第135話 さあ、火を灯せ 或いは感染者


 夜景が大規模に広がる部屋は、住居とするならばよほどの資産家のそれだろう。

 高級ホテルの天上階のその部屋は、咽返る血の匂いと硝煙の香りに満ちていた。

 折り重なった数多の死体は、その機械化された外骨格によりどこか昆虫の死骸めいている。巣が一つ殺虫剤で潰されたかの如く、その群れは息絶えていた。


 床に飛び散ったガラス片は路上の水溜りじみて、室内灯とビルの外のネオンライトを照り返す。

 重々しく光沢を放つ無骨な黒コートの裾が、割れた窓からのビル風に揺れていた。

 その黒地の上、はためく――銀のツインテール。


 コートの下がスクールガール風の娼婦を思わせる欠伸を噛み殺した銀髪の眼帯少女と、スーツに身を包んた中年女性。

 コンラッド・アルジャーノン・マウスの告げた提案プランを聞いた彼女は――


「ふざけるな! そんな――そんな事を! そんなことがあっていい筈がないでしょう!?」


 そう、声を荒らげた。

 しかし、対する音声のみの通信から漏れ出る男の声は揺るがない。

 鷹揚に――どこまでも鷹揚に。


『残念ながら事実だとも。ガンジリウムとは、無機物ながらに有機物めいたネットワークを構築する全く新たな生物だ。より正しく言うならば、寄生生物だよ』


 その論のエビデンスを示すホログラムが、既に浮かんだ『SOUND ONLY』のウィンドウの周囲に投射される。

 悲しきことに、それを理解できぬほど――ウィルへルミナは無知でも蒙昧でもなかった。


『……我々は、この事実を公表するつもりだ。そうだろう? 知らず知らずのうちに外宇宙生命体からの静かなる侵略を受けていたなど――……それは恐るべき事態であり、市民の安全のためにも公正に明かされるべきことだ』

「ふざけないで! そんなことを! そんなことが明らかになったら――」


 寄生し、増殖し、遺伝する鉱物生命体の感染者。

 まさにその、B7Rの上に暮らすものがいる。そしてもう、衛星軌道都市サテライトにとってそれは貴重な外貨獲得資源であり、賠償金の返済手段であり、今こうしている間も採掘が進められているものだ。

 つまり――


『そうとも。君たち衛星軌道都市サテライトは一つになれる。いいや、――――寄生生物の、そのおぞましい感染者として』

「っ……!」

『その時は――ああ、その頼りない臨時政府に代わって君が首長のように扱われる未来もあるだろうとも。喜びたまえ』


 微笑を浮かべたままのようなコンラッドの言葉に、今はウィルへルミナとなった中年女性は拳を震わせた。


「人が……人が死ぬわ……! 多くの人が死ぬ! 偏見と、差別と、暴力で人が死ぬ! この世界の争いも終わらなくなる……決定的に終わらなくなるわ!」

『聡明なレディ。ふふ、元より、争いとは終わらないものではないかな。それはのではないかね? そうだろう、あの衛星の秘匿を破り――終わる筈だった争いに介入し、ただ己が望みのままに手中にした君には』

「……!」


 何を今更と、彼は笑った。

 或いは、それこそがガンジリウムというものなのだ――とでも言いたげに。

 その正体を知れぬ低次元な文明ではいずれにせよ争いが絶えず死が起こり、その正体を認識可能となった文明ではその寄生性と伝搬性を知るが故に死が引き起こされる。

 それ自体が死と争いを起こすための存在なのだと、彼は低い笑いを零し続けた。


「っ、貴方たち軍人だって……例外じゃないわ! ガンジリウム! アーセナル・コマンド! アーク・フォートレス! それに関わる貴方たちも偏見の目を向けられる!」

『しかしそうは言っても――我々軍人の使命は、だ。こんな害のある情報を、市民に秘匿し続ける方が卑劣ではないかな?』

「詭弁を……!」

『ふ。正当性ある詭弁は、正論だよ』


 どこか白々しく聞こえる宣誓と共に、男はくつくつと笑いを零した。

 悪意を持った鏡写しの如き言葉。

 あのハンス・グリム・グッドフェローの齎す応報とは異なる、反射の鏡。


「私は……私は、人々を不幸にするためじゃないわ……! 勿論、確かにそんな人も出てしまう……だとしても……それでも、掬いあげられるものがあると――届く場所があると、そう思って……!」

『ふ、ふ。……振るい落とされる者にとっては、その先が幸福であろうと不幸であろうと何ら変わらない残酷な選別だとも。いや、むしろ、己を差し置いて幸福になられる方がよほど癪ではないかね?』

「そんな訳……!」

『あるのだよ、御令嬢。君に打ち捨てられた亡者の声が判るかな? 望むものどころか、当たり前のものも得られなかったものは? 救いの日が来たりしときには、生まれるべきでなかった彼らは思うだろう。――! !――と』


 冷静で余裕そうな口ぶりの向こうに覗く狂気の炎の気配に、ウィルへルミナは口を噤んだ。

 直感で理解できた。理解できてしまった。

 この男に、説得や議論の甲斐はない。

 あのハンス・グリム・グッドフェローのように、この男もまた、なのだ。


 中年女性という窓を通じて――大元の、艦長席に座るウィルへルミナの指先が震えた。


 別の到達点。

 別の終着点。

 別の収束点。


 定まったを前には、こそが譲る他ない。


 ああ、なんたることだろうか。何ということだろうか。

 今ここに来て、あの無慈悲なる刃の男が、慈悲深くとすら思えてしまうなど――……。

 少なくとも言葉のやり取りを許すことが、その意志の自由を奪わぬことが、断絶しながらも支配しないことがなんと有情であるのかと――他人事のように実感する。


 途方もない氷山に衝突するような、決して揺るがぬ大いなる鉄塊を見上げるような気持ちのまま、ウィルへルミナは口を開いた。

 

