第132話 聖なるかな、或いはエディス・ゴールズヘアと狩人連盟


 手術台に横になったその日を、エディス・ゴールズヘアは強く記憶している。

 というより、その言葉――だろうか。


「キミは、脳震盪が何故起こるか知っているか?」


 白衣に身を包んだ茶髪の癖毛の男にそう問われたのが、思えば、エディス・ゴールズヘアにとっての全ての始まりだったのだ。



 ◇ ◆ ◇



 執務室の中、ホログラムヴィジョンを前に金獅子のような男は皺の寄った眉間を揉みほぐす。

 あまりにも膨大なレポート。

 いや、決して、異常な量という訳ではないが……


「……普通こういうのって、部隊長の仕事じゃねえのかね」


 戦闘経緯の報告書。

 今回これだけの規模の戦闘が発生して、経緯はこうで、どう装備を利用して、どう損害が発生したというもののまとめ。

 装備や部品の定数がどうとか、こうとか。取り寄せを行った資材が適切に利用されてるかとかなんとか。

 普通戦時においてはもっと簡易なのだが、表向きは平時であるのでこの辺が特にしつこい。


 更には、規定の訓練計画の実施状況。

 完全に戦時なら訓練もクソもないが、やはり今は表向きは平時であるために計画はそのまま。――バカらしい。

 訓練を踏まえた練成結果について。同上。

 それについての上からの投げ返しに対する弁明。くたばれと書いてやりたくなる。


 功労賞の推薦がされたので、選出と人事記録と所見を。――うるせえ。金と装備だけ回せ。


 更に、今回の一連の戦闘についての部下の精神衛生を含んだ調査報告状況。被害状況。

 聞き取り自体は別の特技職の者と共同して行っているが、最終的な確認と承認は部隊長が実施する。

 当然戦いに出る駆動者リンカーだけではなく整備班や補給班などなども含めてのもの――正直膨大。


 上級部隊への奏上文。

 更には、メイジー・ブランシェットという保護高地都市ハイランドのビッグネームと戦ったことによるしがらみを含んだアレコレ。

 装備や兵器が半ば実験的なものであることを含めた報告のあれそれ。

 エディスとコンラッドも参加したアーク・フォートレス及び【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】やシンデレラ・グレイマンとの戦闘報告。


 国はさっさと戦闘状態の宣言をしろ――とエディスとて思ってしまう。それだけで仕事が半分になるのだ。


「ったく、何が『共犯者たる君ならば理解しているだろう?』だ……あの暗黒イケメン」


 ここにいない自らの部隊長へと毒づく。

 彼の副官ではなく、実質的な部隊長がエディスだった。組織的にもコンラッドはエディスの更に上に置かれ、エディスが挙げた報告の最終的な承認という位置付けをちゃっかり確保している。

 彼が純粋な【フィッチャーの鳥】の生え抜きではない、ということも関係しているのだろう。つまり【フィッチャーの鳥】からしたら得体のしれないコンラッドではなく、自己の所属だったエディスがあくまでも現場で部隊の直接的な指揮権を有しているという形にしようとした。


 そしてコンラッドは嬉々としてそれに乗っかり、結果、エディスが副官という名の下で部隊長業務を担わされている。


 だから部隊長なんてする気はなく、現場に出ていられる階級止まりにしていたというのに――と顔を顰める。

 子供の頃から机に向かうのは得意ではない。

 AIの補助があるとはいえ、戦うこと以外をこうもやらされると非常にうんざりとしてくる。


 現場にも出る。

 書類仕事もやる。


 給料を上げろと言いたくなった。

 何も慈善活動で軍人をしているのではない。仕事だ。職業選択の自由の下に軍人を選び、職責を担い、賃金を得ている。市場原理に従え――と声を大にして叫びたくなる。

 別に金を貰って何に使う訳でもないが、金というのは対価であり評価だ。それを為されないなら、当然だが忠誠心なんてものは失せていく。軍人は絵本のヒーローではないのだ。


(戦争がよかったなんていう気はねえが、こうも雑務が多いとうんざりするぜ……)


