閑話 シンデレラ・グレイマンのある小さな非日常、或いは終末の未来


 その人の言葉を、思い出す。

 通りも見えない中庭への窓を開けた、夕闇に薄暗く薫る部屋で。

 老いて、しゃがれた声で。

 ピンと伸びた背筋と、細く長い涼しげな手足で。

 その白い指先をこちらの頬へと伸ばしてきて、金色の髪を掻き分けながら。


『いいかい? 作っておくべきさ、小さなレディ』


 その軍人は――元軍人は、頬へと手を沿わせる。

 ひんやりとした指。

 皺があって、節くれだって、それでも何年も立ち続けた樹の枝のように美しいその指。

 青い目を細める――

 恩人。シンデレラ・グレイマンの恩人。攫われたシンデレラの窮地を、たった一人で救ってくれた美しい老婦人。老紳士のような、老婦人。彼女のその身なりは、どこか、鴉を思わせた。

 銀色の髪と、濡れるような漆黒のマント。一人この世界に迷い込んだ過去からの旅人のような――黒衣の女軍人。


『紅を引く、化粧をする、ネイルでもマスカラでもいい。髪を切るでも、際どい下着でもいいさ……女はね、男より派手に多彩に気飾れるんだ。だから、


 先生、と呼んでいた。

 何がその手にあった訳でもないシンデレラに対して、確かに先達を努めてくれた人生の先輩。教師。

 父母がいない家よりも、足を伸ばすことが増えた古めかしいアパート。最低限の家具以外は、アンティークめいた銃や、同じくアンティークめいたサーベルなどしかない部屋。

 彼女は訪れると、いつも、その手入れをしている。

 廃墟のように生活感は少なく――……。

 ただ、オイルランプは置いてある。まるで下を向いた鈴蘭の一輪のように、曇り硝子がふわりと広がったアンティークランプ。その明かりだけを頼りに、マッチで葉巻に火を点けた鴉の婦人は笑う。


『そうだろ、リトル・レディ。誰に見せるためでもない、誰に褒められるためでもない……。あんたも、そういう戦闘服の一つでも持っておくべきさ。戦闘形態とでも言おうかね』


 漂う紫煙。

 肩を崩して、彼女がティーポットへと手を伸ばした。

 薄暗く落ち着いた部屋の中で、おまじないみたいにふわりと香る紅茶の香り。

 不思議な匂い――……今まで、どこでも味わったことのない優しい匂い。


『筋肉、骨格、体重……男の方が強い理由なんていくらでもある。細腕、脂肪、体格……。アイツらには、化粧ってもんが許されてないからね。


 その老女は、軍で教官を努めていた。

 射撃の腕を買われて――元は狩人だと冗談めかして笑った彼女についてシンデレラが知ることは、少ない。

 それでも教えてくれた。

 身の守り方。躱し方。ちょっとした童話や詩歌。ときには老女の古い友人の話とか、悪夢のような戦いを切り抜けた弟子にして戦友の話とか、昔どこかで聞いた恋の話とか――……色々なことを教えてくれた。

 それはきっと、子供に対してではなく。

 同じく人生というものを歩む一人の人間に対して、先達として、賢者の知恵を。


『いいかい、リトル・レディ。あんたが自分で魔法をかけられる立派な淑女になるまで、あたしが魔法をかけてやろう。ババアの魔法使いなら――……ほうら、信頼できそうだろう?』


 そう、僅かに頬に皺を浮かべながら不敵に笑う。

 多分、シンデレラ・グレイマンが誰かに憧れたというのは――それが初めてだったと、思う。

 名前は、レイヴン・クロウ。

 大鴉の爪レイヴン・クローではなく――大鴉レイヴン黒烏クロウ。つまりは彼女は、名を名乗らなかった。


 それがまた余計に、彼女との思い出を――魔法にかけられたと、思わせてくれるものだった。


 彼女が職を満了してから街を去るまでの一年。


 それは確かに、魔法のような日々だったとシンデレラは思う。



 ◇ ◆ ◇



 肩を過ぎて背中の真ん中に届いたあたりで切り揃えられたふわふわの金髪の毛先を少し弄んで、シンデレラはトイレに備え付けられた鏡を改めて眺めた。

 元は、腰のあたりまで伸ばしていた長髪だ。

 ただ軍属となるにあたっては、それは些か憚りになると思えた。どうしたって動くことが多いので邪魔になるし、何よりも脊椎接続アーセナルリンクの際に巻き込む危険もあるし、軍属という限られた時間の中で髪を乾かすのはとにかく手間だ。

 そんなこんなで――同性であるエルゼ・ローズレッドから、基地にいれば大抵のものは手に入ると聞いて、真実その言葉通りに基地内に美容室はあって、こうして散髪を済ませた。


 ほんの少し、身が軽くなった気分だ。


 おまじない――あの老女が教えてくれたもの。

 家を空けがちだった両親の代わりに、様々な話を聞いてくれた。誘拐されかかったシンデレラを助けてくれただけでなく、その後についても……本当に恩人だろう。

 彼女が見たら、なんと言うだろうか。

 「は、似合ってるじゃないか、リトル・レディ。サマになってるよ」と葉巻を咥えながら不敵に笑うだろうか。

 その様子を想像してなんだか面白くなり――……それから、そんな彼女ももう街にはいないのだと思い出して寂しくなる。


 母親からのメッセージは、あの、父が攫われた日から来ない。

 それだって、簡素なものだった。

 「何か問題ある?」という言葉――問題しかないのに。わかりきってるのに。そんな形だけの確認をして、それを言い訳にして、彼女はまた仕事に戻っていった。その手塩にかけた機体が盗まれたというのに……いや、だからこそ忙しくなったのかもしれない。

 またいつものように、レンジで温められた料理を食べる日々だ。

 そういう意味では――……彼が行動を共にしようと声をかけてくれたのには、助かった。基地の食事は、誰かが作ってくれて、温かいものが出てくる。

 新鮮だった。新鮮な日々だった。これから命懸けの戦場へと向かうことになるというのに、それがどこか現実感を感じさせないくらいに。


(……今日から、【フィッチャーの鳥】に出向。あんなふうに暴力を振るうような人たちの中に――)


