第131話 機構、或いはハンス・グリム・グッドフェローとジュスティナ・バルバトリック

 ホログラムヴィジョンでない古ぼけた平型テレビが天井の角に吊るされ、ノイズ混じりの画像を垂れ流している。

 蛍光灯が、幾度と明滅する。

 同じく天井で剥き出しに回る大仰な換気用のファンと合わせると、あまりにレトロすぎる店主の趣味なのか、それとも単に貧乏で時代遅れなのかの判断が難しい。


 そんな店のレジカウンターに並んだ男が、声を上げた。


「はあ!? なんでプリンター用のタンパク質がこんな値段になるんだよ!?」

「文句言うなら余所で買ってくれ。別にアンタに売らなくたっていいんだからな」


 眉間に深い皺の刻まれた偏屈そうな女性店主は、腕を組みつつも、男の背後の列を眺めるように目を細める。

 男性はしばし逡巡し、


「ふざけんな……クソッ!」


 そう毒づきつつ、左手をレジに翳す。

 静脈認証型の極めてセキュリティが高い連動式クレジットカード――最早カードですらなくそして一般的だ――での支払いを済ませて立ち去る男は、しかし、店内の客の代弁者だった。

 別に、この女性の店に限った話ではない。

 むしろそれでも比較的安いからこそ、電気自動車のチャージステーション一体型のその古ぼけた店には、まだ客が訪れている。――それなりに多く。


「クソどもが……戦争は終わったってのに、余計なことしやがってよ」

「さっさと終わってくれねえかな……【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】も【フィッチャーの鳥】もよ」


 空調らしい空調もない中で、大型のファンが鳴らす風切り音。

 片足を引きずる老人や、或いは電気バイクに乗る青年も同じように不満を漏らす。

 その矛先は、無論、残党に対してだけではない。

 皆が天井隅のテレビ画面の映像を眺めつつ、レジへの列に並んで口々に呟いていた。


「ったく……何が【フィッチャーの鳥】だ。アイツらも、普段あんな偉そうに振る舞ってるのに、もっとシャキッと終わらせられねえのかよ? 何やってんだよ、なあ」


 だが不平を呟く小太りの中年男性へ、彼とは裏腹に痩せ型の妻が肩を竦める。


「まあ、でも、よくやってるんじゃない? 半日もかかってないんでしょう?」

「そうかぁ……?」

「そうよ、昔ならもっと解放に長引いたと思うわ」


 でしょ?――と彼女が眉を上げれば、周囲で話していた客たちも、


「そう思うと、威張るだけはあるのかねえ……」


 そんなふうに結論を付け始めた。

 画面の中では、ブリンディッジ・シティの被害状況を知らせるニューステロップが踊っていた。


 列の最後尾でそんな店内をじっと見詰める炎髪の少女が、静かに店内を去った。

 誰一人、彼女に気付いた様子はなく――――。

 彼女がガラスのドリンクケースに凄まじい暴言的な張り紙をしたというのに、誰も、構いすらしなかった。


 ただの、一人も。

 そこに目を、向けながらも。



 ◇ ◆ ◇



 雑踏の中に紛れて、道を行き交う人々を見る。

 遠く――――どこか遠く、彼らは日々を続けている。

 何もなかったかのように。

 それとも彼らにとっては、本当に何もないのだろうか。


 そうして腕を組んで壁によりかかっていると、不意に下から女の声がした。


「ハッ、どうしたんですかね英雄殿。殊勲を前にパーティでもありましたかい? いやぁ、大活躍のあとにそんなに気疲れするほどのことがあるなんて驚きですねぇ」


 荒い労務者のように崩した口調。

 機械義肢の右手をダラリと垂らしながら、もう片手をポケットに仕舞ったベースボールジャンパーのラフな女性。

 小柄で華奢な身体と裏腹に、隈の強い眼だけは大の男を怯ませるほどにくすんだ銀髪の中で爛々と輝いている。

 ジュスティナ・バルバトリック――憲兵中尉。待ち人。


「……いや、特にない」


 普段通りだと首を振れば、ジュスティナがその怜悧な双眸を更に尖らせた。


「アンタのことを、まさか私が心配している――なんてツケ上がってるんじゃあねえんですよね」


 今にも胸ぐらを掴んできそうな不機嫌さのまま、彼女はその機械の右手の指をこちらの心臓の押し当てて言った。


「わかりやすく言ってやりますよ。兄が何故死んだのか。何故、死ななくてはならなかったのか……それを検証する一つとして使ってやるだけだ。間違ってもアンタの愚痴を聞くためじゃあない。……つべこべ言わずに、とっとと吐きやがれと言ってるんです。


 黒髪混じりのくすんだ銀髪の下で、飢えた目だけが異様に光る。

 マクレガー大尉が死した時期には、ジュスティナはもう憲兵だったろう。だからこそ、なのかもしれない。

 無力な子供と違って法令にも関わる職分にいる中で、兄に自死をされた――それはより強く彼女の中での無力感に繋がったのであろう。無理もないことだ。


「……承知した。だが、貴官の兄と俺は違う。それが一体何の参考になるか不明である以上、やはり話す必要など――――」

「……そうか。承知した」


 そう言われてしまっては、特に否定もできない。

 果たして一体何の判断材料になるのか悩ましいが、一度目を閉じ――……それから、吐息と共に漏らす。

 思うのは、まさに、先日のその戦いについてだ。

 正確には、あの街で撃ち落とした敵機――街を焼いたテロリストたちについてだ。


「……彼らの命は、あれで、終わりなのだなと思う」


 思った以上に、ぽつりとした呟きになった。

 自分は彼らを殺した。全て殺した。

 戦時法に従わず、民間居住地への攻撃を行い、投降をせず敵対行動を取り続けた彼らを、自分は全機撃墜した。

 軍からは求められ、法的にもしろと定められていて、自分自身もまた――


すると決めている。その線を超えた以上は、もう、殺すしかないと。……俺は今後もし続けるし、し続けられるように磨いている――だが」

 