 その辺の現場の負担の多さをどうにかしろ、と上に怒鳴り込んでやりたくなる。

 近頃、めっきり老け込んだ気がしてくる。

 寝起きの枕から父親から感じた匂いがしてくる気がしたとき、呆然とした。悲しくなった。


 それから香水をつけるようになったらなんだか部下からイジられた。色気づいたのかとか、ついに会おうと決めたのかとか。


 加齢臭も無縁そうな彼ら彼女らを前に、多分言っても理解されないだろうと諦めた。

 あと、若干、昔に比べて肉体の張りが衰えてきたような気がしてどうにも気にしてしまう。

 アルテミスと復縁したとしても、若い彼女にその辺を嫌がられないかとか――……いや別に復縁してやる気でもないけど。いやでも。それはともかく。一応。


 四十代に入ってないのでおじさんのつもりはなかったが、若い部下からは三十は確実におじさん――二十代でも十分おじさん――と聞いて泣きたくなった。


 それを素知らぬ顔で眺めていたコンラッド・アルジャーノン・マウスに対しても色々と言いたくなった。


 お前、更に年上だろ。

 しれっとおじさん枠を脱してるんじゃねえ。

 なんでまだ二十代半ばみたいな顔してやがる。

 俺よりおじさんだろお前。

 あいつらにしれっと混じって俺を最年長みたいに扱うんじゃねえ。


 お前なんてあと五年もしたら四十代だろ。

 もっとおじさんになることに危機感を感じろ。

 あとオッサン連中は三十代を若い奴扱いするな。

 ガキ共との認識の食い違いがエグいことになるんだよ。


 元妻とのプライベートを話題にするな。

 おじさんのやることなら何でも笑っていいと思うな。

 おじさんが怒らないと思うな。加齢で前頭葉が衰えておじさんほど怒りやすいんだぞ。クソッ。芸能人の別居ニュースみたいに上官の家庭事情で遊ぶな。ああいやアルテミスは確かに芸能人の一種だが――……クソッ。いいのは外ヅラだけじゃないかあの女。性格は壊滅的に悪い。


「ったく、ガキどもが。……お前らもいつかそう呼ばれるんだからな」


 或いは彼らが、それだけ、生き延びられるのか。

 かつての未帰還兵が、年若い訓練生たちが脳裏をよぎって口を噤む。

 本当なら、エディス・ゴールズヘアが先鋒を務めるべきだった。槍の穂先と、なるべきであったのだ。



 ◇ ◆ ◇



 手術室は薄暗さとは無縁で、銀幕のスターに向けられるスポットライトじみて全方位から強い光が押し寄せる。

 影を消そうという努力なのか。

 秘密結社の人体改造と呼ぶには余りにも明瞭なる部屋であり、やはり、これが正式な軍の要求による合法的な手術なのだと思わせた。


『キミは、脳震盪が何故起こるか知っているか?』


 問いかけて来たのは、裸で横たわるエディスを見下ろす手術衣に身を包んだ主治医の一人だ。

 主治医、と評するのは果たして正しいのだろうか。

 脳神経科学者で、医師で、機械工学者――圧縮教育めいた遠隔講義を全て受講し、そして各分野で博士号を獲得した怪物じみた頭脳の持ち主。

 ジュリアス・ブランシェット――後のレッドフードの父親である、そんな男だ。


『人間の意識を形成する生体電流は、ナトリウムチャネルを利用している。つまり純粋に電子そのものが金属の導線の中を移動している訳ではなく、膜電位の変化によってイオン化したナトリウムの流入量が変化し、連動してチャネルのゲート操作が行われる仕組みだ。理解は?』

『あー……』

『脳というその回路においては導線を伝う電子以外の物質がある、ということだ。物理的に』


 史上初となる手術の術前に何を聞かされているのだろうと、エディスは思った。ただでさえ悩ましさで満点の頭がこんがらがってくる。


『衝撃によって器質中にてこのイオン化物質が掻き混ぜられるから脳震盪は発生するのでは、と言われている。電荷を持つ物質が回路の中でバラバラに動き回ることになってしまう……その結果、無秩序な電流が回路に発生する。だから機械的な電子回路よりも、脳は衝撃に弱い』


 医療マスクの上の眼鏡越しに目を合わせた男の瞳は、どこか機械めいた冷静さでエディスを見下ろしている。


『それで、あー……結局、何の話だったんだ?』

『人間の脳は、厳密な回路ではないという話だ。一つの回路をとってもそれが厳密に閉ざされた回路とは言い切れず――どの物質が相互にどう影響して効果を齎しているのかが不明なんだ』

『……』

『つまり、ワタシたちが脳を解析して似た形の集積回路を作りあげたところで、それが正しく人間の脳として機能するかが判らない。あくまでもそれは、機械で作られた機械の脳にしか過ぎない』

