第146話 市街戦、或いは正されるべき秩序。またの名をパノプティコンの歯車

 扉を閉じ、廊下に出る。

 遠雷のように響く銃声や爆発音。遠くの炎の匂いは、むせるようなあの日々を思い返させる。

 先鋒を務めるのは、陸軍の第一特殊部隊コマンドに属していたという彼だった。


「よーし、よし。頼むよ、リンゴちゃん」


 小柄なマートル・アップルツリーが取り出した四つの林檎が、その手のひらから飛翔する。

 静音性のためのプロペラ内蔵型のドローンか。

 更に、彼が後頚部に装着した小さめの箱。


「視覚共有型か?」

「イエッサー。陸軍は鉄人形アーコマ代わりにこちら方面の充実を。ついでに反動制御も仕込んであります」


 そうニカッと笑った赤髪の彼は、彼自身の肘を叩いた。

 低強度身体改造者デミ・サイバニアン

 大規模な人体改造は、倫理上、傷痍軍人にしか認められていないが……膝関節や肘関節、股関節などに小規模な装置を組み込むことは合法とされていた。志願者に限るが、繰り返した訓練の影響で退役後に関節痛などを発症する事例も多いために人道的な措置として認められている。


「……オレの方はヒーロースーツまで持ち込めていねえぜ。全員、マッスルスーツは着ちゃあいるがな」


 同じく前衛銃手として、サブマシンガンを片手に肩を竦めたドミニク・カスター・ラズベリーは、海兵隊の強襲戦闘部隊出身。

 どちらも空軍や海軍のアーセナル・コマンドという、言わば超ハード的な装備とは異なる兵器を扱う人間だった。


「まあ、後ろに隠れてなさいな空軍大尉殿。オレの翼翅ハネの近くにいれば、ご安全だ」


 そう笑う彼は、黒服の下に何かを装着しているのか。

 個人警護という任務も、この時代にあってはかつてより大きな変化を見せている。それこそサイバネティックスによって人間の機動性や運動性が拡張されて。

 最後尾の長身の女性であるレモニア・ミスリル・ナイフリッジもまた、それに類する能力を持っているのか――いや、


「えっと……た、大尉。最後に一つ――いいですか?」

「君の言葉なら最後と言わず聞くが……なんだろうか」


 レモニアに促されるように、その背を押されたシンデレラが身を乗り出してきた。

 そして、


「――――証人?」


 彼女から告げられた言葉を、問い返す。


「はい! あの、【フィッチャーの鳥】の行動を……あの街での行動を、多分、グレイコート大尉は訴えるみたいなんです!」

「そうか。……マクシミリアンが」

「それで……大尉に、その、そうなったとき……証人として来てほしいと思ってて……」


 人権委員会への提訴を行うのか。

 それとも国家への賠償請求を行うのか、はたまた帰隊後の軍法会議で議題に上げるのかはさておきとして。

 何にせよ、言えることは一つだ。


「勿論、応じる。嘘偽りなく法廷に、事実を明かすと約束する。君の声に応えるとここに誓おう」

「大尉――――!」

「……そうか。正式に、法廷で……そうか。こんなことになっても、君たちは……法秩序に従う意思があり……最後は、その下での決着を望むのだな……。……そうか」


 そのことに、胸が震える気がした。


(……ありがとう、マクシミリアン。妹を――メイジーを亡くしたというのに、君は……そうできるのだな……マクシミリアン)


 今まさに世は乱れようとしている。

 象牙の塔は崩れ落ち、白亜の城が揺らがんとしているそんなときに――それでも秩序と法を尊んでくれるのは、何にも代え難い。

 戦場で銃や弾薬を用いても、物事は終わらない。世界が終わるだけだ。争いはテーブルから始まり、テーブルで終わる。全てを焼け滅ぼす訳でないなら、必ず、言葉での終結が為される。

 ……ああ、ありがたい。

 その容れ物である箱を、社会を、秩序や国家を守るためにこの身を捧げることに疑いがなくなる。己の必要性から導いた契約であるが――……ああ、嘘偽りなく、自分はこの国の兵士でもあるのだから。


「……しかし、そうなると……君に保護高地都市ハイランド連盟軍への出頭を求める――というのも難しいケースになるか……」

「え? あの……」

「他にもあの会談でラッド・マウス大佐が言っていたように……君たちや【フィッチャーの鳥】の進退に関して法廷での決着を図るというなら……少なくともその裁判中に別件で身柄を拘束するというのは、証拠の隠滅等や脅迫の問題等が付き纏う。特に今、民衆から軍や政府への不信が生まれている状況でそれはあまり行い難い話だろう……避けたい話になる筈だ。どちらにとっても」


