【180万PV感謝】機械仕掛けの乙女戦線 〜乙女ロボゲーのやたら強いモブパイロットなんだが、人の心がないラスボス呼ばわりされることになった〜
第143話 血の災禍、或いは……炎の中で、君と。またの名をパノプティコンの歯車
第143話 血の災禍、或いは……炎の中で、君と。またの名をパノプティコンの歯車
要人は、その勢力を鑑みて、それぞれ別のシェルターへと退避していた。
マクシミリアン・ウルヴス・グレイコート大尉とスティーブン・スパロウ中将。
マーシェリーナ・ジュヌヴィエーヴ・パースリーワース公爵とネルソン・ハワード・モルガン首相とウィルソン・フィリップス・アームストロング大統領。
更にヴェレル・クノイスト・ゾイスト特務大将とコンラッド・アルジャーノン・マウス大佐。
そして、ウィルヘルミナ・テーラー。
黒服のセキュリティサービスに伴われて訪れたその避難所の一角が、にわかに騒がしくなる。
降り注ぐ火山弾や火災に対して、市民が詰めかけているのだ。
その音を聞きながら――ウィルヘルミナは、意識を切り替えた。
「いよいよだねえ……ああ、そっちのアンタの首尾はどうだい?」
「お前が紹介したあの傭兵たちは、皆、あんな破綻者ばかりなのか?」
端末である一人が、隣に立つフードの男に語りかける。
空を見上げるように――彼は笑った。
「そういうふうな奴の方が、向いているってこともあるさ。ははっ、だからこそ、撃墜数のランクには乗せられないような奴らでも――……それでもアンタには貴重な戦力だろう?」
「……フン。使い捨てても気が病まないという意味なら上々だよ」
「それでいいさ、御令嬢。何事も愉しく――……だ。世界が滅ぶなんてときには、とにかく、笑うしかないのさ。それに、それだけじゃない駒もやったろう?」
「……」
宇宙でのウィルヘルミナの本隊が抱えた人間を想い、彼女は心底吐き捨てたくなった。
戦時中でも、軍の記録から公式に抹消を受けた人間。
戦後の紛争で、傭兵として使われた人間。
そんなものまでをも掻き集めなければ実力者も集められないという現状に腹が立ち――――そして道化のように惨状を愉しむ破戒神父がそばにいることに、憤りを覚える。
だとしても……。
「は、は――――アンタの力とおれの力さ。さあ、始めようじゃないか。何もかも焼き尽くす炎の時間さ」
恍惚と零される、顔面の半分を焼け爛れさせた涜神の神父の笑顔。
「盛大に行こうさ。どうせ、ここから先なんざ残っちゃいないんだ」
決定的に世界を壊すのだ。
和平の筈の会談が血に濡れれば、もう、この争いへの歯止めはかからなくなる。
そうして
狂い火が、投じられる――――――ああ、焼け落ちてしまえばいい。何もかもが。
◇ ◆ ◇
昼だというのに薄暗い街は、何か、崩壊の不吉なる気配を漂わせており――或いはそこで蠢く人影は沈没に際して動き回る鼠の群れにも似ている。
曇天に覆われた街並みは怪しく、スーパーマーケットやドラッグストアにはまるで略奪犯じみたほどの群衆が押し寄せる。
車両で退避を行おうとする市民たちもいるが、軍の軽装甲機動車が街角に立ち大通りの流通を制限しており、その中を矢のようにパトカーや救急車が過ぎていく。
デモ隊じみたものはときにプラカードを投げ捨てながら避難所へと向かい、或いは街頭で誘導を行う警察官に詰めかかる者もいた。
ある種の――……世紀末的な光景。
これまでも、或いはこれから先も己が目の当たりにするもの。市民たちに迫る危機の端的なる明示。己が、防ぎ止めなくてはならぬ終焉の暗示。
拳に籠もりそうな力を抜いて、黙する。
防弾製の高級車の車窓から街を眺めて、考える。
Mâchelina-Geneviève Parselyworth de rampionell.
マーシュ・ペルシネット。
或いは――……マーシェリーナ・ジュヌヴィエーヴ・パースリーワース・ド・ランピオネール。
パースリーワース。
その名と共に、思い返されることがある。
かつて――――。
まだ、タイム・ヒューゴー・パースリーワースが存命中のことだ。
オンライン講義の、その終わりに。
十六歳。かれこれと、彼との交流は六年に及んでいた。
この世界の歴史や地政学などの講義を受け――――大学進学を超えた時間の付き合いもあるため、既に十二分に理解は進められたと言っていい。
その上で、
『……国家支配の衰退?』
『はい』
自分はついに、その問いを切り出した。
こちらの世界で目覚めてから幾度と反芻し続け、そして、可能な限りの範囲内で書き留めたかつて知り得た大きな流れ。
だがそれを知ったのも、単純に計算して全てが己が彼に相談した時点よりも、二十年近く前のことだ。
つまりは人生の総計よりも半分以上昔のことで、個々について思い出すことが難しくなっているが――……記録的な事件と単語については、何度も思い返して強く認識していた。
『それは――例えばかつて、B7Rの到来によって世界連邦政府が崩壊したようにかな?』
『……はい。ある意味では』
いくら彼が優れた教授といえども、即座に企業支配の世界には結び付けられないか。
段階を追って告げるべきだと考え、言葉を待った。
『うーん、世界連邦の樹立から崩壊まで百年余り――……どうしたら連邦国家が滅んでしまうか、だけれども』
『……』
『まず……そうだね。知ってるかい、
『は』
『他の三圏に関しては、所謂、企業都市の側面もあった――例えば
その辺りの歴史については、まさに、目の前の彼から教わったことだ。
旧世界連邦の流れを汲んだものは、並べていけば順に――