「あの衛星を……あの衛星を返せば、公表は避けて貰えるの……?」

『いいや、必要ないとも。既にそんなものの所在などは、世を揺るがす議題にすらならないだろう。そんなものは、より強いニュースの前では消し飛ぶだけだ』

「……っ」


 交渉は、受け入れられない。

 故に男は、なのだ。

 それでも、絞り出すように――……ウィルへルミナは言っていた。


「私に……私に、何を求めているの……? お願いだから、それだけはやめて……それだけは……それだけはお願いします……! 私にできることは何でもする……何でもやりますから……だから、だから、お願い……何も知らない人々まで巻き込むのは――……」


 如何に悪を為すと決めようとも。

 それは、その先でこそ得られる何かがあると信じたからだ。

 それすらも求めず――ただ悪戯に、無秩序に、戦火を拡大させることは望んでいない。

 全ては、ウィルへルミナの常識の外にあった――……まるで火の燻る灰すらも焼き尽くすような炎に、一体何の理があるというのだ。

 そんな答えを前に、少女が己を奮い立たせるべく纏った衣は焼き払われた。いや、一体、この男を前に……どうして強い己を保っていられる? 全てを飲み込む暗夜のような、その恐れを前に。


『……ふ、ふ。必要ない、と言いたいところだが。私も一人の軍人として、あんなもののために人が死ぬのは避けたいのだよ』

「……、」

『そのためには――君が何をしなければならないかは判るかな?』


 読めない。

 悪なる支配者になろうとも自国を立て直そうと――つまりはまだ建設的な理想を掲げていたウィルへルミナには、読めない。

 そうしている彼女を嘲笑うかのように、コンラッドは告げた。


『B7Rという存在そのものがこの世には不要なのだよ。そして我々は突き止めた。あの衛星こそが、ガンジリウム内の擬生体ネットワークを利用した巨大演算シミュレーター――【ガラス瓶の魔メルクリウス】だ、と』

「……!?」

『君の手元であのとき破壊されたアレは、謂わば翻訳機のようなものだよ。彼らガンジリウムの内で演算させたものを人類にも理解可能な形で出力する――或いはこちらから入力するためのデバイスだ。もっとも、これは些末事だがね』


 己の求めていた祖国を立て直すための一つの解――。

 それを明かされると共に、奪われることを知らされる。


『まさしく星一つを用いた超高性能の演算シミュレーターだ。そんな【ガラス瓶の魔メルクリウス】さえ手にできればと――そう決起する者も居なくはない。その芽を確実に積むことが一点』

「……」

『そして第二に、ガンジリウムという鉱物が我々人類の身近にあることを物理的に避けられれば……君の言う差別や偏見は極めて最小限になるのではないかな?』

「……何が言いたいの?」


 計画があるのだと。

 つまりはまだ、交渉は可能なのだと。

 そう、にわかに正気を取り戻そうというウィルへルミナの前で――


「――――!」

『太陽にでも放り込めば、あの生命体も死ぬのではないかね? この協力が、君にできる全てだとも。ああ……人道的には可能な限りそれ以前に住民の退避は行うべきだろうがね。しかし我々も、残念ながらそうまでする余裕はないのだよ』


 つまりは、それをやれと。

 それがお前にできることだと――コンラッドは告げている。

 いいや、それは、本当なのだろうか。

 本当に彼は、ウィルへルミナにそれを求めているのだろうか。


 違和感。


 筋は通る。

 彼の計画からすればウィルへルミナの協力が必要不可欠であるからこう求めてきたと、筋は通る。通り過ぎる。

 なのに――ああ、なのに。

 どうしてその言葉が、まるで一切信じられないのだろうか。


「考える時間を、ください……」

『いいや、必要ない。君に可能なのは従うことだけだ。返答は必要としていない。……君に今更できるのは、あの星とそこに住まう民を生贄に捧げることで――僅かでも偏見の目を逃れる可能性を願うこと。それか、すべての民ごと取り除かれるべき感染者と見做されるかだけだ』

「……っ」

『選べるのは、強者だけの特権だ。……それでは失礼しよう』

「待っ――」


 それで、通信が切れた。

 ホテルの一室で、ぼんやりと佇んでいた黒コートに小柄を包んだ少女が欠伸を一つ。ようやく話は終わったのかと、眼帯に遮られた金の視線を投げつけてきた。

 一顧だにしていない。

 ああ――……強者は弱者を、こう見るのだと知る。


「お気の毒さま。……わたしも、失礼するわ」

「ふざけるな。このまま逃がすなど――」


 即座に、ウィルへルミナでもある中年女性は拳銃を引き抜き、


「――――? ああ、もう、聞こえないか。お疲れ様」


 ウィルへルミナの未来の言葉を言い当てた残響エコーのような言葉が一つ、その視界ごと頭部を砕き散らした。

 一方的に。

 ただ当たり前に。

 これが暴力という、答えそのものなのだ。



「なんて……ことを……」


 そして殺害される己という情報がフィードバックされたウィルへルミナは、よろよろと艦長室の椅子に腰を落とした。

 彼女が計画していた衛星軌道都市サテライトの立て直しの道は、完全に潰えた。

 この道は、どこにも、繋がっていない。

 それどころか――


(あんな事実が公表されたら……ただでさえ、先の大戦のことがある……衛星軌道都市サテライトの市民は、保護高地都市ハイランドの市民から完全に排除される……あちらの内紛に乗じて生産基地や輸出基地になることもできない……未来永劫、おぞましい異星人の寄生体として扱われる……)