『魂が宿らないってことか?』

『魂などという不明瞭な言葉ではなく、意識と言うべきだろうさ。機械が作る意識は、機械の意識でしかない』


 科学のような、哲学のような、そんな話なのか。


『つまり、人間の意識を機械上に転写するためには、高度な汎用の脳モデルが必要なんだ。脳の活動を観測し学習させたシミュレーション上の脳モデルを用意して初めて、完全な意識の電子化が叶う。我々が見落としてしまう「無駄」とも言うべきものも含めて、全てを掬い上げなければ厳密な意味での【意識のデータ化】は不可能だ』

『……』

『できるとしてもそれは、極めて非人間的な……ある種の装置や機構的な人格に対してにしか、ならないだろう』


 つまりは、人間が肉の肉体を超越するのは遥か先の話と言いたいのか。

 機械的な人格だけが、肉体の先に行ける。

 そんなもの、人ではなくただの装置だと思えた。


『我々は万能ではない。今の我々が観測して再現したことは、今の我々の域を出ない。例えば以前は、麻酔が効くということは判明していても――が未発見のまま百年以上使われていたように』


 結局何が言いたいのだ、というエディスの目線に気付いたのか気付いていないのか――偏屈そうな眼鏡と癖毛の男は、最後にやや穏やかな声で締めくくる。


『安心してくれ、という話だ。脊椎接続アーセナルリンクは発展中の技術で、これにキミの意識をデータ化する力はない。あくまでも脳が運動器に対してどのように指令を下しているのかを観測し、模倣し、電気的に再現し――信号を増幅するための装置だ。いわば単なる【翻訳機ホワイトスネイク】だ』

『……』

『これは未だに、人類の電脳化には至らない。……あくまでもツールの一つだ。映画のような非人道的な改造を施す処置ではない』


 要するに、彼なりに、被験体に気を使っていたということなのだろうか。

 余りにも配慮が解りにくすぎる。

 それを笑い飛ばすように、恐怖を見抜かれたのを誤魔化すように、エディスは小さく頬を釣り上げた。


『……いずれは至りたい、と聞こえるな。それが最終目的かい?』

『いや、違う。それでもまだ、途上だ。データ化――つまり電磁的な再現が何を意味するか分かるか?』


 黙するエディスへと、ブランシェット博士は端的に告げる。


『電磁的に完全な再現ができるということは――、ということだ』

『……』

『星の彼方には、光の速さでも遅いんだ。……宇宙そらの彼方を、目指すには』


 その言葉は、科学の極北の理想を目指す熱意や決意の言葉というより――……どこか、遠く失われてしまった悔いを感じさせる響きだった。

 麻酔吸引用のマスクをつけたエディスへと、ブランシェット博士が目を落とす。

 急に、酷く老け込んだようにも見える。


『……エディス・ゴールズヘア空軍大尉。ワタシたちは止められなかった。この争いを……ワタシたちは間に合わなかった……すまない……』


 深く絞り出すような博士の言葉に――エディスは、不敵に笑う。


『は、科学者先生。いいか? 誰か一人が戦争の原因ってこともなければ――誰か一人が止められるものでもない。戦争は、断じて、誰か一人の責任ってものでもねえさ。戦争ってのはそういう、得体のしれない社会的な透明の怪物だ』

