【180万PV感謝】機械仕掛けの乙女戦線 〜乙女ロボゲーのやたら強いモブパイロットなんだが、人の心がないラスボス呼ばわりされることになった〜
第150話 影法師、或いは燕なき幸福の王子の像。またの名をパノプティコンの歯車
第150話 影法師、或いは燕なき幸福の王子の像。またの名をパノプティコンの歯車
魂、というものはない。
正確に言うならば、魂――
器の水が器によって形を変えるように、機器から離れた電気がただの電子の密度分布であるように、肉体から真の意味で完全に解き放たれてしまったそれは――所謂、霊魂などとはまるで異なるものである。
その単体は、人格を、有しない。
強弱のある、ただのエネルギーの塊だ。
電磁力との間の僅かなる相互作用と、そして、脳という出力器を通さなければ、ただ散っていくだけだ。その二つがあって初めてそれは、古式ゆかしき魂とも呼べる形を取る。
そして、彼のそれは既に――――集められ、使い切られている。
故に――――――。
故に、
ブラウン管テレビを消した後も、僅かに映像の名残があるように。
蛍光灯が、消灯してもまだ仄かに明るいように。
そこにある空虚であった男の脳に、魂というエネルギーが衝突した際に生まれた、そこで生じた電磁相互作用との残り香に過ぎない。
彼は既に、死している。
その魂は、消えている。
本当の命が潰えたその瞬間に、それは集められ、燃料として回収され――――既に使用されている。
……ああ。きっとこれはもう、ただの、影絵なのだ。
いや――――ああ、だからこそ。
だからこそ、立ち続けねばならぬのだ。
どこかの誰かが、そうなってしまわないように。
誰でもないどこかの誰かが、ただ、そうなってしまうその最後まで当たり前に生きられるように。
立ち続けなければ、ならぬのだ。
唯一――――――その痛みを、識るのだから。
姿なき、影法師として。
◇ ◆ ◇
昔は、六歳が大人に見えた。
六歳になると、十歳が大人に見えた。
十歳になると、十四歳が大人に見えた。
だから多分、彼女は、その時の自分にとって大人だった。
……それから、全て、気付くのだ。
同じ歳になったそのときに。
追い付いていくそのときに。そのたびに。
あの日の大人とやらは――どれぐらい足りなくて、頼りなくて、大きくなれなくて、強く在れなくて、あまりに子供で、不十分で、未成熟で、ずっと不安で。
だからこそ、如何にそれが尊いことか、わかった。
それは、己の歳が彼女を追い越してからも。
それでもあの日の彼女を思うと、常に自分の先に、いるのだ。
常に。
輝いていて。
気高く、美しく、勇気があって。
彼女は、まるで、遠く夜空に輝くの星のようだった。
◇ ◆ ◇
多分、言葉には、なっていなかった。
歯を食いしばりながら、喋れる筈がないのだから。
己の右手に、歯を突き立てる。
歯を突き立てて右腕を支え、彼女を少しでも強く抱き寄せ、濡れた路面に左腕を突き、這いずり進む。
(……女の子が居たんだ)
ぽつりと。
想いが、いくつも、零れてくる。
忘れていた想いが、匣が、開いて零れてくる。
仕舞ったものだった。自分の中で、数多の戦の匂いと煙に巻かれないように、仕舞ったものだった。
(すごい子だったよ。……本当に、すごい子だった)
十歳のあの日の、あの部屋の中で輝いていた貴女。
幾つもゴミ袋が並んだゴミ溜めみたいな部屋の中で、飛び込んできた宝石。
俺に勇気をくれた人。
目標をくれた人。
俺は、宇宙に、行こうと思った。どこまでも、宇宙へ。
……本当にすごい人だった。
(一人ぼっちで、傷付いて、何度も泣いて……でも涙を拭って、進んでいくんだ)
その人はきっと、とびきり綺麗な、ヒーローだった。
(どうして、ずっと、頑張るんだろうって思った……痛いのに、苦しいのに、どうしてだって)
負けるな――――と、その人は言っていた。
俺だけじゃなくて、見る人皆に、言っていた。
挫けるなと言っていた。どんなことを前にしても、挫けてはいけないと言っていた。折れるなと言っていた。
その生き方が、言っていた。
(貴女は、ずっと前を見て飛んでいた)
だから、ああ、負けたくなかった。
何にも。その人にも。
負けたくなかった。
その人は、すごい人だった。
(助けて貰えなくても、助けようとしてた)
宝石のような目と、金細工のような髪と、象牙のような白い肌。
その人は多分、きっと、宝物だった。
宝物でできた偶像だった。
それを全部、誰かのために捧げられてしまう人だった。
(仲間も居なくなって、憎み合って、離れて、争って、傷付いて……でもその人は、ずっと、先を見ていた)
ただ一人になっても。
その人は、飛ぶことをやめなかった。
(何もかもを燃やし尽くして、その人はずっと戦ってた。それで全部、何もかもなくなってしまうまで……その人は、戦ってた)
最後まで。
燃え尽きてしまう最後まで。
何も手にすることなく、その人は、全部、差し出してしまった。差し出して、最後に一人、コックピットで泣いていた。悲しそうに。苦しそうに。
そのまま、居なくなってしまった。旅立ってしまった。
何も返せない。
それでも貴女は、俺の中の、一番大事なものをくれた。
貴女の施しが、俺を救ってくれた。こんな俺を救ってくれたのだ。その日の俺を。誰でもない貴女の生き方が。
(俺は、言いたかったよ。貴女のおかげで、助けられたって)
ああ――……貴女に負けないように、生きようと思えたのに。貴女のくれた言葉が、俺に、目的をくれたのに。
俺は、果ての空のその向こうの、星を目指そうと思った。どこまでも。どこまででも。飛んでいくのだと。
……ああ、だから俺は、一言、言いたかったのだ。
貴女の人生は無駄なんかじゃない、って。
一人の子供を、確かに生き返らせてくれたんだって。
それは、結局、果たせなかったけど。
その前に、大きな列車事故で、失ってしまったけど。
でも――――――――貴女は確かに、そこに居たんだ。
そこで貴女は生きてたんだ。貴女の言葉に助けられた俺は、その努力で、いつか遠い星を目指したんだ。
俺は、証明したかったのだ。
貴女の人生は無駄なんかじゃないって。貴女は、確かに、そこにいたんだって。
ああ――……
(……俺は、あの人に、幸せになってほしかったんだ)
燕なき幸福の王子に――――助けられた内のただの一人として、いつかその像を、作ってあげたかったのだ。
(シンデレラさん)
自分の心の雪原に、雪が降る。
石畳にも、雪が降る。
雨はいつしか、雪に変わっている。入り混じって、路面が、白く染まる。
そこに、赤く、血が垂れた。
(シンデレラさん、生きなきゃ、駄目だ)
その中で、手足を動かす。
冷えて固まっていく中、それでも進む。
進むのだ。そうするために、軍人になったのだから。
(幸せにならなきゃ、駄目だ)
もしもあの話に燕が居たら。
あの宝石の目を守ってあげられたのだろうか。
その心臓は、砕けなかったのだろうか。
燕が、居たなら。
居ないなら――……ああ、そこに、居ないなら。
(貴女は、生きて、幸せになるんだ)
俺がそれを、やろう。
あなたに助けられた、ただの、何でもない、一人の人間として。
燕ではなく、王でもなく、金箔を渡された人間として。
決めたのだ。
施されたなら、施すのだ――と。
(貴女だけじゃない。生きている人は、皆、幸せになってほしい。当たり前に生き続けてほしいんだ。……貴女も、そうなってほしいんだよ、俺は)
