第90話 今の僕からかつての君へ、或いは餌やり注意


 口内における虫歯菌のコロニーの形成は、主に乳歯が口腔に生じる時期の侵入とそれ以降の侵入によって将来的な虫歯の発生リスクを十五倍も変化させる。

 乳幼児の口内フローラには虫歯菌は存在せず、虫歯菌を保有している者とのスプーン等の食器の共有やキスなどによって菌が侵入を行う。

 つまり、親子間の物の食べ移しやキスなどが、その発生リスクを高めるのである。

 子供に対して十分な愛情で接することが、却ってその子供を蝕むことについて注意しなければならない。


 ……なお、には、虫歯はなかった。


 彼は――



 ◇ ◆ ◇



 あまり広いとは言えない部屋の中、互いにコーヒーで一息つく。……渋くて苦い味。あの頃の戦場の味。

 一通り大半の、オーウェンが収集していた情報を共有された。

 その上で、


「現時点で……緊急性は薄い、と言えるだろうな」

「……この杓子定規が。そこは嘘でも緊急性を有するとか言えねえんですかね」

「法学者ならば法益に着目し、法解釈を行うだろう。士官も同様に最終的には命令のその企図の実現を図るものだが――……あくまで最終的には、だ。己の都合のために規範を歪めていたら、それは到底法治とは程遠いだ」


 不要である、必要である――その判断のための基礎となる専門的な教育は受けた。だが、ともするとそのが害悪になりかねない。

 バランスの問題だ。

 どこまでを規定通りの下に動くのか、そしてどこからを自己判断で行っていいのか――そして、その自己判断の根拠は。正当性は。絶えずそんな命題は付き纏う。軍事に限らず、大半の仕事がそうだろうが。


「正当なる必要性の下の解釈と恣意的な運用は異なる……いや、どちらも法治主義というものには潜在的に包括されており、暗黙の内に社会的に許容されうるところだが……俺はあまり逸脱に繋がりかねない行為を行う気がない。軍隊において拡大解釈が常態化した結果齎されるものは、武力を取り扱う以上は深刻な結果を引き起こす」

「……長いんスよ、話が。いっつもそんな、ややこしいことを考えてるんスか?」

「前線に出れば足りるこちらより、情報部たる貴官の方が親しみある内容かと思うが……それとも保護高地都市ハイランドの情報部とは、戦列歩兵の別名なのだろうか?」

「嫌味を言う暇があったら、話を短く済ませる力はねえんスかね……この石頭。法の代理人のつもりっスか?」

「……」


 嫌味ではなく純粋な質問のつもりだったのに……。

 なんでこんなに当たりが強いんだろう。判んない。

 ……まあ、必ずかの殺戮兵器を破壊してくれと頼んできた彼からすれば、その要望には従えそうにないと返答したこちらは敵対者に相当するだろう。この渋苦いコーヒーに毒物が混入されていても、無理はないと言える。

 さておき、


「その上で――……貴官にもう一つ質問だ。例のアーク・フォートレスのうちの【腕無しの娘シルバーアーム】については外宇宙船団の母船の可能性が高いと言ったが……本当に想定されるのはそれだけか?」

「……というと?」

「他にも、この地球を離れるものはある――……火星圏への補給や、小惑星帯の探査事業。そして、アステロイドマイニング。……貴官がここに示している通りに」

「……」

「外宇宙船団という、あまりにも判りやすい――そして戦後も保護高地都市ハイランドから深刻に注目されるものに、という疑義を残すことも避けたい――そう考えるのが妥当ではないか?」


 今回に関しては、戦後の混乱や本国内での粛清――そしてこのオーウェンという男の情報抹消により、アーク・フォートレスの行き先は表に出てはいない。

 だが……投降者の中から、保護高地都市ハイランドにそれを伝える者がいたら?

 世はそんな職務意識や守秘意識が高い者ばかりで作られているだろうか。いや、秘密兵器である以上はそんな人員を選定しているのは言うまでもないが――……果たしてそんな人間が、戦後も情報を漏らさないと確約できるだろうか。かつてのあの世界でも、後年になって様々な秘密が開示されるという事案に事欠かなかった。

 本当に、人一人が世界を焼き尽くす暴力を目の当たりにして――それを誰かに漏らさずにいられるだろうか? その罪悪感は? 人類愛は? 自己保身は?


「国策の内として外宇宙船団への避難が行われていたならば、万一のその撃墜を避ける努力をする――というのが判断ではないかと、俺は思う。いや、それどころか――」

「……なんスか?」

「俺ならば、外宇宙船団は囮として使う。そして生贄にする。優秀な者こそ巧みに情報から外宇宙船団を読み取れるようにしておいた上で、恐怖に駆られた保護高地都市ハイランドにそれを撃墜させ――非難する。――とな」


 聞いたオーウェンは、僅かに沈黙してから言った。


「……よく思い付きますね、アンタは。流石は殺しの専門家だ」

「殺し、ではなく戦争の専門家と呼んで貰いたいが。……それに今のは悪い想像の一つだ。或いは敢えて外宇宙船団をそんな兵器の母艦と思わせ手を出されにくくすることや――或いは貴官の言うように、保護高地都市ハイランドがその力を求めて鹵獲することも考えられる。つまりこの場合なら、極めて乗員の生存確率は上がる」

「なるほど。……どっちにしろ、って心理を活かしたって言いたいんスかね」

「それこそ、情報部の貴官ならば容易く思い当たることだろう。その上で……貴官の持つ一定の確証が外宇宙船団を示していたら、それが真の可能性の方が高い。……俺のこれは、単なる推論なのだから」


 部屋の中に投射されたホログラムを見回す。

 それでも情報探索をやめず、すべての可能性を調べ上げていたオーウェンは流石の情報部なのだろう。

 そんな彼が下した結論と、己の推論――……後者が優先される道理などはない。この程度は、彼でも調査中に思い至っているであろう。情報の専門部署というのは、そういうことだ。

 その上で、


「貴官が他に示した可能性の内……例えばアステロイドマイニングを行う船として偽装しているとする。……実際のところ、それは偽装としての勝算は高いのか?」

「ええ。……さっきも言ったように、地球から離れていく船ってのは警戒度が下なんスよ。そして宇宙は広い――火星やどこかに入港しなければ船内調査の可能性も低くなり、戦争で宇宙軍も疲弊した保護高地都市ハイランドにそんな大規模な検閲や検問は不可能だ。わざわざ足を止めさせずに、所定の所属コードや無線信号の照会に留まるでしょう」

「……」

「でも……マイニング船ってのは、ガンジリウムを利用している。その点で戦闘への流用が可能っスから臨検の可能性も否定できないし、宇宙海賊の襲撃の危険もある……照会コードの関係で、協力者も増やさなければならない。その点、外宇宙船団よりも面倒なんスよね」

