第152話 仏に逢えば仏を殺し、或いは運命。またの名をパノプティコンの歯車


 爾欲得如法見解汝、如法に見解せんと欲得すれば但莫受人惑ただ人惑を受けるなかれ


 向裏向外内に向かい外に向かい逢著便殺逢著すればすなわち殺せ


 逢仏殺仏仏に逢うては仏を殺し逢祖殺祖祖に逢うては祖を殺し逢羅漢殺羅漢羅漢に逢うては羅漢を殺し逢父母殺父母父母に逢うては父母を殺し逢親眷殺親眷親眷に逢うては親眷を殺し始得解脱はじめて解脱を得ん不与物拘物と拘わらず透脱自在透脱すること自在ならん



                ――――「臨済録」



 ◇ ◆ ◇



 マクシミリアンの従者たる黒髪の青年は、考える。

 ローランド・オーマインは、考える。

 崩れかけの教会。全天周囲モニターの向こうで言葉を交わす灰髪と黒髪の青年たち。道を違えてしまった友人同士であった二人を見守りながら考える。



 ――人は、繋がり合わなければ生きていけない。



 理想の話や、柔らかい優しい言葉としてだけではない。

 もっと即物的な視点で。

 本当に単純に、人間一個に対して世界というものはのだ。


 例えば――――人類が逃れられない宿痾に、病気や怪我がある。


 では、その病気の治療を行うとして。

 そこに必要なものは、なんだろうか。


 まず、患者の治療を担当する医師が必要だ。

 そして、医師だけでは及ばぬ仕事を受け持つ看護士が必要だ。

 当然、患者が使う薬品を作る製薬会社が必要で、その製薬会社を運営する人間や、そこに金を集めるための人間も必要だ。

 その患者が摂る食事の用意をする栄養士が必要だ。

 治療の過程で生まれる汚染された道具を処分する清掃業者が必要で、その治療道具や装置を制作する医療メーカーが必要で、それらを備え付ける施設を作る建設業者と設計士が必要で、そんな彼らが使う機材の原料を集める人間が必要で、その輸送を行う人間が必要で、そんな人間たちが食べる食料を生産する人間が必要だ。


 個人では、決して、そのすべてを賄えない。

 どれだけ有能な人間だろうともそれら全てを修めることはできず、そうしているうちに寿命も間近に病になろう。

 仮にそれがかろうじて可能な特異で万能な人間を十五人集めるよりも、一つ一つの分野を修めた人間を十五分野に渡って集めた方が圧倒的に効率が良い。

 効率的な分業。

 故に人は、それを、社会のうちに成り立たせた。


 そしてこれは、あくまでも病気という一例――――――本来その患者の人生には、要らなかったものである。

 そこに、患者自身が己に求める人生に必要なものを載せていくとしたらどうなるだろうか。


 


 故にそこに根付かんとして生まれた社会も広い。

 文明も広い。

 牧歌的な話ではなく、広いのだ。

 はてどなく途方も無い幾つも幾つもの力が集まって――――そうして作り上げられたのが、世界である。


 でなければ、発展には至らない。



 もし仮に、たった一人の個人にできることがあるとすればそれは――――――――――だけだ。


 故に、ローランド・オーマインは考える。


 人として、繋がり合いに加わりたいと。支えたいと。そこに生きたいと。

 それが彼を執事という道に進ませた一番の力だ。

 理想として、現実として、人は繋がり合わなければ生きていけないのだと。

 そう識って、そう想ったから。


 だからこそ、思うのだ。


 ああ、もし、仮に何か――――――たった一人で道を進むものが居たのなら。

 その意思一つしか要しない事柄があるとするなら。

 意思一つしか残らない在り方があるというなら。


 それは確実に、全てを黒く焼き尽くす破壊にほかならない。


 落ちている道具で獲物を狩る。

 ともすれば、何ひとつの道具を得ずしても身一つで人は殺せる。

 つまりは、意思だ。意思が、何かを壊すのだ。

 


 もし、あらゆる繋がりを断ち――――生きようとする者がいるなら。


 それは、紛れもなく。


 天敵なのだ。

 彼にとっても――――――――――彼以外にとっても。


 その道の果てには、きっと、にしか辿り着けない。


 だから――――



 ◇ ◆ ◇



 病気で、ベッドの上で、痩せ細って死んでいく。


 空腹で、石畳の上で、痩せ細って死んでいく。



 どちらも死だ。


 喪失だ。

 別離だ。


 一個の生命が終わり、一個の関係が終わる。


 旅立つもの。

 残されるもの。

 そこに不可分な溝ができて、それぞれは別の角度で飛んでいく。


 永劫に再会は叶わない。

 再起の日は来ない。

 その命は燃やし尽くされ、二度と戻らぬ循環に組み込まれていく。

 いずれも悲しき、一つの尊い命の喪失だ。



 或いは後者は、言うだろうか。


 前者こそが幸福だ、と。

 そんな穏やかで、多くの愛に満ちて、誰かに囲まれて去っていくことは、己の死とは比べ物にならないと。

 同じ死ではない。

 恵まれた死だ。恵まれた生だ、と。


 言うだろうか。


 或いは、そう、聞いたことがある気がした。

 あの大戦のその時に。銃を持った人間の中から。



 ……いいや、違う。


 断じて、違う。

 違うのだ。


 それがどれほどの幸運に恵まれた果ての死だろうと。

 それがどれほどの汚辱と失意に塗れた死だろうと。


 一個の生命の、その喪失の重さは、その当人にしか判らない。


 判ってはならない。

 比べてはならない。


 そこに秤を持ち込んでは、ならぬのだ。


 きっと命の重さを量ったそのときに、人は計量秤の上の角砂糖のように、その総量だけで比べ始める。

 客観的に――――合理的に。

 失われる当人の主観は、奪われる。死のその主体の悲しみが、当人から、奪われる。


 故に、死を、量ってはならない。


 そしてまた――――――――不幸というのも。



 ……だから、できるのは、までだ。


 或いはそれすらも、一生を費やしても難しく――……。

 それでも。

 諦める理由には、何一つ、ならないのだ。


 そうだ。


 如何に及ばぬとしても、それを行わぬ理由はない。

 その一歩がどれだけ小さくとも、遠くとも。

 なら、行わぬ理由がないのだ。



 ◇ ◆ ◇



 キシ、と教会の床が鳴る。

 マクシミリアンからこちらに向けられるライフルの銃口は冷え付いていて、その銃爪が引かれれば、寸暇を待たずにこちらの命は奪われるだろう。

 ライフルのその銃床を左肩に当てて――ああ、彼は左利きだったなと、どこか呆然と思い出した。


「貴様のそれが――……その言葉が、その在り方が忌まわしいと言ったのだ、ハンス」

「そうか。耳を塞ぐといい」

「お前は、そうやって……ッ」


 こちらを分析するような理知の瞳の中にも、消しきれない怒りが覗く。彼は、その妹の――メイジーの喪失に怒っていた。

 当然だろう。

 彼らの母についての情報は知らないが、グレイコート博士もブランシェット博士も死した以上は唯一の肉親だったのだ。その喪失は、一体どこまで重いだろう。きっと己などが慮ってはならないほどの痛みを伴うはずだ。

 一人の人間が消しようのない悲しみの底にいることが、事実として、痛ましかった。


(どうやって――殺すか)


 そんな視線を受けつつ、静かに呼吸を整える。

 限界に達した殺意は反転し、凍り付かせるように脳は冷静さに切り替わる。湖面のように心の水面が定まった。

 目の前のマクシミリアンを見たまま、視線を動かさず視界の端を目視する。

 状況は悪いが――……考えようによっては、悪くない。

 ここには二機のアーセナル・コマンドがおり、そして目の前にはマクシミリアンがいる。つまりは……どちらかの機体は空いている、ということだ。


 ここに。

 アーセナル・コマンドが、ある。

 基地に戻ることも、必要なく。


 まさに僥倖と言うべきか。

 眼の前の彼を出撃が叶う。

 常道ならば膝を突いている二機の内、灰色の【ホワイトスワン】がマクシミリアンの乗機だろう。そちら側のコックピットが無人だとして――……


(……懸念はコマンドロックか)


 シンデレラ・グレイマンがこの戦役に巻き込まれてしまった発端。機体の使用者制限。

 それを、マクシミリアンも使っているのか。

 シンデレラの父から、その情報を得ていることも考えられる。そうなっては自分は身動きの取れない鉄の棺桶に収まりに行くことになってしまうが――

 

(……に辿り着きさえすれば、の機能は使える。脊椎接続アーセナルリンクが済まされるなら、最悪はそれでいい)


 頷きを一つ。

 問題は、どうやって辿り着くかだけだ。

 右手の短斧の刃は欠け、そも手のひらに固定しているために投擲は不可能。左手のリボルバーの残弾は……一発か二発か。駆動者リンカースーツによる筋力補助は、先程の集団戦闘に先立った爆撃を受けた際に完全に機能停止しており、あの戦いの最中のように何かしらのを用いねば直撃させられる確証がない。

 そして満身創痍で、バッテリーも尽きかけている。駆動者リンカースーツの防弾機能が殆ど機能しない。撃たれれば終わると考えて間違いない。

 何より敵の一人は、アーセナル・コマンドに詰めている。最悪、力場の出力を最大にすればこの建物ごと消し飛ばされよう。


(……あまりにも、不利だ)


 そのことに、苦い気持ちになる。

 専用の装備もなく生身でアーセナル・コマンドを破壊した例は、今の所、ロビン・ダンスフィードとヘイゼル・ホーリーホックしか知らない。

 それほどの途方も無い偉業であり、不可能な現実なのだ。自分のこの命を幾つ積み上げたところでも、実行できぬような――。


「耳も貸さず、受け止めず、知ろうとせず……敵対する何もかも斬り倒して……お前は、一度ひとたび抜かれれば全てを滅ぼす剣を気取るのか……。何一つも考えることなく……それがあの子にと決意させたと、何故気付かん! 何故見ようとしない!」