……ある意味では、戦争が起きてしまったなら。
最も旧国家の気風を継がない
『つまり、世界連邦の中にさえ纏まりと差異があった――その中での分けやすい関係と繋がりやすい関係があった。ここまではいいかな?』
頷く。
『百年の世界連邦政府は、極めて、元の国家や民族という意識を漂白した――――とは言っても今でもその残り香があることは、君も知ってはいると思うけど』
『……父が出征を命じられたこともあったと聞きます』
例の戦いまでは、
『そうだったのか。うん。だけれども、面白いことに……かつての国家においては、その国家の中での複数の民族の対立があった。民族というものを騒乱のアイデンティティにしていた。だが――今の独立原理主義者は、かつて存在した国家そのものをその主義の中核に据えている。……民族という意識は失われてはいないが、大きく塗り変わったんだ。今やかつての少数民族すらも、昔日の国家という題目を共に掲げる場合もある』
『……』
『国家という物語……アイデンティティ。今の連邦国家になる前のそれが強く刺激されたら、これらの連邦国家は崩壊するだろう。その原因は――』
彼は一度区切り、何かのデータを投影した。
棒グラフと折れ線グラフで示されるそれは、どうも、経済成長を表したもののようで……
『要するに不況だね。……貧しくなると、苦しくなると、人はそこに理由を求めるんだ。そうしたら、「ナントカ人という奴が原因だから」とか「今の支配層が不正を行っているから」――なんて形で、その不条理の理由を作り出す。その枠組みが、摩擦が、一つの纏まりであった国家を焼き尽くす』
『つまり……分裂して、より小さく纏まらなければならない事態が引き起こされることによって――ですか?』
『そうだね。歴史はそう繰り返してきた。複数の国家が一つの経済圏になろうとするのは豊かな成長が見込めるときで、それに翳りが現れると人はより小さな結び付きに向かう。血が足りなくなった患者の手足を落とすように、体積に見切りを付けてこじんまりと纏まっていく』
『不況や……或いは戦争がその原因と?』
『そうだね。そして、つまりはそのさらなる原因となる気候変動などによって引き起こされる――――と言っていいかもしれない』
まさしくあのB7Rの到来によって世界連邦政府が解体されたように、だ。
……そうだ。
この世界は、かつて一度であろうとも世界が一つに纏まったのだ。そんな、新たな支配構造が確立されたのだ。バベルの塔から崩れていた共通言語も成り立たせて――それも百年以上という短くない時間に渡って。
そしてその上で――――滅んだ。
(……一番の違いは、それだ。この世界の人々は、全てが統一されることも――その支配が滅ぶことも知っている)
支配構造の崩壊と代替わりという意味では、自分が生きていた時代よりも遥かに身近なものとして存在している。
非現実的な空想ではなく、どれだけ強固に見える支配者さえも死ぬと知っている。どれほどの偉業たろうとも崩れ去ると知っている。
文明の火は別に継がれていくものだと、識っている。
故に、
『企業が、国家に変わってくるの覇権を握ることはあると思いますか?』
『……うん? 企業が? そうだね、こう言ってはなんだが……わりに合わないよ。まず、彼らにとって一番大事なのは消費者なんだけど……この消費者を最も効率的に養えるのは、どんな構造だろう?』
『……』
『他にも、その企業で働く人材。……国家は教育に力を入れている。福祉に力を入れている。つまり、企業がカネやモノを提出することなく消費者というものを育ててくれている。――君は、企業による過労死やハラスメントについて知っているかな、
『……は』
むしろ自分の方が、この星暦よりも後進的な時代を生き――それを肌感覚でよく知っているというべきか。
年齢的に勤め人になることはなかったが、アルバイト程度なら行っていた。
『何故あんなことが起きていたかというと、一番はその育成コストが企業のものではなかったからだ。国家や各家庭が、放っておいても人材に教育を施してくれる。だから多少粗末に扱っても、自分たちの損にはならない――とね。彼らは社会が生み出した人という果実を掠めとっていたんだ』
『果実を……ですか?』
『企業による人権無視は、つまり、そういうことさ。……仮にもし、その幼少期から育成しなければならなかったなら、少なくとももう少し丁寧で執拗に扱っていた筈だ。相応にコストをかけた資源としてね』
『……』
『その他に、治安維持機構や行政機構や司法機構……国家に代わった途端に払わなくてはならないコストが上がっていく。……つまり、あまりにも非効率なんだ。支配者として顧客の完全なる囲い込みができるとしてもコストの方が重く……ああ、少し経済の話をしようか』
恰幅のいい口髭の老教授が手のひらを翳すと同時、そこにホログラムが浮かび上がった。
『貨幣経済に必要な価値の捻出の一番初めは、そこにある資源に値段をつけることだ。例えば、このコインが一枚あれば湧き出る地下水から汲み上げたコップ一杯の水と引き換えにできる――と。こうしてまずは多くの資源と貨幣の取引のレートが作られる』
『……は』
『そこで初めて貨幣による取引の価値が生まれて、逆説的に今度はそんな貨幣によって物に値段をつけることができるようになる。つまりは、サービスなどに対するペイだ。君の今日の仕事には肉一切れと水一杯だ、とするよりも貨幣を用いたほうが遥かに円滑で効率的な仕組みになるのはわかるね?』
『はい』
物々交換では保存が効かない。
