補話【六】 酒、煙草、そしてヘイゼル・ホーリーホック


 軍人になって、しばらくしてのことだ。


『貴方、その制服は空軍? 私の孫は海軍に居るの! パイロットなのよ! あらまあ、貴方もパイロットなの?』


 街を歩く中で、そう、見知らぬ老女に話しかけられた。

 誇らしげに話す彼女と二三言交わして分かれる。

 そんなこともあるものだと、思った。

 或いは、ちょっとしたパブに行ったときのことだ。


『奢らせてくれよ、旦那。いつもありがとう』


 そう、労働者と握手を交わした。

 生憎とアルコールの類いは嗜まなかったために彼の好意を無駄にしてしまったが、日焼けした赤ら顔がしわくちゃになるくらいに嬉しそうに笑っていた。

 或いは、店主が。


『ハイ、新任? 一杯はサービスだから、一年間の間は今後もご贔屓によろしくね?』


 そう、オーダーにない注文をくれた。

 アルコールは好みではなかったが、それを無碍にもできず、同じ飛行士官訓練を受ける同期と分かち合った。


 ああ――……。


 それも、全て、吹き飛んだ。

 彼らの息子も、彼らも、その家族も。

 全て。

 全てが、吹き飛んだ。


 何もかもが、天から降り注ぐ神の杖に焼き滅ぼされた。



 戦場で、部下が、これみよがしに吐き捨てる。


『チッ。……わざわざ降伏勧告なんてしやがってよ。埋めちまえばいいんだよ、こんなもんは』


 乾く。

 喉が乾く。

 乾いていく。乾いている。

 ここは、酷く、乾いている。


 猟犬を続けるうちに、どうにも喉が乾いていた。


『……ああ。そうか』


 コックピットで、遠く、煙を上げる敵機や友軍機を眺めながらも自覚する。

 俺は、この先も、こんな場にいなくてはならないのか。

 この先ずっと。いつまでも。

 いいや、明日には死ぬかもしれない。この長い今日の果ての、明日には。


 昨日は生き延びた。

 今日も生き残った。

 明日には、どうなるかも判らない。


『……お前たちは、何故、ここに来た?』


 物言わぬ鉄の躯となった敵兵へと、問いかける。

 ジャスパー・“玉無しシェイムレス”・スポイラーと言われる猟犬の一人が、機体を丸ごとそのまま敵軍へと投降した。

 それと前線にて鹵獲された機体によって、アーセナル・コマンドは最早両軍が持つ兵器に変貌していた。

 当然――――こちらの槍の穂先には、同じく、槍の穂先が向けられる。神の杖で吹き飛ばされるだけでなく、逆転強襲制圧を行う敵の姿も増えてきていた。


『どちらへ、向かうんだ?』


 あの鍛錬の毎日も。

 あの訓練の日々も。

 それを支えていた己というものも。


 硝煙のあちらで、何もかもが、あちら側だ。


 夢を見ないことが、救いと言っていいだろう。


 何もかもが、グズグズで、ぐちゃぐちゃに混じり合っている。


 込み上げる吐き気を堪えて、食事を飲み下す。

 上手いのか、不味いのか。どんな匂いなのか、味なのか。何もかも、もう、色褪せている。

 そうだ。

 それが、戦いだ。

 自分なんて――ちっぽけな一個人、そんなどこにでもいる男の理想だとか決意だとかなんて、噴煙と死臭の向こうに消されていく。


 憎悪と慟哭を前に、死骸を前に、一体どんな祈りを吐き出せると言うのだ――――お前は神でも英雄でもないと言うのに。


 ……いいや、違う。まだだ。まだ、至っていない。


 それでもだ。

 それでも己は、立ち続ける。

 己は、ただ己の意思で立ち続けなければならない。


 そんな日々のことだった。


『――よう、猟犬。俺と一杯やらねえか?』


 黒髪を靡かせて、咥え煙草のハスキーボイス。

 ウィンク一つ。愛嬌のある水色の瞳。

 一人の男が、そんな己の中に割り込んできたのは。



 ◇ ◆ ◇



 ――一三〇〇。

 

 十月二十六日。

 航空母戦艦『エイシズ・ハイアー』の轟沈後、マウント・ゴッケールリに寄港して四日目ともなる。半舷上陸の機会という奴なので、その通りに街に出ていた。

 古民家風のカフェ、というより外見だけ古民家風なだけの内装はよくあるチェーン店のカフェだ。タブレットやホログラムデバイスを片手にビジネス上のやり取りをする会社員や学生ばかりで、やはりコーヒーは不味い。


 コーヒーは不味い。


 なんでやたらと混んでるのかが疑問になるぐらい、コーヒーは不味い。コーヒーではなくファストコーヒーというある種の一ジャンルとしてカウントした方が良さそうだ。ハンバーグとハンバーガーぐらいの違いだ。

 同じく隣でブラックコーヒーを啜った癖のある黒髪の男が、顔を顰めながら言った。


「ったく、何も休日に男二人でお茶しなくてもいいじゃねえかよ」

「貴官の素行不良が原因だ。ヘンリーやシンデレラへの悪影響が懸念される」

「悪影響ってね……お兄さんを何か劇物みたいに扱うのは止してくれませんかねえ?」


 肩を竦めたヘイゼルが、不意に口角を上げる。


「あ、それともあれか? 色男は、ぼくのかわいいお姫様には近付かないでくれ――ってか? 意外に人間味があるじゃねえか、なあ、グリム?」


 悪戯っぽい意味深な目線に、


「……違う」


 こちらは首を振り返した。

 だが、彼は余計に楽しそうに身を乗り出してきていた。


「お、その反応は意外といいセン行ってたのかね? いやあ、あの嬢ちゃんにも朗報じゃねえか? いいアシスト決めちまったかね。結婚式には呼んでくれよ?」

「茶化すな、ヘイゼル。貴官にも判っているだろう? シンデレラはその手の冗談を好かない……それに逆の立場ならどう思う? 自分の居ないところで、仮にも信頼している上官二人が、年下の自分を異性として値踏みした話をしている――――……そんなものは悪夢だ。裏切りだ。彼女の信頼を踏みにじることになる。嫌悪感と恐怖を抱くには十二分すぎる」


