【180万PV感謝】機械仕掛けの乙女戦線 〜乙女ロボゲーのやたら強いモブパイロットなんだが、人の心がないラスボス呼ばわりされることになった〜
第149話 飛燕、或いは猟犬。またの名をパノプティコンの歯車
第149話 飛燕、或いは猟犬。またの名をパノプティコンの歯車
――――いいかい、小さなレディ。
肝に命じて置くことさ。
もしアンタが、妖精を人間に戻したいなら。
決して、抱き締めた手を離してはいけないよ。
それが、妖精と人間の、唯一無二のルールだからだ。
◇ ◆ ◇
この時期の雨は、ただ、体温を奪っていく。
路上に乗り捨てられた車たちは、主なきままドアを開け放して並んでおり、それはどこか終末を感じさせた。
腰を落として遠くで銃声が響く市内を進みながら、背後の金髪の少女を振り返る。
(顔色が悪い……)
低体温症、という訳ではない。
むしろ――血の巡りが足りていないような、十分に心臓が動いていないような、そんな、蒼白なまでの顔色となったシンデレラ。
マーガレット・ワイズマンの形見である白銀のリボルバーを片手に進んでいた彼女は、遅れてこちらの視線に気付いて顔を上げた。
腕時計を見る。
シンデレラの直感と危機回避能力のおかげで、幸いにして戦闘には遭遇していない。時間は、多少、取れると見て良さそうだった。
「少し……休憩を取ろう、シンデレラ」
そして、雨を避けて退避した薄暗い建物の廊下で、
「大尉……“
「――――」
床に腰を下ろした彼女は、差し出したフライトジャケットに身体を丸めながら――……そんな言葉を口にした。
愕然とした。
(あのとき……繋がったのか……? 俺が……? この娘と……。繋がってしまったのか? 俺が?)
それは、ない。
いや、あってはならない話なのだ。
己は――――空虚に包まれている。詩的表現ではなく、空虚という殻のその内に包まれている。
それは断絶だ。
真空が温度を遮断するかの如く、断絶しているのだ。己がここにいるということは、即ち、そういう構造になっている。そうならねばならない。そうであるものなのだ。
ならば、それは、
「……民話だろうか? それは……妖精により、取り替えられた子供のことだろう」
「民、話……。そう――……ですよね」
彼女は僅かに、寂しそうな顔をした。
その顔を前に……少し思案し、続ける。
「……そうだな。ここではないどこかから来たものだ。本当は、そこに居てはならないものだ。居るべきではない、そんなものの話だ」
「居るべきでは……ないもの……?」
「そうだ。土は土に、灰は灰にというならば――……この世のものではないその死体が行き着く先は、きっとここではない。如何なる場所も、その死体を受け入れまい。居場所は、ないのだ」
沈黙が、陰った室内を満たす。雨音に塗り潰されて、銃声というのも聞こえなくなってきていた。
曇り硝子から外の通りを見る。
この雨は、果たして、自分たちに利するだろうか。点けられてしまった火を食い止めることになればいいのだが。
そう思う、その矢先だった。
「……わたしじゃ、駄目ですか?」
「シンデレラ?」
黄金に近い琥珀色の瞳が、こちらを見た。
「わたしじゃ、その人の――……居場所になって、あげられませんか?」
何かの確信を持ったように。
それなのに縋るように。
彼女は、こちらを見詰めて、言った。
「誰とも一緒に居られなくて……独りぼっちでここに来てしまったなら……独りぼっちでそこに居なきゃいけないなら……わたしがその人の――――居場所になってあげられませんか?」
――――――。
「……君は優しいな。変わらずに。ちゃんと、箱にしまっていてくれたのか」
「大尉……」
「……あくまでも民話だ。そうとまで、真剣になることではない。だが君なら、妖精の國に攫われたタムレインも呼び戻せるだろうな。……妖精の騎士を、人間の騎士に」
穢れなき乙女が、その愛の末に、妖精の國に絡め取られた騎士を――死霊の中から掴み上げた説話。
その時の彼女は、燃える石となってしまったタムレインを真の意味で手放すこともなかった。炎すら、彼女の心を挫くことはできなかった。
「……呼び、戻せる」
呟く金髪の少女もまた、きっと、そうできる心根の持ち主だろう。
目を閉じる。
だからこそ、この娘を、戦いではない生活に戻してあげたかった。これまでのその歩みまで――否定することはないとしても。
「状態は、どうだろうか。……申し訳ないが、この先も、君のその感覚が頼りになってしまう。それだけに、十分に休んでから出発したいところだが――……」
避難所の一つだった基地に近付くに連れ、危険な対象との接敵の機会は増えるだろう。
なおさらに
彼女の状態次第では、隠密行動ではなく車などを手に入れての強行突破も視野に入れるべきだろうか。
そう思案していれば、震える彼女は何かを決意したように瞳を一度閉じ、言った。
「その……大尉は、知っていますか? なんていうか……その、わたしの……わたしたちの感覚って……人と繋がり合うことで、その先のもっと大きな何かに繋がっていく……そんなふうな感覚で……」
生憎とこれまでそんな体験もなく、体験談を聞くこともなかったが――……彼女がそう言うなら、きっとそうなのだろう。疑う余地などない。彼女の言葉は全て信じると決めている。
「それで……今は……その、あまり……勿論、なんていうか……この街に渦巻く感情の渦とか、嫌な気配とかは感じるんですけど……その……」
「……レモニアたちと離れてしまったことも、あるのか」
「はい。……大尉とだと、その……あまりそういう感覚が拓けなくて……大尉の先が……見えなくて……」
「……」