そのために、腐らず――どんな資源にも変わる可能性として人は貨幣経済を生み出した。
貨幣という幻想を共有した。
『さて。……ではここで企業が支配者に代わったとしよう。彼らの利点は、仮に、今の法を超えて自社の商業ができるところだとする。被支配者たちに対して独占的な取引や契約や交渉を持ちかけられることとする。それでも、さっき言ったような経済の仕組みは大きくは変動しないとは判るかな?』
『……』
『つまるところ、経済は、どれだけの資源とサービスを生み出せるかにかかっている。……資源を得るためには必然的にその資源地域の奪取や防衛を、サービスを生み出すためには相応の教育が必要となる。だから、どんなに彼らが強健な支配者足らんとしても、この二つがなければそも富を得ることもできない以上は……ここにコストをかけなくてはならなくない。ここまではいいかい?』
支配者とは、すなわち、それだけでは圧倒的な自由を意味しないということだ。
無論、そこにいる人間という資源は――――つまり性的欲求の解消であったり、彼らを奴隷的に農作させることによって得られる食料であったりは存在するために、それを得ることはできるだろう。
ただこの利益しか得られないのは、あまりに前時代的と呼ぶべきか。忌避されるものだろうか。
……いや、違う。
かつての自分のいた時代でも多くの分野に渡って独裁者的な存在がいたように、人間は、これらの利益を過不足なく享受できる立場に付けるなら、それもある種の理想的な在り方と見做すだろう。
結局のところ幸福というのは、割り切っていけば三大欲求に帰結するのだ。
(そういう意味では、人さえいれば、支配者になる理由はある。殺すこと、犯すこと、食らうこと……どれだけ経済が滞りかつての水準から低下しようとも、己一人が利益を得られるならそれを是と考える人間もいるだろう)
仮にそんな彼らの新たなる支配が揺らぐとしたら……そんな、人という資源さえも満足に確保できぬ世界なのだろうか。
『さて。……そのコストを払わなくても顧客や社員を用意してくれる国家支配の現状と、そのコストまで抱えなくてはならない企業支配。――――君が企業人として利益を得たいと望むなら、優先するのはどちらだろうか? 宿主を殺して成り代わりたいとまで思うかい?』
『それは……』
非現実。
好き好んで国家に代わる必要性が薄い。
フィクションの中の巨大企業による一極支配を否定する言葉だ――――或いはそれらフィクションにおいても、貧弱なれど国家という基盤が残っていると示すように。
どこか、安堵する気持ちだった。
自分の識る前世の記憶は、単なる
しかし、
『だが――これは決して、企業支配を完全に否定する材料にはならないんだ』
『……教授?』
彼の言葉に、思考を止める。
『支配者になって得られるベターと、支配者にならずに得られるベスト……それを比べた上で、私は非効率的だと言ったけど……例えば――そうだね。二つほどある』
『二つ、ですか?』
『一つは、今の国家の枠組みを超えて人間を奴隷的に支配したときの方が得られる利益が高いこと』
つまりは、不法の是だ。
『これは、要するに、人間の資源的な価値の上昇だ。それも社会性や経済性を伴わない――つまりは物体的な資産価値の上昇と言っていい』
『物体的な資産価値、ですか?』
『そうだね。例えば、免疫抑制技術や臓器移植技術の進歩によって――どんな人間の臓器も代替可能で移植可能となり、人の内臓を獲れば獲るだけ寿命の先延ばしが可能になるとか……』
『……』
『同様に、例えば意識の電子化によって人間の肉体が乗り変わり可能になることや……あとは、まあ、個々人の暴力的な欲求や衝動が高まった場合や他に娯楽がない場合に、人を殺すことがこの上なく愉しいこととなるとか……他には性的な意味合いとか、ね。とにかく、人権を無視した方が一部の個人が享受できる利益が絶大になる場合』
そんな事態は、まさしくフィクションの中と言っていいだろう。
だが、
(
そんな考えが頭を過ぎった。
彼女らの持つ接続性とは、遺伝子的な内容にも、つまり体細胞に対するものまで及ぶのだろうか。臓器移植や意識の植え付けにまで、効力を発揮してしまうのだろうか。
そうだとすれば、それは、不老不死の実現に繋がるものだ。この上ない最上の資源だ。例え国家を滅ぼしてでも一部の企業家が支配者に成りたがる――ということへの決定的な理由付けとなる。
手のひらに力が籠もる。ともすれば、自分の婚約者を含むあの少女たちは……代替の効かない最上級の薬効にして奴隷的な資産として扱われる。
『もう一つは、既存の法を優先していては人類や社会そのものが危険と判断される場合、だろうか』
『危険?』
『人権、裁判、法規制――――それらを行っていては間に合わない、或いは届かない。切迫していて、圧迫されている』
彼が空中に軽く指を走らせたのをAIが補正し、ホログラムの絵を浮かび上がらせた。客船の絵を。
『ある船があったとする。……遭難して、そこで食料が付きかけている。だが、食料庫はある。しかしそこで船員が言うんだ――――これは本社の確認を取らなければ、開けないと』
『……』
『では、その乗客たちはどうするだろう? もし乗組員たちに柔軟性がなく、いつまでもその食料庫を開かないとしたら……彼らを排除して、成り変わるほかないだろうね』
『それは……確かに、そうです』
『そして、その食料庫の中身を誰かが独占するのではなく、それでもちゃんと差配しようとしたなら――今度は彼らがそれまでの乗組員たちのような形の支配を組織し始めるだろう? 仮に企業支配が成立するとしたら、これがより合理的かな』