「……そうか」


 確かに彼が候補から外したのも、頷けるものだった。

 外宇宙船団の新型母艦【蜜蜂の女王ビーシーズ】の設計自体は大戦の発生以前――四圏に跨がるプロジェクトであったために必然だろう――からであり、正直なところ大戦中期に製造された新型であるアーク・フォートレスと結びつけることは難しい。

 だが、その兵器の本質が制御AIであり外付けの装備で成立するものならば、確かに【蜜蜂の女王ビーシーズ】こそがアーク・フォートレスであると言われても妥当だと思える。


 そうだ。


 確かに尋常に考えれば、そうなる。

 通常ならば、そう言える。

 だが――


「……いや、待て」

「どうしたんスか?」

「これまで俺たちは、偽装されて隠蔽されている――……その前提で話していたが、?」

「……どういうことっスか。敗戦後のゴタゴタを避けるためにはあんな兵器は隠してなければならないし、実際今まで隠せていたでしょう? ならそう考えるのが普通じゃねーですかね」


 そうだ、それが普通だ。普通であるのだ。

 だが果たして――衛星軌道都市サテライトは普通と呼べるのだろうか?

 宣戦布告よりも先に衛星軌道高度からの地球全土への高高度爆撃を行い、ガンジリウムによる重金属地上汚染を推し進め、自国の兵ごと神の杖で吹き飛ばそうとし、自国民を皆兵へと改造しようとし、単騎で世界を滅ぼせるような兵器の開発を行う――そんなかつての首脳陣が、普通と呼べるのか?

 保護高地都市ハイランドが「大地は負けない」と立ち上がったように――彼らも、諦めていなかったら?


「一つの仮説がある。……俺の無意味な思い込みならば、否定してほしい」

「……いいから、とっとと推理を聞かせてほしいっスわ。名探偵殺人鬼サン」

「そうか。……まず、俺はこの件で別に疑問に思ったことがあった。何故、今になって逃れた外宇宙船団が帰還したのか――そして、あの軍隊の残党である【衛士にして王ドロッセルバールト】が活動を起こしたのか……」

「……」

「俺は【蜜蜂の女王ビーシーズ】の帰還に呼応したものかと思っていた。……だが果たして、たかが一船団にそれだけの力があると思うか?」

「……!」

保護高地都市ハイランドは、奴らの本国そのものを打倒した。打倒して勝利した……それだけの力を持つ国だ。たとえあの戦いで疲弊していようとも、こちらはそれだけの力は有している――」


 勝利したことで発展させ続けられた技術ツリーや、あの大戦の反省を活かした上で得る様々な運用なノウハウや、虐殺者に勝利したという士気についてそう言えるだろう。


「奴らがただ勝利ではなく別の目的のために戦う、というならこのテロも頷ける。だが――そこで勝利を目的としていたら? いや、勝利を目的としていなくとも構わない。しかし、果たして何かしらの勝利の目処なく末端に至るまでの全ての兵の忠誠心を維持できるのか?」

「まさか――……」

「加えるならば、地球から暗黒の宇宙へと遠く離れていく【蜜蜂の女王ビーシーズ】と【衛士にして王ドロッセルバールト】は共同した作戦が取りにくい。真空での電波の減衰はないが、様々なデブリが漂う上に保護高地都市ハイランドも警戒する以上は通信手段の確立が困難と言える……」


 それらの共同は、ここ最近に計画され行われたのではなく――初めから打ち合わせされていたものだとしたら?


「時限装置……【腕無しの娘シルバーアーム】が兵器として確実に顕現するだけの目処があったからこそ、奴らはここで蜂起した。そして――……」


 つい近頃、最悪の事件は起きた。


「終戦記念式典にて行われたテロは、アステロイドマイニングを利用したものだった。……今まで見逃されていたこれらの船も、臨検を受けるのではないか?」

「そうか、奴らは……」

「おそらく貴官の言うように、その兵器の所在は真実不明だったのだろう。……奴らにとっても。それを、こちらに探させようとしているのではないか? 例えば、船内に踏み込まれようとした際に起きる防衛プログラムなどは?」


 ハッとするようにオーウェンが口を噤んだ。

 有していると見るのが妥当だ。だからこそ彼は、臨検や宇宙海賊との接触によりその兵器が起動しかねない――故にそれで起動されていない以上は、マイニング船への偽装は行われていないと判断したのだから。


「三年――……それだけの時間があれば、完全とは言えずとも保護高地都市ハイランドも勢力を立て直せる。そして十分な戦力が整ったこの国に網を作らせ、――それが奴らの蜂起の目的だとしたら?」


 つまり、全てはその為だ。

 終戦記念式典へのテロも――今回は成功させてしまったものだが――そも、奴らは成功を狙っていないのだ。

 マイニング船が危険だと、こちらに印象付けられればよかった。あの【衛士にして王ドロッセルバールト】という戦力としては平凡以下で容易い相手も、つまりは全く狂気的でありただの自殺願望としか思えない兵も、テロリストが存在するという印象をつけられればよかった。

 そう思えば筋は通る。


「宇宙海賊の脅威も、戦後すぐならば保護高地都市ハイランドが取り除くだろう。こちらからしたら、それが残党なのかはぐれ者なのか不明なのだから。……そして一定の時間が経ち、地球周辺軌道の治安維持に十分な能力を会得したこちらによって、近傍からは駆逐されていくだろう。そうして宇宙海賊たちは――どこを目指す?」


 彼らが地球から遠ざかる。

 それはつまり、小惑星帯や地球近傍小惑星を目指すマイニング船の航路に近付くことに他ならない。


「『紅蓮たる大翼の凱旋』……かつて奴らはそんなスローガンをかかげていた。……【蜜蜂の女王ビーシーズ】のことかと思っていたが、もしも世界を焼き尽くす炎――その火の翼を指し示すならば?」


 つまり――時間がない。それを意味していた。

 いつ爆発するか知れない爆弾に、つい最近その最後の火が点けられた。あれほどまでに打ちのめされた宇宙軍はその失態を取り戻したいと考え、そしておそらくその失態故に宙間防衛の主体を【フィッチャーの鳥】に奪われているだろう。

 その戦力の行き先――そして挽回への熱意。

 どちらも、マイニング船に偽装されているアーク・フォートレスに行き着くには十分すぎる要因である。


……そして起動してしまえば、否応なしに衛星軌道都市サテライト本国は巻き込まれる。彼らに叛意がないにしろ――そんな兵器をかつて開発し、今まさに世に解き放った者たち。……一体どれだけの市民が彼らの無実を信じる? その言葉を聞こうとする? ただのテロリストの蜂起などとは比べ物にならない、――」

