の当然という価値観を捨てた方がいい。押し並べてそれは勘違いだ。現実では、何事も、確率的に生き延びられているだけさ。生存の絶対性とはあくまでも努力目標なんだよ?」

『〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ、貴様らは!』


 人の価値観の通じぬ上位者と、そう言いたげな叫びだった。


『貴様ら二人が世界を揺るがすその機構を作って、一体どうその咎を背負う! 何故その犠牲が許される!』

「うん? ああ、安心したまえ。最終的には国家の承認も得るつもりだよ。というか、彼とボクがそれを抜きに話を進めると思うかい? 流石にそこを避けては通れないからね。世に出す以上はそこまで責任を取るし、都度改善もするさ。そんな当然を、鬼の首を取ったように言われても困るよ」

『〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ、そういう話ではないというのに……! 何故お前たちは……!』


 その口調を前に、ハンス・グリム・グッドフェローとマクシミリアン・ウルヴス・グレイコートはもう既に何らかの訣別をしたのか、とローズマリーは頷く。


『それに奴は道具ではなく人間だ! 道具と同列に語るのは誤りだろう!』

「うん? ははっ、今更なんだい? キミも行き着いたのではないのかな? 道具だよ。そうなった彼は、ツールだ。機構そのものだ。言わば、鍛冶師が刀を打っているのとそう違いはないよ」

『だから――――そうするなと言っているのだ! それに単なる道具による人一人の死ではなく、世界を滅ぼしてからでは遅い! それを知りながら作ることと起きることに責任がないとは言わせない! 深刻な問題だろう! そんなものを作り上げて……どうする気だ!』


 激昂のままに叫ばれる言葉に、肩を竦める。


「必要だからだね。それ以外にないよ」

『必要……必要性と、貴様らは、また――――――! そんな言葉だけで、人の死を――――!』


 電話口の向こうで、がなり立てるマクシミリアンの姿を幻視する。

 三人でのやり取りのときは確かにマクシミリアンはそういうブレーキ役を買って出るのが多かったが――……それでも今のこれは、ローズマリーにとっては溜め息しか出ないものだった。


「先ほどの指摘についてはある意味で正しさがある。誰かが聞けば、キミが正しいとも思いかねないね。ただ……期待外れだ」

『何を――――』

「やれやれ……ボクが言えた義理ではないが、キミは今の状態を脱するべきだよ」

『なに……?』

「否定するにしろ、もっと考慮したまえよ。先程から、場当たり的にそう言っているふうにしかなっていないと気付いているかい?」


 ふう、と口から息が漏れる。


「まず一点。必要性を咎めるその口で、おそらくはから彼を排除しようとしたことに矛盾は感じないのかい?」

『――――っ』

「自分の必要性はいい、彼の必要性は駄目。……キミがそう区別することの、合理的で普遍的な判断基準は何から導き出されている? 例えば世界が滅びてしまうかもしれないレベルの災厄においては必要性の名の下に犠牲を強いていい――――とキミが定義するなら、同時に我々もそれほどの危機を前にその必要性の判断をしているとは考えているかい? その場合、それでキミは肯定できるのかい?」


 淡々と、彼女は続けた。

 彼らと大学で出会ったときのディベート&スピーチサークルのそれのように。


「何故我々がそこに行き着いたのか……そして危険性についても、より改善すべき危険性なのか、改善が不能な呑み込むしかない危険性なのか。まずその必要性とやらは本当に真実なのか。他の代替手段が存在しないのか。そこを分析して語りたまえ。でなければ有用な議論にならない。我々も、問題があるなら改善したいんだよ。……本来のキミなら過不足なくできる筈だ」


 【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】の協力者になるにあたって、あの大戦の最中に後輩のマクシミリアンに何が起きたのかを薄々と感じ取っていた。