『……』

『あんたが気に病むことじゃない。……戦争は、軍人の仕事さ。あんたは戦後に、もっと生活を楽にする道具を作ればいいだけだ』


 それで、十分なのだろう。

 エディス自身、そう言葉にすることで腹が据わった。

 そう、役割だ。そして、職責だ。それだけの話でしかないのだ、こんなものは。


『すまない、空軍大尉』

『任せとけ。俺は俺で、軍人としての仕事をするさ』


 そして手術が成功し――……。

 意識の覚醒と体調の回復。精神状態の確認。

 それらを済ませ、延長した脊椎を機械へと接続する――そんな実験の内だった。

 強制的な遮断と共に引き上げられた意識の中で、脂汗を垂らしたエディス・ゴールズヘアは周囲の科学者に息も絶え絶えながらも問いかけた。


『……


 最終的な報告書には、こうある。

 エディス・ゴールズヘア大尉は、極めて稀有なまでの接続係数を持つが故に過剰に機械と接続してしまい、その影響として様々な肉体面・精神面での悪影響が観測される。

 彼を戦場に送るならば、接続係数を意図的に制限し、通常は手動にて操作を行う他ない。


 ――――一八〇秒。


 それが彼の、駆動者リンカーとしての限度である。



 エディス・ゴールズヘアは、不能の烙印を押された。

 より正確に言うならば、高すぎる接続係数への適応が叶わなかった。

 その後、彼は教官として配属され――やがてとある任務中の被撃墜は、接続状態の切り替えの際に発生したと報告されている。


 始まりの接続者。


 そして、後続をただ見守るしかなかった傍観者。


 彼は己を、そう評している。



 ◇ ◆ ◇



 偶然、訓練に向かう部下たちを廊下で呼び止めて話していたときのことだ。

 ぴろん、という着信音。

 長らく誰からも連絡の入らない端末が鳴った。

 どうせ迷惑なメッセージか、クソみたいなプロモーションか、くだらない広告か、会員登録ついでに完全に忘れていたメールマガジンか何かだと思って――固まる。


「っ、アルテミス……!?」


 エディスの呟きに、【狩人連盟ハンターリメインズ】の部下たちがざわついた。


「えっ、嘘……まだあっちに未練があったの……?」

「止せ、トゥルーデ。ゴールズヘア教官殿に余計な期待を持たせるべきではない」

「よかったですね、連絡が来て」

「……わたし、ご飯食べたっけ。誰か知らない? ……そうね。誰も知らないか。そう。忘れてたかな。どうだろ」


 ゲルトルード・ブラック、サム・トールマン、フレデリック・ハロルド・ブルーランプ、エコー・シュミット。

 一人で訓練室に籠もりきりのヘンリー・アイアンリングと、謹慎中のハロルド・フレデリック・ブルーランプと、訳合って別部隊に出向中のライラック・ラモーナ・ラビットを除いた四人。

 全体的にエディスに張り合う程度に身長が高い――エコーだけは違う――が、肩越しに端末を覗き込んできた。


「うるせえ、散れ! 散れ小僧ども!」


 せっかくの連絡なのだと彼らを遠ざけ、壁を背にしてメッセージを開く。

 そして、眺めること数十秒――……


「……あっの、クソアマ……!」


 実はずっと私のファンだったんだって。かわいいと思わない?――という文章。


 そして、あからさまなツーショット。

 写真のファイル名からは約一ヶ月前ほどの撮影。

 その豊満な胸部を押し当てて腕に抱きつきながらも、如何にも女神の祝福と言いたげに頬へと口付けをしようとするアルテミスの姿。

 その隣の黒髪の青年は、何とも言えない表情で顔を逸らそうとしていて――


「この人、男の趣味悪くない……?」


 と、画像に映り込んだもう一人を眺めたゲルトルード。


「そう、とは言えないかもしれない。トゥルーデ」


 何か言いたげに、含みのある言葉を漏らしたサム。


「……わざわざ送るものなのかな、コレ?」


 メッセージの意図が掴めず、首を捻るフレデリック。


「消したいなら、依頼は受けるけど。……いや、今は駄目か。そうね。軍人か。……そう。面倒ね」


 ぼんやりとした口調で銀色ツインテールを揺らしたエコー。


 そんな好き勝手な部下共はさておき、メッセージを見て目眩がした。

 如何にかつての訓練生だった男が素直で可愛いかという話であり、そんなふうに得意気に振る舞えるというのが貴重であるかという話であり、元プロレーサーに相応しい敬意を払っていて心得ているかという話であり、そんな可愛らしい相手となら結婚生活も上手く行きそうだけど一般論としてどう思う?――という問いかけである。

 クソ恋愛脳。

 脳みそふわふわ発情期。

 貞淑さの欠片もない綿菓子メンタルタピオカ仕立て。


 いや、それより何より――――


(いや、お前、それ、お前……お前より四つは年上だぞ)


 年下扱いをしているが、彼の方が年上なのだ。

 その事実に気付かれた瞬間、かなり不味いことに――何が不味いんだろうか――いや何にせよとにかくかなり不味いことになる。

 つまりは、罷り間違えば、冗談ではなく彼がアルテミスの再婚相手である。


 再婚相手。

 知人が。元部下が。元訓練生が。

 ……ありえねえだろ。いや、ありえねえだろ。


 いやでも知っている。

 あれはブラコンだ。仮想的なブラコンだ。

 ブラコンというか、ファザコンというか、こう、あれなのだ。少女趣味なのだ。あの女は。妹分というか、庇護者というか、お姫様扱いされたがってる。年上趣味。

 かなりそう。だいぶそう。部分的にそう。本当にそう。


 若くして両親に先立たれ、大人社会へと飛び込んだという経験からか――要するにそういう環境で若い娘として当然のようにチヤホヤされたからか、それともその時チヤホヤして貰えなかったからか、とにかく彼女はパートナーに庇護を求める。

