第96話 四つの動き、或いは終端に向けた加速度
宙域に展開した四隻にて作られた艦隊は、その遥か先の目標へ――ある宙間都市に目掛けて、進軍を開始する。
一隻を中心に、上下左右へと展開した宙間輪形陣。
その艦隊旗艦を務める
そんな――航空母戦艦キングストン級一番艦キングストンの
「ふん。わざわざご苦労なことだな」
それを齎したのは、一人の美丈夫。
白いスーツを纏い、ウェーブある髪を靡かせた新設特殊部隊の指揮官を務める男。
彼は【フィッチャーの鳥】からも引き抜いた特殊部隊を率いながらも、しかし、【フィッチャーの鳥】には属していない。特務――と階級にも前置されていないことから明らかだ。
「……調査は、お手のものと言いたいのか?」
「ええ、元はと言えば憲兵隊でしたので」
恭しく道化の如く頭を下げた男へと、艦長――コルベス・シュヴァーベン特務大佐は鼻を鳴らした。
ハンス・グリム・グッドフェローの狂言的な離反と、その後の潜入にて特定されるに至った【
あれだけの名を持つ者が、離反する――。
それは到底信じられぬ事態だろうが、他の
しかし、罠を警戒してコンタクトを図る者も少なく――否、だからこそ、それは罠となったのだ。
そんな不可思議な脱走劇へと、何かを恐れるようにまるで接触を図らなかった者。
そんな者たちにも密偵を放ち、そして先日ようやくその尾を掴んだ。アステロイド・マイニング船による終戦記念日への大規模テロに携わったと思しき者から吐き出された情報や、ハンス・グリム・グッドフェローが現地の【フィッチャーの鳥】へと暴行を加えた事実に対しての反応。
同時に、残党勢力との交戦という不可解な動きによって浮足立った者たちへ行われた尋問――それを以って、シュヴァーベン特務大佐たちが示威行動めいて戦艦を進めていた航路は、まさしく会敵航路と裏付けられた訳だ。
「ふ……これにて、ようやく【
「それは実に喜ぶべきことだろうな。だが私は――……貴様のような顔の男は好かん」
「……」
「元憲兵隊だと? 元は憲兵隊と情報部の二足草鞋だろう、ラッド・マウス大佐。かねてから貴様のことは聞き及んでいる……そんな裏をコソコソと這いずるネズミが、今更表舞台に上がろうとはどんな了見だ?」
片眉を釣り上げ睨みつけたシュヴァーベン特務大佐を前に、ラッド・マウス大佐は涼しげな顔を崩さない。
「心外ですな、閣下。私はゾイスト特務大将のその理念に感服したまでのこと……故に二心なく、心からあの御方の理想を実現しようとしているのですよ」
「……理想?」
口からまさしく誠意を以って吐かれたと言わんばかりのそれを、シュヴァーベン特務大佐は強面の一瞥の下に斬り捨てた。
「笑わせるな。貴様は、酷く薄汚い目をしている――濁った目だ。復讐者の目だ。上手く覆い隠したところで、その匂いは透けているぞ」
「……お戯れを」
「フン、なんとでも言うがいい。だが、貴様のような男とその一派に出る幕はない。我々こそがこの
「……御随意に、特務大佐」
忌々しい汚れを落とすように手で虚空を払ったシュヴァーベン特務大佐へともう一度一礼し、ラッド・マウス大佐は規則正しい靴音で
その扉の外で、腕を組んで壁に寄りかかりながら彼を待つ男がいた。
金髪灰眼の偉丈夫。彼もまた片目に海賊傷を宿して――とは言ってもシュヴァーベン特務大佐のそれとは異なり、彼の目は潰れてはいない。
「相変わらず気難しいね、あの人は。……ま、昔から一騎当千なんてものには懐疑的だったからな。ちゃんと大軍を指揮できる人にとっちゃ、そりゃあそうだろうが」
「フ……“爛れ顔”のシュヴァーベンという名は伊達ではないようだ」
そう笑うラッド・マウス大佐は、しかし内心は表情ほどの感情は持っていなかった。
あくまでも、特務大佐のあの態度はある種のやっかみや縄張り意識によるものであるだけ――。
それを、ラッド・マウス大佐は正確に見抜いていた。
故に――改めて戦艦へとドッキングしていた彼らの母艦に戻ったあとも、彼はその微笑を崩さなかった。