爪を立て、少しでも滑らないように、這いずる。
多分、張り付くスーツの下で、爪も割れた。剥がれたかもしれない。身体も、どこの骨が折れているかも判らなくて、中でどう出血しているのかも判らない。
それでも、いい。
俺は、耐えられる。耐えられるための自分を、作った。初めから、そうすべく、そうしてきた。
だから、俺は、どうなっても、構わない。
(シンデレラさん――――……)
でも、この人は――――この人だけは。
腕の中の彼女の顔はどんどんと白く変わっていて、酷く状態が悪いのかもしれない。
何も判らない。
それでも、ただ、前に向かうしかないのだ。
だから、ただ、前に向かうしかないのだ。
動け。
屈するな。
動け。
そうして、雪原のように静まった廃墟を進んでいく。
次々と雪が生まれる廃墟の街を、進んでいく。
翼もない、ただの犬として。
俺は、燕に、なれないけれど。
それでもあなたを、助けたいのだ。
「――――……ッ」
上空からの流れ弾が建物を打ち崩し、爆発と共に瓦礫が飛散する。
その破片に額が切れた。
咄嗟に覆い被さった先の彼女に傷がなく、安堵する。
戦闘が広がっている。明確に、市街地に着弾する弾丸やミサイルが増えた。《
つまりは、この都市は、もう戦地なのだ。
ただの人の身では生き残れない戦地なのだ。
空襲めいて流れ弾が次々に到来していた。
(まだ、だ……シンデレラさんを……衛生兵に……それから……出撃して――……さっきのあの娘たちを、助けに……)
突風が路面の雪を浚い、更に石礫混じりの埃が降り注ぐ。基地はもう、間近だ。だからこそ、このように流れ弾が生まれるのか。
腹から吐息を絞り出そうとして――顔を上げた先に見えた、炎。松明。凶器。
幾人もが集まって合流していく集団が、道の先に広がっていた。避けられない。避けようがない敵。
そしてすぐにその内の幾人かがこちらを見咎め――……投石と銃撃が開始された。
「――……ッ」
降り注ぐ石礫。飛び来る弾丸。
咄嗟に、彼女の身体に覆い被さる。応射もできない自分では、この状況の解決は不可能だ。
このまま引き立てられ、墜落したヘリのパイロットの如く嬲り殺しにされるか。自分だけでなく、この少女も。
その怒りで、腕に力を込めた。
だが、だからといって、現実は変わらない――この状況を変えることはできない。
かろうじて、だ。
かろうじて、運良く、流れ弾となったミサイルが至近距離の建物に着弾した。その土煙と粉塵が爆発に巻き上げられ、一旦、こちらを狙う攻撃が途切れた。
続く空爆同然の砲撃は、一時的な助けだった。
彼らの視界から逃れるように手近な建物に転がり込む。
逃げ込んだそこは――教会だった。
「……」
向き合った先の、蝋燭に照らされる大きな十字架。
開いた背後の扉から吹き込む雪と冷風。
思わず、呆然と息を呑んだ。
神の家。死者の眠る墓地。敬虔なる者しか立ち寄れない場所。血や暴力で汚してはならぬ場所。
幾つも長椅子の置かれたそこは、僅かに壇上の蝋燭が揺らめいており、掲げられた十字架と共にどこか犯し難い荘厳さを持っていた。
ぎし、と床板が軋んだ。
肘を付いた己の身体の下で、金髪を広げて倒れる彼女。
脳震盪ならば、いい。だが、目を覚まさない。顔色は生気を失っていて――……そういえば途中、一度、彼女の腕時計が鳴ったことを思い出した。
以前も、そんなことがあった。
あれは、何か、投薬などの時間制限だったのだろうか。
ともすると今、この少女は死の淵にいるのだろうか。
或いは自分も、もう、詰め寄せる暴徒たちに殺されるかもしれない。
「……俺、は」
歯を突き立て続けた右手は、骨が見えていた。
改めてそれを眺めると、ズキズキと、そこに心臓ができたかの如き痛みが取り戻されてくる。
口角を血が伝う。
床に伏せるようにして見上げた先の十字架を前に零そうとしてしまった言葉を、流血ごと呑み込んだ。
でも、この人は――――この人だけは。
苦しんできたのだ。耐え忍んできたのだ。
あれだけ、一人で、何もかも削って戦ってきたのだ。
家族から裏切られ、仲間たちを次々に失い、時には己の手でその命を奪い、人々の希望となるべく奮戦し、ただ一人でも善のその下に居ようとした。
なら、報われたって、いいだろう。
許されたって、いいだろう。
「シンデレラさん……起きてくれ、シンデレラさん……。返事を……返事をしてくれ……シンデレラさん……」
覆い被さるように彼女のその華奢な身体を幾度と揺さぶりながら、その名を呼んだ。
だが、呼びかけに答えない。
気を失ったまま、目覚めない。
これでは、彼女が独力で逃げることは不可能だ。
彼女に覆い被さりながら、何もできずに蹲った。もう、身を起こす気力も、ない。
胸が苦しく……泣きたくすら、なった。
頼む。
頼む――ただ、頼む。
何を差し出してもいい。何を奪われてもいい。でも、この人だけは――――この人だけは。
幸せになっても、いいだろう?
報われても、いいだろう?
ほんの少し、笑える日が来ても、いいだろう?
(どうして、なんだ……どうして、貴女には、そんなことさえも――……)
与えられないというのか。そんなちっぽけなものも。
己のように分不相応な幸運がある裏で。
彼女のように、その努力に見合わぬ対価がある。
最早その事実に怒ることもできなかった。
自分が、この娘のことを怒っては、ならないのだ。
怒りの獣も怒りの首輪も、どちらも、彼女を理由にしてはならぬのだ。
故に、身を芯から震わせ全てを焼き尽くしたくなるほどの怒りはとうに――――もう、己からは失われてしまっていた。それを、手放してしまっていた。締め上げるための怒りも、奮い立たせるための怒りも。どちらも。
それに頼ることは、できなくなった。
(ああ……)
潰れた右目から血が伝って、それが、床に垂れ落ちた。
上空の戦闘の推移次第で、あの暴徒たちは、やがて、ここにも来るだろう。それとも流れ弾がここを吹き飛ばすことの方が早いだろうか。
つまりは、ああ、詰んでいるのだ。
かろうじて、上体だけを起こした。
膝を突いて十字架を見上げるような己の前の床には――金髪を広げたきり意識を喪失して崩れた少女がいて。
己はもう、指を動かす気勢すらなく。
そして、街や、秩序や、社会を焼く火が迫りくる。
……ああ。
己が立ち上がった果ては、ここでこうして、終わることだったというのか。
これが、歩き出した先の結末だったのか。
……いいや。
いいや、それでも、まだ――――
「だっ、誰ですか……!」
歯を食い縛ったそのときに、教会に響いた声。突如のそんな声に反射的に目をやった。壇上の祭壇のその影から現れた――痩せた中年の男性と少年。
子供の方は額から血を流し、それを男性がハンカチで抑えているらしかった。
避難者。
生存者。
助けるべき、市民。
それがいる。それが、いた。
「……」
一度息を吐き切り、改めて口を開く。
「……こんな姿勢ですまない。俺はハンス・グリム・グッドフェロー大尉、第五五五大隊所属の
「
「そちらは? 親子か? 兄弟か?」
こちらの問いかけに、男性は首を振った。
思わず――……息を飲んでいた。
つまりは、彼は、全くの赤の他人を助けようとしたということだ。街が――こんな状態であるというのに。
(――――)
これほどの暴虐が蔓延ろうと。不実と不信が広がろうと。
彼は、人を、助けようとしたのだ。