 ガンジリウムを吸い込めば感染する。

 そして母胎を通じて遺伝する。

 外宇宙の赤子を孕んだ母として、その穢れは未来永劫残っていく――――。


 ああ、人は、寄生生物に生理的な嫌悪感を抱くものだ。

 己の知らぬ内に己の中を蠢くものへ、恐怖と排斥を向けるものだ。

 なら、そんなものの運搬者キャリアーとなるものへは?


(殺すことでしか取り除けない感染者に、一体、多くの人が何を選ぶかなんて――……)


 終わりだ。

 完全に、終わりなのだ。


 一方的に宣戦布告もなく攻撃を仕掛け――更にはそんな寄生体を大地に広げた。

 そんな物質がこの世に蔓延る原因となった兵器アーセナル・コマンドが作られる、理由となった戦争を起こした。

 元より、社会的な地位もない。学もない。

 保護高地都市ハイランドからすれば、最初から数に入れてさえもいない人間たち――――。


 


 ……いや、一人。

 きっと、ただ一人。


 世界が敵に回ろうと、世界がその死を叫ぼうと。

 それでも、自由と公正と博愛を示した理念の旗の傍らに立ち続ける――――ただ一人の、


「助け――」


 言いかけた言葉と共に、かつて、差し出された手を思い出した。

 彼ならば。あの男ならば。

 自分の力を呪われたと呼ぼうとしなかった彼ならば。

 きっと、そんな人々にも分け隔てなく――


「……ふざけないで。違うでしょう?」


 その幻影に縋り付きそうになった己を、唇を噛んで推し止める。ウィルへルミナの瞳に、再び、火が灯る。

 あのとき手を振り払って、そして手を振り払われて、どうして今更あの男に救いを見出す?

 それならばもっと前に、初めから、あの男に縋って庇護を求めていればよかっただろう。――と。


(違うわ。違う……私は、そうしないために、この呪われた炎を受け入れたのよ。そうでなければ、這いつくばって情婦にでもされていればよかっただけ)


 違うだろう。

 できることは、ある筈だ。

 そんな事実が、より多くに広がってしまうよりも先に――打てる手がある筈だ。


 そうだ、自分のこの力ならば。


「パースリーワースの女もあの場にいた……まさか会談でそれを発表して、【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】と【フィッチャーの鳥】の争いを収めさせる気? なら――」


 その会談を打ち砕いてしまえば、そのおぞましき神秘は秘匿をされ続けるのだろうか。

 あの会談に臨む者たちを、焼き払ってしまえば――。


「……それとも、そう思わせるのが手の内? そうして私を火種にこの争いを広げさせようとしている? でも――軍の、【フィッチャーの鳥】の士官が何故……? 大義名分を得て、存分に周りを叩き潰したいだけ? 彼らにそれだけの戦力があるの? それとも、戦争を続けることに何か個人的な見返りが?」


 独りごちるウィルへルミナの思考が回る。

 その寄生の事実が公表された場合、保護高地都市ハイランド市民の感情は――内紛どころではない、となるだろう。

 そうして今の【フィッチャーの鳥】の不利に傾いた状況を強制的に終わらせようとしているのだろうか。

 あの衛星軌道兵器の真実が世間に公表されたとしても、問題ないと思えるほどのニュースを用意して。


 しかしそこから、本当に、星を砕くのか?


 理屈としてはあり得る。

 だが、ウィルへルミナが協力しなかったらどうなる?

 そんな重要な要素パーツをウィルへルミナに渡したまま行動するのか?

 第一、何故砕く? 人民の要求の果てに、というなら判る――だが頼まれてもいないのに? まるで初めから砕くことありきで? 【ガラス瓶の魔メルクリウス】を求める人間がいるだろうというそれだけの理由で?

 それとも、他に何かあるのか? 単なる大規模演算シミュレーターを超えた力が?


(何にしても、それなら、私はこれを渡さずに握り続けるだけ……あちらにとっては決めの一手を欠くことになる。そしてその状況なら、その真実は公表されないはず……公表してしまったら、私との決裂が決定的になるから――)


 炎髪の下の金の瞳が、俯いたまま閉じられる。


(でも、本当に公表されないで済むの? もし公表されたら、私たちは終わりよ。……いいえ、絶対にどこかで公表される。少なくとも、すると突き付けてはくる……それならいいわ。交渉の道具とするなら。でも、もし、そうでなかったら? 奴が私と、本当に交渉の一つも行う気はなかったら? ただ事実だけを明かしたら? それでも、あの男にきっと利はあるの?)


 わからない。

 読めない。

 彼の行動が、あまりにも不可解だ。口に出したその言葉を信じれば、状況がただ奇妙さを呼ぶ。

 それともまさか、ただ、無意味な争いを呼ぼうと言うのか? 一体何のために?