 ハラスメントなどと呼ばれるまでもないハラスメント。

 万一知られてしまったときに彼女がどう感じるを思えば、断固として避けるべき事案だろう。

 それを、彼も判っていたらしく首を縮めた。


「ま、そりゃそうだな。悪かったよ。兵隊のノリが懐かしくてな」

「判っている。貴官が本気で言っていないということぐらいは。……ただ、冗談だとしても人の口を通せばその結果は変わる。それに――……」


 集合写真を撮ったあとも、彼女はヘンリーと共にシミュレーターに向かっていた。

 ひたむきだ。

 彼女は何とか戦場に適応しようと、熱心に振る舞っている。巻き込まれてしまっただけだというのに……民間人だというのに……。


「これ以上、俺は彼女に傷付いて欲しくない。……勇気を出して立ち上がったんだ。その結末や道程が、悪しきものであっていい筈がないだろう」

「……ははっ」

「どうした?」

「いや、さっきは冗談だったがね。真面目に恋愛相談だってんなら問題ねえだろ? さっきの相談の続きだぜ、グリム?」


 なあ、と笑いかけてくるヘイゼルへと顔を顰めた。

 朝のシンデレラとのやり取り――……それを踏まえて彼に相談したことを思い出した。彼女がこちらを、異性として認識してしまっているのではないかというものだ。

 彼のニヤついたその視線は、シンデレラに関するものというよりは……。


「だから、違う。……第一俺と彼女の年齢差を考えろ。十三歳だ……それに彼女は成人をしてもいない。常識的にありえない」

「恋ってのは理屈じゃないだろ、相棒? 仮にも向こうは多分そのつもりなんだし……んでどうなの?」

「だから、違う」

「頑なだねえ。ついさっき『彼女が俺を異性として意識してるかもしれないんだけどどうしたらいい?』なんて言ってたとは思えんくらいに」

「……」


 口を噤めば、彼はこちらの肩に手を置いて顔だけは神妙そうに眉を上げた。


「なあ、相棒。俺は今真面目に聞いてるぜ? 前にお前さんからされた話にも絡むだろ? そりゃあ、俺たちにも大人としての良識ってのは必要だが――……向こうから好意を向けられてる。それに何かしらの答えを出さなきゃいけない。……ってなれば、そこで大事なのはお前さんの意識だろ?」

「……それは、そうだが」

「で? どうなんだ。言っとくけどあの嬢ちゃんのためにもそこらへんはハッキリさせとかなきゃいけない話なんだぜ?」


 そう言われてしまうと、こちらも真剣に考えざるを得ない。だが……。


「まず一つ言いたいが……先程も言ったが、あの子がこちらをどう思ってるかは確定してない。つまり勘違いかもしれない。だとしたら自意識過剰みたいで恥ずかしい。この話はこれ以上はやめるべきだ」

「………………」

「何故そんな目をする」

「するしかねえ奴が目の前にいるからだよ」


 なんで?


「そして、仮にそうだとして……そして、仮に俺がそう望んだとして。だが今の関係で、彼女の好意に応えるのは余りにも不誠実だ」

「あん?」

「おそらく彼女は今まであまり、信頼できる大人――或いは異性というのに触れたことがないと見える。そんな状況で、その信頼に付け込むような形で関係を持つのは不誠実だ。それは一種の性虐待や搾取と同意義だ」


 グルーミングという性虐待の手口がある。

 孤立している子供や悩みを抱えた子供に近付き、彼ら彼女らの信頼を勝ち得た上で、その関係に付け込むように性行為を行うという卑劣な手段だ。

 被害者はその関係を壊したくない心から、不本意な性行為を――或いはその時は「それが正しい恋愛関係だ」と思わされた行為を強制されてしまう。ある種の洗脳やマインドコントロールにも近しいものだ。

 シンデレラと自分の関係においては、状況的に、それが当て嵌まる。そう思っている。


「……お前さん、固く考えすぎじゃない?」

「良識的にそうだろう。特に思春期ともなれば、そこで生まれた感情には様々なものが付随する。当人でも判別が付かぬ程に。……民間人登用の際のマニュアルにも示されていたと思うが」

「あー……お前さん、あれ全部読んだの? あの分厚いのを?」

「指揮官としての責務だ。当然だろう」

「…………出たよ、忍耐が取り柄の墓守り猟犬チャーチグリム。お前さん、仕事とか義務に対して熱心すぎじゃねえの?」

「人の命を預かる以上は当然の責務だ」


 薬を投与するのにその注意書きを見ない医者のようなものだ。それは、悪だ。

 あの戦場中から、若年層も含めて民間人の大規模動員が行われるようになった頃から、或いはそもそもの指揮系統と性的なハラスメントの問題から注意事項については論ぜられている。


「それに――……」


 一度言葉を区切り、瞳を閉じた。


「俺は……ただ、あの子が頑張り屋だと思っているだけだ。近くで見て、なおのことそう思った」


 思い返せば幾度と、基地の中で彼女の姿を見かけた。

 言葉を交わしたことはない。

 ただ、とても頑張る女の子がいると……この錆付きかけの記憶に残っただけだ。

 あのときはしっかり顔を見ることも声を聞くこともできなかったためにまるでそうとは思えず、かつての記憶を思い返すこともできなかったが――……彼女が、あの、シンデレラ・グレイマンであったのだ。


「確かに……ガッツがあるな。それは何度か訓練に付き合ってても思ったぜ。……んで、そんな不屈の嬢ちゃんのお袋さんの方と連絡は取れたのか? 娘さんがこんな風になってるのに、止めやしねえのか?」

「……複雑な家庭らしい。だからその分――……俺が力になりたいと思った」

「ああ。……じゃあそりゃあ、異性としてどうこうとか言ってられねえか。そりゃあな。そっちの方が大切だ。……お兄さんにとっても、妹よりちょっと上くらいの歳だしなあ。ま、せいぜい年長者として力になってやるかね」

「ああ。……本当なら、戦場に出るよりも他に向き合わなければならない問題が彼女の人生にはあるだろう。こんなものは、些事だ。早く終わらせて、彼女には彼女の人生と向き合う時間を作るべきだ。何よりそのことだけが彼女にとって大切なことだ」