超近未来的な黒山羊の卵めいた船内にて、作戦領域を仮想したホログラムを前にゴールズヘア特務大尉は肩を竦める。
「んで、どうする? 一番槍を務めさせてくれるってんなら存分に喰いちぎってくるが……指揮官があの感じじゃ難しいだろ、それは。いざってときの艦隊防衛に回るってんならフレディ坊やよりも俺の方が――」
「いや、私が出よう」
「……アンタが? だがアンタ、
言いかけたエディスは、ラッド・マウス大佐の浮かべたその微笑を前に両手の平を天井に向けた。
「オーケー、ボス。御随意に。……ただあんまり不甲斐なかったら、俺の方でインターセプトするぜ? その点は念頭に置いてくれよな?」
「好きにしたまえ。……そうだろう、私と同じ不能者だったエディス・ゴールズヘア特務大尉よ」
「……」
「まあ、君と私では方向性が真逆だったろうが……ふ、面白いものじゃないか。どちらも満足に戦えなかった者が、こうして轡を並べることになるとはな」
コツ、コツと手摺もない船内橋を進むラッド・マウスは、すれ違いざまにエディスのその肩へと手を置いた。
案ずるなと――。
気にすることはない、と――そう言いたげに。
「君の願いも、私の願いも叶うさ。……もっとも君のそれは、勝利なくしては選べんだろうが」
「……」
「そうだろう? 偽りの撃墜王、エディス・ゴールズヘア特務大尉」
その耳元で囁やき、手を離す。
代わりに、先程まで彼が立っていたその位置に青いホログラムヴィジョンが投影されていた。
「フレデリック・ハロルド・ブルーランプ特務大尉は、ヘンリー・アイアンリング中尉と同じく【
「……ヘンリー・アイアンリング特務中尉だぜ、ボス?」
「そうか。ふ、そうだったとも。覚えておくとしよう」
微笑は崩さず――彼は進む。
己が形作った
この
懸架されたそのアーセナル・コマンドの外見は、さながらステルス機のように無駄のない機体だった。
沈黙する漆黒の騎士甲冑。
兵器的な実利を持つ機能美と同時に施されている随所で装甲が鋭角的に象られた意匠は、それは単機にて戦場を強襲する兵器としての威容を放つためであり、言わば第二世代型【
余分なき兵器の立ち振る舞いでありながら、今にも自律的に動き出しそうな程に――……ある種の機械化された魔の如き静かなる圧力を放っている。
「……さて、それでは演目を始めるとしよう」
コックピット内の呟きに応じて灯る真紅のバイザー。
漆黒の機体の中、流線型に丸みを帯びた騎士兜から∨字を描くような横一文字スリットが線香めいて光った。
その後頭部のあたりから流れる闇を集めた髪の如きワイヤーが、力を与えられた触腕の如く宙へと先端を広げる。
銘を――【
与えられるべき主の手に渡らなかった、人機にして魔剣とも呼べる機体である。
「星の乙女よ。……君が守った世界とやらは、こうも容易く砕けるのだと――知るがいい。盲目なる者よ」
そしてその内で、美丈夫が指を鳴らす。
同時、あたかも魔騎士が咆哮を上げるかの如く――急速に充填される流体ガンジリウムに従い、その機体は艦内の空気を震わせる振動を放った。
◇ ◆ ◇
そのコックピットの内で、少女の小さな手のひらが指を鳴らす。
同時に――ひとりでに動き出す文房具。
否、そう見えているだけだ。実際のところそれらのペンや定規や消しゴムは、不可視の圧力によって操縦されている。
「――――……♪」
それを見守る金髪の少女の、どこか上機嫌な鼻歌。
ある意味で、夢の国や童話めいた光景だ。
それが自作自演的と判っていながらも、それでも度重なる力場の精密操作によって今ではほぼ無意識的に――つまり、半自動操縦のように操作が叶っている。その気になれば、多分なんの意識さえしなくたって操れる。
かつて子供の頃に、誰も居ない家の中で眺めたアニメ映画。
それを思わせるような文房具たちのダンスパーティーに、シンデレラ・グレイマンはほんの少しだけ明るい気持ちになった。
そして――……待ち侘びた通信が入る。
『生きておられたのですね、ミス・グレイマン』