無理もない、と思った。
先にも考えたように、自分は接続に指向していない。断絶性がある人間だ。戦時中、敵に居た
つまり――……シンデレラはだからこそ存分に力を使うことができず、或いはその消耗のためにこれほどまでに疲労や体調不良が現れているということだろうか。
であるなら、仕方ない。
「……承知した。ここからは、被撃墜に備えた市街地戦闘訓練を元に――」
そう言いかけた己の前で、こちらのズボンの裾を掴んだシンデレラが首を振った。
一体、何か。
それから――……魅入られるような輝きを持つ黄金色の瞳の彼女は、その美しい目を不安に揺らしながらもこちらを見上げて――それでも意を決したように、言った。
「もし……もし、わたしと……もっと繋がり合ってくださいって言ったら、大尉は、どうしますか?」
「それは……」
「……」
何かを決意したような琥珀色の瞳が、一度伏せられる。
それからまた、震える瞳がジッとこちらを見た。個人での繋がり合い。今以上というのが何を意味するか、判らぬほど己は子供ではない。
肉体的な接続。
確かに、接続という意味なら、人間ができる接続の中でおよそ最上位だろう。これを超えるものは遺伝子的な接合――つまりやはり、この先の行為の果てに含まれるもの。
「……」
口を噤み、身を屈めながらその頬に手を伸ばす。
彼女は身体を強張らせてから、そのまま、伏し目がちにこちらの手を受け入れた。
頬に手を添え、ゆっくりと身体を近付ける。床に体育座りになったシンデレラの細い足が、ぎこちなく徐々に崩されていく。
戦闘の最中に。
戦場の片隅で。
この少女と、肌を重ねる。
現実逃避や職務放棄ではなく、それを全うするための最も合理的な手段として、彼女と男女の接続をする。最も深い部分で、全てを曝け出して。
(……)
小柄で華奢ながらに丸みを帯びた女性的な身体付き。
どんな女優や絵画にも負けぬ麗らかで整った目鼻立ち。まだ僅かに残る幼さの中に、凛とした硬質の美貌が見え隠れする。
可愛らしい表情と、愛くるしい声。
それが、全て、己の手の内にある。そして今、彼女の言葉は、男女の接合を許す響きだった。
「それは……肉体的な、という意味でいいか?」
伏し目がちの彼女が、小さく、こくんと頷いた。
ああ――――……だが、しかし。
シンデレラの金の瞳に映るその色は、熱に浮かされたとか――思わず想いが零れ出たというより。
悲壮感や使命感、義務感を伴ったものだった。
少女が、自分の貞操を、道具か何かのように差し出そうとしているのだ。僅かな性的な言葉さえも厭っているはずの、この少女が。
……ああ。そんなもの、答えなど決まっている。
「シンデレラ。それが合理的に最良の方法なら――俺は案の一つに入れる」
「ぁ……」
「……でも、俺の個人的な意見としては反対だ。合理性とは、あくまでも目的のために使われるものだ。それが君にとって意味ないものなら……それもいいだろう。だが、もしそうでないなら……人生の大切なものまで合理性に渡してしまっては、人は生きていけなくなる。意味ある生以外は非合理になってしまうだろう?」
頬から手を離し、その僅かに癖のある金色の髪を撫でながら呟く。
そうだ。
自分が合理性を重んじているのも、あくまでも原初の感情が故だ。果てに進むが故だ。それが最適であるからだ。合理性とは、最適を目指すための手段であって断じて目的ではない。そこを履き違えてはならない。
片膝をつく。そのまま、親愛を表すように、その美しい金糸の髪の一房を手にとって口付けをした。
決して、彼女を拒絶した訳ではないのだと。それどころか、心から、彼女のその全てを大切に思っているのだと。
そう示すために。願わくば、伝わってくれるように。
そしてその頬に、改めて手をやった。
「俺も、君と、いつかはそういうことをしたいと思っている。……だけどこんな必要性じゃなくて、合理性じゃなくて、ただ君と愛し合いたいから愛し合うだけがいい。必要だから愛し合うのは、きっと、寂しい」
「大尉……」
「申し出を不意にして、すまない。……だけど、俺は、それがいい」
「……はい。判りました、大尉。……ありがとうございます」
こちらの指先をその小さな手で包み返しながら、彼女は噛み締めるようにどこか寂しげに微笑んだ。
そんな言葉が出るまで追い詰められてしまったのか。少なくともこの娘にとってはそう軽い話でもないだろうに。
あまり、精神的によろしい兆候と思えず――一つ考え、身を屈めてその頬の横で耳打ちをする。
「それに……」
「大尉?」
「俺は、そう簡単に終わらす気もないし……一度や二度ではきっと終われない。帰隊も間に合わず、君も、とても外を出歩くどころではなくなってしまう」
「――――――――――――!?!?!?!?!?」
耳元で囁くと、彼女は耳を抑えながら顔を真っ赤に仰け反った。頭がゴンと、廊下の壁に音を立てる。
口がぱくぱくと動いていた。
……少なくとも、そういう反応をできるだけの気力はあるようだ。そのことに安堵する。
基地まで、そう遠くない場所まで戻れたのだ。残りも僅か。ここが正念場なのだ。戻った後こそ、
改めて、思案する。
(火山灰の影響で、航空機の使用が難しい。……となればアーセナル・コマンドを利用した牽引脱出か)
まず航空機は使えない。エンジンが火山灰によって停止するリスクを抱えてしまう。これはヘリなどに用いられるターボシャフトエンジンだろうと同様だ。
使えたとして、極めて短距離での移動となる。
おそらく宿泊施設の屋上には緊急脱出用としてヘリを待機させているだろうが……できることならそれ単独での飛行は避けたい筈だ。ヘリでの移動は地上からの対空攻撃火器に狙われた際や航空兵器からの攻撃リスクが高すぎる。