(私を動かして何をさせたいの? 何をする気でいる? 何を得ようとしている? いいえ――……違う。もう、そんな段階ではない。なんにしても、私は何としてもそれを防がなければならない)


 そうだ。

 結局のところ――その必殺の刃がラッド・マウスという男の手にあることが何よりの問題なのだ。

 宇宙の民すべての生殺与奪を彼に握られている。

 地球圏の終わりなき闘争のスイッチが握られている。

 その状況そのものが、何よりも問題であろう。


 たとえ【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】が勝ち残ろうとも。

 たとえ【フィッチャーの鳥】が生き延びようとも。

 あの男がこの世にいる限り、衛星軌道都市サテライトの悪夢は終わらない。


 ……どの程度の人間が、その、暴かれし秘匿の内実を知っているだろうか。

 そう多くはあるまい。

 多くが知っていれば、おそらく、情報はもっと完全に遮断される筈だ。公表を差し控えさせる可能性もある。【フィッチャーの鳥】への評価を立て直すという段階では済まないほどに、より多くの人が死に――全てが終わらぬ争いに呑まれると理解できてしまうから。

 間違いなく、それはラッド・マウスの周辺で止まっている。


(……私は、あの男を倒さなければならない。でも、そうしたら――どちらにしても、私と衛星軌道都市サテライトは終わらぬ烙印を押されることになる。……おぞましいエイリアンの母胎か、それとも愚かなる戦火を齎し続ける民として)


 そうだ。

 もう既に、殆ど、ウィルへルミナは詰みを突き付けられている。ここからできる逆転はない。

 せめて本国や市民は残党たちと異なり戦勝国に服従しようとしていると保護高地都市ハイランド市民に思われることを信じて、全てを用いてあの男と刺し違えるか。

 あの男に協力しB7Rを破壊して、残った市民たちが外宇宙の母と見做されずに済むように祈るしかないか。

 最悪とより最悪の中から、マシなものだけを選ぶ選択。


(真空の宇宙に出ようとしたことが間違いだと言うの? 一つになれやしないものを無理矢理一つに纏めようとして、そしてその摩擦と熱に世界を焼かれることが――)


 ……ふと。


(世界を、焼く?)


 ウィルへルミナには、もう、道はなくなったかに思えた。


 いいや、一つ、道がある。

 一つだけ、確かな道がある。

 何があっても、衛星軌道都市サテライトそのものは存続する道がある――――。


「……ええ、そうね。そう。……ああ、簡単なことだったわ。そうね、一つしか残らなければ割ることはできない。そこにはもう、割り切れないしかない。……ふ、ふ。そう――……そうだったのね」


 くらきが、ひらかれた。

 小刻みに肩を揺らして――しかし彼女は、晴れ晴れとした目をしていた。そこに迷いや、余分な角度は存在していなかった。

 何たる清々しさか。

 答えは初めから、そこにあったのだ。


「ええ……殺してやる。殺してやるわ、ラッド・マウス。そして――パースリーワース……貴方たちを、その国を、ウィルへルミナ・テーラーが殺してやる」


 ああ、それは悪であろうが――――。


 ウィルへルミナ・テーラーには、もう、それを呑み込むしか道はないのだ。

 僅かでも民を活かそうとし、そして、この世を争いの監獄に変えぬためには。

 たとえそれが相手の作意の一つだとしても、もう、そこしか残されていないのだ。


 たとえ虐殺者に、なろうとも――――。


 それが彼女の行き着く、だった。



 ◇ ◆ ◇



 古典的な美術品じみた室内に、沈黙が満ちる。

 会談と呼ぶにはあまりにも一方的なそれを見守ったエディスは、


「なあボス。……流石にあの言い方じゃ、協力も難しくねえか? 大丈夫なのか?」

「そうかね? 彼女は聡明な女性だ。と思えば、きっと従ってくれるとも」

「……ならいいがね。じゃないと俺らは、虐殺者だぜ? そいつだけは勘弁願いたいもんだ」


 そう、エディスは肩を竦めた。

 もしB7Rを計画通りに吹き飛ばしたとしても、そこにあの【雪衣の白肌リヒルディス】の小惑星誘引能力がなければ、破片は人類の居住圏に降り注ぐだけだ。

 それは衛星軌道都市サテライトにも、保護高地都市ハイランドにも甚大なる被害を齎す。

 どれほど途方もない数の人間が死ぬだろうか。天文学的、としか言えなかった。


「ふ、ふ――……そうなったら我々は、歴史に汚名を刻まれるということともなろう。


 何がおかしいのか、微笑む上司の腹の底は読めない。

 いや、一つ判っていた。

 あれは脅迫や交渉ではない。ウィルへルミナを暴発させるための話術だ。間違いなく、コンラッドはウィルへルミナに協力をさせるつもりもない。

 となれば、と考える。


「……ったく。万一がないように、警護だけはしっかりやらねえとな。サムとエコーはこっちで貰っていくぜ?」

「ああ。構わないとも。……ふ、そうだとも。警護はくれぐれも厳重に行わなくてはな」

「……あいよ」


 ここでコンラッドにとっての利は、故意に会談を襲撃させることだろう。

 そう――上司の腹の底を、利を読み、エディスは部屋を後にした。

 彼も、ウィルへルミナも聡明だった。聡明だからこそ、利を考えた。理を考えた。彼らには、何かを得るという発想しかなかった。

 故に、


「悪巧みは終わったかしら、扇動者アジテーターさん?」

「ふ、ふ。……そういう君は私の本心を突き止めているふうに見えるが、構わないのかね?」

「本心? まるで今の言葉がすべて真っ赤な嘘であるように言うのね、扇動者アジテーター

「……」

「ええ、別に? 好きにすればいいわ。興味ないもの」


 マーシェリーナだけは、そのに届いていた。


 生産性。

 利益。

 発展性。

 進歩。

 将来性。


 そんな言葉を離れた先の虚無なる炎と、それら外部を無視して進み続けるという存在を知っていたから――。

 或いは。

 彼女にも、また、ある意味では宿っているのだ。


 


