幕間【三】 燃える炎の七日間、或いは錬鉄の日々


 丘の上から、街を見下ろす。

 カメラのフラッシュの何十倍も強烈なその光が、まず、頭上を照らした。

 それが始まりだった。


 始まり――……いや、終わりか。

 少なくとも数多、そこで生命は終わっていた。風には、塵の匂いが混じっていた。炎の匂いが混じっていた。人の匂いが混じっていた。

 煤けていた。乾いていた。滅びを漂わせていた。


「おお、神様……わたしたちは何か誤ったのでしょうか」


 隣の老女が膝を折りながら、胸の内に作られた深い絶望の虚から絞り出すように――そう漏らした。

 その光は、全てを奪った。

 天体規模極超音速で落下する弾体の持つ膨大な運動エネルギーが熱へと変換され、空を焼け焦がした魔の光。天から振り下ろされた神の鉄槌。

 衛星高度爆撃質量兵器――【星の銀貨シュテルンターラー】が齎した破滅の日。


 市街地に位置していた軍の施設は、その市街ごと数キロに渡り、初撃にて完全に跡形もなく破砕されていた。

 同時に破壊されたであろうインフラ施設……発電所の喪失により、世界は明かりを奪われた。

 残っているのは、篝火の如く闇を紅く押し退け――そして余計に深く黒を強めて彩る途方もない業火だけだ。

 地下に張り巡らされたガスのパイプラインを通じて、火炎はどこまでも膨張する。ビルが弾け、家が焼け落ち、学校や病院も黒煙に呑まれた。

 

(始まったか……俺は、止められなかった……)


 燃えていた。

 街が――――……世界が。


 七月七日。収穫月メスィドール

 星歴〇二〇九年。



 赤炎と黒煙に焦がされる夜空に、背筋に怖気を感じさせるほど神々しく浮かんだ金色の輪――闇の王冠か、神の腕輪か――皆既月食の金環。

 その、平穏の歴史の律を保つ金輪があたかも振り下ろされた鎚に砕け散らされ、その破片が弾け飛んだかのように――月輪を背負った爆撃質量兵器が、数多の流星が、夜天を裂いて地に墜ちる。

 墜ちていく。尽きることなく。無数に。


 空が、燃えている。


 産まれてしまった。

 それは、産声を上げた。

 不死者が。不死身の怪物が。恐るべき狼が。

 戦争という――この世界でも、死することのない恐るべき災厄が。


 空っぽの手のひらを握り締める。

 虚ろな竈の中の火のように、火焔に捧げられた世界。

 俺は、それを、ただ眺めることしかできなかった。



 ◇ ◆ ◇



 ■■■■という人間は、死んだ。

 そして、生まれ直した。

 己がいたそことは、まるで異なる場所だった。


 父母の会話から、この世界が宇宙に人が住まう場所と聞いて僅かに胸が踊ったことを覚えている。

 かつての生で、いつからか、自分の夢というのは――雲を裂き空を抜けてその先へ、星の向こうへ、地球の外へと向かうものになっていた。

 『知りませんよ、親の愛なんて! 虫歯がないなら宇宙飛行士向きなんです! そう思えば、別に問題ないことでしょう!』と言った映像の中の金髪の少女――……その言葉に勇気付けられる気がして、己も己を肯定した。

 それは決して欠点などではなく、環境によって得た素質の一つなのだとして。

 ついぞ、その夢が叶うことはなかったが……。


 それでも、胸踊る気持ちではあった。

 この世界では、かつて人類が偉大な一歩を刻んだ月に降り立つこともできるかもしれない。

 それどころかその先へ、火星や木星へ――或いはそのもっともっと向こうへ。

 一定の人格を持ったまま、己一人でトイレにもいけない幼児として再び人生を送ることに多少の抵抗感や羞恥心があったことは事実であるが――……精神が肉体に引きずられるせいかやけに睡眠に意識を落としやすくなり、大半が微睡みの中で揺蕩うような日常は、実のところさほど苦でもなかった。


 それよりも、そんないつかが待ち遠しくて仕方がない。そんな気持ちさえあった。

 己はなんと幸福なのだろうと――……。

 死したるというのに再び生を歩み、生まれ落ちるその瞬間の人々の献身と生への祝福を記憶する。更に、己が願っていた夢の続きがより身近になっているなど――幸福を感じるなという方が無理な話だ。

 しかし、状況は一変した。

 何か、新生児特有の体調不良にて病院にかかったときのことだ。その診察にて、この世界の母が医師に告げた己の名――


(……ハンス・グリム・グッドフェロー?)


 ハンス・グリム・グッドフェロー。

 家では愛称で呼ばれるために気付かなかった己という個体識別名。

 その名は、一つの真実を意味していた。


(まさか、俺は――……)


 熱に浮かされた頭が、その意識が、暗がりへと落ちていく中で理解した。

 己の名。宇宙に足をかけた民。日々のニュース。激化した天候。空に二つある月。そして目覚めの――……。

 と、今日までの日々の――死してから体験した全ての内容に合点が行った。


 ここは星歴、アースセル。


 この世界には、いずれ大地を焼く大きな戦争が起きるのだ――と。



 ◇ ◆ ◇



 地平線までの石畳の道を、ただ一人で作る。

 そんな作業にも等しく――であるが故に、作業である以上、そのロードマップを作成しそれに準じて一つ一つを行っていく必要があった。

 故にその日から、ハンス・グリム・グッドフェローはハンス・グリム・グッドフェローとなるべく、錬鉄の日々を開始した。


 五歳から八歳までで、人体の神経の基礎的な部分というのは急速に発達すると言う。

 幼少期は、寝返りをひたすら打った。三半規管の育成に役立つと知っていた。

 それから、三歳ほどからマット運動を。

 四歳からはトランポリンなどを始めた。これもまた三半規管の強化に繋がり、各種の円運動に伴う加速度ストレスへの身体的な適合と、バランス感覚の醸成に繋がると知っていた。だからそうした。

 それから、スポーツに至る。選んだのはサッカーと陸上競技だ。


 つまりは瞬発力と持久力の両立。心肺能力の向上。そして瞬間的な判断能力や運動というストレス下での把握力。無論ながらバランス感覚や、筋肉の複数動作の連動の上達や、運動と戦術思考というマルチタスクスキルを養うことにも繋がった。

 他に、卓球やバドミントン。更に子供用のモトクロス競技なども行う。

 これは、人体以外――つまり道具というものへの完熟や、人体よりも速度のあるものへの適合や自分の肉体以外が齎す加速度への訓練として必要だった。

 やはり、反射というものを養う面で大切である。人を超えた速度に対応するためは、人を超えた速度を有するものを用いねばならない。

 幼少期からそれに慣れるというのは、今後の神経発達の基礎を養う意味でも肝心だった。


 人から見れば、スポーツ万能に見えたかもしれないが、実際のところはそうではない。前世でも運動は行ってはいたものの、それも人並みだった。

 ただ、修練の方法を知っている。

 動作の是正を効率的に行える。

 そして、強いモチベーションがある。

 それらの作用が齎した幻覚のようなものだった。あと、かつての世で行ったものについてはそれなりに「初めから形に持っていけた」。

 不思議なのは、己は記憶として動作を覚えているというのにこの肉体や神経系にとっては全くの無地であり――つまりは妙な癖を付けることもなく、より理想の形を作れたことだ。


「ハンスも、打ち上げいかないかい? パパたちがレストランにって――」


 サッカーチームの少年から、勝利祝いにそう声をかけられたが、


「……俺には必要ない。失礼する」


 首を振って否定する。

 興醒めさせてしまうのはどうにも申し訳なかったが、やることは多かった。トレーニングのスケジュールは、厳密に己で管理していた。

 自宅近くの鍛錬場に向かう。父母は子供が秘密基地を持ちたがるようなものだと微笑ましく見守ってくれたが――実態は別だ。これは全て、己を一振りの剣に、一つの殺人機構に変えるためのだった。


 今後の己に求められる要素は七つ。


 一つ、静的なバランスの鍛錬。

 即ちは、己の脳でイメージした手足の動きと実際の動きの矯正。

 水を張った酒杯を手足に載せて目を閉じたままバランスを取るという、古武術やカンフー映画の古典的な鍛錬法によるものも行えば――ホログラム投射により宙に投影したグリッド線を背景にして己の運動動作の動画を撮影し、その動きの修正をミリ単位で行っていくという近代的な手法も用いる。


