第145話 大事なわたしと、大切な貴方

 世界が止まる。

 思考が凍る――――という経験をするのは、生まれて十五年のうちで、初めてだった。


「だから、というわけではないが……俺は君が日常に戻れるだけの、最大限の手助けをする」


 彼の言葉が耳を滑っていく。

 世界が凍りついたように、透明度が上がって、なんだかよく見えた。

 キシ、と腰掛けたベッドが揺れた。

 薄暗い室内は、かろうじて窓の外からの明かりで彩られている。どこかで上がった火の手が赤く、窓を背にした彼の背後で揺らめいている。

 左右を短く整えた黒髪。前髪は少し伸びた。

 切れ長の蒼氷の如き目の下には、強い隈が滲んでいる。


「もし、もしも……もしも君がまだ戦うことに俺か何かへの感傷や義理があると言うならば――そんなものは捨て、すぐに日常に戻ってほしい。それだけの手配は俺も行う。必ず……必ず元の生活に戻れるよう取り計らう。俺の全てで尽力すると約束する。全てだ。だから、もし……何か欠片でもあるというなら、そんな気持ちは――」


 淡々と語りつつ、なんとしてもという情熱を持ったような言葉に――だからこそ、


「……それは、の話をしているんですか?」

「シンデレラ?」

「それは、一体誰の……どんなわたしの話をしているんですか?」


 ふつふつと、言葉が口から出た。


「今も学校に通うわたしですか? 家の中でまた一人でご飯を食べてるわたしですか? 図書館で過ごしてるわたしですか? 怖いな――って今日のニュースを見ている無関心なわたしですか? 何も知らないで、大尉のことも知らないで、無邪気にインタビューを見てるわたしですか? この世界から消えてしまいたいって、そう思っていたわたしですか?」

「シンデレラ……?」

「貴方の言ってるのは――――一体、どのわたしなんですか!」


 目を見開く彼へ、身を乗り出して告げる。

 どうしてだ。

 どうしてこの人は、そんなことを、言うのだ。


「……!」


 だって――――眼の前にいるのに。こうしてまた会えたというのに。


「大尉のせいなんかじゃない! 大尉がそうしろって言った訳じゃない! わたしの大事な選択まで――――大尉のものにしないでくださいっ!」

「――――――――」

「わたしは……わたしは、逃げたくなかったんです! あのままにしておきたくなかったんです! あの日落ちてきたヘンリー中尉も! いつもこっちを置き去りに話を進めようとする父さんも! あんなふうに来たグレイコート大尉も! そういうの全部! そういうもの全部に負けたくなかったから――そのままにしておきたくなかったから! だから、わたしは立ち上がったんです!」


 湧いてくる感情のままに捲し立てる。


「言わないでください……大尉に出会ったことが、まるで悪いことだったみたいに……何から何まで間違ってたみたいに……! 知らないくせに! どれだけ嬉しかったか、知らないのに! わたしの中での大事な気持ちも! わたしの大切な幸せも! 大尉が全部取らないでください!」

「――――」


 黒髪の青年が、愕然と、目を見開いた。


「……俺が、君の幸せを、奪う?」


 凍り付くような頬と、口の動き。

 それはきっと、彼の致命的な信条に踏み込んでしまっていた言葉だったのだろう。

 傷付けてしまったのだろう。

 でも――――だけれども。

 ここで、止まってなんてやれない。


「そうです! わたしにとって――――大尉に会えたことは、他のどんなことよりも大事なことなんです! また貴方に会えて、わたしは、生きていられたことが嬉しかったんです! あの日、わたしが、シンシアとして生きていいんだって! そう言ってくれて! 呼んでくれて! わたしを! 貴方の箱にしまってくれたことが! 何よりも! ――――今まで生きてきたどんなことよりも!」


 一体それがどれだけ嬉しかったのか――どうして気付いてくれないのだろう。

 ずっと。生まれてからずっと。

 シンシアじゃなくて、シンシア・ガブリエラじゃなくて。シンディ・エラ――シンデレラと呼ばれて。そう呼ばれていれば愛されてると思って。そう思うしかなくて。

 そんな自分の本当の名前を、聞いてくれたことが。


 誕生日に父親から傷付けられて。

 眼の前で怒りさえも奪われて。

 今まで貰えなかったプレゼントよりも、カードよりも、他のどんなことよりも――――――貴方に名前を呼んで貰えたことが嬉しかったんだって。


 どうして、誰でもないこの人が、そう思ってくれないのだろう!


「この気持ちは……この大切な気持ちは、わたしが選んだものは、!」

「――――――――、」


 何度も肩を上下させる。

 息を吐くと、やがてその悔しさは、こみ上げる頬の熱は、熱く目尻から零れ始めてしまっていた。


「言わないでくださいよ……貴方と会わなかった方がよかったなんて……」


 そんな言葉だけは、聞きたくなかった。


「言わないでくださいよ……わたしと貴方の出会いが、全部間違いだったみたいに……貴方の言葉が、なかった方がよかったみたいに……」


 そんな言葉だけは、言ってほしくなかった。


「貴方のおかげでわたしは、シンシア・ガブリエラ・グレイマンとして生きていいんだって思えたのに……貴方が、そうしてくれたのに……そんなこと、言わないでくださいよ……貴方は……貴方だけは……っ!」


 他のどんなことも、きっと、我慢できたのに。

 この人から全てを否定されるのだけは、耐えられなかった。

 貴方と出会えたことを幸せだと思ったのは――――わたしだけだったんですか?