 そうだ。

 戦争などというものは――その人の人生に対して、なんら、あるはずではないイベントだ。存在の価値もなく、必要もない出来事だ。

 などに、一個人の幸福や日常が損なわれることがあっていい筈がないのだ。

 断じて――――断じて。


「そのために俺は、全てを使いたい。上官として、だけではなく――……俺の全てを」


 握った拳に力が籠もる。

 己は、そう、決めている。

 決めているのだ――――当たり前の平凡は、あるべき人生は、誰しも得られるべき幸福は、断じて踏みにじられてはならぬのだと。そのためにできる全てを費やすと。

 そう、決めているのだ。


「お前さん、それ……」

「なんだ?」

「いや……なんでもねえよ、相棒」

「……?」


 ほんの少し目尻を緩めた彼の意図は判らなかった。


「だから――……俺から彼女に思うことは一つだ。ただ、その頑張りが報われて欲しい。俺からはそれだけだ」

「そうかい」

「ああ。それしかない」


 こちらを伺うヘイゼルの言葉に、改めて頷き返す。


「……初めから、それだけだよ。俺は」


 己の記憶の蓋のあちら側にある姿と重なる。

 幼き己を勇気付けてくれた、あのときの歳上の少女と。


 彼女が――――ただ幸福に。健やかに。


 あの日の己が抱いた感情はそれで、今の己が抱く感情もそうでしかない。

 報われて欲しいのだ。

 ごく当たり前に。当然に。全ての人間に与えられる権利として。

 ただ、報われて欲しいのだ。

 あの小さな背中を前に、何かに祈りたくなるぐらいに。


 きっと、それだけだ。


「ったく……判りましたよ。マーガレットのお嬢も言ってたが、お前さんは本当に素直じゃねえなあ」

「俺は極めて正直かつ正確に話している」

「言葉足らずで、な」

「………………違う」


 なんでそういうこと言うの。


「んじゃこっからは、年下の部下を持つ指揮官たちのお話し合いですかねえ。お兄さん、そういうのはあんま得意じゃねえんだけどな。……お前さん向きだろ?」

「俺も得手ではない。俺が今までにされて嬉しかったことや頼りになったことの、焼き増しをしているだけだ」

「そうかね?」

「そうだ。……世話になった人も多い。そのおかげだ」


 先程四人で撮ったあの写真を思い浮かべつつ、思う。


(……貴官もその内の一人だ、ヘイゼル)


 隣で笑うその男こそが、自分に深く踏み込んできた男なのだから。

 深い感謝と――静かなる親愛を、共に。



 ◇ ◆ ◇



 差し出されたグラスと煙草は、どちらも馴染みがないものだ。

 アルコールは肝機能への問題を招くばかりで、判断能力を低下させる。その分解に余分なカロリーを消費する以上、摂取は望まれないもの。

 ニコチンも同様だ。中枢神経系への影響が見られる上に、心肺機能を低下させる。依存症も引き起こすために、全く以ってその摂取は不的確な代物だ。


 あまりにも、余分。


 だが――


『参っていると、貴官には、そう見えたか?』


 それを渡されると同時に告げられた男の言葉が、ただ、心に残った。


『あ? そりゃあ――……』


 こちらを見詰める男の水色の瞳が、問いかけに、悼むように細まった。


『皆そうだろ。めちゃくちゃな作戦なんだ。相手の本国を殴れるかも判らずに、俺達は抵抗を続けてる。……何も目印がない海の向こうから戻ってきて、帰ったと思ったらまた出撃だ。……おまけに近頃、ただブン殴って終わりにもならねえ。撃ち合いだろ? 参らねえわけがねえ』

『……そうか』

『お兄さんも――……流石にうんざりしてくるぜ。本当に俺達は、戦う必要なんてあったのか? お偉方が、それでも抵抗してるってポーズを表したいってだけなんじゃねえのか?』