 一つ、動的なバランスの鍛錬。

 平均台の上を走るとか、障害物などにより複雑な地形である野山を駆けるとか、動作時の己の均衡を保つ能力だ。平衡感覚を磨く、三半規管を強化するというのがこれに当たるだろう。それらを行い、また、子供向けのパルクール教室にも顔を出した。

 

 一つ、肉体の連動性の鍛錬。

 これはそのまま、幼少期のスポーツが大切だ。一つの動作に必要な筋肉群を、如何に滑らかに連動させて行動を起こすか――その基礎的な力は幼少期にこそ磨かれる。

 いわゆるスポーツが上手だと言われる人間は幼少期にこの下地ができており、身体を滑らかに動かすことを得意としている。


 一つ、拍子技能の鍛錬。

 リズム感というものだ。これはダンスや音楽などから、導かれる。音楽に合わせたり、鳴る音に合わたりしてそれを養う。


 一つ、瞬発性の鍛錬。

 ゼロからのトップスピード、トップスピードからの急減速など、感覚器が把握した状況に合わせて己の肉体の出力の増加減を適切に操る力。これは、左右への回旋を伴う複雑な走行や緩急を効かせた走行、様々な跳躍運動の複合などから磨かれる。


 一つ、反射の鍛錬。

 本来ならば、実際に利用する機械などを用いて行うことが必要不可欠であるが――その基礎的な土台として、素養を身に着ける訓練を行う。これもホログラム投射デバイスが役に立った。視界に示されたターゲットへと拳を叩き込む、或いは避ける。音と同時に行動を起こす、浮かんだ数字を瞬時に認識し判別し順番通りに撃ち抜く、色によって攻撃可能と不可能の対象を区別してそれを実行するなど、いくつかの鍛錬プログラムを自作して行った。


 最後に器具への習熟だが――これは、アーセナル・コマンドないしはアーモリー・トルーパーを用いなければ磨くことは叶わない。人型重機の操縦ばかりはこの年齢では不可能なために、今は待つしかなかった。レース競技のジュニア大会なども可能となる年齢まで待たなくてはならないだろう。今は、それらの競技を観察して必要な動作――つまり、プロの動きを観察して機動の理想的なイメージを把握するに努めた。


 スポーツの才能や素質――というのに関しては、五〇パーセントが遺伝的要因、残りの五〇パーセントが環境的な要因と研究されている。

 自分が行うべきは、この残りの五〇パーセントを極限まで高めること。

 他の子供にはない、一定の精神年齢にあるからこそ行える修正サイクルの自発的な運用――それを利用して己の能力を可能な限り極限まで研ぎ澄ます。殺傷のための有用性を限界まで高める。


(だが……ここまで鍛えたところで、全てを費やしたところで、一体どれだけ喰い下がれるか……)


 丸太や木人や標的などの古典的な機材から、ホログラム投写機を用いた最新の器具まで。輸送用のトレーラーコンテナを転用した鍛錬場には、様々な道具が満ちている。

 それでも流れる汗をタオルで拭いながら、毎回、不安に駆られる。


 ……他の子供にはない修正サイクルの自発的な運用と言ったが、正しくは誤りだ。

 自分の行動を把握し、結果を観察し、理想型との違いを認知し、それを修正するというサイクルは――確かに一般的に幼少期の子供には難しいことだろう。

 だが、行える者というのも存在する。

 一つが幼少期から厳しい親の教育の下にそれを行うものであり、もう一つは、ただ果てどない楽しみを持って行うもの。後者は、ゲームのプレイヤーなどを考えれば分かるだろう。好きこそものの上手なれというが、楽しみを持って行う者たちは容易くこのサイクルを回していく。

 故に、己のこれは全てを踏破する武器にはならない。

 いずれ登場してくる操縦神経の形成――つまり幼少期からアーセナル・コマンドに触れる機会がある者たちに食い下がるための、必要最低限の技能にすぎない。


(……いずれは追い抜かされるだろう貯蓄だ)


 それを、積み立てる。己の知る歴史のままに進むなら残り二十年弱――肉体の全盛期と、技能の全盛期をそこで合致させるために今は鍛錬しかなかった。

 とは言っても、何も、日々血の滲む訓練を行った訳ではない。

 肉体の成長曲線から考えるに、まだ、本格的な鍛錬は行えない。神経系の発達があくまでも主眼である。そういう意味では、レクリエーションのようなものではあった。スポーツを交えてというのも、いい息抜きになる。


 二週間に一度、気分の転換も兼ねてそれらを総合的に利用できるようなアミューズメント施設にも出かけた。つまり、射撃や運動などの軍事行動の基礎を楽しみながらできるようにした軍の集兵プログラムの一環のようなもの。

 やがて徐々に、スコアは増した。

 ハンス・グリム・グッドフェローという容れ物の持つ素質なのか、それとも自分の鍛錬の成果なのかは分からなかったが……少なくとも数万人の上位程度には、自分の殺傷性は研ぎ澄まされているという確認にはなった。


 それは九歳であったか、十歳であったか。

 そんな施設での、ことだった。


「手を離せ。それは明確に不法行為だ。……警告は有限だ。その前に是正を求める」


 水分補給のために飲み物を買いに行った先で、一人の気弱そうな少年を取り囲んだ男たち。

 年齢層に多少のバラつきはあるが、推察するにジュニア・ハイスクールほどの年齢を主軸に、その知人などでやや年嵩の人間がいる――という感じだった。

 僅かに聞いた会話に従うなら、高スコアを出していた少年――それが店内のランクを塗り替えたことにプライドを損ねられたなど、そんな話らしい。

 見たところ、武器はない。

 差は、体格だろう。年齢の差とは容易いものではないと頭のどこかで己の危機感を観察する。


「侵害行為に対しては、連盟大憲章に基づき応報する。これは一市民の権利としても認められており……つまりはこちらも実力を行使する、ということだ」


 しかし、話していれば――作業を行えば、己は切り替わる。切り離せる。

 そうして言葉を続けようとしたときだった。


「偉そうに何様だよ。ガキがベラベラと」

「偉そうに言ったつもりはないのだが……そう聞こえたなら、それはお前の劣等感のためだろう。暴力はその内なる劣等感から目を背けるための刹那的な娯楽か、或いはその惨めな自尊心を支配欲で補いたいのか……いや、多くは言うまい。失礼した」

「コイツ……!」


 少年の胸ぐらを掴んでいた十代半ばの者が、手を離してこちらに向かい合った。

 その後ろでニヤニヤと眺める十代後半あたりの男――彼を暴力の背景にしつつ、無抵抗の相手に攻撃するのを好んでいるらしい。

 その足運びから、彼らにスポーツや武道の経験はないと知れる。その動き一つとっても、根本的に筋力が不足している。外見的には手首や首周り、肩や腿に現れるものだ。


「……暴力の行使を希望する、ということで構わないだろうか。繰り返すが――」


 言い切るよりも先に、突き飛ばさんとする相手の腕が伸びた。

 タイミングを合わせて肩を透かし、つんのめった上体のそのガラ空きな顎を拳でなぞる。薄皮一枚を引くように顎の表面を撫でられた少年が、腰から崩れ落ちた。脳震盪というものだ。


「話の途中だが。いや……丁度いい実例になるか。続けよう」


 周囲の連中は、腰から崩れた彼を嘲笑っていた。

 彼はそれに顔を真っ赤にし――その状態でも周囲の声を聞こえる程度になれているなら根性はある方だろう――それでも起き上がれずに、片羽をもがれた蝿の如く地面で何度も立ち上がろうとしては転げていた。

 まだ、嘲笑は続く。

 そんな笑みを浮かべたまま、手本を見せてやるとばかりに現れた少年が拳を構え、軽快にステップを刻む。

 そして――


「ひっ゛!?」


 その切れ味も鈍すぎるステップの内腿にローキックを叩きこめば、奇妙な悲鳴と共に尻を捻って転がった。

 体重差や体格差はあるが、一般的に内腿は鍛え辛い上に体系付けられたローキックというのは普段から受けていなければ対処が難しい。ある意味で狙い目の一つだ。


「その無様な動きで何を為したかったかは不明だが、暴力を是としたのはお前たちだ。……その果てに何が起こるかも、伝えよう」


 また新たに掴みかかりにくる少年の右腕を、内から外へ右手で払いながら逆に相手のその手首を握り付け、更に勢いのまま円を描くように逆の手で肘を押し極める。

 釣られるように強制的に身体を捻らされる少年。

 その身体を別の人間に対する盾に使い、その前蹴りを受け止めさせた。気の毒なことに腹へと突き刺さりくぐもった悲鳴を漏らしたが、それはいい。どうでもいいものだ。

 肘を極めたまま、少年の小指を掴む。こうすれば、子供の少ない力でも致命的な損傷を与えられる。

 そのまま、告げた。


「これから俺が少し力を込めるだけで、まず、小指が折れる。それから、肘が外れる。破砕した関節が靭帯を巻き込み損傷を起こし、内出血し、その炎症反応と鬱血から損傷箇所は数倍に膨れ上がる。高熱が出るとも聞く。数日魘されることもあるだろう」