それを踏まえて――どう動くか。
(俺が現場の指揮官であれば、どう判断するか。まずは地上部隊によってマーシュたち重要防護対象の防護とホテルにおいて陣地構築を行いつつ、並行して空路での脱出の用意――つまりひいては周辺の制空権の確保が求められ、そのためには空中管制機の離陸も必要だろう。最低でも、滑走路と格納庫……管制塔の掌握が必要だ)
警戒飛行にアーセナル・コマンドが上がっており、待機チームもある。こちらは完全に無防備ではない。
それをどう振り分けるか。
重要防護対象施設に対して、空飛ぶ戦車として向かわせる。それはあるだろう。同時に、最低でも都市部上空での制空権の確保の駒としても必要。
そこから、周辺空域に対する展開――――のためには、基地の航空施設に対する防衛行動が重要となる。
(格納庫と管制塔が、どうなっているか。……この二つが無事ならばいい。最悪の場合でもアーセナル・コマンドの突破力によって地上脱出ルートを確保することができる。だが、もしそうでないなら……事態は極めて重くならざるを得ない)
それは、基地内でも戦闘が発生しているということだ。
そうなってしまうと、救助を街に出すのも難しいばかりか――格納庫に辿り着くことも非常に困難となってくる。
つくづく、あの
「……大丈夫か? 動けるだろうか?」
「はい! ごめんなさい、お待たせして……! そっ、それと……さっきの……えっ、ぇ、ぇっちなの……は、あの……きっ、聞かなかったことにしますから……!」
「……ああ」
上着の裾で下半身を少しでも隠そうとするように引っ張りながら、内股気味の彼女は警戒するようにこちらから若干の距離をとっていた。
それから、チラチラ見られる。動こうとすると、猫が毛を逆立てるかのようにビクリと大袈裟に身を逸らされた。そのままこちらの手とか首とか胸とか喉とか唇とかを、やけに何かジロジロ見られた。チラチラ見られた。ジロジロチラチラ見られた。時折、やけに凝視された。
完全な警戒対象扱いか。いっそ、ハラスメントだといつも通りに面罵された方がどれほど気が楽か。
……本音とはいえ、些か早まったかもしれない。
ただ――――
「大尉」
「ああ。……距離は?」
すぐに二人とも、切り替えた。
大型リボルバーを片手に、腰を落とした。
少なくとも、これで浮かれないだけ――互いに戦闘者として仕上がってしまっているのは、確かだった。
「……レモニアさんたちは、どうしてると思いますか?」
「彼らに協力をさせられているか。それとも、最悪はあの場で――――……注意喚起はしたつもりなので、逃げ出していることを信じたいが」
「そう、ですね」
小骨のようにずっと引っかかっているそれを打ち切って、窓の外に目を向ける。
あと少し。
あと、少しなのだ――――。
◇ ◆ ◇
上空に降り出した雨によって、《
その装甲性が、ただ佇むだけで削られていく。
そしてこの雨では、レーザーによる探知も通信も効果が減らされてしまうのは明らかだった。
つまり、
「クソッタレ――……何なんだ今の通信は! 火に油を注ぐだけじゃねえか……! クソッタレクソッタレクソッタレ……!」
苦々しげに呟く隊長機にとっても、銀髪の彼女にとっても、とにかく最悪だということを意味した。
市街の騒乱に無線が混雑し、更に衛星通信を利用したコンバット・クラウド・リンクも使用不能な状態とあって使用可能なのは機体間のレーザー通信だけだというのに――それもこれでは通信射程が限られてしまう。せいぜいが有視界戦闘距離と同程度か。
それは、つまり、撃とうと思えば撃てる距離であり、互いに撃たれるかもしれないという恐怖を抱えたままその距離に踏み込むことを意味した。
カタカタと、少女の手が震えた。
市外からの【フィッチャーの鳥】の接近数は増加している。一向に止まる気配はない。既に、現在上空に上がれている哨戒チームである彼女たちは愚か、待機中のチームを合わせても上回るだろう数がこの街を目指している。
そんな中での、彼らの指揮官の死。
彼らは一体――――何を思うだろうか。それを行ったのは誰だろうか。いいや、彼らは誰と考えるだろうか。
【
何にせよ、彼らが怒りに燃えていたならまずはその真相を確かめようとするだろう。そしてそうなったときに彼らは、この街の全ての争いを彼らの名の下に制圧し、都市を支配し、どこまでも強権的に行動を起こす筈だ。
もしも戦闘が起きてしまったならそうなってしまう可能性が極めて高い。そして戦闘が起こらないとは、神ならぬ彼女たちには不明が過ぎた。あの通信とその途絶を契機に、この街に接近する【フィッチャーの鳥】は援軍から危険勢力へとラベルが張り替えられてしまっていた。
「……バンドワゴン隊各機。最悪の場合は、自己防衛のための発砲を許可する」
抑圧されたように押し殺した響きの指揮官の言葉。
「密集体型で互いの《
「りょ、了解です……!」
「俺は、接近して通信を行う。……俺の信号が途絶した場合、各機は自己判断で防衛行動を開始しろ」
自ら捨て駒のように危険な役を買って出る彼へ、二番機が叫んだ。
「待ってください! それなら全機で、《
「それじゃあ、相手からしたら迎え撃ちに来たのかと区別が付かねえだろ! ……お前たちは待機。最悪に備えろ。いいな?」
そうするのが先達の役目のように告げた彼は、機首を北に向けた。旧欧州地域に駐留していた【フィッチャーの鳥】は、街の北西五十マイルにまで接近している。最早接触まで数分とない。
(僕、は――……)
降り出した雨によって市街から立ち昇る煙は僅かに勢いを失ったが、それでも宵闇めいた曇天の下で煌々と燃え上がっている。