 考えると、少し、背筋が寒くなる。

 十二歳の秋に、誘拐された。

 何か身体にされた訳ではないが……麻袋を被せられて何も判らない中で、ゴツゴツと力強い男たちの腕で運ばれたことには恐怖を抱くには十分だったし、また、身長だとか身体の発育だとかに随分と侮蔑的な言葉もかけられた。

 十一歳を境にパッタリと身長は伸びなくなって――今ではクリスマスプレゼント代わりに父母が研究していたアーセナル・コマンドに乗せられたからだと判る――そのやや前から女性的に成長し始めていたそれだけが残った。


 随分と、日常で男たちの目線も感じた。

 噛み付くように言葉を向けるシンデレラを煩わしそうに見たあとに、それから、何かに気付いたように目の色を変える男。不自然に優しくなる者もいれば、逆に高圧的に接しようという者もいる。それに抗うためにも、余計に自分の言葉は尖っていった。

 老女に勧められて、コンバット・シラットという格闘技を習いもした。護身術だ。どうにも身体の動かし方というか勘所が自分にもあったようでそれはかなりの速さで上達した。しかしそれでもある程度形になった頃に、彼女から手合わせを申しつけられ、そこでコテンパンにされた。

 付け焼き刃の力をありがたがるなと――自分が強くなったという思い上がりが余計に危険になるのだと、そう言われた。そのときは厳しくて、怖かった。また、いくら凄腕であると言っても老女である彼女に抑え込まれてしまうあたり、それを頼りに男性に対抗しようというのは無謀だと思い知らされるには十分だった。


 だから、も、とても危険なことをしたとは判っている。判っていた。

 でも、あの彼女と違うような老人に向けて――まさに轢き殺しそうな運転をした上で倒れた老女に手を差し伸べもせず、挙げ句、居丈高に振る舞う彼らをどうしても見過ごせないと思ってしまったのだ。

 そして――


(大尉……)


 彼に、出会った。

 そのときは、危ない人だと思った。人に向かって撃てばバラバラに弾け飛びそうな拳銃を街中で抜いて、何の躊躇いもなく相手に向けながら警告を行う黒髪の青年。それはあまりにも明白なる一つの純粋な暴力であり、有形無形やあらゆる修飾を超越しただった。

 とぼけているのか、本気で言っているのか判らない――それでいて白刃を喉元に突き付けながら確実に行われるような警告。刃物の輝きの如く冴えたアイスブルーの瞳。

 今までシンデレラが出会った中には、間違いなく存在しない男性だったし――……出逢いたいとも思えない男だった。


 だけれども、その後彼が口にした心構えは……あのとき自分を助けてくれた老女と同じで、粗暴だったり横柄だったり乱暴だったりする軍人ではなく、ちゃんとした軍人さんの方で。

 だからこの人の話を、少し、聞いてみてもいいんじゃないかと思わせてくれた。

 噛み付くような物言いになってしまったシンデレラに対しても、彼は煩わしそうな様子を一切見せなかった。かと言って異性としてシンデレラとの距離を埋めようという形ではなく、本当に、一人の人間に対して敬意を以って接してくれている――と思わせるには十分なもの。

 だから、少しだけ会話が心地よかった。

 あんなに簡単に銃を抜いたのが嘘と思えるほど、その声色のように穏やかで落ち着いた男性だった。


 あとは、また顔を合わせたときに……少し会話をして。

 その時改めて、この人は信用できる人なんじゃないかなと思えた。やはりその言葉に嘘もなければ、シンデレラに女を見て――その機嫌を取り繕おうとしている訳でもない。ただ、会話の内容を真剣に受け止めて、それに関して何某かを真面目に考えてから言葉を発してくれているだけの人だった。

 ……そうだ。そういう、嫌な視線を感じなかったからというのもある。確かにある。彼は穏やかに、誠実に、目を見て話してくれる。無遠慮な視線をぶつけてこない。

 父母が留守にしているときにずっと食事なんかの面倒を見てくれた幼馴染の家に行かなくなったのは、段々と、彼が少年から男としての――何かの期待と欲を含んだ目を向けて来ていたというのもあったのに。


 今は、それだから――逆に、


(……大尉は、どう思うんだろう。似合ってるとか、思ってくれるのかな……)


 制服に包まれた自分を、鏡の中で少し回して――チラと見てみる。

 軽くなった分、動きに合わせてふわふわと揺れるようになった。自分ではあまり判らないけど、シャンプーの謳い文句に従うなら、それでその度に香りが漂うと言われているが……どうなのだろうか。

 ……わざわざ、そういうものを選んでみた。少しは効果があればいいんだけど――と思って。


(べっ、別に大尉にそう思われたいって訳じゃないんですよ! これはわたしへのおまじないなんですから! 別に大尉にどう思われようと、なんとも! ……そうです!)


 首を振って搔き消す。

 別に彼のことなんて、特に異性として意識なんてしていない。ただ、同年代よりも落ち着いていて、こちらの話を聞いてくれて、色々な経験を元にした言葉があって、約束はちゃんと守ってくれる――そして手を抜かずに仕事をしていて真剣な顔を見せてくれるという、そんな頼りになる大人の一人というだけだ。怖かったときに駆けつけて、言葉通りに守ってくれたという人なだけだ。

 だから、別に、恋愛対象にするつもりはない。

 するつもりはないのだけれども、時々、彼はあたかも王子様然とした言葉を向けてくるし――なんか、こう、どうしても妙に意識させられてしまうような態度や言動をしてくる。だから少し、それに影響を受けてしまっても仕方ないのだと思う。非常識だ。大尉のあれが悪いのだ。


 そうだ。

 優しいかと思ったらあんなにも厳しい訓練を行ってくるし、戦っていると怖いし、訓練だと厳しいし、優しくしてくれなかったりするし、あと何より歳が離れすぎている。

 恋愛対象外だ。

 そもそもシンデレラにとっては、恋愛とか、ちょっと自分には遠いことのように思える――本当は興味がない訳でもないけど、そういう関係になるといつかきっと……自分の家庭とも顔を合わせることになるだろう。

 あの親たちと……自分の恋人が。

 その日を想像すると、堪らなく嫌な気持ちになる。だから、シンデレラ・グレイマンは恋愛なんて考えない。そんなのは、全く、遠いところにある話なのだ。


(……うん、いつもどおり。変な態度にはならない。ならない……よね?)


