第144話 貴方と、わたし

 会談に向かう、機体の中での話だ。

 スティーブン・スパロウ中将というリーダーが合流した後だったろうか。


『実のところ……もう一つ、我々にはプランがある。こちらの計画が予定通りに進まなかった場合も含め……君も、重要な証人の一人だ』

「……わたしが?」

『そうだ。あの場に辿り着けば勝てると言ったのには、それもある』


 森深き山脈を眼下に見送るそのときに、マクシミリアン・ウルヴス・グレイコートがそう告げた。

 ふと、考える。

 彼と出会ったのは、あのマウント・ゴッケールリ――まだ自分とヘンリーと大尉が一つのチームでいたあのとき。

 あの船の艦長に囮や生贄のように使われて、憤りを隠せなくて……自分はもしかして間違えた場所に来てしまったのではないかとか――。

 そんなふうに思っていた、そんなときに出会ったのだ。

 確か……その時は、なんと誘われただろうか……。

 そう考えていたら、僅かに声を固くした――メイジー・ブランシェットの撃墜からそんなふうになっていた彼が、続けた。


『誘拐された父の救助のため出撃要請され、軍によって暗殺を受けた。――これもまた、紛れもない事実だろう?』

「――」

『そして君の離脱は、【フィッチャーの鳥】による虐殺的行為が直接原因だ。……当該指揮官からの脅迫、違法な命令。どれをとっても軍の汚点と言って余りある。君の敵前逃亡についても、やむを得ない行動と言える』


 ああ、と思い出す。

 あの日は確か、困っているお婆さんに道案内をするこの人を見かけて――一緒になって案内をして。

 どことなく、大尉に似てる人だと思って。

 ふと相談してしまったのが始まりだっただろうか。

 そうして何日か出会って……その途中に、やはり街で粗暴に振る舞う【フィッチャーの鳥】を見て。少し揉め事になったのを助けてもらって。

 ああ、言われたのだ。【フィッチャーの鳥】という組織について。そして彼らがもし不法を是としそれを行ったなら、力になれると。力を貸してくれと。

 それで……それから最後の日に、彼が【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】と打ち明けられて。

 ああ、あの街での放たれた火の出来事があって――……それでこの人に合流をしようとしていた。


「違法な命令、って……その……」

『第140条以下の構成要件についてかね? 確かに現実として、非武装地帯で攻撃を行った人間が処断されない事案は多い。第140条以下に対するその判決が、急迫する正常な軍事行動への抑圧や作戦遂行意思への阻害にならないか……つまりを保つための軍規によってが阻害されないか、という懸念の下に慎重な凡例が積み重ねられているのも事実だ。しかし……当時のあの事例ならば、正しい判決がされるなら――あの艦長は極めて処分を受ける可能性も高いだろう』


 淡々と続けるその様子は、どこか大尉に似ている。


『それが正常に行われていない――というのが既に【フィッチャーの鳥】への批判となり……そして何より、結局これは政治的な話なのだ。ミス・グレイマン』


 違うのは、彼は、軍人ではなく政治家のような面も持ち合わせていることだ。


『その時点ではグレーゾーン……或いは黒に等しいものが政治的な判断により処分を見逃されたとしても、それが明らかにされることで世論からの強い圧力があれば話は変わってくる。……法廷というのは市民感覚を素直に反映はしない――むしろさせてはならない――場であるが、政治は別だ。彼ら【フィッチャーの鳥】を庇い切れないと判断すれば、この線引についても覆るさ。少なくとも、君たちに不法を行ったその指揮官は既に故人であり、庇い立てするほどの実力も名誉も支持も持たないのだから』

「……」

『不満かね……法が正しく働いていない、というのが。それとも自分がそんな政治的な要素として使われることが』


 慮ったようなホログラムウィンドウの目線に首を振る。


「……大尉、が」

『……』

「大尉は、戦いに……参加してて……」


 あの日――――あのとき。

 最も戦闘に貢献したのは、他ならないハンス・グリム・グッドフェロー大尉だった。


「でも、止めようとしてたのに……わたしたちを脅されて……大尉は、わたしたちを庇って――――でも、わたしたちには、万が一に備えて武器を撃つな、って……」

「……そういうところは、あの男らしいな。降りかかる被害を最小限に抑えようとする」


 旧知らしきマクシミリアンは、苦いものを噛んだようにそう目を伏せた。


『むしろ、考え方によっては――……彼にもこちらへの協力を求めることができるものではないかね?』

「大尉に……協力を?」

『それが明白なる過ちの元で引き起こされ、そして法の下に解決を図るというならば……あのハンス・グリム・グッドフェローも異を唱えまい。むしろ、喜んで協力するのではないかとも思う。そんな遵法意識の持ち主だろう?』


 ふと――考える。

 あの人のことを守りたいと思ったけど。あの怒りのままに一人にしたくないと思ったけど。だから、自分が戦わなければと思ったけど。

 ……きっとこんなふうな戦いには加わってくれないと思ったけど。


『君の知る彼は、どうだろうか? 果たして――不法を是とする人間かな』


 もしも――――もしも。

 そんな形で、一緒に居られるなら。

 何の憚りもない法の下の行いで、また、大尉に会えるなら。一緒に居てくれるなら。


(……わたし、また、大尉に会える?)


 あれから戦場で会うことがない――しかしきっと、今も戦い続けている人。

 そんな人と、また、無事に出会っていいというなら。

 借りていた上着を、カーキ色のフライトジャケットの裾を思わず握り締めていた。今は薄れてきてしまっていた彼の香りが染み付いたそれを、思わず掴んでいた。

 もし――――……会えるなら。


「……わかり、ました。ちゃんと、あれを裁かなきゃいけないって……そうするならわたしは幾らでも協力します。それから、大尉に……大尉にもわたしがお願いします」

『君から? 私が責任を以って伝えたほうがいいのではないかね?』

「いいえ。きっと大尉は……グレイコート大尉のことを見たら、それはそれとして通報しちゃいますよ。だから、わたしから言ったほうがいいです。多分……ううん、絶対に話は聞いてくれますから!」

『……そうかね』


 意味深に噛み締めるようなマクシミリアンの呟きに気付かず、シンデレラはどこか胸が高鳴るような気持ちだった。

 自分も、この争いの終わりに手を貸せる。

 そして――何に遠慮することもなく、怯えることなく、また彼と出会って言葉を交わしていいことに。


(……証人、だと?)


 一方のマクシミリアン・ウルヴス・グレイコートは考えた。

 今まで、順調に進みすぎている。

 辿り着くまでの暗殺の懸念を以前シンデレラに語ったが――同様に、仮に全ての会談が彼らの絵図通りに運んだ後の【フィッチャーの鳥】やそれに協力する者たちの武力による制圧や暗殺などの騒乱についても考えていた。

 或いは、大規模なデモが暴徒になる懸念を。

 その上で――――騒動が起きたそのときに、もう一つ、決めていたことがある。


(……本当の意味で証人になど、君はならない。そうだろう、ハンス――いや、婚約者を……我が妹メイジーを見捨てた男よ)


 ロビン・ダンスフィードからの通信で知った――異父妹の死。

 国家による暗殺。

 それを成す歪んだ秩序。

 その傍らで戦い続けるということは、そういうことだ。先程のシンデレラの言葉通りなら、グッドフェロー自身が歪んだ法の解釈の刃を向けられてなお……その不法を正しもせずにそんな組織を擁する国家に従い続けるのは、つまりだ。


(……思えば、そうだった。君は公正で、優しく、思慮深く、善人で、規律的な男だった――――裏返せば、八方美人で、消極的で、行動力が弱いということだ。……そして八方美人は、八方塞がり。何一つ掴めずに全てを失う)


 他人の中にも何か正義や善を見出そうとし、それを踏み躙ってまで行動する蛮勇のようなものに欠ける。

 そこにあるものを崩さずに、最後まで寄り添おうと。

 そうした結果が――あのように出来上がって政治的な思惑も多分に含んだ強固な構造の【フィッチャーの鳥】を抑えられないという結果。

 あれが善に悖ると考えて崩そうとするなら、マクシミリアンたちのように――法の外に身を置くしかない。だが、彼はそうしなかった。頑なにそこに居続けた。


 そんな秩序が蔓延る中でメイジーと刃を交えたら、何が起こるかなど幾らでも想像がつくであろうに。

 彼は妹と言葉で分かり合うこともせず、腹の底を打ち明けることもなく、その刃を収めることもなく……妹のその人柄を信じずに、ただ剣を向け合った。

 つまり、あの日から――――妹の死は決定されたも同然なのだ。それも、他ならない婚約者であったハンス・グリム・グッドフェローによって。

 その根深い怒りがマクシミリアンの中にある。

 そして――それ以上の危機感が。


(君はそれでも……法と秩序の側に立ったつもりか? その目で……その蒼い目で一体何を見た? おかしいとは思わないのか? 君の論理が――――行き着く果てを見ようとはしないのか?)