 となれば、彼女たちへの処分はどうなるか。


「おそらくは……【フィッチャーの鳥】へは一時的な活動の停止、【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】には武装解除命令はされると思うが……その後、軟禁――ではなく政府の監視下での保護あたりだろうか。国も、こうなってしまっては民衆に疑惑が生まれるような形での決着は望むまい」


 たとえ純粋な事故であれ、その関係者の死や失踪――ということが起きてしまうのは保護高地都市ハイランドとしても望ましくない。

 流石に、そこで国家へのある種の反逆者たる人間を秘密裏に処分するだけ、この国は終わってはいないだろう。

 こうとまで話題に上がってしまった以上は、どんな形にせよ民衆に納得のいくものに保つ義務がある。でなければ、この国は完全に割れてしまう。


「今回の一件によって、保護高地都市ハイランド本国から追って正式に連盟軍から【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】へ参加した兵士たちへの取り扱いが示されるだろう」

「ええと……」

「……現状は君に帰隊命令を出すことが必ずしも妥当とは限らず、同様に拘束を行うことも正しい行為なのかも不明ということだ」


 まだ、言葉が難しかったか。

 理解しきれないと目を白黒させるシンデレラへと歩み寄り、端的に告げた。


「つまり……君を無理矢理捕まえたりしない、ということだ。安心してくれ。俺は君に、銃を向けない。少なくとも現状、それを行うのはおかしな話だ。……法に憚りなく顔を合わせる日も近いだろう」

「大尉……!」


 その美しい宝石のような金色の瞳を輝かせた彼女が、弾かれたように情熱的にこちらの胴に手を回した。

 柔らかく、華奢な肢体。

 それを包み込むように抱き返し、抱え込むように背中を撫でる。


「……きっと上手くいく。この国は、まだ、滅びていない。法を守り、秩序を守ろうとしている人がいる。こんな中でも、続けようとしてくれている人がいる。……大丈夫。きっと悪い結果にはならない」

「はい……はい……!」

「また会える。ちゃんとした形で、憚ることなくまた君に会えるんだ。……シンデレラ」


 そう呟くと、自分の胸の中の金髪の少女は、とても嬉しそうに――花が綻ぶように笑った。

 同じ気持ちだ。

 シンデレラやマクシミリアンに武器を向けなくていい。ロビンやアシュレイと戦わなくていい。もうこれ以上、自軍同士で傷つけ合わなくていい。戦いで誰も死ななくていい――――この娘と一緒に日常に戻れる。

 それが、何よりも代え難い喜びだった。……シンデレラも、同じ気持ちになってくれただろうか。それなら、俺も嬉しい。

 存分に抱き締め、身体を離す。

 残る問題は、今のこの都市の危機的状況を如何にして終息させるかに尽きる。


「では――……行きましょうか。駆動者リンカーの方々向けに言うなら、我々は今敵地で撃墜されて脱出を図っているのと同じです。くれぐれも慎重かつ安全に。外の状況がどうだろうと、そこを気負う必要も責任を感じる必要もありません。生き残ること……それが唯一のルールであります」

「アンタら駆動者リンカーは自分が戦況を変えなきゃ、と思いがちだが……そもそもオレたちは兵士なのさ。そこのことまで気にしすぎて死神に捕まるな、だ。気楽に行こうぜ」

「地上を動くのは皆さんが思うよりも緩やかになるので、そこでやきもきしないでくださいね。場合によってはこの距離の移動で一日を使うこともザラです。ご注意を」


 こちらの焦りを見たような、彼らの言葉。


「は、はい……」


 チラリと横目で眺めた隣のシンデレラは、それでもまだ落ち着かない様子で――……自分も続けて言う。


「……ああ、ここが正念場だ。皆の言うように、ここから生き残ること、それが今、向き合うべき最大の問題だ」

「え、と……」

「そもそもが、マーシュからの要請の最中の襲撃だ。……ここで何か起きてしまっても、君の引責事案ではない」


 そう頷けば、


「大尉も、ですよ。大尉の責任でもないですから! 駄目ですよ! ここで戦えないことを、自分のせいみたいに考えたら! 大尉だって呼び出されてる最中に巻き込まれたんだって、ちゃんと考えてください! 悪いのは撃ってきた人です!」