「なんですか、その言い方。……それともわたしが死んでいた方が都合がよかったって言いたいんですか?」
『……いえ。我が主は、それを望みませんので』
通信の向こうでそう呟いた黒髪の青年――ローランド・オーマイン。
赤き片目を伸ばした黒髪に隠した彼は、シンデレラが合流してからというものいつもこの調子だった。船の艦長を努めながら整備計画にも口を出し、補給などの立案や交渉も行う――ある種の完璧な執事じみてウルヴス・グレイコートに付き従う彼からは、どこか敵意が見え隠れする。
とは言っても、何ら実害には及ばない。
彼は、その点は弁えている人間だったのだろう。シンデレラへの差別的な取り扱いもなければ、むしろ、他のクルーと違って世話は焼いてくれていた方であると言えた。
ただ、敵意を――シンデレラはそれを感じてしまう――押し込めながらもそう振る舞われるのが、どうにも息が詰まって苦手なだけだった。
『まさかあの状況で生き残れたことは驚きでしたが……所定の緊急連絡方法を覚えていただいていたようで何よりです。お送り頂いた機体の試作案は、既に、ルイス・グース社へと提出済みです。……あそこまで精密な初期案は、技術者たちも初めてだと言っておりましたよ』
「ありがとうございます。……それで、どうやって合流すればいいですか?」
シンデレラがあのような危険を犯してまで
その中にまさか裏切り者がいて、シンデレラが
それでも無事に通信の確立はできた。そう、安堵したいところだったが……続くローランドの言葉に、それは裏切られた。
『……ミス・グレイマンにはこちらへの合流ではなく、行っていただきたいことがあります』
「……? なんですか?」
『その、ルイス・グース社の有する宙間工場へと【フィッチャーの鳥】による圧迫が行われています。当初は再三に渡る示威的な軍事ハラスメントでしたが、遂には艦隊を差し向けました。その中には、こちらの戦略目標――キングストン級一番艦の姿もあります』
「……!」
彼の言葉に、シンデレラは琥珀色の目を尖らせる。
『修正された戦略方針では、コルベス・シュヴァーベン特務大佐率いる艦隊に敢えて敗北しつつ、宇宙での制空権を確保させた上で地上で大規模な攻勢をかけて運搬衛星を引き出すというものでしたが――状況が変わりました』
「……見逃せないって、ことですか?」
『そうなります。……企業体からの支持によって成り立つ組織である以上、その危機は見過ごせません。我々は、彼らの防衛を行わなくてはならない』
「……」
何も、全ての支援者が理想に殉じている訳ではない。
いや――理想に殉じる、などということがあっていい訳はないのだ。生存と安穏という理想を掲げたからこそ、彼らは立った。そんな細やかな願いの灯火を集めて、この組織は篝火に変えた。ならばその要求も必然だろう。
シンデレラはそう思った。そう思うことにした。
一歩間違えれば、どちらにでも転んでしまう――理想と現実。
行き過ぎればそれはあの【
そのどちらにも傾き過ぎぬためには、ただ小さな灯火を見詰めて己が襟を正すしかない。
『こちらの一存にて、【
「偽装する、ってことですか?」
『ええ。まだ正式に
「……」
『……そして何にせよ、【
ローランドのその言葉は、選べる中で最大限現実に即した上での結論なのだろう。
『グレイコート大尉も、後詰めとして戦線の指揮に入ります。とはいえ、あちらは秘匿された【
「……」
『とはいえ、こちらも只今【
淡々とされる指示の内、シンデレラは疑問に思うことがあった。
「……その人たち、ヘンリー中尉に撃ち落とされたんじゃ」
本来ならば宇宙に上がった筈の二隻と合流すべく、その大気圏離脱という最も脆弱な点を抑えるべくして行動していた航空軽巡洋母艦と
そこには、肝煎りと呼ばれるに足るだけの人材が集まっていた。
撃墜数ランク第二十位――ライオネル・“ザ・バッカニア”・フォックス。
撃墜数ランク第十八位――ハンク・“ザ・バンク”・スタンレー。
撃墜数ランク第十二位――カリュード・“ハンター”・カインハースト。
その写真は、シンデレラでさえも見たことがあった。