「離せテメエ! ブッ殺――」

「喚くな。……そして一度損傷した靭帯は、皮膚などと異なり不可逆の破壊を受ける。つまりこの先一生、腕に何らかの障害が付き纏うということだ。二度とまともに動かないと思うべきだろう」


 少年を盾にするように引き回し、残りの者たちにその顔を見せ付けさせる。罵声と怒声でがなり立てたので、その小指へ少し力を込めて捻り上げる。


「繰り返すが、喚くな。暴力を是としたのはお前だ。これは、お前がいずれ齎したであろうことだ。……お前には聞く義務がある。暴力を肯定するならば、お前はその結果についても知るべきだ。その果ての死にも――だ。これから存分に教えよう」


 動きの止まったこちらへ他の者が回りこもうとしてきたために、一際強く指をねじ上げて悲鳴を上げさせた。

 腱の破壊は不可逆のため、人体は相応にそれへの状態感知センサー――つまりは痛覚というのを殊更に強くしている。なので、関節技というのは最も無力化に向いている。

 そのまま背後から、その首筋に鉄製のカードケースを押し当てる。特に切れ味はないものだが――……。


「死亡確認の条件は定まっているが、死に方というのは複数ある。しかしまたそれも結局は一つに絞られる――即ち、脳の器質的な損傷だ」

「離せ! 離せよ! 離――」

「繰り返すが、喚くな。……これを与えるには、いくつか方法がある。一つは酸素の枯渇、もう一つはストレス物質の蓄積による破壊、或いは細菌の毒素や直接的な打撃等による破壊。……酸素の枯渇のためには、その頸動脈を締め上げる、刃物にて掻き切る、或いは痛みによる迷走神経反射や出血性ショックによる急性の虚血など――」


 全てを告げ終わる前に相手は無様に失禁していた。周囲もまた及び腰になり、今にも逃げ出そうとしている。

 どうやら――……戦闘続行の意思はないだろう。

 拘束していた相手の尻を蹴り飛ばして頭からゴミ箱へと叩き込む。缶が飛び散り、路面と立てる音。そのまま周囲の取り巻きたちを一瞥する。

 彼らは捨て台詞を残して去っていった。彼らに囲まれていたはずの少年もまた、いつの間にかそうだった。

 つまり、取り残された形になる。


「ヒーローになりそこねてるじゃない。バカね、アンタ。……変人グッドフェロー」


 同様に施設を訪れていた二つ年上の金髪の少女――言うならば幼馴染だろうか。物陰に隠れていたらしい彼女が、呆れたようにそう声をかけてきた。


「感謝を求めたものでもなければ、実害が一つ消えただけで十分に喜ばしい事態だ。他の一切は些事だろう」

「はあ!? いちいち固っ苦しい喋り方しないでよ! 長いし難しいの! 偉そうに! 年下の癖に! だからアンタとは話したくないのよ!」

「ならば、無駄に話さなければいいだろう。俺ならそうするが……」

「はあ!? なんでそんなことをアンタに言われなくちゃならないの!? うるさいのよ! 頭でっかちのバカハンス! ばかばかばか! うるさい!」


 どうしろと。……いや、どうしろと?


「機嫌が悪いなら、そのまま一人でここにいるといい。俺は失礼する」

「はぁ!? ……何よ、怒ったの? 謝るわよ。こんなところに置いていかないでよ! ねえ、怒ってるの! それがレディーに対する扱いなの!?」

「……。……どうぞ、お手を。エスコートさせていただきます、マイ・フェア・レディ」


 そう言うと彼女は目を見開いてから――それからなんだか誇らしげに胸を張った。気分を良くしているらしい。

 他人の人生に口出しをする気はないが、正直なところ若干心配ではあった。こうも幼少期から他者に支配的な行為をして、その悦楽に浸る。あまり良い人格に育つとは思えない。

 まあ、なんにしても彼女の自由だろう。好きに生きればいい。こちらはそれに干渉する権利などない。


「それにしても、さっきの奴らも酷いわよね。お礼も言わない奴も、あんなことしてる奴も……別にハンスが助けてやらなくていいでしょ。そんなのには関わらないのが一番ってママが言ってたわ」

「俺は、そうは思わない。この社会に暮らす以上、そこには絶えず社会の一員として、市民としての義務が付き纏うことになる。つまりは目の当たりにした不道徳や不正義に対して、異を唱えることだ。……とは言っても限度があるだろうな。個人での対応が難しいことについては、警察等の専門家に任せるしかないが――」

「話が長い! 理屈っぽい! 何言ってるかわかんない! だから変人って言われるの! 直しなさいよ! イチイチ言葉が多くて長いの!」

「……そうか」


 確かに、子供相手にする話でもないか。

 そうなると、彼らと話す内容はなくなる。スポーツの戦術だとか感想だとかならまだいいが、基本的に精神年齢が全く合わないのだ。自然とこちらも、会話を諦める。


「そんなんだからスポーツを上手くやっても人気者になれないのよ、ハンスは。ミーシャも言ってたわ。ハンスくんは怖くて苦手、って。……残念ね、あんなかわいい娘に怖がられてるのよ?」

「そうか。人気者になるつもりはない」

「じゃあ、なんで?」

「……話す必要があると思えないが」

「ある! あたしが聞きたいって言ってるの! だから話しなさいよ! 変人ハンスなのに生意気よ! あたしの方がお姉さんなの! 身長だってあたしの方が高いんだから! 言うこと聞きなさいよ!」

「……」


 年長者と言うなら、むしろ、目下の者を慮るべきではないのか。

 そうも思うが、精神年齢を加味すれば歳上は自分の方だろう。ならば、女児の勘気にも付き合ってやるのが妥当と言える。


「肉体を修練している」

「……???」

「……身体を鍛えている」

「なんで? ヒーローにでもなりたいの? ……うわー、恥ずかしー。あたし、そういうの卒業したわ。ハンスはまだそういうのが好きな年頃なの? おこちゃまじゃない」

「……ヒーロー志願はしていない」

「じゃあなんで?」


 レッテル貼りとマウンティングと何故なに行動。

 実に子供らしいな、と思う。微笑ましさ――……まで行かないのは自らの不徳だろう。会話の面倒さがどうにも付き纏う。

 しかし、求められているのに応じぬというのもまた苦なる話だろう。

 故に、息を一つ――


「そも……


 なので、極めて端的に告げた。

 だが、彼女は解説を求めた。


「どういうこと? 嫌いなの?」

、という話だ。特定の誰かでなければ解決できない問題など、許されてはならない。そんなものは否定しなければならない。……断じて存在を許してはならない」


 言葉にすれば、熱された鉛が冷え固まるように、己の中でその重みが増していく。

 或いはそれは、怒りにも似ていた。

 身の内から震えるように訪れる、憤怒に似ていた。


でなければ救えない、でなければ救われない問題などこの世にはあるべきではない。それでは、その役割となった人物への機会の平等性が損なわれる。……いいや、それだけではない。この世にはが如何なる優しさを持ち寄ろうとも、があると肯定することとなる」


 それは――……許されざるものだ。

 許してはならないものだ。

 がその場にいないからお前の不幸を諦めろとか、お前はでないのだから他人を慮っても無駄だとか、そんな論理が罷り通る。

 違う。

 そうであっていい筈がない。

 手を差し伸べられるべき苦しさが、誰かに手を差し伸べようとした優しさが、ただから無為に終わる――そんな結末を迎えていいはずがないのだ。それは、なのだ。


「俺にはそれが許せない。それが誠の優しさから出た行動であるならば――……どうか、ただ報われて欲しい。その手を差し伸べる側も、差し伸べられる側も、どちらにも報われて欲しい。……それを許さぬ不条理の存在さえ赦せない。……俺の正気が続く限り、それを断じて肯んじてはならない。否定し尽くさなければならない」