 衛星軌道都市サテライト首脳陣の暗殺。

 最終的に全ての幕を引いたのが彼だからこそ――――それはマクシミリアンに十字架として伸し掛かったと。

 つまりは、二点。

 本人の意識はさておき……絶望的な厭世と民衆への不信。そして、除去による解決という成功体験。


『その非人道的な言葉が……おかしなものだと、何故思えない……! 他人事のように――命というものの重さを見ず……!』

「……はあ。そんなことしか言えないなら、もう電話を切っていいかい? 無意味な議論に価値はないんだ」

『何……? 無意味では――』

「今のキミはどう答えられても『それが問題だ』とただケチをつけようとしているだけだよ。鏡を見てまず襟を正し給え」


 半ば失望気味に、ローズマリーはそう告げた。


「子供の素朴な意見が真実を見るとか――愚者だからこそ真相に行き着くとか、そういうのはフィクションの中の誤りだ。素朴な意見なんて誰にでも言えるものはね、とっくのとうに議論において前提にされているんだよ。いいかい? いつだって議論というものは、専門的な知識の元に討論と分析を慎重に重ねて行き着く先にしか光明はない。バカな活動家が解りやすく言いたがるものなんてのは、クソの役にも立たないんだよ。知性への乱雑な逆行主義はやめたまえ。人類の発展への侮辱だよ」

『その……そんな言葉を言える傲慢さが……!』

「はあ。……うんざりする。きっとそんなふうに言われなかったかい? いい加減にしたまえよ。キミも随分と鈍ったものだね」


 研究者としてのローズマリーは、彼のことを憐れでもあると思っていた。先輩としてのローズマリーは、そのことにも気にかけてやりたかった。

 だが――議論の場において立つのは、常に前者だ。

 更に今は気の毒さよりも、辟易する気持ちが勝っていた。そういう系統の憐れさだ。


「今キミは、深刻に愚かな誤謬に陥っているとしか言えないね」

『愚かな……?』

「一つ教えてあげよう、マクシミリアンくん。愚かとそうでないことの違いを。何を持って愚かと呼ぶのかを」


 コーヒーを一度啜って、ゆっくりと言った。


「愚かさというのは――――――だよ」


 それは彼女なりに多くを通じて得た結論だ。


「ワタシなりに今まで見てきた愚かな人間についての共通点を教えてあげよう。愚者は皆、例外なくそうだ。おそらくは人類の進化の過程でそういう機能が何らか生存のために必要とされてしまって……現代社会に対応できない脳がその誤作動を起こしているのかと思われるが……っと、これは余談か。まあ、全て余談だからいいが……」


 一度息を入れて、言い直す。


「彼らは、自己の論に固執するあまりに……常にゴールポストをズラし続けて自分の理屈を強弁する。


 思い返すのは、かつて大学時代に三人で巻き込まれた幾つもの事件だ。

 他にもあるが――……おそらく、この三人に関しての話をするなら、これが最も早いだろうか。


「キミもワタシも彼も巻き込まれたあの事件にもいただろう? 誰かを犯人と見て――だからこそどんな言動も、。彼らの中の容疑者が犯行とは関係なく料理のために包丁を手にしたとして――……それを恣意的に一部分だけ切り取って認識し、次の犯行の準備だったとか凶器集めだったとか言い出し、否定されるそばから今度は『凶器にしようとしていたが諦めただけ』とか『そんな道具を見つめていた時点で怪しい』とか『怪しまれる行動をしていた時点で問題がある』とか『そういう人間性が犯人らしい点だ』とか、ゴールをズラして自己の論に固執する。これが愚者のだ」


 聡明な彼女にとって、それは侮蔑に近い。


「それが愚かさだ。キミは――おそらく、とっくのとうに彼に対してキミの中での十分な不信感を抱えた。


 おそらくは、ハンス・グリム・グッドフェローに刃を向けられたその時か。それとも、メイジー・ブランシェットが死んだあとか。

 その思索は正しいかもしれないが――――それはだ。

 大切なのは、今そこで一致しているか否かではない。

 そんな考え方をすることが、問題なのだ。過去や現在においてその懸念が一致していることと、その先も通じることは別の話だ。分けて考えねばならない。

 円と直線に一時的な交点があったとしても、その形は同一ではないのだから。真理や公式とは、それだ。


「そういうのをなんと言うか知っているかい? だと言うんだ。陰謀論者や反ワクチンなんかと同じだよ。素晴らしい反知性主義としか言えない。ああ、実に人類の進歩というのは目覚ましいね……そんな馬鹿者さえも養って生きていけるようにしたのは、素晴らしい懐の深さとしか言いようがない! 実に結構じゃないか! 愚行権を発揮しても生存が許されるのは、紛れもなく人類社会が高度に発展したからだ! 野生状態ならば愚かは死に直結するからね!」