 あらゆる感情的な繋がりを断ち、あらゆる結びつきを切る。全てを切り分ける人間が至る結末。

 ……そうだ。

 妹の間接的な死因であるということもさておき、マクシミリアンが最も懸念することは違った。


(君は最後まで法と秩序の側に立つだろう。と思うだろう。……ああ、確かにそうだろう。だが、果たして考えはしないのか? その非人間的な区切りの考えが君だけでなく広まったときに――――その先に待ち受ける決定的な崩壊を考えないのか?)


 スティーブン・スパロウと話してて、マクシミリアンが思い至ったことだ。

 もしもこの世界が決定的に人治に傾いてしまう中で――それでも規範となるべく法治を掲げるのがグッドフェローだと評されたときに、ふと、思った。

 仮に、この先の世界で。

 今の秩序のうちに組み込まれた【フィッチャーの鳥】の崩壊などが起きたその日に。人々が、掲げるべき旗の正当性を失ったその日に。

 果たして民衆は、誰に何を見出すだろう。――――最も彼らの目を集めるのは、誰だろう。


(君は、英雄と呼ばれるだけの行動を起こした。人は君を仰ぎ見るだろう。そう定まった。……だが、何故、自らの手で王冠をかぶろうとしない? 己から剣を引き抜こうとしなければ、その往く道を主張しなければ、民衆は君を玉座に押し上げるまま――君に対する勝手な解釈だけがどこまでも蔓延るだけだ)


 メイジーは死に。

 マーガレットも死に。

 リーゼも死に。

 ロビンも死に。

 アシュレイは軍と公から身を離し、ヘイゼル・ホーリーホックは再起不能になった。

 そんな中で燦然と輝く“前大戦の英雄”という肩書きは、何よりも苛烈な称号として影響力を持つだろう。

 その果てに、何が起きるか。


(君の論理の――――その、果てだ)


 あの訣別から長く、マクシミリアンはそこに至った。

 何故、ああまでも嫌悪感が湧くのか。


(あらゆる行動をに考えられてしまうならば、人々の中の善行という意識が消える。百の善行を積み立てた果ての一の悪行と、百の悪行を積み立てた果ての一の悪行が等価値ならば……一体誰が善行を行いたがる? 世界は強くない。人間は強くない。万物を切り分けて見るならば、評価されぬならば、それは意味のないコストになる。理性的に在れる人間など多くはない……多くの人間は、私同様に、感情を廃することができない)


 妹を失ってしまったそのことで、どうしようもない深い怒りと恨みを抱えた己のように。

 感情と理性は、両輪だ。

 そして現実と理念もまた、両輪なのだ。

 そのどちらかだけを成り立たせようとする在り方は、一握りの知性を持つ超越者にしか至れない。


(常に理性的に見られる人間などいない――……故に君の論理はただ、この世において、ありとあらゆる結びつきやしきたりを決定的に壊すだ。人が皆、理性と理念だけで生きられるならばよかっただろう。……だが、現実はそうでない。そして君自身のその論理こそが、やがて、君の良しとする秩序や善の齎す平穏を毀損するのだ。……君は、そんな存在だ)


 影響力。

 ハンス・グリム・グッドフェローという男の影響力。

 開戦から前線で戦い続け、決して手を抜くこともなく友軍の援護を行い、民間人や弱者を見捨てることなく、ときに弁舌や立ち姿でそれを鼓舞し、獣性に飲まれることなく投降勧告を行い、不屈のままに立ち続け、不可能と思える敵すらも倒す――――そんな兵士を。

 一体、そんな兵士を、誰が英雄として見ずにいられる?

 それを見ようとしない。

 或いは見たとしても、考えようとしない。

 そんな男が、もし、この先も生き残ってしまったなら。


(君は……取り除かれなければならない。君という民衆からした規格域外イレギュラーワンは、やがて君自身の守りたかった秩序すらをも蝕む。……その論理に人は至れず、真に理解される日も来ない。君のその理論を、他の誰かが真実の通りに運用もしない。それは君にしか御せない)


 会談がどうあれ、世界は混迷の方向に向かうだろう。

 このまま【フィッチャーの鳥】が正されるにせよそうでないにせよ、どうあっても混乱は起きる。

 そんな中で、確かな旗を掲げ続ける偶像がいたなら?


(狂っていく世界の中の正気――――君のそれが唯一無二の観念の如く受け取られかねない今後の世界において、君という規格域外イレギュラーワンは、打ち倒されるべき存在だ。君の思考は、人類には早すぎる)


 故に……ここで取り除くしかない。

 徹底的に自己完結するというのは、そういうことだ。

 誰からも影響を受けぬからこそ、己が齎す影響ということを過小評価する。いいや、そもそも思慮の範疇にない。誰かや何かから影響を受けて生き方を変えるということが、そも、彼の定義する人生の中にない。

 個人の自由意志を尊重し、理念を見て、人々の愚かさよりも善性を良しとするなら――――善と理性だけが全てではない世界と衝突する。


 それでも彼は――言うだろう。

 ?――――――と。


 ……ああ、そうだ。

 彼の責任ではない。弱く、愚かで、不確かな民衆の責任だ。彼にその償いや是正を求めることは誤りだろう。それは、絵画や書物に影響を受けて犯罪を犯すものがいたときに、その犯罪者個人ではなく書物を焚くに等しい愚昧。

 ああ、判っている。

 だが――――それでも世界は愚かだ。


(……そして何より、君は危険だ。もしも全てが不確かになったその時には――人は君のような英雄の双肩に全てを担わせるだろう。我が妹、メイジー・ブランシェットにそうしたように。……その時になって、君が過ちを犯さないと一体誰に言い切れる? そんな土壌は既にできてしまった……この先の会談がどう進むかによっては、君という刃のような男が保護高地都市ハイランドの全てを背負うことになる。君という――――ときに友愛や親愛すらも投げ捨てる男が)


 慈愛や慈悲を持つ情の深い男。それは確かだ。

 理念と理性を掲げた尊き歩みを持つ男。それも確かだ。

 唱えるその全ての言葉に嘘はなく本心。そんな男だ。


 だが――――……場合によって、状況によって、必要性や合理性によってその言葉を切り捨てていく。玉ねぎの皮を剥いていくように人間性を剥ぎ捨てていく。

 その言葉や思慮に偽りなくとも、結果をして嘘にする。

 そして、彼のその判断を正しく理解できるのは一部の人間だけだ。それ以外の愚かな民衆は、思慮の足りないものは、その結果だけ見て――と叫ぶだろう。場合を分けて考えられるという視点は、そんな知性は、そもそも、基本的に一部の選ばれた人間の持つ特異な技能に属するものなのだ。


(その時の本心からの嘘のない言葉と、初めから騙すつもりで口にした耳障りのいい嘘の言葉――――それを人は区別できないのだ。多くの人間は)


 そうだ。人は愚かだ。人は人を理解しきれない。

 マクシミリアン・ウルヴス・グレイコートとて、親友であった筈のハンス・グリム・グッドフェローを理解できなかったように。

 それが人間というもので、それが世界というものだ。

 やがて彼を理解しきれない人間は、己の都合の良い形で彼の論理を用い始める。それが目に見えている。

 そんな中で、絶えずあのような振る舞いを続けるというなら――


(私が、友として君を殺そう。……君は、この世界においてあまりに規格域外イレギュラーなのだ。君は悪ではない。だが、君は異物すぎる。君ではなくの方が誤りだとしても……我々がそこで生きるならば、それこそを見なければならない。それでも君がその在り方を続けるというなら、君を取り除くしかなくなる。ハンス……お前という男は何故そうも――――そうも頑なに振る舞うんだ。滅んでも残る一本の剣のように……)


 マクシミリアン・ウルヴス・グレイコートは、決意を固めた。

 ハンス・グリム・グッドフェローという男は、あまりにも、大きすぎるのだと――――捧げられていく人間性の果てに待ち受ける世界が、むしろ彼自身の掲げたその理念を壊すのだと。


 第九位の破壊者ダブルオーナイン


 彼に矛盾はなくとも、矛盾だらけの世界が――その男を矛盾的な存在に変えるのだ。

 何にも揺らがないということは、そういうことだ。


 故にその男は、死ぬしかない。


 ……殺すしか、なかった。



 ◇ ◆ ◇



 天井と車輪を逆さまに、車が横転している。

 破損したタンクからはガソリンが漏れ出し、車体前部の爆発により歪んだ車体フレームは、その運転者や搭乗者を戒めのように苛んでいるだろう。

 そして襲撃者が迫るという危機的な状況。

 だというのに、この眩い金髪の少女は――――本当にいつもそうしている。

 誰かのために、立ち上がっている。


「シンデレラ!」


 叫び、駆け出した。

 彼女もまた、自分と同様にマーシュから呼び立てられていたのか。ともあれ、そのことはいい。

 対装甲ロケット砲を躱せこそしたが、敵はまだアサルトライフルと――そして二射目の用意もあろう。

 石畳の路上で逆さに転がった車の窓からその中へ手を伸ばしていた少女が、弾かれたようにこちらへ振り返った。


「――大尉!?」


 ああ――その顔、その声。どれだけ願っただろうか。

 手を伸ばしたい。

 抱き締めたい。

 ここから連れ出したい。

 二度と離れないように強く――――だが、


「この人たちが……! ここに……! 人が、まだ中に……!」


 彼女は、当たり前に、ただそう叫んだ。

 そして再び、一顧だにすることのないように彼女は即座にフレームの歪んだ車へと向き合う。


「爪先を伸ばして……少しでも! 大丈夫です! 一緒に! 逃げましょう! 大丈夫! 落ち着いて!」


 彼女はまた、車内に視線を戻した。こちらに背を向け、助けの手を伸ばしていた。

 きっと、この娘なら、そうする。

 ああ。ならば、


(――――――――――戦え)