 もう一度肩越しに、整えられた髪を眺めて――何か色々と想像としてしまって、ブンブンと首を振る。

 ……少し、自分でも判るぐらいに、いい匂いがした。

 それがなんだか、癪だった。



 そして、基地の中を散策――というほどでもない。

 彼がいるはずの教育中隊に向けて進んでいる、その時だった。


「どこから入った? 貴官はここの所属なのか?」


 茂みの向こうで響いた硬質の声。

 目当ての青年で――しかし、その言葉はどういう意味だろうか。

 彼が以前話していたように、あの新型機体の奪取を行った反政府組織がその後の痕跡の消滅のために再度基地を訪れたというのだろうか。

 そう思いながら恐る恐ると茂みから顔を出し――それは、いた。


 にゃー、と。


 首輪をされたオレンジ色の猫。

 首輪はされているが、その革のバンドはやや薄汚れていて、室内飼いの猫ではないらしい。

 基地の中で、共同で世話をしているのだろうか。

 そんな猫へと、屈んで目線を合わせた黒髪の青年が……


「……む。そうか……輜重課や補給課の所属か。物資の安全を保つとは、実に職務熱心で何よりだ。何よりだが……君たちは基本的に獲っても食べはしないものだったな」


 猫がその前足の前にポトンと差し出しているのは、ネズミの死骸だった。

 どうやらその猫は、あたかも――と言わんばかりにそのネズミを差し出していて、もう当人は興味を失っている風である。

 困ったな、と顎に手を当てる大尉。

 その間もしゃがみ込んだままだ。目線はずっと猫に向いている。


「こちらの死体は俺が処理しよう。……死体を作ることはあっても、処理の経験はあまりないんだが。まぁ、何とかしてみよう」


 相変わらず物言いが物騒だ。

 普通はそういうことを人には言わないものなのに。……いや相手は人ではなく猫だけど。

 というか話しかけてる。

 猫に。自然に。

 実は言葉が通じたりしているのだろうか。言葉が通じると思ってるのだろうか。それとも彼の中では当然のように猫は話し相手なのだろうか。そんな、どこかの童話ではあるまいし……確かにその猫は、後ろ足だけがまるで長靴をはいたように黒い猫だが。


「ただ……その前に、少し食事を済ませたい。訓練日誌の作成で取りそびれてしまって……いいだろうか?」


 そして、何だか猫に対してまで申し訳なさそうにしながら、彼はガサッとポケットからパンを取り出した。

 完全栄養なんちゃら――というパン。その人柄のイメージ通りの食べ物だ。エルゼが「これさえあれば休日も自炊の必要はありませんよ」とか言っていて、フェレナンドはそんな彼女の壊滅的な食のセンスに呆れてたアレだ。

 ……食べてるんだ。食べそうだけど。

 だが、どうやらそれは猫の興味も引いたようで、


「駄目だぞ。これは、君が食べられるものではない。……めっ、だ」


 めっ、って。

 いい年の男性が、猫に、「めっ」って。


 にゃーという抗議の声に、彼は少し申し訳なさそうに眉を下げていた。

 意外だ。

 そんな顔をすることもあるのか……いや、


「そうだな。確かこのあたりに……ああ、あった。……ほう? その反応は――……君はもうどこかで食べたことがあるのだろうか? ……悪い子だ」


 なんと今度は少し得意げに、ポケットからスティック状の袋に入ったおやつを取り出したではないか。

 明らかに人間用ではない。

 どう見ても、緊急時の栄養補給用ではない。

 つまり――


(……猫のおやつを持ち歩いてるんですか!?)


 ちょっとした衝撃だ。

 てっきりポケットには武器しか入ってないかと思ったのに。

 猫のおやつを持ち歩いてる。

 あの人が。あんな人が。……猫のおやつを。常備している。当然のように。


「大丈夫だ。急かさなくても、ちゃんと君に渡そう。約束だ……いや、言葉はいいから早くしろ? ああ、そうだろうな。……しばし待て。意外と、開けにくいんだ」


 普段浮かべないような少しだけ目尻が下がったような柔和な雰囲気のまま、彼はスティック状の猫のおやつを開けようとした。

 それだけでも衝撃だが――それ以上だ。


 開かない。

 ……開いてない。

 包みが、開けられていない。


「すまない、もう少し待ってくれ。……今頑張ってる」


 ちまちまと。

 ぐにぐにと、袋の口と指先が格闘している。


「頑張ってるんだ。待ってくれ。……頑張ってるんだ」


 その大きな背中を丸めて、ちまちまと手先の作業をする成人男性。


「ごめんね。……もうちょっと待ってね」


 何度も猫に頭を下げながら――それは結局彼が歯を剥いて包みを噛み千切るまで続けられた。

 あれだけ手際よく戦闘訓練を行っていたとは思えぬほどの不器用さで、醜態だった。


「……その、待たせたようで……本当にすまない。どうか許して貰えるだろうか……? ……そうか。貴官に感謝する」


 にゃーにゃーと喜びを表した猫が、爪を立てんばかりの勢いで彼の手に――スティック状の袋に包まれた猫のおやつに喉を鳴らしていた。

 餌付けだ。

 餌付けしている。

 多分きっと、普段のあの感じだと猫に逃げられるから。だから彼は猫に餌付けをしている。そのためにおやつを持ち歩いている。猫に気に入られるために。


「ふふ、ああ……実にかわいい……いい子ちゃんだ」


 夢中になって袋の中身に吸い付く猫の頭を、若干食べるのの邪魔をされることをうっとおしがられながらも撫でつけて、なんとも自然と笑みを浮かべていた。


「ああ、かわいいねー……ああ、かわいい……かわいいねー……お名前はなんて言うのかな? お家はあるのかな? いい子だねー……ふふ、いい子だ。かわいい……実にかわいいなぁ……かわいいねぇ……」