「……」

「そんなお前だから……だから撃たなくてはならなくなるんだと言っているのだ、ハンス! 頑ななまでのお前のその在り方が!」


 こちらの殺害を効率で考えるなら、力場による破壊が最適だ。

 今そうされない理由はおそらく――……リーゼ・バーウッドという象徴的な指導者とスティーブン・スパロウという実質的な指導者を失った彼らにとって、新たな象徴になり得るシンデレラと指導者になり得るマクシミリアンを巻き込んで殺す選択肢は取れないためだ。

 だが、マクシミリアンという指揮官を喪失してしまってはシンデレラだけが居ても組織として死に体となろう。そうなれば――この建物ごと、シンデレラごと、こちらを吹き飛ばす手段も実行されかねない。

 つまり、マクシミリアンを殺してもならない。

 彼を生かしたまま盾に使いつつ、指示を出させず、その間に乗り込むしかないのだ。この身体で。


(……できるか、俺に)


 一度問いかけ、


(何より、ここでマクシミリアンを殺してしまって……その後にこの戦役自体をどう収めるか。その問題は――……いや。シンデレラが生きていれば、まだ、正当に法廷での決着が望めるか。その先は――……だが……)


 内心で首を振る。

 そのことに強い焦燥がある。だが――……目を閉じたまま目覚めないシンデレラを想った。

 あの、自分を待つ市民たちを想った。

 焼けるこの街の人々を想った。

 想い、それを、自分の中の湖面に溶かしていく。


(やるか、やらないかだ。大丈夫。あなたも……あなたでなく今ここにいる君も、彼らも、絶対に助けてみせる。すまない……もう少しだけ……もう少しだけ、俺に時間をくれ……待たせてすまない……)


 それでも、諦めることはない。

 むしろ、だからこそ、諦めはしない。

 いいや――――諦めるとか諦めないとか、そんな選択肢は己の中からとうに消している。と決めれば、動くだけだ。

 ゆっくりと、口を開く。


「一つ聞きたいが……考えろと言う割に、己自身にその言葉を向けないのか」

「……何だと?」

「……貴官らが無意味に立ちはだかりはすまい。だが俺がとは、考えないのか」

「な、に――――?」

「貴官がそうするからには、相応の理由があろう。だが、だとして、?」

「――――」


 言いながら、更に考える。

 この機体たちが――どこから来たのかを。

 市街の中からだ。彼らは会談にこれらの機体で来ていた。当然、その後は軍の基地か会談場所の付近にでも置いていただろう。

 それが今ここに飛来しているというのは、それらの施設の警備が立ち行かなくなったか彼らがよほど上手く立ち回ったかだろうが……重要なのはそこではない。

 だ。


(市街内からの発進なら、軍も認識できている可能性が高い。そして――……上空では戦闘が起きている。つまり、戦える二勢力が存在していることに他ならない)


 ならば、また。

 あの、通りでの戦闘の際のように上空からの砲撃も有り得るだろう。それが流れ弾にせよ、明確にこれらの機体の破壊を企図しているにせよ。

 それに紛れて行動する。

 その手段が、最も適当な最適解と思えた。

 つまり、それが起きるまで時間を稼ぐことだ。


「お前は……! 己が何故阻まれるのか……それを判っていながら……それでもメイジーに刃を向けたのか……!」

「……俺を、仇だとでも言いたげだな」

「そうだと、そう言っている……!」


 吐息を一つ。


「……聞きたいが、メイジー・ブランシェットを斬ったのは、俺か?」

「何……?」

「随分と答えを問うが……相手を誤るその目で、お前に見定められる答えがあるのか。……それとも、妹を口実に争いたいのが本音か」

「貴様……ッ」


 市街の現状を考えれば速やかに彼を撃ち抜き救援に向かいたいところだが、そうできぬ以上はこうするしかない。

 時間を使ってしまうことに胸を痛めつつ――決して無為ではないと、そのまま言葉を続ける。


「……答え、と言ったな。俺に、死者について問うか。マクシミリアン・ウルヴス・グレイコート」


 吐息と共に、彼我の距離を量る。

 上空からの砲撃を待ちながら、己自身での解決も諦めず行うべきだ。そのためには如何なる工程を遂げるべきかを考え――――即座に頭からそれを追い出した。

 彼の嗅覚の前では、生半可な思索など無為だ。

 己はただ一閃、ただ一太刀を叩き付けるものでなければならない。無我の、その剣を。

 故に、思考は要らぬ。ただあるがまま、己に刻まれたものを使えばいい。


「俺から言えることは、一つだけだ」


 銃口を向けながらもこちらの言葉を聞き守るような彼を前に、続けた。

 ともすれば彼は、まだ、迷っているのかもしれない。俺を撃たなくていい理由を探したいのかもしれない。それとも、何故、妹が死んだのかを知りたいのかもしれない。

 割り切れていないのか。

 或いはそう決めていたのに、いざこちらを目の前にしたらそれが鈍ったか。それとも絶対的な優位を背景に、会話の余地があると判断してしまったのか。

 他人事のように、難儀なものだと思った。


(揺れ動くそれは君の美点なのかもしれないが……だとしても)


 本気で――――本当に。何も余計な思考を紛れる余地もなく口を開き。

 同時に、作り上げる。

 彼が銃爪を引くその一瞬で撃ち抜ける、そんな研鑽を積んだ己を発揮する場面を。即ち、無我の一閃を放つべき一幕を。定まった己というものを。


。無意味な争いを取りやめろ。民間人の死者、軍人の死者……こうしている間にも生まれている。貴官らの行為はその助長だ。今すぐに取りやめないなら、強制力を行使する」


 即ちは――ああ、軍人たれ。

 理性を。冷徹を。合理を。

 それだけが俺に求められた全てだ。俺が求める全てだ。

 今も焼け落ちるこの街で、人々に差し出せる全てだ。


「私がそんな言葉を聞きに――今更そんな言葉のために! 此処に来ていると思っているのか! そんな言葉を聞きたいと思うのか……お前を殺すその前に! 最期に!」

「だろうな。だが、知ったことではない。聞きたいことがあるなら後ほどに手紙でも送ることだ。俺がメイジーにしたそのように。……速やかに武装を解除しろ」

「お前は……お前は、どこまで……! いいや、やはり――お前はであることを崩す気はないのか。ならばもう、私がすべきも定まると言うことだ……!」

「……」


 彼が向けるライフルの銃口が、怒りに震えた。

 引き金を引かれるその一瞬で、応射が叶うか。今のこの身体で。できるのか。

 それを一瞥しつつ、口からは吐息が漏れた。


「……うんざりする」

「何……?」

「うんざりだ――と言ったんだ、マクシミリアン・ウルヴス・グレイコート。お前たちはいつもそうだ」


 呼吸を整える。

 アーセナル・コマンドも、彼も、まだ動く気配はない。

 処刑ではなく、断罪が望みか。

 こちらの慚愧を促したいのか、罪悪感を抱かせたいのか、それとも決定的な盤面を背景に罪人が漏らす後悔の一つでも聞き取ろうというのか。だとすれば酷く半端なものだ。半端で、矛盾的で、人間味があって――……ああ、

 それはこんな場で、市民の命を対価に、行わなければならないことなのか?

 戦いのこの場で、することなのか? 人の命がかかっているのに?


「何故、お前たちは争うんだ?」


 射抜くように、彼を見やる。

 余計な考えなど不要だ。頭から追い出せ。ただ己は、己であればいい。

 今は――――ああ、今は時間を稼ぐとか稼がないとか、そんなものはどうでもいい。。隙を見せるな。思索を見せるな。焦燥を見せるな。そう意図すれば、それを付け込まれる。

 故に――消せ。己は己のままに機能性を発揮する。それ以外の一切合財は完全に些事だ。そうなのだ、と。

 だから、これは、ただ自分の無思索の言葉だった。


「今日この日に争いが終わらなかったことで、一体、どれだけの人間が死ぬ? この争乱が何を生む?」


 己の憤怒の窯を開ける。


「今ここで妹の仇を叫ぶならば――――……何故あの日お前たちの襲撃で死したる兵士と市民を語らない? 何故彼らの死を論じない? 何よりも、何故、今も死に瀕する市民たちを見ようとしない? 生まれてしまう暴力を、略奪を、不法を……それらが壊すものを何故考えない? 何故、彼らの命を置き去りにする? 今も失われつつある命を一顧だにしないんだ?」


 罪は償えない。

 如何なる反省でも贖えない。

 死は拭えない。失われた命は戻らない。還らない。


「あの日撃ち抜かれた兵士の家族について考えたことは? お前たちの襲撃が呼び水となり、世で起きた争いとその犠牲者のことは? 経済の混乱と低迷によって、得られるべきだった資源が遠ざけられ、それで飢えたり職を失ったりする人のことは? 規範という箍が外れて振るわれる炎のことは? 何よりも今ここで、この時間に、暴徒の棍棒に潰されていく市民のことは?」


 言葉が炎となり、喉から漏れる。


「隣人を疑い、友人を見捨て、老人を置き去りに、子供を捨てる……そんなまでに人々が追い詰められてしまう状況を、お前たちは何故作る? 神にでもなったつもりか?」


 だとしたら、

 許すなと――――上位者は、殺せと。


「己の仲間たちの死を悲しむその口で、一体、何故、お前たちは人を殺せる? 何故それを許せる? 人一人の喜びと悲しみを……その喪失を……それが永遠に失われてしまうことを……お前たちはどうして見ようとしないんだ? 何故、今そこにある彼らの悲しみを踏み躙る? お前たちは……命を、なんだと、思っているんだ」