 


 街角。アサルトライフル。対装甲ロケット。

 敵が照準するより早く。挙銃するより速く――――先んじて繰り出された大口径対物リボルバー。

 手の内の鋼鉄が吠える。

 至近で弾ける雷鳴じみた一繋がりの二連咆哮。

 放たれた二発の弾丸は不可視の怪物として、四つの人体を喰いちぎった。意識が集まる。銃口が集まる。注意が集まる。


(……三人、四人、二人、五人)


 石畳の街角。広がった集団。軍事的な習熟は無し。視界に映るマトを数える。それはただ、頭部と胴体を持つヒトだ。

 想起する。コンクリート――シューティングレンジ。

 残弾。カウント。タイム。ファストドロウ。ファニング。ヒット。リセット――――レディ。


(――――走れゴー


 歯車が――――己という歯車が回る。撃鉄が起こり、雷管が震え、銃身が唸り、鮮血が弾ける。

 命中ヒット命中ヒット命中ヒット跳躍ジャンプ装填リロード

 疾走ラン

 命中ヒット命中ヒット命中ヒット命中ヒット命中ヒット装填リロード

 最適速度、最適火力による著しい殺傷。

 

 ああ、脳が澄んでいく。

 瞳をひらくように――――重たい磨りガラスの瞼を上げ、瞳を啓くように。

 世界が透明に澄んでいく。

 世界の関節を動かす歯車が、嵌っていく。

 そう規格設計された構成理念エンジンが始動する。路上に薬莢を吐き出して。


(――――そう、だ)


 銃を掲げる。

 アーセナル・コマンドは、人体の拡張でしかない。

 そこには殺意もない。害意もない。

 ただの武装と機能の塊だ。

 ならば――地上最大の殺戮者であるとは、何か?

 何が、百万もの命を奪ったか?


 実に単純に――――この自分の意思に拠るものだ。


 俺の意志が、百万の生命を、殺したのだ。

 この――ただ一つの意志が。


 そうだ。

 


(――――――Vanitas空虚よ, para備えよ bellum戦いに,――――――)


 ああ――――……使うがいい。

 

 


 機能かたちの通りに、


 さあ、殺戮の時間だ。


(――――――――――――)


 マズルフラッシュ。弾ける音。風切音。擦過音。戦場のオーケストラ。破壊のシンフォニー。

 足を動かし、死線を躱す。

 中央分離帯を盾に。身を屈め――――斉射、斉射、斉射。


 嗤いすら出そうな銃撃。どうしようもない手の痺れ。

 人体がめちゃくちゃに千切れて、弾けていく。

 飛礫に吹き飛ぶ柘榴の果実。

 銃口が吼えるのではない。嗤うのだ。

 猟犬が、嗤うのだ――――ああ、何たる万能感にも似た殺戮の手応えか。銃火が、曇天に嗤う。俺も嗤う。機能に一体化する清々しさと多幸感――嗤いとしか称せない。


 


 地を蹴る。死神の爪音が、路上に弾けた。

 遠目に彼我の盾とした街路樹を削り、鉄の風切音が舞う。無数のフラッシュ。走る。アクションスターめいて。カメラが回る。フラッシュが。もっと映像を。酸素を。寄越せ。全てを。俺に――――死線さえも。

 お前は獣だ。そう生まれた獣だ。牙を剥くのだ。

 右手の発砲。人体が弾け飛ぶ。水の詰まった革袋。血の詰まった糞袋。ああ、糞どもめ。ことごとく糞どもめ。暴力主義者の糞どもめ。望み通り、モノに戻してやる。

 銃声。

 あの鋼鉄の身体は、拘束具だ。ストレイトジャケット。囚人の――己を、兵士に留める拘束具だ。まだ慣らしきれない得物だ。完全に己ではない得物だ。


 これは違う。ここは違う。

 善もない。

 悪もない。

 ただ、機能かたちしかない。殺戮という機能かたちしかない。


(――――――)


 吼えろ。

 吼える。

 鉄火が吼える。唸る。そう思うその通りに、不可視の爪が獲物を引き裂く。欠損死体に変えていく。

 そうだ。貴様らは、死体だ。群れた死体だ。俺の前に立つ何もかもは死体だ。お前たちは、時点で死んでいる。

 死体どもが喚くな。動くな。ほざくな。撃ち合うな。お前はただ、死ねばいい――――――


 蚤を潰すかのように弾けていく幾つもの身体。


 硝煙――――救われている。

 銃炎――――報われている。

 やっと使いこなせていると――存分なる登場の場を与えられた二十年来の殺傷性が、銃撃が、無心で吼える。

 野を駆ける野生のように、今、五体が蘇っている。おはよう。おかえり。――――ああ、不合理な秩序も非論理な感情もないただの一個の定理。本能。徹底的な機能かたち。斯くあるべくして斯く生まれしモノ。


 喉笛に撃ち込んだ螺旋が、頭部を引き千切りながら人体を折り畳む。脚部の付け根への銃撃は、股間ごと肉体を毀損する。眼球は脳漿と共に踊りを踊った。

 信念も、覚悟も、主張も――銃火に消えろ。

 死線以外の一切に、意味はない。ここには死しか、意味がない。貴様らの死しか意味がない。無意味という意味を与えてやる。――貴様らの何もかもに。


 撃ち抜かれた対装甲ロケット砲の主が、その死体が、その指先が、ハデスの柘榴の着弾の衝撃に硬直した。

 巻き起こる暴発。

 力を失った死体に地面に向けられたロケットが弾け、そのバックファイヤにて人が死に、爆発と破片によってやはり人が死ぬ。千切れ飛ぶ。

 銃声。

 混乱から立ち直ろうとする敵の頭部を炸裂させた。そのまま起き上がろうとする彼らを刈り取っていく。


 そうだ。殺意とは、荒れ野に放たれる大火でなければならない。

 振り下ろされる断頭刃でなければならない。喉笛を千切る猟犬の牙でなくてはならない。ただ一つの心無い嵐でなければならない。

 殺害に、殺意は、不要なのだ。漂白された無我という本能が機能かたちとして殺戮する最効率の応報。

 虚無だ。

 灰と虚無があれば、それでいい。


(――――――――――――)


 一体化の日は近い。


 のように――殺戮の果ての極光に、指がかかるのなら。

 もっと上手く。もっと巧みに。もっと無駄なく。

 積み上げろ。結果を。死を。つまりは成果を。

 もっと――――もっと。

 お前おれ機能かたちを求めたなら、お前おれ機能かたちに近付くなら――ああ、それへの漸近は祝いと歓びでなく何になる?


 のだ。


 究極的には――正義も、秩序も、善性も、信念も、矜持も、義務も、自負も、覚悟も、運命も、慈悲も、理念も、意思も、平等も、幸福も、自由も、何ひとつ必要ない。

 必要なのは殺傷性。

 その唯一無二の有用性を磨けるなら、あとの全ては存在の価値もない。殺傷性を磨く闘争以外に価値はない。

 それは、に繋がる研磨の一。


 歓べ。祝え。お前の機能かたちは、望んだ通りに――


「大尉! 大丈夫です! 皆、もう大丈夫です! 大尉! 大尉も――早くこっちに!」


 思考を断つような、鈴を鳴らすような澄んだ声。


 なんて――――ああ、なんて。

 なんて眩しい瞳を、向けてくるのだろう。この娘は。

 伸ばさなくていいのに。手を、伸ばさなくていいのに。

 傷だらけのその小さな手を、伸ばさなくていいのに。

 俺は、戦争のだというのに――――――――


(――――甘えるな。優先順位を付けろ、ハンス・グリム・グッドフェロー……! お前はなんだ……! そうしたいならそうして死ね……!)


 奥歯を噛み締め、即座に意識が切り替わる。分離帯に再び身を隠す。

 万能感に浸りたいならそうしていろ。

 くだらぬ陶酔感も、ふざけた自己認識も全てが余分だ。

 兵士たる己には必要ない。――――優先順位があるだろう!


「大尉っ! 早く――」

「火力支援を頼む! 移動する!」


 こちらの呼びかけに、友軍からのサブマシンガンによる発砲が加わった。敵の注意が逸れる。

 シンデレラは壁の背後に庇われた。彼らも脱出を済ませた。これ以上、ここでの殺戮は必要ない。

 幾度と撃ち込んだこちらの攻撃により、ロケットの暴発による死者により、敵の銃撃は散発的なものに変わっている。建物の角にまぎれて、切れかけの小便のような銃撃と化していた。

 どうやらあちらも撤退か――――もしくは釘付けにしている間に回り込むのか。そういう動きになるだろう。

 ならば、


スモ――――――クッ!」


 誰かが叫んだ。

 彼我の銃撃の中間点に発煙筒がいくつか転がってくる。

 いくらかのマズルフラッシュの交流の後、やがて街角に立ち込めた白煙を背にして走り出す。

 向かう――――彼女の下へと。

 脳は切り替わった。多幸感が失せ、現実感を取り戻し、駆け続けた肉体の灼熱めいた吐息が取り戻される。


(……)


 駆け出しながら、己の五体があることを……どこか異物のように感じていた。

 それを呑み下す。

 そんなもの、一体、兵士である己にとって何になる?