「……巻き込むつもりなんスか、何もかもを」

「そうだ。誰が協力してくれるか知れないテロなどではない……いや、テロリストたちはそれでも殉教を気取って陶酔的に戦えるかもしれない。だが、そもこの兵器を開発し――隠匿したのはかつての衛星軌道都市サテライト上層部だ。彼らは人倫はともかく、その戦略と残虐さにおいては比類ない人物たちだった」


 たかが一隻の船長や一大隊の隊長などが持つ戦略眼などではない。

 これは明確に――怪物的な手腕。

 保護高地都市ハイランドに英雄的な駆動者リンカーが現れなければ勝利できなかった、そしてあの終戦まで戦争を継続できた彼らの企図と言わざるを得ない。


「三年の内に、彼ら全ては敗戦者として扱われた――そして今後においては、より徹底的に弾圧されるだろう。

「は、はは――……イカれてるんじゃないっスか、あいつら……なんなんだそれ……」


 人間の悪意は果てどない。

 それ以上に、理性こそ歯止めない。

 あの戦争における勝利のための合理性として――彼らこそは、その戦争に対する理性だけは、まさに他に比較のない才能と呼んでいいだろう。


 ……或いは。

 自分たちの権威が滅んだ後に、その題目が損なわれた後に――……に対する、妬みや憤りにも近い害意なのかもしれないが。

 真意は知れない。ただ、それは、明確に報復装置だ。


「……そも、全人類殲滅兵器などを考案する者たちに、戦後の自国民を慮るなどナイーブな考えを期待する方が誤りとも言える」

「ああ、そうっスね! また嫌味を――……ああいや、むしろ気付けになるっスわ。無駄に頭を温めてくれて却って冷えやすくなるってもんだ。どーもっスわ」


 ……嫌味じゃないんだけどな。


「オーケー、流石は黒衣の七人ブラックパレードっスね。……戦場という匂いにおいて、アンタらは誰よりもそれに身近だ。良く分かった。……AIの情報整合の条件を変更したっス。あいつらは

「……」


 だからこそ、あの戦争は何としても回避しなければならなかった。

 アーセナル・コマンド、そしてアーク・フォートレス。

 何よりもあのという概念――……それがこの世界の未来に、途方もない暗い影を落とすことになるのだから。


「アンタのおかげだ。ホント、ここで会えてよかった……なのになんで、そんな顔をしてるんスか。お手柄なんスよ、鉄の英雄ハンス」

「……ああ」

「ったく、謙虚さが女にモテる秘訣っスか? なんにしても、こっちで集めた情報を纏めてみる。オレたちにできることは、後は座ってコーヒーでも飲むぐらいっスよ」


 彼の言葉に、忸怩たる気持ちで拳を握る。

 判っていた火炎を消すこともできずに延焼させ、そして飛び散った火の粉を見付けただけで褒められる消防士がいたら――こんな気持ちになるのだろうか。

 

「……ま、これでって条件は満たせたっスかね。怖いけど、どっか肩の荷が降りた気分だ。……アンタは――」

「すまない。……少し、街を見てくる」

「……お尋ね者なのに? ま、揉め事だけは起こさねえでくださいよ。この近くの宙域で戦闘があったって話だ。例の残党と――誰だか。こっちにまで入って来てても、不思議じゃあねーっスからね」

「ああ……」


 拳銃は携帯している。戦闘には問題ない。

 ただ、己が理由でこうして数年もの歳月を費やされた青年と同じ空間にいる――……それだけの気力が、今はなかっただけだ。

 何より、ラモーナへの医療品も必要だろう。ここでは医者にかかることもできないのだから。

 そう結論付けて、部屋を後にする――……問題ない。自分の精神状態は把握し、そして、その内で合理的に行動できている。自分という機能性に、影響はない。



 そして、


「止めるべき――なんでしょうが」


 立ち去った部屋の中で、コーヒーを啜る音が一つ。


「……別にアンタが戦争を起こした訳でもねえだろうに、そんな顔して……。ったく……そういうところが、あの娘の心を打ったんスかね。……何とも本当に厄介っスねえ。ホントさあ……」


 差し出したカップは受け取り先の主もなく、テーブルで湯気を立てている。

 オーウェンはそれを眺めて、天井を仰ぐように額へと手をやった。



 ◇ ◆ ◇



 ……昔観た映画だ。古い映画だった。


 未来から来た殺人機械に己の息子を狙われる母親。

 かつてから未来を知っていた彼女はその為にあらゆる手段で備えていた――そんな話。

 その中で、印象的なシーンがある。

 親たちと子供たちが公園で遊んでいるのを眺めるその母親は、幻視する。世界が焼かれる様を――全てが吹き飛ばされる様を。

 彼女は、今にも泣きながら叫びながらそうするように公園のフェンスを掴み、音もない映像の中で絶叫していた。その憤怒と悲哀。衝動。己への、核の炎への、未来への憤り。激しくフェンスを揺さぶる彼女の姿が、幼心に印象に残った。


 ……今。


 夜という天候を選択された居住区ボウルの、雑多な人混みを見て、そう思う。

 色とりどりのホログラムに彩られた衛星軌道都市サテライトの日常。食事はあのように味気ないものだが、それでも食料品店に足を運ぶ家族連れは楽しそうだ。

 敗戦から三年。あのような【フィッチャーの鳥】からの弾圧が日常的であるなら、彼らはもっと鬱屈としているだろう。だというのに逞しい。それが、真空の宇宙に住処を作り上げた彼らなのか。


 中央共通適性試験センター・テストと呼ばれる、生涯に幾度か行われる衛星軌道都市サテライト特有の試験対策の広告も宙に浮いている。

 そうして住民の適性を幾度と図り、その人材を効率的に運用する。そんな社会構造故の断絶もあるが――それは富国強兵という意味では適正だったのだろう。

 低くない識字率。

 よほど資源鉱山や企業都市の雑務などに命ぜられない限りは相応の生涯を送れるのだろうか。この活気や賑わいは、またどこか月面の都市とも異なっている。物資の中継地点として戦後も重宝されている夜の方舟ナイツアークらしい街並みだ。


 何も知らない。

 何も知らされない。


 そんな彼ら市民たちの団欒を眺めて――眩しいものを見るように目を細めたい気持ちと、今すぐに叫び出したい気持ちの両方が訪れる。

 だが、


(……叫び出す前に、やることがあるだろう。ハンス・グリム・グッドフェロー――……お前の有用性を、義務を果たす日だ。お前は滅びすらも滅ぼす者として、戦わなければならない)