 どれも、全てが、忌むべきものだ。

 全て、死は、忌まわしいのだ。

 故に――


「……答えだと? 果てだと? 理由だと?」


 それは、己の両足に火として灯る。

 鬼火が、己の五体を進ませる。

 と――――――呑み込むなと。

 己に、猟犬の血潮を滾らせる。

 笑わせるなと、首輪の付いた猟犬が檻の中で頬肉を上げる。ああ。まだ立てる。ここで屈する理由にはならない。

 そうだ。進め。――――


「膣に針とナイフを入れられて引き裂かれた少女を見たことは?」


 一歩、汚泥から。


「飢えさせられた飼い犬に噛み殺された飼い主の少年は?」


 一歩、茨の痛みへ。


「遊びながらの人狩りにより、両足を失った青年は?」


 一歩、鋼の石畳へ。


「助けを求める市民の呼び声に駆け付け、吹き飛ばされる医者は?」


 一歩、錬鉄の鍛冶場へ。


「砕かれた建物の下敷きにされ、生きながら少しずつ潰されていく幼子は?」


 一歩、この苦しみが己に剣を担わせる。


「父と母を失い、弟妹と共に男娼を務めるしかない少年は? 膝を抱えたまま餓死する子供は?」


 一歩、それでも目を開き続ける。


「戦いで手足を失い、耳目を損ない、支援もなく路上で凍え死ぬ軍人は? 息子の帰りを待ちわびる母は?」


 災厄や悪意など、嫌というほどに目にした。


「失った身体を機械で補い、また死ににいく青年は? 寿命を擦り減らすほどの身体改造と薬物調整を加えられた少女たちは?」


 合理性も残酷性も目の当たりにした。


「隣人を疑い魔女狩り同然に私刑を行う人々は? いがみ合い、殺し合う二つの部族は? 思い出の指輪も家宝も二束三文の対価に差し出して糧を得る人々は?」


 極限状態に追い詰められる人も見た。


「盗み、奪い、犯し――――良心が崩され、不法を是とし、争乱と混乱が生む衝突の先で――……為すすべなく踏み躙られていく人々は?」


 怒っている。

 おれは、すべてに、怒っている。


「それが戦いの全てではない。数百分の一だろう。だが、争いが増えれば増えるだけ、暴力が増えれば増えるだけ、


 戦いにまつわる全てを唾棄すべきと思っているのではない。

 今まで見たものに、怒っているのではない。

 その死者たちが己の怒りの源なのではない。

 それがを、怒っているのだ。


「その死に、痛みに、墓標に、一体どんな信念という標札を掲げるつもりだ? なんの大義名分を彼らの墓碑銘に刻む? その苦しみに如何なる銀貨で贖う? どうしてその死を起こせる? それを見過ごせる? 今なお、この場で、それが起こってしまうのを……何故、お前たちは何一つとも見ようとしないんだ」


 仮面が剥がれる。

 嚇灼たる憤怒が、泥のように溢れ出る。

 己の五指に熱を入れる。己の肢体に焔が満ちる。

 そうだ。ここでは止まらない。ここでは終わらない。まだここで、止まっていい理由はない。



 ああ――――罪人よ。推し並らべられたる罪人たちよ。


「全て、が起こす争いによって生まれる死者だ。争いが生むものだ。生まれてしまうものだ。これまでも……この先も……今この瞬間も」


 無数に積み重なる未来の歴史のその裏で、カメラに映らないその外で、記される文字のその外で、争いの場の人々の悪意はとめどなく発露する。

 それが人だ。

 いいや、獣だ。人の中の獣の部分が、避けられない宿命が、単に生態的な脳機能の一環が、その災厄を起こす。侮蔑でも失望でも諦観なく――――事実として人は獣なのだから。数万年前にこの世に人が生まれてから、獣を脱するには数千年という歴史では短すぎる。

 だから、が大切なのだ。

 そんな病を、獣の病を、蔓延らせてはならぬのだ。

 法も、秩序も、科学も、文化も、文明もそのためにある。


「お前たちは、ただ、繰り返すだけだ。……繰り返すのだ。いつまでも、永劫に、全てを呑み込んで。完全に滅ぼせるものがすっかりと滅んでしまうまで」


 だから、己は、進むのだ。

 それが終わることがないと知っているから、進むのだ。

 進まねばならないのだ。

 滅ぼさなくてはならないのだ。

 否定しなくてはならないのだ。ことごとくを――推し並べて全てを。そうすべからく、そうせねばならないのだ。


「うんざりする。……戦場と暴力こんなもので語れる言葉などない。語りたいなら、銃を向ける前に終わらせる努力をしろ。それでも文明人の自覚はあるのか?」


 拳を握る。口腔に鉄錆の味が広がる。

 炎の臭いが、髪にまで染み付いてくる。

 だけれども、それは、止める理由にはならないのだ。


「貴様らの理想も、信念も、矜持も、疑問も、何もかも知ったことか。それは何一つの理由にはならない。その死者を許す何一つの理由にもならない。そこにある市民の安寧と生存を妨げていい何一つの理由にもならない。彼らの人生を踏みにじっていい毛ほどの理由にもならない」


 知ったならば、防げ。

 見たならば、守れ。

 許せぬと怒ったならば――――翔び続けろ。


「それをも知らぬといい……妨げるなら、奪うなら、俺は――――斬る。一切合財を、天地万物を全て斬り殺す」


 知ったことか。

 お前が友でも、鬼でも、仏でも、祖でも、羅漢でも、知ったことか。

 その何れに逢おうとも、俺は其れを斬る。

 斬るという、其のだ。

 殺意ではない。排他でもない。只、其れに意味を見出さず、其れに価値を感じず、其の事に囚われはせず――……大切なのは、其れではなく。

 殺すというのは、其の心持ちのことだ。

 殺意でなく。まず、己の中で意味を殺せ。禅の境地と果ての一閃は程近い。意味を殺し、無駄を殺し、思索を殺し、逡巡を殺し、間隙を殺し、故にこそ其の剣は何をも殺す。ただその先にしか解はない。

 以って――――


 一閃に。

 ただの、一閃に。

 何もかもを斬り伏せる果ての一閃のその先に。

 逡巡も、当惑も、思考も、寸暇も必要のない在るべきとして其処に在る一閃に。

 己の全てを、其れに目掛けて組み上げろ。


 

 

「俺は貴様らを憎んでいる。感傷を対価に、容易く死を秤や天秤に載せる貴様らに怒っている。……俺が在る限り、を蹂躙してやる」


 或いはたった今口から吐いたその憎しみにも意味はなく。即ちそれも感傷なれば。

 そのことも切り離せ。何もかもを斬り伏せろ。

 斬り伏せろという意思さえ、切り離せという意思さえ――斬り伏せろ。

 


「俺は、お前たちだ」


 それが、答えだ。

 何者にも打ち崩せない刃を。何者でも打ち崩す刃を。

 この争いに呑まれず――――そこにある命それだけを守れる刃を。


「それが俺の至るべき果てだ」


 それが、ハンス・グリム・グッドフェローという男だ。

 初めから、何から何まで、変わっていない。

 全てはただ、単なる一閃のそのために――――――。


 距離を詰めた先のこちらに気圧されたようなマクシミリアンを一瞥する。

 まだ、遠いか。

 いや、近付くという意志も要らない。

 何もかも要らない。

 在るべきとして、在る。必要なのはそれだけであり、それを必要だと思う心地さえ必要ない。

 全てに意味はない。意味を、見ない。それは、雑音だ。視覚から入る、雑音だ。石塊でできた彫刻の人形の如く、あらゆる意味を拒絶せよ。


「どうした。俺に、死について問うたのだろう。……


 口はただ、言葉を流す。

 己の湖面は波立たない。

 何者にも、揺るがさせない。


「俺には、信念も理想もない。正義も、矜持もない。……ただお前たちに対する憤怒と応報だけがある」


 臭いがする。

 怒りの臭い。争いの臭い。殺意の臭い。

 己がどこか間違えば、即座に叩き潰されるだろう。市民の救援に辿り着くことはできぬだろう。その隙間を、狭間を、揺蕩うように――身を委ねるように吐息を吐く。

 さては、一撃。

 マクシミリアン・ウルヴス・グレイコートとその連れは、繰り出してくるだろうか。或いはそれさえも、どうでもいい。忘れろ。拘泥を捨てろ。

 捉われるな。

 それは、剣を鈍らせる。一撃の精度と速度を下げる。


――――――それが俺だ。それだけが俺だ。それが俺の全てだ」


 正義を語る立場にも無ければ、正義を語る気もない。

 単に一つ。

 お前たちの存在を赦しはしないと――――そんな怒りだけがある。

 いいや、その、怒りさえも不要である。

 大切なのは一点。そこで失われる命を、一つでも多く拾うことだ。防ぐことだ。阻むことだ。

 殺すことは、目的ではない。

 悪への憤怒も、その根絶も、目標ではない。

 防ぐことと守ること、それだけが、俺の、目的だ。


 そうだ。


 だけれども、その怒りが己を立たせる僅かな助けになるのであれば。

 不殺を願おうとも、戦わずに終わらぬのであれば。

 全霊を傾けて目指さぬ限りはそこに辿り着けぬというのであれば、


「そのためなら、幾らでも殺そう。――――何もかもが、此処に存在しなくなるまで。


 俺はただ、滅びを滅ぼすために此処に居る。


「そこを退け。――救助の邪魔をするな」


 そして何より、まずは――義務を果たすために。



 ◇ ◆ ◇



 コックピットの中に詰めるローランド・オーマインは絶句していた。

 そして同じく彼の主も――――全ての言葉を受け、マクシミリアン・ウルヴス・グレイコートに発せられたのも一言だった。


「お前は、狂っている……ハンス・グリム・グッドフェロー……」


 市民としての善意ではなく。

 軍人としての責務ではなく。

 英雄としての矜持でもなく。

 その黒髪の青年は、ただ、途方も無い殺戮機能への指向性だけを抱いていた。


「俺は正気だ。軍のストレスチェックのスコアも良好だ。狂気とは、極めて遠い場所にいると認識している」

「考えれば……いや、考えずとも不可能と判る結論を目指すものを『狂っている』以外にどう呼べばいい……! そんな誇大妄想を……! そんなものの……そんなもののためにメイジーが……! お前の人生が……!」


 彼を射殺するその前に、せめて彼の口から真実を聞きたい――――と、アーセナル・コマンドで叩き潰すことではなく生身での邂逅を望み、友人への割り切れない想いを口にした主は明確に狼狽していた。