彼らも【
だが――
『……カリュード・“ハンター”・カインハースト大尉、ライオネル・“ザ・バッカニア”・フォックス中尉ともに、この手のことはよくある方たちです。既に復帰しており、作戦遂行に支障はないそうですのでよろしくお願いします』
「えぇ……」
何言ってるのかちょっと判らない。
そんなシンデレラの戸惑いを、何かのジョークに対する反応として受け取ったのか……。
『……
「えぇ……」
本当に何を言ってるのかよくわからない。何言ってるんだろう。何の冗談なんだろう。その人たちなんか生まれる場所間違えてないかな。なんなんだろう。あの情報誌の内容が嘘じゃなくて本当だなんて信じられるわけないに決まってるだろう。なんなんだろう。
そんな困惑を抱えたシンデレラに想定作戦宙域などの情報が送られ、そうして通信は打ち切られる。
そんな一段落――……。
その精神の緩和が齎したそのままに、シンデレラは口を噤んだ。そして、胸に抱えたカーキ色のフライトジャケットを抱き締めた。
直接の面識がなくとも、現実に撃墜された人間がいると聞けばその焦燥の影はにわかに実体を帯びる。
三人の内、二人の超常的な人物が生き残ろうとも……少なくとも一人は死んだ。雑誌で特集されるような、自分も写真だけは見たことがあるエースパイロットが死んだ。
人は、死ぬ。死ぬのだ。
「……大尉。嫌ですよ、これが、形見になるなんて」
回した手に力が籠もる。異能に等しいほどの生存力を持つ彼らとは、きっと違うだろう。
疲れもすれば傷付きもする。そんな男が、生身で、ライフルを握る敵兵たちを惹き付けた――――。
万が一を考えてしまう。あの時、目の前で物言わぬ躯となってしまった男性のように血塗れで倒れ込むハンス・グリム・グッドフェローを想像してしまう。
それを打ち消したくて、しかし、脳裏からは完全には振り払えない。
いくら彼が凄腕の
でも、
(大丈夫。きっとまた会える。大丈夫――……大尉が、死んじゃうわけない。大尉は約束を破らない人だから……きっとまた、会える……大丈夫……大尉なら大丈夫……)
フライトジャケットに回した腕に力が籠もる。
会いたい――……。
あの人に会いたい。また無事な姿で出会って、その声を聞きたい。不器用に伸ばされる手を今度こそ取りたい。抱き締めたい。抱き締めてほしい。そんなことができなくてもいい。本当にただ会いたい。
いや、それ以上に――……ただ無事でいて欲しい。
もう一人でどこかに行こうとしないでくれ、と。
自分も連れて行ってくれ、と。
貴方とずっと一緒に居たいのだと――そう言いたい。
鋼のような心で、鋼のような身体で、それでも傷だらけになってしまう彼を抱き締めたい。抱き止めたい。
いや、そんなことができなくてもいい。ただ彼の無事を確かめたい。どこかで生きてさえくれていたなら、それだけで何よりの福音だ。今すぐこの鋼鉄の檻を飛び出して、その安否を確かめに行きたかった。
だけど――
「……わたしは、わたしがやるべきことをやらないと」
滲んでしまった涙を拭い、コックピットの正面に顔を向ける。
この戦いが終わらなければ、そんな望みは叶わない。叶えようがない。シンデレラには、そんな道は選べない。
ならば――前を向いて戦うだけだ。
全てが終わってしまう前に。全てを終わらせられてしまう前に。
再び、この地球圏を分断させる兵器の存在が使用される前に。
あの【フィッチャーの鳥】が有する災禍が解き放たれる前に。
それを、止めなくてはならないのだ。
「力を貸してください。……怖がっちゃうわたしに、逃げたくなっちゃうわたしに……貴方の力を」
預けられたカーキ色のフライトジャケットに袖を通して、操縦桿を握る。
そうすると、彼がそこにいて守ってくれる――そんな気がした。
◇ ◆ ◇
赤き炎髪の少女が、その重厚な十字架じみた大型の機械回路を握る。
あまり広いとは言えない船内。
遥かな宇宙の果てを進むべく誂えられていた開拓者の船は簡素で、そして今や、その役目を手放している。