 そうだ。


――」


 そんなものは喰い千切らなければならない。

 切り刻まなければならない。

 この己は、断じて、それを許してはならないのだ。

 一片たりとも。毛の一つほども。灰燼と帰すまで。

 ――――。


「特別な誰かなど、この世には必要ない。。……世に幸福の王子は不要なのだ」

「えっと、今度は絵本……? ……あー、そっか! つまりハンスは、コミックとか絵本とかにまだ手を出してるのね! やーい、子供ー!」

「……君が全く理解していない、ということは伝わった。理解できぬならば、無理に会話をせずとも構わない。……俺も、話の通じぬ子供にかけるだけの時間があるとは言えない。真実、無意味な会話だろう」


 言ってから、反射的に上体を畳んだ。

 頭の上を平手が素通りした。アリシアが、そうしたようだ。こちらが回避したためか、バランスを見誤って身体が泳いでいた。


「……何故暴力に及ぶ?」

「うるさいっ! うるさいうるさいっ! 別にあたしだってアンタに構ってあげたくてあげてる訳じゃないんだからね!」

「ならば離れればいいだろう。……自由にしたらいい」

「――」


 言えば彼女は猫のような青い目を見開き、


「……ハンス、あたしのことが嫌いなの?」

「…………うん?」

「嫌いなんでしょ! だからそうやって意地悪言うんだ! 意地悪ハンス! ばか! ばかばかばか! 変人!」

「……」


 心を尽くして話した筈の理論を「好き」「嫌い」の二元論に――つまりは好意的だから良いものとか、嫌悪的だから悪いものとか、そんなふうにどうしようもない分類で片付けるのは正直控えて欲しい。

 ……まあ、いいだろう。そこは個人の自由だ。こちらの自由を侵害していない限り、その自由を損ねるというのも些か気の毒な話だ。

 つまりはまあ、余計な会話を控えるのみだろう。無駄なコミュニケーションを続けるのは、無為と言う他ない。語りすぎるのがおそらく己の悪い癖だ。

 そも、人は皆差異がある。他人に十全な理解を求める方が愚かしいというものだ。


「こーら、アリシア? またハンスくんを困らせてるの? あなたの方がお姉さんなんでしょ?」

「だって、酷いのよ!? ばかハンスが――!」

「駄目よ、アリシア。……ごめんなさいね、ハンスくん。これでもこの子、今日の遊びを楽しみにしてたの。誤解しないであげてね?」

「……いえ、その」


 騒ぎを聞き付けた――娘と同じ金色の髪を持つ彼女の母が、腰を折って謝罪する。……目線を合わせるように屈まれると、色々と目のやり場に困る。

 奇妙な胸の高鳴り。

 こちらに来てからの精神年齢をそのまま加味するなら――実際のところ肉体の影響で必ずしもそうとは言えないのだが――アリシアの母の方が、こちらの実年齢に近いだろう。そんな柔和な笑みを浮かべる彼女と会話すると、どうにも何ともな照れが浮かんでしまう。

 その瞬間、背後から衝撃を感じた。


「……痛いが」

「うるさい! バカハンス! バカバカバカ! バカ! さいてー! さいてー! バカ!」

「……十分な知的水準を満たしている、と自認するが」

「うるさい! べーっだ!」


 母親の怒声と静止の声に背を向けて、少女が走り出す。

 ……気の強い少女の相手は改めて難しいと思った。



 ◇ ◆ ◇



 ハンス・グリム・グッドフェローという男の性能を追求する――否、本物である彼に近付けるための努力というのは必要最低限の前提だ。

 本来いるべき筈だった第九位の破壊者ダブルオーナインが損なわれてしまうことで、この世界にどれだけの影響があるか分からない。

 戦争の結末が変わることや、その後の歴史の流れが変わることもあり得るだろう。ともすれば撃墜王の不在により長引く戦争の影響や最終勝利者の変更によって、この世界の人類が滅びかねない。

 故になんとしても、己は、人類最強の九人の一人となるべくして鍛錬を行わなければならなかった。


 最低条件――……。


 そうだ。それはあくまでも、最低条件だ。

 己が知るその未来よりも悪くしないために、まず必ずは行わねばならぬこと。

 その上で自分には、目標があった。


 史上最大の犠牲者を生むというその戦争の回避――ないしは、犠牲の低減。


 そのためには、もっとこの世界について知る必要があった。

 政治、歴史、経済、民族――……戦争というのは、突発的に起こる訳ではない。それまでに積み重ねた様々な摩擦が集積され、そして噴火するものである。 

 その力学を知らなければならない。

 病巣を見つけねば切除できぬように、その、複雑に絡み合った縦糸と横糸を解きほぐさなくては問題の解決は見えてこない。その指針も。


 ……この世界に詳しかったならその必要はないのかもしれないが、あいにくと、決定的な事項についてしか認知していない。

 印象としていくつかの単語やいくつかの事態の把握はしているものの、その背景については理解がない。

 そういう意味でも、異邦人である己にはそれしか取る手立てはなかった。


 日課である六時間のボディ・コントロールの鍛錬を済ませた後に、ホログラムデバイスの画面に向き合う。

 講義の時間だった。

 取れる連絡先から、多くの大学教授に連絡をとった。

 箔を付けるためにIQテストや大学進学適性試験を受けるなどして――当然、肉体年齢と精神年齢に大きな差があるためにそれは記録的な数値となる――己という素材の希少価値を高めた上で、電子メールでコンタクトを図る。


 これから行なわれるのは、その内の一人――不躾にも直接的に連絡をとってきた子供に対して、快くプライベート講義に応じてくれた実に奇特な大学教授だった。


 タイム・パースリーワース。


 元貴族院の議員――公爵という身分を背負っていた彼は、息子であるセージ・パースリーワースに議席と家督を譲り、議員時代に培った経験から政治学の教授として勤めている。

 一流大学の、一流教授。

 そんな彼がこちらの頼みに応じてくれたのは、運が良いとしか言いようがなかった。父ヨーゼフと、セージ・パースリーワース公爵の間に縁があったのも大きいだろう。

 そしてそんな恰幅の良い老教授との講義が、一旦休憩に差し掛かった頃だった。


「……それにしても、君は、飛び級などには興味はないのかな?」


 彼が、ふと、口を開く。

 確かに以前二百近いIQを出しており、大学進学適性試験でも必要なスコアを出していれば、飛び級も十分に視野に入るだろう。

 三歳の頃に微分や積分を理解していた少年、それが本物ならば社会的にも非常に貴重な存在だ。……無論、自分は紛い物だが。


「そうも高く評価される、というのはありがたいことです。ただ――俺には、やらねばならないことがある」

「……それは、早く大学に進んでは満たせないことかな?」

「はい。……残念ながら。叶うなら、俺も、教授の講義を膚で感じてみたかったのですが――」


 一度大学を卒業してしまえば、士官学校への入学は極めて困難になる。

 無論、社会人となったあとに予備役の一種にて一年の促成士官教育課程を行ってくれるプログラムはあるものの、きっとそれでは足りない。別に自分は天才ではなく、精神年齢とこの世界での肉体年齢の差を利用しただけの詐術的な人物なのだから。

 元来のハンス・グリム・グッドフェローという人物がどれほどの指揮能力を持っていたのかは不明だが、まず軍事の素人である自分は四年間十分に士官教育を受ける必要があるだろう。

 その観点からも、飛び級で大学に進学する道は選びようがない。


「まあ、構わないとも。……それにしても君と話していると、私の学生とそう変わらない年齢にも……いや、それ以上にも感じられるね。……私の孫娘も、いずれそうなるのだろうかねぇ……」

「お孫さんが?」

「ああ、ついこの間生まれたばかりでね……あ、君の嫁にはあげないぞ? いくら天才で愛弟子と言っても、流石にそれは駄目だ」

「……ご冗談を。当人の意思を介さずして行われる婚姻ほど、呪わしいものもないでしょう」


 言うと、老教授がニヤリと頬を釣り上げた。


「ははは、いいね。その物言いは、物語の騎士の如くだ。それとも小さな賢者か……まさか私が、そんな騎士物語の演者になれるとは、これだから人生というのはやめられないね」