 罰。

 神罰の代行者の如く、悪の根絶を担わんとする――……ああ、子供でも判る。そんなのは不可能だ。そんなものを望むのは馬鹿げている。

 その常軌を逸した題目を掲げた青年は、


「……不可能とは、俺も思っている。目指したところでそんな到達点には絶対に至らないと。それは実現不可能だ、と」


 平然と、小さくそう頷いた。

 一切の妄念を持たない冷たい蒼白の瞳。

 悪への怒りを口にしながら、それすらも持たぬ目。

 片目を流血に塞いだその眼差しで、しかし、彼はおもむろに告げる。


「だが、不可能であることと――それを目指すこと。


 鋼めいた言葉だった。

 一体、如何なる境地ならそこに行き着くのか。

 辿り着けぬ場所を目指して飛び続けることを、狂気以外の何で形容したらいいというのか。

 だというのに、青年は言う。

 ――――、と。


「……全てとは叶わずとも。どこかで一度、一瞬、相見えることがあるだろう。その首を刎ねる機会が俺にもあるだろう。いつの日か……その一瞬の一閃のためにだけ、俺という刃はある。俺の有用性は全てはそこに帰結する。違えるべきに決して違えず、


 言い放つ。

 何かの確信と共に――一切の狂気を覗かせない眼光を持つ、穏やかで冷たいアイスブルーの瞳で。

 この男は正気だ。

 正気のまま、狂気の向こうの境地にあるのだ。

 否、


「全てはそのためだ。その一閃のために、


 一体、何がそう確信させるのか。

 水面に映る月を斬れるとは思ってはいないのに、それでもその月を斬ろうと一閃を積み上げ続ける人修羅。

 魔剣使い。

 極光の剣豪。

 正気という非合理性で、狂気という合理性の道を歩む矛盾――――――殺戮の出力を持つ天敵種。


「何を斬る気だ……! その一閃で! 一閃だけで! 一体、何が斬れる! そんなもの、ただの一振りだろう! それで解決できる問題などこの世にはない!」

「……ああ。あるはずではないだろうな」

「ならば……! それが判っていながら、お前は……! お前は一体、そこに何を見ているんだ……! 何か――何か全ての引き金になる、それさえ討てば全ての争いに終わりが来る者でもいると言うのか……! 全てを仕組んだ何かが! お前はそこに辿り着いたのか! だからそうせざるを得ないと、そう言うのか!」

「……」

「ならば私にそれを示せ! お前のその懸念を! そんな何者かの存在を! 私に納得させてみろ! 妹の死を! お前のその在り方を!」


 マクシミリアンの怒声を前に、彼は小さく首を振った。

 寂しげな笑みだった。


「いない。……そんなものは、いない。いないんだよ、マクシミリアン・ウルヴス・グレイコート」

「ならば何故……何故その在り方を望む! 何故お前はその道を目指す! お前には、一体何が見えている! 何のつもりなんだ!」


 そうだ。

 この男の、それが、恐ろしいのだ。

 矛盾的な言葉を吐いていると思えるのに、それを狂った矛盾と捨てきれないだけの論理性があると思えてしまう。彼にはその論を吐くだけの正気や、何かの思索があると思えてしまう。

 聞かずには、いられない。

 無意味と知り、辿り着けぬと知り、それが解決法でないと知り――……それを見定められるだけの確かな正気を持ちながら、それでもどうして、狂気的にそれを磨くのだ?


「その一閃で何を斬る気だ……! ハンス・グリム・グッドフェロー!」


 片目だけの黒髪の青年が、一度、寂しげに笑った。

 殉教者の笑み。果ての対岸に立つ、狂信者になりきれぬ寂寥とした殉教者の笑み。

 そのまま、青年は答えた。


「……ものを」

「……!?」

「俺の眼の前に立ちはだかるものを、過不足なく、斬る」


 そう告げる黒髪の青年の蒼い片目には、揺るぎない決意さえも存在しない完全に乾ききった――だからこそ何者にも崩せない冷徹な意志が灯っていた。


「一閃とは、無限だ。無限は、一閃が無限数に積み重なったものだ。だから。その究極なる一を以て無限を斬る……


 それは、剣の摂理か。抽象的な剣聖の文句か。

 天の星をも斬り伏せる剣の如く。


「俺が為すのはだ」

「……!?」

「そこにある滅びを、たった一度だけでも、逃すことなく滅ぼしきれる一閃を作るために。――或いは、一度ではなく、無限に滅ぼし続けるそのために」


 それはかつての剣豪のような。

 克己的で、禁欲的で、禅的で、狂気的な観念。

 矛盾を抱えながらも、矛盾すら両断する無空を目指すかの如き観念。


「俺の歩みは、そのためにある。全てがそうだ。――――俺自身を、決して崩れぬ刃とするために。


 一体これを、何と呼べばよいのだ。

 回避不能に敵を斬る秘剣を編み出さんとする剣士と呼べばいいのか。精神まで立つ絶剣を目指す剣豪と呼べばいいのか。無刀を磨く剣聖と呼べばいいのか。

 まるで修験者だ。悟りの境地に至ろうとする禅僧ですらあり、それはつまり、

 振るう剣以外に、彼の世界に、モノはない。


「……そんな誇大妄想を。その程度の……子供でも判る誇大妄想のために、メイジーは死んだのか」


 剥き出しの敵意と糾弾の金の狼眼が彼を捉え、一方のグッドフェローが何かを呟くより先に――はた、と。


――」

「……」

「そうか……何もかもの人間性を捧げ……人としての揺らぎを削り、ただの機能しか残さず……を捨て去ったその果てにお前はまさか――……!」


 主たるマクシミリアンは、彼の言葉に何を見出したのか。

 脊椎接続アーセナルリンクの基礎を作った二名の内一名――アルバス・ウルヴス・グレイコート博士の息子だからこそ、きっと彼にはグッドフェローの結論が見えてしまっていた。

 おそらく唯一、グッドフェロー以外で――を。


「本気で……本気でになる気か……本気でつもりか! 全てを捧げて! 永劫に!」

「……それで、聞きたいことは聞けたか? 叶うなら、速やかに不法行為を取りやめ、そのアーセナル・コマンドを提供してもらいたいのだが」

「ッ――――」


 応じず、マクシミリアンは叫んだ。


「ローランド! すぐにこの男を撃て! アーセナル・コマンドに、近付けさせるな――――」


 


「――――」


 一瞬の警戒の途絶。刹那の意識の間隙。

 抜き撃ちめいて翻った斧の刃がマクシミリアンのライフルの左持ちの銃身を絡め取り、押し下げるそのままにリボルバーを握るグッドフェローの左手が繰り出された。

 マクシミリアンの首裏を掌握すると同時に引き寄せ、丸太めいた右の膝蹴り。肋骨が軋み上げる。砕ける。そのまま構わず、技は続く。

 痛みに丸まるようなマクシミリアンの首を、脇に抱えるかの如くに右腕が動き――――外から締め上げた。

 フロントチョーク。

 成人男性の首を、鍛錬にて形作られた無骨で頑健な腕が極めていた。早業だった。


「投降しろ。……まだ続けたいのか、お前たちは」


 拒めばこのまま圧し折ると――人体を簡単に損壊できるとでも、そんな態度。

 頭から折り畳まれて無理矢理に背中を丸め込まれるような立ち関節。

 かろうじてマクシミリアンは己の首に巻き付く右腕に、ライフルを手放した左腕を差し込んでいたが……徐々にその輪が狭められていく。戦場の怒りを人間大に圧縮したようなグッドフェローの頑健なる鋼の肉体は、成人男性のマクシミリアンの力でさえも微塵も揺らがない。


「マクシミリアン様!」


 反射的に声を上げたローランドを、モニター越しに蒼白き瞳が睥睨した。

 周囲――万物への感慨もないような瞳に、背筋が凍る。

 

 マクシミリアンを一撃で殺さなかったのは、そのためか。

 そこに居て、ただ動いて、ただ殺すだけの生き物。昆虫よりも非人間的な挙動。人型の魔剣。


(……究極の、一閃。あらゆる悪の天敵)


 子供の絵空事同然で、誇大妄想でしかないと思える。だが現実に、それは、肉の厚みを持ってそこにいる。

 その前に立てば死ぬしかない刃の如く――異様な威圧感と共に、彼はそこにいる。


(いや……間違っているのは、私の方なのですか……? アーセナル・コマンドという暴力が……個人が世を焼き尽くすことも可能になった暴力がある世界では……それは現実としての重みを持つと……?)


 死にかけにも見える青年の、その右腕に力が籠もる。

 縄めいた筋肉が浮かび、喉を抑えられたマクシミリアン・ウルヴス・グレイコートの顔が充血の赤を通り越してドス黒く変色していく。

 それでも彼は、叫んだ。


「何故、考えない……! 何一つにも囚われぬ男が、刃となったその先に何が待ち受けるか――――お前は今や、世界全てを焼き尽くすだけの力を持った個人だ! その男がそう振る舞うことがどれだけ危険か、何故考えない!」

「……」

「お前のその天秤の誤りを誰が正す! 人は神ではない……お前は神などではない! 何一つにも止められない究極の一閃だと……? そのお前の裁きは! その誤りは! 如何にして贖うのだ!」


 それはきっと、友としての言葉なのだろう。


「人一人の命を慮るその口で……その先で! だというのに何故お前こそ見ようとしない! お前の剣の誤りはどう正す! その剣が奪う命を!」


 だが、グッドフェローは無感情に一瞥した。


「だから……言っているだろう。と」

「……!」

「【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】――……貴官らの処遇もまた、法廷で決するものだろう。そうされるべきだ。法の下に裁判を受ける権利があり、弁護人をつける権利もある。武装を解除し、指示に従うなら殺す必要はない。他の誰に対しても同じだ。俺はそう扱っている」


 吐息が、一つ。


「誤解があるようだが……俺は裁きを下さない。俺は裁判所でも国家でもない。理解できるか? 俺は軍人であって、判事ではない」


 淡々と、感傷を交えずに告げていく。


「ただ、防ぐだけだ。この不法行為を鎮圧し、騒乱を収める。……一体何度言えば伝わるんだ? 速やかに投降しろ、と。市民の安全確保を妨げるな、と」


 突き放すような物言いは、侮蔑にも似ていた。

 フロントチョーク或いはギロチンチョークと呼ぶように、右脇に首を抱えたグッドフェローが頭を押し込めるように、首の付け根を巻き上げるように幾度と力を込めた。

 首を極めるために、マクシミリアンの背中が無理矢理丸め込まれていく。極められていく。

 折ろうとすればいつでも折れると、そう示していた。


「そこの駆動者リンカー脊椎接続アーセナルリンクを解除し、両手を上げて機体から降りろ。武装を解除せよ。でなければ、強制力を執行する」


 生身で、アーセナル・コマンド相手に、それが可能なのか。

 ただ、そうできるという気配は漂っている。それが如何なる不可能の果てだろうとも、この青年なら踏破して辿り着くであろうと思えてしまう。


「繰り返す。俺の果てを懸念するそれが市民の為というなら、今そこにいる彼らを無視するな。……速やかに投降せよ」


 でなければ、と示すようにその左手が怪物のようなリボルバー拳銃が掲げた。

 それを、丸まるマクシミリアンの身体の下に押し当てた。そうして反動を制御しながら撃つと言いたげな動きだ。ハンドキャノンめいたそんなものを密着して撃たれて生き残れる人間は、いない。