 殺戮は、殺傷は、合理的に定義され理性的に運用されねば――――ならぬのだ。



 ◇ ◆ ◇



 そして避難したビルの中で、ようやく吐息を漏らす。

 火山弾の直撃を受けたらしいその建物への侵入は、そう難しいことではなく……住人たちが既に退避を行っていたことに助けられた。急いでいたのか、鍵も開いたまま。

 その中の一室。

 何かの仕事場らしき部屋で、壁に向かった机にはどれにもコンピュータ端末が備えられている。オフィスというよりは生活感のある事務所といった感じだ。個人経営に近い規模の会社なのだろうか。マンションを事務所として使っているタイプの職場だ。

 壁を叩けば鉄筋の入ったコンクリートであり、ここなら叫んでも怒鳴っても外に声は漏れないだろう。そんな場所だった。


「援護に感謝する」

「こちらこそ、サー・グリム・グッドフェロー……当職も貴方の駆動者リンカーとしての噂は聞いておりましたが、まさかあんなサイボーグ顔負けの動きをされるとは」

「戦場が長い。自己防衛の一種だ。……あのまま続けていれば、押し込まれただろう」


 長身の女が歩み出た。

 三人――それがシンデレラが助け出した護衛の人数だ。

 十分な武装をしているとは言い難い。最大火力はサブマシンガン。他に、全員が拳銃装備。暴徒の街を進むには無理がある。

 防弾のアタッシュケース。その中身はあのスモークグレネード程度だろうか。後々、確認しておきたいところだ。

 それはさておき――


「貴官らに市街地戦闘の経験は?」

「そちらのラズベリーが、元は海兵隊の強化装甲歩兵連隊に。アップルロードは第一特殊部隊コマンド隷下に。当職レモニア・ミスリル・ナイフリッジも、経歴は明かせませんが十分な経験を有しています」

「……そうか。心強い」


 つまり、判断においては彼女たちに従った方が合理的だということだ。

 レモニアだけが机に地図を広げ、他の二人は部屋の窓際と入り口に離れた。


「貴官は、状況をどう見る?」

「そうでありますね……ここから確認できるだけでも火の手が複数。おそらく、同時多発的に暴動――……武装蜂起が発生しているかと」

「やはり……貴官らから見てこれは……」

「会談の中断、ないしは要人の暗殺及び当該都市部の陥落を狙った組織的な攻撃活動でありますかと」


 彼女が、懐から取り出した地図。

 二人でそこに☓を描き加えた。

 その中には、病院や学校なども含まれている。

 如何ともし難い状況だ。

 これが単なる暴動でないとは、もう察せる。敵工作員による扇動。攻勢。つまりは、明確に企図を持った攻撃。

 であれば、己の為すべきは決まっている。


(……全て吹き飛ばすか。それは言い過ぎとしても、アーセナル・コマンドなら状況の打破と殺傷は容易い)


 武器使用の比例原則はあるが、それは大きく状況に拠るものだ。

 例えばナイフを持つ相手にはナイフで応対しなければならない、という比例ではない。拳銃の使用が許可される。小銃が取り出しやすいなら、小銃も可だろう。それらがあるのに意図的に分隊支援火器を持ってくると、怪しい。

 だが、もし戦車に搭乗しておりそれしか手段がないなら――例えば同軸の機銃の使用は簡単に許可される。主砲となると、難しい。そうなってくると別の要因が必要だ。


 状況、武装、敵の数――――例えば戦時ではなく平時に近い状況で、明らかなる単独での犯人で、それが個人を殺傷するものしか持たないなら比例原則を飛び出していると判断されようし。

 或いは相手に個人を殺傷できるだけの火器しかないとしても、戦地での移動の際に、敵の伏兵も考えられるなら速やかな排除を行ってもやむを得ないと容認されるだろう。例えばそこで空爆要請をしたら――それが明確なる敵識別PIDに基づいたものならば、おそらく、可とされる。そうでなければ、違法となる。

 だがもし、これが何らかの根拠に基づいて敵の活動拠点を探索する任務の中なら、また話は変わってくる。


 単純な、白と黒とは別の話。

 法的な観念――許可と、推奨と、是認と、不処分と、容認はまた別の話。

 そういう、通例や慣習的な面もある。

 その点で――――


(敵のアーセナル・コマンドやモッド・トルーパーのような本隊による攻撃が想定され、対装甲火器も現に確認された。騒動に乗じた野砲やミサイル等の爆撃も考えられ、ここに居るのが首相や大統領と言うことを加味すれば――最も安全かつ効率的に、他の懸念についての対応を行うという条件も鑑みて……アーセナル・コマンドによる鎮圧も一定の法的な正当性を得るだろう)


 自分はそれが最適の判断と決意する。

 少なくとも、大統領や首相、マーシュの脱出にはアーセナル・コマンドの動員は十分に合法だろう、と。


「当職らは、警護対象の元にいち早く向かいたいと考えておりますが……サー・グリム・グッドフェローは?」

「基地に戻りたい。速やかにアーセナル・コマンドに搭乗する必要がある……と考える。この暴動をどうするにせよ、だ」


 最悪のケースにおいては上空から焼け飛ばすか吹き飛ばすか、市街地への爆撃は無論ながら不当としても、暴徒の前に機体を晒して力場を用いて消し飛ばすしかあるまい。

 こうなっては――……状況は最悪だ。火山灰まで混じったこの天候で航空機による要人の離脱ができるか。難しいなら、築城を行わなければならないだろう。

 他に、敵アーセナル・コマンドの侵攻を加味した制空圏の確保。駆動者リンカーは、いくら居ても足りない。


「しかし……危険かと思われます。サー・グリム・グッドフェローの白兵戦能力の水準は認めますが、この状況下では確実とは言えません。……貴方ほどの人材をここで失うのも損失です。当職らと行動を共にされるのは?」

「こちらとしてもそれを希望したいが、警護対象に合流できると思えない。……貴官らは如何に考えているか、確認したい」


 そう前置きし、考えを述べる。


「彼らは既に、シェルターへの退避を?」

「いえ。……その、要人が我先にシェルター内に籠もることによる民衆への影響を懸念され……更には会談に対するメッセージを発信するために、宿泊先のホテルに身を移しておりました」

「……そうか。護衛役としてはあまり受け入れたくない政治的な勇敢さであったかと思われるが、結果的にそれが功を奏していた……と」

「ええ、グリム・グッドフェロー空軍大尉どの」


 つまりは、シェルターの民衆が暴徒と化した中で多勢に無勢のまま引きずり出され、異常な熱狂のまま私刑などに処される危険は避けられたということか。

 不幸中の幸いと言っていい。

 だが――……


「重要警護対象のいる施設ならば、相手方もそう見做すと考えるべきでは? 少なくとも、襲撃にあったということは……貴官たちの車のルートや出発元についても確認されていたのでは?」

「ええ。……否定できないものでありますね。どこかしらで、目撃はされている筈です」

「つまり、現状のまま当該地点や施設に移動しても、首尾良く合流できるとは限らない……ということで誤りではないのでは。建物に乗り込めるのか? 周囲の敵の数は? その後の脱出経路は? ……申し訳ないが、リスクが同じなら、俺は、機体に近い方を選びたい」


 釈迦に説法になるかもしれないと考えつつ、改めて続けた。


「貴官らも、たった三人が合流するより――……軍が機動小隊を送る方が有用とは考えているのではないか?」

「それは……」

「判断は……そちらのものを仰ぎたいが、提案はできる。こちらの基地帰隊への援護を行って貰えたなら、出撃後にすぐさま送り届ける。……快適とは言えぬだろうが、最速という意味で俺の名はアテにはなる筈だ」


 陸路での移動よりは、速い。そして火力にも優れる。

 もっとも――――問題は、基地とホテルのどちらに近付くのが容易いかと、そしてホテルの防護がどうかという点だろう。


「……わかりました。しかし、今、ラズベリーが通信を行っています。こちらの待機チームがすぐに救援に来る余地があるかもしれませんし、或いは既に警護対象が脱出されていることもあり得ます。それを確認してから改めて方針を決定したいのですが、よろしいでしょうか」