 口ではなんと言おうとも私生活ではリードされることを望み、アレコレ文句を言いながら、つまり逆説的には文句を言っても「そういう君も仕方ないねカワイイね僕にだけはワガママ言ってくれてもいいんだよ僕のプリンセス大好きだよ」――なんて許して貰えることを望んでいる。

 なおそこを読み間違えた結果、やりあった結果がこのザマである。


 もし、もしもだ。

 もしもグッドフェローが――彼女のそんなところに綺麗に居座ったら?


(不味い……アイツは兄タイプだ。妹がいた……つまり潜在的な年上タイプだ。グイグイとリードはしない奴だろうが、多分アレは余裕有りげに構えてお姫様扱いも手慣れた奴だろきっと。何なんだあの野郎ふざけんな……なんでお前その死んだ目で平然と王子様ムーブできるんだよクソどうなってやがる……不味……いや俺には関係ないけどな? いやでも気まずいよな? 元訓練生だぞ。元部下だぞ。気まずいだろ。なんだそれ。言われるのか俺は。訓練生に妻を取られたって。クソッタレ、なんなんだそれは)


 別に未練なんてないし束縛なんてしないしどう過ごしてくれようと好きにしろというか勝手にしろというかご自由にだし、あんな家事壊滅バカ味覚料理下手ワガママ上等スイーツお姫様で毎晩毎夜あんしん家族計画女なんて知ったことではないが――……


(いや待て。なんだ……クソッ、内面がアレでも見た目とスタイルだけはいいから……いや性格も見方によっちゃ可愛げがあるとも見えるし家事があんなにクソでも努力家でもある……しかもファンだったって言うならグッドフェロー側も望むところだろうし、俺よりもレースだその辺だの話は合うだろうし――……しきりに話しかけまくってくるあの外見裏腹脳みそふわふわ恋愛スイーツ女の会話にも対応できるってことだよな? 機嫌が悪くてクソ無口になってるときも動じずにいられるってことか? 喧嘩終わったあとに優しく抱きしめるのかあの野郎……年下女に余裕と頼りがい見せてるんじゃねえよ少女性虐殺者! 加減しろバカ! この精神的寝取り年下ハーレムクソ騎士野郎!)


 そういう目で写真を見ると、そう思えてくる。

 アルテミスのあのスタイルに抱きつかれても鼻の下を伸ばさずに余裕ある表情を見せてる――気がする。きっと。多分。ぼんやりと胡乱に虚空を眺めてるが。多分これは余裕の表れであろう。おそらく。

 そしてそんなところをアルテミスも紳士的態度とか年上らしさとか頼りがいとかに見ていそうな気がするし、もしくは躍起になって振り向かせようとからかって愉しんでいるふうにも見える――こんなふうに私のことを扱ってくれるなんて嬉しい的に。でも試しちゃおうみたいに。ドキドキさせちゃお的に。そういうところが好き♡的に。多分。きっと。知らんが。


 それとも不満か。不満なのかグッドフェロー。


 アルテミスに抱きつかれて。

 不満なのかお前は。何なんだ。それの何が不満なんだ。

 いや不満じゃなかったらそれはそれで困るが。

 いやどうでもいいが。知ったことではないが。


(いや勝手にしろって感じだけどな……勝手にしろって感じだけどな、あくまでも勝手にしろだけどな。……でも普通、よりにもよってそこに行くか? 行くのか? マジにそこに? 訓練生に? グッドフェローもお前、人妻相手にそこまで許すな――――いや人妻じゃあねえか。人妻じゃあねえけど、元教官の元嫁だぞ? もう少しこう、それとなく断ったりできんじゃないのか? いやアイツは押しに弱そうだしアルテミスの奴はそういうときに得意気に振る舞うだろうが――――でもお前なら多分なんとかできるだろグッドフェロー? 教官は悲しいぞ? 教官は悲しいが? 意思力ありとか評価したんだけどな? なあ?)


