第127話 後遺症、或いは嫉妬


 花束を肩に担ぎながら、路地裏を歩く男の足は重い。

 手足が涼しげに伸びたスタイルのいい長身と、にわかに波打つ黒髪。悪戯げで鷹揚な笑みを浮かべる男の顔は、随分、苦々しく歪んでいた。

 ヘイゼル・ホーリーホック――第八位の潜伏者ダブルオーエイト


「ったく、俺もヤキが回ったもんだな――」


 ボリボリと後頭部を掻いて、苦虫を噛み潰したように目を細める。

 理由は、わかりきっている。これから目指す先にいる一人の少女だ。ゴーテルという高級クラブのピアニスト。

 あれから何度目かの交流で、ついに彼女の家に呼ばれることになったのだが――

 なんの気なしにお邪魔できなくなったのが、それが何よりも不味い。 


(思えばいっつもこうだったな。こっちの方を見てねえ女ばっかりに入れあげる――……クソッタレ。本命じゃねえことには慣れっこだが――――)


 リハビリめいた行為の過程で、そして共通の知人がいるというのもあって、いつからかあの、憂いがちなピアニストに――その奏でる音にヘイゼルは惹かれ始めていた。

 だから余計に、頭を抱える。


「……何で間男みてえなことになってんだよ、俺は」


 ぐしゃぐしゃと髪を掻きむしって、溜め息を一つ。

 マーシュが誰に惹かれてるかなんて、あまりにもわかりきっている。彼について話すときにほんの少しだけ和らぐ視線を見れば、何を言われなくとも察しはつく。

 それに聞けば、あのどこか厭世的なハンス・グリム・グッドフェローがプライベートでもしばし交流を続けているというので、そんなのなおさらだ。

 きっとこんな事変がなければ、いずれ遠からず彼らは一緒になっただろう。ハンスの側が無自覚だったとしても。どちらも物静かで、そして二人でいれば和やかで穏やかな空気になる――――おまけに気品ある少女と、それに応えられる程度の教養のある男だ。合わない訳がない。


(……なんでこうなのかね、俺は)


 せめて相手が彼でなければとか、自分が先に出会っていればとか――あとは別に二人は恋人ではないのだから何も構わないのではないのか、とか思い浮かんで、


「……つっても、裏切れねえよなぁ。お前さんを」


 首を振って、それで終わりだ。

 誰にとっても悪いことにしかならない。ヘイゼルに勝ちの目はないし、マーシュには迷惑。それを知らされたハンスも、何とも言えない気持ちになるだろう。

 そう思ってしまうと何ともしようがない――……と考えつつ、結局は歩き出す。

 相手が自分に靡かないとしても、ほんの僅かでも言葉を交わしていたいという気持ちは、あるのだ。


「よう。……いつもの御礼だ。悪いが、また少し――」


 花束を担いで、扉を通って。

 努めて下心を感じさせないように、そして余裕がある大人の男ふうに見せようとして――……止まる。

 部屋の中心で、へたり込むマーシュ。

 普段の憂いがちな美貌が、そんなものは何ら本物では無かったとでも言いたげなぐらいに曇りきっていた。

 思わず、全身が総毛立つ。血管が焦燥を伝え、同時、心が一瞬で固まった。


「……何があった?」

「グリムが……」


 そして呆然と呟くマーシュの言葉に、ヘイゼルは花束を握り潰した。



 ◇ ◆ ◇



 久方ぶりに出会ったマーシュは紺のカーディガンを羽織った呆れ顔で、床にも届きそうなその豊かな薄月色の髪を揺らしつつ、首の動き一つで自分を部屋に促した。

 相変わらず、ミニマリストのお手本のような広くて整っていてショールームめいて寒々しい部屋。ここを訪れるのはあまりにも久しぶりだが、その間に彼女は多少は模様変えをしたらしい。幾らか、花瓶と共に花が飾ってある。

 まあ、本日は、挨拶に来ただけだ。

 いつも通りにコーヒーを入れようとする彼女へ、数度辞す。そうすると露骨に目を細められた。


「……まさか、味覚がなくなったとでも言う気?」


 理由を言わなきゃ納得しない、とでも言いたげな薄い橙色の半眼。

 ジッと見定められ、誤魔化せば、すぐに勘付かれてしまうような気さえしてくる。

 なので、言った。


「いや、味覚は問題ない。ただ、消化器が動かなくなった」

「…………………………は?」

「消化器だ。……固形物が食べられなくなってしまった。固形物だけではない。口からものが食べられなくなってしまったんだ。消化してくれない」

「――――――――――――」

「内臓が上手く働かない、と言おうか。一時的かもしれないし、永続的かもしれない。今は胃酸の分泌を抑える薬を飲んでいるためにカフェインはあまりよくない。ああ、栄養は直接注入しているので活動に問題はない」