 睨み返すように見上げた先で、彼は、何度か瞬きをした。

 それから、こちらの頬を流れるものを見て僅かに目を伏せた。いつものように思慮深さの滲んだ、考え込むような瞳だった。


「……そうだな。他者の選択までを否定する権利は、俺にはない。その内心の自由にまでは、俺は関しない。……関してはならない。そうだな……そうだった」


 自分自身に戒めるように彼が呟く。

 そのアイスブルーの瞳が、もう一度、こちらを見つめ直した。普段通りに揺るがない目が、僅かに強い光を持つ。


「それでも俺は……君が人生を肯定できたことと、戦場に立つことは別の話であると考える。それはきっと、命懸けの戦いでなくても得られるのだと……対価のように命を晒すことは、大いなる誤りなのだと。死とそれは、違うのだと。死の危険はあらゆる対価になり得ないと」


 それは、彼の持論なのか。

 死の危険を、争いの芽を憎んでいるという眼光。

 その唇が動き、淡々と言葉が発せられた。


「俺は、信念で戦いに出るべきではないと思っている。生存こそが、優先される。死は、取り返しが付かない。どんな素晴らしい理想も献身も、それらは推し並べて冷たい墓の中に入れられる。二度と取り戻せない。死とは、あらゆる可能性の喪失だ。その危険は最悪のリスクだ。……名誉という表札が飾られるのは、何もかも、墓標だけだ」

「大尉……でも……」

「見てきたんだ。……見てきたんだよ、シンデレラ。俺は沢山、それを、見てきたんだ。皆、死んでしまったんだ。凄い人も……そうでない人も。自分から立ち上がった人も、巻き込まれた人も……いい人も、悪い人も、色んな人が……そうなってしまうのを……」

「……」

「……遺族も。彼らに手紙を書いた。書き続けた。何枚も何枚も、書くんだ。彼らを思い返しながら――……」


 その瞳に、遠き光が宿った。

 繰り返し、そう生き続けてきた人の掠れた郷愁が伴う。

 超然とした兵士でも英雄でもない疲れを見せた顔。


「普段は、碌に……覚えていられないのに……そんなときばかりによく思い出せて、その約束を果たせなかったことも思い出せて、もう取り返しもつかないことを思って、何もかもに後悔して……それでも手紙を書き続けるんだ。それが、戦うということで……死んでしまうということなんだ」


 幾枚も幾枚も、その足元には文字が積み重なったのだろう。何度も何度も、彼は手紙を出した。多くの人に。来る日も来る日も。

 死者に向けた言葉が、遺族に向けた言葉が、この人の中に降り積もった。

 絶対的に生き残る英雄とは、それだけ、数字と文字に囲まれた生き方なのだろう。


「君の気持ちを侮辱してすまない。……だが、それでも俺は……君に、そんな中の一人になって欲しくないんだ」


 優しく、諭すように。その瞳からも険がとれて。


「ここには確かに名誉がある。絆もある。それが生まれることを俺は否定しない。彼らの勇敢さが今日も俺を生かしてくれたこと、彼らとの輝かしい思い出が嘘ではないことを知っている……その途方もなく眩く、尊く、はてどない献身を」


 寂しげに――誇りを持って。


「それでも……日常を見るたびに、ふと、思う。……彼らが此処に居ないことを。この中に居られないことを。確かに守ったのに、世界の中に居たのに、今はもうどこにも居ないことを……。そんな勇敢な彼らが、永久に、ここから失われてしまったことを……そして、いずれは俺の中からも……皆の中からも遠ざかってしまうことを……」


 お墓の前に佇む姿を幻視する。

 墓守――――墓守犬チャーチグリム

 置いていかれた人。それでもそこに居続ける人。そんなことを、気が遠くなるほど繰り返してきた人。蹲らないことを、己に科した人。

 廃墟の風の中に、一人で立つ人。死の匂いに囲まれて。


「俺に、個人の選択を否定する権利はない。そうだ……それだけの権利は、有しない。ただ――」


 その手が、静かに伸ばされる。

 頬へ――――悼むような瞳と共に。


「……それでも君に死んでほしくないんだ。シンシア・ガブリエラ・グレイマン」

「大尉……」

「頼む。……本当に、心から頼む。生きてくれ。そう、俺に、約束してくれ」


 今すぐにここを離れてくれ――――と。

 縋るような蒼い瞳。

 悲しさを堪らえて、それでも心から痛み入るように差し出された指先。

 寂しくて、苦しくて、何より優しくて、泣きたくなるぐらいに蒼く優しくて、ああ――――だから。



 ――――――



 その手を握り返し、左胸に導く。今もうるさく動く、自分のそこへ。


「!? し、シンデレラ……」

「黙って」


 反射的に手を引っ込めようとしたそれを押し付ける。

 放してやる気は、なくなっていた。

 だって――――こんなにも。こんなにも、

 この人の口からそんな言葉が出ることが許せない。そんな言葉を出すまでに追い詰められてしまったこの人が許せない。この人をそうしたものが許せない。そうまでして立たなきゃいけないことも許せない。

 そんなの、全部、許せない。

 ひょっとしたらそれは――――彼が誰よりも大切な人を失ってしまったからで、そのことは、自分が踏み入ってはいけないことなのかもしれないけど。

 


「生きてます。わたし、生きてます。……わたしの鼓動、覚えてください。今生きてるわたしのこと、覚えてください」


 もし大切な思い出が――――大事な人が居たとして。

 それが大尉にとって何よりも大事だったとして。

 


「わたしのこと、全部、覚えてください。……匂いも、手触りも、声も、体温も、名前も。わたしの全部を。大尉の仕舞った箱の中を、わたしでいっぱいにしてください」


 それがこの人にこんな顔をさせてしまうなら――――

 

 。――――死神にだって、渡さない!