 故に復讐とは、唯一、無価値を許容する。

 或いは、無価値でなくてはならないのだ。己に与えられた負の価値を無に戻し、そして、そこにある憎らしき自分以外の正の価値を無に帰すために。

 無価値であることこそに、価値がある。


 


 そして彼女は、笑う。

 彼女もまた、そんなものなど、どうでもいいのだから。

 そこにあるのは、ただ一つ。


「私を、救い出される塔の姫君にしてくれるのでしょう? 


 それが――彼と彼女を結ぶ契約だった。

 姫を助け出しに来た騎士を、喰らい殺す竜となるための血盟が。



 ◇ ◆ ◇



 アナトリア――。


 北を黒海、西をエーゲ海、南西を地中海に囲まれた地域であり、ヨーロッパとアジアの境の要所として古くから文明を育んだ地域である。

 その北部のユーラシアプレートとの境に位置するアナトリア断層は東西に一〇〇〇キロに渡る巨大な断層であり、B7Rの影響にて活発化した地球内部の対流運動により幾度と大地震を発生させた。

 そのために現在では災害頻発地区に指定され、公式には居住可能地域から外れている。

 また近傍のヨーロッパ地域が、エトナ火山やヴェスヴィオ火山の大噴火に始まった旧イタリア・フランス・スペインでの多発的噴火災害――【ケラウノスの残火エンバース・オブ・ケリーノス】により壊滅的被害を受けており、その点においても保護高地都市ハイランドの居住地域からは外されていた。


 だからこそ逆説的に、であろうか。


 元来での居住可能地域ではないが、そこで復興した人々が暮らしていた点。

 そして保護高地都市ハイランド連盟の首都――北米大陸・ニューコロッサスとは別に、ある種の象徴的な中心地であった英ミッドランドクラトン――ハイランド・アルビオンの近傍地である点。

 保護高地都市ハイランドの地下軍事都市アナトリコンと地域名の由来を同一としており通信上の混乱が見込める点。


 それらから総合し、あの戦いにおいて、狼狩人ウルフハンターの組み立て及び試験運用の土台となっていた。

 そしてその縁にて、終戦の調印式も行われた。

 狼狩人ウルフハンターの壊滅を狙ったプラズマ爆撃の残り香も消えぬ都市の、近傍で。


 友軍偽装による襲撃を警戒したアーセナル・コマンドの飛行制限が故に、輸送機での移動となった。

 ラモーナは防衛的な観点から、伴われていない。

 そして諸手続きを済ませ、足を運んだ格納庫にて。

 格納庫ハンガー特有の吹き抜けるように高い天井。

 見上げた先に佇む三体の鋼の巨人は、特徴的な狩人めいた三角帽の頭部ではない。どちらかといえば、西洋騎士じみた姿である。


「……うわーコスい嫌がらせ来てる。今になって黒騎士霊ダークソウルですか?」

「マジっスか!? たっ、大尉……オレ、第二世代型は乗れねえっスよ!? 乗ったこともねえっスよ!? というかこんなことあるんスか!?」

「正式に疑義を投げかける。しばし待て」


 こうも露骨か――と当該部隊へと連絡を取り、カツカツと軍靴を鳴らして面会に向かう。

 そして、終わる。

 終わった。それなりに時間はかかったが。


 てちてち。

 とてとて。

 格納庫まで戻れば、手持ち無沙汰そうに機体近くでホログラムマニュアルを読んでいたエルゼが顔を上げた。


「どうだったんです?」

「残念ながら、これしか用意ができないそうだ。輸送の関係と、コマンド・リンクスが先行量産機であり、貴重であることが理由だ」

「はあ? 絶対嘘じゃないですか、それ」

「そうとも言えないだろう。相手がそう言ってる以上は、本当にそうかも知れない。人を無闇に疑うのは良くない」

「……」

「ただ、そう言われようと貴官らに乗りこなせないものを寄越されても困ると、重ねて上奏は行った。他に二三点ほど質問してみた結果――……」


 あまり大した話ではなかったが、


「集合部隊の規模や所持ライセンスは把握できる筈だが、それでも定数分の用意ができなかったのか?――と聞いたら、違うと言う。ちゃんと把握はしていたらしい」

「……あー『数も数えられない無能か?』って言われたと思って反射的に否定しちゃったかー……」

「把握した上で数を減らすとは常識的に行うものではないと確認した。要望通りに割り当てて貰えなかったか?――と聞いたら、違うと言う」

「『必要なものを引っ張ってくることもできないのか』って聞こえちゃったかー……」

「そうなると……要望しており、正式に手配しているのに何故かこの場に数がないことになる」

「ですねえ。言ってて自分の首締めてるってそこで気付いたでしょうねえ」

「なので、それには輸送上での紛失或いは組織的な横流しが懸念されること、それが最新鋭型のコマンド・リンクスであるのは安全保障上の多大なる懸念となること、これが今回の会談という重大性の中で行われることは統制上の著しい懸念であることを伝え――」