 密着される、という形。

 文字通りに主を盾にされたも同然の位置関係に、ローランドは止まらざるを得ない。そんなとき、だった。


「ふふふ、ははは……はははははははははははは!」


 窒息に赤黒く顔面を染めながら、突如として主から零された哄笑。


「マクシミリアン様……!?」


 何か糸口を見付けたのか――そう願おうとするローランドの前で、その首を抱えられるマクシミリアンは、右手で腰から手榴弾を掴み取っていた。

 その声は、死を覚悟していた。

 完全に――己の敵を見付けたと、そう言わんばかりに。


「果ての一閃か。……つまりは、こう言いたいのか。――――、と」

「……」

「お前の言葉の意味することはそれだ……人の命を慮ったふうで居ながら、お前の視座は人類と同じではない。お前こそが個々人を無視している……その一閃に至るまで幾つの個人の死を積み重ねる! 貴様の一閃の完成までに何人を斬る! どれだけの犠牲を生む! その目的のための試し切りをどれほど積み重ねる!」


 糾弾だった。

 上位者じみた振る舞いを取る――或いはシステムめいた歯車を持つものに生まれた瑕疵への糾弾。

 彼は、叫んだ。


「その死を……無数の個人の死を、お前は見ない! お前こそが、人の死を最も蔑ろにしている死神だろう! そんなお前を止められるのなら、私の命も惜しくない!」


 それこそが罪だろう、と。

 それが誤りなのだ、と。

 お前の理論は破綻している――――――と。

 故にこそ、ここで死ぬのだと。共に死ぬのだと。

 対立者の在り方を完全に否定すべく放たれた怒りの言葉は、


「……?」

「――――」


 そんな一言で切り捨てられた。

 絶句、だった。

 返せる言葉が――……マクシミリアンもローランドも、喉を出ない。


「人を殺す技である以上、人の命で磨くのは言うまでもない必然だ。そして俺は必要外の死は与えず、必要外の相手に用いていない。高度に制限し、限定的に用いている……言ったはずだ。、と。それで何か問題があるのか?」

「それを問題ではないと思えることが……お前の忌まわしさだ、ハンス・グリム・グッドフェロー!」

「そうか。……グレイウルフ。戦時中、優れた指揮官と聞いていた。そこに至るまで――貴官は幾つの戦場に携わった? 人の生き血を以って刃を固めたのではないのか? その指揮能力には、経験を経ずして辿り着いたのか?」

「……ッ」

「まるで快楽殺人鬼のように言われても困る。行為を重ねれば重ねるだけ習熟するのは必然だろう。……俺は、経験を積むために恣意的に貴官らの権利を蔑ろにしていない。あくまで可能な限り投降を勧めている。幾度となく……何故、それに従わぬ死まで咎められる筋合いがある?」


 ああ、本当に……人をただ、人という物体や要素としか見ていない。

 そこに何の感傷も交えていない。

 本当に合理的で、理性的で、公正で、文句の付けようがないぐらいに合法的で――――……ああ、だから、こんなにも


「些か、疲れる……自殺同然の行為に勝手な文句を付けられても、俺から言えることは何もない。死ぬ前にその行いを鑑みることを奨める。見たいものしか見ない気か?」

「――――」


 線から出た道端の石を眺めるような


「……自殺ならまだいい。それだけならまだ許せる。だが、お前たちは巻き込むだろう……そこに暮らすなんら関わりのない人まで。ただ生きている人まで。この街の惨状のように――――彼らは何の咎もなく、こうされる謂れもない。それを知りつつ、お前たちはまだ争いたいのか?」


 その言葉は、まるで、人類の言葉ではなかった。

 彼の全ては、そうだった。

 悩み、苦しみ、怒り――――それは一人の人間の紛れもない感情から発せられたものであるというのに、一点。

 ――――。

 この戦いに飲まれた世界で、戦う全ての人類に向けてその問いかけを投げられる人間は――――つまり、少なくとも

 徹底的に隔たった存在。

 世界と交わらない異物――――いいやそれは、或いは。


「お前たちは、そうとまで、人の命を蔑ろにしたいのか? そんなにも争いたいのか? 滅びたいのか?」


 それは、同じの立場から語られながらも隔たっている。

 同じヒトが確かに発したと判る人間の憤怒と感情を持ちながらに、隔たっている。

 その問いかけは、人というよりはむしろ――――


「答えてみせろ、マクシミリアン・ウルヴス・グレイコート。俺という答えに、お前の答えを与えてみろ。


 機構だ。

 一個の機構であり、一個の定理である者の言葉だ。

 人のままに人ではなくなった存在。

 天秤の機構。秩序の概念。慈悲なる上位者。

 意思を持った装置が発する言葉は、或いは、こうもなるというのだろうか。


「……いや。問答はいい。後ほど留置所で聞く」

「……ッ、ぐ……!」

「そしてその装備で自爆に巻き込むことは不可能だ。を被せれば、俺にまで爆発は及ばない。無意味な抵抗だ。……そこの駆動者リンカー。貴官も武装を解除せよ。これが最終警告だ」


 彼は片目を血で潰しながら、どこまでも冷淡なアイスブルーの瞳を向けてきた。

 本当に。

 己の命が狙われることにも、それがかつての友人であるということにも頓着していない。

 斬ることしか考えていない――――まさしく、装置めいて。


「アナタがそれを知ると言うならば……人の死を慮ると言うなら……!」

「……」

「それを知るアナタこそが、何故人を殺すのです……? それこそが甚だしい矛盾ではないのですか……? 自らの行いを鑑み、恥じることすらないのですか……?」


 同じだ――――と。

 己を規範の例外においているのは、自分を特別に扱っているのはお前も同じだ――と。

 時間稼ぎの言葉をぶつけながら、ローランドは考えた。本気での問いかけだった。

 もしここで彼が本当に己をそうしているなら、それは人間にほかならない。他でもない愚かな人間の一人であり、そして、頷ける。安心できる。

 ハンス・グリム・グッドフェローも――――ローランド・オーマインと同じ、自分を特別の枠に置く当たり前の人間なのだと頷けた。


 そんな、安心。

 そんな、恐怖。


 それを見定めんとコックピットモニター越しに向けられたローランドの赤き左眼を前に、ついにグッドフェローは口を開く。

 その言葉は――


「……


 一瞬、意味が理解できなかった。

 ローランドでは、言葉を咀嚼しきれなかった。

 そのまま、グッドフェローは感慨もなさげに続けた。


「武装を行い、攻撃を実行し、投降勧告に従わず、頑なに戦場に居続け、その不法行為を停止しない……そこに法的に、攻撃を控える理由が何一つ存在していない。。ただそれだけのことだ」


 彼は単純に――――実に単純な定理のように続けた。

 例外なく。

 重力が中心に集中していくように、上から下に水が流れるように、ごく当たり前の摂理の一部のように語られる言葉。真理しか存在していない言葉。


「何も……死を……思わないのですか……? 自分が殺しているとさえ……考えないのですか……?」

「罪悪感の話か? ……聞きたいが、罪を犯したのはどちらだ?」


 己の殺戮も、定理。

 殺人の意思もなく振るわれる刃。当たり前に落ちる断頭台の刃。

 きっとそこには……彼自身も同様ならば葬られるに値するものなのだと、考えるまでもなくそうなのだと暗に告げる響きさえあった。

 彼の理念が正しいか、間違っているかの話ではない。

 単にただでしかない存在に出会ったときに――――人はこんな不気味な孤独にも似た凍えるような恐怖を、抱くのだろうか。

 

「俺にその死を咎めるなら……」


 実体を得た現象のような男が、口を開く。


「まず、多少なりとも生き延びる努力をしたらどうだ? 人の命を奪おうとすることを取りやめればいいのではないのか? そのことを奇妙に思わないのか? ……繰り返すが、再三の勧告に従わず無意味に死にに来た人間について問われても、俺に返す言葉などない」


 絶対定理の如き、言葉。

 何一つ省みず、退かず、譲らず、その場に立ち続ける鋼の木の如く揺るがない。

 この男は、折れない。

 絶対に折れることのない、秩序側の黒い巨木だ。


「……っ、貴様のように――己が正しいと思うから! 己たちこそが正しいと思うから、それだけを正義と認めるから、だからこそ争いは終わらないのだ! 全ての人間がそうして動くから、終わらぬのだ! 正しさなど、如何様にでも作られる……! 故に衝突するのだ!」

「……」

「【フィッチャーの鳥】が何をした! それを知りつつも、保護高地都市ハイランドはどうした! 正しさなど、幾らでも作れよう! お前こそ――ハンス、お前こそ! それらの死者をどうして見過ごせた! 何故、今も従っている! 直接弾が降り注げば……火が点けられれば、それだけがと言いたいのか!」