 徹底抗戦を唱えた政府高官。

 彼は未だに戦地に足を運んで、或いは国内を飛び回り、民と兵を鼓舞しているらしい。

 それほどまでの、決定的な交戦の意思。


『……何故彼が、そう言ったのかは、判らない』


 思うところは、あった。

 馬鹿げている――そうだ、馬鹿げている抵抗なのだ。

 敵は地を全て見通す監視衛星と、迎撃も叶わない空からの槍と、そしてこちらからでは届かない真空で隔てられた本国を持つ。

 適うわけがない。続けても仕方ない。

 だが彼は――……そして応じた民は、最後まで戦うことを選んだ。その理由は、所詮この世の異邦人たる己には判らないだろう。

 そうだとしても、


『強いて言うなら、その答えを探すことも、俺の役目のうちなのだろう』

『……あ?』


 こちらを眺めた黒髪の青年は、信じられないものを見たかのように肩を竦めてから口を歪めた。


『おいおいおいおい、なあ、お前大丈夫か? あれは政治家の言葉で、お貴族様の言葉だ。俺達が深読みしようとしても仕方ねえ。……そういうもんだろ?』

『同じ人間には違いあるまい』

『……本気で言ってるのか?』


 渡された一本の煙草。

 先に青年が言った言葉がリフレインする。


『煙で吐き出さなければ、参ってしまう――か』

『あん?』


 吸い方自体は知っている。

 一吸い――――火を点ける。

 肺まで酸素と煙を取り入れて、それを盛大に鼻と口から吐き出し尽くして。

 喉を通過するひりついた乾いた感覚を懐きながら、青年へと改めて向かい合う。


『吐き出した俺はどうだ? つまり、正常ということだろう?』


 もう一口、吸う。

 いがらっぽさに混じるバニラの香り。目の前の、伊達男という男のイメージに合った煙草の香り。

 それを漂わせながら、首を振った己は言い切った。


『――本気だ。それが俺だ。これが俺だ。……俺は見続ける。向き合い続ける。


 それは、警句だ。

 この血に足を絡め取られないための、警句だ。

 全うしなくてはならないのだ。最初から――最後まで。


『何が狂おうとも、呑まれようとも、俺は呑まれない。俺はハンス・グリム・グッドフェロー――保護高地都市ハイランド連盟の、軍人だ』


 この世に生まれ落ちたその日の意思を。

 己を掬い上げた医師たちの無償の愛を。尊い献身を。

 それを前に誓った決意を忘れるなと、己はただ己に命じている。


『……はは、お前、マジかよ。マジで言ってるのか?』

『本気だ。……少なくとも貴官の目には、そうは映らないということか?』


 問返せば、僅かに目を丸くした青年は顎髭を撫でながら肩を崩した。


『オーケー、判った判った。。そうだろ?』

『……』

『ったく、とんでもねえ男に引っかかっちまったな……』


 そして、丸いテーブルを挟んだ反対側に男が腰掛ける。

 なみなみと琥珀色の液体が注がれていくグラスを、ただ見守る。

 ふと、口を開く。男のその声には覚えがあった。


『――九月十日』

『あー、アレだな。飛んでる途中で落ちた奴の尻拭いだった。俺が駆けつけるまでもなくお前さんが片付けたヤツ』


 煙草を一吸い。


『――九月十五日』

『撤退掩護だったか? 近接武器で防空船とやり合おうとするバカが居るのは驚きだったぜ』


 グラスを傾けて。


『――十月一日』

『あー、アレだ。ロビンのクソ馬鹿野郎も居たとき。殆ど弾を撃ち尽くしてるってのに何しに来たんだ、アイツ』


 音を立てたライター。彼が煙草に火をつけて。


『――十月九日』

『また三人で。アホほど待ち構えてたな、アイツら』


 彼がグラスを傾ける。

 ゴクリと、別の生き物のように喉が動いた。


『……なんだかんだ長えな、お前さんとは』

『……本当に。貴官とは共同も多い』


 しみじみと、煙を吐き出す。

 むせた。

 喉にへばりつくその感触を拭おうと、グラスを傾ける。

 むせた。

 喉が焼けるように熱い。こんなものを好んで飲む奴の気が知れない。


 そうして、ポツポツと、何となくお互いが送ってきた戦いを口にする。

 こちらも、二本目に火を付けた。

 改めて――……初めてこの星で呼吸をしているかのような、そんな錯覚が訪れる。


『あーあ。……ったく、これでもう少し美人さんだったなら申し分ねえってのに』

『……俺の台詞だ。その方が帰り道も会話が楽しい』


 言うと、彼は意外そうに眉を上げてから――……肩を崩して身をテーブル越しに乗り出してきた。


『……お? 堅物かと思ってたのに、お前さん意外とそういう話もイケる口なの?』

『人をなんだと思っている。……あくまで一般論であるが、だが』

『なんだよオイ、そんな感じにお茶を濁すんじゃねえよこのムッツリスケベが……へえ? いやでもお兄さん、何か親しみ湧いてきたぜ?』

『ムッツリスケベ……』

『言っとくけど、あんまり堅物野郎でも仲間としちゃやりづらいからな? こういうのは適度に冗談混じりもできる程度が――』

『ムッツリ……スケベ……』

『まだ言ってんのかコイツ』


 グラスを空けて次を促しつつ、世界がぼうっと熱を持っている中で必要な分の言葉を紡ぐ。


『訂正を。俺はムッツリスケベではない』

『いや絶対そうだね。お前みたいなのに限ってそうだ。お兄さんにはわかる。お前さんみたいなのは意外とアブノーマルなプレイとかやる。お兄さんにはわかる』

『訂正を』

『いーやーだーねー』

『訂正を』

『嫌ですー』

『訂正を』


 煙草をもう一本。

 前後を逆に火を付けていた。勿体ない。直すと、焦げた味がする。


『オイ壊れたぞコイツ。……で、実際のところは?』

『ムッツリじゃないもん。違うもん。素直に好きって言うもん。いっぱいハグするもん』

『あ、そういう? 他には他には?』

『叶うなら四六時中ハグする。いっぱい好きって言う。俺は素直だ。極めて素直だ。好意を露わにする。すごく露わにする。ハグする。ずっとする。したい。してたい。ギュッてしたい。する。ずっとする。好き。好きな人はずっと抱きしめたい。抱きしめてたい。いっぱいキスする。いっぱい好きって言う。言いたい。言いたかった。言いたいんだけどな。駄目かな。駄目だった。だめなんだよな。イメージに合わないって。猫ちゃんかわいい。すき』