 真摯かつ簡潔に言葉を続ける。


「これには正式に査問本部や調査委員会を用意する必要である旨を説明し、更に速やかにその場で優秀で信頼できる憲兵への捜査願いを発令した。録音した彼の文言を証拠として添えた」

「うわあ……この人のペースに巻き込まれちゃったかぁ。御愁傷様です。……それで?」


 それで、と言われても特筆することはなかったが……。


「単なる輸送上のトラブルや書面上のミスかも知れないから数日待ったほうがいいと言われた」

「あー、その間に何としても絶対出てくる奴ですね。そういうヤツだ。手打ちにしよう的な。……ああ、それで終わりです?」


 いや、と首を振る。


「数日あれば証拠隠滅の危険があること、間違いないと彼自身が強く断言した以上はそれらのミスは極めて起こり得ないであろうこと、起きるとしたら何を以って間違いないと判断したのかということ、そのチェック機構への瑕疵が考えられること、何よりこの場における正当性のない遅滞行動は最悪は幇助と見做される可能性もある旨を伝えた」

「うわあ」


 そう困った顔をされてもこちらも困る。

 正直話しながら、だいぶ困っていたのだから。


「結局は途中で、彼の部下が入室し……あちらの手違いであったそうだ。我々にもコマンド・リンクスが割り当てられることになった。ひとまず明日、不足分は一時的にあちらの隷下部隊から捻出されるそうだ」

「……それ、やり過ぎで恨まれません?」

「恨まれたところで特に影響のないものだし……」


 だからどうした、とも思うのと同時に――


「故意にせよ無作為にせよ、このようには厳に取り除かれるべきだろう。その除去がより致命的でないこの場にて叶ったことを、むしろ望ましく思う……おそらく彼も何らかの責任は取らされることになるだろうな。報告は上がる」

「うわあ、先輩に余計なことするから……うわあ……」


 うわあ、と言われても困る。

 こっちも困ったのだ。だいぶ困っていたのだ。


 このような軍事上の重大事項において――。

 それが無作為というなら杜撰な管理計画が原因で三機という少なくない数のアーセナル・コマンドの戦力低下を齎し、その操縦士に操縦可能機種外のものを割り当て余計な負担をかけ、生存を脅かす。

 そして作為というなら、行うべき責務も行わずにつまらぬ私情で軍事上の目的達成を阻害し、軽々しく人の命を左右する――という非合理的な存在。

 そんな人間がこの規模の重大事案に割り当てられるという自国の人材の層の薄さに、あの大戦の負の影響に直面して非常に困った気持ちになったのだ。


 ……まあ、もう、特に悩むべき事柄ではなくなったが。何かあったらそのとき取り除けばいい。

 軽い気持ちでと思ったなら――その理屈の通りに死んでもらうだけだ。物理的にしろ、社会的にしろ。職責を果たせぬ上官に存在の価値はない。

 契約と責務を果たせぬ生物に、用はない。


「先輩ってホントこう、正論でぶちのめすための下準備みたいな言動得意ですよね。上手くノせるというか、持ってくというか。誘い込んでから綺麗に叩き潰すというか、怒らせ上手というか」

「特にそんな意図はない」

「だから怖いんですよ。全自動発狂誘発オートカウンター首切りギロチン裁判マンで」


 栽培マンみたいで何か嫌だと思う。その呼び方は。

 あと怖い。やめてほしい。もっとふわふわした人当たりのいい例えがいい。


「まったく……そんなのだから出世できないんですよ?」

「特に上昇志向はない」

「おやおやー? それはー? そんなにかわいいエルゼちゃんとずっと一緒に仕事したいってことですかー?」

「いや、早く別になってほしい。一緒に働きたくない」

「…………………………コイツ」


 彼女の自由であるし、いい年齢なのでその選択に介入する気はないが……それでも正直なところ、死の危険のない真っ当な仕事に行ってほしいとは思っていた。

 そう言うと意図せず侮辱的な意味合いも持つだろうし、かつ彼女が正式な志願兵というならこちらから言えることはなく、そして優秀な軍人で助かっているというのは紛れもない事実であり、何よりも職業選択の自由はあるのでとやかくは言えないが。

 ただ、まあ……。

 やはり、彼女ほどの頭の回転を思うと、ここではなくても生きていけるのではないかと思えてならない。わざわざこんな命懸けで戦う以外の道も、あるのではないかと思えるのだ。それ以外を選べない自分と違って。


 まあ……。


 結局その人生をどう送るかはその人次第なので、自分から言えることはあまりなかった。自由というものだ。


「……だから先輩、言葉足りなすぎですって。どうせ色々考えてるんでしょう? 言葉にしましょうよ?」

「特別なことは、特には」

「…………そういうとこ改めないでそんな冷たいふうなことばっかり言ってるとー、先輩を追い抜かしてエルゼちゃんが上官になっちゃいますよ? いいんですか? たっぷりこき使っちゃいますよ? 嫌でしょう?」

「俺からは、何も。貴官ならば……おそらく上官としても責務を果たせるだろうと疑いなく思える。そうか。言われてみたら確かに、向いているかもしれないな。……推薦をしておこうか」

「このクソボケ」


 ……なんで?