 そうだ。

 そのままでは、今の社会が是とするものでは、その正義の下に隠された不正義では犠牲者が生まれるとして、マクシミリアンたちは立った。

 そんな正義を肯んじ、その犠牲を見過ごす行為も不正義であり甚だしい矛盾と告げようとし――


?」

「――――――――――な、に?」


 即座に叩き斬られる。

 さも当然の道理だ――と言いたげな蒼い目。


「弾が当たれば人は死ぬ。火が点けられれば人は死ぬ。? 動脈からの出血と、気鬱の治療のどちらを優先する? 同じ病と言うつもりか?」


 単純な算数も判らぬ子供に言い聞かせるような、声。

 伝染病の病理の拡散だけを懸念する医療処刑人のような声。

 ああ――――本当に。

 呑み込まれかける。

 物事に余計な色を交えない彼の恐るべき正気と合理に。

 世界の真理にただ一人辿り着いている賢者のような言葉に。誰にも達せられない境地で動いている絡繰めいた行動原理に。


――だと?」


 無知蒙昧に呆れるような、向けられた刃を無感動に掴み返して向け直すような目線。


と、は、

「――――!?」


 頭を殴られたような啓蒙の衝撃を受ける。


「対立した正しさを前に衝突にまで発展させるのは――他ならぬだろう? 何故、そこを、他人事のように語る?」

「――――――――」

「正しさが対立したなら暴力行為に及んでいいと、どこかの法典に記されているのか? 詳しくないため素人質問になってしまうが……緊急避難の類推適用とでも言いたいのか? ……火事場泥棒のように混乱に乗じ、逃げ惑う民衆を蔑ろにしての第一級殺人が?」

「――――――」


 ただ淡々と口にされるそれらは、だからこそ酷く皮肉げに聞こえた。

 いや――……皮肉げに思えるのはその声によってではない。立ち振る舞いによってではない。

 暴かれるのだ。この男を暴こうとすると。無意識に飲み込んでいた非法の論理を暴かれるのだ。だからこうも、神経を逆撫でされるように聞こえてしまう。


「目的が正当なら手段の正当性も保証されると? ならば、何故、警官がボディカメラを付ける? 必要な捜査手順を踏まない検挙が不起訴になる事例は? 敵識別を行わずに行った空爆の違法性は? ――手段の正当性が保証されぬものに、正当なる断罪も結果も存在しない。。……不法を是にして打ち立てた秩序は、その崩壊すらも矛盾的に内包するのだ」


 争いを否定して会話を用いろと述べるこの男は、言葉では黙らせられないと思うぐらいに――強靭つよすぎる。

 この男は、徹底的に対立した相手を打ち砕く剣だ。

 その主張も理念も理想も全てを毀損し、破壊し、幻想を抱かせぬままに殺戮する剣だ。

 彼が掲げた言葉の如く――――――悪なる者の、その全てを打ち砕くべく作り上げられた一つの機構なのだ。

 徹底的な応報の、そのために。


「とは言っても……今回の一連の事件については、頷ける面もある。貴官らの蜂起の処遇についてもまた……その件はその件で、法の下で決着を付けられるものだろう。その是非を俺が語る意味もない。だとしても――」

「……」

。何故、すぐに暴力を振りかざすんだ? 人が死ぬことの意味を考えないのか? 暴力を是とすれば、まず死ぬのはからだと判らないのか? それとも身を以て知りたいのか?」


 応報者。

 蹂躙者。

 それとも、神罰の代行者なのか。

 今になってローランドにも、規格域外イレギュラーワンとマクシミリアンが掲げたことが理解できる。

 到底、常人の視座にない。上位者の視座にしか、いない。

 竜の如き。

 只人を白眼視する竜の如き、相容れない言葉。

 怪物。……怪物だ。秩序の猟犬という名の、怪物なのだ。


「それに、俺のこれは――お前たちの言うとやらではない」


 吐息が、一つ。

 理解の外にいる。人理の向こうにいる。彼岸にいる。

 故に覗き込まずには、いられない。その言葉を、聞かずにはいられない。


「ただの善。あまねく法が守るべき善と、その実現のために設けられた条項。既に連綿と人類史に育まれたその義務たる価値観に、国際的な人道法の規範と紛争に関わるそれに則った言葉だ。だ。……問いたいのは、そこだ。?」

「――」

「それともまさか、正義とやらの名前を付ければどちらも等価値になると? 掲げた時点で対等の場に立ち、『お互いに正義を掲げたのだから――』と等しい目線で見比べられると? そんな魔法だと?」


 馬鹿馬鹿しいとでも言いたげな目だった。

 その後、何かの言葉を告げようとした彼は――不意に取りやめ、口を噤んだ。


「それで……時間稼ぎの気は済んだか? これ以上の遅滞行動は、投降に応じる意思がないと判断する。貴官らの理念に対しての理解はあるが……まだ続けるなら、ここで全て打ち砕く。全てだ。そのことを強く認識し、判断せよ」


 リボルバーが、マクシミリアンの脚部を照準した。

 警告射として撃ち抜くつもりだ。

 そして、時間制限を設けるつもりだ。


「投降するなら貴官らを拘束し、沙汰は追って伝える。裁判を受ける権利がある。ただし、そのアーセナル・コマンドはこちらで利用させてもらう。……これが最後だ。武装を解除しろ」


 己の怒りでさえも、やはり無価値のように放り出したかの如き冷静な声。

 自身が絶対に譲ることはないのだ、という台詞。

 怒るべき言葉なのだろう。

 或いはそれは恥ずべき傲慢だと、怒るべきなのだろう。

 だが、ローランド・オーマインには、怒りとは別の感情が湧いていた。


 ――――


 完全に理解できた。

 この男は、一個の、装置なのだ。


(あんな人命を想った言葉を出せば……魅入られるでしょう……その思索に……理性に……故にマクシミリアン様はアナタを無二の友と認めた。私ですら途中まで……この男とは形が違えば通じ合えるのではないかと……思わせた。アナタは違う形で正しい道を進む人間だと……それは、ともすれば、人を惹きつけるでしょう……なのに……)


 彼はそれを、容易く差し出してしまえる。

 それに集まった人も。或いは、そうした己自身も。

 それが恐ろしいのだ。

 それが恐ろしく――――そして彼の帰結は、一つだ。


 殺意もない。

 害意もない。

 如何なる感傷も無為に帰する。

 何もかもを分けきってしまう真理の眼。冷徹な隻眼。

 揺れ動く天秤と同じだ。それは機構であり、摂理でしかない。


 怒りを切り離し、憎しみを切り離し、悲しみを切り離し、思慮と慈悲を切り捨て、あらゆる感情や感傷を交えずに行動をするように定義し尽くした――――果て。


 彼が刃を振るうのではない。

 ただ、死に至る規定線を超えた者に刃がのだ。

 


 そこにある死が形となった、死の代行者――――それが目の前の男なのだ。これは、そうして動いているのだ。そうなるために彼という青年の今日までの日があったのだ。


……ハンス・グリム・グッドフェロー……)


 きっと彼は、己が殺人の主体であるとは考えていない。

 応報だ。

 反射だ。

 帰結だ。

 死する行動をしたものが死に追いやられるだけで、それを己が為したとすらも思っていない。特定条件のままでしかない。


 偶然、そこでの死は、自分によるものだった。

 他の死に方でも良いが、そこに居たのが自分だった。

 ――――。


 死すべき定めの者に死が追い付いた――と。

 人を殺している気は、ない。殺人を犯してはいない。

 ただ死人を土に還しているだけだ。本来なら死んでいるべきものを、灰に還しているだけだ。


(だから、曇らず、そうまで殺し尽くせるのですか……百万もの人を殺し……血に酔うこともなく……)


 ゾッとする。

 モニターの向こうで崩れかけた教会の影に隠れた駆動者リンカースーツに包まれた逞しい肉体が、瓦礫の教会の中にその影を薄れさせる。

 存在感だけが確かに色濃く、しかし透明に――――――闇に溶け込み、しかし居る。爛々と目を剥いて、其処に居る。静かに息衝き、其処に居る。


(アナタが、異常であるか正常であるかではない……その論理が正義であるか悪逆であるかではない……そんな領域には、ない……人はその精神には至れない……)

 

 いつしか身が凍るような気持ちを、ローランド・オーマインは抱いていた。

 この男には、人間同士で通じる共感の先がない。

 いや……先の言葉を見るに彼自身それを深く持ち合わせてはいるかも知れないが、それも今は全て切り離されている。何もかもの繋がりが、否定されている。

 ただ一個の定理としてしか――――――


 ああ、これをなんと呼ぶか。


 まさしく死だ。死だろうと。

 これは、死が人の形になっているだけでしかない――ある種の形而上学的な生き物なのだ。

 あまりにも、死人よりも濃厚に死の気配を漂わせて、そこに居る。


(あらゆる価値を己の中から殺せてしまうからこその……死神……)


 徹底した暴力装置。徹底した振るわれるだけの処刑刃。

 透明の無垢なる刃。

 あらゆる情動を燃料にしないからこそ、決して尽きることなく動き続ける首斬りの魔剣。一つの法理。


 そこにある定理と答え。


 血に曇らない堅刃というのは、きっと、この男のようなものであろう。

 殺人を悔いることも、死を悲しむこともない。

 苦しみに蹲ってそこに折れもしない。揺るぎもしない。

 この男は、絶対的に曇らない。先ほどのその言葉のとおりに――殺すべくを殺し尽くすまで、動き続けられるのだ。そう、になったのだ。


(何一つ、己の腕前を誇ることなく……人はそこに行き着くのですか……そんな領域まで……)


 会話していて、判った。

 料理にしろ、刺繍にしろ、仕事にしろ、人には自負が生まれる。絶対的に、ある領域に至れば自負は生まれる。或いは、そんな自負がなければその領域に辿り着けないか。

 ……それはきっと、殺人にしても同じだ。

 だがこの男は、おそらく何一つの価値も感じていない――――――何一つ。その腕前に対する自負すらも。


 異常だ。


 価値を感じないものを極限まで突き詰められる精神力。

 価値を感じぬのに極限を目指し続けられる自我。

 そして、そんなもので生き残り――頂点に至ってしまったという実力。


(……神から処刑の才能を与えられたとでも、言うのですか)


 に至るはずがないものが、に至るまで進み続けてしまったという矛盾存在。

 よほどの目的意識や責任感でもなければ、そんなことはあり得ないだろう。強すぎる使命感や義務感でもない限り、そんなことには絶対にならない。

 なのに、信念すらない。

 この年齢でそこに行き着くとは到底思えず――――つまりはこれは、天が殺戮の才を与えた怪物であろうか。


 その在り方全てが組み合わさり、それは致命の刃として組み立てられていた。


 ローランドは、考えた。


 何故自分が、自分と兄がここにいるかだ。

 兄が死んで、自分が今もここにいるかだ。


 きっと――――――


(アナタのその在り方は、ただ一人の殺意が世界を塗り潰せてしまうようになった社会において……危険すぎる)