『何だコイツおもしれーぞ』

『猫ちゃんかわいい。会いたい。どうしたら懐いてくれるのかな。にゃんこ。懐いて。触りたい』

猫用おやつキャットクラック持ち歩けば?』

『それだ。……そうか、それだ。貴官は天才だな。頼りになる』


 それから、本当に他愛もない話を続けて。

 目が冷めたのは夜中――午前三時ほど。

 自分も彼も何故かアーセナル・コマンドの足元に居て、彼が機体状態を示すホログラムパネルをタッチしているその明かりでだった。


『……よお、おはようさん。お前さん、覚えてる?』

『……………………うっすらとは』


 肝臓が強いのか、特に頭痛は感じない。それほどは。

 僅かに思考するのに違和感があって、何となく身体が熱っぽいというそれだけだ。

 ガンジリウムを循環させてない機体は、冷ややかだ。だからこうして抱き枕にしてしまっていたのかも知れない。


 フライトジャケットを毛布代わりに身体にかけて、ぼんやりと天井を見上げる。

 格納庫の天井。

 一般の施設と比べても、数階分を遮ることなく真上まで抜いている。空を見上げるのとは、また違う現実感のない開放感を伴う。

 こちらに背を向けてホログラムパネルを触るヘイゼル・ホーリーホックが、言った。


『また飲もうぜ、相棒』

『――』

『……どうした?』


 また。

 再び。

 この戦争が起きてから、その言葉にはどれだけ重みがなくなっただろう――或いは余りにも重くなっただろう。

 だというのに彼は、ただ当たり前にそう言ったのだ。

 何ら疑いなく、また自分たちが出会えるように。一切の気負いも、感傷も抜きに――ごく自然な立ち振る舞いで。


 それは、この戦いが始まってからは聞くことがなかった当たり前の空気であり――


『ああ、また貴官と。――それまで互いに生き残ろう、ヘイゼル・ホーリーホック』

『へっ、お兄さんが簡単に死ぬかよ。そうだろ、鉄のハンス?』


 こちらに向き直った彼と、拳を合わせる。

 こんな死と硝煙にまみれてなお、ただ、あるがままの姿で居られる。戦争に日常を呑まれることなく、そこに生きていける。

 ヘイゼル・ホーリーホックは、きっと、ハンス・グリム・グッドフェローが――――そうなりたいと思うような、そんな男だった。


 肩を崩した彼は、またグラスに酒を注ぎながら笑う。


『そんで、教えてくれよ。お前が答えを得たその日には』

『それまで貴官が生き残られれば、だが。……それでも構わないか?』


 或いはこちらの方が先に死ぬかもしれないが、そこは特には伝える必要もないだろう。当たり前の前提なのだ。


『言ってろよ。知ってるか? 面倒見のいいお兄さんは、お前みたいな危なっかしい堅物残して死ねないんだぜ?』


 そうして再び差し出されるグラス。

 すっかりと微温く変わってしまったボトルの中の、最後の二杯。

 それを受け取り、そして、


『それじゃあ、仏頂面の猟犬野郎に――』

『神業の狙撃手と、俺たちのこの先の戦いに――』


 再びグラスを打ち合わせて、杯を煽る。

 透明のその盃に、僅かに、琥珀色の液体が名残のように残っていた。

 ほんの少しだけ、酔えば気分が晴れたような気がしたが――……それだけだ。やはり、あまり好みであるとは言い難かった。その気になれば、すぐそんな精神状態から戻れるということもあるし。



 さて、と。二人で機体の足元で顔を合わせる。

 今回、自分とヘイゼルが集められたのは強襲ではなく迎撃のためだ。味方の強襲作戦に合わせた鹵獲や情報収集を目的とした敵の反撃強襲に備えるためにいる。

 無論ながら、味方の出撃がない限りは出番がない。

 その点は考えた上での振る舞いだったが――


『……そういえば、これは、飲酒就業で服務違反にならないか?』

『はっ、バカ正直だなグリム。それにこの手のには特効薬があるんだぜ?』

『本当か?』


 流石だな、と思う。

 年上な分、彼はこちらより心得ているようで――……次にその口から放たれた言葉に思わず絶句した。


『走るんだ。十キロも走りゃあ、アルコールなんて簡単に抜ける。あとはサウナとシャワーだ。血の巡りを良くして肝臓に送り込むだけ送り込んでやれば全部解決……ってな』

『……………………』

『なんだよその目は。信用してねえな? いいか、兵隊ってのはこうしてアルコールを抜くんだって――』


 馬鹿なのかな。

 アルコール摂取後に運動するとか。馬鹿なのかな。

 多分アルコールに脳みそやられちゃったんだろうな。こうならないようにしなきゃ。やっぱりこんなの飲んでも仕方ないや。酒は飲んでも呑まれるな、深淵を見詰めるときは深淵もこちらを見詰めている、目と目が合ったら恋の始まり――というやつだ。本当か?


 ともあれ。

 まだ日も登らぬ外を、山岳に偽装された施設の周辺を走りながら。


『お前さん、どういう女が好みなの?』

『尊敬できる人なら。何かしらに頑張っている人がいい。あとは、何かに楽しみを持ってる人も。楽しそうに話している話を聞くのが楽しい』

『お前つまんねえ答えだな……』

『………………』

『もっとこう……あるだろ! 男同士なんだから! 女のどこが好きとか! そういうのが!』


 ダメ人間とマラソンを続ける。駄目人間マラソン大会。いや俺は駄目人間ではないが。女性には疚しいところもない、キチンとした、彼女たちを惑わせることもない真っ当な男の一人だが。