「……ああ。ありがとう」

「絶対です! 絶対ですよ、大尉! 大尉はすぐそうやって抱え込もうとしちゃいますから! そうしたら、わたし、また、怒りますからね!」


 指さされて、強めに言い返されてしまった。

 困ったな――と思い、それから彼女は随分と自分に詳しいのだな……と思うと変な気分になった。

 居心地が悪いような、それでも頬が綻んでしまうような、奇妙な感覚だ。

 歳が半分近く下の少女から世話を焼かれるのは変な気持ちで、出会いから考えると歳上のあの人から説教をされているように感じられて……なんだかどうにも落ち着かない心地になる。


(……そういえば。言葉で明言はされなかったが、これは……でいいのだろうか。俺と貴女の関係は。いや、どうなのだろう?)


 あれほど触れ合って今更だが……何一つ、決定的な言葉にはしていない。やはり何かしらの、社会的な契約関係が欲しいと思った。こちらが彼女を守るために動ける社会的な合理性が。

 そう思うと――……申し訳なくなる。

 シンデレラと、何よりメイジーに対して。

 婚約者という肩書きは……あのような合理性だけで行使して良いものではなかったのだろう。今になってそう思う。自分は、過ちを犯したと。

 ふわついた金髪を靡かせて後方のレモニアの傍へと離れていく彼女の小さな背中を見送って、どうにもならない申し訳無さを感じていた。

 が、


「もしや……その距離感……既に済ませていたのでありますか? ははあ、……まさか使わずに? そういう? その方がお好きな方で?」

「してません!!!!!!! まだ!!!!!!」

「ちゃんと付けて貰うように言うんですよ。あれ、女の方からしたらあっても無くても感触も快感も変わらないものでありますからな。妙なネット情報に変な興味を踊らされるのはNG。とにかくセーフティ重視がオススメです。来なくなってから青褪めても遅いと聞くので――」

「生々しい話はしないでください!!!!!!」


 ……あーなにもきこえない。なにもきこえない。


「意外とピュアなんだな、色男の大尉殿。それとも、プラトニックに愛したくなったか?」

「ははっ、結婚式には呼んでくださいよ? で、それ、何年後になります? 随分と歳下に見えますが……ねえ?」


 ……あーなにもきこえない。なにもきこえない。


 なんでこういうとき皆すぐにからかってくるんだ。

 嫌い。そういうのよくないと思う。からかわれたら大尉もシンデレラも嫌な気持ちになると思う。嫌い。

 あと大尉は少女趣味じゃないと思う。

 好きになった女の子が偶然歳下で、そもそも初めて見たときは歳上だったのだ。大尉は少女趣味じゃないと思う。変態じゃない普通の成人男性だと思う。気持ちの中では自分よりお姉さんという気持ちと庇護的な少女という気持ちが混ざってるので大尉は少女趣味じゃないと思う。


「ま、こんな状況なのにイイことがあって何よりです。せいぜい生き残ってやりましょう、空軍大尉殿」

「今度はオレがあの“鉄のハンス”の護衛なんて、あの日のオレに聞かせてやりたいもんだな。……実はアンタには、随分な借りがあるんだ。仲良く行こう、英雄殿」


 ……聞こえる。好き。


 シンデレラが彼らを助けていなかったら、こうして、会話の機会もなかったのだろうか。こんな、明るく親しみやすい男たちと。

 チラと、後ろを振り返る。

 凄い子だと、改めて思う。

 ……本当に、君は、すごい娘だ。


「大尉?」


 レモニアに同行するように歩いていた彼女が、金髪を揺らしながらちょこんと首を傾げた。

 なんでもない、と首を振る。彼女がまた可愛らしく小首を傾げた。微笑ましい。かわいい。

 可愛らしい。とても、可愛らしい。

 だからこそ――


(……ああ、君だけは何としても生存させる)