 放っておいたら、赤ちゃん言葉まで出しそうな勢いだ。

 誰この人。

 とても甘く柔らかに猫に囁いていた。誰だろうこの人。


「ごめんね、もうないんだ……ごめんな。ポッケにないんだ。ポッケナイナイなんだにゃー……ごめんにゃー……」


 嘘だ。

 アレは持ってる。絶対まだ備えてる。普段から持ち歩いてる。絶対。もっと。餌付けのために。


「うん? 撫でさせてくれるのかなー? そうか……ごめんねー? いい子だねー? かわいいねー?」


 ゴロゴロと喉を鳴らしながら、催促の爪を立てる猫のお腹を触っている。撫でさせているというか、どう見ても噛まれている。

 かみかみされている。

 ふみふみされている。

 両手足で手を抱えられて、かみかみふみふみされている。けりけりかみかみされてる。

 それでも笑顔だ。笑顔だった。猫に踏まれたり爪を立てられたりしても喜ぶ。重症の猫病患者だった。猫原理主義者だった。猫の奴隷だった。首輪付きの猫の奴隷だった。

 そして、


「あ」


 噛むことにふと飽きたのか、一度動きを止めて急に正気を取り戻したようになった猫がぷいと離れる。

 歩いてくる。

 こっちに。


「ふ、どうしたのかなー? にゃんこー? 逃げないでくれ、にゃんこよ。ほら……もう少し触らせてくれないかにゃ――」

「あ、」

「……」


 視線がかち合う。

 茂みに隔てられて。

 アイスブルーの瞳と、琥珀色の瞳が。


「あの、大尉……」

「…………………………見たのか?」

「……はい」

「その、…………………………最初から?」

「……えっと、はい」

「そうか。…………………………そうか」


 目に見えて、しょぼんと肩を落としていた。

 まるで覗き込んだ池に骨を落としてしまった大型犬のような有り様だった。

 猫好きの黒い大型犬だった。

 やっぱりこの人、犬系の人だった。

 そして、


「……フェレナンドたちには言わないでくれ。上司がこうだと頼りがいというか、その、威厳というか、その……にゃんこに……いやとにかく、言わないでくれ」

「別にいいじゃないですか、猫ぐらい。……可愛いですし」

「! そうなんだ! そう――……そうなんだが、その……」

「だから、そんなので馬鹿にされることなんてありませんよ。馬鹿にする方が馬鹿なんです、そんなの」

「いや……だが……」


 まだ何とも煮えきらない感じで、しゃがみ込んだまま顎に手を当てている。

 不便なんだな、軍人というのは。

 そんなふうにも思う。別に動物好きなら動物好きって言えばいいじゃないだろうか。素直なのが一番だ。好きなものは好き、それでいいではないか。面倒臭い。自分のような素直さを見倣って欲しい。

 そうして考え続けていた彼は、片膝をついたままふと目線をこちらに合わせ――つまり騎士がそうして片膝をついて貴婦人の手を取るような形で、


「どうか……二人だけの秘密にして貰えないだろうか、レディ」

「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっ!? ハラスメント! ハラスメントですよ、大尉! その目です! ハラスメントです!」


 またやった。

 自分がどういう行動をしているとか、今どういう声を出しているとか自覚はないのだろうか?


「――」


 言われた彼はご飯や玩具の代わりに叱られてしまった犬のように、「なんで?」とでも言いたげに目をぱちくりとさせていた。

 ……なんで、じゃない!



 ◇ ◆ ◇



 二人で、基地の中の広い通りを歩く。

 隣には、頭一つ分以上大きな黒髪の青年。見上げようとすると首が疲れる。彼の胸のあたりに顔が届くかという、そんな身長差だ。

 名残惜しそうに猫の方をチラチラと眺めていた青年が、ようやくこちらに気付いてそこに視線を合わせた。


「その髪は……」


 ――来た。

 ドキリと、胸が跳ね上がる。妙な緊張だ。

 一体、なんて言葉をかけてくるだろうか。少し怖くて、それを誤魔化すように心の中で呟く。

 これは、センスの問題だ。礼儀の問題だ。マナーの問題だ。髪を切った女性にどう声をかけるかで、その人の人格が問われるのだ。そういうマナーを図ってる。それだけ。そんな感じ。だから別に緊張なんてしてない。ただ気になってるだけ。人として。そんな感じ。

 果たして、彼は――


「……良かったのか?」

「別に、いいんですよこんなの。……長くてうっとおしかっただけなので。いい機会なんです」

「そうか……」


 しばし、口を噤む。


「……でも、そうだな。その髪型も、君によく似合っている。いや、こんな世辞のようなことを言われても慰めにはならないかもしれないが……その……嘘偽りなく……俺はよく似合っていると……思う。……すまない」

「だから、謝ってくれなんて言ってませんよ……そういうの、大尉の悪い癖です! そういうときは、似合ってるの言葉だけでいいんですよ! 余計なことを言わないで! それじゃあ、何か、わたしに悪いことがあったみたいじゃないですか! せっかく切ったのに!」

「すま――……ああいや、了解した」


 何か困ったように、言い返すことを一つもせずに口を閉ざす。

 その沈黙が恐ろしくて――こちらも荒げたままの言葉を続けてしまった。


「いいんですっ! 怒ってなんていませんから! わたしが怒ってると思われる方が嫌ですよ、こんなので! こんな程度で! たかが髪型一つ、別に何でもないんですっ! 大尉は物事をオーバーに考え過ぎです!」

「……それでも、」


 逡巡するように、彼は無言になる。

 何かを考え込んでいるのか、しばしばそういうことをする。いざというときの即断即決とは別に、思索はやめないという感じがするほど煮えきらない態度にもなるのだ。

 やがて、


「……シンデレラ」

「なんですか? まだ――」

「君によく似合っている。とても新鮮だが、実によく似合っていると思う。明るい雰囲気で、君のイメージに合っているな。……これでいいだろうか?」

「最後の一言は余計ですっ!」


 デリカシーがないというか、なんというか。

 こんな具合でこれまで社会生活を送れていたのか、少し疑問に感じてジトっと見上げてしまう。余計な一言が多かったり、急に話が長くなってわかりにくかったり、かと思えば言葉が少なすぎたり――……それも何を考えているか判りにくい顔のせいだ。