「死んでもいい、なんて言いません。わたしがどうなってもいい、なんて絶対に言いません。わたしが死んでしまって、この音を、いつか、大尉が忘れてしまうなんてことも許しません」


 生きてくれ、なんて言われるまでもない。


「手紙なんて書かせないし、そのときだけ思い出すなんて、そんなこともさせません。わたしはその全部を、絶対に貴方に許しません」


 生きてくれ、なんて言わせてもやらない。


「わたしは、今、ここに居るんです。わたしは生きてるんです。あの日……貴方に出会ってから! 名前を呼ばれてから! 誰にも知られずに終わっていきそうだったわたしの人生は、その日から動き出したんだから!」


 貴方がそんな顔をして言わなきゃいけないなら――――


 たとえ死がそこに居ようとも、この人を譲らない。

 そんな気持ちのまま――――更に強く、胸に彼の手を押し付けた。鼓動が伝わるように。そのまま混ざって、自分の中に入ってしまうほどに。

 


「わたしは生きます。わたしは今、此処にいます」


 貴方がそれでも、わたしの痛みも苦しみも連れて行くというなら――――

 


「わたしは貴方の、前に居ます。……貴方が呼んでくれた名前で、わたしは、ここに居るんです!」


 強く――――見た。

 その蒼い目を、見続けた。

 色んなものを見続けてしまった悲しい目。それでもまだどこかを目指す寂しい目。

 それが、何かの星の光を見続けるなら――――――


「だから――――……言わないでください。わたしと貴方が会ったことが、間違いだったなんて……貴方がいる場所が、過ちのように! そんなことは、もう……絶対に!」


 涙は、もう、止まっていた。

 この人から目を逸らすことは、もう、絶対にない。

 間違いだなんて、言わせてやらない。絶対に。


「呼んでくださいよ、名前を! シンデレラでも! シンシアでも! 何度でも! 貴方の好きなように!」


 その胸倉を掴んで、引き寄せる。

 ベッドが、軋みを上げた。

 唇を奪ってやりたいけど、それ以上に――――


「それが――――貴方にとって、ッ!」


 腹の底からの声で、彼に告げる。

 本当は、もっと……甘い言葉でも優しい言葉でもかけたかったけど、これしかない。

 幾らでも立ち続けるこの人に向けて言えるのは、これが一番の愛の言葉だった。


 やがて、上がった吐息が戻る。


 どれほどそうしていただろう。

 どれほど見詰め合っていただろう。

 初めての触れ合いはこんな形で。自分が触った彼は、こんな形で。

 やがて向かい合った黒髪の青年が、小さく頭を下げた。


「わかった。……二度と口にはすまい。すまない……いや、ありがとう……シンデレラ……」


 シンデレラ――――と。

 その言葉に、僅かな安堵を抱いた。

 すとん、と自分の中に滑り込んでくる。彼の肉声で。初めからそこに収まるのが自然のような声で。


(……そう、ですね。シンデレラ――――シンデレラ・グレイマンは、今、そんな名前になったんです。それが、シンデレラって、わたしなんです。貴方が呼んでくれる、わたしなんです)


 彼の中で――――そうやって、自分という名前の意味が作られたのだと。

 別の何かじゃなくて、そんな名前なんだと。

 他の意味は全部――――もうなくなったんだと。

 あの日くれた呼び方の、もう半分。

 シンデレラ・グレイマンという言葉は、二人にとって、今まさにそんな名前になったのだ。

 そのことが、愛おしい。

 ここにしかない響きが、二人だけの呼び名が、どこまでも愛おしい。


「しかし具体的に、どうする? 具体的に、どう、対策が取れる?」

「……大尉、デリカシーやムードがないって言われませんか?」

「それで人が生き残るなら考慮するが、生憎とその例に出会ったことはない。……君がそれでも進むと言うなら、俺からは止める権利がないのも事実だが」


 それでもこの人は、きっと、権利ではなく義務として止めるだろう。

 そんな口ぶりだったし――……そうする人だ。そのために軍人として、職責として、それを有している人だった。それを持つために軍人になったであろう人だった。

 捧げている。手に入れるために、捧げている。

 一つの、仕事として。専門家として。


「……ごめんなさい。思いつきません」

「そうか。……そうか」

「でも一つ――――約束できます。ううん、約束じゃ、ないかな。……でも多分、実績って言うなら……」


 ふぅー……と、息を吐く。

 ゆっくりと、フライトジャケットの下の身を包む駆動者リンカースーツの胸元に手を伸ばした。

 最初は信じられない服だと思った。どんな理屈を説明されても、こんなものを着せられるなんて信じられないと思っていた。恥ずかしくて堪らなかった。影でからかわれた自分の身体のラインを晒すなんて、最低な気持ちだった。

 そのジッパーをゆっくりと、臍の下まで下ろしていく。

 今は――……不思議と、落ち着いていた。

 だが、


「シ、シンデレラ! それは早い……まだ早い。君は未成年で、それに今作戦中だ。そんな時間は――いや、可能な時間はあるか。あるな。そうか。いや、だが、職務規定に反する。第一、そういうことはまず柔らかなハグ――は済ませたか。そうだな。いや、まず、そう、大切なのはムードと優しいキスから――」

「違います!!!!! よく見てください!!!!」

「み、見る……見られ、見られ、見る? 見っ、見……何か不安か? アドバイスを? 感想か? 俺もそう多くは経験がないのだが……いやそうか、まさか、そういう趣味が……? そうか。貴官にはそんな嗜好が……どうしてもと求めるなら、応じるしか――」