 己の手綱を締め付け、拳を握る。

 何のために作戦に従事して多数の命を奪ってきたのか。己を追い込むような鍛錬を繰り返したのか。そして、法や秩序という縛りに服従してきたのか。

 全ては己の有用性に磨きをかける為だ。

 ならば、ここでたかが己の感傷一つでそれを投げ出すべきではない。義務ではなく――己の権利として。ただそれを無駄にしたくはないという気持ちに従って。

 そも、戦うことを厭ったことはない。

 磨いたこの力を役立てられるならば、それは存外な幸福だろう。己は備えることができた。そして、活かすことができる――無軌道な人生も、回り道も、無為な努力さえもない究極の効率と必要性。それは一種の幸福ですらある。


 そしてやはり――……。


「パパ! 産地直送の果物だって! すごいね! クリームも牛乳使ってるんだって!」

「うーん、でも中々値段が……仕方ないな。後でママに聞いてみようね。お前からもお願いするんだぞ?」

「うん! ふふ、また『パパのズルい作戦』って怒られちゃうね!」


 こうして当たり前の幸福を彼らが享受できるというのは、その顔を見れるというのは、助けになれるというのは、本当にただそれだけでどうしようもなく嬉しさを感じてしまうのだ。己は。

 低燃費と言われた意味も、判る気がした。

 その命を脅かされずに生きている人の笑顔が、嬉しい。見るだけで幸せになる。自分がその助けになれるなら――ああ、本当に過分すぎるほどの幸福と言えよう。


(ラモーナに、土産も買っていくか。薬だけだと味気ないだろう。……オーウェンはどうなのだろう。何か、好きなものでもあるのだろうか?)


 そうして、地球ではそれほど珍しくないクレープ店のホログラムメニューを覗き込む――そんなときだった。


「……シンデレラ?」


 鮮やかな金色と、凛とした眼差しの横顔。

 どこか憔悴したような彼女が周囲を見回しながら雑踏に紛れようとする――それを目撃してしまったのは。



 ◇ ◆ ◇



 目の下に深い隈のある少女が、雑多な路地裏を進む。

 時々背後を振り返りつつ――足取りはどこか覚束ない。疲労の色が如実に現れていて、精細を欠いていると呼んでいい。

 そして、幾度目かとなる少女の振り返りの後に、視線を正面に戻した瞬間だった。


衛星軌道都市サテライトでは、虫も出ない。……輸入前のフリーズドライにより、湧きようがない。つまり、路地裏でネズミやハエの餌になることもないぞ」

「……っ」


 正面から現れた四人の男。

 少女が金髪を揺らして腰を落とす。太もものホルスターから護身用の拳銃を抜いたが、男たちは遥かにそれよりも大きな拳銃を握っていた。

 拳銃だけではない。黒革に包まれた無骨な棍棒や、ナイフ。特殊警棒――ときには銃よりも強く痛みをイメージさせるそれ。

 そして、背後からも同様の集団が現れた。


「【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】だったか? 我らの大義も理解せず、ただ【フィッチャーの鳥】のみと争うと吹聴する弱腰の集団……民衆の機嫌を伺うばかりで、何も為せない連中が……挙げ句に保護高地都市ハイランドの人間たちとも組むだと? 貴様らに烈士の心意気はない……所詮は風見鶏も同然で、傷付くのを恐れているにすぎない!」


 それを証明してやる――そうとでも言いたげに、手の内で棍棒を打ち鳴らす頑健な体躯の短髪。


「【フィッチャーの鳥】を除くならば、何故、あの大地から始めた……苦しめられているのは常に宇宙だろう! 今さに暴虐に苦しむこの民を開放せずして、何が解放者を謳うのだ!」

「そうだ! 挙げ句、我らが大義を阻むなど――貴様らの中に誇りある衛星軌道都市サテライトの人民はいない! 全ては権力と企業におもねるだけの、不甲斐なき強奪者たちだ! 綺麗な理想のみを固めて、現実の艱難を知らぬ――だからそうも、美しさや正しさばかりに目をやる! 知らねばならない……泥の中からこそ、蓮の葉は咲くのだと!」


 一体、それはどれほどの恐怖だろうか。

 如何に少女が優れた素質を持つとは言え、生身の彼女は矮躯だ。加えて、不調が目に見えて現れている。

 対する男たちは怒りに目を滾らせ、大義という麻薬に身体を突き動かされる。仮に少女の小さな手に握られた拳銃に撃ち抜かれたとしても歩みを止めない――それほどの威容はあった。

 じり、と金糸の少女が後退る。

 男たちは大股で踏み出した。その歩みこそが彼らに勇気を、そして大義を与えているようであった。だが――


「集団で少女を付け回すなど、なるほど大した大義だ。貴様らは連盟法や戦時国際法のみならず、商品表示義務にまで違反しているらしい。ガラクタに似合いのラベルだ」


 更にその集団の背後から繰り出された決定的な断絶を告げる死神めいた声。


「両手を上げ、未成年者はそう申告しろ。……思春期は法の穴にも興奮すると聞くが、貴官らも相違はないか?」


 有無を言わさぬ圧力と、徹底的に冷えたアイスブルーの眼差し。

 破滅を滅ぼす破滅。理不尽を踏みにじる理不尽。

 発する圧力とその手の現実感を失わせるほどの怪物じみたリボルバー拳銃が与えるのは、ただ殺伐の二文字だけだった。


「我々の崇高なる精神を愚弄するなど……! 貴様、名を名乗れ!」

「法の穴に興奮する前衛集団に名乗る名などない。名誉毀損に値する行為だ。……以後は、イエスとノーだけを口にしろ。武装を解除し、投降の意思は?」


 淡々と、しかし決断的な殺意と罵倒を交えた言葉。


「武装を解除しなければ、こちらにも法的に射撃は許可される。……ウジもネズミも食わぬ肉塊を作ったところで無為だろう。武装を解除しろ。それは、死ぬほど痛い」


 それに従うものなどこの世にはいないだろう――その歩みが、秩序に反する混沌の全てに反感を抱かせるような青年だった。

 誰しも従う訳がない。

 ただ眼前に立つだけで叛意を滲ませたくなるような体制側の化身とも呼べた。


「ふざけるな……! 我々は貴様らに、理不尽な暴力に抗うと決めたからこそここに立つのだ! 銃などを突きつけられて、臆するものなど我らにはいない! 大いなる価値観は、大義は、我らの精神に死すらも恐怖に成り得ないと知らせるのだ!」

「そうか。……そう言った男は、射精豚のような顔で情報を吐いていたが。性感のための大義か?」

「貴様……ッ!」

「あれを崇高と呼ぶならば、まさしくこの世は崇高な場所だろう。主もこの地を理想郷カナンと呼ぶか……牧場と社会の区別が付かぬとは、確かに大いなる価値観だ。ある種の敬意に値する」