「異論はない。……では、その間の路上の監視はこちらが受け持とう。結果が明らかになったら知らせてくれ」


 頷き合い、同じ一室の中の別の部屋に向かう。丁度いい角部屋であったため、ここならビル外の二面を確認できるだろう。

 その前に――


「シンデレラ。……いいだろうか」


 こちらと彼女のやり取りを見守っていた小柄な少女へと、声をかけた。

 レモニアに目配せし、別室へ向かう。

 彼女も――――シンデレラ・グレイマンとハンス・グリム・グッドフェローが、元は上官と部下の関係にあったことを把握していたようだった。


 パタンと、扉が閉められる。



 ◇ ◆ ◇



 そこはどうも、資材置き場兼仮眠室のようだった。

 ダンボールに仕舞われた書類や備品に囲まれるような中に、二段ベッドが設置されている。

 利用者に慮ってか部屋の隅の窓際に設置されていて――都合がいいと、そこに腰掛けた。二面を確認できる。


「……すまない。監視をしながらの、会話となる」

「……はい」


 シンデレラが、小さく頷く。

 先ほどまで生身の脅威に晒されたためか、それとも現状置かれた状況の危険性に理解があるためか、どこか頬が引き攣っている。

 それでも――行動に躊躇いがない。窓の影になるように身を隠して位置取りをしつつ、通りを注視する。既に戦闘や脅威に対して、向き合うという軍人の適性が高くなったのか。


(……まず、何から言うべきか)


 言いたいことは色々とあったが――またしても置かれてしまった切迫した状況で、己は彼女になんと告げようか。

 背中合わせで、部屋の隅のベッドの上に固まる。

 沈黙が満ちる。

 チラリと彼女を横目で眺めた。


 彼女は視線に気付くことなく、通りを注視している。

 凛として――――決意を秘めた金色の瞳。

 幼さの中に気高い美しさを持った相貌。戦士の貌。

 それを見ると、無性に胸が痛んだ。


(……ああ。どうして、こんな娘が、そんな顔をしないといけないのだろう)


 笑える娘だった筈だ。怒れる娘だった筈だ。

 歳相応に喜怒哀楽が移り変わり、喜ぶを喜び、悲しみを悲しむ。そんな娘だった筈だ。

 俺はあの、僅かな日々でそれを見た。

 どうして、ここで、こうしていなければならないのだろう。そんな娘が。どこにでもいる、そんな娘が。

 彼女だけではない。無数の人――――本当に多くが。本来なら必要もなかった戦いというものに、駆り出されている。そして、死んでいく。


「……」


 彼女からは何も言わない。言おうとしない。

 沈黙の中で、窓の外を見詰めている。

 こちらも、内心で首を振り――窓から通りを眺めた。会話もしたいが、そちらに意識や思考を割きすぎる訳にもいかない。優先順位は監視だ。

 先程の襲撃者たちの生き残りの姿は見えない。通りの逆側は、どうだろうか。

 動くならば、今ではないのか。それとも、違うのか。


(……フェレナンドのことを、悪く言えそうにないな)


 ここで、待つという時間。

 そのことを不満に思う自分がいた。こうしているうちに――何かできることはないのかと。

 しかし、拳銃しか持たない自分が出たところで行えることはたかが知れている。あの暴徒たちの数を前にしては、押し込まれるのが関の山だ。被撃墜に伴う自力での脱出の訓練自体は行われていたが、市街地戦闘を専門にした職種ではない。

 あぶくのように浮いた不満はそれで終わり。

 どこかで、遠雷のように銃声と爆音が鳴っている。

 状況は――――どうなのだ。基地は無事なのか。機体は使えるのか。


(……駆動音が聞こえないものか。それとも、発進させる余裕もないのか?)


 空を見る。

 事前の取り決めでは、哨戒に上がることになっていた筈だが――――それが見れないというのは、思ったより状況が悪いらしい。それとも何か策があってそうしているのだろうか。

 その辺りも考えて、今も通信を行おうとしている彼女たちが戻り次第今後の方針を決めるべきだろう。お互いの認識のすり合わせが大切だ。

 そうして脳が合理性と必要性の下に冷徹に駆動を始めたのを己で認識しつつ、腹の底から――――――深い溜め息が出た。


(近くの建物に……市民は……いるのだろうか。先程の銃声に、パニックになってはいないだろうか。テロリストの支配下に置かれ、救助を待ってやいないだろうか?)


 今の所、出歩く人が見えない。

 ゴーストタウンさながらで――――ああ、ここに暮らす人々はどうしているのだろう。

 皆、避難所に向かったのか。

 そこで、このような襲撃に巻き込まれてしまったのか。

 通りに落とされて、無数の足跡に踏み躙られたリボンのついたクマのぬいぐるみを見て――――腹の底から息が出た。


(……今度は、何人死ぬ? これで、何人の命が奪われるんだ?)


 訳も判らず、叫びたくなった。胸の中の猟犬が唸り狂っている。鎖を鳴らし、暴れようとしている。

 髪を掻きむしりながら、怒鳴りたい。何に――――何もかもに。何もかも全てに。

 遠景に燃える街並みが映る。窓ガラスの向こうの石畳の街が。そこで暮らしていた人たちの生活を踏み躙って燃え盛る炎の気配が見える。


 ……ああ。

 殺してやりたい。何もかも。殺してしまいたい。こんなことを引き起こした全ての者どもを。並べ立てて、片端からその頭を撃ち抜いてやりたい。


 家族が死んで。

 戦友が死んで。

 部下が死んで。

 マーガレットが死んで。メイジーが死んで。リーゼが死んで。今もそこで街が燃えて。市民が死んで。今も傷付けられて。殺して。争って――――――――……。

 そこにある命を、失われてはならない命を、二度と取り戻せない命を、この世からただ失せてしまう命を……無情にも奪うものがいる。


(……お前たちを、殺してしまいたい)


 どうにもならない糞どもめ。

 死にたいなら死なせてやる。滅びたいなら滅ぼしてやる。俺にはそれができる。貴様らを殺し、犯し、壊し、崩し、親ですら判別が付かない死体に変えてことごとく焼き滅ぼしてやる。

 くだらぬ理想。くだらぬ信念。くだらぬ覚悟。

 それを理由に、人の命を踏み躙る糞どもめ。どうにもならない糞どもめ。

 その全てを吹き飛ばしてやる。

 貴様らの何もかも呑み込んで、全てに火を――――


「――――大尉!」


 伸ばされる頬に手。近付く距離。

 敵性戦闘員の接近。彼我の距離、至近。

 状況だけを見れば、警告射や実効射が許可される。推奨される。俺は、撃っていい。

 だが、銃を持つ手が震えた。

 彼女に銃口を向けたくなかった――――俺が? この俺が?


「どうしたんですか!? 意識はハッキリありますか!? 大丈夫ですか、大尉! どこか怪我を!?」

「……怪我?」

「だって、大尉……一人で撃ち合ってくれたでしょう!? 顔色も悪いし……何度呼んでも……どこかに弾が当たったんじゃ……」


 小声を張り上げながらこちらの肩に伸びた手を、やんわりと腕で遮る。


「……貴官に案じられることはない。それに今は、防弾装備だ。電力消費により相転移を起こす。問題は何もない」


 腰部にはそれ用のバッテリーも備えていた。

 拳銃弾程度なら問題ないと実証されている。そして旧来の防弾チョッキのように、その運動力と衝撃力を装着者に不必要に伝達しない。

 少なくとも、ライフル弾ほどでなければ骨折もせずに無傷に近いままにいられるであろう。


「でも――――」


 身を乗り出そうとする彼女を手で制し、窓を指差す。

 こちらも背を向け直し、窓の外に注意しながら改めて口を開いた。


「でも、はない。俺は軍人で、備えている。案じられるなら貴官の側だ」

「大尉……」

「怪我は? ……見たところ、疲れが見えたが」


 通りに声が伝わらないような小声で言葉を交わし合う。


「少し、驚いただけです。……あんなふうに、近くで撃ち合いなんてありませんでしたから」

「そうか」

「そうです」


 確かに彼女も駆動者リンカーとはいえ、流石に大戦の最中のように生身で強化外骨格エキゾスケルトンに襲撃されるような経験はないか。

 被撃墜に備えた射撃訓練も行い、優秀な成績ではあったが――撃ち合いやその演習については、彼女は未経験だ。

 だが、


「……でも、あのときほどじゃありませんよ。ヘンリー中尉が放り出されて、眼の前にあの機体が来て……壁が崩れてて……あのときほどじゃ、ないですから」


 変わらずに、勇敢と言おうか。

 彼女は確かに――……強化外骨格エキゾスケルトンよりもよほど恐ろしいものに向かい合ったのだった。


「……大尉は、怖く、ないんですか?」

「恐怖はある。痛いのも、極力避けたい。……そうだな。恐怖は、ある。確かに。恐ろしいことだ」


 もしこの施設にロケット砲が撃ち込まれたら終わりだ。

 自分の手持ちの火器では対処できない。

 あとは、ここを出て基地に向かうことも恐ろしい。都市部では立体的に敵の警戒をしなくてはならない。慣れているとは余り言えない状況だ。敵にどこから撃たれるか判らない。

 区画ごと更地にしてくれと、昔、歩兵に言われたことを思い出した。気持ちは判る。目の前の市街地。数階建ての建物。ビルも多いここを進みたくはない。

 ただ、取り決めがある。敵識別の必要性。民間人がいる都市区画ではすべてを消し飛ばすことはできないのだ。暴力は、論理的に行使されなければならない。枷すらなくしたそのときに、それは世界を焼き尽くす力になる。何もかも巻き込んで。