小さく浅く加速する吐息の中、銀髪の少女――マリア・ニアライト・ブランチは、ふと、入隊前に交わした言葉を思い返していた。
戦時中、街の解放を行ったままに訪れた三人の青年。
その内の一人、短髪の黒髪の青年は、マリアがいずれ士官学校に通うつもりだと聞くと――幾らかの会話の後に、言った。
――――〈君がヒーロー志願ではなく、復讐でもなく、職務として士官を務めたいというなら、俺からも君に言える言葉はある〉〈忘れてはならないことは二つ。心と、想いだ〉〈……断じて、情緒的な意味ではない〉。
抜身の刃のような、蒼く冴えた瞳だった。
人間を腑分けする切っ先の如き目線のまま、そんな彼は続けた。淡々と。冷静に。
皆から英雄と呼ばれていた青年は、冷たく無機質な目を持っていた。
――――〈人間は多様だ。全ての理解や把握をすることは困難だ。しかしながら、幸い――ストレス下の反応は似通ったものになる〉〈君が指揮するに当たって、何より、かつての君自身の記憶が助けになる〉〈その時点で君が抱いた感情を多くの人間もまた抱くのだ。故に、君は決して君自身を忘れてはならない〉。
――――〈初めて軍人になった日、着隊した日、戦地に出た日、敵に攻撃された日……そんな君の抱いた感情が部下を理解する助けになる。いつかの君自身を理解することが、今の部下を理解することになる〉〈戦場は、慣れる場所だ。忘れる場所だ。いずれ心が適応する。適応し、鈍化していく〉〈だからこそ自覚的に、己というものを記憶しなければならない〉。
――――〈共感は浪漫や情緒ではなく、合理と摂理によって操縦可能な現象だ〉〈戦場を俯瞰したいのならば、部下のための上官になりたいのならば、君は、その時の君の葛藤を忘れてはならない〉〈それは味方だけでなく、敵にも使用できる。共感と理解は合理性の先にある〉。
とても、英雄の言葉とは思えないそれは――……僅かに憧れというものを砕かれてしまったそれは、だからこそ、それほど彼もマリアへと真剣に言葉を紡いだという証左だったのか。
戦場でのみ発揮される合理的な共感性。闘争の内にある人心掌握術。人を人ではなくただの動物として解体する機構。感情すらも組み込んで駆動する絡繰。
――――〈こんな言葉で、失望しただろうか?〉〈その道を選ぼうと言うなら君は……何にせよ生き残ることだ〉〈そして、生き残らせることだ。それが君に求められた唯一の命題なのだから〉。
遠くを眺めるその瞳は、何を見ていたのか。
恐ろしく――……それだけではない身震いと共に、その青年が見詰める先が見えないものかと、どこかでそう思うようになった。
未だに、その光を確かめられずにいる。
だけれども、
「し、信号弾……!」
「バンドワゴン06? ブランチ少尉?」
「信号弾なら、どうでしょう……そ、そうすればせめて――せめて相手が救援に来てるのか、そうじゃないのか、その……前もって判るんじゃないでしょうか……?」
もし、マリアが彼らの立場なら。
きっと同じく――――この街に到達したそのときに、撃たれないかを案じながら進むだろう。
一番恐ろしいのは、お互いに戦闘を望んでいないのに弾みで撃ち合ってしまうことだ。恐怖と疑心暗鬼の末に発砲して、その歯止めがかからなくなることだ。
なら――せめて、それだけでも防げたなら……。
「よくやった、ブランチ少尉。さて……クソ、内容をどうするか――……止まれったって、それじゃあ判別もクソもつけられねえし……」
ボヤくような隊長機が、それから、腹を括ったように声を上げた。
「不明機については誰何に応じない場合は撃てと命令されていて、元より【フィッチャーの鳥】は異物だが……クソッタレ。俺の権限で、彼らにも救援の要請を行う。お前たちは、先のフォーメーションのまま信号弾を上げろ」
「は、はい! 内容は……!」
「【救助要請】と【停止せよ】だ。……これなら、あっちが援軍のつもりなら街の前で止まるだろう」
そうでないなら、つまりは――……。
だけれども、少なくとも、光明の一つが見えた気がする。少なくとも、この国の危機に駆け付けた仲間同士が不幸にも撃ち合うことはない。
それだけでも、大きな意味があると思って――……
(あ、れ……?)
ぼんやりとした頭で、コックピットの中のマリア・ニアライト・ブランチは頭を起こした。
ガンガンと、頭の血管が煩い。
そう。信号弾を上げる。仲間か確認する。そんなふうに取り決めをして、そう行動しようとした。
それから――……それから、一体、どうしたのか。
コックピットの中で警報が鳴っていた。赤く明滅し、鳴り響いていた――――【ガンジリウム流量減少】【冷却剤枯渇】【《
(僕、一体、何を――……)
やけに周囲の音が遠い。
聴覚のピントが合わない。だけれども、何か、大勢に呼びかけられている。
一番酔っ払ったときの、その何倍も酷い。
一体、何があったのかと――……無意識的に幾度も訓練で繰り返した、
『バンドワゴン06! バンドワゴン06! 応答しろ! 無事か! 意識はあるか! バンドワゴン06!』
だいじょうぶです、――と言おうとしたその時だった。
『バンドワゴン06! VIPはどうなってる! そちらに被害はないのか――――ブランチ少尉!』
VIPというその言葉に奇妙な引っ掛かりを覚えて、全天周囲モニターを見回した。
マリアの古狩人は、墜落していたらしい。
ぼんやりと記憶が戻ってくる。そうだ。確か、【フィッチャーの鳥】――――いや、違う。不明敵機だったか。それとも、地上からの対空ロケットだったか。それに撃たれた。ひたすら撃ち込まれた。それから……――それから?