 脇腹のあたりに、ベルトとカートリッジのような形で装置が備えられている。直接的に栄養を補給する。便利。

 ただ、病院食を食べてから消化できないせいで死にかけて胃洗浄まですることになったのは、ちょっと困ったところだった。

 強いて言えば、食事の楽しみがなくなってしまったことはあまりに辛いし悲しいが……あの時点で死んでいたらやはりそうも言っていられないので、結果的には仕方ないであろう。あのような怪物的な兵器と単身で渡りあって、生きているだけで儲けものだ。


「……どうして、そこまで」


 想像を超えたものを――或いは想像に関わらず知りたくもなかった断絶を知ったように目を開いたマーシュは、どうも、衝撃の一言では済まされないほどの驚愕に包まれているらしい。

 なので、頷き返した。


「守るためだ」

「何を」

「君たちを」


 その一言で、理解は得られなかったらしい。

 僅かに思案して、付け加える。


「マーシュ・ペルシネット……おそらく聡明な君なら、気付く筈だ。この先の世界は乱れる。今、その帰路に立たされている」

「……予言でも、するつもり?」

「いや――タイム・パースリーワースという師がいた。もう亡くなってしまったが、政治学の優秀な教授で……君も名前ぐらいは知っているのではないだろうか? 俺にとっては、とても替え難い師だった……彼と共に、起きうることについてかつて計算をした。予測、と言おうか」


 如何にすれば国家が滅ぶか。

 何の果てに法治の理念が失われるか。

 どうしたら人々の持つ暴力への忌避感が損なわれるか。

 そんな因果について、いくつも、問いと答えを重ねた。


「細かな要因については、俺も彼も預言者ではないために確定できなかった。……しかしながら、何が起きてしまったら『それ』に行き着いてしまうかのいくつかの有力な仮説は立てられた。仮説というより、ある種の社会学か。方程式と、その構成要素について大まかな指標ができた」

「……」

「残念ながら、政治家になろうと企業家になろうと宗教家になろうと何にしても個人によって防ぐ手立てはなく……しかしその予測に従えば、今のこの状況は非常に不味いものである。……ここで俺たちが戦わねば、世界はやがて重大な結末に直面する」


 信じられないものを見るようにマーシュは小さく首を振っている。よほど、不安なのだろう。無理もない。自分が住まう世界が遠からず滅びると聞かされて、安穏としていられる人間などおるまい。

 ならば――と、また、こちらは確たる意思で頷く。


「いつか君とも約束をしたな。歌いたい曲があると。……喉は治ったのか?」


 呆然としたままのマーシュが、目を伏せる。

 出会った際のあの誘拐じみた一件の最中に、強い力で頸部を抑えつけられた彼女にはその後遺症が残っていた。


「そうか。……だが、焦ることはない。治療に十分な資金が貯まるまで、世界は続く。続けられる。きっと続く……続けられねばならない。そのためにも、可能な限り、俺もその一助となろう」


 絶望の切っ先をまさに突き付けられたように震える彼女へと、しっかりと言葉をかける。


「誰かが世界を滅ぼそうとしている訳ではない。いや、仮にそんな人間が居たとしても、それだけで滅びきるほど世界というものは脆くはない。……終わらせないと願う想いの形の違いだけで、多くがその存続を願うだろう。……だから、案ずるな。マーシュ・ペルシネット」


 そうだ、と首肯する。

 保つためだ。終わらせぬためだ。支えるためだ。

 そうしたくともできない人のために。それ以外のことができても、それだけはできない人のために。

 だから、己は、専門家になった。

 己の有用性は全てそのためにある。そう契約した、そのために。


「微力とはいえその力となれるように、俺は、技能を磨いた。……確約はできないが、最善を尽くすと約束しよう。些か形は異なってしまったが、これで君との契約にも反しないと思うが……如何だろうか?」


 歌いたいという彼女の願いが、いつか、取り戻されるための未来――――。

 きっとその助けにもなるだろう。

 隣にいろ――という望みは果たせなかったが、少なくとも守るということと歌うという彼女の望み自体には応じられる筈だ。つまりは、可能な範囲で彼女とのその契約を果たせるということだ。