そう、老いた賢者は言った。
『逼迫した状況、遅すぎる規範、生存のための絶対的な必要性――……今のままに任せていたら自分たちが死んでしまうと思わせる状況が、支配者の交代を呼び起こす。それが真実か、或いは煽動による虚偽かは問わないけどね』
こちらの理屈の方が、あり得ると思った。
あり得る――――人類はそこまで愚かではないのだと、己が信じたいと言うべきか。
まさか、今後の戦争によって登場する
そうならば、片端から殺していかなければならなくなる。
その線を超えたなら、殺し尽くさなくてはならない。全て。全てだ。その欠片までも。
ズタズタに――。
お前たちが彼女たちにそうするように、俺が、お前たちを切り捌かねばならなくなる。
それを是とする法を作ればその法ごと、それを是とする秩序を作ればその秩序ごと……善と秩序に悖る秩序は殺すしかない。
『逼迫した状況とは、そうだね……例えば大規模な気候変動とか、同時多発的に引き起こされるテロルや独立運動とか、凄まじいペースでの爆発的な感染が起きるウイルス。古典的なゾンビ映画みたいな奴かな』
『……では、遅すぎる規範というものの原因とは?』
『規範もまた、必要性から作られる。……例えば建設や医療や運輸などで設けられる手順は、先人がそこで取り返しのつかない失敗を犯したからできたと知っているかな?』
頷く。
そういう番組を見たことがある。航空機事故についての番組だ。追加されてしまった手順は、必ず、何かの事故に起因している。
『それほどに、大きく制限を行わねばならないほどに積み上げられた失敗の歴史――――先程のテロルの状況なら、よほど捜査権を制限しなければならないだけの誤った捜査の歴史。ウイルスなら、人権や人命に関しての取り扱いを強固にしなければならないだけの人命軽視の経験――あたりかな』
『……』
『他に、政策決定の硬化や遅滞化は……よほどの独裁者のようなものに強権を与えて誤ってしまったことへの反省によって生み出されることになるかな』
この世界の先を情報として知っている自分よりも、遥かに筋道を立てた論理に感嘆した。
やはり、自分のようなただの素人ではない。
この世界に生まれ育った人間の肌感覚と、専門的な見地が不可欠だった。
『では、教授――――もしこの先の歴史でそれが起きるとしたら、現実的にはどんな条件が想定されますか?』
そうして、彼と、話を詰めていく。
その日はトレーニングの予定を入れていなかった。
そんなことを、幾日も幾日も繰り返した。
そして――――ある日。
また、七時間近く。窓から入っていた血のような夕日すらも沈み、ガラスの向こうは星辰だけが移ろう暗夜に包まれていた。
月さえもない。
そんなものを一瞥して――吐息と共に、問いかけた。
『……教授。仮に、の話です。仮にそのような恐ろしい未来に到達するとして……もし俺がいずれ教授の後ろ盾を以って政治家などになったとして、それを止めることはできると思いますか?』
『……うーん、君が僕のコネで政治家とは。はは、思考実験のつもりだったけど……随分と真に迫った仮定になってしまったね』
『……』
『その仮定の話の続きとして……まあ、無理だろうね。企業が国家に見切りをつけるまでに硬化してしまった政治とは、独裁的な支配への裏返しと言っただろう? この危機の回避のためには強権的で独裁的な支配が必要となりながら――それを許容する状況が既に禁じられている』
つまりは、詰みだ。
『では……その硬化の原因――独立的な支配が起きる前に、政治家として対処することは?』
それができるなら、選択肢になる。
だが、
『……不可能だよ。いいかい、民主主義国家においての独裁が起こりうるとしたら……それは文句なく選挙での勝利が不可欠だ。そこはわかるね? 新しく国を起こす訳でなかったら、それは必ずそうやって起こるんだ』
『……はい』
『その上で……私も多少なりとも力を持っていたから言えるが、完全に裏から全てに手を回すことは難しい――……できなくはないけど、国民の熱に焼き尽くされる』
『……』
『政治は支持の世界だ。政治屋が力があるのも、業界や他の支持を受けて協力を取り付けられるからだ。例えばある企業と懇意にして――自分の地元の産業や雇用を改善するという手法があるけど、それは、限られた話なんだ。国民すべてを突き動かす熱を前には、道を譲るほかない』
『……そうですか』
『まぁ、それならいっそ君がよほどの支持を集めて――独裁者になってしまう、なんてことの方が早いかもしれないね』
言われはしたが、彼の笑いを見ればそれが無謀なことだと良く分かった。
この国には大統領制も存在しているが、あくまでも権威的な面や象徴的な面が強い。
ならば、独裁者的に振る舞えるのは首相の側であり、そのためには他の議員からの支持が不可欠だ。
どれだけ国民から支持されようと、まず年齢的に選出されることは不可能と言っていい。選べぬ道だ。
『そんな政治の硬化を招かないように、その原因となる政権ができないように、真っ当な教育やリテラシーの成立で国民そのものに一定の意識を植えるのもできるけどね。正しい政治を選ぶ目……しかしよほど上手くやろうとも、少なくとも、どんなに早くて数十年は必要だよ。……或いは、遥か紀元前から我々人類はそれを求めてもなお実行できないと言えるかもしれない。何を以って正しいと称するか、何を以ってその教育の規範とするか、何を以ってその教育を固く引き続けていくか――――人類はそこには至れていない』
つまりは、この方法には頼れない。