 それともそこで何とかされたら、アルテミスから『きっぱりと断れて素敵! 私のことを大事にしてくれてる! 紳士! 年上! 男らしい! 頼りがい! 格好いい!』とか気に入られてしまうんだろうか。

 どっちがいいかはわからん。

 いやどっちでもいいが。知ったことではないが。知らんが。


(というか何なんだお前。デート中にちょっと他の女と挨拶しただけで不機嫌になり腐ってブンむくれて仲直りのハグとか人混みでもせがんでくるのに自分はこういうことするか? するのか? こんなの送るか普通? いや前にデートしたときにファンに話しかけられたときは断っちゃいたが――……なんだ? 意識が変わったか? それともグッドフェローは特別か? なんだそれ? いつから?)


 いやだが、思えば訓練生時代からグッドフェローのことを気にしていた――……気にしていた。そう。気にしていた。かなり気にかけていた。

 まさか、根はそこからか。

 ひょっとしてグッドフェローの方もその時から? そういう? そういうの? それが数年ぶりに出逢って「やっぱりハンスくんと結婚しておけばよかったなー」「今からでも遅くない、ハンツマン教官。……いや、アルテミス」「えっ……(トゥンク」みたいなことが?


 いやわかる。わかる。判っている。


 落ち着いている。ちゃんと判っている。

 判っている。グッドフェローは普段あんな感じだが、恋をすると結構グイグイと行くタイプだ。多分。ストレートにド直球をぶつけて迫るタイプだ。きっと。片想いとは無縁な奴だ。そういう奥ゆかしさはまずない。きっとない。速攻強襲する男だ。おそらく。クソッタレ。


 抱きつかれてもそうも無表情なの、いや俺はモテますけど何か?――……みたいな顔の気もする。多分。自慢じゃないが俺もモテるが? モテモテだが?

 それとも、こう、俺は心を乱さずに彼女とも上手くやっていけますが的な?

 下心とかなく彼女を愛してます的な? 嘘つけよあのスタイル見て、んなわけあるか。クソ。知らんが。なんだそれ。


(お前もな、今はそんなのかもしれないけどソイツと結婚したら二言目には『嫌い!』とか言われるからな? かなり言われるからな? 酒飲んでゲロ吐いて家帰ったからキスできないだけなのに『酷い! エディスの意地悪! おかえりのキスしてくれないなんて嫌い!』とか言われたからな? 言われるからな? そうなるからな?)


 いや――……だが。

 もし、そうならなかったら?

 つまり、そうなっても『ハンスくん好き好き! そういうところも好き! エディスとは違う!』とかなったら?


 ……判らないが。いや知らんが。

 なんだそれ。なんだそれは。差別か。ふざけんな。

 というかなんだこのメールは。久々に送ってきたと思ったらなんだこれは。何の目的だ。嫌がらせか。

 というか一ヶ月近く前とは? 今はどうなってるの?


(俺に嫉妬でもさせるってか? 生憎だがその手には乗らねえんだよな。そんなにウジウジと元妻への未練引きずるような男はお前の好みじゃねえって知ってるんだよ。……いやどうでもいいけどな? お前は関係ないけどな? ないけどな? いや何なんだこのメール。何がしたいんだ? どう返して欲しいんだ? 何狙いだ? どうする?)


 そうして画面を見つめ続けて黙っていたせいか。

 周囲には神妙で沈痛な空気が流れ始め、辺りを見回したサム・トールマンが代表するように口を開いた。

 ぽん、と肩に置かれた手。


「……その、教官。軍隊においては……いわゆる、寝取られるというのは聞かない話ではない。貴方に何か人格に問題があったとかではなく……その、あまり気に病みすぎることもない。ゴールズヘア教官殿」

「……寝取られってなんです、サムさん?」

「いや……その……」


 身体は立派だが中身は十五歳のフレデリックが首を傾げれば――


「子供の前で教育に悪い話はやめなさいよ、サム!」

「ん。寝取られというのは、恋人のような個人間の関係や夫婦のような社会的な関係の中にあって、片方のパートナーが他の人間と激しく前後に動く性的な交流――」

「エコー!? やめろって言ってんでしょ!?」

「そう。未来のアナタは聞きたがっていたけど……」

「今のアタシは聞きたがってないわよ!? というかどんな話をしたのよ!?」

「一般論を少し」

「一般論なら知ってるわよ!?」

「知ってるの? ……そう。耳年増なのね。ああ――」

「っ、もう喋るんじゃないわよ!」


 急に賑やかになった。

 手鏡サイズもない携帯端末を前に悩んでいるのが、バカらしく思えてきて吐息を漏らす。

 自分に続いて始まりの四人組であるエコー、サム、ゲルトルード――あとは穏やかな人当たりからその輪に溶け込んだフレデリック。騒がしくとぼけた彼らに囲まれていると、なんだかどうでもよくなってくる。