誰に促される訳でもなく。誰に施された訳でもなく。
彼は、当たり前に、人を助けようとしたのだ。
ああ――――あまりにも眩く輝くどこかの誰か。
そこに輝く名もなき詩。名もなき善。名もなき光。
狂い日のような戦場の中でも行われる生への献身。決して壊されては、ならぬもの。
それが、今ここに、あった。
それが、あった。
あの日、この世界に自分を取り上げた医師のような。
得難い愛と献身が、施しが、そこに確かにあったのだ。
「……ああ」
ああ――――ならば、理由なんてそれだけでいい。
そうだ。
それだけで、俺には、あまりにも十分すぎる。
◇ ◆ ◇
二機の古狩人が上がった先の空は、燃えていた。
暗雲の齎した暗黒を割くロケットの花火。暗闇を横切る弾丸の流星。流れ弾が住居に降り注ぎ、そして、大地では火が踊っている。
地獄をどこと呼ぶかと問われれば、此処だろうか。
幾度と出撃を行った彼らとて目の当たりにしたことのない市街での戦闘――――あの、【
「どっから手を付けるっスか、ローズレッド先輩!」
機体背部のガトリング砲を即応射撃可能にしたフェレナンドが叫ぶ。
その言葉の通り。対処すべき事態が、幾つもある。
まず、警戒チームとして空に上がっていた友軍と【フィッチャーの鳥】が戦闘になっている。装備は同質で多勢に無勢。協力しなければ、彼らも呑まれるだろう。
そして、避難所各地で立ち上がる煙。これもすぐに事態の収拾を行わなければ、市民同士の大規模な殺し合いに発展するだろう。
最後に、今まさに彼女たちが出撃してきた基地。
格納庫の幾つもにも暴徒が詰めかけ、出撃できたエルゼたちは極めて運がいい側だ。滑走路が封鎖されているために航空機が発着できず、管制塔も炎に覆われて煙に包まれている。ここの安全が確保されなければ、市街への派兵もできない。
エルゼは逡巡し――――
「味方に出撃準備の通信! それから、格納庫周辺の暴徒に警告! それでも退かない場合は威嚇射撃の実行!」
「りょ――了解っス! でも……」
「責任はあたしが取ります! 現時刻を以って、軍事施設に対する攻撃は全て敵の破壊工作と認定します! 警告に従わない場合は効力射を実行!」
暴徒とはいえ市民への銃撃となれば、確実に後の軍法会議は免れないだろう。
それでも今は、拙速を尊ぶしかなかった。
それとも――――いや、可能な限り安全な手段から実行すべきだろうか? 後にそこが処分を分けないか?
(基地消防隊の放水を――……いや駄目ですね。消防車を出せるか判らない。出しても、轢いていくことになる。こちらからの援護は必須……それよりは、一刻でも早く格納庫を開放して一機でも上に出す方が――……でも……)
こういうときに常に即断即決を行える自分たちの指揮官が居ないのは、痛い。無念無想の境地の如く、目の前の命題を一太刀に解体する歴戦の勇士。
だが、上空に逃れて理解できた。
とてもちょっとした暴発やデモではない。これは大規模なテロだ。煽動を伴う国家転覆紛いの代物だ。十中八九、呼び出された自分たちの指揮官はその途中でこの騒動に巻き込まれている。
ともすれば、彼が無事でいられる保証もない。
滑走路に広がり、ゾンビの群れのように格納庫に押し寄せる民衆の頭上を飛ぶ。バトルブーストのソニックブームを浴びせたが、それで覚めようとはしていない。
撃つしかない……そう決めた。だが……。
『こちらヴァイパー隊、プレイボーイの大尉殿はご健在か?』
どこかの格納庫から放たれた超短波通信。
ノイズ混じりの声には、機体の排気音も含まれている。
あのとき、市街への火山弾を防ごうとしていたうちの一人。
「っ、ノーフェイス1は呼び出しのまま未帰還! 指揮はノーフェイス2が取っています!」
『了解。クソッタレだな、猟犬抜きか。……ノーフェイス小隊、おたくのコマンド・リンクスは対・強襲猟兵に向かってくれ。こっちは、コマンド・レイヴンで受け持つ』
「でも――格納庫は……」
エルゼは、全天周囲モニターを見回した。
どこも松明や鉄パイプやプラカードを片手にした民衆が詰めかけている。着隊時の一悶着のせいで嫌がらせとばかりに滑走路の反対側の格納庫に配置されたエルゼたちだけが何を逃れた形だった。
『あー、いや、何。問題ねえさ。――おい、警告の放送はやったな!』
別の誰かに呼びかけるような声と共に。
『よーし、緊急発進の口実は整った! 緊急発進のために速やかなる加速が必要!
そして――眼下で、格納庫の扉が勢いよく弾き飛ばされた。そのまま更に不可視の衝撃波が連続して空中で弾け、それが齎した突風が詰めかける人々を無慈悲に横倒しに転がしてく。
呻いている以上は、生きているだろう。
爆発的な突風による非殺傷鎮圧だった。
『さて、んじゃあ――やむを得ない機体の動作確認だ!
それは、ある種の歴戦の持つ口実づくり。
発砲よりもよほど合理的な建前を用意した実質的な武力鎮圧。
『整備兵が隣の
「っ、わかりました――――言っときますけど、これでセクハラの償いにはさせませんよ?」
兵士としての諧謔を交えた後押し。
更に、短波通信は続く。
『ノーフェイス小隊、こちらエンプレス隊。基地警備中隊と合流ができた。格納庫周りが片付いたら、基地内の鎮圧を行うよ』
「了解! ノーフェイス小隊、制空戦闘を開始します!」
それから、即座に機首を翻した。
暗雲の下、流星じみて宙を飛び交う機銃掃射。
巡回監視チームであったバンドワゴン隊は既に【フィッチャーの鳥】との戦闘を開始している。
通常ならば戦闘管制オペレーターやコンバット・リンクと連携して敵情報を受ける手筈となっている本土空軍の彼らにとっては、この戦場は分が悪いだろう。
少なくとも――……
この戦役が始まってから最も戦闘経験を積んだ部隊だという小隊長の言葉を思い出す。
改めて出逢ったその日には、中隊長だったその青年の。
――――〈目を閉じろ、エルゼ・ローズレッド〉〈腹からありったけ息を吐き切り、止めろ〉。
――――〈その上で問おう。できない、と言うなら無理はない。……貴官はそれでも立ち向かいたいか、否か〉。
――――〈逃げたいのか、死にたくないのか、勝ちたいのか、負けたくないのか……どれでもいい。貴官は一体何を望む〉。
――――〈重要なのは、そこだけだ〉〈意思さえ定めれば、あとのやり方はこちらが受け持とう〉。
およそ神に祈ることなく、何を頼りにすることもなく、ただ一直線に飛んでいく隊長機。
鋼の風。
あの背中には追い付けず、きっと、その速度が緩まることもない。
だとしても――
「ノーフェイス小隊、
花火のように砲炎が飛び散る空域へと、一直線に機体を向けた。
背部二門の五十五ミリガトリング砲が稼働する。
古狩人と古狩人の衝突が、開始された。
◇ ◆ ◇
ある宇宙でのことだ。
そう――――炎髪のウィルヘルミナ・テーラーは、今まさに戦場となったレヴェリアの街並みを眺めつつ考える。
アーネスト・ヒルデブランド・ギャスコニーの手勢と、ウィルヘルミナ・テーラーの技能が齎した戦の炎。
それを眺めつつ、彼女は考える。
どこまでも白く――――そして月色の瞳を持った、天の御遣いの如き少女のことを。
『やあ、こんにちは……もう一人の悪役令嬢ちゃん。突然だけど、恋の話をしないかい?』
その日彼女が座していた船室に突如として浮かび上がったそのホログラムに、ある筈のセキュリティは何の反応も示していなかった。