 ならば、概ね願い通りで問題ないと言っていいだろう。

 これなら呑み込んで貰えるかと、そう思ったときだった。


「お爺様が……」

「……?」

「お爺様が……貴方を、そう縛ったの……?」


 普段の冷ややかさがなくなるほどに震えた声。

 それはどこか、幼い少女じみている。


「君は――……」


 言い切るよりも、先だった。

 こちらの胸の中に、マーシュが飛び込んできた。咄嗟に近付き過ぎないようにその肩を抑えるも、彼女は更に詰め寄るように言った。


「答えて、騎士様。……タイムお爺様が、貴方を、そう呪ったの? まさか私のために……お爺様が……?」

「……いや、それとこれとは全く関係がないので安心してほしい。彼はただ心から――……本当に心から、俺に協力をしてくれた。助けになってくれただけだ」

「……」

「歌いたいのだろう? 君のその願いも、等しくまた尊いものだ。同様に、他の人たちの抱える願いもまた同じだ。それは断じて損なわれるべきではなく、また、実現可能かはともあれ、個々人の権利としてそれが叶えられる土壌は必要だ」


 つまりは、安定した社会構造。


「そのためにも、俺は軍人として――――」


 告げるよりも先に、腕の内の彼女はただ悲しげに首を振った。


「……やめて、騎士様」

「マーシュ?」

「お願い。もう、歌えなくてもいいわ。だって、そんなこと、初めから叶わないの……私は、貴方と素敵な恋なんてできなくなってしまった。もう、私には、できなくなってしまった。……だから、もう、いいの」

「それは……」

「……でも、私にできることならなんだってする。どんな形でも、きっと、貴方という男の役に立つわ。わたし、得意なのよ? だから、グリム――……」


 何かを伝えようとしてくるその橙色の瞳に、一度目を閉じた。

 流石にこれで思い当たらないほど、己の察する能力は壊滅していない。幾度か、もしかしたらと思ったことも無いわけではない。だが彼女がそう言わない以上は追求しても仕方がないので、殊更に考えないようにしていただけだ。

 だが、今、目の前の彼女は紛れもなく――


「マーシュ・ペルシネット。……それとも君をジュヌヴィエーヴと呼ぶほうがいいか? 今日まで気付くことができずに申し訳がないが、まずは、君の生存を心より嬉しく思う」

「……」

「綺麗になった。あの日の言葉通りに。素敵になったな、ジュヌヴィエーヴ――再会を嬉しく思う」


 努めて喜びを表したつもりだったが、


「なってない……なっているわけ、ないでしょう……?」


 彼女は、怒りのような瞳で応じた。

 怒りというより、虚ろに荒んだ瞳だった。

 故に、


「なった。君はこんな俺のような男すらも案じる心の清さを持っている。……きっと、あれから、恐ろしい経験をしただろう。世を恨んでもおかしくないだろう。怒りのままに振る舞ってもよかっただろう。……でも、君は、そうしなかった」

「……そんな力が、なかっただけよ」

「いいや、人は壊せる。なんだって壊せる。壊せるものの大きさは個々人によって変わるが、ただ意志一つさえあれば万物を破壊できる。それが俺たちの持つ、殺意という機能性だ。……何よりも俺がそうしてきた。どこにでもいる普通の、こんな男がだ。殺意一つで、人はなんだって殺せる。誰だって殺せる。人にはそんな力がある」


 そうだ。

 故に殺人をやり遂げたものは、それだけで一線を超えてしまった者となるだろう。

 だからこそ、


「それでも君は壊さなかった。君は、破壊しないことを選んだんだ。……美しい人だ、ジュヌヴィエーヴ。君は確かに、素敵なレディに成長した」

「違う……」

「違わない。世界が君を百度否定するなら――君が君自身を百度否定するなら、俺は千度でも肯定しよう。君は美しい。案ずることはない。……そして君が美しくなかろうとも、それは変わらない。俺は肯定する。そんな君を肯定し続ける」


 それは称賛に値する行為だと、いくらでも思う。

 数多見た。怒りのままに他者という世界の一部を焼き尽くそうとする人間を、あまりにも見た。その炎が焼き尽くすものを数多眺めた。死も、膿も。

 そして首輪を外せば、己もきっとそんな内の一人だろう。そんな救えない人間の一人になる。

 だが、彼女は違う。

 その優しさは、間違いなく称えられるべきなのだ。その痛みを堪らえた道程は、苦難は、報われるべきなのだ。報われていいものなのだ。


「不安が消えぬというなら……君は今ここに居ていいのだと、今ここにいることが素敵なことなのだと、俺が肯定しよう。――――誰でもあり誰でもない君の生とは、それだけで価値のあるものだ。平等に、価値あるものだ」