 それでも、思うのだ。

 行き交う街並みの人々へと目を細めながら、思う。


「……ほんの少し、ほんの少しだけ歯車が違ったなら。もし、どこかで、ほんの少しだけボタンをかけ違えていなかったなら……彼らは、あそこで死なずに済んだのではないだろうか」


 目の当たりにしたその時には、考えない。

 余計な視点は持ち込まない。

 斬るべきを斬る――そこに余分を持ち込めば死ぬのはこちらであり、それはつまり、己という戦力が損なわれることによる友軍や市民への被害を意味する。

 抜き放つその瞬間に、余分は必要がない。己はそこまで強者ではない。

 だが、終われば同時に――――思う。


 それがテロリストだろうと、犯罪者だろうと。

 殺すと決めていようが、やはり、思うのだ。


「彼らは、死ぬだけの罪を、したのだろうか」


 言ってから、小さく首を振った。


「いいや――……判っている。理解している。彼らは罪を犯した。そして投降勧告に応じなかった。人を傷付け、都市を焼いていた。撃つしかない。――人は彼らを怒るだろう。死んで当然とも言うかもしれない。或いは、もっと早く死んでいればよかったとか、その道を選んだのは彼自身の自業自得だとか、言うかもしれない」


 その言葉は、きっと、ある一面では正しい。

 罪を犯すということは、悪行を為すということは、つまりそういうことだ。

 司法によって刑罰の上限を定められたとしても、感情的には誰からも許されない道に足を踏み出すということだ。

 そこで、もし彼らが被害者ぶって許しを求めでもしてきたら、自分にだって可哀想な事情があるんだと言い放ってきたら、それこそ筋が通らないことだと人は感じ――――


「俺も、そう思う。……そこに至っては、ただ、命のやり取りしかないのだと。決めている。だから俺はしている。彼は、彼自身で、その線を踏み越えたのだと。そして俺もそれに応報した」


 そこに疑問はない。

 疑いなく、呵責なく、容赦なく、己は首を刎ねる。刎ねる者だ。彼もまた、刎ねられる者だ。

 しかし、


「それでも――……」


 思ってしまう。

 無意味な問いかけだと思う。

 これに応えてもし自己に同意する人間がいるならば、自分はきっと嫌うだろう。現実が見えていないと。

 だから、同意が欲しいわけでもない。

 しかし、だとしても……


「……それでも、本当に、彼は死なねばならなかったのだろうかと、いつも、ふと考える」


 あの戦地にて敵を殺しているときに。

 或いは今の戦いが始まってから、幾度と殺したときに。

 それが終わってから、どうしてもふと、考えるのだ。

 己は――――死者に囚われないと決めていても。


「彼を育てた父母は、彼の友人は、彼のことをどう思っていたのだろうか。もし、その生の始まりが祝福されたものというならば、何故、結末がこうなってしまったのだろうか。その祝福は、祈りは、その素朴なる幸福の行く末がこんな形であっていいのだろうのか?」


 問いかけながら、首を振る。


「……いや、違う。そうじゃない。あった筈だ。あった筈なんだ。どんな形にせよ、きっと、彼の中にも……嬉しかったことや楽しかったこと。何か、欠片一つでも、光り輝く思い出が。彼自身でなくとも――……彼と関わった人の中にでも、きっと、小さくとも何か」


 生きていれば何かしら、どんな些細なことだろうと、ほんの小さな輝きだろうと、ほんのひと時だろうと、僅かにあるはずだ。何かしら。

 人相手でなくていい。

 無益な娯楽でも、なんの気ない趣味でもいい。ふと、綺麗な風景や音楽を感じたときでもいい。


 絶対に何かしら――何かしら、あったと思うのだ。


 愛おしく感じる何かが。

 微かな安らぎの何かが。

 ほんの一欠片だとしても、光り輝いていた何かが。


「それが、損なわれてしまった。彼の命が損なわれることで、永遠に損なわれてしまった」


 それは、戻らない。

 生きていたところで、彼がそんなことを覚えているかは知れない。

 彼が生きていようとも、当たり前に忘れ去られ、思い出されることもなく捨てられていくことなのかもしれない。

 そうだろう。きっとそれが当たり前だろう。


 だとしても、やはり、思うのだ。

 想ってしまうのだ。

 どうしようもなく――考えてしまう。


「かつての――かつての戦争に加わる前の彼は――……。その彼が、誰かのその祈りが、祝福が、もう永劫に失われてしまったということが……」


 小さく、呟く。


「……俺には、たまらなく、苦しい」


 本当に。

 必要性や妥当性、善や悪などとはまるで関係なく――。

 それが永劫にこの世から奪われて、消えてしまったということが、ただ、苦しい。

 すべてを聞いたジュスティナもまた人混みへと目を向けながら、嘲り笑いを浮かべた。


「……ハッ。つまりアンタは、戦ったことを後悔してるってことですか? それとも、殺してる側も辛いんだって言いたいと?」

「いや……特に後悔はない。同じ場面にまた遭ったら同じことをするし、何より一番辛いのは俺でもあの加害者でもなく、巻き込まれた被害者だろう。そこを履き違えるべきではない。そして……俺自らが相手を殺そうと殺さずと、こう思うこととは何ら関係がない」