「だから違います!!!! なんでそうなるんですか!! ハラスメントです!!!!」


 なんでこの人ちょくちょくぽんこつになるんだろう。

 表情は殆ど変わらないのに、急に壊れたような多弁になった。まるで初めて好きな娘の肌でも見て焦った人みたいな戸惑いっぷりで……意外に純情なのかなこの人。イメージと違うけど。

 なんか可愛いと思わせて――……いや卑怯だ。今はそういう場面ではないというのに。


 ひとまず脳内の記憶フォルダに厳重にしまって、咳払いと共に意識を切り替える。

 そして、ゆっくりと、言う。

 体中に走る傷跡をなぞりながら――……。


「……わたし、一度、死んでるんです。ヘイゼルさんに身体をバラバラにされて――――死んでるんです」


 噛み締めるように告げた、途端だった。


「――――――――――」


 首を締められたのではないかと、思った。

 ミシ、と。

 何かが軋む音がした。

 空気が重さを増す。重力の坩堝に放り込まれたように、胸が引き攣る。息が詰まる。呼吸が、奪われる。声も、息も、漏らせないほど。


 それは、目の前の青年から鳴っていた。

 その膨大な怒りが毛皮を持って身体の内側から弾け飛ぼうとしているように――――それを無理矢理に肉の檻に抑え込んでいるように。

 蒼い目を剥いて、それを顔面ごと手で抑えつけて、それでも収まり切らないほどの憤怒が発せられていた。

 思わずベッドの上に腰を抜かしてしまいそうな。

 気配だけで、息の根を止められてしまいそうな。

 圧倒的な――――――どうしようもない殺意。多くの人々を葬ってきた処刑人からの、掛け値なしの殺意。百万の命を奪ったこの世界で並ぶ者のいない究極の殺意。


「――――――――――――――――」


 物理的に窓ガラスすらも砕いてしまいそうなほど。

 暗がりの顔の中で、瞳だけが爛々と灯っていた――刃めいたその瞳が。高温の炎じみた蒼き瞳が。

 ああ、今、本当の意味で初めて――――初めて彼を目の当たりにした。

 これが、ハンス・グリム・グッドフェローという男だった。

 こんな――――混じり気のない、暴威そのものが。


「待って……怒らないで! 怒らないでください、大尉!」

「だ、が――――――」


 今にも牙を剥こうとするその強い身体を、咄嗟に抱き締める。

 触れると否応なしに伝わってくる強烈な感情と合わせて――――その肉体の存在感と合わせて。それは、一個の暴風みたいだった。

 渦巻く義憤と恩讐の嵐。

 今にも弾け飛ぶ炸裂の人型。

 暴れてしまえば止められない力強い獣。

 触れているだけで、伝わる気持ちが痛い。辛い。引き千切られそうに恐ろしい。昂ぶったその感情が、自分に目覚めた素質を通して業火のように荒れ狂っていた。腕が焼き尽くされると思うぐらいに、震えていた。抜身の刃の如く尖っていた。肉という肉を斬られるみたいだった。

 必死に、しがみついた。必死に腕を回し、力の限り抱き締めた。――そうしなければ、どこかに弾け飛んでしまいそうで。


「怒らないで。……わたしが怒ってないんです。大尉も、怒らないで……」

「ッ、ぐ、――――――ッ」


 肩の向こうで黒髪を揺らして呻きを噛み殺す彼は、手負いの獣だった。

 もし、彼が怒りのままに牙を突き立てたら壊されてしまう。簡単に引き裂かれてしまう。

 そう思わせるような獣じみたしなやかな肉体が強張り、今にも力のままに吹き出さんとしている。

 それを、押し付けるように抱き締めて、待った。

 落ち着くように、背中に腕を回して待った。

 もしかしたら、このまま、彼の怒りに引き裂かれてしまうかもしれないけど――――暴れられたら、絶対、生身でも機体でも止められないけど。


「君、が……そうする、なら……俺、は――――……。だ、が――――……こんなものが――――――――!」


 それでも、今、抱き締めたかった。

 この人が、これ以上、怒りに呑み込まれてしまわないように。

 繋ぎ止めたくて、身体に回した腕に力を込めた。自分の身体が、彼の首輪みたいになってくれることを願って。

 斬り刻まれるような気配――――比喩ではなく。

 自分の持つ資質は、この感情をそう受け止めていた。皮膚を裂き、肉を断ち、骨身を蝕むほどの痛みとして降り注ぐ。――――と。と。青黒い恩讐の刃が突き立てられる。


(……ああ。貴方の知る人は……もう、その人は……怒ることもできなくなってしまったんですか――――? それとも、そんなふうになってしまうかもしれない誰かのために、皆のために――――貴方は、そうなろうとしてるんですか?)


 怒りの聖者。

 声も出せない誰かのために、怒ってあげられる優しい人。誰かのために立つために、怒り続ける優しい人。そうして全部、人にあげられる優しい人。理不尽に立ち向かうための怒りを胸に秘め続けた優しい人。

 ……だけどそうして、怒り以外をなくしてしまった悲しい人。そうしなきゃ、歩き続けられない悲しい人。

 それでも一人で歩き出せる、寂しくて強い人。

 誰よりも強くて、寂しくて、優しくて、鋭く折れない愛しい人。


 そんな貴方の怒り以外は――――わたしが拾って、箱にしまってあげるから。

 いつか開けるその日まで、大切に、隠してあげるから。

 そのまま一緒に、生き続けてあげるから。


(だから、泣かないで……泣かないでください、グッドフェロー大尉。わたしの前で、泣かないで……)