 自分の言葉がそんな助けや報いとなるほど思い上がるつもりはないが、しかし、何にせよこちらが慮っているということは伝えるべきで――


「やめて……」

「……」

「やめて、思索者シンカー……サー・ハンス・グリム・グッドフェロー……。私は貴方に、救われる気なんてないの……。だから、やめて、そんな目で私のことを――――……」


 彼女が、首を振る。

 こちらの言葉に余計に傷付けられたように。

 それが凶器として彼女に突き刺さったかのように、彼女の心は、拒絶を叫んでいた。


「いつかの騎士様のように振る舞わないで……こんな私の前で……。どんな私でも同じみたいに……、私にまで、どこかの誰かのそんなふうに……」

「……いや」

「もう、何も言わないで……。私だけは……どこかの誰かと同じようになんて、救おうとしないで……」

「……」


 断じて、同じではない。

 そう言いたかったが、言葉では、今の彼女には信じて貰えないだろう。そして、言葉を尽くす以外に一体他に何の伝え方があるのだろうかと思っても――……ないのだ。

 マーシュ――ジュヌヴィエーヴの受けたことを思えば、だからこそ、彼女だからこそ、そう言いたいと思ったのだが――……これ以上余計に彼女への言葉を重ねれば、それこそが彼女をただ傷付けることになりかねない。

 言えることがなく、できることがなかった。

 故に、


「……すまない」


 目を伏せ、掴んでいた彼女の肩を押す。

 彼女が目を見開き、そして、その唇を噛んだ。お互いの身体に空いた距離のように、どうしようもない溝がある気がした。

 断絶――――幾度かそう評されたのを、不意に思い出した。マーシュ相手にさえこうなるなら、確かに己は断絶的な振る舞いをしているのかもしれない。

 故にもう、言えるのは、これだけしかない。


「……何にせよ、生きろ、麗しい乙女よ。それがきっと、いつかの君の助けになる。……案ずるな。俺が君たちの生きる世界を保つ。それだけが俺の役割だ」

「誰も、貴方にそんなことを求めていないわ……」

「いいや、求められている。そう契約した日から、俺は求められた。ならば、それに従う義務もあるし――――」


 何よりも、


「誰よりも、俺が俺にそう求めた。それが俺の機能性であり、必要性だ」


 言い切れば、そのまま彼女は呆然とへたり込み、何度も小さく首を振っていた。


(……)


 他に言葉を補うべきかと思ったが、無意味だろう。これ以上重ねたところで、それはもうお互いの間の断絶を積み上げるだけだ。

 どこかでそれを厭う自分もいた。

 その程度には、そこに埋められぬ断絶があるとは思いたくない程度には――それを目の当たりに突きつけられたくない程度には、自分は彼女と関わっていた。

 しかし、抱き締めることはできない。それだけは、できないのだ。その先にあるものにまでは自分が応じられない以上、それこそが最大限に不誠実であろう。


(……)


 あの少女が、あの日言葉交わした少女が、父母を失ったとしても生きていた。生きていてくれた。どれだけ辛くとも、苦しくとも、それでも彼女は誰も傷付けることなく生き抜いたのだ。

 それの、何と、尊きものか。

 それがどれほど、苦しかっただろうか。

 素敵なレディでないなどとは微塵も思わない。本当に百度でも千度でも、彼女は称賛され――労られてもいいのだ。よく生きてくれたと、それだけで嬉しいと。言われていいのだ。君は生き抜いたと。

 本当に、それはあまりにも泣きたくなるほど、強く尊いことなのだ。


(……だが、今の俺が何を言ったところで、ただ君を苦しめるだけだ)


 吐息とともに、踵を返す。


「……失礼する。再会を嬉しく思ったのは、本当だ」


 答えは返らず、彼女は見送りに来なかった。

 そうとしかならないのだろう。

 これ以上交わせる言葉は、きっと、ないのだから。


 短くて、長い付き合いだったと、どこか他人事のように思った。



 ◇ ◆ ◇



 ポツポツと俯きがちのマーシュから告げられた言葉を聞いたヘイゼルは、ただ、


「あの、馬鹿野郎……!」


 忸怩たる想いで拳に力を込めた。

 なんで、よりにもよって、そんなことになると言いたかった。

 ある程度付き合いがあれば、ハンス・グリム・グッドフェローが何を一番に楽しみに生きているかなんて知れる。その上でそんな男が平然とその被害を告げることに、何も思わない訳がない。ましてやマーシュ・ペルシネットならなおさらだろう。