……少なくとも、何のカリスマも政治眼も持たぬ自分では不可能だ。
『……では、企業家としては?』
『んー、そちらは僕も詳しくないけど……よほどの新鋭気鋭で作り上げて、株式取引を上手く利用すれば時間はかからないかもしれないけど――……それでも、打ち崩せないものはあるだろう?』
『打ち崩せない?』
その問いかけに、返答がなされる。
あのB7Rによるかつての世界連邦国家の寸断に伴った巨大企業の台頭。そのときに人々のための基盤を作り上げた彼らは、今や、現時点でさえ打ち崩せないものとなっている。
少なくとも、簡単には取りかかれないものだ。
(……そして誰かに未来を打ち明けて協力を得ることも、不可能だ。国家権力の衰退に伴う企業支配の台頭ならまだいい。だが――もしも、もしも彼女たちが資源として有用であるから企業支配が起きるとすれば)
それは、この情報の共有が滅びを加速させかねない。
どれだけ高潔な人物だろうとしても、老いや死から逃れる手段があるならばその不老不死の妙薬に手を出しても不思議ではあるまい。
その時信頼ができたとしても、後にまで信頼できるとは限らなくなってしまう。人は変わるものだ。
迫りくる死の恐怖を前に、蝕まれる病の絶望を前に、人はどうしても変わるものだ。
(つまり、俺は……一人で戦い続けなくてはならない。この先の、滅びの歴史と――――)
そのことが、薄ら寒くなる。
自分の暮らすこの星が、寒々しい宇宙に浮かぶちっぽけな水溜りでしかないと知ったときのように――或いは空の高さが深遠に果てどないと考えるときのそのように。途方もなく膨大で、散漫としている恐ろしさ。
その道が、永劫と続く。永劫に――蜃気楼の彼方のようにどこまでも。孤独に。最果てに。
荒涼としたドロローサへの道。
そこに、己は、たった一人で――――いる。
(そんなもの……そんなもの、俺になど……)
吐き気すら伴う恐怖。甚大すぎる孤独と責任。
今すぐに何もかもを打ち明けて、この責任を放棄したくなる。到底背負えると思えない。続けられると思えない。己にできると思えない。
己はそこまで、超人ではない。ただ一人で世界の未来と運命を背負えるほどの強さなど、持ち合わせていない。
だが、それより何よりも――。
己の婚約者の少女を筆頭とした彼女たちが――……人間という資源として役立つからと、あらゆることに使える家畜だから素晴らしいと思われる。そう看做される。そんなものを断じて肯んずることはできない。
そんな非道と悪逆の人類史を、新たに生み出すべきではないのだ。
(……君たちの献身は報われていいものだ。それが今ここになくとも――あると、俺は知っている。それが決して無情に終わっていい筈がない)
そのためになら、差し出せる全てを差し出す気だった。
そしてそれは、やはり――
(
拳を握る。
やはり、そこしかなかった。
ならば、この程度の恐怖――――――己を縛る鎖になどなるものか。自分を縛れるのは、自分だけだ。そうあらねばならぬのだ。自分を、そう、作り変えろ。
この道を歩き続ける自分であるために。
決して折れない自分であるために――そんな自分を、形成しろ。果ての向こうに飛ぶための鋼の刃の翼を。そのためにあらゆる困難と負荷をかけ続けろ。鍛え続けろ。
とうに判っていた筈だ。
ならば今も、己はその通りにそうあるだけだ。覚悟など既に終わっている。
『はは、それにしてもどうしてこんな話を? 思考実験としては中々に議論の甲斐がある内容だったけど……こんな破滅の未来を語るなんて、君は、まるで選定の剣を引き抜いてしまったようじゃないか。それとも……かのトロイアの姫のように、かい?』
『……そんな大それたものではありません』
小さく首を振る。
(きっとそれをすることになるのは――……俺ではない)
幾度と調停者や変革者として剣を引き抜くのは、少女たちだ。あどけない、普通の、少女たちだ。
己と違って一度きりの人生しか持たぬ――……そんな少女たちだ。
泣き、笑い、楽しむ……ごく普通の少女たちだ。
ならば、諦めてはならぬ。
護らなければならぬのだ。報われなければならぬのだ。それは、断じて、踏み躙られていいものではないのだ。
(一度――――……ただ一度でいい。ただ一度、どこかの歯車を砕けるなら。起こってしまうかもしれない運命を覆せるなら、俺は、俺の人生はそれだけでいい)
ああ――――誓おう。
己は、一つの剣だ。
一つの炸薬で、一つの兵器だ。
ただ殺すモノだ。殺すために殺すモノだ。
決して毀れず、欠けず、折れることのない刃にならなくてはならない。
決して滅ばぬ、滅びの刃にならなくてはならない――滅びすらも滅ぼすために。
……或いは、全てを滅ぼすために。
己はそのために――――――飛び続ける。果てのその先を目指して。
『……ふむ。あの正義の価値観の診断の話でも思ったけど……なんていうか、君は実に不思議だね、
『不思議、とは……』
『高い義務感と高潔な自負。慈愛の目とそして、より現実的で合理的な思考――相反するような二つを抱えて、それでも一つの筋で通す。まるで、天が悲劇を防ぐべく遣わせた聖騎士のようだと思ったのさ』
『……俺は、そう、大それた人間では』
上手く答えられずに黙するしかない己に、老教授は温和に笑いかけた。
『……この老いぼれに何ができるかは判らないけど、まるで物語の魔法使いのような相談役にならなれるさ。そうとも。君が正しくある限り、そんな君はきっと一人にはならない。私が保証するさ。……これからも、多くの学びを手伝わせてほしいな、
『……は。ありがとう、ございます。本当に……俺などに、多大に……その……』