『……どうやって、この回線を?』
努めて平静と威容を保ちつつ、ウィルヘルミナは内心でこれ以上ないほどに眉を寄せていた。
彼女の座す【
だが、それを、掻い潜られた。
それどころか――――今まさに宇宙を往く船にクラッキングを行うということは、少なくとも、その電波が虚無の空間に発散しないほどに接近しなければならない。
噂に聞く
『君は面白いね。僕からでも見える。よく見えるよ。そうさ、本当は、全てはひと繫がりなんだ。だって全ては変わらずにずっとそこにあるんだからね。真宇宙は始まりから終わりまでそこにある無限さ。区切られているだけだ。ああ、そうだね。君のその炎は、その角度の向こう側にいける。角度を飛び越えて――いいや、崩すための力さ』
教科書に書かれた当たり前の事実を読み上げるように、その少女は、明かした覚えもないウィルヘルミナの力を言い上げた。
その、深遠にして遠大な月色の瞳――――。
『……お前は、なんだ?』
思わず彼女の口を出たのは、そんな言葉だった。
まるで目の前の人型のホログラムが。
それさえも虚構でしかない、大いなる神々の端末にさえ見えて。
神々――――こんな。こんな科学が発展した、こんな、空のその先にある宇宙で。存在しているなら天の国さえも突き抜けた向こう側の場所で。
一体そこにいる神とは、何だというのか。
『んー……君たち風に言うなら、恋する乙女かなあ。僕はずっと待ってる……四百五十八億光年のそのまた彼方から。そして同時にすぐの再会さ。ああ、だって、そんな区切りなんて無意味だろう? そうさ。僕と彼にとっては時間なんて関係がないんだ。彼にとっても僕にとっても、そこにあるだけで――未来も過去も何もが同じなんだから』
意味不明な――錯乱的な言葉。
だというのに、そう思えないのは何故だろうか。
四百五十八億光年――――今、人類が観測できる最も古き光が発せられたのは百三十八億年前。それが宇宙の地平線であり、その先は未知の領域だ。
そんな宇宙背景放射は、赤方偏移を鑑みたならば、距離としては――――百三十八億光年ではなく四百五十八億光年と表すのが正しい。
ならば。
その言葉は、つまり、外なる――――
『僕たちにあるのは、ただ焼け落ちるだけの恋だよ? それだけが重要なんだ。何もかもを焼き落としてしまうその果てに、僕と彼の唯一の恋があるんだ。鏡写しの向こう側でしかない僕らの恋が』
うっとりと、その、来訪者は目を細める。
どこまでも人間に似た――――人間ではないナニカ。
超外宇宙的な神性めいたその純白の化身は、それから、再びウィルヘルミナへと目を向けた。
『君は、面白いことをしようとしているね。悪役令嬢ちゃん』
『お前は一体……』
『うん? 僕は僕さ。まあ、今は僕であって僕らではないし――――それでもやっぱり僕らであり、そして僕であって僕ではないけど。まあ、僕は僕なんだ』
『……』
『面白いね、君は。その分だと――――見付けたんだろう? その力の使い方を。そうさ。
……そうだ。
ウィルヘルミナのその力は、
端末として地上に送った人間たちから、確かめた。それを利用し、能力の検証を行った。
彼女の力は――――ガンジリウムの汚染者にも及ぶ。
『まさしく君は、いや……君らは一つの蜜蜂だ。君はその蜜蜂の女王だ。面白いよね。そちら側の角度からも此処まで辿り着けるかは気になるけど――……ああ、でもごめんね? それじゃあ、僕の伴侶になれないんだ』
『……一方的に喋ったと思えば、実にくだらない求婚だとはな。私からも願い下げだ』
『へえ? うん、まあ、だからわざわざ断らなくていいよ。別に僕もその気がないんだから』
『……話の意図が見えないな。わざわざ妄言を吐き出しに来たならば、似合いの神父を教えてやろうか?』
飄々と笑う少女は、それから、ニンマリと目を細めた。
『火を点けたいんだろう?』
『――――!』
『ああ、別に僕に気兼ねしなくてもいいよ。だって、ああ、その炎じゃ焼き落とせない。彼と通じ合えるのは、この世で僕だけなんだから。一つの
『……それで?』
『うん、まあ、ちょっとこれでも僕は遠くてね。光の速さ――――正しくは光の九十九パーセントかな。だけど、それでも遅くて、まだ、時間がかかるんだ。だから……ああ、そうだね』
碌に成り立たない会話。
一方的に告げるままに、少女はただ――一言を言い放った。
『天体衝突誘引装置なんて……そもそも力場ってそんなに遠くに届くものだっけ?』
『……!』
『うん、それじゃあね。ふふ――――ああ、女王に成れても、王配はいないのかい?』
『――――』
『愉しむといいよ。その力を。すべてが混ざり合ってしまう中で、それでも分かち合えない唯一を求めてしまうということを。そして、自分だけがそうなってしまうことを。ああ――……まさか君たちの中から、僕と同じ視座を持てる
何かの先達や。
或いは同類のように。
一方的に語りかけた少女は、それで、消える。
ウィルヘルミナへの、幾ばくかの言葉と共に。
そして、
(【
そう思い至ったとき、この度の、ウィルヘルミナの計画は始まった。
己の国を残すために。
その土壌を生むための戦乱を作るために。
何よりも――――――不毀なるあの剣を、砕くために。
(……ようやく見付けたわ、ハンス・グリム・グッドフェロー。形は違うにしろ――……貴方を追い詰めることができた)
【
そして、要人が死したタイミングでまさに通信衛星を破壊し、混乱を引き起こした。
あとはその混乱に乗じて、一人の男を抹殺するだけ。
この場は――――
(秩序すらも失われて、それでも、貴方はそこに居られるの?)
ウィルヘルミナの――――いいや、ウィルヘルミナ本人ではなくともウィルヘルミナの殺意を伝播された民衆が扇動し、それは、力に依らずとも広がった。
あとはそれで呑み込むだけだ。
あの男を。
そして、分不相応にも――――全てを手放し飛び立つはずの、何とも分かり合わない筈のあの男が、何の冗談なのか庇ったという少女を。
引き裂き、打ち砕き、その精神も肉体も嬲り尽くし、その首を刎ねるだけだ。
(……盆の上で、私の作る秩序を眺めなさい。ハンス・グリム・グッドフェロー――……!)
数十人近くに膨れ上がった殺意を滾らせた暴徒たちが、神の家を目指す。
それはどこか、冒涜的な教徒めいていた。
◇ ◆ ◇
膝を突いて教会の床に腰を落としたこちらを前に、目線で幾度と伺っていた男性は、やがて、躊躇いがちに問いかけてきた。
「その……外は、もう……安全なんですか……?」
「いや。……今まさに、暴徒の手は迫りつつある。そう遠くなく、ここにも」
「ひ……!」
「……」
怯える彼は、いよいよ駄目だと目を閉じた。
少年は諦めたように、騒ぎ立てもせず、ぼんやりと彼と己を見ていた。よほどのことに出逢ってしまったのか。
武器を持たぬ彼らでは、もう、この事態を対処することはできないだろう。暴徒が雪崩込めば、彼らもシンデレラも、死すべき定めにある。
きっと、こんなときにこそ、祈りを捧げたくなるのだろう。男性も、蹲って神へと縋る言葉を口にしていた。
(……ああ)
そして、自分は、首を振った。
……知っているだろう。神は居ない。祈りは届かない。救いは来ない。死の先には、虚無しかない。
苦しみの中で、こんな筈ではないと、死んでいく人を多く見た。多く見た。
ああ、そんなことはとうに知っているだろう。
そこには、何も、ない。
ならば、どうする?