 宿敵。

 繋がり合わねばならない人類種の宿敵。

 徹底的な破壊に繋がるだけでしかない、


(……すみません。そして、ありがとうございます……マクシミリアン様)


 首を締め上げられ続けるマクシミリアンは、唇を噛み締めながらローランドを見詰め続けた。それが、何をすべきなのかを如実に物語っている。

 一度、目を閉じる。

 愕然とした身も凍る恐怖に身体は震え、だからこそ

 簡単には打倒できない究極のモノ。

 しかし、人である以上は否定しなければならないモノ。


 ああ、その日――――――ローランドは、人生の意味を見付けた。


 お前は、私の、宿敵うんめいだ――――――――――。



 ◇ ◆ ◇



 ローランド・オーマイン、ハインツ・オーマインは、平凡だった。


 史上最悪の殺戮を引き起こした兵器開発者の息子になることも、それと腹違いの妹になることもなかった。

 新型兵器の開発者の一人娘になることも。

 外宇宙船団の艦長の娘にも、反攻の狼煙となった公爵の血縁にもならなかった。


 何一つ、特別を持たない。

 特別でなく、ただ当たり前に、息苦しい小さな不幸だった。



 衛星軌道都市サテライトは深刻な格差社会だ。


 格差社会とは、貧富の差だけではない。

 階層が固定されるからこその、格差社会なのだ。


 例えば、軍の将官の子息ならば……その後も軍の将官になれるだろう。

 学者の血縁ならば、大学相当までの教育の機会も得られるだろう。

 政府筋にいれば官僚の分野に飛び込むこともできるし、政治家の子息ならば政治家になれる。


 衛星軌道都市サテライトはそうして回っている。

 凝り固まった社会において、肉屋の息子には肉屋を継ぐことしか求められないのだ。

 そう命令されるのではない。

 言語化されない無言の圧力と、そしてその圧力を許容するが故の格差――――。


 親の経済力の差は如実に、教育に直結する。

 そして教育に恵まれないということは、つまり、素質を活かす道が選べないということだ。

 限られた真空の住まいと資源の中で、を標榜した衛星軌道都市サテライトでは、階層が固定化されるのは必然だった。


 大きな不幸はない。

 悲劇はない。

 明日の糧に飢えるほどでも、数時間後に死ぬ命でもない。人身売買の対象にもならず、見世物として生きていくこともない。


 それでも、大都市の明かりの下で生きていく人間がよほどの不幸でない限り巻き込まれることもないような暗い犯罪に、それが己の生息圏のどこかで起きたと聞く程度には社会の底にやや程近い程度の身分だった。


 いつしか、物心がついたうちに感じたこと。

 どうしようもない閉塞感。

 自分たちの人生の先には、ただ首を締められて、ゆっくりと息を詰まらせて死んでいくような未来が待ち受けていると――ローランドとハインツは知ったのだ。


 この世界の片隅に在る、ありふれた境遇。何かが貧しく、それがどうにもならないという社会的な身分。


 劇的な不幸ではない。

 劇的な悲惨ではない。


 ただ、ここから抜け出すことはできない。 

 それはある意味で――目に見える障害よりもはてどなく重い壁だ。

 社会的な壁だ。

 階層の壁だ。


 抜け出そうと考えたなら、我が身を掛け金にここではないどこかに向かうしかない。

 それでも、成り上がれるとは限らない。

 得られる日々の糧まで捨てて、好事家の玩具にされて路地裏に転がる危険まで承知しなければならない。


 檻のまま暮らすか。

 檻を捨てて、野垂れ死にの自由と引き換えに上昇を目指すか。


 ハインツ・オーマインとローランド・オーマインにあった選択肢は、それだ。


 あまりに恵まれたとは言えない生の中から、徐々に真綿で首を締められて、少しずつ心の肉を剥ぎ取られて痩せ細らされていくような境遇で――――一つ思った。




 ――――戦いたい。


 ――――息苦しさも忘れるほど。


 ――――己を一個の命として使い切り。


 ――――全ての性能を用いて、戦いたい。



 殺したかった訳ではない。

 死にたかった訳でもない。

 繋がりを断ちたかったわけでもない。


 


 己という存在全てを注いでまでも、それでもようやく成し遂げられるか否かという向かい合う先を求めていた。それだけが、ハインツ・オーマインとローランド・オーマインの望んだ人生だった。

 自分たちの生息圏を飛び出す外宇宙船団プロジェクトを志し――――紆余曲折の果てに、執事という道を選んだのも、それだ。


 己の思う通りに己自身の全てを使う道を選び、その全てを出し切って、我が身の全てを捧げて、己の全存在を懸けて戦いたい。

 いつしか仄かに輝かしく感じ始めた繋がりというもののために。


 自分は、劇的ではない。

 そんな価値もなく、立場もなく、貴重性もなく、重要性もなく、物語性も持たない一人の人間にすぎない。


 だからこそ。

 自分ではないそんな人間のために――――――彼ら故に許される、或いは避けられないあまりにも大いなる戦いがあるだろう――――――そんなときに己を使う。

 彼らを支え、己の全てを使い切る。

 生きた意味を知り、生きた意味を為す。


 それが、ローランドの祈りとなった。


 不幸だった訳じゃない。

 悲惨だった訳じゃない。


 存在を燃やし尽くすだけの意義と意味を、求めていた。



 ハンス・グリム・グッドフェローという男は、ある意味で自分と似ていた。ローランドは、ふとそう思った。


 ある一瞬に目掛けて全てを積み上げていく。

 燃やし尽くすその時のために全てを掲げていく。

 一生全てを費やし備えて、その一瞬の火花の炸裂のために研磨していく。

 そういう意味で、或いはマクシミリアンよりも、ローランドの方がハンス・グリム・グッドフェローに近しかったのだろう。


 ただ、異なるのは……ローランドの目指すそこが、物悲しくもある種の華々しさと共に報われる解放の瞬間とするならば……。

 目の前の男の至る道は暗く冷たい鋼鉄の道であり、その一閃と共に己の人生の意味が与えられる終点ではないということだ。


 この男は、意味も意義も求めていない。


 ただ、それを斬らねばならないから斬るのだと――――そして斬るために必要だからそうするのだと、それだけがある。それしかない。

 その一閃の後も、この男は進んでいく。

 その一閃を放てるようになった形のまま、その斬撃の角度のままに進んでいく。


 それは、果てすらも飛び越えて。


(ああ――――……)


 ああ、ああ、何たる瞳か。


 斬るべき事実しか見ていない。斬るべき目標しか見ていない。

 究極的な機能性の極致。人生全てを注いで作り上げられる極光の一閃。

 その男は、ただ、果ての星を見ている。

 果ての星を目指している。

 全てを振り落とすほどの加速度の、その先に――――。


(……錬鉄の刀身。理性と目的意識の怪物。殺戮の魔剣と化すモノ)


 その生すべてがその一閃とやらのためにあるのならば、この男は、きっと何もかもを引き千切って飛んでいく。

 全て。

 をだ。


 この男の旅路の果てには、死しかない。

 進むその道には無数の骸が転がるだろう。数多の死を積み上げて天界を目指す塔を作りあげるような、そんな道をただ一人進むだけだろう。

 この男に殺意は無くとも。

 その立場と、境遇と、戦闘能力の果てに――――関わった全てを殺し尽くす。


 何人殺すかではない。

 何人でも死なせるのが、この男だ。

 のがこの男だ。


 それは、天敵だ。


 生きとし生けんとするものの天敵だ。


 この男は、人類種というものの天敵だ。

 そこすらも通り過ぎて飛び続ける極光の猟犬なのだ。


(……ある意味では感服します。その切なる研磨……その錬鉄じみた祈り……ある種の慈悲ある心……形が違えば、アナタを主と抱いた未来もあったかもしれない。ですが待ち受けるその果てには死しかない……何よりその精神性は、ただ怪物と呼ぶ他ない)


 あまりにも――――あまりにも。


 ああ、あまりにも輝けるほどの敵は今ここに居た。

 あまりにも困難の果て、善悪の彼岸、彼方の空にてようやく出逢う星の光じみて――――。

 そんな男が、形を持ってここに居た。打ち倒す相手として、ここにいた。


 自然、頬が釣り上がる。


 


「ならば……答えは一つです、思索者シンカー。アナタこそ、その死者となるがいい。そんな身体で、やすやすとここに立つアナタが」

「……そうか」


 頷きと共に、引き金が引かれた。

 マクシミリアンの片膝から下が吹き飛んだ。

 何の感慨すらなく、弾丸を以って友人の片足を食い千切ったのだ。


「それは遺言か?」


 淡々と。

 ローランドを歯牙にもかけない、或いは誰一人すらも意に介さないその言葉。

 マクシミリアンは、すぐにでも処置をしなければ出血多量で死に至るだろう。そうして彼を事実上の人質にしたのだ。

 警官がそれを行えば不法行為だが――――例えば敵兵をあえて殺害せずに負傷させ、それを囮に救助に来た兵士を殺害する友釣りという方法は、

 合理的で、合法的。そこしか見ていない。

 ヒトをただ、記号的なヒトとしか見ていない。種としてしか見ていない。


 ああ、ああ、なんたる怪物か。なんと恐ろしい猟犬か。


 この男は、獲物しか見ていない。極光しか見ていない。

 他の全てをその瞳に映すことなく、翔べないまま飛ぶ。

 故にこの男は――――――世に最大の破壊を引き起こすだろう。その隔絶した戦闘能力のままに、そんな特別故に生まれる出逢いと責務とその生に巻き込まれる全てを引き潰して進むだろう。

 メイジー・ブランシェットが死に、マクシミリアンが憎悪に蝕まれつつあるかの如くに超重力の渦めいて人々を引き寄せて殺し尽くすだろう。


 【フィッチャーの鳥】も。

 【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】も。

 【蜜蜂の女王ビーシーズ】も。

 【狩人連盟ハンターリメインズ】も。


 その祈りの何もかもに止めを刺すのは、きっとこの男だ。


 それは、人生を懸けて打倒するには十分すぎる怪物。

 主の敵にして兄の仇にして、輝かしく、何よりもただ存在が危険すぎる処刑刃ピリオド

 竜殺しを騎士の誉れとするならば、この男こそまさに竜だ。形を持った暴力というだ。


(ああ――――――)