「……怖いのに、どうして大尉は戦っているんですか?」


 しばらく隔たっていた互いの距離感を埋めるための、彼女からの雑談。


「そうだな。……軍人だからだ」

「そんな理由……」

「統計をしたことはないが……多分、他の皆も同じではないだろうか。個人ならとうに逃げ出している、集団でも怯えているだろう……この肩書があるから、プロとしてここに居られるというのはある。それでも、恐怖はあるが」


 かつて――ジュヌヴィエーヴという少女に語った言葉に、専門家を求めろという言葉にはそんな意味もある。

 人間というのは社会性の生き物だ。

 だから、そこでの役割や肩書に自分を押し込める。

 自分が軍人になったのには――そういう意味もある。いつの日かの決定的な出来事を前に逃げ出さない己でいられるか。要求に対して実行できる精神力や技能を磨けるか。己の理性と意思が惰弱ではないか、そう確かめるために。


「あとは……そうだな……」


 ふと、考える。

 今になれば――――――ああ、今になれば。

 自分が進もうと、立ち向かおうと、屈しないと思った原初の理由はそれだったか。

 液晶という薄い板で遮られた向こう側。

 暗いゴミ溜めのような部屋の中で、輝いていた――――。


「ある……女の子が居たんだ。絶対に諦めない子だった。諦めずに前に進む子だった。何度も傷付いて、それでも前に進む子だった。強い娘だった」

「……っ」


 細かくは思い出せない。その前の人生は、その後の人生は、今の己の人生の半分以上の向こう側だ。

 ただ印象は、その手触りは覚えていた。

 染み付いた匂いのように、覚えていた。


「助けらしい助けも得られず、色々な辛い目にも遭っていたのに……彼女は、戦い続けていた。その最後まで――ああ、最後まで彼女は人のために戦った」

「……最期は、その人、どうなったんですか?」

「人として、死んでしまった。……あれだけ望んでいたやりたかったことも、やろうとしていることも全部できなくなって……当たり前の幸福も掴めずに……」


 そんな印象といくつかの言葉は、胸に残っている。

 ……ああ。その子は、最後、心が壊れてしまった。

 幾人も交流してきた人たちとの戦い。無数に積み重なる戦場の不義と不浄。実の家族にも追い詰められ、更に戦場で失われていく多数の兵士や民間人たちの死に、繰り返される仲間の死に、それでも――と張り詰めて奮起させていた心の糸が切れてしまっていた。

 やがて何もかも燃やし尽くして――――彼女は果ての先に飛んでいってしまった。消失点へ。

 あの娘は、星になった。


「そうだな。……何故戦うか、か」


 一度、目を閉じた。


「ひょっとしたら俺は、その子を助けてあげたかったのかもしれない。勇気付けたかったのかもしれない。一人で戦わなくてもいいんだよ――と。俺も居るのだと。貴女を見て……俺も貴女に負けないぐらいに歩き出したのだと。苦しんでて、怖がっていて、それでも立ち上がって……もしかしたら俺は、そんな勇気のあるその子の力に……何か力になってあげたかったの、だろうか」


 ふと言葉にしてみたら、やけにすんなりと口に出た。


「それとも俺は、貴女のおかげで頑張ろうとしたんだと思えたと……貴女の歩みは無駄ではなく、一人の人間を確かに救ってくれたんだと……言いたかったのか」


 そうか、と思う。

 そうだったのか。きっと。それも、あったのか。

 記憶の彼方の残り香のような感触を噛み締める。

 拳を握り締めた。思い返す心に浮かんだ――――郷愁。帰らない過去。至れない未来。

 記憶の中の君は肩肘を張って、張り詰めていて、色んなものと衝突して、傷付いて、なのにお人好しで、それでも見捨てられなくて、優しくて、勇気のある人だった。

 諦めないという姿勢を、言葉でなく示してくれた人だった。――――自分より歳上の。


「……多分、泣いてほしく、なかったんだ。あんなに頑張ったのに。あんなに誰かのために戦ったのに。……俺にはそれが、すごく、悔しくて悲しかったんだよ」


 美しい娘よ。

 貴方は、今も彼処で――――泣いているのか。

 膝を抱えて、泣いているのだろうか。


「……今となっては、もう、叶わないことだが」


 このシンデレラを助けたとしても――――あの日、自分を救ってくれたあの少女を助けることはできない。

 そのことが、苦しくなる。

 そのことが、無性に、苦しくなる。

 そう思えば衝動的に、背後で呼吸に上下する彼女の肩に手を伸ばしたくなった。


 ……この娘も、なってしまうのだろうか。


 あの彼方に、消えてしまうのか。


 全てを燃やし尽くした果てに、極光のそばに燃え尽きていってしまうのか。


(……もし、君が、そうなってしまうというなら)


 ……ああ、だったら。

 このままこのベッドに押し倒して、隅から隅にまで自分という噛み痕を刻み込めば――彼女の首元から足の付け根までをも貪るように歯型を付けて背中に爪を立てれば、その傷は、この娘を此処に縛り付けるのだろうか。

 光の先に、消えていかないように。

 肉の重さで縛り付けるように。

 完全なる純粋と無垢を壊すことで。


「大尉……?」


 問いかけるその可愛らしい声を聞いて、余計に暗い情念が内から湧き上がってくる。

 この娘が失われてしまうなら――俺は一体、どうすればいい? 消えてしまうこの娘を、どうしたらここに引き留められる?

 離したくない。

 離れたくない。

 どこにも行けぬように、繋がってしまいたい。二度とどこへも、散ってしまわないように。


 粘液と熔岩のような暗く濁って灯る想いで、彼女の真っ直ぐなその瞳を蕩かして己と深く混ぜ合わせてしまえば――その重さも感じさせないような細い腰を、潰れてしまいそうな薄い肩を、どこかに軽く飛び立つその両の足を、この身体に縛り付けてしまえるのだろうか。

 堕ちるのだろうか。

 沈むのだろうか。彼女も。己と同じ感情の深淵に。

 果ての向こうに、旅立たないように。たった一人で終わらないように。己という肉の檻で。楔で。

 無理矢理、繋ぎ止めることができるのか。


「あの、大尉……?」


 怪訝そうに、またもや振り返って僅かに不安を滲ませてこちらを見上げてくる――彼女の目。

 眩い。金に近い輝きを持つ琥珀色の瞳。

 何もこちらを疑わぬ目。世の不義と欺瞞にも翳らぬ目。

 余りにも綺麗すぎて、混じり気がなく美しすぎて、だからこそ――……穢してやりたくなった。純粋過ぎて。そうしないと、重さのない彼女が、穢れのない彼女が、光のままに果ての先まで消えていきそうで――。


(それならいっそ、泣くならいっそ、その涙をすべて俺に向けて――――)


 溶かしたい。喰らいたい。

 流れる血も、涙も、嘆きも、声も、身体も、すべてを喰らい尽くして己の内に取り込みたい。

 ああ、いっそ、この娘をぐちゃぐちゃに溶かしてしまいたい。蜂蜜のように。溶岩のように。その首筋に唇を立てて、余すことなくすべてを喰らってしまいたい。

 一つに。

 貪り喰らうことで、一つに。


 泣かせてやる――啼かせてやる。

 自分の知り得る快楽を骨の髄まで与えこんで、この肉の身に縛り付けてしまいたい。腰を掴んでどこにも逃げられないように。離れようとする腕を抑えて、反らそうとする顔から唇を奪って、胸を押し返す手を握り締めて、己の下に組み敷いて、繋がった自分の中心から離れぬように。

 絡め取って。

 蕩けさせて。

 涙も、血も、唾液も、何もかもをぐちゃぐちゃに混ぜ合わせて。


 今の彼女の目に映る己の像を壊したら――――……その時この娘は、己を、何と呼ぶだろう。どんな涙を流すだろう。その涙は、他の涙を、塗り潰せるのか。君は何を言うだろう。その肉は、蕾は、どう甘いのだろう。

 今にも簡単に手折れそうな花の如き儚く美しい美貌。

 どうせ折られるなら――――いっそのこと、この自分がそうしてしまって何が悪いのだ?

 ああ、獣性と好奇心までが徒党を組んで囁いてくる。喪失感も庇護欲も支配欲も独占欲も嗜虐欲もまぜこぜに、己という箱の中に仕舞った感情が、泥々に混ざり合った粘度の高い愛慾になって湧いてくる。


(そうすれば――――君は、消えずに済むのか?)