「貴様ァ……ッ!」

「……いや、家畜に神はいないという言葉もあったか? すまない、配慮が足りなかった」


 瞬間、男たちの憤懣が激発する――。

 最早誰一人、小柄な少女に注目する者などいなかった。一斉に銃口が向けられ、そして、


「……そうか。罪を重ねる前に死ねることを、家畜の神に感謝するといい」


 それを上回る黒き怒りが噴出した。

 一匹の獣が牙を剥く。憤怒が吠える。其は世に血と硝煙を顕現させ、硫黄と炎を齎す嵐だった――全てを塩の柱に変えて、不徳と不義を蹂躙する破壊の嵐だった。

 その一挙手一投足が、死神の鎌である威圧。

 だからこそ、


「大尉っ!」


 発砲のまさにその前に走り出した小柄な少女を視界に収める者は居らず、結果、その背に体当たりされた男が揺らいだ。

 少女はよろけながら、手を伸ばす。

 咄嗟――怪物めいた銃鉄色ガンメタルのリボルバーが吠える。重なった二人の男たちを纏めて貫き、バルーンアートめいた腸を体外に露出させ路地裏に振りまいた。

 銃声に、その主以外が身を竦めた。

 思わず背後を振り返ろうとした少女の腕を掴み――路地の角を曲がる。走り出し、幾度か応射して追手を絶命させつつ、その場を逃れるように駆け続けた。



 ◇ ◆ ◇



 そして彼女と逃げ込んだのは、廃棄されているのか……あまりにも寂れた、こじんまりとした精肉場らしきところの倉庫だった。

 埃が舞う。あまり、手入れはされていない。

 基本的にはタンパク質と言えば粉末であるそればかりを扱っている衛星軌道都市サテライトであるが、流通の中継地点となるこの場所はまだ幾ばくか余裕があるのか。

 かつては高級品として、粉末ではないタンパク質を扱っていたのかもしれない。


 侵入した裏口には鍵をかけず、扉に僅かに鉄パイプを立て掛けた。

 敵戦力が不明な以上、バリケードは作らない。ただの鳴子代わりの仕掛けである。

 五発の弾薬を装填したシリンダーをリボルバー目掛けて押し込める。嵩張るためにもう一丁を持ってこなかったのは失敗だっただろうか。六人は射殺したが、他に追手がいるかもしれなかった。


「……」


 疲労を顕にしたように、俯き加減に木箱に腰掛ける金髪の少女を眺めた。

 あれから数日。

 あのクリスマスイヴに別れて――そのまま永遠の別れになってしまうのではないかと思えたシンデレラ。

 こうも何度も顔を合わせられるとは、流石は主人公と言ったところか。……自分は単なるモブにしか過ぎないが、それでもだ。

 それより、


「どうして君がここにいる……? 何故、追われて……いや――彼らテロリストと戦闘したというのは、君か?」

「……えっと、その、あの……あの人たちが輸送船を襲おうとしてて……」

「……まるで文字通りの義勇軍か。君はあの日から変わらず勇敢であるらしい」


 内心で額を抑えたくもなったし、眩しくもなった。

 理性は無謀だと言いたがっていて――感情の方は、様々だった。それでも何より、安堵が勝ったと言っていい。

 銃を片手に、周囲の物音を警戒する。

 何とか彼らの追跡を躱したいところだが、下手に街中で銃撃戦とかなっても困る。こちらの弾薬は、一人二人を撃ち抜いたところで止まりはしない。人混みでは使用を控える他ない代物だ。


(……とはいえ、ありがたいことだ。不幸中の幸いと言っていい。彼女がこうして一人で追われているなど――……いや、こちらに戻るように言えるだろうか? 敵前逃亡と装備の強奪……軽くはない罪だが、司法的な取引を通じれば――)


 しばし、考える。

 問題があるとすれば、やはり自分が別任務にて潜入中であるそのことだ。

 ここで彼女に帰隊命令を告げたところで、自分が彼女を連れて行くことは難しい。基地へと伴うこともできない。彼女はどこかで逃げ出しかねず、そうなれば帰還命令への反抗となってしまって更に余罪を重ねることとなる。


(……どうしたものか)


 そうして黙したことが不安を呼んだのか、彼女はその波打つ金髪の間から琥珀色の瞳で見上げてきていた。


「……大尉、その、何かありましたか?」

「いつも通りだ。……何も問題ない」

「でも――」


 立ち上がり、まだ追及を続けようとする彼女の唇の前に指を出す。

 驚いて、シンデレラは身を引いた。

 行儀も悪ければ、申し訳なくもある気持ちだが――言葉を続ける。


「大丈夫だ、シンデレラ。君が俺を案ずることなど何も起こしてはいない。……それとも君の目には、俺はそうも頼りなく映るだろうか?」

「そんな言い方っ! だから、ズルいんですよ! ズルいんです、大尉は!」

「そうか。すまない」


 小動物が毛を逆立てるような彼女との、懐かしいやり取り。あまりにも遠く離れてしまった気がして――一度目を閉じる。ヘンリーとも、あれから会っていない。ヘイゼルは休職した。あの写真の四人は、今、バラバラに分かたれていた。

 少なくとも彼女がこのまま反政府組織に属して戦闘を行うことを、正規軍人である己は咎めねばならない。止めねばならない。それは義務だ。

 しかし……やはり立ち上がった彼女はどこかその動きも覚束なく、明確に疲労の色が見え隠れしていた。


 ……吐息を漏らす。


 本当なら、すぐにでも聞きたいことが多かった。

 何故、彼女が反政府組織に属してしまったのか。どうやってヘイゼルに狙われて生き残ったのか。今、何をしているのか。父親とは再会できたのか。

 しかしながら、この間のあまりにも憔悴しきった彼女を思い出し――……その質問のいずれかが彼女を追い詰めるとも知れず、ましてやこの状況で行うことが良い手段とは思えなかった。


「……聞きたいことはある。だが、君の不調を推してまで行うことではない。落ち着かぬ環境だろうが、しばし休むといい」

「でも……!」

「俺では番犬代わりとしては不服だろうか、レディ?」

「〜〜〜〜〜〜〜っっっ、まっ、またズルい言い方をした! 大尉はいつもそうです! わたしばっかり恥ずかしくする! そうしてそんなに喜んで……酷いんですよ、大尉は! 酷い大人なんです! 弄んで!」

「そうか。……ならばもっと、ズルい男として振る舞うべきだろうな」


 その両手に肩を置く。

 ぎょっとした彼女が恐る恐る瞳を閉じるのに合わせて力を込めて――その身を制するように、再び木箱へと腰を降ろさせた。

 そして片膝を付いて目線を合わせ、


「休んでくれ、シンデレラ。……これ以上、俺の知る少女を疲労させないでほしい」

「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ……分かった、分かりましたよ! 休みますよ! 休めばいいんでしょう!? ただ、その……大尉も近くにいてください!」