『バンドワゴン06! 首相は……! 大統領は! 公爵は無事か! バンドワゴン06!』
その言葉に、冷水を浴びせられたように意識が覚醒した。ホテルに目掛けて尻もちをついたように埋もれた自機。そして、モニターの向こうでこちらを取り囲む人々。黒服。何よりも非難の目。
その中でも特に目を引く物憂げな美貌の美女――パースリーワース公爵と、その傍で口を多いながら愕然としたアームストロング大統領。
そして、彼女たちの目線の先は、マリアの右手。マリアの右手になった、鋼の巨人の右手。
それは、忽然と部屋の中に現れた真っ赤な水溜りの上に置かれていて――――……
「……ぁ、あ、ああ」
ネルソン・ハワード・モルガン大統領。
口髭の理性家として知られた彼は無惨にも、マリアの右手の下で原型を留めぬ死骸に変わっていた。
「……違っ、僕……違っ……違っ、そんな……そんなつもりじゃ……僕、僕――――――……!」
それがマリア・ニアライト・ブランチという少女がこの世界で最初に背負わされた原罪であり、そして、この戦役の悲劇を加速させる事件だった。
◇ ◆ ◇
暗雲の下、空中にて弾ける火花。
闇を切り裂き突き進む連装砲と、炎を纏いながら吹き上がるロケット弾。これまでの銃声が赤子のボヤきに聞こえるほどに盛大なる戦闘音が鳴り響く。
最悪の事態だった。
いよいよ、都市上空での全面戦闘が開始されてしまっていた。その主は――両方とも最新鋭の第三世代型量産機。どちらもこの国が作り上げた最高峰のアーセナル・コマンドだ。
つまりは、この混乱を機に仕掛けてきたのは残党軍ではない。【フィッチャーの鳥】によるクーデター――と考えるべきなのだろうか。
「シンデレラ、こちらに!」
彼女の手を掴んだまま降り注ぐ猛火を避けて街を走り、地下道に飛び込んだ。
生き埋めにされるリスク、閉所での戦闘となってしまうリスクはあるが――……このまま進めばやがてバイパス化された道路の真下のトンネルに繋がり、その先はもう基地だ。これが、一番早い。
(……あのラッド・マウス大佐の通信に、痺れを切らしたか。大佐……貴官は……)
ハロルドやジュスティナと共に調査する疑惑の対象だった彼は、やはり、疑惑通りの人間なのか。
あの通信は静止を呼びかけるものだったが――……それが齎した結果は真逆だ。あんなところで切れてしまったのは、彼の意図通りだったのか。それともあくまで疑惑は疑惑でしかなく、大佐は部隊を止めようとしていたのにそれが中断されてしまったのか。
或いは――その通信の途絶すらも彼の仕掛けであって、最後まで静止を呼びかけたという評価を得るためのものなのか。
何にせよ、とにかくこの戦闘を収めるしかない。
その意気だけでトンネルを進み、やがて、それを抜けて雨が降り注ぐ街並みへと出た――――瞬間だった。
「よお、
背後から、青年の声。
反射的に銃口を向ける。
だが――――そこに転がっていたのは、一台のスマートフォン。
同時、雨音に混じりながらも……真反対から、靴音。
(――不味い)
こちらが銃口を向け直しきるより先に、アンティークライフルから弾丸が放たれた。その不可視の一閃がこちらの右腕を痛烈に叩く。
衝撃に指先が痺れ、
武装、喪失。
シンデレラの
「……おお怖い。速いねえ。おれ以外なら、死んでたなあ――……ははっ、いい月だ。なあ、見てくれよ死神。血のような赤い月だ。アンタにも、見えるだろう?」
曇天に向けて残った隻腕の左腕を広げる青年。毛先に向けて錆び付く銀髪を肩で切り揃えた凶刃。顔の片側が焼け爛れて引き攣った片目の神父。
アーネスト・ヒルデブランド・ギャスコニー。
一度は【
左手をリボルバーに伸ばそうとすれば、強調するようにその銃口を向けられた。
「逢いたかったぜ。……それともああ、お別れかな。残念だねえ。アンタは随分と――――不都合な存在なんだとよ。ははっ――……寂しいなあ、猟犬」
混乱に乗じたこちらの殺害が目的か。
咄嗟、悩むまでもなくシンデレラの身体を抱き締め――敵の銃撃を背中に受けた。
「――ッ」
背中に走る強烈な衝撃。
二重の防弾装備こそ突破しないものの、ヘビィ級のボクサーの拳よりも鋭く肉体に強烈な刺激が走る。
骨が、折れるか。
いや、たかが、その程度――――奥歯を噛み締め、胸の内の彼女に言う。
「……っ、銃撃が止んだら、応射し……退避を……! 友軍へ、報告を……!」
淡々と銃声が響く。
彼女に覆い被さるように身体を丸めるこちらの全身に鉄の弾頭が撃ち込まれる。貫通はしない。だからこそその運動エネルギーは余すことなく伝わり、そのたびに灼熱の痛みとして、肉と骨が揺さぶられた。
仕留める気はないのか、嬲って愉しむ気のか。
「大尉! 待って! 駄目です!」
悲痛な彼女の声を聞きながら、足も撃たれた。
穴は空かないが、崩れそうになった。
肩を撃たれた。罅ぐらいは、入ったか。
肋骨も、腕も、逆足も撃たれる。最早、立っていられないぐらいに。それでも、何とか、膝を付かなかった。
「っ、――――信じて! わたしを、信じて! わたしが何とかします!」
「シンデレラ。……ッ、頼んだ」
「――ッ、はい!」