 手の内の重き銃鉄色の“戦灰グラナータ”を握り締める。

 兵士の時間だ。

 合理性に――――切り替えろ。己を、冷徹な殺戮者に。



「あ」


 と、背後からシンデレラの声が上がる。

 いいか――とレモニアを見上げ、長身の彼女から頷き返される。

 それから、こちらにトトト……と駆け寄ってきて。


「その……これ、お返ししますね。ずっと、あれから借りちゃってて……」

「いや、気にすることは……」

「しますよ! 誕生日に我が勇敢な息子へ、なんて刺繍が入ってて……大切なプレゼントなんでしょう!? ご家族からの贈り物なら、ちゃんと持ってるべきです!」

「ああ……俺は君に預かっていて貰ってもいいのだが」

「駄目です! ご家族が、大尉のことを考えて贈ったんなら……それは大尉が持ってなければ駄目ですよ!」


 家族からの最後の贈り物であるフライトジャケット。

 十一歳のとき以外に家族からプレゼントを貰えていないと言っていたシンデレラにとっては、相当に深刻な話なのだろう。……ああ。

 これからは、自分が代わりに彼女に多くのものを渡せたらいいな――と考えて、


「い、一応……ちゃんと……洗ってはいますから……えと、でもその、ちょっと今日ので……もしかしたら、汗とか……その……」

「……気にしなくていい。悪い匂いはしない」

「あ、よ――よかった……!」


 フライトジャケットを脱ぎ、その下に身体のライン隠しのための瀟洒でデザイン性のある儀礼用駆動者リンカージャケットを纏っていた自信なさげなシンデレラへと、頷き返す。

 自分が使っている以外の洗剤の匂いは、どうも新鮮だ。なんだか妙な気恥ずかしさがある。それが僅かに薄れかけていても、そうだ。

 硝煙と、ガソリンと、それ以外の匂いが混ざっている。

 それでも、悪い匂いではなかった。というよりむしろ、


「そういえば、体臭をいい匂いと感じるのは遺伝子的にも相性が悪くないと――――」


 ふと雑学を漏らそうとした、途端だった。


「――――!?!?!?!?!?」


 耳まで真っ赤にしたシンデレラが、駆動者リンカースーツの上に着用する儀礼用ジャケットの裾を、小柄な彼女には余ってある種のミニスカートみたいになってしまっているその裾を――思いっきり引っ張って下半身を覆い隠すようにしながら、これ以上ないほどの涙目で睨みつけてくる。


「今のは不味いですよ、空軍大尉殿」

「こりゃハラスメント講習行きだなぁ」

「ゲノムハラスメント……ゲノハラでありますな。まさか衆人環視で遺伝子の相性を叫ぶとは。いやあ、それは不味いでありますなあ。皆に聞かせるように。公開宣言。いやあ。レモンちゃんぴっくり」


 そうかな……。


「でっ、でっ、で……デリカシーがない!!!! デリカシーがないんです大尉は!!!! デリカシーが!!!! 何にもない!!!! ハラスメントです!!!! いっ、い、遺伝子なんて……わっ、わたしにナニをどうさせたいんですか!!!! なっ、ナニをっ、ナニをする気なんですか!!! しない気なんですか!!! ハッ、ハラスメントです!!!」


 ……そうかも。



 ◇ ◆ ◇



 その避難シェルターの中で、リノリウムの床に覆われた室内で、豊かな銀髪を後ろに流した老人が通話をする。


「私だ。……そうだ。大統領から要請が。そうだ……くれぐれも、通達を厳に。通信が混乱している……あまり速やかに接近すると、同士討ちの危険がある。くれぐれもその点に注意して部隊間の調整が済んでから――」


 ヴェレル・クノイスト・ゾイストは、内心で強い歯噛みをしていた。状況が悪すぎる。

 都市の防衛を行う保護高地都市ハイランド連盟軍に対して、【フィッチャーの鳥】は今、様々な疑惑の中にいる軍隊だ。それが一斉に都市に詰め寄れば、どんな疑念を持たれるか知れたものではない。

 悪いのは、暴動が起こって状況が混乱していること。こんな戦場の霧が生まれるときは、必ず、誰にとっても望ましくないことが起きる。

 そんな中、


「あの護衛は、おりませんか」


 ノックと共に現れた美丈夫。

 コンラッド・アルジャーノン・マウス大佐。

 情報部と憲兵の二足わらじで、今は【フィッチャーの鳥】の中においてさらなる特殊部隊を指揮する男。

 部屋の中を見渡し、彼は小さく頷いた。


「大統領や公爵の護衛に回されましたかな、閣下。ああ――確かに貴方の秩序への意識は目を見張るものがありますね。ええ、そこは私も嘘偽りなく評価しているのです」


 その言葉と共に、続いて開いたドア。

 飾り気のないビキニの上にジャケットとスカートを引っ掛けた銀髪の眼帯少女。

 あの動画の中で、メイジー・ブランシェットと戦闘を行った葬送人――――エコー・シュミット。

 その手には、大口径のハンドガン。


「……マウス大佐、卿は――」


 懐に手を伸ばしたゾイスト特務大将の前で、コンラッド・アルジャーノン・マウスは不敵に笑った。


「ふ、ふ……この会談において【フィッチャーの鳥】を仮想敵とした保護高地都市ハイランド連盟軍と、早急なる出動を要請した大統領令。更に、あの大戦で大地に打ち込まれたガンジリウムも巻き込み噴火したアララト山と、避難者。そしてゲリラも巻き込んで噴出したデモ隊――――ガンジリウムと争乱により通信は乱れ、ええ、これこそが混沌。忌むべき愚かさが齎す混沌だ」