 貴族らしい奇矯さも持ち合わせているのか、彼はこの小さな異物とのやり取りを好んでいるらしい。

 彼もまた、この傍から見れば奇妙で不気味な少年との会話を楽しんでくれているというなら――何とも頭が下がるとしか言いようがなかった。


「……では、本日もよろしくお願いします。パースリーワース教授」

「ああ、よろしくね。小さな思索者シンカーくん」


 そして、政治学の授業が始まる。

 今日は、まず、生息四圏の地政学的な案件と設立背景や歴史についての基礎的な講義だ――。



 ◇ ◆ ◇



 走る。

 走る。

 兵は体力だ。武力は、体力だ。免疫力も体力で、寿命も体力。この世は全ては体力だ。


 そう、知力もまた体力だ。


 滑車内のハムスターのように走り続ける陸上トラック。

 世界が透明に霞むような酸素の足りない頭。

 いくら肺が膨らんでも空気を取り入れられず、僅かに掻き集めたそれも片端から消費されていくような灼熱感。

 疲労と言うには倦怠感と虚脱感がまとわりつき、最早自動化機械のように回転率を上げる手足は熱を孕んで世界との輪郭が溶けていくようだ。

 一つの排気エンジン。燃焼機関。

 それと化したように移ろいでいく己の意識を――臨死の恍惚にも似た茫洋感を、遠ざかる音を、骨伝導通信の機械音声が現実という楔で打ち込んで引き戻す。


『――問。山と山の間に在する隘路あいろ付近に連隊規模の歩兵部隊を展開しなければならなくなった。その場合、適切な展開はどうなるか』

「何も条件がなければ、敵から見た隘路あいろの出口に火力を集中。隘路あいろを抜けてきた敵を殲滅する」


 大軍の利を活かせぬ地形を選ぶ必要はない。

 同様に、こちらが隘路を抜けて敵先鋒や前衛を目指すのは不適格だ。

 そんな答えへ、機械音声は、


『――迂回されたら?』

「……」


 さらなる質問を投げかけた。

 迂回――……迂回、されたら。迂回……? 迂回とはどこに? 連隊の後背に? 前衛や予備兵力で対処を?

 三十分を過ぎるランニングで糖の欠如した脳は、すぐさまに答えを導けなかった。

 そうしている内に、沈黙を無回答と判断したAIがこちらへと淡々と正解を告げる。


『この場合の正答は、この部隊展開の企図を問うこと。条件の詳細を確認すること。本隊の斥候として隘路あいろのその先に進むのを目的としているのか、隘路あいろを利用して防衛を行うのか。防衛や遅滞が目的ならば、敵の迂回による時間の浪費や山岳移動に伴う敵火力の低下は望ましいものである』


 そんなの、ズルではないか。条件がないならとこちらは述べたのに――……いや違う。戦場にそんなものはない。今からそれを確認する習慣を、思考の基礎を作りあげろということだ。

 これは、高度な軍事的なプログラムではない。

 とっくにオープンソースと化した過去の戦史研究を紐解き、戦術好きのミリタリーマニアのために作られたオーディオ・AI・ゲームブック。

 それでも古典的ながら戦史に刻まれる戦術書の解説交えて、元軍人が監修して作ったものだ。軍で習う専門性のある分野と比すことは不能だが、戦闘中の戦術思考の育成には役立つ。


 自分は歩兵の運用にも関わらなければ、連隊長や師団長などにも行かない。それよりは中隊長、小隊長それ以下のことについて思考を巡らせるべきだろう。

 ただ、基礎にはなる。

 己の肉体が追い詰められ、高ストレス下にある中でも思考を保つことの基礎を養える。


 己がいずれ搭乗することになる人型兵器アーセナル・コマンドは、歩兵よりも遥かに高速で飛び回り、ときに戦車のような振る舞いを、ときに戦闘機のような振る舞いをする新型兵器だ。

 その挙動を学ぶならば高速化した戦闘ヘリが相当するところだろうが――それ以前に、戦術的な思考を身に着けなければ土台に上がれない。


 既に出題は十数度に及び、そのいずれにもまともな回答を行えていない。運動下での思考力の限界か。

 これ以上は、行っても有効な訓練とならないか――……


「――まだだ」


 常に思考しろ。

 いつ何時たりとも、頭を回せ。

 己には十分な力がない。才能がない。ならばあとのそれを補うのは機転であり、そのための努力だけだ。


 思考せよ――理性の火を絶やすな。


「空戦機動に関する例題を出題せよ。大隊以上の規模ではなく、小隊規模や個人規模のものを旨として」

『――了。しかし、機体の詳細な情報については高度な軍事機密に属するために出題は限られます』

「構わない。基礎的な事実のみで十分だ。判断サイクルの形成を行いたい」


 息切れが交じるほどに陸上トラックを走りながら、腕に巻いた可搬型デバイスに呼びかける。


『――条件を設定。出題されます』


 同時に、走る己の前方に浮かび上がる擬似的なホログラムヴィジョン。平面だが、コックピット内のレーダーや景色を模されている。

 立体映像コンタクトレンズが補正を行い、他者には視認できないシミュレーションを立ち上げる。


『――問。コールサインはスペード1。編隊はスペードチーム。以下、状況開始』

「……」

『スペードチーム、サンダーヘッド。所属不明機ボギー2シップス、ハイスピード。参照点ブルズアイ0-6-0、方位変更ベアリング0−3−0、距離フォー0−5−0、サウスターゲット・飛行高度エンジェルス25、ノースターゲット・飛行高度エンジェルス23――……』


 続く――続けていく。

 己を戦闘存在へと、純化させていく。



 ◇ ◆ ◇



 そんな日々を送り続け、十五歳になった。


 この世界に来てから気付いたことがある。

 片手腕立て伏せというのはよくこの手のトレーニングイメージとして語られるが、実行したところであまり意義が感じられないということだ。

 それよりも単純に腕立て伏せをしたり、或いはダンベルやバーベルや器具を用いて行った方が有意である。というかそも、前世でも容易くできていたあたり運動強度は高くない。

 逆の手の補助を一切使わない――つまりぶら下がっている側の手首や肘を持たない――片腕懸垂ならば負荷もひとしおだが、これもやはりあまり良いものとは思えない。バーベル用のプレートを身体に下げた負荷付き懸垂の方が、身体の筋肉のバランスという意味でも有効だ。胸への刺激なら、同様に荷重ディップスなども良い。


 ……余談だ。


 鉄棒にぶら下がり、ワイパーという爪先を左右に振る腹筋のトレーニングを行う。十回一セット行うたびにそのままインターバルなく腹筋ローラーに移る。二十回。これらを合わせて一セットとして、五セット行う。

 それが終わったら、クランチ――いわゆる上体起こしだ――ではなく、プランクを行う。クランチでは腰部への負担が大きいと、研究により示されている。

 その他にもまだある。鍛え方は多く、まともなインターバルをとっていると数時間などすぐに経過してしまう。

 まだ高重量での本格的なウェイトトレーニングが開始できずとも、体幹部に関しては行うようにしていた。それら最低限の筋肉を磨いた上で、己のボディコントロールと合わせる。必要だった。


 そんなトレーニングを終えた後に黒のタキシードに身を包み、父と共にパーティに向かう。

 人脈を作る。

 そのために。行える努力は、全て行うべきだ。


 そんなパーティの帰り道だった。

 運転手に頼まず、自分で車を運転する父。

 かつての友人と再会して、互いの子供を結婚させるという約束はまだ有効か――と問われたと笑いながら話していた。友人の名はブランシェット。あの、ブランシェット博士だ。

 父は困った体験談のようにそれを自分に話していたが、


「……構わない」

「ん?」

「婚約だ、父よ。俺は構わない。むしろ、こちらから望むところと言っていい」

「…………………………ハンスくん?」


 こちらを思いっきり見てきた。

 運転中なので前方に注視してほしい。


「ハンス、お前、あのガールフレンドの娘が……」

「フラれた。思っていたような男とは違ったそうだ。……非常に不本意ながら」

「そ、そうか……そうか……」

「そうだ」


 乞われたので交際してみたが、することといったら向こうの世界とあまり違いはなかった。学生というのは、どの世界もそうなのだろう。

 そしてフラれ方というのもまた、同じだった。


「あ、でもなハンス。ほら、例えばあの幼馴染の――」

「こうして破局するのは、これで三件目なんだが……。よほど俺は、深く知れば知るだけ男としての価値を見出だせない類の人間らしい。……動じぬように努めているつもりだが、こうも言われると、少々、傷付く」