「ああ。……君が望むなら、吐息が聞こえるほどの傍らまで侍っていよう。犬というのは、そういうものらしい」

「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ、だからヤラしい言い方はやめてください! ハラスメントです! ハラスメントですよ! もう!」


 ……そうかな。そうかも。……そうかなあ。



 ◇ ◆ ◇



「ん……」


 隣で身動ぎするような気配。僅かな吐息は、何か悪い夢でも見ている証だろうか。

 彼女がちょこんと木箱を空けたのを見て、周囲の警戒などの観点から断ろうとしたが――……結局、何か言いたげに訴えてくる琥珀色の瞳を前にこちらも折れた。

 休めと命じた少女は、いつの間にか小さな寝息を立て始めた。

 こちらの肩に頭を預けて……そのままでは寒々しいだろうと、フライトジャケットを被せた。一応洗濯は行っているので、不快臭で目覚めることはないだろう。戦地ではわりと不意にそれで目覚めたこともあった。


(……)


 ふわふわとしていた金髪は、どこか綻んでいる気がする。長い睫毛の閉じられた瞳の下には、深い隈が覗いていた。

 彼女は――……それほどまでに追い立てられていたのだろうか。猿と烏は恨みを忘れずに執拗に付け狙うと効いたことがあるが、あの集団も同じ手合いなのだろう。鳴き声という意味ではそう思えたし、むしろ奇妙な思想を撒き散らさないだけ獣の方が上等に思えた。


 それとも或いは、【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】という反政府組織である場所が――小さな彼女を苛んでいるのか。


「……ッ」


 歯を喰い縛る。

 堪えきれない。耐えきれない。

 あれだけ殺して、殺し合って、殺し尽くして、それでもその次を望む?

 このような少女をつけ狙い、追い立て、安らぎすらも与えない?

 こんな少女を巻き込んで、今もまだ、無為な殺し合いを続ける?


(お前、たちは――)


 腹の底から、ぐつぐつと怒りが湧いてくる。

 ――

 ? 

 身の内の怒りの獣が頬を釣り上げる。戒めを解けと、嗤いかける。嘲笑っている。理性に枷され、怒りという感情で怒りの獣を縛り付ける自己矛盾の己を嘲笑っている。


(俺は、兵士だ……! ……!)


 己の仮面を握り付けるように、顔を抑えて息を絞る。

 腕が震える。身体が震える。心が、獣が、咆哮を解き放ちたがっている――この隣の少女も呑み込みかねないほどの。

 それを押し込める。

 ましてや己のような死人同然の人間は、


 そう戒めなければ――駄目だ。


 

 

 


「――ッ」


 どうしようもない憤怒を抑え込むべく、最早激痛を用いるべきだろうか。

 顔に立てた爪が食い込み、奥歯には砕けぬばかりの力が籠もる。だが、それでも足りない。

 指の一本程度ならば飲み込める。経費の内だ。己の怒りは膨らんでいる。膨らんでいく。そんな己の怒りに目掛けてすらも、怒りが膨らんでいく。

 これ以上この、醜い獣の怒りを隣にいる少女に毛ほどの思念として伝えるべきではない。速やかに、何においても速やかに取り除かなければならない――。

 折るか、喰いちぎるか。

 その、瞬間だった。 


「大尉……怒らないで……ください……」


 頭を預ける彼女の零した言葉にぎょっとした。

 思わず、その瞼に触れそうになる。夢を見るレム睡眠なら――つまりは眼球が微細に激しく動く睡眠ならその兆候が現れているだろうと確かめようとして、思いとどまる。

 それで本当に寝ているのを起こしてしまったら、何の意味もない。

 それどころか、すぐにそうして分析しようと――頭が戦闘用に切り替わっていく自分にどこか諦めにも似た気持ちを抱くほどだった。

 だからこそ、


「泣かないで……」


 続いて少女の小さな唇から零された言葉に、完全に手のひらを丸めていた。

 薄暗い部屋の中で、何かが、霧散する。

 そして、


「……泣いているのは、君の方だろうに」


 小さく呟く。

 少女の眠りを妨げぬように――……この世の誰にも聞かれぬように。


「俺は、これでも大丈夫なんだ。……大丈夫であれるように、したんだよ。そうなれるようにしたんだ。……俺が、そうしたかったから」


 誰にも言わない。聞かれないそんな言葉。

 ただ流れる清流の泡沫の如く、静寂に消えていく言葉。

 隣では、すぅすぅと寝息だけが漏れている。


「……んだったな」


 その小さな唇を眺めて、僅かに笑う。

 宇宙飛行士になるならそれは必要な条件だと――むしろ有利なのだと。それも、この少女の言葉だった。遠い世界で聞いたこの子の言葉。自分を勇気付けた少女の言葉。


「自己犠牲なんかじゃないさ。俺はそんなに大それた男じゃなくて……恩返しなだけなんだよ。君たちは知らないだろうが……俺はね、君たちに救われたんだ。何よりも君に救われたんだ。大袈裟でもなく、本当に……君のおかげで、俺には昔、目標ができたんだ」


 ああ、そうだ。

 きっと何もなく他者のために命を懸けられるほど、自分は聖人のような精神構造をしていない。怒りも捨てきれない未熟者なのだから、それに違いない。

 決まっている。


 ――と。


 その根は、変わらないのだ。

 己がハンス・グリム・グッドフェローとなっても変わらない。

 彼女らが知ることなく、理解もできない救い。伝わらない救い。それでも確かに、己は、その施しを受けたのだ。


(だから――)


 目の下に隈を作った金糸の少女の閉じられた瞼を眺めて、知らず、頬が緩む。


「……こうしている君は、とても、凄腕の駆動者リンカーには見えないな。普通の、どこにでもいる……普通の女の子だ。


 穏やかに眠る少女を眺めて湧き上がってくる、何とも言えぬ二種類の入り混じった感情。

 争いがなければ彼女たちは、ごく普通の人生を送れただろう。この混乱の時代の中で、それでも、こうして安らかに眠りにつくことができただろう。

 それが、悲しい。……それが許されないことが、ただ悲しい。


「俺はね、君たちのことを知っているんだ。君たちが……君が、どうなってしまうかも。戦いの果てに、どんなことになるのかも全部……それが嫌なんだ。俺には堪らなく嫌なんだよ。君たちには、ただ、当たり前に過ごして……幸せになってほしいんだ」