「なあ……」

「何、バツイチ男」


 手厳しい長女じみて口を尖らせたゲルトルードへ、肩を竦めた。


「いや、お前らもこう……脇を固めて……『俺のファン』的な笑顔をしてみないか? こう、なんか、部隊でも人気者的に……ちょっとアイツの出方を見たい」

「何言ってんの」

「出方を見たい。戦いの基本だろ、威力偵察」

「えっ何言ってんのこのおじさん……」

「まだおじさんって言うほどおじさんじゃねえよ!?」


 かつての【アクタイオンの猟犬ハウンズ・オブ・エークティオン】の訓練隊とは裏腹に嘘のように舐め腐られ、驚くほどに気安い部隊。

 賑やかな部下に囲まれながら、思う。

 もしも、アルテミスが教官を努めたのが――あんな抜身で切迫したような部隊ではなく、こんな中隊だったなら、彼女は志願した軍を辞めるほどもああも思い詰めることはなかったのだろうか。


 もしも。


 遠く故郷を離れた彼女の居場所になれるような――そんな場所を、用意できていたのなら。

 彼女は一人、家で、静かに泣いて過ごすことはなかったのだろうか。


「そんなアホなことしてないで、さっさと迎えに行ってあげなさいよ! 行くわよ、サム! フレッド! 訓練よ訓練!」

「そ。……じゃあわたしは、これで」

「一番はアンタよアンタ! エコー! 今日こそその無敗に土を付けたげるから!」

「…………………………………………………………」

「露骨に目ぇ反らすんじゃないわよ!」


 ぎゃあぎゃあと四人で連れ立って歩く部下たちの背中を眺めつつ、


「……まだ行けねえさ、なあ」


 エディス・ゴールズヘアは、小さく呟いた。

 その呟きは、入力途中のメッセージと共に、誰にも届かずに廊下のうちに消えていった。



 ◇ ◆ ◇



 終戦から、しばらくしての話だ。


 あの【フィッチャーの鳥】というそんな部隊が構成される運びとなり、エディスがその撃墜王という経歴から――共に出撃した者たちからスコアを譲られて作り上げられた偽りの――経歴から選出されるだろうと、そんな内示を受けてからのことだった。

 暗い室内で壁に投射された、何か生物の細胞片や組織片じみた構造のヴィジョン。生体の一部じみたホログラム。


『……これ、は』


 それは、無機物というには有機的過ぎた。

 菌類が作り出したネットワークのように――逆説的にある種の機械的な美。

 命が無いと呼ぶには、あまりにも斉一に整い蠢く生体システム。


 更にはそんな写真が備えられたレポートを読むうちに、エディスの手は震えていた。

 それを眺めたコンラッドという美丈夫が、妖しく笑う。


『それが我々に齎されたガンジリウムという物質の正体だとも。ふ、ふ……荒唐無稽と思うかね?』

『あり得ない……』

『ふむ。では、君の奥方のように――……あのような銀髪が後天的に遺伝するのに、今までどんな科学的な理屈をつけられたかな?』

『……元嫁だ』


 反射的に毒を吐き出し、それ以上の言葉をエディスは続けられなかった。

 ただ、強張った指先は別の生き物の如くレポートをめくった。

 あの巨大な衛星の構成物が齎す生体的な影響と、その原因――更にはその物質そのものに対する考察まで。


 事細かに記されたその紙はおぞましく、今すぐにでもそれから指を放したくなった。


 感受性の強調。共感性の広大。社会性の増大。性的欲求の亢進。性的快楽の増幅。肉体境界意識の拡大――……。


『ふ、ふ。そして真価は、そこではない。宿主がより遠くへと翔べる文明を築いたそのときこそが、それの真価の発揮なのだよ。……種は広がっていく。方舟は、騎士と共に進む。方舟そのものが、種子であるのだ』


 リフレインする科学者の言葉――〈星の彼方には、光の速さでも遅いんだ〉。


 超空間通信の可能性。

 無補給推進力の可能性。

 利用文明による恒星系外への拡散性。


 育てさせ、増やし、広がるもの。


 書かれた文章そのものが不浄のような、まさにそこで虫が蠢いているような、そんな文字を通してすらも実体に触れてしまっているような、本能が鳴らす穢れへの警鐘。

 それは、あまりに、おぞましい。

 冒涜的な――名状し難き寄生体。自らの生殖能力を捨てた悪魔の赤子。母体を求める外宇宙の仔ら。冒涜的神性。異邦人。襲来者。降臨者。超恒星系的ウイルス。超生命。


 