「……」

「強いて言うなら、斬るために近付いた分……か。自分で殺したときに殊更強く思うのは、多分、それが理由であろうが……」


 普段はどこかに追いやっているだけで、ずっと考えている。この考えは刃を鈍らせるので、必要ない。だから取り除いている。

 だとしても――いつも思う。いつだって思う。

 暴力などという忌まわしいものを使うたびに、思う。

 こんなものしか許されない条理を見るたびに、思う。


「何が言いたいんですかね、英雄どの」

「俺は英雄ではない。人殺しだ」


 僅かに拳に力が入る。


「称賛など、受けるべきではないのだ。……俺は、己の定義した通りの行動を遂げた。人が求める通りの行動を終えた。あの場で助けを求めていた人も、契約した軍も、俺を間違ってはいないと言うだろう――――ああ、俺も、間違った行動をしたつもりはない。そこを違えてはならない」


 もしも自分が誤っていると思いながら続けられるとしたら、それは、無責任極まりない邪悪だ。

 誤ったと知りながら人を殺すならば、まず、己の頭を撃ち抜くのが先決だろう。

 過ちなら、正さねばならない。

 それは義務だ。そこに人の命という何より尊いものがかかるものならば、紛れもない義務だ。それはごく当たり前のことだ。何一つ疑いのないことだ。


「己の行動に対しては、論理的な一貫性と合理的な正当性を持っているつもりだ。法的に、そして社会的に、それらに対して過ちではない選択をしている。……その筋は確実に確保し、そこに何一つ後悔は存在していない。間違いなく――十度やって十度、百度やって百度、千度やって千度同じ結果にしかならないように。……前提条件が変わらぬ限りはそうなるように行動しているつもりだ」


 確実に。同じように。常に。

 と――――そう言うことは、少なくともそれは、命に関わる者の義務だろう。

 そう目指しても、及ばぬことはある。誤ることはある。届かぬことはある。完全にその理念の通りに効力を発揮することなど、そう都合よく、有り得る話ではない。

 だとしても、それを目指し、それに向かい、そう言えなければならないのだ。それが命というものに向き合う以上は最低の――最低限の言葉だ。

 その上で、


「それでも……心苦しい」


 ただ、どうにもそう思ってしまうという話だ。


 他の形が、何故、許されなかったのか。

 何故、そうなってしまったのか。

 そして、もう、失われてしまったこと。


 それは――そのことは確かに、自分の中にどうにもならない心苦しさとして湧き上がってくる。


 聞き終えたジュスティナは、舌打ちをした。

 それから腕を組んで居丈高に――小柄で華奢な彼女を大きく見せるような振る舞いと共に、こちらを見上げて言った。


「ハッ、正しいことをしたなら、胸を張ればいいんじゃねえんですかねぇ。――って」


 その言葉に、首を振る。


――?」

「――――」

「正しさを疑わなくなったその時点で、それは、唯一僅かに残ったものでさえ手放させる」


 無論、正しいことと疑いがないことが別にせよ……それとは別に、確かに世にはとされるものもまたあるとして――……。


「正しさに囚われること……正しさを疑わないこと……その慣習の果てに待ち受けるのは、正しいと評価される行動を実行することではなく――という逆転の過ちだ」


 例えばまさに殺したあの兵たちのように。

 己の行動を、――と思った果てに待ち受けるのは、あの狂気だ。

 それでは辿り着けない。

 いいか、悪いかではない。それではのだ。不毀と呼ぶには余りにも脆弱すぎるものだ。信念とは、それ自体が脆すぎるものなのだ。


 


 砕けやすいガラスの天秤に、その皿に、人の命を乗せるほど取り返しがつかないことはあるだろうか?