 アルコールと酸欠に弾む息の中で、しばし考え、


『……ネックレス』

『うん?』

『ネックレスをつけている……付け直したりしている仕草は、まあ、好きだ』


 言えば、彼は問い返してきた。


『ほう? どういうこと?』

『あるだろう。……こう、パーティに行く前にネックレスをつけるとか。あと、その、一度外してたネックレスをつけ直すとか。そういうのだ』

『へえ? ああ、首とかうなじとか好きってことか?』


 それなら判るが――と首肯する彼へ、首を振り返す。


『肩甲骨』

『……お前わりとマニアックなんだな』


 なんだと。

 肩甲骨。見れる状況が限られてる。何となく特別な気がする。パーティドレスとか。あとなんか色々とか。

 別にそんな変態性癖ではないと思う。あと、乳とか尻とか太ももとかの話をするより健全だ。健全だと思う。


『いや肩甲骨は大事だ。肩甲骨を上手く動かせることがベンチプレスやチニングの効果に大きく関わっていると言っても過言ではない』

『……なんで筋トレの話になってるんだよ』


 そんなくだらないことを話しながら、酒が抜けるまでの一時間ほど、彼と緩やかに走り続けた。

 それが、自分とヘイゼル・ホーリーホックの出会いだ。

 なんてことはない当たり前の、よくある、酒の席での出会いだった。――――本当に、特別でドラマがある訳ではない。


 あのドレステリアの悲劇の日には、彼は、その長距離狙撃能力を買われて陸軍の支援火力として別部隊に居た。

 同様に、あの、ロビン・ダンスフィードもそうなっていたこと。

 そのことに、僅かばかりに安堵した自分がいた。


 そんなありふれた何でもない――しかし稀有な出会いというのが、自分とヘイゼル・ホーリーホックという男の物語だろう。


 この地上で、おそらく、最も信頼できる男として。


 彼との友誼は、自分が持ち得る中でも、おそらく最上に近いものだ。

 その後の黒衣の七人ブラックパレードという括りを受け入れたのも、彼が居たからというのも大きいだろう。


 友人と――。

 こちらは、深く、そう思っている。


 きっとその、最後まで。






















 ◇ ◆ ◇



 少なくとも――――少なくともその世界にとって、或いはその少女にとって。

 誰にも明確なる過ちというものは、きっと存在していなかった。


 度重なる戦闘の疲労に、操縦もままならないほどに消耗してから。

 そこから復帰しようとするシンデレラ・グレイマンは、グラス・レオーネに乗り込んで操縦桿を握った。

 目の前には、彼女の出撃を厭っていた一人の男。


 ヘイゼル――ヘイゼル・ホーリーホック。


 孤独であったシンデレラが唯一心を許した、そんな男だった。

 彼は、そうとまでに戦いで擦り減っていくシンデレラを案じていた。この日も――この日は、その赤き四脚のアーセナル・コマンドで道を塞ぐように。

 出撃甲板に立ちはだかるように機体を据えて、彼女の発艦を防いでいた。


「ありがとうございます、ヘイゼルさん……でもわたし、戦わないと……」


 そんな男性から慮って貰えることへの、嬉しさがある。

 ずっと、誰かに守ってほしかった。

 ここに居ていいよと言ってほしかったし、ここが自分の居場所だと思いたかった。シンシア・ガブリエラ・グレイマンは、それを願っていた。そう望んでいた。

 一連の戦いに身を投じたのも、きっと初めはそれが理由だった。

 だけれども――


「決めたんです。世の中を守りたいって……こんなところで争っていたら、滅んでしまうんだって。だから、わたしは――……」


 今は違う。

 自分に何かして欲しいからではない。自分が何かしてあげたいからではない。

 ただ、そうしなければならないから。

 そして、そうしたいと思ったから。

 だから、シンデレラ・グレイマンは戦うと決めたのだ――自分を守ってくれていた、どれだけ軽薄そうで迂遠そうで居ながらも軍人としての勤めから背くことのなかった目の前の男のように。


 そう、湧き上がる暖かな愛しさと共に告げようとして――直後、彼女は呆気に取られた。


『戦うって、誰とだ?』

「え?」


 淡々としたヘイゼルの言葉。

 それが、やけに、綺麗に聞こえた。

 何も阻むものがないかのように。

 そうだ――――不思議なくらいに静かだ。いつも飛び交う戦場の無線音すらも聞こえない。真空ということを加味しても、全てが、やけに静まり返っている。


「何言ってるんですか? 【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】と――」

『いや、だから、?』

「……え?」

『はは、そう驚かれるとちょっとショックだぜ? あんまりお兄さんを見縊ってもらっちゃ困るな。……

「――――――、は?」


 そして告げられたのは、想像を絶する言葉だった。


 射撃に伴う振動は、機体内部を伝ってコックピットに鳴り響く。それは、真空の宇宙ですらも変わらない。

 ならば――。

 コックピット内の音声を電波に乗せる通信装置ならば、そんな音声ですらも離れた敵機に伝えられるのではないだろうか。

 音の届かない無音の虚空、真空の宇宙にても。


 電波を介して広域通信を発信すれば届くのではないかと――そんな理屈。


『ま、技術の一つだ。……?』


 ああ、そして事実――……そうだ。静かなのだ。

 静まり返っている。

 全てが無音になっている。

 何一つ、動くものがない。


 何故なら、単純だ。


 だってそこにある音は、彼の、沈黙を齎す音サウンドオブサイレンスしか存在していないのだから――。


『機械越しでも十分だからな。どっかで誰かが受け取れば、あとはそっからも広がってくぜ?』


 それは、まるで、病のように。

 電波という高速の波で広がる致死の病のように。

 絶対の感染を。

 防ぐことのできない殺戮を。

 ああ――――即ちは、人類の滅亡を。


『ああ……まあ、今頃、衛星軌道都市サテライトの連中にも届いてるんじゃないのかね? こうすりゃあ、ほら、もう争う奴は居ねえだろ?』


 なんともないと肩を竦める彼は、誰であったのだろう。

 自分が憧れたその姿は、愛したその姿はそこにはない。


 無数に広がる死。

 止めどない死。

 人類全てを焼き尽くす暴力――。


 其れは、そんなものだった。


『な、これでもうお前さんは戦わなくていいんだ。……大丈夫だ。言ったろ、って』


 人がいれば、或いはこう言ったかも知れない。


 ――最悪の結末だバッドエンド、と。



「貴方は、貴方は――――――ッ!」


 歯を喰い縛り、グラス・レオーネを加速に委ねる。


 人類の敵。

 殺戮者。

 滅びの獣。


 それに化した愛しい男の凶行への、決着を付けるために――。



 ……ああ、だが、果たして。


 戦いで言葉を介するうちに。

 どれだけの愛しさからそれを引き起こしてしまったのかと。

 どうしてそうと思うまでに至ってしまったのかと。

 愛しい男から、そう告げられて――――。


 果たしてそれでも刃を取れるだけ、聖剣を握り続けるだけ、彼女に気概はあったのか。

 いいや、あったとしても。

 その動揺がどうしようもないほどの差になってしまうほどには、少なくともその戦いは、神域に程近い戦いであったのだろう。


「あ……あ…………」


 打ち砕かれ、四肢を失って宙を漂うグラス・レオーネ。

 止められない。

 いいや、もう、終わっている。

 何もかもが、もう、終わっている。


『……お兄さんもまあ、ちょっとショックだけどな。少しそうして頭を冷やしててくれよ、シンデレラ。もう少し時間が経てば、多分お前さんも判ってくれるって信じるぜ』


 傷らしい傷もなく、彼女を打ち砕いた男がそのコックピットで煙草をふかす。

 ああ――何たることか。

 今までのヘイゼル・ホーリーホックは、あれほど絶大な力を示しながらも、その在り方に鎖を付けていた。

 人間性という首輪で、彼自身の殺傷性を縛っていた。


 それを解き放った先には――こうまでも、埋められない差があるのだ。


 オープンチャンネルの電波越しに襲いかかる直接破壊。

 一体どうして、そんなものに、人類が対抗し得るというのだろう。

 同様に肩を並べて戦うヘンリー・アイアンリングや、己を助けてくれたアシュレイ・アイアンストーブさえもきっと及ばない。あちらにいる同量の技量の持ち主だったロビン・ダンスフィードも、こうなっては彼に勝てない。