胸の内の彼女が、銀色のリボルバーを構える。
それを天井に向け――跳弾にて敵を仕留めるつもりなのか。ならば、それまで盾になるのだと歯を食い縛り、
「――――――」
眼の前で。
胸の中で。
横面を張られたように、彼女の頭が弾けた。
否。
出血はない。掲げたマーガレットのリボルバーが、奇跡的に弾丸を受け止めていた。
だが、その運動エネルギーまでは殺しきれずにシンデレラの頭に激突し、そして、昏倒させた。糸が切れた人形のように膝から崩れる彼女。こちらを案じたその一瞬、その隙に、敵が跳弾にての狙撃を行っていた――――。
「――――っ、シンシアッ!」
手を伸ばそうとして、こちらも膝から崩れ落ちた。
全身に叩き込まれた弾丸とその衝撃に肉体が麻痺している。一個の灼熱のようにグズグズに、指一本動かせない。
彼女は意識を失って手足を投げ出し、金髪を打ち広げて石畳に倒れている。
マーガレットの形見の銃にも、自分の銃にも、手が伸ばせない。いや、伸ばしたところで撃つことなどきっとできない。
「は、は――……素晴らしいねえ。ああ、あんたが猟犬ってのは間違いだったかな。狼王だ――……なあ、知ってるかい? 誰よりもしなやかだった狼の王は、妻のために、死んだのさ」
嘲るような声と共に、靴音がする。
「あんたの前で、その女を壊したら――……ああ、ははっ、どうなる? 可愛らしい嬢ちゃんだねえ……ああ、あの日の身体も柔らかかったさ。それはきっと、とっても甘いだろうさねえ。秘められた極上の蜜の味だ。なあ……続きをしても、いいかもなぁ――……」
「――――」
両手を広げるような――しかし片手は失われている、道化めいた笑みを向ける顔の片側が焼け爛れた青年。
氷雨の中を、銃剣を履いたアンティークライフルを片手に迫ってくる。
世界が、静寂に満ちる。
靴音だけが雨の中を進んできて、やがて、止まった。
青年が、膝をついたこちらを見下ろす。
「……なあ、お前、その有り様はなんだ?」
頭に突き付けられたアンティークライフルの銃口。
「その女のせいか? ……あんたは人か? なあ、違うだろうハンス・グリム・グッドフェロー……なんで勝手に人間になってやがる。なあ……あんたは、何者にも揺るがない。そうでなくちゃならないだろう? そうなりたいと思ってたんだろう?」
妖艶で妖しい声が消え、それは、苛立ちを伴った成人男性のものに変わった。
「おい、お前、これは何だ?」
心底失望したと言いたげな――或いはそれ以上の絶望と言いたげな。
今まさに目の前で聖廟を踏み躙られた聖職者の如き、横たわるような怒りの声だった。
「ふざけるなよ、ハンス・グリム・グッドフェロー……どうして一抜けしてやがる。あんたは人さ。だが――なんで、勝手に、そうなってやがるんだ」
震えた声。
或いは、目の前で獲物を攫われた獣の如き怒りの匂い。
戦の匂い。炎の匂い。
「……ド」
「あ?」
問い返す青年が、僅かに前のめりになり、
「《
電磁誘起・体積相転移の
全身で跳んだ。
牙を剥いた。喉笛へ、飛びかかった。
――――死ぬがいい。
「ガ――――、」
押し倒し、抑え込む。喰い縛る。噛み殺す。
釣り上げた魚のように、身体の下でギャスコニーが暴れる。もっと、歯を突き立てる。喉を破る。抑え付ける。
口腔に血が満ちた。暴れる身体がうるさい。抑え込む。
死ね。ここで死ね。お前も、俺も、死ね。今すぐに死ね。ここで死ね。
キラリと、鈍い銀の光。翻った。
次に、熱が来た。
右目が、溶けた。弾けて、溶けた。
銀の十字架を、右目に突き立てられていた。灼熱じみた電撃の痛み。仰け反りそうになる己を、歯を喰い縛ってやり過ごす。全体重を、歯にかける。相手の首にかける。
のたうち回る肉体。
黙れ。ここで死ね。
お前も、俺も、死ぬのだ。罪ある者よ、死ぬがいい。望み通りに。死は、お前たちに追い付いた。
俺が、お前たちの、死だ。
突き刺さった十字架に、相手の手のひらが触れた。搔き混ぜられる。叫ぶ声は、唸る声は、どちらのものか判らなかった。生と死の狭間で、吐息が二つ混ざり合っていた。
殺されるか。先に、殺されるか。
肘を、相手の鳩尾に落とした。一瞬、動きが止まる。
海老が跳ねるように、体幹だけで己の身体を石畳に回した。噛んだまま捻った。極めた。
窒息ではない。首の骨を、外してやる。
折ってやる。死ぬがいい。ここで、死ぬがいい。
身体が二つ、暴れる。抑え込む。暴れる。
灼熱の時間。燃焼の時間。溶解の時間。
猟犬だと、かつて己にそう言われた言葉だけを支えにした。あとは要らなかった。
全ての懸念を、目標を、思考を追い出し漂白する。
お前は猟犬だと。
疑いなく、お前は猟犬なのだと。
そうだ。俺は犬だ。戦争の犬だ。猟犬だ。
だから、歯を喰い縛る。喰い縛れる。慣れている。喰い千切って殺してやる。俺は、猟犬だ。だから、お前を噛み千切れるのだ。諦めろ。獲物は、死ね。ここで死ね。
ここで、お前に止めを刺してやる。触れるな。シンデレラに、触れるな。あの娘に触れるな。
彼女を阻むな。彼女たちを、阻むな。
その行く手を、阻むな。輝かしき者たちを、阻むな。