 その胴に回す手に力を込めた。

 ほんの少しでも伝わったら、この体温と共に熱が伝わったら、彼の中の怒りの炎さえも焼き尽くすことができるだろうか。

 首輪なんてなくても生きていていいのだと、口づけをしてあげられるだろうか――全身で。全身に。 


 そのためになら、全部、食べられてしまってもよかった。そうしたら、怒りに渇く喉が――――少しでも潤うだろうか。

 本当に。

 恥ずかしくて言えないけど。

 貴方になら、全部あげたいと――そう思っているから。



 やがて――……どれほど経ったのだろう。


「……すまない。迷惑をかけた。失礼した」

「大尉……」

「聞かせてくれ。……君に、何があったのか」


 呼吸を落ち着けた彼が、そうして口を開いた。

 先ほどが嘘のように余りにも落ち着き払った顔で、もしかしたら――――……いや、きっと、自分が居なくてもこの人は立ち直ったのだろうけど。そういうふうに自分をしているのだろうけど。

 それでも今は、此処にいるのだ。

 それ以外のじゃなくて――――貴方とわたしは、この形なのだ。

 だから、まだ、続けなくちゃいけない。


「わたし、無意識に、力場を操ってたみたいなんです。それで、バラバラになった身体を繋げてた。アシュレイ先生は、そう言ってました。生きようとしていたって」

「アシュレイ……」

「ここまでくれたのは、アシュレイ先生です。……そうじゃなきゃ、今こうして大尉と居られなかったと思います。でも――――」


 本当に、奇跡的だと思う。

 人工腎臓。ハイブリッド脾臓。

 肝臓右胚残存。左胚欠如。生体コーティング人工左肺。補助人工心臓ポンプ及び培養心臓。

 炭酸アパタイト骨生成補助。ハイブリッド神経網。

 上腕、大腿、前脛、肋骨――機械化骨格移植。

 何かが一つ違っていたらこうして居られず、ただ運の巡り合わせでしかないのだとも判っている。

 それでも――


「わたしは、生きます。生きようとしているんです。たとえ身体がバラバラになっても、わたしは諦めないんです」

「――、……」

「……それは、証拠にはなりませんか? 一度、そうして戻ってきたというのでは……駄目ですか……? それでも……そんなくらいに大尉に会いたかったんだって、そう思っては貰えませんか……?」


 ギシ、と。スプリングが揺れた。


「シンデレラ――――」


 返答代わりに、一度、抱き返された。

 身体を曲げて、覆い被さるように。包み込むように。

 あの日――――真空の中で。そこに居たような感覚よりも強く。

 鎧みたいな肌の感触が、伝わってくる。

 そして彼の指先が伸びる――――駆動者リンカースーツの下の、こちらの素肌に。


「この傷が、全て、そうか……」


 静かに。

 一つずつ。

 口づけをそうするように。

 一つ一つ。

 胸の中心にできた、十字架みたいな傷跡にも。


「痛かったろうに……」


 頬の真横で零される吐息混じりの呟き。

 まるで我が身を傷付けられたかのように、彼は顔を歪めて傷跡をなぞる。或いは彼がそうされるよりも、苦しそうに歯を食い縛って。

 ああ――……と、思う。

 鋼鉄の男の、生身の表情。

 閉じていた箱の中。区切った向こう側。

 この人は、きっと、本当はそういう人なのだ。痛みを我が事のように、きっとそれ以上に感じてしまう人なのだ。

 だから、どうしようもなく、怒っている。

 そんな痛みを生むものと戦うために、負けないために、立つために、どうしようもなく怒っている。


「辛かったろうに……」


 目も当てられないと言いたげに隣で表情を歪めていく彼を眺めて、シンデレラも胸が苦しくなった。

 そんな彼の顔を見たくなかったのではない。

 これが――――こんな傷が。こんな本当は欲しくもなかった傷が。それでも納得しようとしている傷が。

 それすらも無意味なものだと、言ってほしくなかった。

 無価値なものに意味を付けようとする無駄や徒労のように、ある筈ではないことのように、存在することがおかしいように、そう言ってほしくなかった。何もかもを否定して欲しくなかった。

 だけれども、


「それでも君は、生きていると、胸を張るのだな……」


 苦しそうなまま。

 それでも拳を丸めながら――彼は、噛み締めるように目を閉じた。

 そこに籠められた想いを、汲むように。


(大尉は、いつも、わたしにそうしてくれる……)