 誰も。

 この人を、止められない。もう、誰にも止めることはできない。


 そして、彼のそんな首輪を外してしまったのは――他ならぬシンデレラなのだ。


「誰か……」


 その声は、届かない。

 涙でいっぱいに滲んだ先の宙に浮かぶ都市も、蒼き星も、きっと何もかもが滅んでいる。

 シンデレラのせいで。

 自分が彼の中に愛しさとして座ってしまったせいで――そして彼の不安を消しきれなかったせいで。


 全ての人類は、不安ごと、消されてしまったのだ。


「誰か……」


 その先の言葉を飲み込む。

 これは、最悪の結末だバッドエンド

 ならばその先の物語など、きっと、もうどこにも存在していないのだ。



 なのに――――――




「……」


 無音だった。

 静寂だった。

 空虚だった。


 それでも、その沈黙の音に等しい男はそこにいた。


『お前は……』


 ヘイゼル・ホーリーホックが僅かに息を呑んだ。

 、静かなる銃鉄色ガンメタルの執行者。

 そのあまりにも簡素すぎる機体構成アセンブリには覚えがある。

 かつてヘイゼルと共に、至上最大規模の地上作戦に参加し――そして場が違えども偶発的に、最後まで生き残った七人の内の一人。

 誰も彼もが砕かれつつあった戦いの中で、機体に傷一つなく佇んでいた一人の黒髪の青年だ。


『ハンス・グリム・グッドフェロー……だったか? あれっきりだが……』


 あの戦闘の中でも通信一つも交さず、その後も会話一つしていない。

 それでもあの激戦を潜り抜けた、ある種の戦友と呼んでも差し支えがない――そんな男だった。


『お前、どうやってここに……いや、何しにここに来たんだ?』


 応じない。

 応じず、黒髪の青年の駆る銃鉄色ガンメタル大鴉レイヴンは右腕のプラズマブレードを展開した。

 組み合わさった菱形が左右に割れる。

 漏れ出る過剰電力の燐光――噴出するプラズマの紫炎。


 その在り方が、告げていた。


 ――語るまでもない。


 ――と。


『は、剣一つで銃に立ち向かう――ってか? ここに騎兵隊は来ないぜ、ご同輩。……恋路を邪魔すると、馬に蹴られるって知ってるか?』


 まさに人馬が合一した騎兵の如き四脚を持つ【アーヴァンク】が左のショットガンを構えると同時、慣性を無視する急速回避によって大鴉レイヴンの姿が掻き消える。

 無言の戦闘態勢。沈黙の戦闘開始。

 死の真空を漂う数多の躯の中、ここに最悪の結末バッドエンドのその先の物語が紡がれる――。


 二匹の獣が喰らい合う。


 否――誤りだ。それは真実、猟犬の狩りと呼んで相応しいものだった。

 そうだ。

 


 既に機体による戦闘手段を奪われたシンデレラには、ただ無重力の宙を漂いながら眺めることしかできない激突。

 あらゆる衝撃と振動を統べる、地球上の全人類をも病の如く殺戮する神技を持つ駆動者リンカーと……。

 人類の頂点の一角に座す、ただ右腕の一刀のみを頼りにした駆動者リンカー


 第八位と第九位。


 その順位に従うなら、結果は明らかだろう。

 だが、


(この人の、戦い――――)


 その男の戦いは、真なる空虚と言ってよかった。

 何の修飾もなく、何の虚飾もない。

 絶技も、魔技も、必要ない。

 知恵も工夫も存在せず、ただ一つの機能を実行するだけだ――――即ちは、斬撃であり、即ちは殺害だ。


 躱し、近付き、斬る。

 躱し、近付き、斬る。


 レールガンの砲撃が空を切る。銃鉄色ガンメタルのコマンド・レイヴンは飛翔し、ヘイゼルのために誂えられた赤き四脚騎士【アーヴァンク】を攻め立てる。

 既に幾度目か。

 最小限の機動にて回避し、最小限の機動にて接近。

 鋭角の角より来る魔犬の如く執拗に、まさしくただ鋭角の戦闘機動を以って、その男は刃を振るう。


 躱し、近付き、斬る。

 躱し、近付き、斬る。


 それだけを繰り返す。他には何もない。

 ただ、という――最も基礎的な戦闘の要訣を繰り返すだけの行動だった。

 故に、崩れない。崩せない。

 その男は明らかに、一対一の戦いを極限まで洗練させた武錬そのものと呼んで良かった。


『く、コイツ……!』


 真空の内にあってはヘイゼルの銃声は響かず、その音響による攻撃の大部分が封じられている――――否、そうであろうとも彼は全人類を殺戮するという、それだけの力を有している。

 或いは神憑り的な狙撃能力。

 弾丸、散弾、跳弾、破片すらをも自在にその支配下に置く超常的な技術であるが――そのいずれの攻撃もまるで掠らない。

 或いは自己の機体内部に響く銃声を電波に載せた駆動者リンカー直接破壊。

 そんな反則めいた攻撃すら、単に通信を確立していないのか、その青年には響かない。


 世界を焼き尽くし、戦場を支配するほどの無数の手札。


 しかし、そのどれもが意味をなさない。

 如何なる魔技も、絶技も、その一切が通じない。

 紫炎と銃鉄色ガンメタルが迫りくる弾丸を切り払い、音の波を切り払い、死の跳弾を切り払う。

 一つの斬撃と化した機動。

 その銃鉄色ガンメタルのコマンド・レイヴンは、ということにだけ特化した絶対存在であった。


 爆発じみた推進炎が一つ。

 銃鉄色ガンメタルの装甲が煌めき、猛烈な接近と共に既に幾十度と振り降ろされたるは刃めいた紫炎のプラズマ。

 プラズマブレード――それは凝縮した力場の衝突にて敵の力場を喰い破り、高温のプラズマを以って敵装甲を焼き切るという一撃必殺の兵装。

 そしてその熱により気化した敵装甲のガンジリウムや構成物をその力場にて回収し、集積し、凝縮し、再びプラズマに変え刃として用いる――……電力の続く限り無限に戦い続けることを可能とする武装である。


 故にその青年の攻撃に、終わりはない。


 目にも映らぬ速度で動く必要なく、敵機の電子制御を奪うことなく――。

 多彩な兵装を精密に操る必要なく、徒手空拳での殺意を高めることなく――。

 敵機の構造を把握し無力化に務める必要なく、全機体と全兵装に完熟する必要なく――。


 