『……』

「……ハハッ、おや、これは差別発言になってしまうかな。不味いねえ、議員なのに」


 愉快そうな口調は、突如として――冷めた。


「その、お気持ち有罪やお気持ち表明みたいなのはいい加減にやめたまえよ。建設的な議論ができない。そして――今この世界で、キミの立場の人間のそんな愚かさを受け入れるだけの余裕はない。ワタシはそう見ている。転換点なんだよ、これは。今日という日は紛れもなく歴史書に刻まれて語られる一ページになる」


 テレビの向こうで燃え盛る都市を眺めながら、呟く。

 ハンス・グリム・グッドフェローがどの段階から懸念していたかは定かではないが――――あの聖釘を仕込む段階で、彼はきっと思い至っていた。【星の銀貨シュテルンターラー】戦争のその先も争いが続くことを。

 衛星軌道都市サテライトの攻撃に端を発した戦争の、その延長が今日の日の【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】と【フィッチャーの鳥】の争いの根源だ。

 ならば、それは続く。また同様に今回のそれを契機に、次なる争いが引き起こされるだろう。

 きっと――――彼が永劫に戦い続けることを決意する程度には。


 続くのだ。争いの歴史は。このままでは間違いなく。


 要因が散らばれば、シミュレーションの如く結果は似通う。例の【ガラス瓶の魔メルクリウス】とやらが果たしてこの未来を見通したのかは定かではないが……。

 要素を十分に散りばめた上でのシミュレーションの結果は、多分、どれもそんな争いの歴史を弾き出すだろう。

 ハンス・グリム・グッドフェローにそれを告げられた訳ではないが――――……ローズマリーもまた、彼の懸念が杞憂ではないと、彼からの協力要請に答える程度にはこの先について推測をしていた。

 故にこそ、


「これを言われてなおも自分のことだと思えない手の施しようがない愚かさの持ち主とは、キミのことを思いたくないんだけれど……」

『……』

「……失望させないでくれ、マクシミリアン・ウルヴス・グレイコート。ワタシはこれでもキミを買っているんだよ。ワタシは感情なんてものは知ったことではないし、彼はそこにある感情という変数を省くことを選ばざるを得ない素養だったが……キミは情を取り入れた上で行動の分析ができる。その点から否定されるのは、むしろワタシとしては望ましいことなんだ。だが、


 何故、まだで止まっているんだ――――というような気持ちさえ湧いてくる。

 仮に今マクシミリアンが抱いた懸念が、いずれ顕在するとしても。

 

 サイコロを転がすうち、実験を繰り返すうちの外れ値でしかない。勿論、その外れ値が致命的だろうというのは認めるにしろ――――だからこそ。

 彼に期待してるのは、そんな程度ではない。


「いいかい、キミの持つ強さは情も含めて考えられることだ」


 嗜めるように、言う。


「それはこの――理屈だけでは成り立たない世界にとって、何よりも優れた素質と言える。そこを気にするつもりのないワタシにもできないし、あえて閉じるしかなかった彼にもできない。キミは我々の中で最終的に、最も、現実というものを咀嚼する能力に優れている筈なんだ」


 それが曲がりなりにも、ハンス・グリム・グッドフェローの至る果てへの懸念を抱かせた。

 そんな彼への拒絶感や反感から導かれたではなく。

 斯くたる分析を元にして――――その可能性を予め検討できることを、マクシミリアンに求めたかった。


「キミたちの活動は、一歩間違えればただのテロ組織だ。或いは対外的にはそう見られてもいるだろう。だが、事実としてまだその一線を決定的には超えずにいられるのは――キミのようにそう振る舞えるだけの人間がいるからだ」