 ……ああ、そこは、出会った日から変わらないのだ。

 選択を蔑ろにしない、そんな人だった。その想いも汲み取ってくれる、そんな人だった。決して頭ごなしに否定しない、そんな人だった。判ろうとしてくれる人だった。

 ……ああ、だから、きっと。

 命という線を前には――――そうもしなくなるほどに。そうできなくなるほどに。彼は余りにも多くのものを、どこまでも見続けてしまったのだろう。


「……君は、痛くないのか? 大丈夫、なのか?」


 身体を離してから問いかける蒼の眼差しに、聞き返したくなる。

 そんな貴方こそ――――痛くはないのか、と。

 そんなに傷だらけで立ち上がって、痛くはないのかと。

 そんな目をできる人が、ずっとずっと戦い続けていることに涙が出る。


 だけれども、小さく内心で首を振る。首を振って、ゆっくりと言う。だって今の自分たちに必要な会話は、それではないから。

 身体を屈めた彼の頬に、手を伸ばす。愛おしくて、切なくて、苦しい。こんなにも、繋がりたい。

 そうしたら混ざり合って、彼を想う気持ちが、軟膏のように染み渡ってくれるのだろうか。彼に刻まれた多くの傷を塞いで、癒やしてくれるのだろうか。

 だから代わりに、一万分の一でも伝わってくれるように――伝えたくて、言うのだ。


「勿論、痛かったですし……今も時々痛むんです。まだ治りきってないのかは判らないですけど……」

「……」

「……でも、そうして、生きようとしてることが嬉しいんです。生きようとして、助けられて、生かされて……生きて、こうして、また大尉に会えたことが」

「……そう、か」


 呟くような声に、頷き返す。


「そうです」

「そうか」


 その頬に、手を添わせて。

 互いの頬を指で触れて。

 お互いの顔を、形を、その全霊を覗き込む。二度と忘れてしまわないように。魂に形を焼き付けるように。指先を舌にしてお互いの味と形をなぞって。

 何度も、ただ見詰め合う。

 身体の奥まで、その魂の味を忘れないように。


「……君の人生は、それでも、いいのだな。俺が案じ、ただ怒るのは、やはり誤りなのだな」


 黒髪の貴方が、蒼い目を細めて言う。


「そうですよ。……間違いなんて、誰にも言わせません」


 金髪のわたしが、琥珀色の目で見詰めて返す。


「そうか」

「そうです」


 口づけを交わすほどに顔を近付けて。

 互いに手負いになった獣のように、その二つが毛繕いをするように、温度もわかるほどに近い吐息を交える。

 吐く息を通じて、二つの境が何もかも混ざるくらいに。

 こんな状況でなかったら、このまま腕を絡めて舌を絡めて、身体と身体を深くまで絡めてしまいたかった。

 繋がり合って、二度と離れないぐらいに。

 全身で彼を感じて、結ばれて融けてしまいたかった。


「これが、君という人間と……俺という人間の、話か」

「そうです。わたしたちは、そう動くだけの機械じゃないんです。話をしたんです……貴方という人間と、わたしという人間が、話を」

「そうか」


 噛み締めるように、彼が頷く。

 こちらもまた、目を閉じて頷いた。

 額と額をコツンと当てて。獣が鼻先を合わせてそうするように、気持ちも混ざり合わせて。

 互いの頬を指でなぞる。

 伝わるのだろうか。――こんなにも、愛しくて分かって欲しいのだという気持ちが。彼に。


「これが、君か」


 彼が、ゆっくりと咀嚼するようにそう漏らす。

 穏やかな声。

 本当は軍人ではなく、他に生き方もあったであろう彼。


「……そうですよ、グッドフェロー大尉」

「……そうか、シンデレラ・グレイマン」


 一度、彼は目を閉じた。揺らぐ蒼い瞳が遮られた。

 わたしも、目を閉じた。

 それから――……長く沈黙していたような気がするし、一瞬だったとも思える。

 そしてまた瞼を開けたその時に――彼は、ハンス・グリム・グッドフェローは、軍人の顔に戻っていた。


「君が――――常に君の生存を考えると誓ってくれるならば、俺も一つ誓おう。いいや、願おう」


 身体が離される。理性の仮面を付けた、いつもの顔。

 名残惜しかったけど、それを――――寂しいとは思わなかった。悲しいとは思わなかった。

 だってそれは、彼なりの、思い遣りなのだから。

 一人の大人として、プロフェッショナルとして、彼がその人生の中から選んだ道の上に立つ人として、つまりはその生き方の全てで応じようとしてくれているのだから。

 どんな甘い言葉よりも、それが嬉しかった。……本当はもう少しこうしていたくて、少し残念だけれども。


「シンデレラ・グレイマン……理解しているとは思うが、君は脱走兵だ。直属の上官として、俺は君に速やかなる帰隊命令を発令しなければならない。そしてそれを受け入れられない場合、その身柄の拘束を行わなければならない。抵抗された場合は、強制力の行使も視野に入れられる」

「――……はい」


 判っている。

 これまで、状況によって見逃されて来ていただけだと。

 彼は、そういう軍人なのだと――――規範的な。たとえそれが親しいものであれ、感情的に見逃したり規則を曲げたりはしないのだと。

 それが、むしろシンデレラから見て……好ましいと思えた彼の資質だった。正しいことをできる人。どんなときもそうしようとする人。真面目で嘘がない人。

 だから――……いざそんな言葉を突き付けられてしまったことに強いショックを受けたが、納得はあった。そうしてこその、彼だろうと。

 しかし、


「……だが、状況に余裕はない。これは、明確なテロ行為だ。誰が主導したかではない。既に、全てに火がつけられた。物理的にではない。……全ての燃え燻った灰にまで火が点けられた。この国は、世界は、非常に危機的な状況と言っていい。猶予がない」


 そして彼は、一度、言葉を区切った。


「二一二年五月、カーティス・ヴィレッジの戦い」

「……?」

「或いは一九八年三月、ドルトン刑務所襲撃事件」


 淡々と紡がれる言葉。


「現場の判断で必要性と人命保護の観点から、民間人や囚人にも武装を許可し共同した事例だ。今回のケースにも類推適用が可能だろう。。つまり――」


 言いながら、彼が、腰から白銀のリボルバー拳銃を引き抜いた。いつの日か、戦友の形見と言っていたそれを。

 そのまま、向け直された握把グリップを差し出される。


「この状況の打破が求められる。可及的速やかに。当然、君に関しても。……申し訳ないが拒否権は与えられない。俺と共に来るんだ、シンデレラ。……これを、手に」


 今まで彼は、絶対に自分に銃を撃たせようとしなかった。人を殺させようとしなかった。

 守られていると――――そう思った。

 嬉しいのか、悔しいのか。

 今それは、もう、思い出せない。


 ……やっぱり、本当は、守ってほしいと思ってしまうのだろうか。


 考えても、判らなかった。

 戦うことがどういうことなのかも、まだ、答えを得られてはいない。きっとこれから長く、一生をかけて向き合わなくてはいけないことなのだろうと思う。そのたびに苦しんでしまうのだと思う。