そこに生きる人たちを、殺すな。無辜なる人々を、傷付けるな。
ああ、悪なる者よ――――死ぬがいい。
俺は、貴様たち全てを狩り尽くすためにいるのだ。貴様たち悪なる者の――その全てを。
何もかも、喰い殺してやる。全てだ。何もかもだ。
俺が死んでやる。お前を殺してやる。だから、彼女を妨げるな。巻き込むな。死に絶えろ。お前の命は、辿り着くことはない。どこにも。彼女たちにも。誰にも。何にも。
死ぬのだ。
お前たちは。俺たちは。死ぬのだ。明日の果てには、必要ない。俺も、お前も、必要ない。
彼女たちの行く先に、害あるものは、必要ない。
ここで果てろ、人狼よ。
狼は、猟犬に、狩り尽くされるものだ。
「――――――――――――――――――」
押さえ付け、跳ね除けられ、牙を突き立て、暴れられ、首を貫き、目を抉られる。
呻き声が二つ、交わった。
息の根を止める。まさしく、息の、その根を止めるのだ。命の灯の、その大本を止めるのだ。
踊りが。奇っ怪な踊りが、石畳に広がった。
喰らい合っていた。
殺し合っていた。
混じり合っていた。
そして――――……どれほど、時間が経っただろう。
「……投降は?」
上体を起こして、口腔に満ちた血と肉片を吐き出す。
馬乗りにした下の火傷顔の青年は、その銀髪を喉から吹き出る鮮血に濡らしながら、まだ生きていた。恍惚と、跨った上のこちらを見上げている。
返答は、拒絶なのか。
無回答のその鼻面に右拳を一発叩き込む。鼻骨が砕ける感触が伝わり、それどころではなく顔面が砕けて陥没し、血と体液が混じったものが拳に糸を引く。
「投降は?」
問いかけには、応じられなかった。薄笑い。
その口腔に左拳を振り下ろした。
コンクリートと拳骨に挟まれた人体が異音を立てる。前歯全てが折れ、顎骨が砕け、鼻の下から全てが凹んだ青年の口を朱に彩った。
己の目玉に突き刺さった十字架を指にかけて引き抜く。
右目が潰れた。これはもう、治らないかもしれない。再生治療でも、感覚器に関わるものは、難しい。
「投降は?」
三度。答えは、嘲り笑い。明白に拒絶だった。
「そうか」
一撃――――引き抜いた十字架を相手の残る片目に突き立て、駄目押しに拳の鉄槌にて更に奥へと叩き込んだ。
身体が、ビクンと痙攣する。脳に達したか。
その跳ねに飛ばされるように、石畳に投げ出された。
のたうち回っている。大層な元気だ。眼底のその奥を折り砕いた感触はあったが、脳まで到達させることができなかったのか。
薄笑いを浮かべていたその顔が完全に平たくなるまで徹底的に殴り潰して止めを刺してやりたかったが、今は、物理的に難しかった。
もう、腕を持ち上げる気力がない。
己が一個の灼熱として、どろどろに溶けていた。疲労と苦痛と衝撃に、溶けていた。
(……基地まで、辿り……着かなければ……)
石畳に倒れ込む。倒れ込み、這いずった。
頬を涙のように、血が流れていた。或いは眼球内の液体だったのかもしれない。
……どちらでもいい。
その青年がここにいたということは、他にも、追手が来るかもしれなかった。去らなくてはならない。もう、ほとんど、何もできない。出し尽くした。灼熱の疲労感が手足を包んでいて、これがもう少し先で冷えると、きっと二度と身体を動かせぬほどの疲れになる。
だから、進まねばならなかった。
石畳に、手のひらを擦り付ける。
無理矢理、身体を運ぶ。
思い出す。訓練の日々を。士官過程。或いは、飛行士官育成過程。それとも、猟犬の日々。己の渾身というものの先を出せと、死力というものの向こう側に行けと、そう求められた日々だった。
身体より先に、心が砕ける。死力とはつまり、心が砕けた先にある、肉体に残っている力だ。それを意思で搔き集めるのだ。全てが打ち据えられた先の意思だけが手足を動かすと、そう知った日々だった。
だから、俺は、進まなくてはならない。
砕けても、砕けない。
砕けぬのだ。意思が砕けても、肉体は砕けぬのだ。
肉体が砕けても、己は砕けぬのだ。
使え。命を最後まで、使え。
「シンデレラ……さん……」
彼女は、石畳に金髪を振り乱して倒れている。
眠っているようだ――……いや、眠っているのか。そうだ、彼女は、死んでいない。生きていてくれている。そう、約束した。したのだ。俺に。あの人は。
頼むと、願った。
死なないでくれ。
死なないでくれ、シンデレラさん。
死した者に俺は何もできない。
何もできなくなってしまう。メイジーのように。マーガレットさんのように。戦友の皆のように。部下の皆のように。
俺は、何もできなくなってしまう。
そう決めて、もう決めるまでもなくそうなった。
死者には、何もできなくなる。どれほど大切に思おうと。どれほど大事であろうと。メイジーのように。あの人たちのように。俺は、もう、何もできなくなってしまう。
頼む、シンデレラさん。
「起きて、くれ……シンデレラ、さん……」
呼びかけにも、応じられない。
脳震盪か。覚えはある。強い衝撃を受けると、意識を喪失して混濁する。
彼女は、今、夢の中にいるのだろうか。
せめて、それが、幸福なものであることを願う。
雨の中を這いずり、やがて、辿り着いた。