「そ、そうか……」


 プランの一つとして、例えば衛星軌道都市サテライトやその他都市の有力者や権力者の子女と親密になり、その寵愛を受け、経済力や権力を背景に戦争の歯止めをかける――ということも考えたが……。

 この分では、それはどう考えても実行不可能だろう。

 ああも数名に渡って、お前は恋人として不適格だとか――男として魅力的ではないとか、良い恋人ではなかったとか、付き合ってみたら興醒めだとか、イメージとまるで違うとか、クールではなくぼんやりして鈍感なだけとか、なんか辛気臭いとか、自分勝手だとか、長々と喋らないでほしいだとか、猫好きは解釈違いとか、芸術に興味があるなんて似合わないとか、体力がありすぎて辛いとか、浮気しても怒らないなんて結局あなたは人間に興味ないんだとか――そんな風な言葉を投げかけられるなら、その路線は不可能を意味している。

 余裕があるならそちらの是正を図るべきかもしれないが、リソースには限りがある。あいにく、非才な己にはそちらのスキルツリーを伸ばしている余裕はないのだ。


 ……いや、まあ、そういう視点抜きでも普通に辛いことではあった。

 如何にこちらのことが嫌いになったのかを、数時間近く話し続けられて嬉しい気持ちには全くならないし、それを黙って聞いていたら今度は今度で「馬鹿にしている」とか「そういうところが私を好きじゃないって言ってるの」とか「別れたくないってどうして言ってくれないの」などと怒鳴りつけられるとか、本当にどうしたら良いのか分からなくなる。


 ……それでも、まあ、収穫はあった。そう考えるべきだろう。

 今後のために肝に命じようと思う。己は男としての魅力は最下層なのだと。

 いい指針になる。その点では、まあ、感謝してもいい。


「その、まあ、大声では言えないが父さんも失恋の経験はある……その……そういうことは時が解決する……するとしてだ、ハンス」

「ああ……なんだろうか、父よ」

「その……ショック、というのは誰にでもあるが……そういったことのあてつけのようにだな……それもその、数名の女性がそうだったからと言って同年代すべてがそうである訳ではないし……いや、例えばその……幸福はもっと身近にあるとも言うし……少し年上なんかどうだ? 二歳ぐらい上なんかいいと思う。いいんじゃないかな」


 やけに歳上推しをするこの世界の父を見ると、何とも言えない気持ちになった。こんな場で父の性癖を知りたいとは誰も思わないだろう。

 ただ、だとしても……


「母は、年上だったか?」

「……。いや……その……だとしてもあまりこう、その、年下すぎる相手に妙な理想を押し付けるのも――……」

「……?」


 どうやら、婚約するのは何か気の間違いだと思われているらしい。

 ……確かに、婚約を通じてに近付こうというのは、気の間違いにも等しい無意味な行為だろう。こちらに男性的な魅力がないというなら尚更だ。

 パースリーワース教授にああ言っておきながら、メイジー・ブランシェット当人の意思を置き去りに婚約を交わすなどあまりにも愚かしいことこの上ない。

 しかし、打てる手は全て打っておきたかった。つまりここで、この婚約を何かの間違いだと思われるのは避けたい事態であり――……その観点に従うなら、多少なりとも本気っぽさを見せるべきだろう。

 うむ、と内心で頷き、


「そうだな。可愛らしい少女だと、俺も思ったからだ」

「……!?」

「あのような少女ならきっと俺も幸せだろう」

「……!?!?!?」

「……一般論だが、そのような女性なら妻にしたいと思う男も多いだろう。……俺が仮に同じとして、問題が?」

「……!?!?!?!?!?」

「そうだな。……具体的な話をするとすれば、もし仮に当事者が乗り気ならば――……親同士の取り決めによる婚約関係よりも良い夫婦になれる可能性が高い。そうであるなら、性生活も含めて健全な夫婦生活を送れるだろう。例えば、そう――世継ぎの問題も少ない筈だ」

「……――!?!?!?!?!?!?!?」

「このように婚姻生活を想像しそこに問題がないと思える相手は、世に理想的とされる結婚相手と見做していいのではないか。……如何だろうか? 孫の顔を見れる日が早いとすれば、親としても喜ばしい限りでは?」

「…………………………、…………………………」


 これで存分にこちらが正常な判断の下、本心から望んだものと伝わっただろうか。

 ……勿論全て方便であるため父を騙すような形になるのは心苦しいが、それでも熱意らしきものは見せなくてはならない。

 やがて、


「……いっそこのまま車で……いや……」

「……?」


 七月七日。収穫月メスィドール

 星歴〇二〇一年。


 ハンス・グリム・グッドフェローは、メイジー・ブランシェットと婚約した。



 ◇ ◆ ◇



 無限に等しいと思えていた鍛錬時間も目減りしていく。

 そんな中で、夜半、自室にて休息しつつ――机に向かって、世界情勢を確認する。

 無数に浮かび上がるホログラムを流し見し、今後の己にとって重大なニュースを拾い上げる。


(……攻撃衛星の破壊装置、導入は見送られたか)


 【星の銀貨シュテルンターラー】を防御する一番の策は、それが完全な突入角に入る前に迎撃すること。

 その運搬衛星自体の破壊もそうであるし、或いは放たれた神の杖の突入角を僅かにでも変更すれば大気圏突入の空力熱で破壊も叶う。しかし――……


(大規模な環境変動以後、国家間では大きな戦いが起きてはいない。万一、衛星軌道都市サテライトとの戦闘になることも警戒はしているだろうが――その場合の攻撃の主体は宙間ミサイルであり、宇宙軍海兵隊による制圧だ。そして宇宙からの地上攻撃は警戒されながらも、現在、そのような兵器の開発及び実験などの兆候がない以上は……)


 そんなありもしない脅威に予算をつけるだけの余裕など、保護高地都市ハイランド連盟には存在しなかった。


(実証実験を行わない兵器など、確かに荒唐無稽な脅威だろう。そんなものは、まともに取り合われもしない。……父の威光でかろうじて会話に加えて貰えているだけの俺に、説得など不能だろうな)


 未来を知っていると伝えたところで、どんな反応をされるかは知れている。

 恋人に――つまり特別に親密になった相手ですら、かつて拒絶された。

 心からの友人だと言ってきた相手もそうだった。真摯に訴えたつもりだったが、ドラッグをキメているとすらも思われもした。

 これ以上続ければ、父にも迷惑がかかる――それ以上に己の精神状態を疑われるということは、軍属の道が閉ざされるということだ。その選択肢だけは絶対に取ることができない。


 保護高地都市ハイランド衛星軌道都市サテライトが絶滅戦争に等しいほどの殲滅戦を起こす――――。


 荒唐無稽な話なのだろうか。そこまで、彼我の憎悪は育っていないと見ているのか。

 いや、或いは薄っすらと危機感があるからこそより強く拒絶されるのかもしれない。不吉なことを――と言われた。時には目線で訴えられもした。口に出すことで実現されてしまう言霊か何かのように、人は拒絶した。

 或いは、穢れ意識のようなものなのだろうか。

 被爆国や敗戦国が核の問題や軍事について語ることそのものを拒絶するかのように、互いに醸成された軋轢とそこから導き出される最悪の展開について触れることを、嫌がられているようだった。なんら建設的な、現実的な話ができないと言っていい。


 ……デリケートな時期、というのもあるのだろう。


 今ここで余計に動くことこそが、彼らを刺激してしまうと――そう思っているところもあるのだろう。

 それは、かつての世界で多く知った。

 戦争が起こる以前の兆候に、つまりは武力侵攻や軍事的な様々な準備に対して『まさかそこまではしないだろう』とか『逆に相手を刺激してしまうので強く出ないほうがいい』とか、そのように手を緩める。穏健策を取る。

 それが何らかの有効策に働かぬばかりか、ともすれば相手への成功体験として刻まれてしまって……最終的な発露が見出されるとしても、やはり人は、自ら蜂の巣を突きたくはないのだ。


「……」


 机に並べた想定されうる衛星軌道都市サテライトの主要人物の名簿を、握り潰す。

 様々なニュースを、オープンソースを見た上で今後の戦争勃発においても契機となりそうな人間たち。それをリストアップし、その行動範囲を調べ上げた。

 同時に、父の書斎に忍び込んで、彼が持っていた各種の戦術案のノートを学んだり――他にはテロリスト向けのアングラ動画などを元に、爆発物の合成や即席の起爆装置などについても勉強した。