 自分という男は、きっとこの男を殺すために今日まで生きていたのだ。


 ローランドは、怒りと共にある種の昏い歓喜に襲われていた。



 ――――――人生の、意味を見付けた。



 故に、


「《仮想装甲ゴーテル》――――――展開ッ!」


 不可視の鎧は、その主の意思に呼応して瓦礫の教会に吠え上げた。



 ◇ ◆ ◇



 横たわった部下が、口を開く。

 赤く染まった服は、もう包帯は、手遅れだった。

 モルヒネだけを渡されて、彼は震えていた。

 その手を、握った。

 時折取り戻される正気の光が、彼に言葉を語らせた。


『中尉。うちの爺ちゃん、アルツハイマーで。今の俺みたいに、過去も今も、ぐちゃぐちゃなんです。ぐちゃぐちゃだったんです。話してると。ぐちゃぐちゃで』


 ……。


『俺のことも、覚えてなくて。思い出してくれなくて。俺は、あの人にとっての見知らぬ人になって。俺にとっても、どんどん、見知らぬ人になって』


 それは……。


『でも、何度でも言うんです。春先になると。登山に行ったんだ、って。あの山は綺麗だったんだって。本当に綺麗だったんだって。孫と行ったんだよって。……嬉しそうに。何度も。何度でも。行けてよかったって。本当に何度も。同じ話をして。するんです、何回でも、嬉しそうに』


 そうか。


『もう、全然、知ってる俺の爺ちゃんとは違うんです。別の人なんですよ。見知らぬ、別の人で……俺もあの人にとって……見知らぬ人になってて……』


 ……。


『でも……そんな人でも、見知らぬ人になってても。山の話、嬉しそうで。言うんです。何度も。……それで、俺も、それでも幸せそうにしてくれてるのが、幸せに生きてくれてるのが、嬉しいんです』


 ……そうか。


『見知らぬ人でも、嬉しいんです。嬉しそうにしてると。本当に。嬉しいんですよ』


 ……ああ。わかるよ。俺にも、わかるよ。


『中尉』


 なんだろうか。


『これって、変ですかね。それで戦うのって、馬鹿なことなんですかね』


 ……いいや。


『きっと、俺にとって、見知らぬ人って……皆俺の爺ちゃんみたいで。そういう人が、幸せにしててくれたら嬉しいんだって……俺、それで……』


 ……。


『やっぱり、そんなの、それでこんなことになったの、馬鹿なことなんですかね』


 ……いいや。

 君の行いは、尊いことだ。

 きっとそれは、尊いことだったのだ。君のその行いが守ったことがある。だから君は、後悔すべきではないのだ。

 過ちとは、俺が言わせない。

 君は尊敬に値する人物だ。自分を卑下すべきではない。……君は、尊敬に値する人物だ。胸を張れ。


『……へへ』


 どうかしただろうか。


『すみません、中尉。俺、ズルしました。中尉ならきっと、そう言ってくれるって……なんとなくそんなふうに思って……だから、俺が最期に会うが中尉で、嬉しいんです』


 そうか。


『あの人たち――……助かってくれたら、いいなあ』


 そうだな。……俺も、そう思うよ。


『……ああ、俺、本当に――……』


 ……。


『中尉』


 なんだろうか。


『中尉も、そんなふうに、戦うんですか』


 ああ。


『中尉も、そうなんですか』


 ああ。

 皆に……このような目に遭ってしまった皆に。貴官と貴官の祖父のような会話を、一つでも。あと一言だけでも、たった一言だけでも、それを言える時間が稼げたらいい。

 ほんの少しでも、人として、これまで生きてきた人として、その人生の時間を長く続けてほしい。

 その助けに……なりたい。

 俺は、そう思っているよ。


『……はは。やっぱり中尉、格好いいな。ヒーローですよ。中尉は。そういう人、なんですよ。中尉。任務以外で、もっと、皆と話したらいいのに』


 ……俺、は。


『笑ってください。中尉が居てくれたから、助かった人もいるんです。ああ……俺も、中尉みたいに……なりたかったなあ……』


 ……。

 ……案ずるな。形は違えど、君の祈りは、俺が担おう。その尊い祈りは、俺が忘れない。


『……ああ。格好いいなあ――……』


 ……。


『本当に。最期に会うのが中尉で、よかった。ありがとうございます』


 そうか。

 こちらも、感謝する。君は、勇敢だった。


 ああ……そうだ。君の、お祖父さんの名前は――。


 ……。


 ……安らかに。どうかその、祈りの果てよ。安らかに。



 ……大丈夫。

 俺は死者を担わないけど。

 今を確かに生きていた君の言葉は、俺も、忘れないよ。


 俺は立ち続ける。


 ここに、立ち続ける。



 ◇ ◆ ◇



 ゴホ、と咳が漏れた。

 もう、身体の感覚が殆どなくなっていた。

 粉塵が強く立ち込め――――その奥の機体の位置を、不正確にしている。

 強烈な爆風同然のそれに、教会の屋根という屋根は吹き飛んでいる。


「……シン、デレラ……さん」


 咄嗟にマクシミリアンを手放すままに覆い被さった先の彼女には、怪我はなかった。 

 そのことに安堵しながら、呆然と収まっていく煙の先の――鋼の巨人を見上げる。

 教会に《仮想装甲ゴーテル》投射を行った灰色の【ホワイトスワン】は、今は上空へと応射を行っている。

 奇跡的に――――その力場投射と上空からの着弾が同時だったために、こちらも死ぬほどの傷を受けなかった。しかし、マクシミリアンを取り逃がしてしまっていた。


(……せめて、足ではなく彼の首を折っておけば。いいや、それでは結局……もっと早くこの帰結になったか)


 読み違えたのは一点だ。

 あの場での《仮想装甲ゴーテル》の投射は、【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】という組織の屋台骨を徹底的に崩すことを意味した。マクシミリアンとシンデレラが巻き込まれれば、彼らの活動は中核を失ったものとなるに違いなかった。

 だというのに――……組織一つとの対消滅を考えるまでに、それほどまでに彼らがこちらを高く見積もり排除を考えていたとは、読みきれなかった。


「……」


 それほどまでに――……【フィッチャーの鳥】よりも強く、自分は、排除対象として認められたのか。

 彼らの理念を投げ捨てても。

 次期指導者であろうマクシミリアンを巻き込んでも。

 象徴となるだろうシンデレラを見捨てても。

 いや、何より――――


「……そんなに、この街の人のことは、どうでもいいのかな」


 呟きに、シンデレラの返事は返されなかった。

 呼吸も浅く、意識を失っている。

 すまない――――と、詫びる。

 マクシミリアンがこちらの排除を計画していると、己は、何故考えなかったのだろうか。その可能性を。少しでも。

 それができていたら、今頃、この娘は……どんな形にせよ、何かしらの治療を受けられていたであろうに。

 どうして……既に幾度と戦場で銃口を向け合っているのに、まだ、彼と対話が可能だと思ってしまったのだろうか。法の外での解決をしようと【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】を立ち上げた男が、今更、法の下での解決を望むなどと。

 何故――……思い至れなかったのか。


(……友誼とやらに縛られていたのは、俺の方こそなのか)


 見誤った。

 彼が実力によって政府組織への攻撃を行った人間だということを、見誤った。まだ対話の意思や法的措置による解決を考える理性があると見誤った。

 その一歩を既に踏み出しているなら――――彼にとって最も手近な選択肢には加えられているだろうに。つまりは彼の中での合理性の天秤が働けば、彼はもう民衆も法秩序も無視して攻撃をする人間だと定まっていように。

 その果てが、これだ。


(身体が……もう……)


 碌に動こうとも、してくれない。

 マクシミリアンとの問答を利用する形で無理に整えた息も、状態も、今の一撃で全てが引き戻されていた。

 きっとシンデレラを庇わなくても同じで――ああ、だから、彼らがアーセナル・コマンドを持ち込んだ時点でこれは定まっていたのかもしれない。

 自分が死んで……せめて、シンデレラは助けられるだろうか。彼女が巻き込まれないように、離れた方がいいだろうか。

 彼らはほんの少しでも、こちらを殺すことに満足したら、今も炎に包まれる民衆へと手を差し伸べてくれるだろうか。


 そう、熱っぽく身体の中心が抱いた気怠さに、瞼を閉じたい気持ちになってくる。

 自分が死ねば、彼らが、この無意味な攻撃を取りやめてくれるなら――――


(――――――いいや、いいや)


 奥歯を噛み締めて立ち上がる。

 あれだけ繰り返してもなお民衆の死を無視して己たちの戦略目標の達成を優先させる人間に――――それを担わせていい筈がない。

 俺を殺したら、次はなんだ。

 【フィッチャーの鳥】と戦う組織の存続のため?

 少しでもその戦力を維持するため?

 この街でその後も活動して汚名を着せられないため?

 保護高地都市ハイランド連盟軍との戦闘を避けるため?


 どんな理由でも付けて、ここを離脱するだろう。

 それが、彼らにとってのだろう。

 個々の言動で民衆を慮ってこちらを警戒するような言葉を吐きながら――――今まさにこの場で死にゆく人を己の合理性と正当性のままに犠牲にする。その矛盾から目を反らす。

 そんな人間たちに、此処を、任せられるわけがない。


「――――――まだ、だ……!」


 マクシミリアンを殺し。

 先に機体に辿り着き。

 敵機を撃破し。

 市民の救助に向かう。

 ここで止まるには――――早すぎる。俺の果ては、ここではない。


 だけれども、どう願おうとも己の身体はそれ以上は一歩も進まず。

 幽鬼めいて立ち上がるそれだけが限界で。

 上空へと撃ち返して牽制を行っていた彼のレールガンが、こちらを捉え直す。

 意思だけでは、超えられない壁か。

 ここで、俺は、終わるというのか。


 それでも――――それでも諦めはしないと、無理矢理に膝を動かすために敵を睨み続け――――――。









 

「――――――――待たせたな、相棒!」


 その声は、来た。

 車のエンジン音と歩兵用のライフルの銃声と共に、来た。




 ヘイゼル・ホーリーホックが――――――――来た。

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