 もう少し微笑えばいいのに。猫相手にはそうするのに。それとも、猫より会話の価値がないと思われているのだろうか。

 彼はどことなく申し訳なさそうにしていて、だから、


「だから……別に理由あって長く伸ばしてたとか、そうじゃないことも女性には多いんです! いちいち、それを切ったことでショックとか――……切られたっていうなら話はまた別ですけど、こんなの別に……こだわりを捨てさせられたとか、そういうのじゃないんですよ!」

「……切られた、ようなものかと思っている」


 ああ――……つまり、こう言いたい訳だ。

 新しい髪型に喜んでくれるよりも、古い髪型をやめさせてしまったことを気に病んでいると。

 それは、こう、とても失礼だ。


「だから……大事なのは、前の髪型よりも今の髪型なんですよ! わざわざ変えたいってしたってことは、そういうことです! それなのにそんな顔をされるのは、失礼なんですよ! 似合ってるとか、そう言ってくれたなら……そんなことを言わないでほしいんです! ……せっかくそう言ってくれたんだから。嘘みたいに聞こちゃうんですよ。お世辞じゃないですか、そうなったら、結局は」

「……いや、本心だった。君によく似合っている」

「じゃあいいんです! 似合ってる、かわいいね――で。それ以外は余計ですよ。大尉は一言多いんです!」

「そうか。……そういうもの、なのか」

「そうです! それが普通なんですから! ……なんかそういうのに疎いみたいです、大尉なのに! サーなんて呼び名まで貰ってるのに!」


 あんなに歯の浮くような言葉を言ってくる人物と、似合ってない気がした。あれではまるで社交界に幾度と足を運んだ紳士で――……彼の経歴からすれば、そちらの方が自然だと思えた。

 その勇猛な戦果から勲章も多く貰い、確か保護高地都市ハイランド最高議会から、貴族院の議員としての資格ではないものの一代限りの「サー」の尊称も得ていたはずなのだから。

 普段はこのように振る舞いながらも、よほど、社交界にも通じているのだろう。そう思っていた男性は、


「……残念ながら、事実、疎いところがある。あまりこのように女性を褒める機会には恵まれなかった。……以後は留意する」


 そうして口を閉ざした。

 今まで、そんな機会はなかったのだろうか。

 聞いてみたい気もするし、何か嫌な気持ちにもなりそうなのでやめた。本人がないと言っているなら、それでいいだろう。確かにイメージ通りというところでもある。仮にパーティに参加しても、あまり女性に関わっているという印象はない。


「……じゃあ、わたしから大尉にお勉強です。そういうまるで軍人、みたいな言い方はやめてくださいって前に言いましたよ? ちゃんと覚えていてくれるって言うなら、そういうところも直してくださいよ」

「む。……了解し――いや、わかった。鋭意努力す――いや、がんばる。がんばることにする。俺はがんばる。かなりがんばる男だ。信じてくれ」

「なんですか、それ、もぉ……急に変です。ズルいです」


 急に調子を変えられると、それはそれでこちらも調子が狂うものだった。



 そうして、午後から着隊の挨拶をする手筈になっていた。形としては大尉と同じ――つまり教導を行う部隊への着隊とした上で、そこから直接の上官である彼と共に【フィッチャーの鳥】へ出向する。

 自分もそう望んだし、彼もそうするように掛け合ってくれたらしい。それが嬉しかった。言葉だけかけて放り出すことなく、一人の人間として大事な約束を守ろうとしてくれているのだと――彼もその約束を、大切に思ってくれているのだという証になるみたいで。

 それから、サイズの関係で保護高地都市ハイランド連盟軍の制服ではなく【フィッチャーの鳥】の制服に身を通したこちらを、彼は廊下の隅で待っていた。


 歩く――二人で。

 【フィッチャーの鳥】の隊舎は、また別のところだ。彼らには、一番新しいものが与えられているらしかった。その癖に航空要塞艦アーク・フォートレスというものにかまけて、隊舎の大半が使われていなかったりする。


 勿体ないと、そう思っていた。


 税金がどうとか――父はしばしばそう口にした。税金が高い。自分はこんな軍属なのだから優遇すべきだ。

 それは単に家庭に金を使わないための言い訳にも聞こえたし、実際のところ本当にそれ以上の意味合いを持たないものであろうが……その不快な言い訳を何度もされる側の身にもなってほしい。

 だから税金の無駄遣いというのは、癪に触る。

 隣を歩く青年は、そんなこととは別のことを考えているようだった。


 目指す先の隊舎に向かうまでの間に通る、別の部隊の部屋。いくつかの隊が一つの施設に纏まっていることもあるために、あまり珍しくない光景らしい。

 それを眺めつつ、ふと彼は口を開いた。


「……君からは、どう見える?」

「働いてますね。……少し忙しそうに見えますけど、それがどうかしたんですか?」


 仕事中だ、というのは判る。

 それよりも――……相手方に午後一番という時間に行かなくていいのかと聞いてみれば、逆にそうしないように元の部隊長からそれとなく言い含められているらしい。

 参謀本部付きの【フィッチャーの鳥】と、空軍に属している大尉たちの間に何らかの軋轢があるのか……馬鹿らしいなと思うだけだった。

 だから、てっきりこれは時間を潰そうとしているのかと思っていた。しかし、彼は、


「そうだ。働いている。生きている――……人々が。どんな場所でも、どんなときでも。……戦場にいるのは兵隊という記号ではなく、生きている人々だ」


 その瞳が、遠くなる。

 急にフライトジャケットに包まれたその背が大きく見える。そんな気がした。

 遥か彼方の硝煙と戦争を踏破した背中。

 先程までのどこか隙がある青年ではなく――確かな自負を持った軍人としての顔。彼から、遠き日の炎の匂いまで漂ってくるとまで思えるほど。


「……ああ。説教がしたかった訳ではない。俺に、そんな立場などないとは承知している。ただ――いつまでも覚えておいてほしい。人は、生きているのだという……そのことを」