 という、そんな意志の具現と呼んで然るべきであった――――。



 一体、どれほどその戦いが続いただろうか。


 散るプラズマ。アーヴァンクの赤き装甲を、切っ先が掠める。

 翻る推進炎。鋭角的な切り返し。

 プラズマが瞬くたびに赤き装甲が焼かれ、そして漏れ出た流体ガンジリウムが銀血として霧になる。

 軽症だ。そう呼んで然るべきほど、大鴉レイヴンの攻撃は掠り傷程度の接触しか行えていない。あれだけの機動を持っても、何一つの有効打すら生み出せていない。


 ……しかし。


 一撃にて致死する攻撃をそれほどまでに耐え続け、凌ぎ続けるヘイゼルを称賛すべきか――。

 それともそれほどまでに、攻撃を回避して僅かな掠り傷を与え続けるだけという、あまりに深遠にして遠大な道を淡々と歩み続ける青年を畏怖すべきか。

 その判別は、シンデレラにはつけられなかった。

 しかし、旗色が悪いのは……


『おいおい、コイツ、どうなってやがる――……』


 そのハスキーボイスにすら疲労の色を浮かべたヘイゼル・ホーリーホック。

 言うなれば、永劫と繰り返される斬撃。

 素振りを以って山を砕くかのような、砂粒を拾い集めて砂漠を干上がらせるかのような途方もない作業。

 幾度と防がれても、躱されても、逃げられても――ただ斬る。

 青年はそれを実行していた。何の躊躇いもなく、何の疲労もなく、何の陰りもなく実行していた。


 これが人類の頂点の九人たる内の一角――――。


 何の技もなく、何の工夫もなく。

 ――……。

 大量殺戮の手段は何ら持たぬままに、それでも最大の撃墜者数に名を連ねる男に対して……そのランクなど、なんら青年の実力の指標とはなるまい。

 当然だ。

 本来ならば、そも、剣一つでそれだけの数を殺せることの方が異常であるのだから――。


 その男は、降り積もる雪にも似ている。

 沈黙の音。

 虚無の守り人。

 絶対なる真空の無であり、確実なる終焉の有だ。一つの明確なる機能にして、ただ一つの有用性だ。


 剣一振りで、何の絶技すらなく至上最大規模の撃墜を可能とした駆動者リンカー

 人類の頂点。

 極光の到達者。


 或いはこう呼ぶべきかもしれない。


 ――天敵種への天敵、と。



 そして、幾度となる接近と斬撃の果てに――赤き【アーヴァンク】はその機体から赤熱痕を消すこともできず、


『ッ、冷却材が……!』


 ついに、戦いの趨勢は決した。

 どこまでも小さな傷を与え続けるようなその攻撃は、しかしどれも高温のプラズマを以って行われる。

 その蓄積された熱。

 仮にガンジリウムが斬撃によって流出しきったなら力場による推進と装甲を奪われ――そうでないなら、凌ぎ切ったところで炎熱による内部破壊により決着される。


 いわば、毒や出血――そうとしか呼べぬであろう。


 極限に至った斬撃という単純な技能は、しかし、その極限たるが故に万物に終焉を与える。

 故の死神――処刑人。

 それは、太古の昔から巨獣を狩るために人類が磨いた戦法そのままに過ぎない。如何なる巨体だろうと、膂力だろうと、敏捷性だろうと、防御装甲だろうと、という唯一無二の定理。


 故に、不死身に等しく――そして全能に等しいそのヘイゼル・ホーリーホックという男も、遂には討ち取られる。

 それが人だ。人のワザだ。

 この青年こそ、まさに人類そのものの刃であった。


『が、ぁ……シン、デレラ……俺は――』


 焼け付くコックピットの中から、虚空に向けて伸ばされた手。

 だが、彼女はその手を握ることはできない。そも、先に手放したのは彼だった。シンデレラの腕を掴み、そのまま彼女を鳥籠に押し込めようとした彼だった。

 故に、その最悪の結末バッドエンドは覆されない。


 そして――紫炎が一閃される。


「――撃墜完了」


 虚無の青年が戦闘中に発した言葉は、それだけだった。

 何の情熱もなく、何の信念もなく、何の決意もなく、何の義務感もなく、何の責任感もない。

 ただ――彼へと届いてしまうような大規模攻撃を行ったときには、その青年は戦場へと現れる。


 一種の定理めいたものだ。

 或いは、こう言い換えてもいいのかも知れない。

 幾度と戦乱が繰り広げられてなおも人類が絶滅しないという理由――、或いはなのだと。


 ……無論そんなもの、ただの妄想に過ぎない。


 その男は軍人であり、彼へと波及するだけの破壊が引き起こされたがために参戦した。

 奇妙な定理もなければ運命でもない。ただの、職務に基づいた社会対応の一種なのだと。

 だが少なくとも、それは、シンデレラ・グレイマンにとっては――……。


「……ありがとう――……ございます……」


 ある種の、地獄に齎された救いに思えてならなかった。

 全てが最悪に染まった中の最悪を塗り潰す最悪。

 滅びを喰い止める滅び。

 もう彼が出てくることが、そも、手遅れでしかないのだとしても。

 愛しい男が死に、彼が多くの人間を殺してしまった最悪の結末バッドエンドだとしても。


 多分それは、速やかに痛みなく振り下ろされるギロチンの刃ほどの――安らぎだった。


「……」


 果ての空から来て、果ての空に戻るのか。

 青年は特に感慨もなく、かつての戦場で共に駆けた男の撃墜を――そしてその失墜を、その堕天が生み出した犠牲を眺めていた。

 空虚だ。

 空虚そのものだ。

 彼を通して、何の感情も伝わって来ない。

 絵画世界を眺めるかの如く、その男は、無数の死の中に佇んでいた。


 故に――……ただ、シンデレラは驚愕した。


「……泣いているのか?」


 美しい娘よ――と。

 空虚そのものである筈の男が、そう、己の頬へと手を伸ばすように語りかけて来たのだから。



 ◇ ◆ ◇



 黒い鳥の話だ。


 その鳥は、何も滅ぼさない。


 ただ――



 或いはその果てなき完全なる空虚を指して、と呼ぶべきか――――。



 その黒き鳥は、伝承のように、死する魂を導くのだろう。 

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