殺風景な軍用船じみた廊下の一角。
彼女の目の前で嗤うは、毛先に連れて錆びていく銀髪を三つ編みに編んだ
そこに清廉さはなく、そこに高潔さもない。
ただ喜悦に頬を歪めた獣の如きしなやかさを持った青年は――ある
そして、宙域封鎖されていたその都市の混乱に乗じた脱出を図るそのときから、彼は――アーネスト・ヒルデブランド・ギャスコニーは、彼女の個人的な従者の如く従っている。
……
だが、
「これさえあれば、旧型でも今の最新型に張り合うこともできる――か」
「そこら編は肝入りでね。……は、は。そうだろう? あんたらも、おれたちも、物資ってのは限られてる。だから――……有効に使わなければ、だもんなあ?」
「……」
その男が齎した、ある《
そして、別働隊として行動していたジョン・“ドールマスター”・ヘムズワースと彼が属していた航空駆逐母艦の轟沈を以って、そんな曰く付きの男は受け入れられた。
その一幕に関して、残党たちを束ねるアンドレアス・シューメーカー大佐は、彼を受け入れることへの艦内からの不満に対して「我々の大義故に――」という言葉を口にしていたが……最早、ウィルへルミナは冷めた目を向けただけだ。
男らしさと武人らしさを、失われた軍人としてのアイデンティティに充てた哀れな狂信者。
軍人としての何ら正当性に欠く行動をしているという無意識の自覚を補うためにか――殉教者気取りの顔をした扇動者の自覚すらない破綻者には、彼女はもう侮蔑すらも抱かなかった。
そうだ。
今の彼女にあるのは――
「麗しいねえ、お嬢さん。炎だ――炎だよ、それは。その目の炎だ。そうだろう? 瞳ってのは窓さ、繋がるための窓なんだ――……だったら、ああ、その瞳に熱を持ったあんたにはまさにそれが赦される」
「……」
「呑み下したかい? 言祝いだかい? それとも、恨んだかい? ……ああ、だがそうだな。それは、もう、ただそういうものさ。特にあんたにとってはそうなった。……はは、天啓に感じたかい? だけど、天におわしますはあの方のみ、あの方は天におわしますのみさ――……」
「……」
「なら、だったら、おれたちはそんな偶像を砕かなければならない。そうだろう――……?」
ウィルへルミナの言葉を待たずして、何かを見抜くようにその瞳を覗き込んだ神父は頬を釣り上げた。
金色と赤色――その視線が、交錯する。
それに、ギャスコニーは実に満足そうに心からの笑みを零す。
今の彼女には、彼の言葉が這い寄る余地がない。忍び寄り、踏み込み、染み込み、溶かし解す――……そんな余分がない。ただ、燃えている。灯っている。それは、あの錬鉄の剣を作り上げる炉と同じ類の焔だった。
「は、は――……関わるってのはそういうことだ。灯されるってのはそういうことだ。あんたは確かに、その火を受け継いだのさ。……或いは、魅せられてしまったのかな。そうも、繋がりたくなってしまったかい? 御令嬢」
「……っ」
顔を寄せて耳元で囁いた揶揄するような青年の口調に、ウィルへルミナは僅かに眉に力を込めてから、その肩を押し返した。
「戯れ言は十分だ、狂信者。……ここに来た以上は、お前も役立って貰うぞ」
「は、は――そりゃあ勿論だよ、御令嬢。だっておれたちはしがない傭兵で、あんたたちは惨めなテロリストなんだ。……そうだろう?」
「……」
踊るように、手を広げる。
恵みの雨を受け止めるかのような軽い足取りのまま、ギャスコニーは彼女の背後に回り込んだ。
そして背中側からその肢体を抱き竦めるように、その淡き炎髪を擽って耳元に寄せられた甘く囁く湿った唇。
「おれからの要求は一つさ。あんたのその炎の果てを見せてくれ――……いいか、おれに見せるんだ。点いてはいけない火の先を、おれに。……わかったな、小娘」
「まったく……」
吐息を一つ。
それと共に、ギャスコニーの顎と鳩尾に衝撃が走った。
頭突きと肘打ち。
次いで、踊る炎髪。回る足運びと共に振りぬかれたショートフック=
僅かに身体を曲げたギャスコニーの十字架をさながら首輪の如く握り、ウィルへルミナは吐き捨てるように言い放った。