 何にもなれない無力な預言者。

 結末だけを知る無様な傍観者。

 そんな男の言葉など、想いなど無意味だろう。無為なのだ。全てが。そも前世からして、為したいことも為せずに死したる魂なのだから。

 それでも、


「……あの日の君が心から笑える日が来るなら、俺には、それで十分すぎるんだ」


 ああ――どうか。

 どうかと、祈りたくなってしまう。

 己は祈らないと決めたのに、柄でもなく、そう願いたくなってしまう。

 自分はどうなっても構わないから――彼女たちにどうか幸福をと、願いたくなってしまう。聞き届けてくれる誰かを望んでしまう。

 この身が砕けてもいい。朽ち果ててもいい。躊躇わずに差し出していい。

 この少女たちに――どうかただ、幸運を。平穏なる人生を。当たり前の幸福を、歩ませてあげてほしい。

 本当に、それ以上は何も望まない。自分はどうなったっていい。どう死んでも、どう打ち砕かれてもいい。


「……俺のことは、気にしないで。君たちは、君は、自分の幸せを考えてくれていいんだ。それだけを考えて欲しいんだ。……それが俺の、ただ一つの望みなんだから」


 願わくば、隣で眠るこの少女にどうか安息を。

 その生に幸福を。

 ハンス・グリム・グッドフェローは祈らない。願わない。だけれども――……。

 だけれども今このとき、■■■■としては――


「シンシア」


 腕にもたれかかった金髪へと手を伸ばしかけ、止める。

 擽ったそうに吐息を漏らしたその安らかな寝顔を前に、何とも言えずに目を閉じる。

 それからしばし己の手のひらを見詰めて――……深く嘆息し、口を噤んで天井を見上げた。



















 なお、


(えっ、いっ、今の……!? 今の……!?)


 シンデレラは起きていた。

 というか今起きた。起きた瞬間だった。


 あまり呼ばれたことのない名前を呼ばれたので、ふと目を醒ましてしまった瞬間だった。

 意識を取り戻すと同時に、隣に座った黒髪の青年に思いっきり頭を預けて眠ってしまっていたというそのことに愕然とした。

 ぼんやりとしていた意識が冷水を浴びせられたように強制覚醒する。いい意味でのドキドキと、悪い意味でのドキドキだ。汗臭くないか、ちゃんと香水とかつけておけばよかったと思ったし、せめて普段使いのシャンプーのときだったら……とか色々とよぎった。髪のセットなんかもさせて欲しかったし、かわいい洋服でもなかったし、そういえばここ数日肌の手入れも碌に行えていなかった事実を呪いもした。

 だが、それ以上に、


(わたしの名前を呼っ、呼んで!? たっ、たっ、大尉が呼んで……!? えっ、今、えっ、わたしに、えっ!?)


 今はこちらを向いていない彼の横顔。

 それを薄目で眺めつつ、己の記憶を疑った。いや、二度ほど永久保存した。永久保存してから再生した。リピートした。

 今まで一度も見たことのないような優しげな眼差しで、穏やかな表情で、柔らかい声色で、珍しく……というか今まで一度とて想像もしなかった、なんというか感情のある顔だったのだ。

 こんな顔もできるんだ――……なんて胸が高鳴る気がして。


(ズ、ズルいです……ズルいですよそれは! ズルいってわかってくださいよ、そんな顔を隠してるなんて……! ズルい大人です大尉は! ズルいです! 寝てるわたしにしか見せないなんて……普段からそうするべきだってわからないんですか! も、勿体ない! 勿体ない!)


 というか、いつもと違って黒髪を伸ばしているのが衝撃的だった。いや、あの夜もそうだったんだけどそこに注意している余裕はなかった。勿体ないことをした。勿体ないおばけが出そう。いやもう出てる。呼んだ。

 普段は全体的に髪を切り揃えた上で頭の左右を短く刈り上げているいかにもな軍人さんなのに……どちらかと言うとなんかアウトロー系のアクション映画に出てきそうな感じで……なんていうかマッチョな世界の俳優さん感があって……少し怖いかな、みたいなところもあって……。

 でも今のこれはズルくないだろうか。いや間違いなくズルい。こうして耳にかかるような少し癖のある黒髪が、目元まで伸びていると、なんだか憂い気味な表情と相俟って非常にズルい。儚そうに見えてズルい。幸薄そうな感じとか何もかもがズルい。すごい優しそうだし、涼しげな感じだし、耳にかかるくらいの黒髪ミディアムはズルいんですよね。なんなんですかこれ。ふざけてるんですか。


 なんというか、こう、王子様だ。


 憂い顔の影がある黒髪の王子様。ある意味では没個性であり、だからこそ何かデザインに癖がなくて主役にされそう。そういうの女性向けのコミックの表紙で見た覚えがある。詳しくないからわからないけど。……詳しくないんです。ないです。ないって言ってるじゃないですか。表紙を見てただけです。変な想像はやめてください。読んでないから。あんなに過激なのは読んでないんですよ。誤解しないでください。失礼ですよ。

 というか詐欺では? 勿体ないですよこんなの。勿体ないです。なんで普段あんな感じに……でもまあそれでいいです。いいですよいつもので。普段からあんな態度をしていたら勘違いする人も出てきますからね。そういうのは避けなきゃいけないですからね。ハラスメントなので。存在がハラスメントになってしまうので。大尉が迷惑な人になるので。それだけです。大尉の為です。

 というか、その、それ以上に衝撃的なのが――……


(ねっ、寝ているわたしに……なっ、なにをっ、なにをっ、なにをするつもりだったんですか!? そっ、それとも、もっ、もう、何かしたっ、したんですかっ!?)


 起きた瞬間まず見たのは、手が引っ込められるところだった。

 思わず触って確かめたくなった。

 ほっぺたとか。唇とか。色々。そう色々。

 確かめねばならないと思った。そうだ。これは乙女の一大事なのだ。寝込みを襲われたも同然なのだ。いけないことなのだ。こちらは被害者なのだ。だから当然なのだ。必要なのだ。ハラスメントにも近いのだ。だから確かめねばならないのだ。それ以上の意味はない。ないったらない。


 でもここで目を醒ましてしまうのはなんだか勿体ない気がした。正確には、目を醒ましたとバレるのが。

 そうだ。多分、普通にしてたらこんな顔を見ることはできないだろうし……あとそう、アレだ。色々と確かめねばならないからだ。そうだ。こうして寝入ったフリをしていれば、また、不埒な行動に入るかもしれない。

 そうだ。そこでやったら多分さっきも何かしてたということだ。そう、罪が確定する。うん、疑わしきは被告人の有利にと言うから罪はちゃんと確定させなければいけない。確定させずに疑うのは良くないことだ。良くないことは駄目なのだ。だから仕方ないのだ。そうだ。罪。なんか罪。そう、罪を咎めるため。それだけ。別に何もやましいことではない。違う。

 彼が何かしてたら、それはハラスメントだ。ハラスメントはいけないことだ。これはそんないけないハラスメントがやられたかを確かめるためなのだ。必要なのだ。正しいことなのだ。

 それだけなのだ。そうなのだ。それだけだって言ってるじゃないですか。しつこいですよ。他に何があるって言うんですか。寝たフリしてまだ続けて欲しがってるみたいじゃないですか。大尉に何かして欲しがってるみたいじゃないですか。妙な想像しないでください。ハラスメントですよ。訴えますよ。変な想像でわたしを見ないでください。ハラスメントですよ。人気がない場所で二人っきりなんですよ。そのことを怖いと思うに決まってるじゃないですか。危機感なんですよ。それだけです。それだけですよ。


(たっ、た、大尉も触りたかったんですか……!? さ、触りたく、なっちゃったんですか……!? こっ、こんなときなのに……!? こっ、こ、ここっ、こんなときだからなのかな……!?)