兵士は、どうする?
「ハ、ァ――……す、ゥ――……」
呼吸を整えた。
祈りは不要だ。願いは聞き届けられない。誰も手を差し伸べない。誰の手も望まない。
俺は、そういうものだ。
そうでなくては、ならぬのだ。
「ハ、ァ――……す、ゥ――……」
彼女を横たえ、腕を杖に上体を起こす。
膝が、固い。
肩が強張る。
ああ――――だがそれが、一体何の障害となる?
(――――――お前は、なんだ?)
呼びかける。
己の血へ、呼びかける。
無理矢理にレバーを引き、エンジンを起こす。
燃料が空だろうと。
そこに部品がなかろうと。
己が、一人の人間の見るただの白昼夢だろうとも。
そんなことは、もう、どうでもいいのだ。
俺は――――――兵士だ。一匹の、猟犬だ。
(――――――喰い殺せ)
己の中の猟犬へ呼びかける。猟犬の血へ、呼びかける。
牙を。
己は、殺すためのものだ。ただ殺すためのものだ。
それを磨いた。それだけを磨いた。ただそれだけでいい。それ以外は、いらない。でなければ、成し得ない。
殺すのだ。
立ち塞がるものを、殺すのだ。
なんであっても、必ず、殺すのだ。どんな困難も、殺さねばならぬのだ。幾度立ち上がろうと、殺すのだ。つまりは、ただ、殺すために殺すのだ。殺すために殺し続けている。これからも。この先も。それだけのために。
そのために、生きてきたのだろう。
(――――――喰い殺せ)
蹲るためでもない。
祈るためでもない。
殺すためだ。殺すために、兵士と、なったのだ。
そうだ。
お前たち全てを――――――お前たち悪なる全てを、ことごとく、何もかも殺し尽くしてやる。
俺は、そのために、剣を執ったのだ。
(――――――喰い殺せ)
意識が、湖面に沈んでいく。
疲労も熱も遠ざかる。脳の奥の、冷たい水の中に発散する。散っていく。
吐息を、深く。
切り替わる。――――切り替える。全てはそのためだ。殺し続けてきたのはそのためだ。ただ殺す。己の有用性は、その一点にある。如何なる余分も、欠点も、必要ない。
刃だ。刃となれ。ただ、それを違えぬためにある。
ならば、
(――――――――――――――喰い殺せ)
起きろ。
噛み千切れ。
目に映るものを、ただ殺せ。
理由も、正義も、信念も、道理も――――一切が余分。
ああ、何もかもいらない。
そんな脆いものは、いらない。
剣は、振れる、剣であれ。炸裂する一つの炸薬であれ。枯野に広がる大火であれ。吹き荒ぶ嵐であれ。振り下ろされる鉄槌であれ。ただ獲物を喰らう猟犬であれ。
殺し続ける一つの機能だ。
そこに一切は、紛れる余地もない。
ハンス・グリム・グッドフェローは、殺すためのモノだ。
絶対に折れることなく、確実に殺すためのモノだ。
その機能の極点にあるモノだ。
(俺は――――……)
いつかの一太刀。
どこかの一太刀。
いずれの一太刀。
ただの一度。一瞬の、一閃のために。
そのために――――そのときに、決して砕けぬそのために。
(それが、ここだ)
頷きを一つ。
(それが、今だ)
いいや、それは未だ――――――だが、何であろうと変わりない。一つの死を積み上げて、無限に至る。
果ての空の、その先へ、飛ぶ。
一の向こうに、無限はある。つまり、一は、無限だ。
そしてとうに、一を、踏み出した。
ならば、無限の果てだろうと、構わない。
己は折れない。
己は砕けない。
己は毀れない。
己は猟犬のまま、翔び続ける――――――。
「……案ずるな。何としても、君たちの生存は保証する」
呟き、抱き上げたシンデレラを長椅子に横たえた。
眠りゆく少女は絵画の内の流されるオリーフィアに似て、しかし、未だ息絶えずにここにいる。
証人――――と彼女は俺に言った。
ならばまず、この少女こそが主体だ。彼女が居なければ始まらない。そして自分の証言と証拠は、既に、用意されている。信頼性が高い金庫へ、当該のログデータは保存してある。どこかで自分が死んでも、彼女さえ無事ならば弁護士を経由して伝わる手筈だ。
(……法の下の解決を願うならば、君こそがすべての鍵だろう。君の生存達成が、何より、この戦役を抑える鍵となる)
吐息を一つ。
無理矢理に呼吸を整え、椅子の背もたれを支えにかろうじて立ち上がる。
優先順位を付ける。
いずれにせよ戦闘が避けられないのならば、迎え撃つしかない。全てを平たく踏み均すだけだ。
「俺が外に出て、いくつかの銃声の後にもし音が止んだのなら……速やかにこの場を離れた方がいい。そして物陰に身を隠して、林檎を探せ」
「り、林檎?」
「林檎型のドローンだ。……彼らなら、確実に君たちの保護が実行できる。くれぐれも、音がもし止んでしまったなら……そのときは最悪を想定してくれ。そして彼らと合流できたなら、『あの娘たちの救助を頼む』と伝えてくれ」
男性は、少年とこちらを何度も眺めていた。
言葉の通りにしてくれるかは、五分五分だ。彼の視点からでは、迂闊に動くことが危険だと忌避されてしまうだろうか。自分も、どちらが良いのか断言できなかった。
何にせよ、やることは一つだ。
「感謝を」
「……え?」
「こんな狂炎に包まれた戦場でも、人としての善を捨てなかった貴官に――感謝と敬意を」
敬礼を一つ。その動作だけは、淀みなく行えた。
腹から息を絞り出す。
そして、ふらつく足のまま、教会の壁に非常用に備え付けられた短斧をガラスから割り奪う。
これで、弾が切れても戦える。
短斧。
近接戦闘術。
それを活かしたものも、そういえば、従軍してから教わったのだと――そんなふうに思えて笑った。
「俺は、君たちの、理由のいらない生だ。何より――この国と契約した、軍人なんだ」
ああ、つまりは命題は一つ――――義務を果たせ。兵士であるということの義務を。
左手のリボルバーと、布で固定した右手の斧を構える。
荘厳なる扉を押し開く。
あの日のマーガレットは、こんな心地だったのだろうか。こんなにも晴れ晴れとしていて、そして口惜しさの入り混じる――寂しい気持ちだったのだろうか。
その寂しさが、寒さが、胸を奮い立たせる。
何故立つのかと問われたら、決まっている。
――――――俺が、そう決めたからだ。
「〈イェーアトの戦士の中で王だけが苦しみに耐え、戦いに孤独に倒れることがあれば、それは、在りし日の王の勲功に見合わぬことだ〉……か。ああ、そうだろう」
孤独に竜と戦いし老いた王の、その盾を担った青年の言葉を噛み締める。
そうだ。シンデレラさんが、あの彼らが、こんなところで終わっていい筈がない。ここを終わりにしていい筈がない。
そのまま、幽鬼のような歩みで――暗がりの中。白く雪が降り積もる中を、進む。
斧の刃が、冴える。
教会近くに展開していた武装集団へと、踊りかかった。
あとには、血風のみが吹き荒れる。
アドレナリンの高揚が、己を一個の武器に変えた。
◇ ◆ ◇
おぞましき邪教徒の集団か。
それとも、恐るべき暴力の象徴か。
掲げられる松明、火炎瓶、鉄パイプ、ライフル、スコップ、バット――――――。
ああ、それでいい。
お前たちは、それでいい。
(――――殺し尽くしてやる)
小さく、呟きを一つ。
天秤は定まった。
つまりは、あとは、現実をそれに合わせるだけだ。