「はい……」

「いや……そうだな。気負わせるつもりではなかった。その意図はないのだが……すまない、失礼した」


 その空気が霧消する。彼が発していた静かな緊張感が、解けたみたいだった。


「さて、勇敢なレディ。……これから俺と新たな戦場に向かうことになるが、構わないだろうか?」

「別に……大丈夫ですよ。問題ないです。あんな……あんないきなり、機械に乗ることになったことを思ったら」

「そうか。……実に勇敢で何よりだ。だが――」


 こういうとき、それまでの空気を入れ替えるように、ほんの少しだけ彼は悪戯げな微笑を浮かべる。


「俺が君を守る。……その約束を果たすだけの出番をとっておいて貰うと、実に助かるところなのだが?」

「だから、そんな言い方っ! まるでお芝居みたいに!」

「すまない。ああ――……そうだな」


 そして一度瞼を閉じれば、それはすぐに切り替わる。

 まるで刀剣が鞘から抜かれるように――……。

 それこそが彼の本質だと、言いたげに。その雰囲気は切り替わる。


 温度のないアイスブルーの瞳。

 戦いのために短く刈り込まれた黒髪。

 歯車仕掛けで動く機械じみて一切の熱を感じさせない、淡々としながらも鋭い切れ味に満ちた剣の声。


「戦闘に勝利する。それが俺の持つ唯一の機能性だ。案ずるな……。俺は君にそう誓おう」


 何の飾り気もない、一振りの抜き身の刃。

 その輝きに、目を奪われる――そんな気がした。

 


 ◇ ◆ ◇



 ――資源衛星B7R、周辺宙域。


 かつての戦争の名残として漂うデブリに埋め尽くされた宙域に――嵐が吹く。

 のまさに最終決戦と言うべき正念場。

 推進炎を太刀筋の如く暗黒に残す三機の刃が、嵐となって吹き荒れる。


「無駄さ……私を殺したところで、止まらない……! 止まるはずがないのだよ、これは……!」

「止めてみせると――……そう言っているでしょう! 私は! 止めるんですよ……! ここで貴方を撃墜おととして――――!」


 白銀色の鋭い機影の【グラス・レオーネ】と、黒炎めいた大型稼働翼を持つ【ブラック・ソーン】。

 互いに向けあったプラズマライフルとレールガンの弾丸が、空中にて衝突する。

 否――迎撃しているのだ。シンデレラが。己の役割を、理解して。


(今なら……! 今ならわたしも、貴方と一緒に――!)


 視線の先の銃鉄色ガンメタルのアーセナル・コマンド。狩人の三角帽子めいた頭部を持つソリッドな機体である【コマンド・リンクス】。

 シンデレラやラッド・マウスのそれとは違い、彼が駆るのはただの先行量産機だ。何のカスタムもされず、何の特殊装備も持たないただの高機動改修型の先行量産機だ。

 だというのに、まるでその影響を感じさせない。

 二匹の獣の戦いに混じった狩人が淡々とそれに喰らい付くように――彼のその斬撃という圧は、つまり彼そのものという圧は空間を支配している。


 一瞬たりとも目を離せない。

 一度たりとも捨ておけない。

 死神の鎌は、そこにいるだけで意識を集める――知るのだ。シンデレラだけでなく、ラッド・マウスも。この場で最高の技量と最高の殺傷性を持つものが、誰かということを。


 硬き死の刃。

 戦場の王。

 嵐の主。


 未だに保護高地都市ハイランド連盟が戦線を諦めないという、その理由。単機にして世界全てを相手取れる究極の武力。戦略を塗り替える圧倒的な個人戦力。

 一つの人類の研鑽の到達点とも言うべき、その男を。


「フ・フ……ハ・ハ・ハ……」


 だというのに、嗤う。

 刃じみた硬質の炎の翼を広げた暗黒竜の如き機体が、その主が、両手を広げて嗤う。


「は、は! はははははは! まだを言っているのかね……! 私を撃墜すれば、アレがと――君なぞにと、本気で……! よくも言う! 賢しいだけの、物も見えない小娘が!」


 黒き茨の銘を冠した機体の奥で、ラッド・マウスは高らかに笑う。


「止まらんさ。止まってくれたら困るのだよ……! アレこそはこの世で最大の暴力! 焼き尽くす者! 向けられる祈りのままに世界を滅ぼすだ!」

「なにを……! そんなことを、愉しそうに……っ!」

「愉しいさ! 勝利だ! そうとも、勝ちなのだよ! 全て! B7Rが落ちてしまったならば! それだけで私の勝ちなのだ! あとの全てはどうでもいい……あのとき私を軽んじた者への勝利なのだ!」


 言い放ち、そして向けられる銃口――その先は古狩人。

 あたかもそれこそが憎い仇とでも言うかの如く、【ブラック・ソーン】の二丁の大型銃は彼を照準していた。


「え、……?」


 シンデレラは困惑し――しかし、回避機動に移った【コマンド・リンクス】を掩護するように射撃を放った。

 殺させない。

 死なせたくない。

 守りたい。支えたい。

 その右腕のライフルが連続して砲炎を上げ――だが、鋭角的な機動で飛翔する鋭い黒炎の悪竜に回避される。


「君に判るかね? この私が持たない力を……持ち得ない力を容易く振りかざす――――振りかざし、それを何でもないものと思っている……そんな者から……! 私の何も見ようとせず! 見ることもできぬというのに! 見透かすような瞳で……愚物どもに向けたものでしかないを肯定されることの屈辱が!」


 零されたそれは、呪いだった。


「この私の理解者足り得ない……! それは罪だ……罪なのだよ、シンデレラ・グレイマン! 真に優れているというなら、私を理解せねばならない! 理解できぬなら、それは、あの輝きが……その尊き輝きが、愚物共と等しくなってしまうということだろう……!」


 胎動するそれは、呪詛だった。


「私の持たない力が……私が求めた力が……私が手にできなかった力が……あんな愚物たちと同じで……」


 潜み、這い寄り、育ち、生まれるもの。

 それは――


「い・い・は・ず・が、な・い・だ・ろ・う――――ッ」


 世界一つを滅ぼすに足るほどの行為を起こしている男が吐いた――胸の内で燻り続けた愛憎だった。

 幾つもの殺意の彗星が舞う。

 デブリを砕き、粉塵を散らし、炎で飲み込み――男の執念が激を発する。


「真の私を知ろうともしない……知ることもできない……見抜くこともなく、また、見抜こうとすら決して思うこともない……そんな程度の者に! 信頼すると! 完璧だと! そう敬われたときの惨めさが……!」