 ゲシゲシ内股を蹴らないでほしい。少し痛い。大尉はサンドバッグではない。少し痛い。あとエルゼが痛そう。


「ホントこいつ……ホントこいつ肝心なとこ……」

「……何か? 体調が悪いのか……?」

「体調じゃなくてアンタの態度が悪いんですよ! そんなにアセアセしても! 態度が!」

「……」

「シュンとしても同じですから!」


 同じなのか。そうか。


「エルゼちゃんはぽけぽけアラサー男性の介護役じゃないんですよ! 介護役じゃ!」

「……頼んでない」

「ああ!? 何か言いやがりましたかね!?」

「……いや」


 こわい。

 怒鳴られるのは女の子からとはいえ怖いからやめてほしい。

 そういえば部下から怒鳴られるのはハラスメントに含まれるのだろうか。確か部下から上司へのパワーハラスメントもあった気がする。だとしたら良くない。

 それにしても何故エルゼがこうも今日は機嫌が悪いのか判らない。……職務上考慮しなくてはならない女性休暇なら、今後の会談の警備においても気を使うべきだろうか。


「……ああもう。だからですね、そういうすっとぼけた態度はやめましょーよ。……今回は上手く働いたみたいですけど。いやそりゃあ、敵とかそういうのに対しては上手く働くんでしょうけど。でもエルゼちゃんみたいに付き合いいい人間ばっかりじゃないんですよ? 先輩の傍から誰もいなくなっちゃいますよ?」

「とぼけたつもりは……特にないんだが……」

「コイツほんと……」


 頭が痛いと言いたげに、エルゼは額に手を当てていた。


「いいんですか? そのうち、せっかく味方をしてくれてる人だっていなくなっちゃいますよ?」

「それは悲しい」

「なら――」


 彼女が言い終わるよりも先に、


「だが、俺は味方を不要としている。。あとはもう、どちらを優先させるかの話でしかない」


 より大切なのは、斬ることだ。意図の必要すらなく、斬るべきを斬ることだけなのだ。

 あとの一切は些事でいい。

 些事でなくては、ならないのだ――――『ぺちん』

 ぺちん?


「……痛いが」

「次はガチでひっぱたきますよ?」

「こわい」


 背伸びした彼女に、その小さな手のひらで両側から挟み込まれるようにほっぺたを潰された。

 そのまま何度も潰される。くすぐったいが。


「あのですねえ……どんなやり取りあったか知りませんけど。無茶な命令であたしたちの命が危ないと思ったから上申してくれたんですよねえ? それで今回の嫌がらせがあって、それに抗議しに行ってくれたんですよねえ?」


 頷く。その面はある。


「自分のキャリアに傷が付くかもしれないのに部下のためにそういうことしてくれる上官から、俺の人生に仲間は不要だ――みたいなこと言われたときの部下の気持ちわかります? 恩返し受け付けてない、みたいな態度取られたらどう思うと思います?」

「……俺以外に返せばいい。いつか君が部下を持ったときに、その力になってやって欲しい。そう受け継がれればいい」

「ああ〜〜〜〜〜〜〜〜〜もうこのナチュラルボーン体育会系! クソボケ施し聖人! 幸福の王子サマ野郎!」


 べちん、と結局ひっぱたかれた。

 痛かった。


「ブービーにはそれ絶対言わないでくださいよ! バカ先輩!」


 そしてこちらに人差し指を突き付けて、エルゼは肩を怒らせて去っていく。

 不機嫌さが歩調にも現れていたが、そこは軍人らしく定量的な歩幅なのは流石と言うべきだろう。

 ヒリヒリとした頬を擦りつつ――


「……ごめんな。でも、それでは足りなすぎるんだ」


 僅かに呟き、首を振る。


「いや――……


 言葉は、格納庫に散っていった。

 春も遠い北半球の風は、冷たい。

 定期的に山から吹き上がる噴灰を核にして、また、雪は降るだろうか。


 あの、戦争が終わった日の翌日のように。


 白く、降り積もるだろうか。



 ◇ ◆ ◇



 煉瓦造りの街並みを真っ直ぐに歩くその女性は、フードを目深に被った丈の長いモスグリーンのモッズコートのため、さながら森の隠密狩人じみている。

 とは言っても比較的小柄であり、コートに包まれてなおも華奢な姿は、遠目に見ている分には到底狩人や――ましてや軍人には見えない。

 隣を連れ立ってあるく紫髪の少年――ハロルドと並べればなお、買い物に出た姉弟にも見える。


「ったく、随分とけったいなことになりましたね。……よりにもよって、この時期にこんな場所で会談なんて。クソッタレ……立入禁止区域に行けるんですか?」

「不明だが……かなり警戒はされるだろう。食料さえ持ち込めば、潜むことも難しくない。ガンジリウムも十分にそこらに転がっている……それでもテロの温床にならない、と考える程度の無能ならいいが――」


 ハロルドが、チラと煉瓦壁の家々を一本挟んだ先の通りを見る。

 そこで慌ただしく走り回る軍用軽装甲機動車。

 おそらくは、パトロール。


「……ロックウェルかシュヴァーベンの肝煎りだな。汚染を防ぐために駐屯はしないにしろ、機体越しのパトロールぐらいは行うだろうし――……フェンス周りも厳重に警備されている筈だ。超えられないようにな」