悪なる者よ。踏み躙る者よ。暴虐よ。破壊よ。悪逆よ。
ああ――――――俺は、お前たちの死となろう。
永劫と続く、お前たちの死となろう。
これは、その、手始めだ。
一歩――――
「――――――――――」
空から流れたミサイルが着弾し、猛火と旋風が吹き荒れる。不可視の波が空の湖面を打ち、即座に粉塵と黒鉛が満ち溢れる。
故に――――それは紛れもなく、虚だった。
爆炎に紛れて、殺戮の幕が上がる。
爆風の衝撃に叩きのめされて、地に深く伏せた。五体を、四肢を、石畳に眠らせた。重力と圧力に押し込められ、手足を突いた。
瞬間、紫電が弾ける。
衝撃に応じた
バネの如く、跳んだ。
横薙ぎの一閃――――少年の頭部が跳ね跳ぶ。
二人目。
間近な相手の口腔に銃口を突き立て、引き金を引く。
頭部が爆裂。
弾丸はその背後の男の頭までをも引き千切り、そして、いずれの死体の破片も周囲の男たちの顔面に吹き飛び、彼らのその目を血飛沫に眩ませた。
もう一つ。
後頭部が消し飛びながらも、銃口を突き入れた男の顔はかろうじて残っていた。そうだ。つまりは、その上顎の骨と頭蓋を使った物理的な反動制御。
死体を引っ提げ横薙ぎに振るった銃口のままに、更に一発。爆発的な左腕への衝撃と共に、一撃で三人の眉間を粉砕した弾丸が吼える。
左肩が外れそうな圧力に引かれるまま、己も態勢を崩した。雪の石畳に滑りながら、そのまま足を振り上げた。
爪先が、一人の股間をひしゃげ潰す。
ブーツの爪先は睾丸を破裂させつつ、恥骨を粉砕した。ズタズタに破砕された骨が肌から露出し、人間が、蹴り上げられるままに宙を舞う。
その反動で、己は、もう一度地を踏み締めた。
そして――――短斧の柄頭から、更に集団の一人の顎に衝突する。不格好なアッパーのような一撃。その跳ね上げる勢いのまま引き絞るように斧を構え――――横一閃。少女の頭部が弾け飛ぶ。
ああ。殺戮という、己の人生の形。
奪う命が、浴びる鮮血が、己という刃を研ぎ澄ませる。
命そのものを喰らって血肉にする獣のように、殺戮と死が、狩猟者としての己を純化させる。
前腕に縄めいた筋肉が浮かぶ。
また一閃。
人体の顎から上を、跳ね飛ばす。脳漿が宙を舞う。
(シンシア――……シンシア・ガブリエラ・グレイマンよ。星の乙女よ。輝きの乙女よ。あの日の、遠い君よ)
その日のあの娘に、もう、会うことはない。
こちらの彼女が助かったところで、彼女は救われない。
だとしても、想う。
だとしても、祈る。
祈りを捨ててなお、拒んでなお、祈る。
弾丸が掠めた。
弾ける紫電。斧の一閃が、頭蓋を叩き割る。
(どうか――どうか、救われてくれ。どうか、施すばかりではなく、君も何かを授かってくれ)
その高潔な魂が――どうか、辿り着くべき場所に行けますように。
どうか、ただ、当たり前の幸福を得られますように。
どうか彼女たちが主人公などという肩書の呪いめいたものに縛られることなく、ただ、当たり前に生きていけますように。
奪われることなく、失うことなく、ごく当たり前に生きていけますように。
(ただ、救われてくれ。目を失わず、剣を手放さず、その輝きが損なわれぬままに。どうか君のその心が、救われてくれ。麗しき篝火の聖者よ)
そのためならば、己は、意思すらも必要ない。
そして己が彼女にこう思うと同様に、誰かが、世が、何かに愛しさというものを抱くのならば。
彼女のそれのように、輝かしい献身があるのならば。
それらもまた、推し並べて、尊ばれるべきものだ。
どこかの誰かの大切なそれも、決して、否定されてはならぬのだ。
一つ一つのそれも、愛おしい星の輝きなのだ。
例え幾億の昏き軍勢がそれを否定しようと、己だけは、この旗の傍らに立ち続けよう。
手足を失おうと、その傍らに立ち続けよう。
立ち続けるために、あらゆるものを支払おう。
全てを踏み均し、果てのその先へと翔び続けよう。
そうだ。
そのために、契約したのだ。
己は、そうすべき義務を負ったのだ。決して――打ち砕かれぬように。砕けぬために。幾度倒れても、絶対に立ち上がれる己であるために。
ならば、すべきことなど、決まっているだろう。
(動け。……動き続けろ。死んでもなお、動け。お前はとうに、そんなものの筈だ。――――死してなお、動き続けるそのために)
立ち続けるのだ。立ち続ける、そのために。
譲るな。通すな。見逃すな。
折れるな。曲がるな。欠けるな。逃げるな。蹲るな。喚くな――――――戦い続けるそのために。
駆動せよ。
一つの歯車として、命を巻き込み、駆動せよ。
(――――ああ、俺は、お前たち悪なる全ての死だ)
飛びかかり、眼前の首に当て、横引きする刃。頸動脈を切断する。
更に迫る人影へ、斧ごと握り込んだ拳。渾身の一撃。
顔面を正面からひしゃげさせ、砕き潰す。顔ごと少女の首の骨を圧し折った。その中心が無残に陥没する。
背後から己目掛けて振り被られたスコップの主に目掛けて、銃口。発射。
射撃の反動と路盤の雪と不整備で後ろへと倒れる――その衝撃でスーツの耐衝撃防御を起動。反動のまま地面を低空で跳ねながら、回る。合わせて斧を振り上げ、その曲がった刃先で更に一人の足を掬う。
反動と転倒を押し付け、代わりに態勢を戻す。
前からの振り被られた鉄パイプの一撃をくぐる。
起き上がりざまに眼の前の青年の後頭部に更に背後から回り込むように斧の背を打ち込み、引き寄せ、別に放たれる弾丸への盾に使う。
さらに引き絞る。頭部を抑え込み、無理矢理に、くの字に曲げていく人体。銃身を鳩尾へと押し込み、発砲。
人体を、死体を使った反動制御。貫通力で三人ほど殺害する。腸が石畳に吹き飛ぶ。
死体を突き飛ばし、牽制。
それでも迫らんとする一人の口腔へ、その前歯を折り砕きながら銃身を突き立てた。
そのまま銃を手放し、転輪弾倉をスイング。クイックリロード。人体を、道具に使う。返礼に弾丸を浴びせた。頭部の後半が吹き飛んだ。幾人かも肉塊になった。
受けるタックル。腰に組み付かれた。
そのまま、更に前から振りかぶられるバット。かろうじて、杖のように両手持ちにした斧で受ける。
濡れる石畳に足が滑る。
あえて、踏ん張ることをやめた。上から、被せるように倒れた。そのまま、老人の頸部に当てた肘で首を圧し折る。顔面を石畳に潰す。死体が痙攣する。
崩れたそこへ、蹴りが来た。
斧の突刃で受ける。脛に突き刺さる刃先。腕に力を込めて勢いよく引き倒す代わりに、その勢いのままに立ち上がる。脛の骨が削れる音がした。足の指まで削いだ。
別に、横薙ぎの棍棒の一撃。呼吸が止まる。
ふらつき、倒れ込みながら――だが足の指を失って地に伏せた男の顔を、己の膝と地面で挟んで砕く。潰す。潰れた。
上から振り下ろされるスコップ。
尻餅をついたまま、撃った。胸骨から纏めて、人体が散乱する。その骨片で、別の一人の目が潰れた。
それでも、こちら目掛けて殺到する人垣。
終わらない。止まらない。
しかし、飛翔音。
咄嗟に伏せれば、流れ弾で幾人もが吹き飛んだ。
「ここから先へは、行かせない」
幽鬼めいて、立ち上がる。
斧を振りかぶる。銃を掲げる。
また、幾人もが肉塊に変わる。