 悪竜が翔ぶ。

 鋭きその翼をはためかせて、空間を断つように一直線に――翔ぶ。この世を滅ぼすために翔ぶ。

 身に降りかかるこちらの銃弾という死線を潜って、デブリの中を翔ぶ。


「そんな者と自分は正面から斬り結ぶこともできないというこの身の惨めさが……! 汚泥のような屈辱が……! 貴様にわかるというのか……この、小娘が――――!」


 そして向けられる二丁の大型小銃。

 プラズマサーマル・レールガンとプラズマライフル。

 シンデレラの白銀の【グラス・レオーネ】を取り除かんと、ただその男は強き排除の意思と共に掃射を開始した。

 吹き飛ぶデブリ。

 弾丸と弾丸を撃ち合わせて撃墜し、そして己の機体を大きく旋回させる中で――シンデレラは、絶句していた。


「ま、さ、か……」


 資源衛星B7Rに住まう衛星軌道都市サテライトの人民の命を奪う悪行。

 そしてその破片が降り注ぐ先の大地である保護高地都市ハイランドと、海上遊弋都市フロートと、空中浮游都市ステーションを滅ぼす蛮行。

 その虐殺の根が――


「まさか……それだけのために……こんなことを!? 貴方は……こんなことを、起こしたと言うんですか! こんなことを!」


 そんなエゴだとは、シンデレラの想定を超えていた。

 しかし、


などでは――断じてないのだよ! 私の信念おもいというのは! 私の人生いのちというのは!」


 その執念は、黒く燃える。

 茨の如く――彼の身を守り、近付く者を傷付け、触れる者を覆い尽くさんと燃える奈落の炎。

 そして、鋭き刃を稼働させた【ブラック・ソーン】は急制動をかけ――直後、一直線に飛翔した。


「理解できぬなら……私を理解できぬと言うならば、死ぬがいい――――! お前も、あの女のように!」


 白銀の【グラス・レオーネ】を両断せんと襲い来る黒き刃の【ブラック・ソーン】。

 迎撃に放ったプラズマ弾を、回転しながら回避する黒き竜。その十二枚の羽が複雑に稼働し、一切速度を緩めぬままに降り注ぐ光弾を避け続ける。

 更に、そんな脅威的な機動と同時に掲げられた黒きプラズマ・ライフル。ラッド・マウスは容赦なく接近のための制圧射を行い、否応なくシンデレラにその弾丸の迎撃を強いさせて弾幕を減らし――喉元目掛けて、殺意の剛刃が迫りくる。

 だが、


「ちぃ……ッ!」


 真横から超高速で接近する銃鉄色ガンメタルの機体が、その死線を分かつ。

 一瞬の集中の差が、命を奪う。

 そんな圧力は機能する。

 流星の如く――すれ違っていく大いなる死の剣。


「大尉……!」


 彼は、応じる言葉すら発しない。

 全てを捨てて集中しているのだ。目の前の男を撃墜するために――幾度とも、シンデレラの窮地を助けるために。理性全てを、狩りへと投じている。

 彼がいなければ、自分はとうに死んでいたとシンデレラは思う。

 この戦場だけでなく――……そして何よりもこの戦場においてこそ。


 重装甲にして高機動という矛盾を持つ二機とて、互いのその武装はまさしく致命そのものである。

 ガンジリウムを弾体としたプラズマサーマル・レールガン――【ブランダーバス-Ⅱ】。

 通電と共にそのローレンツ力と、熱変換により生まれた余剰プラズマの圧力と、更にプラズマという流体状態により生み出される力場の圧力にて超高速にて飛翔し――そしてその運動エネルギーにてユゴニオ弾性限界を超えてとして撃ち込まれる弾丸。

 敵機が力場を為すための電力を喰らって銀狼の弾丸である。


 更には変形機構によりブレードの役目も果たすガンジリウム・プラズマライフル【ソウ・クリーヴァ-Ⅱ】。

 電磁誘導を受けやすいプラズマという状態は、力場を大きく搔き乱して引き剥がす。

 その熱による破壊、更に力場変質による破壊は――如何に四種類の装甲を持つと言われるアーセナル・コマンドにおいても、火力に伴い致命を引き起こす。


 如何に優れた鎧に身を包もうとも、死という圧力は変わらない。


 故に、一瞬で死を齎す銃鉄色ガンメタルの無銘剣――それへの恐怖は、脅威は、変わらないのだ。

 彼こそが、この場を静かに支配していた。

 対一億機ハイペリオン――シンデレラ・グレイマンもラッド・マウスも、あの凄惨なる戦場に足を踏み入れて生き残ったことはないのだから。

 その山嶺いただきに手をかけた者は、この人類にただの九人しかいないのだから。


「く、く、く……ふ、ふ、は、は、は……」


 そして、そんな【コマンド・リンクス】の機動を前にしてもなお――――否、前にしたからこそだとラッド・マウス大佐は哄笑を上げた。


「落ちる! あの星は……落ちる! 誰にも止められんさ! 誰にも止められんように、私は積み重ねた! 私の全てを積み重ねて、決して止められんようにした! アレは、そういうものだ! そういう存在だ! 決して手の届かない……そういうものだ!」