 生存本能がどうとか、危機的状況が何とか。

 そういう話を聞いたことがある。読んだこともある。こんなときなのに……じゃなくて、こんなときだからというやつだ。多分そう。自分はあたまがいいからくわしいのだ。それだけ。あたまがいいから。それだけなんですよ。

 跳ね上がりそうな心臓を落ち着けるために深呼吸する。

 そこで気付いた。鼻も覆うぐらいにフライトジャケットをかけられてる。かけてもらってる。もらってた。

 大尉のジャケットを。大尉の。ジャケットを。顔まで。


 ……。


 もう一度深呼吸してみる。鼻で。

 これは別になんというか大尉のジャケットだからとか折角だからとかそんなことではない。ないったらない。

 落ち着いてハラスメントの現場を抑えるために必要なのだ。必要性なのだ。他の意図はない。ない。匂いを覚えようとしてるとかそんなことはない。

 そんなに、こう、はしたなくはない。ない。違う。そういう風な目で見ないでほしい。ハラスメント案件ですよそれは。やめてください。何もないって言ってるじゃないですか。匂いを嗅いでるなんて一言も言ってないじゃないですか。いっぱい嗅ごうとしてるとかそんな訳ないじゃないですか。やめてください。ハラスメントです。変な想像しないでください。ハラスメントですよそれは。


(……み、魅力がないって思われてるわけじゃない……のかな? た、大尉もわたしのこと……。つ、釣り合ってない訳じゃ……ないのかな?)


 彼から認められたみたいで、胸がどうしようもなく高鳴ってしまう。

 すーはー、すーはーと深呼吸する。

 もう一回やってみる。落ち着くためだ仕方ないのだ。

 ……うん、もう少しやってもいいんじゃないかな。落ち着かなきゃいけないので。必要なので。合理的なので。それだけ。他意はない。

 他意はないんですよ。さっきからなんなんですか。訴えますよ。ハラスメントです。訴えますよ。わたしが勝ちますよ。……か、勝ちますよ。わたしが。やめておいた方がいいですよ。すんすん。すーはーすーはー。すんすん。すーはーすーはー……なんですか? 訴えますよ? 邪魔しないでください。訴えますよ?



 ◇ ◆ ◇



 そうして、彼女の傍でじっとリボルバーを握っているときだった。

 腕時計型の通信デバイスへの着信。

 起こしてしまうことになるのは申し訳ない気がして――それでも、己の任務だ。その義務を捨てる気はない。


『……随分と遅いっスけど、なんかありました?』

「特に問題は――……いや、反政府組織の構成員と思える対象たちと遭遇戦になった」

『…………はあ。んで、追われて隠れてる……って?』

「ああ。……六名ほど射殺したが、残りがどれだけかは分からない。念の為に退避している。……情報の解析が?」


 肯定の返事に、こちらも頷き返す。

 ホログラムの彼はどこか呆れたようだったが――……まあ、あまり何を考えているか分からない人物だ。深く考えても仕方ないだろう。

 多少なりとも休息になっていればいいと、隣の少女へと手を伸ばそうとし――


「どっ、ど、どっ、どうかしたんですか!?」


 凄まじい勢いで飛び起きられた。

 ……眠りが浅かったのだろう。自分にも経験がある。戦場の緊張状態では、僅かな物音や気配ですらも瞬時に応対可能となるのだ。

 それをこの少女が会得してしまったことに、忸怩たる思いが溢れた。

 まるでその身を隠すかのようにフライトジャケットを抱き締めつつも身を離したシンデレラ――……緊張状態や警戒状態に違いあるまい。こちらまで心音が聞こえて来そうな程に呼吸も荒ぶっている。これでは、休めたとは言い難いものだ。どうやら自分では、番犬として不足していたのだろう。


「……すまない。緊急事態が発生した。速やかに、この場を離れる必要がある。君についても――」


 言いかけた、途端だった。

 鉄パイプが倒れて、床と立てる甲高い音。

 それが、この場所の主ならばいい。だが、それ以外なら――


「大尉……」


 不安そうに銃を握った彼女の姿に、一度目を瞑る。

 悔やむな――……悔やむより先に、己には行うべきことがある筈だ。

 有用性を発揮しろ。

 阻むものを、灰燼と帰せ。全てを蹂躙し、歯牙にて引き裂け。斬り飛ばせ。


「案ずるな。……俺がここにいる」

「でも……」

「君の命を守ると、俺は誓った。……麗しい姫の眠りを脅かす者は、醜い番犬に喰い千切られるのが相場だろう」


 芝居めいた言い回しで、何とか彼女の安心を買おうとする自分がいた。


「でも、いくら大尉でも……いくら大尉がすごい人でも、機体に乗っていなかったら……」

。……その言葉では不足だろうか?」


 言いながら、彼女を背に庇うようにリボルバーを構える。その顔が伺えないため、不安解消の材料になれているのかは不確かなままだ。


「案ずるな……俺は君を傷付けさせない。あのような輩には、その髪の一房さえも触れさせない。……そうだろう、シンデレラ?」

「――は、はい!」


 ……弾むようなその声で安堵した。

 どうやら、まだ、こちらへの信頼はあるらしい。


「でも……大尉の隣にはわたしもいるんです。これでも、射撃の成績はよかったんですから! 大尉を一人で戦わせたりなんかしませんから!」

「無論、覚えている。君のことについて一つとて忘れたことはない。……ただ、君は集中力に難があったな? ……シンデレラ? シンデレラ? ……シンシア……?」

「はっ、は、はいっ! なっ、なんでしょうか!?」


 なんか返事が芳しくない。

 やはり疲労はあるのだろう。大変だ。

 ……いずれまで預かると言いながら、結構しきりに呼んでいるのもやや申し訳ない。約束を破っていることにならないだろうか。

 まあ、なんにせよ、


「生憎と、敬虔なる者を受け入れる神の家とは言えない。――その門は開かれず、ただ階段へ導くだけだ」


 ――


 俺にあるのは、それだけだ。

 怒りの獣にやる餌は、ない。


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