「……」

「さて、そこで――……ああ、都市へと詰めかけるそんな【フィッチャーの鳥】の指揮官が、殺害されてしまっていたとしたら?」


 響く、銃声。

 冴えたナイフのような銀髪のエコー・シュミットが掲げた大口径ハンドガンが、薬莢を吐き出した。

 崩れる身体。

 リノリウムの床を、赤き血が伝っていく。


「止まりませぬよ、閣下。止まって貰っては困るのです。あの日、この国は負ける筈だった……それを直してしまった秩序がある。犠牲になった女がいる。……そして、その犠牲を誤った秩序の言い訳とするなら――ああ、その犠牲を尊い誤りに追い込むならば、この世界は滅ぶほかありますまい」


 微笑のまま、深い愛憎が渦巻く瞳。

 紳士的な物腰のまま、肺腑を撃ち抜かれた老獅子の元に美丈夫が歩み寄る。


「犠牲が誤りならば、その上に成り立つ全てが誤りだ。その勝利で得た何もかもが誤りだ。でなければ、道理が通らない。


 冷える――声。

 コツコツと、足音が刻まれる。


「誤った勝利に蔓延る愚かなる人間よ……貴様らは、貴様ら自身でその引き金を引いたのだ。あのマーガレット・ワイズマンの死を、貴様らの血塗られた行いの名分として使ったその日に……。貴公も、何も……正されるのだ。断罪の刃に。この世で唯一のそれができる男の剣に。貴様ら歪んだ秩序が育てたに」


 狂気的な響きを持ちながら、その男の目は、どこまでも正気だった。

 正気のまま、怒りと憎悪に狂い果てていた。

 既に彼は、この世を殺すと決めていた。決めたから、もう彼の中では死んでいた。あとはそれに現実を合わせるだけ。そこにある感情も怨念も切り離して履行される。彼にはもうそれしかなかった。

 世に存在する――――


「……さて。何か言い残すことはありますかな、ゾイスト特務大将。滅びかけの秩序に身を捧げた、老人よ」


 胸を打ち抜き動脈を傷付けたであろうその一撃に、倒れ伏したゾイスト特務大将は顔を上げることもできない。

 銀色のツインテールをなびかせたエコーが、今一度ハンドガンを掲げた。今度は、倒れた老人の頭部に向けて。

 ヴェレル・クノイスト・ゾイストは終わる。

 致命傷だ。

 彼の命は、ここで終わる――――だが、


「ふ、ふ……」


 彼は、笑った。


「おや、何か……滅びかけの国というのは、貴公の琴線に響きましたかな? 己が所業が灰燼に帰すということは格別の感慨となりますかな?」

「その座に、王冠はない」

「……ほう?」


 エコーの銃口を手で制したラッド・マウス大佐は、僅かに頬を上げた。

 元より――王冠などに興味はない。

 全てを巻き込み、焼け落とすだけだ。だが――


「マグダレナは……に出した……」

「……」

「誰を狙ったか、考えるといい……秩序が生んだ、狂い火よ……」


 返答代わりに、幕を引くような銃声。

 老いた銀獅子めいた老人の頭部が、朱に彩られた。

 それを――感慨なく見下ろす美丈夫の瞳。


「最悪と、より最悪……二つから選ぶ。そんなものばかりでしたな、貴公の人生は」


 同情めいた言葉が一つ。

 そして、吐息を一つ。


「賭けに出るとは、愚かなことだ。……分断を防ぎたがった男が、最後に世を二つに割るとは」

「……誰へ出したの?」

「起きてしまった最悪の状況を、まだ疑惑に押し戻すために。……よほどその棺を輿にすることを厭ったか。今更遅いというのだ、ご老人。【フィッチャーの鳥】が正当性を得られずとも、既に手札は十分すぎるのだよ」


 そして彼は踵を返す。

 死体へと厳かに十字を切ったエコー・シュミットは、頭部を喪失した老人の腕をその胸の前で組み、そして歩き出した。

 混沌の炎の中に。


 ホワイト・スノウ戦役――――最大の市街戦の中に。

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