「飼い犬が主に命令をするな、雑種。お前は私の指示を待てばいい。……すぐに望み通り、餌を与えてやる」
「は、は――……いいね。ああ、すごくいい。たまらないよ、あんたは」
「言葉を選べ、狂人。私は平たく均すことに、何ら躊躇いを持たない」
その瞳に灯ったのは、強き決意だ。
彼女は、それを齎された。
絶対に己を曲げず、道に立ちはだかるものを踏み潰してただ一直線に進むような絶対的な行進――――。
彼女の婚約者を殺し、縁者を殺し、友人を殺し、幼馴染を殺した加害者だというのに、それでもなお――そんな恩讐への炎をも忘れさせるほどに、ウィルへルミナの内に煌々と灯ってしまうほどの火を齎した滅びの魔剣。
そうだ。
その男への多くの憤りや恨み言などを抱いていたという――これまでの人生の一切が、あたかも薪に火を灯すように焼き払われるほどの鮮烈な体験をした。
それは福音だった。
凍えるような暗闇の中でかろうじて見付けた篝火にあたる小人のように、彼女は、彼女の内なるその怒りは、それに――その炎に見入ってしまっていた。魅入られてしまっていた。
己の道を阻むものを蹂躙し、殺戮する処刑の刃。
父の末期の言葉に従うという言い訳によって彼女自身が復讐を呑み込んだ武力の主たちを、意図も容易く蹴散らした絶対的な暴力。
何一つ譲らず、退かず、省みない純粋なる破壊の化身。
ああ、何たる――何たる一切の呵責なき精錬たる焔か。
そうだ。
それを覗き込んだ。目の当たりにした。直視しすぎた。手を触れてしまった。
ウィルへルミナがこれまで抱えたる、しかし世に産まれ出ることを遠ざけていた内なる怒りへ――形を与えてもいいのだと、示してしまった先達があった。
ああ――……故に、こう言おう。
彼女もまた、火を受け継いだのだ――――。
「私は、何一つ容赦などしない。精々、お前も好きに踊るがいい……その骨身を、炎が蝕むまで」
そう告げて、彼女は踵を返す。
父の訴えていた理想など、構わない。人として呑み込み押し留めるべきだと思っていた倫理など、どうでもいい。
均すだけだ。
全てを平らに均すように進むだけだ。
この日――いや、あの日にハンス・グリム・グッドフェローが行使した圧倒的な暴力の火が燃え広がるように、ウィルへルミナ・テーラーは生まれ直した。
歩調に合わせて靡くその炎髪がまさしく焔を表したかの如く、その激情は燃え上がる。
もう、あの、何かを慮った少女はいない。
ハンス・グリム・グッドフェローの持つ側面の内、暴力という悪しき炎を受け継いだ令嬢の姿が、そこにはあった。
だからこそ、
「おやめいただきたいものですね……彼女を惑わせるのは。その先に待つのは破滅でしょうに」
入れ替わりに影から現れた全身黒ずくめの黒髪の男へと、肩を竦める錆銀髪のギャスコニー。
それは這い寄る毒蛇めいた宮廷道化師と、獲物の芳しき血液に頬を歪める邪教の信徒の邂逅か。
「は、は――……どうせ滅ぶさ。そうだろう? 遅いか、早いか――……ああ、いや、そうだなァ。それとも決して滅ぶこともない、か。……或いは、あんたは滅ぼしたいのかい?」
「おや、心外ですね。わたくしは心から彼らの安寧を願っているだけです。……そうでしょう? 魂の全てがこの血塗られた大地に囚われてしまうなら、望むことはせめてその生そのものの僅かなる安らぎに他ありませんから」
それぞれ別方向に酷く示唆に富んだ言葉を用いる彼らは、それでも自然に会話を続けていた。
アーネスト・ヒルデブランド・ギャスコニー。
トレス・スネークリーフ。
穏やかに握手を交わし合うように、或いは静かにその臓腑を睨みつけるように――。
二人の邪智にして悪徳を囁く伝道師めいた男たちは、殺風景な廊下すらも
「それにしても――ああ、すごいねえ。あの御令嬢は。まさしく悪と――……ああ、悪と呼ぶしかないじゃないか。そうだろう? 戸口から秘密を覗き込むものってのは、すべからく、悪さ」
「そうでしょうか。悪とは、まさにその行為ではなく本性によって――……ああ、いえ、そうですね」