 高らかに、笑う。


を、であるように……私がしたのだよ! 全ての人脈を! 政治を! 暴力を! 何もかもを使って! 私の人生を全て燃やして……全て! 全ては!」


 高らかに、謳う。


「知るがいい……求められるままに、――――その力を! 請われ、願われ、祈られ、ただ依頼されるがままに全人類を殺戮するを!」


 それは、降臨歌キャロルだった。

 ああ――……凱歌エールが聞こえる。鎮魂歌レクイエムが鳴り響く。それは賛美歌ヒムとなり、唯一無二の行進歌マーチとなる。

 滅びが、災いが、死が、災厄が訪れる。

 唯一無二の足音が、戦場を支配する。


 告げる――。


 其の歩みは何者にも屈せず、其の進みは何者にも覆せず、其の笑みは何者にも曇らず、ただ羽ばたく黒翼の主。

 頬を吊り上げる一匹の猟犬。

 無限にいたる殺意と、無間にいたる害意。その主さえも喰らい殺し、なおも進み続ける天性の狩人。

 という――


 安堵やすらぎを。終焉おわりを。絶滅ほろびを。

 ああ――愛する者よ、死に給え。

 生きとし生ける全ての者よ。愛する者よ。死に給え。


 来たる――。

 微睡みの布を裂き、黄昏の王が来る。


 死と嵐の王が。

 滅びと災いの剣が。

 翼を広げ、王が来る。

 彼方より――剣を手にした終末の騎士が来たる。


「君は敗北するのだよ……それに! 貴様が一度は否定したその力に! その下を離れた力に! 敗北するのだ、君は!」

「な、に、を……訳のわからないことを――――ッ!」

「判らないと! その心が……最も忌まわしいものだと、私はそう言った――――――!」


 激昂を弾丸に込めて【ブラック・ソーン】が放射する。

 方やシンデレラの白銀色の【グラス・レオーネ】へ。方や、ハンス・グリム・グッドフェローの銃鉄色ガンメタルの【コマンド・リンクス】へ。

 ただ一人で、二つの暴力へと向かい合うその実力――その執念。


「世に謳われる英雄へ祭り上げられたマーガレット・ワイズマンは、地球を救うために流星となった……ならば!」


 銃撃として数多に吹き出し続けるその激情は、正しく世を焼く炎だ。ただ一人の想いが、星一つを滅ぼす自我エゴに至る。


「私は! 我が力は! 私のこれまでの全ては……地球圏を滅ぼすための流星となろう!」


 吼える。

 男が、吼える。


「彼女すらも、彼女の犠牲すらも、その悲しみを生むことになったこの狂った時代という力場を――その根源となったあの衛星を! 我がこの力で破壊する! 私が正すのだよ! 私と! この力が! 世界を! 全てを!」


 冷静の仮面を脱ぎ捨て、男が咆哮する。

 止めなければならない。

 この男は、ここで止めなければならない。こんな男だけは――絶対に止めなくてはならない。

 自分の何を引き換えにしたとしても。

 世界を滅ぼさせないそのために――。

 何よりも、己の胸に暖かな炎を授けてくれた彼を殺させないために、この男だけは止めなくてはならないのだ。


「神様にでも……なったつもりなんですか! なるつもりなんですか、貴方はっ!」

「それしかないというなら……そうなるしかあるまい!」


 翼を広げる竜が――黒き茨の悪竜が、深淵の闇たる宇宙を駆ける。

 全ての光を躱し、全ての火花を消し、まさしく雷撃そのものように――鋭い翼を広げる機体が飛翔する。


「それだけなのだよ! アレは! 最早その域にある! その運用者として……使い手として……それしか相応しくないというなら、そうなるしかあるまい!」

「そんな傲慢……!」

「許されるのだよ! 私には! この世で唯一……この私だけには! あの力を行使できるのは……理解者にして復讐者たるこの私にのみ相応しい! それがこの結果というものだ!」


 宙を漂う瓦礫が弾け飛ぶ。デブリが爆裂する。

 その機体は阻めない。その機体は阻まれない。

 一個の力場の刃として飛翔する――どこまでも。どこへでも。その刃は蹂躙する。

 触れし物は両断され、分断され、ただ微塵に分かたれる――己こそが死域の魔剣と謳うように!


「アレは……アレは、それだけの力なのだ――――!」

「そんな力――――!」


 否定の声と共に連続して放ったレールガンとプラズマライフルの掃射――それでも黒き翼に躱された。

 だが、その飛び去っていく攻撃の隙間を縫うように、全くの直角から銃鉄色ガンメタルの【コマンド・リンクス】が疾駆する。

 一直線に迫る殺意。

 己が被弾も辞さない機動。

 全員の意を断つ刃だった。友軍とのフレンドリーファイアを避けるという大原則を無視した、急戦直角機動。糸の如き細い意識の隙間を縫う――人の意を断つ剣。


「――――」


 ラッド・マウスも、シンデレラ・グレイマンも予想だにしない一閃。

 その速度は、明らかに《仮想装甲ゴーテル》の出力を推進力に回したものだ。その射撃が致死の毒と知る二人だから想定しない、常軌を逸した戦闘機動。

 死神は死に呑まれることなく――最早、その鎌から逃れることはできない。

 機動を捨て、受け止めにかかる【ブラック・ソーン】。

 古狩人が、疾走する。一匹の獣が。聖者が化した獣が。推進炎を振り切るほどの超高速で、限界を超えて、一つの超越者たる流星が――輝ける超新星が闇を裂く。

 これこそは、不毀なる剣。

 その意思一つ――あらゆる困難を踏破し、あらゆる不条理を蹂躙する。果ての空を目指す決して砕けぬ意思。ただ曇らず、ただ欠けず、ただ鋭き一振りの銘なき硬剣。


「く、く、く、はは――やはり、これこそが、これこそが……ハンス・グリム・グッドフェロー――――!」


 遂に、その紫色に燃えるプラズマブレードの刃が――黒き竜へと横一文字に放たれた。

 しかし、断てない。

 その魔剣は、断てない。

 星をも滅ぼす終焉の魔剣は、不毀なる剣でも両断できない。


「犬には惜しい……が、ただ容易い! 捨て石め! ここは貴様のような男が出る幕ではないのだよ!」


 腹の底から怒りを――歓びを叫ぶようにラッド・マウスが吠えた。

 それは侮蔑であり、称賛だった。

 猟犬ですらない、ただ投じられた一つの石――決して傷付くことのない金剛なる石。炭素の塊ですら圧され続けて金剛石に至るというなら、この意思は!

 彼は、歓喜していた。

 それこそが己に滅びを齎すと知っていたから。――たとえその眼差しに、歯牙にすらかけられることなくとも。



 そして、この後……シンデレラ・グレイマンは知ることとなった。

 ラッド・マウス大佐が言い表し、指し示した――その正体を。


 その到来が地球圏にかつてない被害を齎し、やがて、流線型の杖として加工されて地上を滅ぼそうとしたあの資源衛星などではなく――――。


 ただのでしかないということに。


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