『私がここで明かしたのは、何も善意からではない。……君は拒絶感を抱かなかったかな? その確認だ』

『それは……』

『君がそう思うということは、世にもそう思われるということだ。少なくとも人事書類から、君は極めて優秀な――そして一般的な兵士としての性格を持つと伺える』


 モデルケース、という訳か。

 そんな男の笑みへと舌打ちをし、レポートを机に伏せて踵を返した。


『馬鹿げてる……会うなら俺じゃなくて映画監督にしな。主演にしたいってんなら、また改めて話を聞いてやるさ』

『……ふ、ふ。それも正常な反応だろうとも。だが――君は、この世で最も先に【アレ】と接続しただろう?』

『――っ』

『だからこそ、だ。だからこそ、君に話したのだよ。他ならぬ君に……』


 美丈夫が向ける意味深な笑みに、エディスの両足は石のように固まった。

 鷹揚に頷く男は、エディスのそんな反応すらも織り込み済みと言いたげな表情だった。

 この事実を、政府や軍は知っているのか。

 公表したのか。公表されるのか。

 誰が調べたのか。どう調べたのか。調べてどうするのか。公表したらどうなるのか。どうすべきなのか。


 そんな考えが、混迷したバッファローの群れのように頭を巡りに巡ったエディスの口から出たのは、


『あんたは、何をする気なんだ……?』


 そんな言葉だった。

 そして男は、その問いを求めていた。

 コンラッド・アルジャーノン・マウスという答えを世に解き放つための、問いを。


『それらガンジリウムの集合体である遊星B7R――つまりはアルバス・ウルヴス・グレイコートとジュリアス・テレンス・ブランシェットの作り上げた衛星規模の巨大仮想演算シミュレーター【ガラス瓶の魔メルクリウス】の筐体……私の目的は、その破壊だ』


 星一つを壊すと、男は、容易く口にする。


『軍人が悪しき異星人を打ち砕くのは――サイエンス・フィクションでは、よくあることなのだろう?』


 そして齎される笑みと言葉は余りにも現実感を離れていて、それがなお一層果てしなく――どこまでも正気に基づいた眼光と共に、その男が本気なのだと知らせるには十分だった。


 害なる来訪者を。

 悪辣なる上位者を。


 打ち滅ぼすのだ、と。



 ◇ ◆ ◇



 机上に無造作に置かれて光沢を放つ三つのピン状の金属塊を手に、エディスは吐息を漏らす。


「ホーリーネイル、か」


 悪趣味だと、自嘲じみた笑いが鼻から零れる。

 ある男の脳に移植された装置。

 奇しくも――エディスらのそれとは全く施術者が異なりながらも、同様の機能を持つに至った機械装置。

 至上の秀才たるコンラッド・アルジャーノン・マウスの開発に対して、万能の天才たるローズマリー・モーリエが誂えた工学的聖遺物。

 アナトリア襲撃の後に、戦闘によって中枢神経系へ侵襲した破片の摘出に併せて埋め込まれた三つの聖なる釘。磔刑を意味する釘。磔刑を意味する三。


 だがそこに、彼ら【狩人連盟ハンターリメインズ】のような仮想人格AIの搭載は確認されなかった。

 それはつまり、彼が、汎拡張的人間イグゼンプトに近付こうとしている訳ではないと――そう示す証左なのだろうか?

 しかし、ならば一体、その機能は?


「……一体お前は何を見てるんだ、猟犬」


 コンラッド・アルジャーノン・マウスよりも。

 ヴェレル・クノイスト・ゾイストよりも。

 果てなる先を見続けるようなその男の青く澄んだ瞳を思い出して、エディス・ゴールズヘアは途方もない愕然とした気持ちになる。


 全てを速度に変えて極光を目指し続ける猟犬――――。


 彼を、どこにでもいるだろう兵士と称したことが誤りであるかのような。

 遠き星から来た隔絶した視座を持つ異星人を目の当たりにしたような、そんな気持ちさえ抱くほどに。


 誰とも分かち合わずに一直線に翔び続ける流星を、人は一体、なんと称すればいいのだろうか。



 肉体すらも差し出して。


 その刃は、一体、何のために磨かれている――――?


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