斧で頭を潰し、弾で体を潰す。そうして幾つも、死体を重ねた。死体を重ね続けた。
血と屍が、餌のように、地面に積み重なっていく。
「おまえたちには、いかせない」
斬った。
撃った。
潰した。
削いだ。
千切った。
砕いた。
撃った。
喰らった。
剥いだ。
折った。
撃った。
割った。
殴った。
殺した。
殺した。
殺した。
殺した――――。
やがて――――
「……殲滅、完了」
そこに命と呼べるものは、己しかなかった。
先程まで生命だったものたちは、肉片となり、赤く染め上げた雪の中に転がっていた。
ああ――……これで、帰還できるだろうか。
基地へと、戻れるだろうか。
あの人の元へと、戻れるだろうか。
機体の元へと、戻れるだろうか。
足を引きずる。
血が流れる。
防弾性の繊維も、万能ではなかったようだ。
雪が己の身体に被さって、しかし溶けなくなっていた。
死が近いのだろうか。
普段は碌に思い出せもしない、考えもしないことが頭を巡る。
遥か遠く昔に終わってしまったことが、心の中で揺蕩っている。
――――〈別に、虫歯がないからなんだっていうんですか! 親の愛って、そんな話じゃないでしょう!?〉〈いいんですよ、別に! それに虫歯がない方が宇宙では有利なんです!〉〈大昔の宇宙飛行士っていうのも、そうだったんですから!〉。
ああ――……本当に多分、それは、何でもない話なのだ。
何か大掛かりな決め台詞でも、なかったのだ。
ちっぽけな悩みに、小さな答えが与えられたという。
本当にただ、それだけなのだ。
でも、その女の子は、答えを、自分に、くれたのだ。
もし、誰か。
もし、何か。
そんなことはあってはならないのだと万民に手を差し伸べられる者が居たなら――――万民に向かうその救いは、つまりは、彼女にも届くのだろうか。
俺を救ってくれたあの人にも、届くのだろうか。
傷付いていくだけのあの人も、報われるのだろうか。
施すばかりで施されることもなかった、あの聖者のような少女の元に――――施しを届けられるのだろうか。
脳裏に、言葉がリフレインする。
かつて戦地でかけられた言葉が。
かつて、戦地で、フードを目深に被ったピアノ引きの少女――ジュヌヴィエーヴと、つまりマーシュと交わした言葉が思い出される。
――〈人は、一人では生きられないわ〉〈貴方が幸福の王子であろうとしたら、誰かが燕になりたがる〉〈いいえ、それとも貴方は燕を見ると幸福の王子になりたがるのかしら?〉。
――〈あれだけ身を粉にしても、燕に救いはなかった。誰も与えなかった〉〈王子は――いい気味、かしら〉〈最後に燕を想って心が砕けるなら、もっと早く彼女を鑑みるべきだったわ〉。
――〈貴方の世界は、貴方で閉じようとしているのね〉〈そんなにも、燕はご不要?〉〈それとも――――〉。
――――貴方、もしかして、燕の方でして?
その言葉は半分は正解で、半分は不正解だ。
自分は、燕などではない。幸福な王子の心を砕くほどの重さは持たない。
ただ、彼らに救われた一人だろう。名も無き市民だ。
ただの、
彼女たちからは見られもしない、ただの
そしてそれで、きっと、十分だった。
(……ああ、そうだ。俺は、名も無き一人として、あなたに、手を差し伸べたいんだ。あなたが名も無き一人に、知らず、手を差し伸べたそのように。……あなたが俺に施してくれたそのように)
何故そうするかなど、決まっている。
施されたから――――施すのだ。
その献身へと、応じ、報いるのだ。
(貴女が宝石の目を失えば、俺の両目を差し出そう。貴女の手から宝剣が離れれば、俺が貴女の剣になろう。貴女が金の衣を手放すならば、俺がその錆を、磨き上げよう。鉛の心臓が砕けるならば、俺は胸を裂き、この心臓を差し出そう)
そして俺が貴女に対してそう思うように、誰かも、その人の大切な人へとそう思うなら。
その気持ちが判る俺は、それも、助けたかった。
それも、尊重したかった。
どこかの誰かのためにも、そう在りたかった。
――――貴女を忘れてなお、自然とそう誓ったが故に。
無理矢理に足を運び、寄りかかった教会の壁で崩れ落ちる。
扉を、開くことができなかった。
それは、あまりにも今の自分には重すぎた。だが、
「金箔も剥がれ、宝石の目を失い、輝く剣を捨て――――一体お前に何が残るというのだ、ハンスよ」
内から開いた扉。
そこから自分を見下ろす、ライフルを構えた旧友。
自分は、幸福の王子などではないが――……
「鉛でできた、決して砕けぬこの心臓が」
あえて言うとすれば、それだけだ。
決して折れず、曲がらず、毀れぬ剣。
そういうものでありたいと思った。
そういうものであるべきだと――思う。
思っていた。
今も、思っている。
変わらず、ずっと、思っている――――俺は、そう在り続ける。
そう在り続ける、そのために。
◇ ◆ ◇
少女の琥珀色の瞳が、一人の青年を捉える。
青年――……いや、少年にも見えた。年の頃は彼女の一つか二つ上の。そんな少年が、暗夜の中に佇んでいる。
空には金冠の月食が。満天の星空が。
地には遠き街並みと、燃えるような朝焼けが。
未だ光遠きその闇の中で、彼は静かに佇んでいる。
大尉――と、声をかけた。
何も居ない。誰も居ない。
無数の空虚めいた静謐なる匂いの漂う風景の中、それでも孤独を感じさせぬような佇まいで、彼は立つ。
遠き街並みを、眺めながら。
冬の空気を、持つそこに。
たった一人。普段よりも、ちっぽけな背中で。
「……大尉は、寂しくないんですか?」
「いや、特には」
「大尉?」
「いや、本当に……これまで色々なことがあった。大切な人も多く失った――――それでも」
柔和な笑みのまま、彼は小さく頷く。
「俺は孤独を、感じない」
「……どうして、ですか?」
それは、つまり、誰も必要としていないということだ。何も必要としていないということだ。
何とも、繋がる気はないということだ。
そう思うと、彼女の方こそが、胸の痛みを感じる。
だけれども、彼は穏やかに呟いた。
「俺がここにいるからだ」
「……?」
「俺が、生きて、ここにいる。……今日まで生き続けられているからだ」
そうして彼は、柔らかな瞳で頬を崩した。
「出産は危険を伴う。どれだけ科学が発達しても、それは死のリスクを伴う。……母も子も。なのに俺は、こうしている。それは産んでくれた人と、取り上げてくれた人がいたからだ。それは、幾度も幾度も、その行為が歴史の中ではてどなく繰り返されてきたからだ。多くの人が――――今ここにいない多くの人が、より良く、より確かに、そうできるようにしようとして……そうしてきたからだ」
その蒼い目は、人類というものを愛おしんでいた。
歴史をあたかも遠い友人のように、彼は言う。
「狩りをせずとも生きられるように誰かがした。火を焚かずとも生きられるように誰かがした。洞窟に住まずとも、獣の革を纏わずとも、熱と病にただ蹲って耐えずとも、荒れ野を裸足で進まずとも、己の身を作った石器で守らずとも――――それらを行うことなく生きられるように、誰かがした。多くの誰かがそうしてくれた。次に、その次に」
その一つ一つを、尊き星の如く。