 幼少期の鍛錬とも相俟って、自分はさながら暗殺教団が万全に育て上げた少年兵も同然な能力を会得している。しかもおそらくその手の者と違って、正常なる理性の下で自ら強く望むというモチベーションを有しつつ。

 しかし、 


(民意がそれを呼ぶなら、彼らを殺したところで止まりはしないか――……俺一人では、このすべてを殺すこともできない。いや、殺したところで却って開戦の口実を与えるだけになる)


 結局は、それも無駄だった。

 未来の罪で彼らを裁くべきか――……その問題に答えは出ず、そして積もり積もった歴史や民族の問題の一端として起こるだろう戦争については、誰かを取り除くことによる回避は不可避という結論を得るしかなかった。

 不完全な神の視点。

 この世界の住民と同じ目線でしか得られない情報。

 結末だけを知ったカッサンドラ。詳細の描かれない予言の書。


(足りない――……俺では、足りない。至れない。止められない……何故、俺なのだ。別の誰かならば、この先の争いを止められるかとしれないというのに――)


 そうすればあのメイジーも。

 それに続く数多の少女たちも。

 自分がかつて見知った彼女らも、そうでなく画面に映らなかっただけのそこで生きる命たちが失われることを防げたできたのに――……こんな自分でさえなければ。


 握り潰した紙が、手の内で虚しく揺れる。

 それでも――


(嘆くな、ハンス・グリム・グッドフェロー。……お前には義務がある。この先の歴史を知るものとして、その悲劇の回避に努める義務が)


 歯を喰い縛り、顔を上げる。

 まだだ。まだ始まっていない。

 ならばまだ、何も終わっていない。

 いや、終わっていようとも立ち上がるだけだ。立ち上がり続けるだけだ。そこに断じて失われてはならない命というものがあるなら、立ち上がらねばならない。

 それが義務だ。己の持つ義務だ。


「……いいや、義務じゃない。ただ俺は――死んでほしくないと、そう思っているだけだ」


 生まれ直してから既に大きく時間が経過した。遠からず己のかつての人生の長さを超えることになる。

 そんな中で、早い段階で作成したキーワード。今後の世界に訪れるであろう脅威をリスト化したものを眺めて、拳を握る。

 人生の――総合した人生の――半分以上昔のことなど、最早ほとんどエピソードすらも曖昧だ。もう大半の内容については鍛錬の日々に押し流され、記憶から遠ざかってしまっている。単語とその印象が残っているだけに他ならない。


 それでも――……それでも今後百年近くに渡り、争いは起こる。あの彼女たちの半生の中で三度は支配体制が変更され、ついには幾度と蛮族とぶつかった末に衰退して崩壊した西ローマ帝国のように文化水準は地に堕ちる。

 否、もう、文明が滅亡すると呼んでも過言ではない。

 そんな事態は避けなければならない。いずれかの戦いを食い止め、人類を存続させなければならない。


 まだだ、と。

 それがどうした、と。


 そう歯を食い縛って進む。進むしかない。

 それが己の選ぶべき――否、選びたいと思った自由なのだから。

 その先の空を目指すために、進むのだ。



 ◇ ◆ ◇



 初夏の風が肌を抜ける。

 それに含まれた草の匂い、虫の音、遠雷のような航空機のエンジン音――――。


 積み上げた銀のコイン、実に十。

 其れが二山……どちらも崩壊を運命づけられたバベルの塔の如く、両腕の手の甲に聳え立っている。

 瞳を閉じて、両腕を動かす。身体の前から左右へ――鳥が翼を広げるかの如く。己の肉体の持つ感覚器と制御器を、十全に支配下に置く。

 握った拳を開いた。

 幾度と。

 手の甲に筋が浮かび上がり、しかし、コインの塔は崩れない。完璧なボティ・コントロール。


 意を決して――裏拳で宙を叩くかの如く、僅かに拳を振り上げる。


 宙を舞う二十のコイン。

 そこに、ホログラムのポインターが示される。赤く――敵機の肖像。虚像。

 同時、目を閉じた。網膜に残響するその姿へ、脳で残像を引きながら現在位置を類推――即ちは空間識の発露。

 開いた手のひらに握られたホログラムの二丁拳銃。

 肌に貼り付くような最新鋭の家庭用ウェアラブル・ホログラム・フィードバック装置が、その鉄の重さを肌に伝えてくる――と同時に発砲。

 瞑った瞳の中、閉じた世界の中、最後に見詰めた世界に灯っていた七つの光点で示された虚像の――その未来に突き立てるように、弾丸を放つ。


 そして、


「……ミスが二つ、か。基礎的な早撃ちの力不足と、空間識の程度の低さだろうか」


 先ほどまでの己の動きと光点の移動を示す、電脳の亡霊めいた青いホログラムを眺めて吐息を漏らす。

 稼働時のボディ・コントロール……つまり圧力に対する順応と調整は悪くはなさそうだが、それ以外には問題が多い。特に、見えていないものを類推する空間識についてはまだまだ鍛錬の余地がある。

 十五年鍛え続けて、三万時間以上を費やして、それでもこれだ。

 いずれ己が競わねばならない相手は、アーセナル・コマンドという兵器の登場から数ヶ月から一年の間に驚くべき才能を発揮する。それと比べてしまえば、非才と呼ぶ他ない惨状だろう。


(本物の相手は、落下などとは異なる慣性無視の兵器だ。それを前にすると思えば……この程度をこなせなくてどうする。戒めろ)


 十八歳にもなった今は、身長の伸びも収まっていた。つまりは本格的な高重量のウェイトトレーニングを開始しても問題ない時期であることを示している。

 耐Gとして最も重要になるのは、最終的には筋肉だ。

 その鍛錬のための時間を思えば、そろそろこの程度のことを慣熟できなければ時間がない――……かつて天才と謳われた己にも年齢が追いついた。大学進学適性試験のための勉学もある以上、こちらだけに時間を使っている余裕もない。

 今や肉体鍛錬は日に数時間、それだけだ。

 無駄にはできないと奥歯を噛み締め――休憩を空けた後に再び装置を起動する。脳科学からは、休憩時間でこそ神経系や記憶の整理が行われ動作の上達が図られると示されている以上、それに従い行動するのみだ。

 次は、反応射撃の鍛錬だった。


 磨き上げろ。


 己の有用性を――全て、殺傷のために指向しろ。

 触らば万物を断つ剣の如く、己は、絶対的な武力を手に入れなくてはならない。

 指を、目を、髪を、口を、全てが殺戮に適合した生物へと変貌させなければならない――。


 一匹の獣になれ。


 ただ破壊と殲滅を齎すだけの、恐るべき獣に――。


 お前は死だ。

 一つの死となれ。


 一日に消費する弾薬量は約一〇〇〇〇発。

 年間で三百万発以上の弾薬が虚空に消えていく。

 ホログラムでなければ、とうに破産しているほどの消費量だろう。

 それでも、この有り様だった。



 婚約の事実と前後していたか、今や完全に疎遠になった幼馴染――こちらの父が士官であるため移勤も多く連絡は途切れた――もいなくなれば、自分に交流を持とうとする相手もいない。

 特筆するとしたら――……。

 パースリーワース教授の葬儀で出会った彼の孫娘には、何某か話しかけられたが……祖父からこちらのことを聞いていたという栗色髪の少女は、その祖父の死に衝撃が多かったのだろう。あまり言葉は多くなかった。その気を紛らわせるためにしばし会話していただけで、特に大したことはしていない。

 その父母であるセージ・パースリーワース公爵夫妻にお目通りは叶わなかったが、それは特に問題ではない。少女の無聊を慰められただけでも良しとして、また、自分は鍛錬の日々に戻っていた。


「ハンス。また、手紙が来てるそうだ」

「そうか」


 家に戻れば、ラフな格好をしたこの世界の父が手紙を片手に部屋を訪れる。


「ほう、お前もそんな顔をするんだな。……楽しいか、ハンス」

「……悪くはない、という感想だ。文通にも良さがあると、知れたこともまた楽しいところだ」


 自分は彼女を、主人公という一点を通した像でしか知らない。限られた映像の中で、おおよその認知を行ったにすぎない。

 そう思えば――……ある程度馴染みのある人間の異なる一面を知れるという意味で、楽しくはあった。限られた交流時間であるのだが。


「いや……その、それにしても……一時はどうなるかと思ったが……」

「……?」

「ああ、なんでもないんだ。問題ないぞハンス……問題ない。いや、あの子には少し気の毒だが……うん、メイジーちゃんともこういう形なら問題ないからな。くれぐれもそのまま節度を保ってくれ。問題ないからな、ハンス……問題ない。問題ないぞ」