『……』

「愚かになるな、マクシミリアン・ウルヴス・グレイコート。……キミの後悔も、トラウマも知ったことではない。その位置に座したからには、いつまでもその優れた鼻を血に曇らせるな。それはキミの個人的な事情だ。傾きかけのこの世界でそうしている余裕など、もう我々には残されていないんだ。素質があるならばそれを活かす義務がある」


 自分の持つ有用性の存分の発揮。

 そして、自分の有する知的好奇心の充実。

 それがローズマリーの命題だとしても、それとは別に、社会に対する責任の気持ちも持ち合わせていた。

 でなければ、議員にまでなることはない。


「彼が何故そこに行き着こうとしているのか――……キミはそれも分析できる筈だ。否定するのはそれからでいい。いいや、他の余人ではなく……キミという素質の男なら、否定するにも最低限そこまで行ってほしい。それが建設的な議論というものだ。違うかい? ワタシも改善点は放置したくないんだ。案を出してくれるというなら願ってもない。……それが最終的にこのプランを棄却することになるにしても、ね」

『は……』

「それより、こんな通話より早く脱出したまえよ。中々洒落にならないことになってしまうよ?」


 燃え盛るその都市は、混沌としているだろう。

 火消しに動く筈だ。誰もが皆。

 それが、炎を強めさせる。そうなったあとは生き残るには運しかない戦場だと――……戦争の専門家ではないローズマリーからは、そうとしか思えない。


『判りました……ですが、後でお話を聞かせてもらいます』

「ハハハ、悪いが実のところ根幹を明かせることはないんだ。こちらにも事情はある……きっとね」

『……ならば、それ以外についてです』

「いいとも。議論をするならいつでも歓迎だよ」


 そして通話を打ち切り、白衣の彼女は肩を竦めた。


「……うーん、本心の言葉ではあったけど……煙に巻こうとしたのにかからないとは流石だね。中々、勘も戻せてるじゃないか。さて、これで激高のままに撃たれなければいいけど。例のに期待したいところだね」


 会いに来るなら……おそらく、例の少女も伴う筈だ。

 人間が機械に取り込まれてしまったような例。

 汎拡張的人間イグゼンプトと――まことしやかに囁かれる噂の結実のような少女。不可思議な現象が降り掛かった先の少女。

 些か血も涙もないことを言うなら……その治療と研究に、科学者として心が踊らない訳がない。

 しかし、何より――――。


 彼もまた、焼け落ちるその都市にいるだろうかと目を細める。


「ただ遵法の規範以外の人間性の何もかも捨てて、人としての命を捨てて永劫に生きて、ただ一人ですべての争いを前に戦い続けるため――――」


 ただ一人剣を担い、戦場に立ち続ける不撓の狩人。

 あらゆる炎と鉄を恐れず二本の足で立ち続ける秩序の騎士。

 永劫に続く戦いに身を投じる英雄。

 いいや――――


「なんて、。そうだろう、思索者シンカーくん? 教えてやるといい……キミはと、ね」


 彼は、戦士や剣士ではない。騎士ではない。

 軍人だ。

 軍人であり、思索者シンカーなのだ。

 そんな、我が身を犠牲にするヒーローのようなロマンチシズムを持たないなのだ。

 矜持と理想を抱え、善意を懐き、慈悲を持つ。規範的な人間であると言っていいが――――目的を果たすそのためには幾らでも合理に割り切る、それでこそ軍人だ。


「全く君は、そのものじゃあないか」


 その果てを想い、ローズマリーは笑う。


「見せておくれよ。キミの辿り着く結末とやらを。キミのその剣が作り出すという新たなる平和の形を」


 世界を滅ぼさせないそのために、滅びすらも滅ぼせる一閃に至る剣――――――。


 その剣が作り上げるだろう、果ての光景を。

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