「そんなに頼るつもりはない。それでは信頼性と持続性が確保されない。だから、俺は正しさには頼らない。それは何一つ俺の刃の理由になりはしない」


 あくまでも、合理性と必要性だけだ。

 それ以外は、何の意味も持たない。

 いずれの腐敗や破滅を伴うものに搭載の価値はない。


 そんなものなど、犬にでも喰わせておけばいいのだ。


 言えばジュスティナは、そのくすんだ銀髪を揺らしながら路地へと吐き捨てるように言った。


「……イカれてますね、アンタ」

「極めて正気であると自認している。俺は狂気と最も遠いところにいる」


 自分という男には、その評価は合わないだろう。

 いや、そうならぬために、常に正気で居続けようとしているのだ。ただ理性を願っているのだ。そう評されてしまっては、機能不全に他ならないだろう。

 だが、


「――」

「……チッ。ハロルド待ちとはいえ、アンタみたいなのに話しかけたのが間違いでしたわ。胸糞悪い」


 腕を組んだ彼女が、忌々しそうに顔を背けた。

 言えることは、一つしかない。


「見え透いた道を進んで泥を被ったと叫ばれても、こちらの知るところではないのだがな」

「あァ?」

「……いや。だから俺は話すつもりはないと言ったのに、勝手に聞いて勝手に怒られても、その……少し、困る」

「あァ――……それはまぁ――」


 気まずそうにジュスティナが視線を反らす。

 路地の向こう側。

 人々が行き交う通り。

 二人で無言で、そこを通る人々の日常を見詰めていた。――フレームの外から。


 そして彼女が、ぽつりと零した。

 先程までの角張っている柄の悪い響きは、失われた声だった。

 まるでそのことこそが本題だとでも、言いたげに。


「……兄も、アンタみたいに悩んだって、ことですか?」

「俺はマクレガー大尉ではないので……判らない」

「んなこたァ知ってるんですよ。……アンタから見て、兄は、そんなふうに悩んだと思いますか? ……――いや」


 ふと、彼女が、その隈の深い三白眼を見開く。


 気付いてはいけないことに気付いたような。

 知ってはいけないことを知ったような。

 思い当たった答えへの理解を拒むような視線をこちらに向けて、僅かに愕然と言い放った。


……?」


 人に紛れた異形を見たような。

 超能力者や異能者を目の当たりにしたような。

 そんな目線へと――――首を振る。別に自分は、そこについて何か特別な能力や素質の補強を受けた訳ではない。

 ただ単に、


「そうすべきだと、俺が決めたからだ。それだけでしかない」


 それだけの話だ。

 別に何かの異能だとか、特技だとかそんな大層なものではない。明日はカレーを作ろうと思ってその通りにする――――或いは数十キロの行軍を完了する。

 そんな、軍人ならば度重なる訓練によって当然磨かれるだけの、どこにでもある力にしかすぎないのだ。


「……チッ。やっぱり話してると胸糞悪くなる。あとでなんかしらで推移は知らせるんで、もうどっかに行っちまってください。……アンタと居ても苛つくだけだ」

「そうか。……そう求めるなら、そうしよう」


 事実、自分たちは今動員中で一定のシフトで動かされつつ、基地の中で訓練任務にあたっている。

 こうして自分が基地の外に出られるのは、外部の医者にかかるという名目であり――……確かに連絡さえ貰えるならそれがいいだろう。

 ジュスティナは、こちらを嫌っている。

 これ以上彼女に不快な思いをさせても、仕方がないと言えた。


 彼女と別れ、雑踏を進む。

 先日のブリンディッジ・シティの騒乱についての、繰り返しのニュース映像のようなものがどの局でも流されているらしい。

 街頭ヴィジョンなどにも映され、それに足を止めて見る人――或いはそれでも一瞥もせずに足早に進む人や、友人や恋人と何やら囁き合いながらまた歩き出す人もいる。


 どこか遠い国の戦争が徐々に近付いて来ている危機感、そんな空気もあるコメントだった。


 空中浮游都市ステーションにとってはもう、そうなっているのだろうか。衛星軌道都市サテライトという判りやすい旗印が現れたことで、それはなお傾向が強くなったらしい。つまりは、そこに簡素化した物語が作り上げられた。

 あくまでもこの争いは、あの【星の銀貨シュテルンターラー】戦争の延長線であり保護高地都市ハイランドのものだ――と。


 彼らは駐留時の乱暴な振る舞いから【フィッチャーの鳥】へも批判的であり、焼け落ちるマウント・ゴッケールリの大量死の片因である【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】にも批判的だ。

 テレビの中の専門家は、これが、保護高地都市ハイランドがいわゆる覇権国家となったからこそ引き起こされた騒動だと言っている。……確かに、事実だろう。

 その後も分析のような所感のような、そんな言葉が並んでいた。


 しかしその中でも、そこで死したる人については、語られはしなかった。 


(……まあ、これに関しては、あまりいつまでも考えすぎても仕方のないことだな。切り替えるか。……何か美味しいものでも食べれたらよかったが、そこが少し困る)


 代わりに、ラモーナに何か土産になるものはないかと、雑貨店に足を運ぶ。

 その途中でハロルドとすれ違った。

 何か言おうと思ったが、彼も察したらしい。犬でも追い払うように手で払われ、それで終わりだった。


 悲しい。扱いが酷い。




 ハロルドが合流するなり、口を開いたジュスティナの言葉はある一人に言及したものだった。


「あの男が悪い訳じゃあないんでしょうが――……」


 爛々と輝いていた狂犬の瞳が、かげる。


「あんだけ悩んでるヤツがそれでも平然と生きてると思うと、そうできなかった兄が、それよりも弱いと言われてるみたいで腹が立つんです。……あの男のせいじゃあ、ないとは、判ってるんですがね」

「そうか。無理もないだろうな。割り切れたら、苦労はしないものだし……」


 既に去ったその背を追うように雑踏を眺めつつ、吐息を漏らす。

 ハロルドから教訓として言えることは、一つだ。


「グッドフェローの言葉を受け止めすぎるな。覗き込みすぎるな。

「……どういうことですか?」

「その輝きに完全に目と脳を焼かれるか、躍起になって固執してとにかくケチをつけたがるか、何としても対抗したがるか、それともどこか宇宙的なほどの恐怖を抱き始めるか、あの男の助けになりたがるか、あの男に応じて欲しくなるか……つまりは、ということだ」


 或いはハロルドは、それを彼が意図して日常から無意識的に行っているとさえも思っていた。

 即ちは、戦場における最大の効果。

 味方を奮い立たせ――同時にその振る舞いが敵への苛立ちなど強烈な過負荷となって戦力発揮を損ねさせる。つまりは効率的に殺すためであり、また、軍人として必要だからそうしているというもの。何から何までを、殺し合いに特化させている。戦争に特化させている。

 骨の髄まで、戦場の犬なのだ。

 何かしら影響を受けてしまった時点で、彼の術中にあると言って過言ではないと思えるほどに。


「……アイツはそれに何か思わないんですか? 自分の影響力なんかに」

「何も思わないだろうな、グッドフェローは。考えたところで自らでどうにもできないことについては、きっと頭から追い出しているだろうし――……」


 おそらくは、と付け加えて。


「思ったところで、思うことと止まることはきっとヤツにとって別の話だ。……それとも、そんな意志の持ち主だから、己の自由意志を貫ける持ち主だから、他者の自由意志については考慮も干渉もヤツの慮外かもしれんな。――と」