「痛いが、父よ」


 肩を掴む力がすごい。あと顔がすごい近くて怖い。


「くれぐれも今、メイジーちゃんは十歳なんだからな、ハンス。……わかっているな? わかっているよな?」

「……? 分かっているが、父よ」


 あれから三年。

 自分は十八歳、彼女は十歳の実に八歳差の婚約である。広がるときは九歳差。何事もなければ彼女が十六歳になったあたりで解消したいと思っていた。

 ……何事もなければ。そう、終わってくれたら。


「それにしてもお前、本気で軍人に?」

「ああ。……連盟と、この国土と民を愛している。俺を育ててくれた父を尊敬している。父と出会った母と、家族が無事でいられるこの平和を愛している。……俺に選べるのは、この道しかない」

「そうか。……いや」


 何か言いたげな父が僅かに口を噤んだ。

 白髪が増えた、と思う。

 前世で血縁的な父を知らなかった己にとっては……本当に彼は、実の父親同然だ。いや、この世界においては実の父親で間違いないのだが――……複雑な話だ。

 ともあれ彼を確かに父と思い、敬愛していることには変わりない。


「思えばお前は、昔から物分りのいい子供だったな。……妹が生まれてからも、その前も、お前が何か子供らしい我儘を言っていることを聞いたことがない」

「……」

「ハンス。……本当に、後悔はないのか? その先に、お前の幸福はあるのか?」


 案じるようなその目線に、首肯する。

 続く鍛錬の日々に誤解を受けるかもしれないが――それでも己は、


「当然だ。……俺の幸福は、幸福そうな人を見ることだ。きっとそれがなによりも一番の――俺にとっての幸福だろう。彼らがただそこにいて、幸せそうに日々の生活を送っていることが……どうにも俺には、たまらなく嬉しいらしい」

「ハンス……」

「そのために、それを守るために、その笑顔を保たんとするこの国の理念を守るために、俺は軍に志願したい。……これは誤りだろうか、父よ」


 決して何かに呪われたとか、運命を科せられたという訳ではない。辛く苦しい道を進むのは、冷えていく血潮ではなく、確かに暖かに流れる息吹によるものなのだ。


「いや……そうならば、いいんだ。ただ――私も、条件は変えない。お前がそうしたいと言うなら、そうするだけの信念と覚悟を見せてくれ」

「了解した。……貴方ほどとはいかなくとも、俺にも確かに覚悟はあるのだと証明しよう」


 士官学校そのものではなく、通常の大学教育もされた上で大学内に併設された軍学校により四年間の専門教育を受ける。

 それが父の与えた条件だ。

 前世では味わったことのない大学受験というものは、それもまた己にとっての困難であるのだが――……困難ならば望むところだ。

 本音で言うなら避けたい。逃げたい。否――だからこそ全ての困難は己の道に続いている。そこから逃げ出すことのない人格だと確かめるためにも、如何なる形にせよ、それは己の機能性を磨き上げることに他ならないのだから。


「婚約者を……メイジーちゃんを守りたいのか、ハンス」

「……それもある。彼女の人生と幸福もまた、決して踏み躙られてはいいものではない。婚約者となったからには、俺にはそれを守る義務がある」

「そうか。……ヒーロー志願で軍人になってもいいことはない、決してそんな生易しい世界じゃないと言いたいが」


 一度言葉を区切った父がこちらの肩に手を置き、


「息子が同じ職業を尊んでくれたことを嬉しく思わない父親もいないんだ、ハンス」


 そう、笑いかける。

 その笑顔を見て、胸が暖かくなるのを感じた。

 ああ――……今生の父よ。俺が知る唯一の父よ。貴方のその喜びは、俺の喜びでもあるのだ。


「……あの日のことは、今も俺の胸にある。貴方のその献身は、確かに眩しく――輝かしいものだった。俺の中の指針の一つで間違いはない」

「そうか。……お前といつか仕事の話もすることになると思うと、怖い気もするし……なんだか楽しみな気もするよ」

「全ては合格してからだ。……あの条件を課した父とて、俺の合格を願ってくれるか?」


 そう問うと、父は少し意地悪そうに笑った。

 未だ未熟である息子の、良き先達者としての父――そういう会話も、楽しんでくれているらしい。

 孝行できているなら何よりだと、こちらも頬が緩む思いだった。


「……楽しみ、か」


 本当に――何事もなく。

 いや、もうここに来てはいずれ戦争が起こる可能性が高いとしても、それでも僅かにでもその開戦が遅くなる、或いは終戦が早まるなどしてくれたら――……この父に返せる恩もあるのだろうか。いつか、仕事のことで相談できることもあるのだろうか。

 そう、僅かにでも高揚する気持ちのままに手紙を開く。

 メイジー・ブランシェットは、幾度の文通でこちらに心を開いてくれたようだ。踊るような文体で、その日々を報告してくれていた。


(……些か心苦しいな。こうも文通している相手の正体が、彼女の父にかつて縁があった知人ではなく、実は政略結婚同然に婚約を望んだ男だと知ったら――……瑞々しさすら感じるこの筆致も陰るだろうか。……いや、傷付くだろう。なんとも、申し訳ないことだ)


 逆の立場なら、とても耐え難いと思える。

 八つも上だというのに自分を見初めてきた男が、身分を偽って手紙のやり取りをしているなど……ストーカーめいた変質的な狂気すら感じるだろう。一般的にそれは、おぞましいと読んで差し障りがないものだ。

 必要性の下に行ってはいるが、やはり、己でも決して褒められたことではないと自認している。こんな関係は早急に解消すべきだと。


(……君という一人の人間の幸福の、枷にはなりたくない。すべてが上手く進んだなら、早急に婚約破棄を行わなければなるまい。何にしても、なるべく彼女の人生に影響を与えない形が望ましい。……彼女が結ばれるべき相手は、幸福になれる結末は、他にあるのだから)


 それは自明の理だ。

 彼女がとして――その攻略対象、つまりは恋人候補を持つというのであれば、それはおそらくこの世界においてだろう。

 その座に収まるのは、自分であってはならない。


 ……いや、自分などであるべきではない。


 散々自分の人間性について警告を受け、その上で更に思う。

 自分は、一つの機構にならなくてはいけない。

 そんなものに、この少女を付き合わせられない。手紙で言葉を交わせば交わすだけ、そう思った。彼女は断じて戦争に関わるべきではなく、つまり、この自分のような人間に関わるべきではない。

 故に、


(……どうか健やかに。君という一人の人間が、誰でもなくとして、どうか幸福になれるように。俺はただ、それを望む)


 愚かしくも、そう思ってしまう。

 平等であることを、法の理念を己に繰り返し言い聞かせるということは――つまり、という証左だろう。

 顔の見えない誰かではなく、前世からその軌跡を知り、こうして言葉を交わす中になった彼女の幸福を殊更強く望んでしまう。思い入れがあると言い換えてもいい。その程度に差別的な人間であるのだ、自分は。

 吐息と共に、手紙に改めて目を向ける。

 そこでは少女が、将来何になりたいとか――逆にこちらに何になりたかったのかとか、そう問いかける言葉が踊っていた。


(……そうだな。宇宙に、行ってみたかった。今生でこそ叶うなら――……)


 平和な形で、宇宙に行けたなら。

 それはあの前世で叶えられなかった自分の夢とも言うべきで――……首を振る。


 夢も、祈りも、自分には必要ない。


 ただ正気と、判断を行う理性だけがあればいい。

 それさえ保たれるならば、あとは今の己には必要のないものだろう。……全てが終わってから、余裕があれば、改めて手にすればいいのだから。

 それまでは、捨て置いてもいいことだ。優先順位は、人命に比べれば高くないのだから。


(親愛なるメイジー様、私はこの間とても素晴らしいものを目にしました。渡り鳥が――……)


 そうだとしても――。

 そうだとしてもこの一瞬だけは、僅かに、張った肩肘の力を抜ける気がした。



 ◇ ◆ ◇



 そして、戦争は起きた。


 あとの日々については、記す必要もないだろう。






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