 ただ、彼は軍人で――――――上官だ。そうしようとして、そうなって、そうしている人だ。

 そんな世界に。

 来いと――――呼ばれている。初めて対等に、彼は、シンデレラ・グレイマンを求めた。

 誰よりも軍人で、そうあろうとした彼が。今は、そうとしか在れない彼が。


「俺には、君が必要だ。……誓ってくれ。光り輝かしき、灯火の君よ。シンデレラ・グレイマンよ」


 それはまるで、戦いに赴く騎士の姿にも似て。

 孤独に立ち続けたヒトが、初めて助けを求めていて。

 いつの日にかではない今の彼は、そんな肩書を背負って生きるしかなくて。

 だから、


「――――はい、大尉!」


 差し出された銃を掴む。

 彼は、悲しそうな……寂しそうな。それでも僅かに微笑んで、自分のことを見詰めていた。

 もしもシンデレラ・グレイマンが、シンシア・ガブリエラ・グレイマンとして生きるなら必要のない銃。

 もしもハンス・グリム・グッドフェローが、本当の彼として生きるなら差し出すことのない銃。

 だけれども、今は、だ。


 だから。

 今はシンデレラ・グレイマンの少女と、今はハンス・グリム・グッドフェローの青年の答えは――――――これでいいのだ。

 彼がシンデレラと、名前を呼んでくれるそのように。


 この名前には、そんな意味があるのだから。


 貴方とわたしは、そんな二人なのだから。


 それは――――どこの誰にだって、嘘だなんて言わせない。














 ……なお。

 

「……大尉、さっき、何を想像したんですか?」

「いや……」


 下ろしきった駆動者リンカースーツのジッパーを引き上げながら、ふと思った。

 ブラジャーもなしの、素肌だけ。おへそよりも。

 しかもベッドの上で。

 思い返すとあんまりにも大胆すぎて頬が熱くなってしまうほどだけど、暗い部屋の中ではどうせそれも見えないだろうから。

 もうちょっとだけ――……踏み込んでみる。


「大尉、そういうことになっちゃうって……考えてたんですか? こんなときに?」

「……いや、俺は……」

「想像したんですか? わたしと――そんなふうに?」


 内心高鳴る鼓動を隠して、目を細める。

 頭一つ分以上大きな彼は、覆い隠すように口元を抑えながら首ごと露骨に目を逸した。

 本当にばつが悪そうに。多分、きっと彼も頬を染めて。

 だから、


「へえ?」


 ちょっと、からかうような笑みが零れてしまう。


「大尉、わたしのこと、そんなふうに見てたんですか?」


 ……勿論、自分だって恥ずかしいんだけど。

 でも、それ以上に――


「大尉は、そんなふうなわたしを、見たいんですか? わたしのそんなところを……見たくなっちゃったんですか? わたしにそういう興味があるんですね、大尉も」

「…………………………………………」

「へえ? ……へえ」


 少し身体を寄せて、わざと上目遣いに笑ってみる。

 ニヤニヤと。

 少し手を伸ばせば、簡単に触れることができてしまうような近くに寄って。彼が望めば、すぐにでも触れられてしまうところまで近付いて。

 どうします? わたしはいいですけど?――――なんて、頬の熱さを隠して微笑んで。


「……ハラスメントだ。これは、深刻なハラスメントだ」


 手のひらで顔を抑えて項垂れる彼は、あんまりにも貴重だった。

 ……やっとやり返せたなんて、ちょっと拳を握っちゃうくらいに。



 こんなときにこんな場所じゃなければな、なんて思ってしまったのは……誰にも言えない自分だけの秘密だ。



 ◇ ◆ ◇



 それから――急に気恥ずかしくなって、お互いに視線をそらすように窓の外を眺め続けた。

 なんとなく、ベッドの上についた手が重なって。

 少し慌てて……それから、わざと重ねて。握り合って。


 そうなると、ちょっとドキドキして。変にワクワクして。それから――何よりも安心して。

 この人の隣に居ていいんだって。

 今ここにいるんだって。

 わけもなく、嬉しさで口がもにょもにょした。


「……ちゃんと話せたようで、当職としても何よりです」

「あ、え、えっと……ごめんなさい、こんなときなのに……」

「いえ。……ここからは少なからず危険があります。そういう話はにしておいた方が、いいというものでありますから」

「……」


 偵察や通信から戻ったレモンちゃんが、ウィンクを飛ばしてきた。

 真面目そうな人なのに、そのへん少し面白い人だった。

 大尉とは違うけど……それもある意味、プロの姿勢なのだろうか。判らないけど。

 立ち上がった彼が無駄のない動作で彼女へと歩み寄る。


「レモニア、状況は――」

「レモンちゃん、と」

「……、……、…………レモンちゃん、状況はどうだろうか」


 む、と思ってしまう。

 レモンちゃん。可愛い感じの呼び方。大尉に。

 少しなんだか面白くなくて、こちらも立ち上がって彼の手を後ろから握る。邪魔にならない程度に。

 ……握り返してくれた。視線を向けては来ないけど。ちゃんと。強く。嬉しい。


「周囲の路上や建物に人影は見えませんね。少なくとも、銃口や狙撃手の用意はありません。念の為に隣の建物からドローンを飛ばしてみましたが――どうもあの襲撃者たちは、一度撤退したようです」

「そうか。こちらも上から路上を確認してみたが、残された装備から考えるに……酷く全体の統一性に欠けていて、だが全てが保護高地都市ハイランド製だ。大戦時に流入したものと考えても間違いなさそうだ」