感謝の言葉は、一体どれだけ伝えられるのだろうか。
どうしたら上手く伝わってくれるのかと思い、それから、目の前の彼にならばもっと多くを打ち明けてもいいのではとか――或いはそうするのが礼儀なのではとか、そんな考えまで頭を過ぎる。
だが、結論は否だった。
教授を信頼していないとか――彼では不足しているからではない。何としても自分一人で抱え込むべきと思ったからでも、ない。
単に……既に語れる言葉が、これ以上なかっただけだ。
小さな名前の一つ一つを、小さな流れの一つ一つを己が知る訳でもない。そして知っていたとしても、そのいずれもまだ起きていない――――――か、或いはもうとっくに起きてしまっているか。世界がこんな形に区切られてしまった、その時点で。
ここから先で選べる決定的な方針は二つだ。
己の中の妄想でしかないかもしれない未来を理由として罪もない人を未然に殺すか。それとも、全てが起こるのに備えてから対処するか。そのどちらか。
だから、何もかもを話して協力を願うことはできなかった。……それはただ、己と同じ苦しみにこの優しい人を付き合わせることにしかならない。
『……』
なら、せめて、犠牲は一人に済ませるべきだろう。
二人も三人も、こんな苦しみに巻き込む必要はない。余りにも非合理でしかないのだ。
そう判断するに十分なだけの情報は、教授との交流を通して自分の手許にも集まってしまっていた。
『さて、ところで……』
ふと、穏やかな瞳の老教授が口を開いた。
『もしいつの日か――の話なんだけれど。例えば、どうだろう
『後ろ盾? 教授が俺にではなく……俺が、教授のご家族に?』
『いや、何、難しい話ではなくてね。さっきの話でふと思ったのさ。君なら、何があっても守り抜いてくれるんじゃないかなと』
『……』
『はは、難しく考えなくてもいいよ。変に気負わなくてもいい。ただ――少しでも何か私に恩義を感じてくれているなら、いっそ私からこう言われたほうが君も心が穏やかだろう? 何かあるなら、私の孫へと返してくれたらそれがいいさ』
『……は』
『それとも……ああ、そうだね。……。例えば、婚約者なんて形になるのも悪くないかもしれない。……どうかな? 騎士に姫君は付きものだろう?』
茶目っ気を見せたいたずらげな笑いを浮かべる教授。
『ありがたいお言葉ですが、既に自分には婚約者がおりまして……』
『おや。冗談のつもりだったけど、もう既に麗しいご令嬢の手をとっていたとは。ふふ、一体それはどちらのお嬢さんかな?』
『メイジー……メイジー・ブランシェットという名です』
そう言えば話してなかったか、と頷く。
『へえ、メイジー・ブランシェット……ブランシェット………………………………ブランシェット?』
『はい。ブランシェット博士の娘で、今年で、八歳になります』
『………………』
教授が止まっちゃった。
通信のラグかな?
『…………あー、それは、家同士の婚姻とか?』
『自分が見初めました』
『見初めた』
『かわいらしい少女だと思って』
『かわいらしい』
『そうですね。是非、婚約したいと思いました』
『ぜひ婚約』
嘘は言ってない。恋愛対象として見てはいないが。
主人公とやらの近くにいれば、歴史を変える機会もあるのではないだろうか。
彼女が戦いに出ることを防いだなら、その後の歴史から、そのような――――戦場の
『ええと、君は今年で……』
『十六歳ですね』
『十六歳』
『婚約したのは去年です』
『去年』
『去年です』
流石にまだ忘れてない。
『ええと……つまり、彼女は』
『七歳でした』
『七歳』
『そうです。……ところで、教授のお孫さんはお幾つだったでしょうか』
『――――――――――――――!?!?!?』
なんだろう。
完全に止まっちゃった。どうしたんだろう。
通信状態が悪くなったかと首を捻り、
『…………今日はここまでにしようか、うん』
『教授?』
『あ、さっきの話は忘れてほしい。冗談だからね。いや本当に。いやあ、ははは、前に君に「当人の意思を介さずして行われる婚姻は呪わしい」って言われたからね。いやあ、冗談だからね。ね? 婚約とかさせないからね?』
『……教授?』
『それじゃあ! ちょっと用事を思い出したから、じゃあ! そのうち!』
なんだろう。
よそよそしい。
◇ ◆ ◇
その後一ヶ月ほど連絡が取れなくなっていたが……彼が亡くなる半年ほど前まで講義は続いた。
得難い師だった。
彼という指針が居なければ、己は、或いは行く道すらも定められずに徒労に費やしてしまっていたかもしれない。いや、そうなる可能性は高かっただろう。
(だが――……その恩義に言葉で誓えたとしても、俺はその役目は果たせなかっただろうな)
彼の孫娘――マーシェリーナ・ジュヌヴィエーヴ・パースリーワース。
数年という短い交流ながらも、彼女があの大戦以後にどれだけの苦労を背負ったのかは、全てを知らずとも知っている。
そして己などがいた所で、おそらくは彼女のなんの助けにもなれなかったであろう……ということも。
(……あの日、別れてから。君は随分と遠いところまで来たものだな。何を思ったのだろう……何を思っているのだろう、今も)
あのような別れとなってしまったことを悔やむ気持ちはある。突き放しておいて今更案じるのは、虫のいい話であろうか。
ただ――――そんな私人、知人としての感情は抜きに。
(マーシュ……マーシェリーナ・ジュヌヴィエーヴ……君はパースリーワースの名を継いで、何をしようとしているのだろう。そこに君の幸福はあるのだろうか?)