大仰に顎に手を当てたトレスが、ギャスコニーの言葉へ追認する。
「ウィルへルミナ……まさしく彼女は、悪と呼んで偽りはないでしょう。あの在り方は、その力は、今のこの世における絶対的な悪です。ええ……そう定義されるのも、誠に残念ながら然るべきでしょうか。人はそれを、悪逆と呼ぶのですから」
そうして言葉を交えあった男たちは、やがて、どちらともなく姿を消す。
この船に満ちるのは、盲目と悪徳だ。
ああ、まさにここが塩と硫黄の町となるのか――或いは、世にそれを齎すのか。
「さて――……どうする、嵐の裁定者よ。ははっ、また相見えるまでにアンタは――……一体、どうなっているんだろうなァ――……」
首から下げた十字架を布で拭いながら、アーネスト・ヒルデブラント・ギャスコニーは頬を歪める。
それは愉悦を待ちわびている風にも、或いは哀惜を堪えている風にも見えた。
◇ ◆ ◇
灰色の煉瓦壁を思わせる外観を持つその店は、古城のような佇まいを見せている。
鮮やかな朱色の絨毯と、白く清潔な革のソファ。光の噴水じみたシャンデリア。
そしてステージの幕は下り、黒く重厚なグランドピアノもその役割を待ちわびている。
乾いた布が滑らかな面を擦る音。
豊満な胸元を覆い隠す黒ドレスの上に黒カーディガンを羽織った美貌の少女は、赤絨毯に今にも届かんばかりの豊かな薄き栗毛の髪を揺らしながら、己の相棒とも呼べるそれの手入れをしていた。
どこか、喪服めいた印象を抱かせるその衣装。
そう思わせるのは、睫毛が長く佇むだけで憂いがちに見えるその表情が、より翳りというものを漂わせているためだろうか。
コツコツと、店外からドアに向かって響く靴音。
その音に少女は反射的に顔を上げ――……しかしそれからすぐさま、僅かに輝いていた目を伏せる。
長い嘆息と、また動き出す手。
それから、ドアが開かれた。
「……あら」
意外そうに、またほんの少しだけ開かれた橙色の瞳。
彼女の視線の先に立つ白いジャケットの男は――十人が十人それを見て、憔悴していると判断するだろう。
艷やかだった黒髪はそれを失い、穏やかにして悪戯げに溢れていたライトブルーの双眸は擦り切れて乾いている。そして全く手入れのされていない無精髭は、到底、その男らしさというものを欠いていた。
そして、無精髭の下で緩やかに口が開き、
「……グリムの奴は?」
甘く漂う筈の嗄れたハスキーボイスは、掠れていた。
そんな様を眺めつつ、マーシュ・ペルシネットは肩を竦める。むしろこちらが聞きたいぐらいだ――とでも言いたげに。
そんな彼女の仕草に、男が――ヘイゼル・ホーリーホックが片眉を釣り上げる。
しかしそれすらも気にしない、ある種の貴人の怠慢のような態度のままに彼女は一瞥の後に言った。
「酷い顔ね、軍人さん。……そんな顔で彼の前に行って、何をする気かしら。動く筈の足を止めてまで、撃ちたいものは見付かった?」
途端――鋭く尖り、刃物めいて尖った二つの瞳。
眉間に強く刻まれた皺と、強張った頬の肉。
一足飛びに領分を超えた言葉。
店外で、瞬く間に鴉が飛び立つ羽音がした。
それは言うなれば、弾丸が放たれる前の如き、つまりは引き金の音すら木霊するような静寂か。
時計でさえ沈黙し、風ですら呼吸を忘れる。水滴だろうと滴る音を止め、或いは沈む夕日も顔を背けるだろうか。
張り詰めた無言の音色が店内に満ちる中――……だがそれすらも構わぬもののように、少女は無表情に続けた。
「……それとも、私に怒りをぶつけてみる? 慣れているから、構わないわ」
「マーシュ……マーシュ・ペルシネットだったか……?」
「ええ、そうよミスター
冷ややかな流し目を一つ。
それきりマーシュはヘイゼルへと背を向け、再びピアノを磨く布巾を動かす。まるで彼などいないように。或いはその殺気など、恐れてはおらぬように。
人類最高峰の殺人者に、無防備に向けられた開いた黒ドレスの背中。
それを暫し見続けたヘイゼルは段々と静かにその肩を丸め――……やがて呟いた。
「パースリーワース」
マーシュの手が止まる。