「……ハッ、これだから騎士様は違いますわ。竜を前に逃げねえってのは、つまりそういうことなんでしょうかね」


 嘲り笑うようにジュスティナが呟く。

 侮蔑か、軽蔑か。

 いや、そうというより――……と思うハロルドの前で、彼女はその黒髪混じりの銀髪を握り潰した。


「なんだって――……ああ、なんだって……」


 それは、心の底から敵視しているというより、むしろ、


「なんであの野郎は、そんなことをしてるんですか? クソッ……殉教者気取りか、求道者なのか……無駄に苦しむだけじゃねえですか。なんだって――……ああ、クソッ」


 彼を慮り、絡め取られているふうにも見えた。

 彼女が口でどう言おうとも、グッドフェローの抱えた苦しみは彼女の兄が抱えていたかもしれない苦しみの近似値だ。それが彼女に、否応なく彼女の兄を連想させる。

 不味い兆候だ――と内心で吐息を漏らす。

 それからハロルドは、僅かに考えて言った。


「検証、なのだろう」

「検証?」

「グッドフェローのそれだ。後悔や迷いというより、きっと、機能の検証だ。僕はそう見ている」

「……どういうことです?」

「つまりは、装置が問題なく動くか、動作に誤りはなかったのかと常に確かめ続けているだけであり――」


 それは人間的な悩みというよりむしろ、どこまでもシステマティックな行動であり、


「仮にオマエの兄と同じ方向性の悩みであったとしても、個々人における悩みの質には違いがあるということだ」


 そう、付け加えた。

 ジュスティナが僅かに目を見開く。

 それから、居心地が悪そうに顔を背けながら言った。


「はァ……その、どうも……。……どうも」

「気にするな。腑抜けたヤツの護衛を務めさせられるのが、困るだけだ」


 鼻を鳴らして肩を竦める。

 ジュスティナが感情的なタイプだとは、これまでのやり取りで察している。それでも軍人として割り切れる人間だと考えているが――ともすれば、そのバランスも崩れるかもしれない。

 ただでさえ、コンラッド・アルジャーノン・マウスという油断のならない男に反旗を翻しているのだ。そこで余計なリスクを負うのは本意でないと頷き、


「……チッ、一言多いんですよ。あのサー・グッドフェローですか?」

「アイツと同列に僕を扱うな! 僕はアレほど無表情でも無愛想でも無神経でもないぞ!?」

「ハッ、どうだか」


 意地悪く笑ったジュスティナを眺めて、ハロルドは胸を撫でおろした。

 どうにか、彼女も平常心を取り戻したらしい。本来ならば、もっと、気軽に軽口を叩く女なのだろう。グッドフェロー――そして兄――が絡みさえしなければ、彼女はそんな人格でいられる。

 また情報交換のためにVRアミューズメント施設に進む中で、ハロルドは静かに口を結ぶ。


 ジュスティナへの慰めとして考えを口にしたが、そこにはもう一つ、理由がある。

 検証と――思うのは、ハロルドの視点だ。解釈だ。

 そう見做そうと、彼自身が決めているのだ。

 そう考えるのは、


(……本当にヤツが言葉通りに悩んでいるとしたら、余りにも救われない話にしかならない)


 そんな加害者の死さえをも悼むような人間が、史上最大の殺人者として歴史に刻まれた。

 あの燃え落ちる海上都市で顔見知りである少女たちを殺し、十年来の婚約者とも殺し合った。

 それでも彼はただ、己の役割を捨てようとはせずに正気を保って世界と向き合っている。向き合い続けている。

 誰にも理解されず、理解を求めることもなく。

 ただ一人、その機能性という極光を目指し続ける――軍人として契約し、守ると決めた人々のために。それとも、守るために軍人に志願したのか。


 それこそ悪夢のようではないかと、ハロルドは思った。

 どうか機構であれと――そう願ってしまうほどには。


 或いはそれとも、だからこそ、その――極光を目指す加速度が周囲を引き込む質量に転じるのであろうか。


 ……また深く考えようとする自分を諌める。

 ジュスティナに向けた言葉は、実のところ、ハロルド自身に向けた警句だ。そう言い聞かせなければ、という恐怖感がある。

 あれは深遠であり、ある種の空洞の怪物だ。

 当人にその意図があろうとなかろうと、その人間性がどうであろうと、関係ないのだ。グッドフェローの人格ではなく、或いはそれが彼でなくとも、


 ――――。


 質量を持つ物が至れない速度へ、質量を持ったままに行きつこうとしているかの如く、その影響は波及する。

 本来ならば、至れる筈がない何か。

 本来ならば、そうは在れなかった何か。

 だがそれでも、そう在ろうと加速し続ける何か。

 蝋で固められた翅で翔べる筈がないというのに、それでも、その翅で翔び続ける者が居たらどうなるか――。


(……一体何故、お前はそうしている。いや……違う。?)


 ふと浮かんだ、疑問。

 しかし直後ハロルドは、眼帯の横の瞳を閉じて鼻で笑った。あまりにも荒唐無稽が過ぎる。

 本当は別にがいる中で、光速度に至れるだけの質量を持たない――或いは至れなくなる質量を持つと言うべきか――ものが、そうしようとしている果て。


 質量を持たぬものしか行きつけぬ速度へ、そうでなければ決定的な破綻や波及が生じる速度へ、そうでないものが代入されてしまったからこうなっているなどと――そんなおとぎ話のようなくだらぬ発想をしてしまった自分をハロルドは戒めた。


 何にせよ、結局のところ、グッドフェローとの付き合い方はシンプルなのだ。

 言っていないことは言っていない。

 言ったことは言った。

 言った以上の内容はあるかもしれないが、ないかもしれない。それは彼にしか判らない。

 そんな、ある意味ではごく当たり前の人間との付き合い方と変わりはない。それ以外を見出そうとするから、きっと、拗れてしまうのだろう。


(……そういう僕が拗れていないとは、言えないがな)