ただの一個人として。
知人という贔屓目を抜きにした――単なる一個人の生存と幸福を想う気持ちもあるのだ。
しかし、
(……良くない癖だ。本当に、良くない癖だ。家名を継いだなら、彼女も立派な成人だ。ならば、その判断まで案じるのはあまりに無配慮だ……そうまでして何かを成し遂げようとする彼女の意思もまた尊いものだろう。……ああ、それが良い形になってくれたらいいのだが)
メイジー・ブランシェットの死と陰謀。
リーゼ・バーウッドにかけられた嫌疑と、その死の真偽。
或いはその双方が、ある種のプロパガンダ合戦かもしれない現実。
そんな中で――彼女はどう舵取りをするつもりなのだろうか。それは、己の選んだ道などよりも遥かな困難に思えた。それだけの覚悟を決めたならば、彼女の先行きにも幸運が待ち受けていて欲しいと――そう思ってしまう。
どうしてだ――と、いつも思う。
明確に悪意がある訳でもなく、それ自体はごく当たり前の人としての想いが無数に積み重なった末に、それでも争いが起こる。
一つ一つが尊い宝石でありながら、集まったそれらが火を放つ岩石になる。
そんな歴史。そんな社会。
その巨体の寝返り一つで、踏み躙られていく人々――。
(このちっぽけな手で、俺は何ができるだろう)
フェレナンドに語った言葉の通り、判っている。
高度な専門性。分業制。社会性や協調性。
それを磨かなければ世界は広すぎて、生存などできやしない。だから社会が形作られた。それを抜きに生きられるほど、人類種は超越者ではない。
己の今の在り方がそれと真逆だとは、判っている。一人背負ったところで、それで揺るがせるだけ世界も社会も人生も容易いものではないと。
(……ただ、それでも世界は変わった。アーセナル・コマンドという力が。個人の意思一つが都市を焼き尽くせるだけの世界となってしまった。であるなら、逆に、俺のこれも――)
個人の一存と一存が世界にまで影響を及ぼしてしまう変革が齎されたなら、己以外のあらゆるエゴ、あらゆる全てを打ち崩せる力を持てばいい。
決して終わらせないために。
あの少女たちの献身を死なせないために。
そして――今も生きる多くの人たちが、少しでも当たり前の幸福を得られる安全を保つために。
そのために、全部使う気だった。
(俺をわざわざと呼んだということは、あの、リーゼの件か……。確かに大きな懸念だろう……)
スティーブン・スパロウ中将の言葉で、少なくともある種の沈静化は計られたと聞いている。
確かに、リーゼの脅威を知りながら『ドミナント・フォース・システム』を導入するのは有り得ない。そう思えば軍は、最低でもリーゼによるクラッキングが不可能ないしはそのリスクに対する懸念は少なくて良い――と考えていたとするのが妥当だ。
常道で考えて、リーゼ・バーウッドにその能力はないとは……論理的な発想ができるならば思い至るだろう。
だけれども、死したる後も彼女が動くのではないか――という不安の種が、世界に植えられてしまった。
どうしようもない陰謀論。
それは単純にして明快な科学や論理までも受け入れさせなくする、本来は生存に必要な人間の持つ猜疑心というもののの暴走。感情と理性が歪んでいく悪魔の果実。
そして、それは今回に関しては――
(……だが、俺が現にクラッキングを受けた。リーゼは、死んでいたのではないのか? 彼女はツールやプログラムを開発し、それを渡したのか? それとも……)
奇しくも、正解に近似している。
もしもあれが別人ではなくリーゼ・バーウッドならば、軍のそれは根底から崩されるのだ。
死したる後もクラッキングが可能な絡繰りがあるか。
或いは、そこに何かの欺瞞があるか。
(……手遅れになる前に殺してくれとは、そういう意味だったのだろうか? やはり君は、リーゼ・バーウッドだったのだろうか? 死亡時期を偽装するプログラムを?)
考えるも、答えは出ない。
彼女が、彼女自身の生存が何を齎してしまうのかを考えていたなら……あのような形で死を以って幕引きする自己犠牲を行うというのも、十分に想定された。
自分の生存が分断を呼ばぬように――……。
彼女はそうできるだけの優しく強い少女だ。被撃墜をトリガーに自己の生命を停止させるプログラムを構築し、自己が生き残ることにより生まれる分断を避けた。
大佐のように投げかけられる疑念の言葉を躱すために。
(……それなのに、俺は、君を斬った)
あの、撃墜する機体から僅かに伸ばされた手が……覚悟してなお捨てきれなかった彼女の恐れや人間性の現れだというなら。
己は、それを斬ったのだ。
一片の慈悲もなく。何ひとつも汲み上げず。
大切な戦友である、あの幼い少女を。
(……)
一度、目を瞑った。
そして、もう一度考えた。
(もし君が……君たちが、あんなふうに投げかけられる疑念から……それが起こす分断から世界を守るべく死を偽装したというのならば……尊き献身と、誰かのための犠牲となったというのであれば――――いいや、だとしても)
現状、何の裏付けもない話だ。
故に己から、今はそれを口にすることはない。
だが――――仮にそうだとして。彼女が命懸けで世界の分断を避けようとしたとしていても。
(それでも――――それでも俺は、法と良心に従う。不都合な事実を偽装し、隠蔽を図る道は選べない。今回が……多くの犠牲や分断を避けるためのものだとして、それは今は真実だとして、しかし、誰かが行う次の偽装もそうであるのか? 恣意的な欺瞞と隠蔽を許せば、それが判例のように付き纏うのではないか? そうしていつか、何かの大義名分や利益と共に……誰かの恣意に使われる)
それが命と引き換えの願いだろうとも。
それが大切な戦友の行動であろうとも。
それが敬意を評すべき覚悟の行動であろうとも。
それとこれとは、何ら、関係がない。
命懸けであるなら是とする、大義名分があれば是とする――――いいや、話が別だ。それは深刻な誤謬だ。行動の貴賤と結果の善悪と手段の善悪は別の話だ。
公正というその線を譲ったならば、いつか、この己もまた大義名分のままにあらゆる行動を行うだろう。
例えばこの先の歴史を防ぎ止めるために自己の延命が必要であり、そのために人の命を接ぎ木に使ってどれだけ長く生きてもいいのだ――と。
(……理念ではなく合理として。俺は、俺にそれを赦してはならない。その土壌を作ってもならない)
誤った手段によるものならば――――己はそれを呑み込まない。己にそんな選択肢はない。
たとえその死と犠牲を結果的に踏み躙ることになろうと、そこを譲れはしなかった。その行動の否定はしないが、しかし己の行動としてそれを容認はしない。
……それでも。
自分に投げかけられた高官からのあの質問が非公式の忖度を求めるであり、己の発言が政治的に利用可能な意味合いを持つというならどちらかに肩入れする気もないが。
リフレインする――――〈ご立派ね、
(そうだな。……こう生きるということは、そうであるということだ。俺一人でもそう在り続けるということだ)
小さく頷く。
(生きる上での他者との関わり。或いはこんな立場なら、何かしらの政治的な意味との関わりを避けられず……常に清く正しいことを選ぶことは不可能だ。呑み込まなければならないことも多い。……それをしないなら、君の言うように、全てを切り捨てていくしかない)
そんな彼女とのやり取りも、酷く遠いことに感じた。
もうじきで、二年にもなるか。
穏やかで、落ち着いていて、悪くない日々だった。そこに安心を感じていたのも、親しみを覚えていたのも嘘ではない。
そのときに戻りたいのか、と自分に問いかけてみた。
あのままの日々が続いて――――今も何事も起きずにそのままなら、あの日々のままなら、あの安穏とした日々が崩れなければ代えがたい幸福だったのかと。
(……)
しかしそれでは、成り立たない出会いがある。
だが――……。
目を閉じ、首を振り、奥歯を噛み締めながら拳を握る。
ふと、そんなときだった。
(……また噴火か?)