「ということは……」

「ああ。組織立って訓練された相手とは言い難い。規模もさほどは大きくないと推測される」


 軍人として、疑いなく言葉を交わす二人。

 本当に何よりも――――専門家といった顔だ。とても、心から力強い。


「それと……やはり今まで、アーセナル・コマンドの大規模な駆動音が聞こえてきていない。おそらくそちらでも不足の事態が発生したか。……通信では?」

「残念ながら全体の被害状況の確認までは。……大尉殿たちは、どのような規定を?」

「基本的には上空の警戒監視チームが常に上がり、その要請に従って増援が発進することになっている。それから、ここへ来る前は……病院等の上空に待機をさせるか……という話になっていたが、その後どうなったまでかは……」

「ふむ。……何にせよ、上しか動けてないのかもしれませんね」


 顔を見合わせた二人が、淡々と状況を整理していく。

 こうして見るとロボットの駆動者リンカーというより――ああ、この人は本当に心から軍人さんなのだと思う。あれだけの怒りと苦しみを抱えていても、完全に今はそれを割り切っている。任務に必要なもの以外を追い出して、だからこの人はここまで飛び続けられたのだ――と。

 そうして二人はしばし言葉を投げかけ合い、やがてそこに残る二人……ラズベリーとアップルツリーが合流した。


「――――では、方針を。我々はこのルートで基地への撤退を行う。発砲に関しては身を守るためにやむを得ずの場合以外は極力制限し、レモニアの指示に従う。敵との交戦は避ける。どうしても取り除かなければならない場合、音を立てることなく速やかに実施する方向で。移動中に民間人を発見した場合は、捜索用のビーコンを手渡す形で爾後に救助チームへの伝達を行うものとする。なお、ルートに関しては状況を見て変更も。……これで如何だろうか?」

「レモンちゃん、と呼んでくれたらもっと良かったでありますな」

「……ああ、うん」


 悪戯っぽく、彼女が笑ってこちらを見た。

 どうも、緊張を和らげようとしてくれているようだった。


「地図の記憶を行い、各自、装備を点検。五分後に出発しよう。……以後は、レモニ――……レモンちゃん……の指示で行動を行う」


 彼の言葉に、敬礼で返す。

 久しぶりに――――ああ、久しぶりに、また彼の指揮に戻る。そのことがあまりにも懐かしくて、それから、嬉しくなった。何故だか居心地が良くて、安堵してしまう気持ちもある。この人が自分の上にいることを。

 渡された武器は、銀色のリボルバー拳銃。

 それと、スピードローダーが四つ。あまり弾数が多いとは言えない。リボルバーなんて、珍しい道具を使っているんだな……と思ったときだった。

 装備の点検を済ませたレモニアとラズベリーが、ニヤつきながら近付いて来て、


「……あげた保護具ラバー、役に立ちました?」


 いりません!!!!!!



 ◇ ◆ ◇



 アームストロング大統領がそのことに気付いたのは、習慣であったからと言っていい。

 なんとなく、窓やドアの出入り口を気にしてしまう習慣。子供の頃から教育熱心だった母親に促されており、その目を盗んで隠れて遊ぶようなことを多かったためだろうか。

 物憂げなパースリーワース女公爵と、口髭を撫でるネルソン・ハワード・モルガン首相と、保護高地都市ハイランド本国を交えた政治議論。

 この災害への対処方針を如何にするかと――そしてレヴェリア会談をどのように集結させるかと、そんな話をしていたときだった。


「……暴動?」


 街に上がった火の手を、初めは火山弾による火災と考えて――直後、職員からの言葉に愕然とした。


「軍は何をやっている……! ここは大丈夫なのか!? いや……そうだ、ヘリコプターで脱出はできないのか! 待機させてるんじゃないのか!?」

「それが……携行対空火器まで持っている様子で……い、いま現時点での飛行は……」

「そんなときだからこそ、速やかに脱出すべきだろう! これは暴動などではなく、むしろテロだ!」


 机を叩き、声を荒らげた。

 一撃を受けた長机が真っ二つに折れ曲がる。


(最悪だ。あんな形で中断させられたら、そうもなろうに……こんな噴火さえなければ!)


 互いの不信を煽るだけ煽るような最後の言葉のままに、強制的に打ち切られた。

 平和への希望が、反転する。秩序への不満が噴出する。

 更に押し寄せる災害の恐怖を前に――――人はそれを忘れようと別の何かに目を向けるだろう。

 全てが。

 絡み合って、折り重なって、破滅への道を舗装していく。それ自体が個別には責められる悪ではないような何もかもが、集積されて滅びの火として現れる。

 携帯電話を手に取り、すぐに別の避難所にいるヴェレル・クノイスト・ゾイストを呼びつけた。


「こんなことになるなど……【フィッチャーの鳥】は何をしていたんだ!」

『は。……しかしこの会談については、我々ではなく連盟軍本部が権限を握っておりましたので……』

「そんなことはいい! これは速やかに対処に当たらなければならない事態だろう!」


 あの戦争の負の影響だ。

 前線で用いた火器が少なからず行方不明になっている。当然だ。碌に組織的な行動が起こせない中での反抗も行った。どれだけの弾をどこに配ったのか、ドローン宅配の追跡番号がついている訳ではない。

 収まりきれないというなら、仕方ない。


「名目上であろうと、私が指揮官だろう! 許す! 速やかに事態を収束させろ! 【フィッチャーの鳥】を招集しろ! 手隙のものは全て! 全部だ! 速やかに!」


 アームストロングのその一言に、市外での治安活動にあたっていた【フィッチャーの鳥】が呼び集められる。

 争乱と災害の中に、混乱する都市へ。

 保護高地都市ハイランドが会談の仮想敵と見做していた【フィッチャーの鳥】が――――殺到する。

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