大切な少女。
何よりも、誰よりも、幸せになって欲しい人。
ずっと笑っていて欲しい。泣かないで欲しい。生きてほしい。生き続けて欲しい。これまでも。この先も。
君が、愛しい。
君がただ、愛しいのだ。
そのことに、理由は、いらないのだ。
「シンデレラ、さん……生きなきゃ、駄目だ……」
すまないと、侘びた。
頭部を打ったときは、動かさない方がいいと言われている。だが、そうも言っていられない。敵が来るかもしれない。
行かなければならない。戦場では、止まった者から死んでいく。
ここを、いち早く、去らなければならない。
口を、血を、己の肩で拭う。
ホルスターに、途中で拾った銃を収めた。
両腕が碌に動かぬ以上は、もう、歯で彼女を運ぶしかない。どうすれば、気絶した彼女が頭を打たずに済むのか。それだけを考えた。
「シンデレラさん……」
目尻にできてしまったその痛ましい赤い痣に、静かに口付けをした。
その唇に、啄むようなキスをした。
血の味の、キスを。
それから首筋に、更に一つ、キスをした。
それが、彼女の精神を、繋ぎ止める軛となるだろうか。いや、死神を、全て、食い千切ってやりたかった。
「俺の命、ぜんぶ、君にあげるから」
その小柄な脇から襟首までに斜めに右腕を通し、そのまま無理やり、背中から抱き寄せるように彼女の身体を己に押し付けた。
柔らかい。壊れそうだ。折れそうだ。儚い。
彼女の肉体を己の脇に抱えながら、何とか、だらりと下がろうとする彼女の頭を手の甲で支える。これで、頭部の固定はできているのだろうか。大丈夫なのだろうか。
動かしたくない。だが、離れなくてはならない。早く。
「ッ――――……」
そして――彼女の背に回した己の右手の、親指の付け根に鋭く歯を突き立てた。
腕の力と、歯の力と、首の力で彼女の身体を支える。犬じみている。ああ、犬だ。戦場を這いずる、血の犬だ。
そのまま、地に伏した左腕に力を込める。肉体を、魂で引き摺っていく。
進め。
倦怠感の中で、進めと、命じた。
進め。取り零しては、ならない。彼女の人生は続く。続いていく。果ての空の、その先へ。
続けさせねば、ならぬのだ。
彼女の人生も。彼女以外の、人生も。
失われてはならぬ、命というものを。
続けさせねば、ならぬのだ。
ならば、進め。お前は、もう、そういうものだろう。
そうなったのだ。
ならば、そうあらねばならない。
「俺は……ハンス・グリム・グッドフェロー――――……
ならば、義務を果たせ。
ただ、ここにいる、義務を果たせ。
己の、義務を果たせ。兵士であるということの義務を。
お前は、ただ、そういうものなのだ。
疑うことなき、そんなものなのだから。
お前は、動き続けるそのために兵士になったのだから。
ただ、進め――――。
◇ ◆ ◇
光を完全に奪われ、その妖艶なる美貌も完膚なきまでにひしゃげさせられた。つまりは、再起不能だ。
呼吸に合わせて、血に染まった喉笛がごぼごぼと泡を立てる。
最後に己の瞳が捉えたこの世の名残へ、永遠の暗闇と引き換えに瞼に焼き付いた男の顔へ、己を組み敷いた片目が潰れたその相貌へ、アーネスト・ヒルデブランド・ギャスコニーは手を伸ばした。
「……ズルいよ、旦那。どうして――これまでおれのことを、惑わせたんだい? あんたがそうだと知ってれば、おれは、こんなところまで――……」
万物に見放され打ちひしがれたような声は、直後、血痰混じりの笑いに変わった。
「は、は――……いいや、いいやそうか。そうだったのかい、旦那。あんたはきっと初めから――――」
ごぼ、ごぼ……と血が弾ける。
余人に介せぬ何が見えているのか。何を見ているのか。
頭部の半分を素手で殴り潰されたそれは常人ならば致命傷であったが、しかし、それでも彼は恍惚と笑う。
「ああ、駄目だよなあ……そんなことは……駄目じゃないか、旦那――……そんな悲しいことを選んじゃ」
この世の最後に焼き付いた男の顔に、その頬に触れるように。
雪が振り来る天へと手を捧げる血だらけのギャスコニーは、潰され砕かれたその顔は、ただ、三日月の如き笑みを浮かべている。
「は、は。ああ――……ああ、ああ、やっぱりあんたは、人の心がない暴力そのものだ。本当に、ただ、暴力そのものだったんだ」
そして、瀕死なる悪徳が身を起こす。
眼底の骨折が脳に達し。
上顎も下顎も粉砕されて。
「やあ、お嬢さん。悪いが一杯水を貰えるかな?」
そんな、完全なる肉塊めいた顔で笑い続ける破戒者へ、
「……奴は?」
赤髪の少女は、うんざりしたように問いかけた。
◇ ◆ ◇
夢は見ない。
本来、見る筈がない。
夢が夢を見るなど――あるにはあるが、一体、どんな理屈なのだろう。
そうだ。
ハンス・グリム・グッドフェローは、ハンス・グリム・グッドフェローが視る夢でしかない。
大いなる白痴――――一人の男が見ている夢。主人格の下にあるだけの夢。存在しない夢。
彼が見続ける白昼夢。
ただの生体電気信号。
一抹の幻影。
泡沫の、幻想だ。
◇ ◆ ◇
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