昼とは思えないほどの薄暗がりに覆われた市街を彩る赤き光。空の一角を染めるような紅の色。
それを認識すると、同時だった。
「車を止めろ! 早く!」
「え?」
問い返されるのと、扉のロックを外して車外に転がるのは同時だった。
時速四十キロで、地面が接近するに等しい。
石畳が迫り――――咄嗟に身体を丸め、歯を食い縛る。
「――――――ッ」
果てしない衝撃に、頭痛がする。
……だが、ちょっとした交通事故ならマシだろう。
路上に広げられたスパイクめいた車止めに巻き込まれた高級車は壮大なスリップ音を立てながら中央分離帯に激突し――――そこへ、容赦のない弾丸が雨のように降り注いだ。
(戦後の……弊害か……!)
アサルトライフルで武装した集団。
あの戦争の国土の大半で行ったゲリラ戦により、最早銃器と弾丸は制御不能なほどバラ撒かれてしまった。取締が行われているが、それでも間に合わないほどにブラックマーケットにバラ撒かれている。
舌打ちをし、中央分離帯に身を隠す。
何とか援護に向かいたいが――……そう歯噛みした瞬間だった。
(――――対装甲ロケット!?)
街角から煙を上げて凄まじい勢いで殺到するロケット弾により、車体が弾け飛ぶ。防弾性や防爆性を持ち合わせてはいるだろうが……あれでは生き残れまい。吹き飛んだ天井が一反もめんの如く宙を漂い、路上に落下した。
暴動――……最悪な想像が頭を過ぎり、首を振る。
違う。最悪のその先だ。
これは襲撃だ。明確に襲撃だ。
(どこまで及んでいる――――?)
おそらく、自分はVIPと誤認されたために襲撃を受けた。つまり彼らは、重要人物を殺すべく動いている。
そしてここ以外で上がった火の手は、きっと重要人物を対象にしたものではない。
ならば――――暴動と襲撃が、組織的に組み合わされていると判断するには十分。
そして、押し寄せる闇のような曇天の下に次々に赤き光が灯っていく。
同時多発なそれは、つまり、明確に攻撃だ。
(……まさか、この全てが……? これは、もしや、避難所を――――!?)
大規模災害となれば、その避難所は限られる。大きな公園、学校、運動場――――そして軍事基地。ここまで詰め寄せた民間人の保護を行わなければならない。
噴火被害によって、レヴェリア会談へのデモによって、街に人が溢れている。それらをとにかく収容しなくてはならない。
であれば、十分に手荷物検査などが行われているとは言い難い。こんな――災害の場なのだ。
それを、利用した。
紛れ込ませた便衣兵による攻撃。
一体、どれだけの規模の敵が入り込んだのか。避難所がどうなっているのか。街の各所は。
終わりだ。撃たれた兵は、避難民全てが敵に見えるだろう。避難民だって、兵に撃たれれば暴動の参加者でなくともそちらに転びかねない。そして武器は幾らでもある。
軍人よりも圧倒的に民間人の方が多いのだ。
(誰が……そして、よくも――……こんなことを……!)
最悪のその先の事態。
人々を盾にし、人々を武器にし、災害に付け込む悪辣。
最悪の戦法。
最早――――――猶予はない。
(速やかに基地に戻らねば。ともすれば、アーセナル・コマンドによる鎮圧すらあり得るだろう)
襲撃者の視線を躱すように身を屈め、逆方向に走り出そうとする。そんな瞬間だった。
自分の背後を過ぎた黒塗りの高級車。
同じく重要人物を乗せているであろうその車へも、銃撃と対装甲攻撃が降り注ぎ――――しかし奇跡的にも先を読んだかのように停車したその車の鼻面で爆炎が弾けた。
よくぞ、止まれた。
搭乗部をかろうじて避けられ――それでも車体の前部に爆発を受けた車が横転し、一回転に倒れた。
前方のタイヤはバースト。車体も爆発に拉げる。
かろうじて死を免れたその逆さまの車の後部座席から人影が転がり出た。
カーキ色のフライトジャケット。
運のいい生存者は、しかし、一人走り去ることもせず再び車内へと手を伸ばしていた。
友軍を助けようとする兵か。
いや――……
「早く! 手を握って! 掴んで! 逃げるんですよ! さあ、早く! しっかり! ……いいから! 早く!」
幾度と、瞼の裏に幻視した少女のその姿。
ふわついた金糸の髪。
金色の輝きを放つ琥珀色の瞳。
小さく華奢なその背中に、しかし、どこまでも凛とした気配を湛えていて――
「シン、デレラ……?」
あの日のように。
彼女は当たり前に、人に、手を差し伸べていた。
こんなときに。
こんな場所でも。
(――――――――――)
言葉はいらない。
奥歯を噛み締め、リボルバーを片手に走り出した。
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