 知ってはいた。平然と無茶をする奴だと。

 そんなのは、猟犬を努めているときから知っていた。その機体の武器を見れば、当たり前にそうとしか言えなかった。その技能を思えば、近接戦闘兵装よりも他に適性のある武装はあるのだ。


「どうして、どうしてそんなになる前に、せめて俺に一言――――」


 言いかけて、途切れる。

 不能者。

 無能者。

 今のヘイゼル・ホーリーホックが何者であるかなど、他ならない彼自身が理解しているのだ。


 詰まるところ、ツケだ。

 ヘイゼルがそこに居たならば、払わなくてよかった筈のものを、グリム・グッドフェローが払った。

 隣に立てるのは自分しかいないのに、その役目を放ってしまったから、この結論は導き出された。


 静かに――――静かに、人差し指が動く。


「……悪いな、お姫様。こうしちゃ居られねえ」


 ことここに至って、マーシュを慰めるより、その支えとなる位置に滑り込むより他に、ヘイゼル・ホーリーホックにはすべきことが生まれた。

 そうだ。

 本当はもっと前から、そうすべきだったこと。

 リハビリと称して女との会話に感けるよりも先に、やらなければならなかったこと。

 たとえ今の己が、どれだけの戦力になれるかは不明だとしても――――


「……相棒が、そうなってる。ここでこうしてる時間はねえ。アイツが死ぬ日には、俺も一緒に死んでやらねえと。でなきゃ、筋が通らねえ。……どうあれ、俺はアイツを一人でなんて死なせねえ」


 未だに勘は取り戻されてはいない。

 そして一度は、敵味方に別れて戦った。

 何よりも今、素直に、手を差し伸べたい女がいる。

 だとしても――――それはあの地獄の中で育った兄弟よりも優先する理由になどはならない。


「邪魔したな。……演奏ってのは久々で、楽しかったぜ。本当に――……悪くなかった。……じゃあな」


 全てを置き去りにして、因縁を呑み込んで、それでも彼の隣に立つだけの理由がある。

 たとえこの世であの男がどれだけ孤立しようとも――自分は誤解せずにその味方になってやろうと、そう思ってしまうだけの交流はしたのだ。それほどの、戦友なのだ。

 それでもほんの少しだけ、あの演奏の日々を名残り惜しむような言葉をかけて貰えればと思って振り返った先で――ヘイゼルは絶句した。


 オルフェウスは、振り返るなと言われていた。


 同じだ。

 ここでヘイゼル・ホーリーホックは、きっと、振り返るべきではなかった。

 そこに居たマーシュ・ペルシネットは打ちひしがれた橙色の瞳で――


「……憎いわ。貴方が憎い。貴方たちが、憎い。好き放題に言い切って、思うままに戦いに向かって……何よりもグリムの隣で戦える貴方が――――……憎い。そんな力があることが、憎い」

「……」

「ごめんなさい。でも、戦える貴方が、心の底から憎いわ……」


 一番そんな目を向けられたくなかったから女からの、嫉妬と激情と諦観と申し訳なさと――何もかもが入り混じった瞳。

 クソッタレと、内心で息を漏らす。煙草が吸いたくなった。クソッタレ。なんでよりにもよってそんな目を向けられなくちゃいけない。

 だが、理由も、わかった。

 きっと――――マーシュ・ペルシネットはいつだって力あるものに奪われてきた。暴力そのものに、虐げられてきた。彼女の幸福を損なうのは、いつだってそれだった。


 だからそれは、ヘイゼル・ホーリーホックに向けたものではなく――――本当はこれまでの全てに、彼女が向けたかった瞳。

 その胸の内に秘められていた怒り。

 己に降りかかる力ある者の理不尽と、力ない己に対する複雑なる怒り。


(……そりゃあ、グリムの奴にそう言われても呑めねえだろうよ。クソッタレ。ずっと怒ってるやつが、それでもお前は綺麗だ――なんて言われて呑み込めるわけがねえ)