 あの燃える海上都市での騒乱を起こした民間軍事会社の少女を思い返して、その度にハロルドは思う。

 あの事件は、ハンス・グリム・グッドフェローの人格が引き起こしたとは呼べぬものだ。彼の対応ではなく、彼女の人生が偶然そう帰結しただけだ。たまたまその切欠が、グッドフェローとの交流であっただけだ。

 それでも、同時に、思ってしまうのだ。

 絶対に至ることができない極光を目指す加速度を持つ存在へ近付くと、己も何か、そうなってしまうのではないか――と。


(……もしもそうなったときに、その質量を振り切れるのは、本来のその加速度の持ち主だけなのだろう)


 きっと――あのに呑まれずにいられるものは、でしか有り得ないだろう。

 或いは、もし、そんな存在がいるとすれば。

 それはどうあれ、最後には、必ず対立する定めとなるに違いない。

 それしかがいないからこそ――……。


(……らしくないぞ、ハロルド・ブルーランプ。考えすぎないと、決めたのだろう)


 振り切るように首を振り、代わりにジュスティナに問いかけた。


「……それで、ここからどうする?」

「色々と回りくどく調べちゃあいますが、何にしても決定打がねえんですよ。アンタは本当に脳への損傷があるし、他も似たりよったり……健全な常人の脳に手を加えたって痕跡が残されてねえ」

「……ヘンリー・アイアンリングや、僕の弟ぐらいか。エディス・ゴールズヘアに関しては判らないが……。……収賄や利益供与の方では?」


 ジュスティナは首を振り、それから何かを思いついてか――不機嫌そうに、吐き捨てるように言った。


ツラァ合わせたくねぇですけど、お父サマの方から辿りゃあなんとか行きつけなくもねえかもですよ。……元々、一騎当千や英雄やらには懐疑的な男なんで、まあ、愚痴の一つぐらいは聞けるでしょう。どの程度の奴らが、このクソふざけた人体改造に賛成しやがったのかね」

「そこから虱潰し、とは行かないが……少なくともどの程度までが関わっているか判れば、共通項が増えて辿りやすくなる。それなら、僕の方で洗えるところもあるだろう。その辺りは調べてくれ」

「りょーかいです」


 せめてもう一人や二人、その手の伝手のあるものが居れば都合が良かったと内心で顔を顰める。

 保護高地都市ハイランドの貴族の出身ではあるが、彼の親はそちらの繋がりに無頓着ではあったし、ハロルド自身もそこに価値を見出そうとはしていなかった。

 こんなことになるのならば、多少の伝手を作っておけば良かったと思っても遅い。

 或いは逆に――そんな身分があるならば、そのような陰謀も行いやすいものであろうが……。


「しかし、先が長えというか膨大すぎるというか……奴さんの手がどこまで回ってるかはわからねえにしろ、軍じゃねえ法務局の方にでも頼らねえとどうにもならねえ気がしてきますよ。輪郭が掴めても、中枢に繋がるものがなさすぎる」


 ジュスティナのそんな弱音は、的を射ているだろう。

 コンラッド・アルジャーノン・マウスがどんなことをしていたのかまでの想定はできても、それを具体的にどうしたのかと――……何よりも、それをしてどうするつもりなのかが読めない。

 軍人をモルモットに扱い新たな技術を打ちたてんとし、そうして政府や軍上層部への繋がりを強めて、彼が一体何を企んでいるのか。

 まさか単なる権力欲とも思えず――……ふと、口を開く。


「おそらくは、だが。サー・ゴサニ製薬も関わっている」

「……そりゃまた、どうして」

「あのマウント・ゴッケールリという――去年ほど、話題になった空中浮游都市ステーションを知っているか?」

「ああ……【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】が大規模なテロを仕掛けてきて、そのせいで大勢死んだっていう……」

「そうだ。グッドフェローと、シンデレラ・グレイマンと、ヘンリー・アイアンリングが関わっていた戦いだ」


 言うとジュスティナが露骨に顔を顰めた。

 嫌いすぎていて強く意識しているようにも見えてしまう彼女の態度には目を瞑り、続けた。


「その、マウント・ゴッケールリだ。僕の改造が行われたのは。……意識も殆どなかったが、偶然、微かに覚えていた建物らしきものをその時のニュースで見た」

「そりゃあ……でもそうなると焼けちまってる、ってことじゃあねえですか」

「偶然か、それとも……そこまで超然的に手を回せる男だと思いたくはないがな」

「……ブッダに挑むマジックモンキーは勘弁ですよ。死んだ旦那に申し訳が立たねえ」


 幾ら情報部にも根差しているとしても、そこまで万事が彼の手のひらの上とは――ハロルドも考えたくなかった。

 それは、つまり。

 この捜査の行き着く果てに待ち受けるのは、彼の不正を暴こうとした憲兵が辿り着くのは、ただ死しかないと――そう思わせるには十分すぎるものなのだから。


(……僕らに可能だとしたら、あの男がそこまで台頭する以前のこと――そしてあの男の介入を離れた段階のこと。つまり、平時と有事の切り替わりの時点。そしてあの男が、駆動者リンカーとして不能であった時点のことだろうな)


 そこまで考えて、ふと、思い当たる。

 一つ。

 たった一つ、コンラッド・アルジャーノン・マウスの触手を逃れていることが確定的に明らかなものがあった。

 間違いなく彼という男の重要度が、軍にとっても低下しているときのことが。


「……休暇は取れるか?」

「は?」

「僕らのこの技術の大元は、つまりは脊椎接続アーセナルリンク自体は、言うまでもなくブランシェット博士によるものだ。……グレイコート博士という男とも共同であったらしいが、主体はメイジー・ブランシェットの父親の方だ。廃棄された彼のラボに、何かデータが残っているかもしれない」