「……ったく。公爵サマのお嬢様かァ知りませんが、随分と余計なことをしくさってくれたもんですね。偶然たァいえ邪魔すぎる」


 レヴェリアでの会談。

 終戦の調印式のその場に、生きて終戦を迎えることのできなかった救国の英傑のその一人娘が、降り立ち――この争いを収めようとする。

 あまりにもセンセーショナルで、あまりにもドラマ性のある動き。それを仕掛けたのは新貴族デファクタだろうか、新騎士コンダクタだろうか。


(偶然か? いや、だが……)


 嫌な予感がして、携帯端末を片手にまたそのニュースを眺める。

 『政情不安に終止符』だとか――『かつての英雄の娘、帰還する』だとか。

 あの【蜜蜂の女王ビーシーズ】という不明勢力が現れて保護高地都市ハイランド内に収まらぬ内乱に対する懸念が出てきたまさにこの状況こそが、パースリーワースという名が最大の効果を持ち――そして今後も最大の効果を持つという物語を作り上げられる絶好の場に見えた。


 でなければ――……。


 その政界への進出に祝福や応援はありこそすれ、ここまで大仰なものにはならなかっただろう。

 だというのに今このときならば、あたかも救国の聖女や戦争の調停人の如く扱われる。

 それは武力による決着が付かなくなってしまったからこそ、権威という新たな基軸を持ち出したのと同じなのだ。

 そう思えば、できすぎていると言えた。

 まるでその価値を最大に利用できると同時に、を作れるこの状況を待っていたように――……それも考えすぎなのだろうか。


(価値とは、幻想だ。物語だ。……そして一度と信じさせてしまえば、それは、紛れもない価値が出る)


 例えば、貨幣だ。

 貨幣は、価値があると信じられるから価値がある。

 破綻国家の通貨価値が瞬く間に下落していくのと同様に――或いは情勢不安から急激にある信頼通貨が買い付けられていくように。


 


(……前史の中世や近世にて教皇の名で戦争を収めることがあったが、ここで起きたのはまさにそれだ。かつてほど、宗教の権威も失われた現代にあっては――パースリーワースを、新たな教皇にでもしようというのか?)


 それほどまでの戦略眼を持ち、巧みに生存を隠蔽していた女傑なのか。

 それとも優秀なブレーンがついたのか。

 はたまた、ただの偶然なのか――……。


「どうかしました? まさか、見惚れてたんですかい?」

「……いや、この女、グッドフェローのガールフレンドだったなと思って」

「………………………………はァ?」

「僕を睨むな。ヤツの部下に聞いただけだ。……その時写真も見せられた。確か、間違いない筈だ」


 覚えている。

 この憂いがちに見える睫毛の長い表情。

 生まれてから一度も鋏を入れたことがないであろう床に届かんとする長く豊かな髪。

 ハロルドの趣味ではないが、随分と女性的な体つきで――……あのグッドフェローにも健全な男の部分があったのだと、感心したのだから。


「あー……じゃあこれが、あのときヤツが惚気けてた? あー? へー? ほー? そりゃあこんなに麗しい公爵の御令嬢サマ相手には、十分惚気るでしょーとも。ええ。そりゃあ叶わぬ片思いにもなりますわ」

「いや……ヤツの想い人はこれとは別人だ」

「……………………………………はァ?」

「僕を睨むな。……僕もてっきりこっちのことかと思ってたんだが……」


 それがまさか、倍近く年齢の違うシンデレラ・グレイマン相手に懸想をしているとは思わないだろう。

 二人の共通点と相違点を考え……ハロルドは首を振った。グッドフェローの健全な部分があることに安心したとは言ったが、不健全な部分には安心しない。

 おまけにかつてメイジー・ブランシェットと、それも幼年の彼女と婚約していたと、あの海の都市の戦いの後で聞いていた――――いやまさか。まさかな。


(いや……)


 ……まさか、少女にしか興奮できないのか。

 少女を誑かすのが趣味なのか。

 少女という年齢を外れたから――メイジー・ブランシェットもパースリーワースも成人済みだ――フッたのか。

 そうなったら、今まさに彼のところに転属しているライラック・ラモーナ・ラビットが危ない。まさかな。彼女はラッド・マウス大佐に随分と懐いているために万一はないと思うが。ないと信じたいが。流石にコナかけてはいないと思いたいが。


「公爵サマに戻るにあたって、どこの馬の骨かも知れねえ男をフッたんじゃあねーですかね」

「……僕はむしろ逆だと思っている。グッドフェローにフラレたやけっぱちでこんなことをしてるのでは?」

「はあ? これだけの女をそんなに思い詰めさせるような接し方してやがったんですか、あのクソ英雄サマは」


 ハロルドは何とも言えずに黙った。

 なにせ、戦後も数年に渡って婚約者を放っておいた挙げ句に斬り結んで殺そうとし、「別に何とも思わない。困ったことはない」と戦闘直後に言ったのだ。相当な接し方をしていたとしても、ある意味では今更驚きはない。

 などというバカバカしい雑談を続けながら――一際、雑踏の音が大きくなったタイミングでハロルドは頷いた。


「……ああ、判っている。つけられているな」


 取り留めもない話をしていたのは、そのためだ。

 未だ、相手の姿は見えないし感じられないが――……何かいるというのは、ハロルドでさえ判る。


「一応聞くけど、どーします?」

「……人が消えても問題ない場所が目の前にあるな。ちょうどいい、誘い込んでやろう」

「ったく、私はただの憲兵なんですけどね」


 言いつつ、立入禁止区域のフェンスを目指す。

 自分の身分が通じるか。

 でなければ、あとは、強行突破しかないだろう――。

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