 ああ――――だから、こうやって言ってやるしかない。


「……恨んでくれて構わねえよ。恨んで、恨んで、恨みが続く限りは、それで生きな。……それが俺の役目ってんならそうするさ」


 肩を竦めて、可能な限りふてぶてしく片眉をあげる。

 マーシュの瞳に交じる色の中で、僅かに怒りが増した。

 クソッタレと、煙草の煙を吐き出すような気持ちで歩き出す。クソッタレだ。少しでも惹かれてる女にそんな目を向けられれば流石に胸が痛む。

 だとしても、多分、それが今一番相応しく――ヘイゼル・ホーリーホックにしかできない役割だ。


 自分にしかできないなら。


 それを請け負うことは、ヘイゼル・ホーリーホックの中での当然だ。

 それが、黒の請負人ブラックナイトなのだから。


「悪いな。……構っていられねんだ。俺も軍に戻る。答えを聞くまで、相棒を死なせはしねえし――……」


 ぐしゃりと、後頭部を掻いて。


「お嬢さんの分も聞いてきてやるよ、その答えを。……アイツが見付けようとしていた答えを。きっと、もうアイツの中にはあるはずの答えを」


 それはいつか、杯を交わしたときに聞いた言葉だ。

 ハンス・グリム・グッドフェローと、ヘイゼル・ホーリーホックが取り交わした約束だ。

 あのときは、ただ、やたら考え込むクソ真面目なバカを繋ぎ止めるために言ったが――……今日は違う。


「そうだろう、マーシェリーナ・パースリーワース。お前の父セージ・パースリーワース・ド・ランピオネールが、何故ああ宣言したのか。――それを探すのも役目だと、アイツはそう言った」


 その答えは、きっと、マーシュ・ペルシネットのために。本当の意味での彼女の人生のために。

 歩き出すために、必要な言葉なのだ。


「だから、いつか、俺がそれを伝えてやる。……それまで精々恨んでくれてな、レディ」


 片手を挙げて、部屋をあとにする。

 今度は、振り返らなかった。



 ◇ ◆ ◇



 そして路地裏で、壁に背を預けて……


「あー……クソッタレ……」


 ぐしゃぐしゃ黒と髪を掻きむしる。

 本命に相手にされないばかりが、あまつさえ恨まれて憎まれる。口ではどうとでも格好をつけてやれるが、流石に本気で傷付かない訳がない。せっかく花束までちょくちょく送っていたのに、完全に台無しだ。

 泣きたくなってくる。

 女運が悪いとは常々思っていた。


 黒衣の七人ブラックパレードでナンパに行ったときは本気になれそうな女をアシュレイにかっ攫われた(当然彼はナンパに乗り気でなかったのでそのままグッバイだ)し――――地上部隊でいい感じになりそうだった女は、よりにもよってロビンに熱をあげていた。

 別に引っ掛けてやろうとなんて思ってはいないが、仲間内では一番ウケが良かったのがグリムであったし、なんとなく貧乏くじばっかり惹かされている。懐いてきた奴が死んだりもした。


「だが……まぁ、あのお嬢がグリムに名乗らなかったってのも――――これで判った」


 煙草に火を点けて、腹の底から溜め息を漏らす。

 きっと、マーシュ・ペルシネットにとってハンス・グリム・グッドフェローとは、父の罪の象徴だった。

 交流すればするだけ、深く知れば知るだけ、普段はあまり戦闘者とは思えない彼を見るだけ――――そんな男を地上最大の殺戮者に変えた父の言葉が、彼女の胸に突き刺さったのだろう。


 名乗れる訳がない。

 名乗れる筈がない。


 多分、それが、マーシュ・ペルシネットとハンス・グリム・グッドフェローの間の最大の壁だった。


「……その壁を取っ払って、二人がどうなるかは神のみぞ知るってか? クソッタレ……貧乏くじの当て馬じゃねえか、元鞘になったら」


 ぐしゃぐしゃと、また、髪を掻いた。

 見上げた先のマンションに居るはずの女を――それを透かすように目を細めて、紫煙を吐き出す。

 仕方ないのだ。

 仮に自分が選ばれないとしても、そんな……惚れた女が抱える痛みの一つを解消してやれるなら、それで男冥利に尽きるものだと笑って誤魔化すしかない。


 何よりも――


「……お互いあの地獄で生まれたんだ。地獄には一緒だ。水臭えこと言うんじゃねえぞ、相棒」


 その男を。

 ただ一人きりにしたくないと思ってしまったのだから、本当に、それしかなかった。


 ヘイゼル・ホーリーホックは、戦場に戻る――――。




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