 完全なる前線であり、そして既に滅んでしまっていることについては――如何に仮にラッド・マウスが超越的な根を持とうとも、手の加えようがないものに違いない。

 壊れるというのは、滅ぶというのは、ある意味でそれ以上の先を加えることができないものであるのだ。

 そこで、人格の信号化に関わった者たちの情報が得られるなら――――。

 いや、そもそもこれが何を目指してどんな理念で作られたのかが判れば、また探れるものも増える。

 だが、


「とっくに軍か、それとも衛星軌道都市サテライトがそれを回収してるんじゃねえですかい?」

「捨て置かれた可能性も高い。あの街の襲撃時に――……ガンジリウムを利用した広域攻撃が行われた関係で、立入禁止区域に指定されている。プラズマ弾頭が七発、暴れ回るグッドフェローと……ついでにメイジー・ブランシェットを仕留めるために使用されたそうだ」


 何故、メイジー・ブランシェットがハンス・グリム・グッドフェローを己の船に収容することなく別れたか。

 その理由だ。

 朦朧と意識を喪失しつつあった彼は、それでも譫言のように彼女へと退避とその生存を呼びかけたそうだ。

 そして多くの船は降り注ぐミサイルへの無秩序的な撤退を余儀なくされ、メイジー・ブランシェットはハンス・グリム・グッドフェローと戦場を共にすることなく去った。


「……なんで生きてるんです? 特にあの男。半壊だったって聞いてますが」

「僕に聞くな。知らん」


 そういう生き物だと思うしかない。

 奇妙な沈黙が満ち、それから、咳払いと共にジュスティナが切り出した。


「んじゃ、アナトリアへ?」


 それは、問われるまでもない質問であったろう。


「行くしかないだろう。……オマエはどうする?」


 そしてジュスティナもまた、その答えは決まっていた。


「チッ、新しくできたボーイフレンドと旅行とでも言ってやりますよ。休暇は溜まってるんでね」

「そうか。……くれぐれも言っておくが、護衛である以上はやむを得ずホテルを同室にするしかないが、おかしな真似をするなよ?」

「……それ、男のアンタが言います?」

「ゴリラのような握力の女でなければ、な。……僕がこれまで女に襲われた回数も付け加えてやろうか?」

「………………憲兵としちゃあ聞いとかなきゃなんですかねえ、それ」


 奇妙な相棒関係のように言葉を交わしながら、彼らは再び雑踏へと進みだす。

 その先に待ち受けているだろう結末から、或いはその背に追いつこうとしている触手から、逃れるように。



 ◇ ◆ ◇



 面会のために廊下を進みながら、金髪の雄獅子めいた男が口を開く。


「……ボス。ここまでは予定通りかい?」


 そう――見詰める先の癖毛の美丈夫。

 常に不敵な笑みを絶やさないコンラッド・アルジャーノン・マウスは、実に鷹揚に口を開いた。


「ふ、ふ。予定通りと言えば予定通りであるし、予定通りでないと言えば予定通りではない。……そも予定などというものを掲げる方が過ちだ」


 青い目を細めながら、白スーツの男は告げる。


「不確定を交えるべきではない。そこについて他者にそう望むのが無意味であると――君も理解しているだろう?」

「……」

「確定したもの以外は、論ずることも慮することも無意味だ。憂う必要も、厭う必要もない。……確かなのは答えだけだ。以外には意味がない」


 それが彼の行動理念なのだろうか。

 手にできる筈だった全てを失い、或いは手にしたかったものだけは手に入れられなかった男は、涼やかに笑う。

 あたかも、今更何かに期待することが無意味だとでも言いたげに。


「確定、ね。……俺としちゃ、賭けてるつもりなんだぜ。アンタに」

「ふ、ふ――……無論そこは君の自由だとも。私が君個人の信条や理念に踏み込んだことがあるかな?」

「……」


 良くも言う、と思った。

 失意のエディスをスカウトしたのは、コンラッドだ。信条に踏み込みはしなかったが、心情に触れて誘導はしていたのだから。

 しかしそれが判ってなおも乗ったのはエディスであったので、結局のところ、言及はしなかった。


「言いたいのは一つだ。より良い盤面を整えるにはどうするかというだけであり、他者によって揺るがされるものは根底の方に置くべきではない。……そんな基本を見誤ったものから死ぬのだよ。


 他者を揺るがすだけ揺るがす男がそう述べるのは、何とも皮肉か。

 或いは彼は、嘲っているのかもしれない。

 そんな世界を。それでもそんな世界の中で生きるしかない己というものを。

 コツコツと、基地の廊下を靴音が続く。

 ブリンディッジ・シティの騒乱に【狩人連盟ハンターリメインズ】は出撃できていない。メイジー・ブランシェットらとの戦闘により、稼働可能な機体が損傷したということになっている。


 エディスとコンラッドは、【音楽隊ブレーメン】というアーク・フォートレスの出撃と発生した被害についての調査を受けていた。

 戦時中ならば到底それで前線の兵を引かせるなどは馬鹿げたことだが、未だに上層部はこれを戦役とは認識していないのか、まだ平時の対応を引きずっているようなところがある。

 そのまま、ふと、エディスは口を開く。


「それじゃあ、グッドフェローの奴は――どうなるんだい?」


 エディスのその言葉に、まさしくそれを言われたかったとでも言いたげにコンラッドは頬を歪めた。

 そして、


「奇跡的に法秩序と方向が同じなだけで、彼の本質は徹底的な自己完結と断絶だ。何もかも己の意志一つで動き続けるだけ――――いいや、その意志は動き続ける理由となっても振り下ろされる軌跡とはならない。軌跡を生むのはただの法理だ。揺るがぬ剣とは、断頭の刃とは、そんなものなのだから」