 この少女を、己で溶かして絡み取りたい。どこにもいけないように――いかないように。何もかもを覆い尽くして、衝動のままに貪ってしまいたい。

 その道の果てに壊れてしまうならば、二度と壊れぬように、俺が、快楽と肉慾で芯から壊してしまいたい。

 睦言むつみごとしか、啼けないように。

 俺の名を呼ぶだけの、獣のように。

 その肉全てに、毛穴全てに、細胞全てに、快感と恐怖で俺の名を烙印してしまいたい。


 そんな、獣の情愛。

 少女をけがし尽くす堕落的な肉の欲。

 欲望なのか、哀願なのか、執着なのか、憐憫なのか、慕情なのか、後悔なのかももう判らない。

 悲しく狂しい衝動に――……息を吐く。


(いや、それは一分の隙もなく犯罪だな。良くない。やめよう。……まず想像だけでも酷い話だ。シンデレラの自由意志をなんだと思っている。この娘が泣くなど、あっていいはずがないだろう)


 湧き上がろうとしていた衝動が霧消する。

 おそらく、不慣れな生身での戦闘に際して生存本能その他の生物的な欲求が刺激されたためだろう。彼女に対して獣慾じみた性欲を向けたのは多分これだ。無理矢理に精神の高揚を図ろうとしたのもマイナスに働いているか。

 ただ……。

 生憎、そんなものに身を任せるほど未熟でもなければ若輩でもない。それに、今はこの信頼の目を裏切りたくなかった。……この娘には、傷付いて欲しくない。強く抱き締めたいのと同じだけ、彼女を傷付けたくない。何からも。己からも。


「あの……どうか、しましたか?」


 こちらを案じるようなその視線に、


「シンデレラ。……通りの確認を」

「え、あ、はい! すみません! 集中します!」

「大丈夫だ。……俺の心配をしなくても、いいんだよ」


 己は軍人だ。

 この職務を続けられなくなる理由を自ら作ってしまうほど、そこまでの愚物になった覚えはない。まず犯罪など以ての他。明らかに何某かの条例や法令に抵触する。

 そんなのは馬鹿としか言えぬだろう。何かやる前に頭を撃つか自首した方がいい。物事には限度がある。


(まあ、それはそれとして……)


 さて。気持ちの切り替えは済んだ。

 これまで幾度と状況から彼女を逃してしまっていた。会話らしい会話を交わすこともなく、帰隊の呼びかけもできなかった。

 おそらく、今を除いて機会もない。

 告げようと――そう考えたときだった。


「そんなふうに……居なく、なってしまって……」

「シンデレラ?」

「死んでしまったら、居なくなっちゃうってことで……そうやって……大尉の前から……人の前から……色んな人が……」


 消え入りそうな彼女の声に、思案する。

 その指先が震え、目は悲しそうに揺らいでいる。

 この沈黙が、彼女に不安を呼んだのか。


「そうだな。……とても、恐ろしいことだ」


 恐怖か。

 生身の戦闘のあとなら、無理もない。

 そして恐怖は――……ときに、それ自体が命を奪うこともあろう。ならば、解消しなくてはならない。


「だが、その恐ろしさが、ともすれば恐怖が、逆に人を其処へと追いやりかねない。……そういうこともある。だから、案ずるな。案ずるべきではない。……君は、強い」

「大尉?」

「君は、強い娘だ。あの始まりの日も、今日も、一人で立ち向かった……強い娘だ」


 背中合わせのまま、努めて頬を崩せるように意識する。

 俺は、上手く笑えているだろうか。励ませているだろうか。この娘の不安や負担に、なっていないだろうか。

 ああ、大切に――――愛おしい。

 獣性を向けてしまった矢先の、それでもそんなものとはまた異なった……胸の芯にある暖かで寂しい気持ち。

 君が微笑むなら、如何なる花を捧げてもいい。君が望むなら、どれだけの想いにも答えよう。たとえこの世界が滅ぶ日が来たとして、君だけには生き残って欲しい。

 許されるなら、その美しい金色の髪の一房を手にとって口付けをしたい――――告げられない慕情と敬意の口付けを。せめて。そんな気持ちも、ある。

 視線の先で、彼女が口を開く。


「……別に、強くなんてないです。ただ夢中だったんです。何かしなきゃって……それともずっとわたしは、そうしてやりたかったのかもしれません。何かに。何かを。どうにもならないことに対して……何か自分の手で……」

「……ああ」


 その気持ちは、自分にもあった。

 どうにもならないものに対して、自分そのものをぶつけてみたいという気持ち。

 それで揺らぐにしろ、揺らがぬにしろ、全てをぶつけてやるという気持ち。

 何もかも燃やしきって、一個の爆裂として揺るがせてやるという気持ち。

 兵として訓練していく中で強く芽生えたそれを、この子は、最初から持っていたのだ。……己の知っているその通りに。実に強く、意志のある娘だ。

 だが、


「それに、あのときは……大尉ならきっと来てくれるんだって――――わたし、心のどこかで、そう、信じてて」


 彼女は、噛み締めるようにそう言った。

 僅かに、止まる。

 頬が強張る中、口を開く。


「……それが、あの日の、理由か」

「え?」


 問い返す彼女に、もう一度告げる。


「俺が、ああ言ったからか」

「大尉?」

「俺がああ言ったから、あの日、君は、戦おうとしたのか」


 その金色の瞳を、反射した窓ガラス越しに見詰める。


「えと、あの、えっと……」


 ガラスとガラスで、目が合った。

 鏡像と鏡像の目があった。

 狼狽えるようにこちらから視線を反らして、躊躇いがちに漂わせていた彼女は、やがて、意を決したように拳を握ってからその小さな口を開いた。

 小声のまま、捲し立てた。


「そ、そうですよ! そういう面もありますよ! 認めますよ! たっ、大尉なら……ちゃんと約束を守ってくれるんだって、きっとわたしのことを助けに来てくれるんだって、そう……し、信じたくなったんです……! 信じてみたいって思えたんです……! だ、だからわたしだって立ち向かおうって……! 今度こそ、そうしてやろうって! 立ち向かえる勇気が湧いてきたんです……! そ、それは……た、大尉がいてくれたからなんですよ……!」

「――――」

「わ、わたしは別に強くなんてないんです……! 大尉が言ってくれるみたいには……。怖くなっちゃうんですよ、当たり前に……。えっと、でも大尉がそう言ってくれるのは……嬉しいですけど……本当に、それは嬉しいんですけど……! でっ……でも、あの日は、わたし一人でそうできた訳じゃないんです……! わたし一人じゃ……!」

「――――」

「えっと……その……は、初めてだったんですよ。わたしにちゃんと向き合おうとしてくれた人って……皆、うんざりしたような顔をしたり、そうかと思ったら嫌な目を向けてきたり……それか、わたしのことをまるで厄介事か何かみたいに……わたしだって、人と関わるなんて厄介だと思ってましたし……。大人との約束って、師匠せんせい……あの方以外、破られることしかないと思って……あの人も、居なくなってしまって……だから……」


 何か、大切な宝石でも抱えるかのように。

 胸の前で手を重ねて、彼女は言った。


「で、でも……大尉ならって。きっと、大尉ならって……大尉なら、信じていいんだって……信じてみたくなったんです……」

「……」

「わたしの話、ちゃんと聞いてくれて……わたしのこと、ちゃんと見てくれて……わたしと話してくれて……約束もしてくれて。凄い人で。師匠せんせいとは違うけど、凄い人で。嘘なんてないんだって。きっと、大尉なら嘘にはしないんだって。だ、だから、その、わたしも立ち向かうんだって――」


 頬を染めつつ、俯きがちに身体を丸めていく彼女のその先の言葉は、耳に入らなかった。

 シンシア・ガブリエラ・グレイマンは、あの日、【ホワイトスワン】に乗り込んだ。

 それが、この戦いの始まりだった。

 コマンド・ロック――――彼女しか扱えないように最新鋭機の使用者を固定し、そして軍の失態を隠すために、攫われた父を助ける新たなるヒロインと銘打たれて、戦場に赴かされた。

 その果てに軍を抜け、撃ち落とされた。

 そうして、今、ここで、こうしている。


「そうか」


 それは全て、彼女の、人間性によるものではなかった。

 いや、素質はあった。

 だが、切っ掛けは別だった――――――彼女の外に。


「……そうか……」


 一度、強く、目を閉じた。


 この娘の平穏を、俺が、奪ったのか。

 他ならない、この俺が。



 ◇ ◆ ◇



 レモニアに呼ばれて、彼は部屋を出た。

 あれから会話もなくなってしまって……何も言い出すことができなかった。


(本当は、大尉に言おうとしてたことも……聞きたいことも、あったのに……)


 例えばそれは、証人に――ということもそうだし。

 彼に婚約者がいたということもそう。

 そしてその婚約者が、実はメイジー・ブランシェットであったということもそう。

 そういう全部を合わせて、聞きたいことがあった。

 だけれども――――


 ――――〈ある……女の子が居たんだ〉。

 ――――〈ひょっとしたら俺は、その子を助けてあげたかったのかもしれない〉。

 ――――〈……多分、泣いてほしく、なかったんだ。それが、すごく、悔しくて悲しかったんだよ〉。


 リフレインする、あの横顔。

 そして普段よりも柔らかで寂しげな、あの声。

 遠くを見るような、あの目。


(大尉にも……そんな人、居たんだ……)


 判る。

 彼の顔は、ずっと見てきたのだから。

 あんなふうに憧れるみたいに、誰かを喋ることはなかったのだから。

 きっとあの目は、恋をしていた目だと――――自分がそうしているように、判ってしまったのだ。

 袖で、目尻を拭う。


(……メイジーさんのこと、だよね)


 アシュレイはああ言ってくれてたけど。

 彼の言った言葉に当て嵌まる人間は、一人しか思い浮かばなかった。

 諦めず、立ち上がって、たった一人で戦って、最後まで人のために戦って、死んでしまった人――――。

 もう、何もかもが手遅れになってしまった人。

 