「彼らがそこに至ったのも、数多の人々の積み重ねだ。各々が歴史に名を残さずとも、携わり、関わり、受け継いだ人たちの積み重ねだ。劇的ではなく、素朴で、それでも絶やすことなく行われてきた……善き営みの積み重ねだ」
彼は語る。
ただ、人類というだけで価値があるのだと言いたげに。
誇らしげに。嬉しそうに。その全てに親しみと深い敬意を込めて。
「戦場で、俺を守ってくれた人がいる。俺を育ててくれた人がいる。諦めずに戦い続けてくれた人がいる。そうした無数の献身が、俺を今日まで生かしてくれた」
噛み締めるように頷いて。
「だから、俺は、ここにいる」
その手のひらを眺めて、ゆっくりと握った。
与えられた生を、慈しむように。
その目は遠く――ただ、人という種族を眺めていた。
その中に居ながら、その外に居るように。
だからこそ、なおのこと、それらを眩しそうに。
どこか――――どこか遠くの星から来た旅人のように。
「夜空の星は、遠き昔の光だ。今の光ではない。既に遠く遥か、とうの昔に旅立った多くの光だ」
寂しげに、彼は言う。
寂しげに――嬉しげに。
「だが、それでも包まれている。俺の命は、そんな多くの積み重ねに包まれてここにいる。授けられてここにいる。施されて、ここにいる。人の紡いだ歴史のその肩に――――俺はいる」
故に、ただこの世に生きているだけで幸せなのだと。
そう、彼は、笑うのだ。
人は孤独でも、絶対に、真に孤独にはならないのだと。
「だから、寂しさはない。ただ息をするだけで、俺は多くの人々の鼓動を感じるんだ。……皆の息遣いを。多くの善き営みの末を」
「……善き、営み」
それは本当に――――ああ、物語の騎士の如くに。
彼はただ、それだけで戦える。
剣を携え、街の灯りを見て、ただ一人で暗闇の荒野で戦える。
「それだけで、あまりに十分すぎる。……本当に俺は、幸福なんだ」
彼はきっと、満ち足りていた。
あまりにも貧しい器。聖者のような貧者。賢者のような愚者。ただ、星の光を眺めて笑える人。
その姿は血に塗れ。
輝く蒼い片目を失い、どうしようもないほど打ち叩かれていても。
それでも、それだけを幸福とできる人。
できてしまう人。
寂しいくらいに――――嬉しそうな人。
泣きたいぐらいに、眩しい人。
「そして神話ではなく、伝承ではなく……彼方の星空などではなく、今目の前に起きている現実を前に為すべきを為す――……それが俺たちの仕事だ」
彼はまた、頷いた。
ほんの少しだけ誇らしげに。何一つも悔いることなく。
その目線は、遠く、どこかの誰かが住まう街を見詰めている。本当に、心から愛おしそうに。その営みの一つ一つを、喜びながら。
命の一つ一つを、何者にも替えられない星の輝きのように語りながら。
……ああ。
彼はその篝火の暖かさだけで、たったそれだけで、果ての空へと翔んでいくのだ――――。
「大尉……貴方には、何が見えているんですか……?」
その果てにあるのが、苦難と闇ではなく――或いは仮にそうだとて、それでも進んでいけるような心で。
その蒼白の瞳は、何を見るのだろう。
優しく慈しむような、その瞳で。
彼は――――この戦乱の世の中で、それでも何を見るのだろう。どこを目指して。何のために。
そして彼は一つ、ほんの少しだけ、恥ずかしそうに笑うのだ。
「戦闘機の模型や……戦車の模型を子供たちが喜ぶことがあるだろう?」
「はい。えっと……」
詳しくは知らないけど、と言おうとしたときだった。
「いつの日か――……そうだな、いつの日にか」
陰っていた彼の瞳が、優しい光を帯びる。
張り詰めた声もなく。
少年のような声色のまま。優しく、崩される。
「……俺たちにとっての血塗られた道具が、そんな、子供向けのプレゼントになる世界が見たいんだ。街のオモチャ屋さんで、子供たちがそれを見てただ目を輝かせるだけの日が。親御さんに、それをねだるような日が」
彼は、目を細めて。
「その時に……本当にただその時に、この道具たちは子供たちを笑顔にするだけのものになって……その親御さんはそれを見ながら少し困った風に笑うんだ。そしていつか、おもちゃ箱の中にしまわれて忘れられていく。大人になったときに……ふと懐かしさと共に、彼らは、また、その玩具を見てくれるのだろうか」
微笑ましいと言いたげに、笑う。笑うのだ。
この人は、笑うのだ。
ああ――――……きっとそれが、この人の願い。本当の願い。
怒りもなく、悲しみもなく。
ただ優しさだけを持ち寄って。
苦難の道の先に、それでも希望はあるのだと。
「いつか……そんな日が来てほしい……全てが遠い歴史になって……地続きの血塗れの兵器では、なくなって……」
「……」
「……俺は、そんないつかを考えているよ。この道具を見て、誰も戦争を思い返さないで、他愛もない話をできる日のことを。どこの誰も、理不尽に脅かされずに生きられる日のことを」
知らず、頬を涙が伝う。
営みに寄り添うような、その言葉。善き営みを愛するその言葉。
ただ人と未来を愛するその言葉。
どうして戦場で、それ以外で、この人が人を惹きつけるのかが判る気がした。
綺麗すぎる。この人は、あまりにも、綺麗すぎる。
あれだけの血塗れの戦いを遂げながら、夜空の星を眺めるような瞳で、それでも希望を見て笑うのだ。
この人は、絶望の泥の内にあっても、星を見て笑うのだ。
柔らかな、星の光のような人だった。穏やかに降り注ぐ夜の明かりのような人だった。
「そんな、いつかの明日が。……この先も続いていく、いつかの明日が。どこかの誰かの……そして君たちの、幸福な日が。どうか、君の下にも来ますように。どうか、皆が、幸福に生きられますように。俺は、ただ、それを願う」
そうして、彼はシンデレラの頬へと手を伸ばす。
「誰よりも大切な貴女にも、そんな祝福がありますように。……俺はずっと、それを願っているよ。俺がどうなったとしても、それが、ありますように」
祈れる人だった。
願える人だった。
ただ、そこにあるだけの命も愛せる人だった。
その先の、何でもない明日を喜べる人だった。
本当に――――――人間のことが、大好きな人だった。
(……どうして、そんな人が、戦わなきゃいけないのかな)
……ああ、わたしは、この人に何ができるだろう。
人を愛しながら、それでもただ殺し続けられてしまうこの人に。
そんな、この世界の歪みを背負ってしまったこの人に。
誰の手も借りずに飛び続けるようなこの人に。
本当は、こんな場所にいちゃいけないこの人に。
わたしは一体、何ができるだろう――――。
その柔らかな笑顔が曇ることなく、彼の語るいつかの明日の中に、彼もそこに居て、どうか笑っていて欲しいと――そう願った。
自分の隣で。
こんな人の隣に、自分が。
(絶対に――――絶対に貴方を、一人にしません。何があっても……どんなことがあったとしても……)
そしてきっと、それが、シンデレラの抱いた祈りそのものだった。
やがて。
祈りそのものと、答えそのものは――刃を交える運命にあるとしても。
きっと彼らのその祈りは、嘘ではなかった。
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