 そう頬を吊り上げるコンラッドを前に、エディスはまた口を噤む。彼からは、ハンス・グリム・グッドフェローは特別には見えなかった。

 いや――人は誰しもが特別で特異だ。平均値はあっても、絶対的な平均そのものはない。

 しかしその点で、やはり彼からは、ハンス・グリム・グッドフェローはどこにでもではないにせよ居るだろう軍人の一人としか称せなかった。


 珍しいものではあるが唯一無二ではない。

 苛酷な訓練や困難な任務を遂げる仕事においては、その職務意識の高さも無理はないのだ。仕事上の理不尽に耐えるために、どこかで意識の高さは必要となる。

 どこにでもいて、遵法意識に恵まれた、そして割り切りも早い兵士――――ただ、それを口には出さなかった。


「……さて、では、間引いていこうか。君の願い通りに――我々こそが勝利者となるために」


 エディスの共犯者たる男は、実に愉快そうに――何よりも不快そうに。

 ただ、笑みを浮かべた。

 それを見ながら、エディス・ゴールズヘアは思う。

 真に特異であるのはきっと、グッドフェロー大尉ではなく――――……


「己の中の物語で世界を切り取る愚か者たちには、退場願おうではないか。――何も見れない無知蒙昧は、ただ、にしか過ぎないのだと」


 全てを操る指揮者の如く、蜘蛛糸の中心に座すこの男の方だ。

 副官たるエディスでさえ、彼がどこまで関わっていて――どこには関わっていないのか。それは、判別不能だった。全てが彼の手のひらの上とも言えるし、逆に、起こった出来事へと臨機応変に対応している風にも見える。

 そしてこれから彼が出会う相手も、きっとそんな内の、


「君も、そう思ったのだろう? マーシェリーナ・ジュヌヴィエーヴ・パースリーワース・ド・ランピオネールよ」


 面会を申し付けてきた美貌の少女――――パースリーワース公爵の血を引く少女へと、恭しくコンラッドは膝を折った。

 パースリーワース公爵。

 保護高地都市ハイランドの不敗神話の立役者。国家を、議会を、市民を奮い立たせた銃後の英雄。陰謀の中での戦没者。

 その忘れ形見のような長き薄月色の髪を持つ少女へと、コンラッドは笑いかける。


「久しぶり、と言うべきかな。また会えて実に光栄だとも。……約束の成人を迎えたようだが、覚悟が固まったと見ていいのかね?」


 マーシェリーナは、答えない。

 しかし、これで少なくとも――――エディスたちは、この上ないほどの旗印を手にしたことになるだろう。

 語り継がれる、あの、不敗の神話の象徴という……マーガレット・ワイズマンと、セージ・トビアス・パースリーワースという二つの旗を。



 ◇ ◆ ◇



 ぼんやりと雑踏を進みながら、考える。

 ジュスティナとハロルドから送られてきたこれまでの情報の擦り合わせは、ラッド・マウス大佐の暗躍を確定させるものでもなければ、同時にそれを払拭するに足るものでもなかった。

 しかしそれでも少なくとも、彼には、『何らかの目的で脳損傷者以外にも施術を施した』という純然たる事実だけは厳然と確定して残っている。


 何故ラッド・マウス大佐が執拗にメイジーの葬儀で話しかけてきたのか。

 それはある種の殺人犯や放火犯が現場に戻って確認するように、勲章を得ようとしている行為だったのだろうか。

 彼女の死と、それが齎した被害を。


(――――)


 ほくそ笑む顔を想像すれば、叫びながら腰のリボルバーを抜き放ってやりたくなり、しかし、その行為に一体何の価値があるだろうか――と己を諌める。

 銃でも抜いてまで暴れたくなる己の怒りと、今ここで銃を抜いていいことには何ら関係がない。

 今己の周囲のいる人たちと、己の苛立ちは、何ら関係ない。


(……第一、ラッド・マウス大佐がそうだとは確定してはいない)


 ならば、あまり致命的なまでに疑うべきではない。

 もし彼が善意で行動を起こしていたとするならば、そう見做すことは、悲劇だ。

 疑わしきは被告人の有利にするというのは司法の基準ではあり、そして概ね人間関係にも当て嵌めていい。それとは別に、疑念そのものは残すにしろ。


 そして何よりもメイジー・ブランシェットを殺そうとしたという点について言及するならば、そんな人間の最上位に位置するのは――間違いなく自分という男だろう。


 それが一体どの口で彼女の死を嘆き、怒りを口にするというのだ?

 己で一度殺そうとしていたというのに?

 何故そのときに己自身へと怒りを向けずに、今度は都合がよく他人に怒りを向ける?


(それでは筋が通らないだろう)


 そう考えれば、怒りというものも、霧消する。


(そうだな。だから、これには意味がない)


 己を切り替える。

 メイジー・ブランシェットという少女とその死へと持っていた感傷をすべて切り離し、消す。

 吐息を一つ。

 そうだ。死者はあらゆる理由にならない。つまり、死者は生者を傷付ける理由にもならない。その法理の通りだ。そこに例外はないし、例外を設けてはならない。

 ただ――――もし彼の犯行が確定し、そして武装し反抗し、投降勧告に応じないと言うならば、


「……その瞬間は、きっと俺が貴官の命を奪うだろう」


 そう、認める。

 同時に、安堵する。

 彼を殺すにせよ、どうするにせよ、そこに己の私情は交えていない。私情を以って振りかざすような真似は行っていない。一個人として彼が享受できる権利を、不当に侵害していない。


 それでいい。


 そうでなくてはならない。


 でなければ、辿り着く先に待つのは焼け落ちる世界そのものでしかないのだから。


 そう――――を触るように後頭部に触れながら、思った。

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