 あの寂しそうな横顔も。

 自暴自棄になったようなさっきのあの戦いも。

 さっきの、告白も同然のつもりだったけど、心此処にあらずで。受け入れても、答えても貰えなくて。

 ……なんでそんなふうになってしまったのかなんて、あまりにも、目に見えている。


(……大尉が居たいのは、わたしの傍じゃないんだ)


 鼻の奥が、ツンとする。

 そうと明らかになるまでは――……信じたかった。どこかで、夢見ていた。

 いつの日か、戦いが終わって……彼の隣に自分が居て、結ばれること。なんでもない話をして、他愛もないやり取りをして、一緒に手を繋いで出かけること。寝る前に彼の横顔を眺めて、起きてすぐに彼の顔を見ること。はだけられた毛布をかけて、笑うこと。

 ゆっくりと、二人で並木道を歩いて……。

 どうしようもない、有り触れた、どこにでもある日々。

 彼も、ハンス・グリム・グッドフェロー大尉じゃなくて――自分も、シンデレラ・グレイマンじゃなくて。

 二人で、一つ一つ、色んな話をして。

 彼と自分が、結ばれること――――そんな夢。


 そんな、都合がいい夢。……あまりにも、都合がいい。


「……」


 判っていた。

 それでも、少し、信じたかった。

 そんな日が来たらいいなって、思いたかった。

 その夢は、きっと、叶わない――――彼の願いが叶わないのと、同じだけ。


「……それでも大尉は、戦うんだ」


 願いを失っても。

 祈りを落としても。

 何もかもが焼けてしまっても、それでも彼は立ち続ける――――鋼のように。剣の背中で。

 そこに、居続ける。全てが去ってしまったとしても。


 大切な人のことを、もう、助けられないとしても。


 だから、


「……やらなきゃ」


 小さく呟く。

 瓦礫の中で、一人佇む彼を想った。

 何もかもがない空の下で、それでも立ち続ける彼を想った。――――きっと、そうできて、しまう人だから。


「わたしは、大尉に、死んでほしく、ないんだから。あんな顔をしてほしくないんだから。……メイジーさんにはもう、それができないなら――――」


 亡くなってしまったその人には、もう、勝てないとしても。

 大尉の胸の内の箱の中に、自分の場所がないとしても。


「わたしが大尉を、助けないと」


 ……それでも。守りたい人なのだ。



 部屋の外から、声がした。


「……シンデレラ。来てくれ。ブリーフィングだ」


 あれほどまでに聞きたかった声が、あれほどまでに胸が高鳴っていた声が、今は苦しい。重い。

 本当は、顔を合わせたくなかった。ちゃんとその目を見れる気がしない。

 でも――と、涙を拭う。まだ湧き出て来そうになるそれをフライトジャケットの袖口で拭う。


 もう一度、窓を眺めた。


 ……泣き痕は、残っていないだろうか。


 受け入れても貰えないなら、せめて、彼に気付かれたくはなかった。



 ◇ ◆ ◇



 テーブルの上に広げられた地図を眺めて、吐息を漏らす。

 レモニア・ミスリル・ナイフリッジと、その仲間であるラズベリーとアップルツリーの二人から齎された情報を受け止めて、咀嚼し直す。


「――では、速やかに行動を行うべきではないと?」

「街の現状は悪くなる一方でしょうが……少なくとも先程の集団の生き残りがまだこの近くにいる可能性がありますので」


 通信には、時間がかかった。

 この事態を前に無線は混雑し、碌に繋がろうとしなかったらしい。かなりの危機的な騒乱になっている。

 援護も出ない。

 その上で彼女たちが出した結論が――――待機だった。


「なら、なおのこと……敵に仲間を呼ばれる前に……ここを動くべきでは?」

「いえ。しばらくは息を潜めて、相手の捜索網が広がるまで待ったほうが得策でありますね。他から増援が集まる可能性もありますが……それでも時間が味方するのはあちらばかりではありません。時間経過と共に彼らの疑念も広がり、結果的にこちらに利することになります」

「……時間経過により移動可能距離が倍になるなら、捜索面積は四倍に上る……か」

「更に立体として上下の移動を考えれば、より多く――でありますね。それに見合うだけの増援が果たして彼らに用意できるか……」


 どうやら、民衆全てが……この都市全てが敵になった訳ではないらしい。

 そこには安堵した。

 以前目にしたことのある軍用ヘリの撃墜事例をモデルにした映画やゾンビ映画など、数の暴力というのは恐ろしかった。自分の主兵装プライマリのスピードローダーは残り七つ。三十五発が発射の限度だ。彼女たちは、マガジンが残り五つ。

 しかし、


「時間経過により、暴徒の勢いが増すことは? 我々の職責や警護対象の危険は? 戦況の不利は?」

「現状は初動こそ揺るがされたものの、拮抗。初期の混乱さえ取り戻されれば、地力で勝つのは軍の側です。……いたずらに動いて巻き込まれる方が問題ですよ、サー・グリム・グッドフェロー」

「……そうか」

「大丈夫。目星をつけられて出入り口を封鎖されない限りはここでも問題ありません。……噴煙と火山灰の到着により、視界条件が悪化してからの方が動きやすいでありましょうな。……情勢は気がかりですが、だからこそ慎重に進みましょう」

「……」


 市街地戦闘の経験者からそう言われてしまうと、覆せるだけの反論は浮かばない。


「勿論、時間を無為に使えるものではないものではありますが……くれぐれも、単身での突破という幻想はお控えください。……立体的な都市部には死角も多くあります。生身の大尉殿では、それに通じてはおりませんでしょう?」

「……承知した」

「では、あたりの様子を確認しつつ……天候と視程の悪化が確認出来次第、また再度、司令部との通信を行ってから行動を行います。ああ……目的地は、基地です」

「……」


 電灯を点けない部屋が夕暮れ近くの時間に感じられるほど、空が暗い。確かに――彼女の言うとおり、時間を置いてから移動するのが得策かもしれない。

 自分たちは生身の人間だ。ヒーローではない。ここで表に飛び出して単身で突破できると言うのは、愚劣なる思い上がりに過ぎないだろう。


「ええと……その、当職のことは気軽にレモンちゃんと呼んで頂いても結構でありますが……」


 ……なんて?


「レモンちゃんも、その、ええと……人のコンディションが齎す影響を承知しております。ので……何か御二人で話があるのでしたら、どうぞごゆるりと。今しばらくは時間がありますので……その間に。我々で周囲を監視します」


 そして三人が思い思いに散っていく。

 ときには、この部屋を後にするような形で。

 彼らなりに、監視スポットに目をつけていたのだろうか。取り残された形となる。

 気まずさを引きずった沈黙。

 仕方なく――――こちらも監視を行おうと、先ほどの部屋に入った。ベッドに腰掛け、窓の外を見る。

 シンデレラも、項垂れたままこちらに追従していた。


「……一つ、いいだろうか」


 背中の後ろから強張るような気配が伝わってきた。

 やはり。自分の中の感情が、彼女にまで悪影響を及ぼしてしまったか。


「速やかに対処が必要と思われた。つまり、懸念を引きずったままでは作戦行動に支障が出ると判断されることだ」


 そのまま、外の通りを見ながら口を開く。

 ずっと――――ずっと先ほどから、レモニアとブリーフィングを行っていたときから、或いはそれよりももっと遥か前から思っていたことだ。


「君に、謝りたかった」

「え……?」


 そう……顔を向け合うことなく、言う。


「先程の話だ。……君にああ言われて――俺は、君を戦いに引き摺り込んでしまったと、ようやく理解した。……俺が余計なことを言わなければ、君は、当たり前に生きられていたのだと」

「………………え?」

「そのことを……強く悔やんでいる。俺さえいなければ、君がこうして此処にいることもなく過ごせていたのだと。非常に強く……。このような過ちを……起こしたことを」


 そこで、ようやく振り返る。

 背後のシンデレラはこちらに警戒気味に背を向けていて――それが何かしらの監視を続けようとする彼女の真面目さなのか、それともこちらへの拒否感なのかは判らない。

 ただ……改めて頭を下げるほかなかった。


「すまない……君を戦いに引き込む意図はなかった。こんな場所に、呼び込むためではなかった。そのことには……幾ら謝罪しても、申し開きができない。すまない、シンデレラ・グレイマン……俺が君の日常と平穏を、壊してしまった。……本当にすまない」


 それは、言わなければならないことだ。

 絶対に、謝罪しなければならないことだった。

 あれほどまでに彼女が戦いに染まったことに怒りながら――その実、それを引き起こしたのが己だとは……。


「俺が犯してしまった重大なる過ちに、謝罪を。……こんなこととなるのなら、君に出会うべきではなかった」

「――――」

「だから、というわけではないが……俺は君が日常に戻れるだけの、最大限の手助けをする」


 今一度頭を下げて、彼女に向き合う。

 そんなとき、


 ――――ぷつん、と。


 何かが切れる音が聞こえた。

 そんな気が、した。



 ◇ ◆ ◇

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