「マーシュ・パースリーワース。……そう呼ぶべきか、かの
「……」
そこでようやく、再び、彼女は彼に向かい合った。
何の感情も、恐れも、怒りも感じさせない橙色の瞳。
それでも静かなる伏し目がちであった筈の少女は、ヘイゼルを正面から見竦めて口を開く。
「貴方もそう? 父を通して娘の私を見る――……あれだけの戦争になった原因、それとも勝利の理由? 流血を貪った政治家? 或いは英雄の娘? それとも獄中死した哀れな罪人? 或いは初恋の女を奪った男の――」
続けられようとした言葉を断つように、甲高くピアノが鳴った。
鍵盤に置かれたヘイゼルの指。
右手の、人差し指。
引き金の指。
橙色の瞳を僅かに見開いたマーシュへ、無精髭のヘイゼル・ホーリーホックは乾いた片笑いを浮かべた。
「……音が、消えなくてな」
「……」
「……不躾過ぎてお兄さんらしくないんだがね、一曲引いて貰っても? ……何か、思い出せるかもしれなくてな」
男の自嘲じみた言葉に対する返答は――……小さな吐息と共に、鍵盤に伸ばされた白く細長い指だ。
静かな漣のような曲が店内に響く。
どれほどそれが続いただろうか。
ぽつりと、ピアノの足に背を預けて床に腰を下ろしたヘイゼルが言った。
「……グリムと同じだ。お前さんに、恨み言なんてねえよ」
マーシュは、答えない。
膝を立てた男の後ろで、ただピアノの音だけが響いている。
「戦ったのは俺たちで、殺したのは俺たちだ。……俺たち皆がそうだ。アイツも、俺も、納得ずくでそうなった」
「……」
「ああ、そうだ……何から何まで、俺たちは納得ずくだった。そうだったな……そう、だったんだ」
曲だけが続けられる。
少女は、何も口にしない。
しばらく聞き入るように目を伏せていたヘイゼルの瞳に僅かなる意思の光が灯り、それはすぐさまに慮るような疑問として零された。
「……アイツのことを、そんなに信じられないのか?」
マーシュは、答えなかった。
ただ、陰ることないその指運びに合わせてピアノが鳴るだけだ。
それきり、ヘイゼルも続けなかった。
……やがて、その曲も終わる。
最期に一度跳ねるような高音が響き、そして、鍵盤を滑らかに叩いていた指が止まった。
その小さな唇が動き、
「……別に。ただ――嫌なだけよ」
「嫌?」
問い返すヘイゼルへ、マーシュは静かに瞳を閉じ――にわかな沈黙を置いて、言った。
「碌に覚えられてもいない女の名前を名乗らされるなんて、癪じゃなくて?」
どこか稚気じみた文言を乗せながら、しかしそれだけではない感情を込めて零された呟き。
それを聞いたヘイゼルは、少し間を置いてから――……肩を竦めて小さく笑う。
「ピアノの礼だ。……そういうことに、しておくぜ」
「……一言余計よ、ミスター
「なら、道化を彩る曲を頼みたいところだな?」
「……そ」
そうして、また曲が始まる。
その指の動きを眺めつつ、僅かに目を閉じたヘイゼル・ホーリーホックは人差し指を動かした。
彼がヴァイオリンを握っていたら、
それとも――……。
その静かな演奏会は、やがてヘイゼルがピアノの影から音もなく消えるまで続けられた。
いつの間にか去っていった男に気付いた後に、マーシュ・ペルシネットは天井を見上げる。
その先の何かを、見通そうとするかの如く――……。
或いは、
「……誰かの言葉で言い表せるだけ、貴方は人と関わっていない。そうでしょう、孤独な
それは、どこか沁み入るほどに悲しげに……。
マーシュ・ペルシネットは、再び鍵盤に指を添わせた。
◇ ◆ ◇
【フィッチャーの鳥】は、【
同時に残り五個宇宙艦隊のうち、一個を【
残り二個を機動監視業務に。更に残りを
【
その陸上部隊は、
そのうちの一部隊が、未知の大型アーク・フォートレスと交戦を開始した。
【
【
迫る。
戦火が、迫る。
やがて、地球圏最大規模の内戦が発生する。
星歴二一三年――十二月も末の出来事だった。
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